ブログ

2023年2月25日

『老子』を読む[十五]

井嶋 悠

第56

 知る者は言わず、言う者は知らず。・・・・・其の鋭を挫(くじ)いて、其の紛[紛糾]を解き、其の光を和らげて、その塵に同す。是れを玄同[和光同塵]と謂う。故に得て親しむべからず、得て疎んずべからず。

◇前章に続く学校の確かな、真の存在。虚飾を棄て、言葉を弄さず、自身を常に問う。キリスト教主義と聖書。「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」言霊と直覚の文化と学校。東洋と西洋。

第57

 正を以って国を治め、奇を以って兵を用い、無事(むじ)を以って天下を取る。夫れ天下に忌諱(きき)[煩わしい禁令]多くして、民弥(いよいよ)ゝ貧しく、民に利器多くして、国家滋(ます)ゝ(ます)昏(みだ)れ、民に智慧多くして、邪事滋ゝ起こり、法令滋ゝ彰(あき)らか[細かくなる]にして、盗賊多く有り。・・・・・我れ無為にして民自ずから化し、・・・・・我れ無欲にして民自ら樸なり。

◇校則と自由は、学校、とりわけ中高校教育、に於いて永遠の課題かもしれない。教師と生徒のいたちごっこ。思春期前期から後期にかけての難しさ。教師は言う。自由にすれば奢侈になり、野放図となる、と。そして制服の良さを言う。生徒は言う。なぜ私たちを信じないのか、と。そこで「標準服」なる制度を持つ学校もある。これはなかなか便利で、生徒自身も言う、自由服装だと、例えば公的集まりで窮屈な思いをしなくても済む、と。

第58

 其の政悶悶たれば、その民は諄諄[純朴、重厚]たり。其の政察察[行き届きはっきりしている]たれば、其の民は欠欠[ずる賢い]たり。禍いは福の倚る所、福は禍いの伏す所。[禍福は糾える縄のごとし]・・・・・正は復た奇と為り、善は復た妖と為る。人の迷えるや、其の日固(もと)より久し。

◇大らかな学校では、生徒も大らかに育つ。あまりに行き届いていると思春期の子どもたちは息が詰まる。或いは、細かな規制・規則があると人はその抜け道を探すものだ。泰然自若、大らかな統治者の下では、生徒も教師もゆったりとする。

第59

 人を治め天[自然の摂理]に事(つか)うるは、嗇(しょく)[無駄遣いをせずつつましい]に若(し)くはなし、是を以って早く服す。早く服するは、これを重ねて徳を積むと謂う。重ねて徳を積めば、則ち克(か)たざるは無し。国を有つの母は、以って長久なるべし。是れを根(こん)を深くし柢(てい)[根]を固くし、長生久視するの道なり。

◇日本の美徳として「つつましい」は、何よりも好感をもって迎えられるのではないだろうか。新しく学校が建てられる時、創立者はそのことをどれほどに意識しているだろうか。因みに、「つつましい」の反対語対照語を調べると、図々しい、厚かましいとある。つつましい、の内面性が分かる。

第60

大国を治むるは、小鮮[小魚]を烹(に)るが若し。道を以って天下に臨めば、其の鬼も神ならず[祟りをもたらさない]。

◇生徒を一人一人観ることは、一人一人を取り出すことではない。一人一人を観て、静かに全体を観ている。その時、生徒は心安らかに世界を知る。

2023年2月21日

多余的話(2023年2月) 「藻刈舟」

井上 邦久

節分立春まであと数日という冷え込みの厳しい朝、中之島美術館へ向かった。
「開館一周年記念特別展『大阪の日本画』」を遠来の高橋秀治氏(豊田市美術館長)とご一緒した。
日本画とは西洋から伝来した絵画(洋画)に対応してできた比較的新しい言葉で、古くから日本で描かれてきたのは大和絵と言います、と早々に教わった。フェロノサが規定解説したJapanese Paintingや岡倉天心が提唱した日本絵画の理念を知り、日本画とは単純に胡粉や岩絵具を使って画かれた絵であるという思い込みを修正した。

 展示第一章の「北野恒富とその門下」・第六章「新しい表現の探求と女性画家の発展」の女性画家の充実ぶりに先ず驚かされた。
大阪の富裕な商家子女の教養として書画を習う文化が形成されていたことを想像させる。
一方、男性画家には地方から大阪に出て画家を生業とした人がいて、他郷の者の眼で天神祭や鯛などの大阪の風物を取り上げている印象が残った。魚の画材には伝統的な鯉よりも、姿に勢いがあり、食べて美味しい鯛が好まれたという説明文には笑った。

第五章「船場派―商家の床の間を飾る画」、森一鳳の『藻刈舟』が楽しかった。湖沼に繁った水草や藻が舟の邪魔にならないよう刈り取り、それを肥料にする夏の風物を古くから創作の題材にしてきたようだ。
大坂の商家では藻刈⇒儲かる、に通じるとして好まれた由。あるブログには「梅村景山、桜村という絵師が居て、彼らも藻刈舟をよく描いたが、如何せん一鳳の人気には遠く及ばなかった。
それで、一鳳の藻刈船は「儲かる一方(一鳳)」、景山のそれは「倍損(梅村)」、そして桜村に至っては「大損(桜村)」と巷間言われたそうだ。巷間といっても当時「大名金貸し」としてバブル期にあった、大阪商人の間でのこと。如何にも大阪らしい話である」とあった。
一鳳は幕末の大坂で活躍し、明治4年に亡くなっている。幕藩体制が崩壊し、「大名貸し」が不良債権化して大坂商人が「大損」した頃のこと、夏目漱石が幼くして塩原の家に養子に出され、天然痘に罹った頃に重なると連想すれば森一鳳も少しだけ身近な存在になる。

大阪商家の床の間を飾る日本画の需要は根強く、算盤に忙しい男から距離を置いて、教養としての日本画(官展などへの進出は不詳)にいそしむ「いとさんこいさん」が少なくなかったのかも知れない。
江戸・東京にも、欧州でその技を称賛されて帰国した後に、官展や画壇に背を向けて、床の間に飾る小品を頼まれて画いた渡辺省亭がいる。岡崎市での回顧展でまとめて観たことを思い出した。

開港大坂の新時代の発展を期待された川口居留地は中之島から少し下流の中州にあった。淀川水系から運ばれる土砂が堆積し、外航船の寄港が激減したため、大阪港は衰退し神戸港の後塵を拝した。
1900年前後、大阪の綿工業の隆盛、新規産業の勃興というヒンターランドの成熟と住友資本を核にした築港新設計画が推進された。
米国・横浜/神戸・上海・香港・欧州の既存航路から外れた、渤海湾や朝鮮半島など東北アジア航路の開発が進み、20世紀初頭の大阪・大阪港は大いに繁栄した。
山東省煙台を核とした中国東北部からの貿易人(芝罘商人・北幇)の短期出張者も増えた。貿易統計は綿関連と雑貨に大別されており、雑貨には人絹も含まれ、魔法瓶・玩具・食品・薬品などで過半を占めたようだ。雑貨を仔細に腑分けすれば当時の大阪の業態や現在に続く産業の根源が見えてくるかも知れない。
直近の大阪港湾局の資料を見ると、貿易相手先は中国・韓国・台湾が圧倒している。輸出品目では半導体・コンデンサー・電気回路が上位を占め、輸入大宗品目には衣類・食品・玩具が並ぶ。
昨年12月7日の国務院通達により、中国のゼロコロナ政策は大転換して注目を集めたが、その二か月前の10月7日に米国が発した対中国半導体規制も「大転換」と言うべき実に厳しい内容であった。

ナノメーター単位の微細世界のコロナウィルスと最先端半導体、人間と経済の命取りになりかねない二つのアイテムの取り扱いには注視すべきであり、米国と中国の半導体競争の狭間で実に難しい立ち位置にある日本・韓国・台湾には慎重な対応が求められる。 
楽観的になりにくい問題を反芻しながら、中之島から京阪電車で京都三条へ移動した。地下鉄東山から岡崎公園に向かう白河沿いの道筋に、団子屋と蕎麦屋が並んでいる。運よく白河の流れに面した席で鰊蕎麦を注文できた。この部屋には森一鳳の『藻刈舟』の一幅が似合いそうだと思った。
高橋氏が近くにある「並河靖之七宝記念館」の話をされ、赤坂離宮に納められた濤川惣助の七宝焼が渡辺省亭の日本画を原画とする超絶技巧の作品であり、東西のナミカワの七宝焼技術は世界最高の水準にあった・・・話の流れも留まらなかった。