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2021年9月19日

多余的話(2021年9月) 『厳修』

井上 邦久

盆と彼岸の途中の9月10日は若冲忌です。
疫禍のため打ち揃っての彼岸法要は今年も中止する旨の連絡が届きましたが、若冲忌は厳修(ごんしゅ?)します、とのことで朝から伏見深草の石峰寺へ向かいました。
盆に暑さを言い訳にしてパスしたので、春の彼岸以来の伯父・叔父の墓参でもあり供花を剪定してもらいながら、この二人には地元の「玉の光」を献上する方が喜ばれるなあといつもの様に思いました。
先に墓参りをして自分用の更地の草を抜いてから、若冲忌法要の末席に並びました。
この日だけ公開される石峰寺所蔵の若冲の真筆を住職の解説とともに拝見するのも毎年の習いとなりました。
今年は9月になって澤田瞳子さんの『若冲』を読んで、付け焼き刃の耳学問が増えたこともあり、小説の舞台での気分が昂揚しました。恙なく法要が厳修され、裏山の五百羅漢を巡り、山門を抜ける前に伯父・叔父から日本酒の「下賜(おさがり)」を厳修しました。

この夏に逝った今井常世さんは、米国留学や外資系経営で培った合理精神と信州戸隠神道の家風が見事に混合された方でした。
加えて折口信夫(釈超空)の高弟だった尊父の来歴を語ってやみませんでした。折口全集の年譜に「常世」と命名という記述とともに手書きの赤ん坊の絵が書かれていますねと伝えた時、高名な国文学者/民俗学者が身近になり、常世さんの含羞を感じました。

赤ん坊必需品のベビーパウダー(天花粉)の開発で、ジョンソン&ジョンソン本社や須賀川工場の皆さんとの交流が続き、中国南部の広西壮族自治区の桂林をベースキャンプとして奥地の滑石鉱区へ日米合同調査隊が何度も訪れました。
1980年代初頭の中国は「地方分権」「外資・先進技術利用」「外貨獲得」が奨励される掛け声先行の時代でした。
出張先で言葉と文化の橋渡しを担う今井さんの助手役として、田舎町で葡萄酒を捜し回り、ワイングラスを見つけては小躍りして一緒に磨き上げるような牧歌的な交流が続きました。
J&J本社の研究トップのアシュトン博士は龍勝県政府の宴席でバイオリンを奏で、山村の子供達にはゴム風船を配って人気者になっていました。一方でNASAの航空写真を内々に開示して桂林地区に良質の鉱脈が存在する根拠を教えてくれました。
また、滑石(タルク)鉱区にはアスベスト鉱が混在するケースがあること、アスベストの針状結晶の顕微鏡写真を示して発癌性リスクのメカニズムを強調されました。
中国の処女鉱区と米国の先進技術を繋ぎ、日本が「補償貿易」形式でトラックと滑石鉱石を交換する。秘密の花園での幸福な日米中合作の時代でした。

毎年の誕生日に合わせて、下鴨神社の糺の森での古本市と大文字送り火を楽しみにしてきた荒川清秀さん、今年は上洛を果たせず昇天されました。正月早々唐突に「余命数ヶ月」の連絡があり、愛知大学の豊橋キャンパスでの恒例の花見にかこつけ会食もできましたが、7月の押しかけ見舞いには「自主的に面会忌避・謝絶したい」との意向を受け、豊橋一歩手前の岡崎で引き返しました。
二十歳頃からの学兄です。着実緻密に中国語用例カードを蓄積し、その成果が中日大辞典にも採用されていました。後に東方書店「東方中国語辞典」の編纂に従事し、『近代日中学術用語の形成と伝播 地理学用語を中心に』で清末・幕末/明治の漢語交流を日本由来/中国由来の両面から分析して博士号を取得。
単純で粗雑な日本からの一方的な新語授与説に一石を投じました。ラジオ/テレビで講師を務め、今年も「テレビで中国語」テキストに連載寄稿をしています。

9月号は購入して「あの人の文章にしては珍しく余白が広い」と言う奥さんの言葉を思い出しながら余白の意味を味わっています。「12月号までの原稿は書きためているよ」というご本人の律儀な言葉も耳に残っています。

清末民初の教育学者に厳修(Yan Xiu・げんしゅう)がいます。天津での家塾を育てて南開大学の始祖の一人となり、海外の教育制度導入に注力し幼児教育・女子教育そして師範学校を設立しています。
恩師の高維先先生の思い出を綴るときに、恩師が天津で受けた百年前の教育事情や横浜の大同学校との関連について、厳修や教育史に詳しい朱鵬先生から教わりました。直前まで壮健そのものだった天津出身の朱鵬教授も昨年9月12日に東京で急逝されました。

「関西で唯一の文芸専門出版社主・涸沢純平が綴る、表現者たちとの熱い交わり模様、亡き文人たちを語る惜別のことば。奥さんと二人の出版物語。」と清楚な装幀をキリリと締めた帯が語る『編集工房ノア著者追悼記 遅れ時計の詩人』を著者・発行者のご夫婦から直に購入しました。
正直に言うと『1971年 僕の訪中ノート』を入手する目的で編集工房を訪ねたのでしたが、涸沢さんの語り口に曳き込まれ、帰宅後はなだらかな文章に惹かれました。
この散文詩のような追悼記を読んで、生きていくとは、去る人や逝く人をしっかりと見送り、その人を忘れないで、心の中で一緒に生き続けていくことなのだと思い定めました。落ち込むことなく9月を迎えています。

9月9日は毛沢東、9月10日は日本で最初のBSE罹患牛、9月11日はNYの3000人近い人たちの命日です。無反省に生き返らせたり、20年戦争を続けたりしてはなりません。牛のことは来月に綴ります。 (了)

2021年9月5日

日韓・アジア教育文化センター 回帰? ―私の5か月の空白から私に問う―

井嶋 悠

今年3月以来の投稿です。

私(わたし)的には2か月くらいの空白時間と思っていましたが、5か月経っています。光陰矢の如しです。
ひたすら驚いています。11か月後に迎える喜寿は、何事もなければ、これまで以上にいや増して速いものになるかもしれません。ますます厳しく時間と体力が問われることでしょう

表現に必要な諸々は底をついていますが、それでも投稿し、『日韓・アジア教育文化センター』の新たな継続の可/不可を自身に叱咤し、これまでに関わった人々に意見を聞く願いが、今回の主題です。

「隠れ○○」との表現があります。周知のそれに「隠れキリシタン(切支丹)」がありますが、私の場合は、その衝撃度からも教師体験で得た「隠れ帰国子女」を借用することが多かったです。その「隠れ○○」を模しますと「隠れ日韓アジア・教育文化センター:ブログファン」がおられたことを思い知らされました。何とその方(旧知の方ではあるのですが)から、つい先日に「3月30日をもってぷっつりですが云々」の便りをいただいたのです。

その方はドイツ系の血を持ち、私の悪評高き文章[長い!屈折している!理屈っぽい!等々との鋭角評を少しは改善したつもりなのですが]を読んでくださっていたのです。小躍りしました。
とは我田引水ではないか、この数年毎月、日中文化・社会を様々な視点で、今日までに蓄積された叡智からのぶれない投稿『多余的話』をくださる井上 邦久氏(元商社マン、現若い人への還元と更なる蓄積に東奔西走されています)のファンと言うのを躊躇され(その隠れファンと井上さんとは面識がありません)、私への配慮からそう書かれたのではないか、との思いに到ったのです。事実、井上さんのブログ投稿を楽しみにしておられる方があることを承知していますので。

5か月の空白は、心と身体が加齢について行けずの息切れによるものですが、76歳の誕生日[8月23日]以降歯車への給油(もちろん軽油です)も徐々にでき始め、錆びつき、部品の破壊も緩み、今回に到った次第です。

ありがとうございます。お二人にひたすら感謝しています。

『日韓・アジア教育文化センター』発足は、1994年に神戸で開催した『日韓韓日教育国際会議』に遡りますが、その背景の一つに中高校の一国語科教師であった私の日本語教育への関心がありました。
それは日本語以外の言語を第一言語とする人のための、第二言語としての日本語教育[JSL]という言わばタテの関係を、ヨコの関係からみようとするものでした。
私には、その視点が国語科教育をより豊かにするように思えたのです。そこで私的な研究会を立ち上げ、いささかの活動を始めますと、共感する人が何人か出て来ました。
そのような折、ソウルで日韓国際理解教育に係る国際会議があることを知りました。好奇心だけは一人前の私は、当時属していた学校法人理事長に打診したところ何と許可くださり、校(公)務出張で行けることになりました。

そしてせっかく行くなら外国での日本また日本語の実状をこの眼で確かめたく、人間(じんかん)発想そのままにソウルでの韓国人日本語教育教師との出会いを求めました。1993年のことでした。
決まるときは決まるものです。そのときの韓国人日本語教師の一人は、その方なくしては本センターの存立は考えられないほどまでに、学校での要職と併行し尽力くださっています。

そこから数年後、日韓中台による会議と発展させ、一時期NPO法人にまで昇格?させる等紆余曲折ありましたがとにもかくにも今日に到っています。
尚、会議開催の数年後、台湾との縁は切れました。中国本土は北京と香港の日本語教師とネットワークができたのですが、「香港問題」を含め諸事情から現在は疎遠になっています。

このような活動途次で出会った青年映画人等の尽力で制作されたドキュメンタリー映画【東アジアからの青い漣】など、詳細は、その映画制作者たちの手になる本センターホームページ《jk-asia.net》を見ていただければ理解いただけると思います。

世界の科学者が新型コロナの収束に向けて奮闘されていますから、きっと来年には収束するのでは、と期待していますが、そうなれば本センターも是非活動を、空白期の時間をエネルギー充填期ととらえ、新たな展開がならないかそれとも役割は終わったのか、いずれかを一層考えるようになりました。
もし再興できるならば、とこれまで続けて来た事実を大切に、勝手に思い巡らせていますが、いざ意見をと言っても容易に出て来ない、集まらないのも世の常です。

そこで個人的仮想を挙げます。
この発想は今も続く、時にはこれまで以上に叩き合いの予感もある日韓の軋轢、日本での(日本だけではないですが)コロナ禍での誹謗中傷、差別はなぜ起こるのかを自問するところに根っ子があります。こんな仮想です。

以下の主題による学生[高校生か大学生]同士、教員[大人]同士によるシンポジュームです。

◎主題は、老若を越えてどこかたがが外れたとも思える一見自由な社会にあって、Lookism[外見尊重或いは外見至上主義]と整形文化について、両国の若者と社会人(大人)で意見交換し、そこから共有できること、できないことを確認し、それぞれの「現在」を見るというものです。
ここでの講師[基調講演兼コメンテーター]招聘は思案中です。

もう一つは、
◎両国の、或いはいずれかの、先進的取り組みを行っている高校訪問です。
ただ、ここで言う「先進的」の意味・内容については、類語としての「イノベーション」とも関わり、事前に日韓・アジア教育文化センター(理事)間で、「私にとってのイノベーションとは?」といったことについて意思疎通を図る必要があります。

会場はシンポジュームとも関係しますが、韓国が良いようにも思います。いずれにせよ助成金獲得との難題が待ち構えています。

いかがでしょうか。

私は冒頭に記しましたように後期高齢者で、ことさら口出すことではないとも思ったりはしますが、一方で、1994年来続けて来た交流、とりわけ日韓交流が、一つの成果を持ち得ているように思いますこともあって、今ここで完了とするのはもったいないような気持ちがどうしても起こって来ます。

是非ご意見をお聞かせください。