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2015年1月31日

”今”香港、私を再び訪ねて[2013年]

”今”香港、私を再び訪ねて

そして姫路での再会

 

改めて河野 祐子(かわの ゆうこ)さんを紹介します。

  (井嶋/記)

彼女は、既にこのブログに投稿してくれています20代の社会人女性です。 私たち「日韓・アジア教育文化センター」との、また映像作家たちとの出会いは、2007年の香港での、 第4回の『日韓・アジア教育国際会議』で、海外帰国子女教育をテーマの一つに採り上げた時に招いたゲストスピーカーでした。
彼女は香港で生まれ(ですから香港の制度で承認されている“香港人”です)、その香港とシンガポールで海外在留生活を経験し、帰国し、東京の某私立中学校に在籍します。しかし、彼女の心根は、今も健在な!?「キコクシジョ」(このカタカタ表現は、正負両意で使われますが、ここでは彼女、そして私の価値観での負の意味です)に込められた軽佻浮薄世相と、一部の学校生徒の驕奢(きょうしゃ)ぶりに自失茫然違和感を強く持ち、登校を拒否し、お母さんの故郷・関西に移り、そこで自身の呼吸ができる高校に巡り会え、卒業しました。
その高校に私が敬意を表する旧知の先生がおられたことで、私は彼女と出会えたわけです。
今、彼女は自身への課題と向き合いながら社会人の日々を過ごし、時折、彼女が第2の故郷(ふるさと)として愛するタイ(お父さんの仕事上が彼女とタイの出会い)や、生地香港を訪ねています。
そういった背景からの河野さんの、2013年、 香港風景(彼女の意図としてのモノクロ写真)と、 第4回『日韓・アジア教育国際会議』で出会った香港人中国人の友人との2枚の写真投稿です。

 

 

One country two systems.

香港人として、まだまだ香港について知らない事が多いのですが、

去年の7月はとても思い出深い日になりました。

また、再び再会できたことに感謝.

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2015年1月18日

2015年の初め ―“第2の故郷(ふるさと)”東京で仲間と話し、考え、展望したこと―

日韓・アジア教育文化センターのこれから

古稀を迎える私自身のこれから

井嶋 悠

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

これは日本を代表する詩人・室生犀星(1889年―1962年)が、28歳に発表した詩集『抒情小曲集』の一編で、ほとんどの人が一度は心に吟じた抒情詩であろう。
詩人に限らず、古今東西多くの人々が追慕する純粋無垢の少年(少女)時代。
犀星にとってはかなしく、つらい日々にあっても、詩人犀星は、素晴らしい友や書物との甘美な時を過ごした故郷(ふるさと)(金沢)を謳う。
「遠きにありて思ふもの」「悲しくうたふもの」「帰るところにあるまじや」と言うが、すべては逆説の強調で、この溢れる郷土愛があってこその最後の3行で、やはり天性の抒情詩人なのだろう。

20代後半までの放蕩、放縦生活を経た私ゆえの共感はあるが、これほどの激情はない。私が、詩人(叙事詩人も含め)とは別世界人で、それは加齢とともに一層明確になっている。しかしどこか羨望はあって、この詩を思い起こしふと私の故郷(郷土)はどこだろうと思ったりする。
が、故郷はあって故郷がない。

本籍地は京都、井嶋家の菩提寺も京都ではあるが、生地は父の海軍軍医としての赴任先長崎で、小学生時の両親(母親は長崎)の離婚、東京での親戚預かりで小学校卒業、中学校以降の兵庫、20代中頃2年ほどの東京放浪そして再びの兵庫。はたまた東京・新橋生まれ育ちの三代目女性との結婚。その妻から教えられた漫画家杉浦日向子(2005年46歳、癌で逝去)の江戸エッセイへの傾倒。………。

東京での小学校時代に味わった京都弁への同窓生たちの冷やかしとそれがための担任教師による発音矯正特訓。10代後半、20代に東京電車内で聴いた東京弁の明朗利発な印象と引け目。共通語(標準語)で生活する人などどこにも居ないとは理屈に過ぎず、それに苛まれた、母語日本語モノリンガルでの東西バイリンガル?の、私の中で故郷のない不自然さ、落ち着きのなさ。
挙句の果てには、私の「アイデンティティ」!?の不安定、不確かへ……?

ところが、上記東京遍歴複合の為せることなのか、治癒不能な劣等感が為せることなのか、東京を第2の故郷と感ずる私がいる。
だから昨今の“醜悪美”に突っ走るかのような日本の首都東京の在りようへの、また東京を絶対化する不可解な一部人物群、或いはそれに振り回される老若男女への、失望、憤りそして哀しみも強い。
そのことについては、いずれ別の機会に私をまとめたい。
その東京に、新年9日から1週間ほど滞在した。

「日韓・アジア教育文化センター」の仲間の一人、1993年からの日韓交流の中心人物で、韓国中等教育の日本語教育で重要な仕事を重ねている韓国人日本語教師の来日に合わせて、その盟友でもある日本人日本語教師と3人の愉快な痛飲談論、また今も現役で働く小学校同窓生との心地よい会食、そして私的な時間のために。

私が東京を訪ねたとき、初めに訪れ、一人思い巡らせる場所が二つある。
一つは、娘が自身にとって一つ(・・)の聖地のように心寄せていた「巣鴨プリズン」跡地(池袋)に建つ石碑を前に娘を偲ぶひとときの、一つは、築地市場の真ん中に建つ妻の実家菩提寺への、こうして東京に来られる感謝のお参りのひとときの、いずれも周囲の騒々しさから遮断され粛然とした場所である。

上記前者について、娘の名誉のために彼女の志について触れる。
娘が畏敬、敬愛する人物が三人あった。石原莞爾であり、昭和天皇であり、三島由紀夫である。
彼女は、太平洋戦争について、1941年12月8日を歓喜して迎え入れた多くの日本人(そこには、日本近代文学史に名を留め、検定(・・)教科書にも頻繁に採用されている人々も多い)と帝国主義日本の侵略との狭間で揺れていて、研究者になるとかならないとかではなく、自身の生涯かけたテーマにしたい願いがあった。それがために、例えば今も著作等の多いそれぞれに高名な二人のH氏の、得意満面の笑みで語る悪しき評論家そのままの独善的偽善的姿勢に甚だしい痛憤を投じていた。

そこから私は、教師の無責任さ、傲慢さにもつながることとして、どれほど体感的に気づかされたことだろう。

4年ほど前のこと、小学校同窓生の紹介で、娘と私は、昭和思想の研究者松本健一氏に会う機会を得た。その時の、松本氏の温厚篤実な眼差し、話し方から紡がれる内容への、娘の喜びが滲み出たはにかみが今も鮮やかに甦る。
私自身、氏の文章に少しは触れていた(例えば、今も私の中で右往左往しているところのある、昭和史の重要なテーマ『近代の超克』〈1979年刊〉では、氏は巻頭で解題を記している)が、氏のその時の姿に私も引き入られ、後日読んだ『畏るべき昭和天皇』(2007年刊)は強く心に刻まれている。
その松本氏が昨年11月に、68歳で亡くなったことを紹介してくれた同窓生から聞いた。

きっと娘の融通無碍な魂は、氏の魂のもとに馳せ参じていることだろう。
私への娘からの連絡が未だないのが少々口惜しいが……。もうちょっと待ってみようかと……。

 

東京に行けば、栃木の車生活と違って、電車とバスだ。
エンドレスの人並みを、騒音合奏曲による輪舞か何かのように繰り広げられる中、それぞれがそれぞれの気配りで衝突を避けてうごめく大都市東京。
しかし、電車の中は静かで、それは乗客の、“東京意識”と7割超の携帯・スマホ熱中がそうさせてしているからかもしれない。
来日した韓国人仲間は「20年位前までは本や新聞を読む人が多かったですね」と。韓国も同事情の由。

私がこれまでに会った教師で敬意を表した一人で、日英バイリンガルで、企業総合職から国語科教員に転職した、当時30代初めの女性がこんなことを言った。
「電車の中で読書?近眼になりたい?人間観察の面白さが分からないかなしい人種。」
今更ながら名言と痛み入った私。

それから私は、「眼(がん)をつけた」云々からのトラブル、妻の言葉を借りれば「アナタは畳の上では死ねない」、に心配りしつつ、ただただひたすら人間観察をしていて、ましてや世界最大の雑居都市東京ともなれば、具体からの想像は無限に広がり、時を忘れ、30分1時間は瞬くの間。
例えばこんな想像。

子どもの貧困が7人に1人、
シングルマザーは108万人で、内母子家庭は70%、
更に、自殺は3年前に10年来続いていた3万人が下回ったとはいえ先進国で10年以上世界第1位(これについては、10位以内で、2年ほど前から韓国が日本を超えているが、かの来日した韓国人は「韓国は先進国ではない」と苦笑していたのでここではその考えに従う)、かと思えば、
高倉 健さんの天上への清澄な旅立ちを見守った看護婦(士)さんのことを思い巡らせ、

「それは私のこと」という人がきっといて、今どんな思いで電車に乗っているのだろうと……。

その東京は、世界に冠たる指導的(リーダーシップ)国・日本を自負する象徴のように、あたかも「弱者は強者に従え」と言わんばかりに驕り高ぶっていると言えば、その私は、一部の識者が批判する「擬似民主主義者」なのだろうか。
それでも、少子化、高齢化(長寿化)の現代日本だからこそ、例えば教育を端緒に日本の在りようを再検討すべきではないか、と母性原理(日本、また東洋)を根底に持ちつつ、近代化にあって父性原理(西洋)との融合調和の追及と実践が“日本らしさ”の課題と考える私は思う。

[尚、ここで言う教育に関しての私論は、以前幾つか投稿しているが、それは、例えば今も生き続ける「18歳人生決定」観や「大学の大衆化」への疑問とそれらのことへの
大人の責任といったことからの発想である。]

その想像を彷徨う私は、20年前は兵庫県宝塚市に住み、「阪神・淡路大震災」で“かなしみ”を突きつけられた底辺層の人々を直接知り、4年前には「東北大震災」後の、一部の政治、行政、産業、学者そしてそれに同調する不可解な人々を、この栃木県で直接知った一人でもある。
とは言え、何も為し得ていない、うしろめたさを持った一人でもある。

 

このような、それこそ不可解な、私は日韓中の何人かと、2005年「日韓・アジア教育文化センター」をNPO法人として発足させ、公的承認を得た。[http://jk-asia.net/

公私紆余曲折、浮沈を経て、2010年からは私の転居により栃木県を拠点に活動を継続し、2013年夏に、仲間の若手映像作家やデザイナーの尽力で、ホームページを改訂し、現在に到っている。

その際、継続の意思表示と意見発信の場の思いを込めて、『ブログ』の定期的継続に努めているが、投稿くださる方々や読者の熱い声を聴く幸いと励みの機会が増えて来ている。
そして、今回の韓国人日本語教師と日本人日本語教師との歓談は、ではこれからどうするか、であった。
そこで出された意見は次の事項である。

○2年後に改訂が必要となる韓国中等教育『日本語教科書』制作での本センターの新たな関わり

○本センターのそもそもの原点【日韓中、東アジア文化の歴史の再検討】の展開

○『ブログ』等での意見を韓国語訳しての韓国内での新たな発信

20年間の私たちの足跡を確かなエネルギーに、己が足を地にしっかりつけ、鷹揚な眼差しと牛歩の歩みを大切に、この可能性をもった課題に、仲間と共に取り組んで行ければと願い、思う。

私的には、私の次の課題と並行させながら。

☆理想の老いの姿に向けて

「……七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)《定規・決まりの意》をこえず」(孔子『論語』)

☆栃木に転居し、身をもって知る生き方の感得に向けて

「……いまだ誠の道《仏道》を知らずとも、縁を《わずらわしい人間関係》離れて身を閑(しず)かにし、事に《世事》あづからずして心をやすく《平安》せんこそ、暫く
楽しぶともいひつべけれ。」

(吉田兼好『徒然草』)

 

2015年は未年。羊。

その羊の角から後ろ足までの全体の姿から創られ、成熟した羊の美しさを表わした漢字が「美」であり、そこから「よい」の意味にも使われる旨、白川 静著の『常用字解』に記されている。

日本にとって、何が、どういう姿が「うつくしく」「よい」のか考え巡らせては、と思うのはあまりに牽強付会というものだろうか。