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2014年10月14日

ホームページ・ブログ「更新」から1年を迎え ―年来の夢~宮城・岩手・青森そして函館への旅―

井嶋 悠

[日韓・アジア教育文化センター]のホームページを、デザイナーの山田 健三さん、映像作家の逢坂芳郎さんの尽力で更新し、1年が経った。

それを私に引き寄せて言えば、私を自照自省と再学習(私の感覚では新学習)に向けさせたい一心での、以前の投稿の内容、表現を一切破棄し、「ブログ」への投稿の一年でもあった。
そこでは、私も日本人の一人であるただそれだけを根拠に、日本を、日本から、相対視点ではなく見たい、考えたい心滲み出て、自重・抑制にもかかわらず、己(おのれ)横に置き、日本の今への憤怒、失望が露わになった。
それが本センターの有効性にどうなのか甚だ覚束ないまま今を迎えている。

とは言え、一方で、継続することの意義、力の言葉通り、何人かの関心者ができたり、某商社の中国責任者井上 邦久氏が何年来継続発信されている『上海たより』『北京たより』の転載を許諾くださったり、との幸いにも浴している現在である。

もちろん批判の声も聴く。「不可解」「浅薄」「偏屈」「屈折」等々。
なるほどと思う。

このブログは、私的に言えば、私が喜悦、悲嘆そして悔悟を繰り返しながら来た生を自照し、また「真善美」「学校、社会」「優秀、正義」といった抽象語や形容語の私のそれはどうなのか、確認したい試みでもある。
69年間の人生事実と33年間の中高校教員生活事実 ―ノーベル賞を輩出し、また現在の学力低下を嘆き憂う多くの理系の識者とは違う国語科― からの私の“活きた”言葉として。

2年前の2012年春、娘は、中高校生活での「哀しみ」が一つの起因となって、それから7年の葛藤後、23歳で永遠世界に旅立った。
それは、拙悪どこ吹く風、言葉を紡ぐ原動力でもある。
親として、元教員として、の自責と罪。他に何があろう。
もっと言えば、娘の死がなければ、このブログはなかったかもしれないし、たとえ始めたとしても私のことだからとうに頓挫していただろう。

更新後初めてのブログは、9月24日の「更新の挨拶」で、1週間後の30日と10月2日の表題は「先生方、自身の驕りに気づいてください―教師の生徒へのいじめ“パワハラ”―」である。

そんな私が、年来の夢かなって(と同時に、2011・3・11の後、体力の問題でボランティアに参加できずひたすら無念に苛まれていた娘の思いでもあるのだが)、妻と愛犬と共に、先日車で宮城→岩手→青森→函館の旅に出た。

1週間の行程、宿泊は経済的制限からすべて車中。
この車中泊、駐車は道の駅やサービスエリアで、洗面手洗いの清潔さ、はたまた中には温泉施設もあり、全行程行った先々に必ず在る温泉で疲れを癒し、気ままに土地のうまいものを食しての、予想を遥かに超えた愉快さで、同じような高齢者夫婦、それも遠方からの人々を直接に知ることとなった。

幾つもの発見、自然との、人との出会い、自覚を得たが、今回とりあえず二つのことを書く。

一つは、「共生」ということ。
一つは、「観光(立国)」ということ。

「共生」

「共生」。国語辞書での説明には「異種類の生物が同じ所に住み、互いに利害を共にしている生活様式」(『現代国語例解辞典』)とある。

教師時代の私、人間と自然との共生は自明のこととして、人間社会での「国際社会・グローバル社会云々」との一面的使い方に赤面思い到るが、ここでは人が人と「共に生きる」という意味で使う。

人がその地に生まれることは本人の意志とは無関係の偶然で、その生まれた命・人に分け隔てはない。
日本では残念ながら今も出自での差別が一部残ってはいるものの、都市、地方の出生での差別はない、と思う。
そして[悲しみ・哀しみに深く共振し生きる愛しみ(かなしみ)]の風土と歴史の国が日本だと思っている。

2011年3月11日午後2時46分の地震直後、三陸海岸を大津波が襲い、1時間前後の内に、自然を、人々の地を、家屋、学校、会社等、人々の営為を壊滅した。
2014年9月29日、私たちは、海辺の幾つかの地で、未だに整地、造成中の姿と多くの仮設住宅と人々を見た。
その間、3年6か月。

この遅遅は、その地の人々の要請なのか、それともその地の環境、行政等での不可避の制約があるのか、確認していないので軽々に言えないが、しかし私にはそうとは思えない。

私感としての日本ならば、それらの壊滅最前線の地こそ、最も先に復興されるべき地ではないのか。
財政不足?
それは以下の理由から、国策上の「嘘も方便」だとしか思えない。

東日本大震災に際して、2011年3月11日から2012年3月末の1年間、日本は174か国・地域から支援を受け、内、金銭的支援は約1640億円とのこと。[「東日本大震災への海外からの支援実績のレビュー調査」国際開発センター・2014年2月]

一方で、この3年6か月に使われた国家予算(国民の税金)での、有償無償の海外支援、それと併せての度重なる首相直々の原発売り込み等強国を標榜しての「トップセールス」とそれに係る経費、東京オリンピック誘致と開催決定での施設・道路等建設予算、ムダ予算とされたものの名を変えての復活等々。本当に足りないのか。
何でも東京電力は黒字とのこと。

民主的に選挙で選ばれた政党、との一事をもって、このような疑義は論外(ナンセンス)なのだろうか。

地方と都市の格差を是正するという。
根本的に国の在りようへの視点を変えて行かない限り、これは言葉の愚弄でしかないと思う。それとも国民の多くは現在の国の指向に賛同しているということなのだろうか。
少なくとも私の周囲では、そうとは思えない。
私が今居住する地方都市では、建設労働力が首都圏に向かい、当地での、福島の原発被災者の移住に係ることも含め、その不足が問題となっている。

文科省が行う「学力調査」の結果とは関係なく、例えば大学進学に関して、それも大学の大衆化で一層強くなりつつある大学格差の中で、塾(補習塾・進学塾)教育が、必然にして当然の、現代日本社会にあって、その格差はどう受け止められているのだろうか。
それともこの受験環境は、後戻りできないということであり、格差の痛みは痛みとして受け入れなくてはならない、ということなのか。
小学校から大学まで、試験する側の主体、教師の学力観、学歴観の自照自省はどうなのだろうか。
という私は、塾の表裏でのもの凄(すさ)まじさにたじろぐばかりであったが……。

先日、地方創生担当大臣が破顔一笑得意気に言った、地方での若者の起業への税制支援について、その地方の事業主たちの苦笑、失笑の理由を大臣は分かるのだろうか。
私が知る当地の50代の事業主は、政治に期待していないし、政治を変えるなんてできるはずもない、と寂しげに笑っていた。

共生、競争原理と人と社会について、近代化の明治時代以降からそのときどきで省みられてきた課題が確実に顕在化し、旧態の年齢発想では対応できない長寿化社会時代になった日本の今、だからこそ本質的(ラディカル)に人生構想の在りようを考えなくてはならないのではないか。
その時、海外の、主に欧米の模索と実践の現在が、どれほど役立つことであろうか。

帰宅して、テレビのコマーシャルの幾つか、若いタレントや女子アナによるグルメ探訪はたまた大食い番組等を見て、いつも以上に虚しく思う私がいたが、仮設の人々は「夢、元気を与えてくれます」と言うのだろうか。

やはり私は偏屈にして屈折人ということなのか。

 

「観光(立国)」

ここ数年、日本の観光立国が施策の一つとして採り上げられている。
日本の自然、風土、歴史そして人情から、国外からの観光客も増えている。
日本人自身が率先して日本再発見につなげるすばらしい時機だと思う。

古今東西、観光地の二大要素は、歴史と自然であろう。
歴史での事跡と人物への郷愁、憧憬また自身を点景に置いての一体化の歓喜。自然の、時に脅威で迫り来る巨(おお)きさと同時に抱擁の優しさの体感。その自然が育んだ食材を使った日本人の繊細さの妙。
湧き起る畏敬の眼差し。魂の安らぎ。心と身体の再生。明日に生きる活力、或いは先ず明日生きようとする意思の注入。
そのために不可欠な静寂の時空。

しかし、どうだろうか。
その、わわしさに、せわしさに、私がそうなのだが、周章狼狽、失望の人も多い。かてて加えての諸物価の高騰。
もちろんすべての観光地がそうではない。しかし、“有名”の冠がつく地ほど比率が高いと私は思う。

はたしてそれで日本の自然、風土、歴史、人情の妙味が、訪れた人々の心に沈潜するのだろうか。
これは「観光地」の定義の違いなのかもしれない。日々の憂さを、食も時間も日々を離れてにぎにぎしく晴らす場であるといった定義。

やはり私の偏屈にして屈折した感覚、発想?
しかし思う。
円熟の域を迎え、連携と言う名の追従ではなく、泰然自若にあるべき現在日本として一考を、と。

今回訪れた観光地でもそれがあった。
その中で、観光地と言うのは奇異かとは思うが、青森・恐山の、秋の午後、透明な陽射しに包まれ凛とした深閑さは、慈覚大師像に向かう軽く白い石の道を踏みしめる澄んだ音と統合され、亡き娘への感傷の涙を突き放す追憶と、更には一切の穢れを流し去るかのようなひとときを私にもたらした。
土産物屋一つない入口で受け取った説明書きの、マスコミで喧伝されている“いたこ”への(それへの個々の信心とは別に)決然とした言葉と併せて。

大師像の周りに訪れた人々によって積み重ねられた大小の白石に、娘の供養に挿し込んだ赤い風車は、今もしきりに廻っていることだろう。風車は、いつの頃からか、子を亡くした親が訪れ、供えるようになったとのこと。
その数の多さ……。

あの時空は、心に脳裏に鮮明に刻印され、生涯消えることなく、私の生の力となるだろう。

その恐山のある本州最北端下北半島はもう直ぐ厳しい冬を迎える。
番外を一つ。
往復深夜便の青函フェリーでのこと。
船室での長距離トラックの運転手、それぞれの寡黙さに心揺さぶられた。
寡黙の持つ重い響き。

2014年10月10日

北京たより(2014年10月) 『ゲル』

井上 邦久

横綱白鵬の強さと巧さとしなやかさが、逸ノ城の圧力と勢いを制して相撲の醍醐味と奥深さを改めて感じさせてくれました。大横綱と新進逸材が独走する路を空けて、オセロゲームのような毎日を過ごした大関三人を初めとする日本人力士の不甲斐なさの中で、幕尻まで落ちた隠岐の海が二日目から久しぶりに気合の入った快進撃を続けました。NHK解説の北の富士勝昭さんの「こんな番付で13番勝っても褒める気にならない」という一見突き放したような、孫弟子に対する愛情溢れる苦言が効いたのでしょうか?秋場所後には隠岐の島巡業もあり相撲どころの英雄として再起して欲しいと思います。

その北の富士と琴櫻が東西の横綱を張った1970年代の前半に北京場所が首都体育館で開かれ、周恩来首相も会場で拍手を送る映像が残っています。戦前の周青年の日本留学日記には相撲見物に行ったという記述はないと思いますが、1972年の秋に日中国交正常化を成し遂げた立役者として直後の大相撲興業には当然のように駆けつけたのでしょう。1971年春に北京での周首相との座談会に恵まれた時には、雛祭りの話題になりましたが、大相撲のことには触れなかったと思います。様式美が残される相撲の世界とはいえ、国交正常化を祝うイベント相撲の横綱が「富士」と「櫻」だったというのも、十両以上の関取の他に唯一の中国籍力士が特別参加し、その醜名(四股名。しこ名)が「清ノ華」だったということも、当時の友好気運に溢れていた時代の記憶とともに残っています。

相撲の土俵の房の色、青・赤・白・黒の意味は? 東宮御所に住んでいる人を何故に東宮(はるの宮。皇太子)と呼ぶか? などなど身近な事例から、「青春」「朱夏」「白秋」「「玄冬」を導き、「青龍刀」「朱雀門」「白虎隊」「玄武岩」などへ派生しながら五行説の方位・季節・色などの入門ができます。北の富士が横綱だった頃に、庄司薫が書いた四部作「僕の好きな青髭」「赤頭巾ちゃん気をつけて」「白鳥の歌は聞こえない」「さらば怪傑黒頭巾」もこの五行説に従った題名だと思っています。
しかし若く元気な北の富士さんも古稀となる今、庄司薫という小説家を知らない若い人たちにこの四部作の話は通じません。有名ピアニストの旦那という言い方も失礼ですし・・・。

庄司薫を知らないであろう20歳前後の学生の志向に配慮しながら、今年も奈良の大学で集中講座を務めました。中秋節休暇と夏休みの残り(甲子園を二日間だけにする我慢が必要)を利用して、毎年名月の時期に月餅を土産に母校を訪ねます。今年は天候にも学生にも恵まれ、秋場所の隠岐の海以上の気合を入れました(入れさせられました)。
過去5年の経験から、15コマ(90分/コマ)の最初の2コマを概説と互いの自己紹介に充てることにしています。その段階で登録者の中から、気合を入れて授業に来る学生の志向や要望を聴き取ります。準備したテーマの選択と修正をしながら、授業プランを伝えます。
レベルの高い中国語力と一定の中国実地体験がもつことが分かり、将来へ希望する方向も見えてきたので、今年は「CS」(CUSTOMER SATISFACTION。顧客満足)を軸にしようと決めました。授業料を払って受講し、文科省認定の単位を取るという顧客(学生)の基本的な要求を満たすことが当方の最低限のCSであります。

CSの事例として、自己紹介は日本人相手に中国語ですることはありえず、「日本を知らない中国人に日本人の自分を紹介する」という基本を徹底。地名などの固有名詞に注意を払い、省・市・県で小さくなる中国の行政区分に注意。北京留学経験など中国人が関心を持つ事柄を挟む。紹介が終わって、質問がたくさん出てくるような構成にすること(溝通=コミュニケーションのキッカケという目的を認識する)といった指摘を重ねます。

通訳者という仕事と立場の理解にもCSが肝要です。
商談前の準備として、商談中の集中力(1時間が限界。それでも60%伝われば御の字)を関係者に理解してもらう。主語述語を明解にした短いセンテンスで区切ってもらう。外来語は極力避けてもらう。和歌俳句、漢詩や駄洒落も控えてもらう。通訳者の顔を見ず、しっかり商談相手を見てもらう。商談後の内容確認が最も大切などなど・・・
会食の席順などの基本を知ることも大切ですが、最近では敢えて拘らない新思考の中国人も居るので、臨機応変に判断。しかし通訳者の座る席はその場の鍵を握るので重要。

中国でタクシーに乗る際、ドライバーへのCSも大切です。
正確に目的地へ行けるよう、気持ちよく運転してもらえるよう、詰まるところ、接し方しだいで色んな意味での安全が満たされる確率が上がります。機嫌の良い運転手さんから耳寄りな「街角情報」を聴かせてもらえれば、これも御の字です。

先夜、北京での顧客との会食の帰路、タクシーがまったく捕まらず、何故か直ぐ現れる白タク(当地では「黒車」)をやむなく使いました。顧客を送り届け、一人になった時にドライバーから「お前は日本人だろ。お前たちの国の首相はケシカラン」と口火。「まだ安倍さんと会ったことがないので良く分からん、ところで君は会ったことがあるのか?」と質問。「そりゃ新聞やテレビやラジオで知っている」と当たり前のような返答。「これは珍しい人に遭遇した。これまで中国人は報道を頭から鵜呑みにしない、信用しないと思っていたので奇遇だ」と言うと相手は黙り込みました。更に「良く売れている政府系新聞も『参考消息』という名前だろう」と追い討ちを掛けるのは安全の為に控えました。

授業の3時限目は13時からで、頭部(特に眼球付近)の血液が腹部の応援に行く時間帯です。ゲーム的要素を取り入れた漢字の話をしながら、柔軟な思考や発想を刺激することにしています。口や手を動かしていると頭も動き、眠気も覚めるようです。それを乗り切り5時限目は18時まで。山の端に大きな月も上がり、駅行きのバスも最終便です。二日目は同窓の下村教授・山澤さんと台湾からの王教授との会合の為、授業は17時には切り上げました。会合そのものは啓発の多い有意義なものでしたが、翌朝一番の学生からの「昨晩は愉しかったですか?」という言葉には、深読みすると「一時間の授業を聴けずに損した」という語気を感じ、CSの揺らぎを憶えました。最終日も順調に授業が進み、山之辺の道の近くでのランチミーティングもできました。課外学習という程のことではなく、例えば皿の上にあるタルタルソースの語源は韃靼族(タタール)から由来し、東大寺三月堂でのお水取りの韃靼(だったん)儀式も、大陸と若狭との交易の名残でしょう、「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」という一行詩も・・・といったお喋りです。  (蝶々)

最終テスト結果も自己紹介を兼ねたスピーチもかなり高いレベルでした。それ以上に授業に取り組む気合に快い印象を感じました。「慣れ」ではなく、「馴れ」や「狎れ」に陥ってはいけないと言っている自分が授業に「馴れ」てしまっていたと反省しました。来年に向けてもっと気合を入れた準備をしようと思い、すでに良いテキスト(大連理工大学発行)を入手しました。一年一度、その年にどんなことを学んできたか、どんな新たな経験をしてきたかを自己検証しながら、次世代に伝える場を与えてくれる同学の教授に感謝するばかりです。教授は毎年、拙文の「上海たより」「北京たより」を編集し、適切な写真も付した上で製本して、集中講座に間に合わせてくれます。

『花子とアン』が終わりました。その日に白鵬が逸ノ城を一蹴しました。
いつものことですが朝の連続ドラマが終わると、次週からの朝のリズムはどうなるのか少し不安になります。『カーネーション』は晩年編で夏木マリの大阪演技に馴染めず、『アマちゃん』は大震災以降の流れがぎこちなく、『ごちそうさん』は最終コーナーでの大陸からの帰還シーンが今ひとつでした。それでも、毎回「完」の文字を見るのがいやです。特に今回は、最終週まで集中力が途切れず、『赤毛のアン』出版社社長を演じた、学者の茂木健一郎氏の朴訥な役者ぶりも面白く、帝大生だった宮本竜一(柳原白蓮と駆け落ちした宮崎竜介=孫文の盟友として中国革命に奔走した宮崎滔天の息子)が初老の弁護士になったりして興味が絶えませんでした。花子役の吉高由里子の少々裏返り気味の高い声が、朝の寝ぼけた頭を起こし続けてくれました。暫くは出社リズムがつかめず遅刻が続くかも知れません。

北京の社宅の窓から、玄武の方角の夕焼けを見ながら、この先をずっと行くとモンゴル草原があり、ゲルで育った逸ノ城の故郷に繋がるのだと想像の翼を拡げました。NHKの藤井アナウンサーが「最近はウランバートルなど都市出身者が大半ですが。この逸ノ城は遊牧民としてゲルで暮らし、馬を乗りこなしてきました」と終始「ゲル」という単語を使っていました。遊牧民の移動式住居を「包(パオ)」と漢族が呼び、饅頭のような仮住まいという一種の蔑称が長く流布していたので、「ゲル」が勢いを得たのも喜びでした。   (了)