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2016年6月23日

春来・夏来・秋来・冬来そして再春来……朝来・昼来・夜来そして再朝来…… ―来月は七月・文月、七夕―

井嶋 悠

春夏秋冬四季、梅雨季・台風季を加えて六季の方がより日本らしいと言う人もあるようだが、ここでは四季とする。
私たち日本人は、また日本に長く生活する外国人は、四季を自然から肌で実感する。例えば風。
春、私たちを歓声と哀しみに誘う桜吹雪の風。夏、大輪のひまわりの間を吹き抜ける夏(なつ)疾風(はやて)。秋、野分、薄(すすき)の穂が奏でる銀波。冬、木枯らし、「冬蜂の 死にどころなく 歩きけり」(村上 鬼城)の突き刺す風。
その四季に私たちは自身の人生と重ね合わす。
今、老若問わず、どれほどに己が心に四季を映し入れ、留め、「哀しみ」と「愛(かな)しみ(慈しみ)」の時を持ち得ているだろう? 持ち得ていないならばなぜだろう?と、夜半のひとときに自問自答する心の余裕(ひだ)を確保できているだろうか、と老いの証しかのように思ったりする。

私は、「浮生(ふせい)(浮き世)は夢の如し」と承知しながらも「酔生夢死」の(但し、道徳説諭の意味ではなく、文字通りの意味)我が人生、「つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思はざりしを」(在原 業平)が、そこはかとなく実感迫り響く年齢となり、古稀越えのかくしゃく老人を横目に、「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」(孔子)などと分かったことを口ごもり、おそれおののくことの方がはるかに多い。
現在の拠点・居室で、私の生母は89歳で、娘は23歳で、憂き世から旅立ち、2年ほど前のことだったろうか、深夜に、寝床の傍(そば)の壁面を直径10cmほどの、青紫がかった半透明のゼリー状のものが二つ連なって這う姿を目撃し、やはり霊は在るとの念を強くし、そのことを賢妻に言い失笑を買っている。
二つの霊を私への激励ととらえる余裕などなく、二人に失礼ながらついつい百鬼夜行を浮かべ、或る時は併行して私の人生を捻じ曲げた人々(教師)への憤りが、はたまた自責、後悔がふつふつと甦ったりする。ねちねちとした妄念に憑(と)りつかれた、絵に描いたような小人ぶり……。
波瀾万丈の人生を送った或る日本人女性作家(1904~1998)は、「深夜の妄念の中で私はあたりに対していいかげん辛辣であり、女ぽっく意地悪である。」と言っている。“鬼婆”はあるが“鬼爺”をほとんど聞かないことと関係あるのだろうか。その私は母性に限りなく信を置く男である。

私の朝昼晩春夏秋冬の今の生活地は、10年前から、首都圏のリタイア組が憧れる一地、栃木県那須高原の裾野の8畳の和室で、それは豊潤な自然に囲まれた清閑な地にあっで、犬と花壇と畑に生の力を与えられ、二歳違いの老賢妻と日々を過ごしている。才覚並びに刻苦勉励無縁の私ゆえ、この「過ぎたるは及ばざるがごとし」の贅沢の極みに罪悪感はあって、謙虚さを心に銘じてのことはもちろんである。

この機会に私の百鬼夜行を確認したく、市の図書館におもむき『絵巻物に描かれた「闇」に蠢(うごめ)く妖怪たち 百鬼夜行と魑魅魍魎』(洋泉社編集)を借り出し、私のは「牛(うし)鬼(おに)」や「おとろし」系であるかな、と或る私的好悪体験から得心している。母と娘の苦笑が浮かぶ。

私にとって今も「人間のはかなきことは、老少不定さかひなければ、たれの人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏まうすべきものなり。」(室町時代の浄土真宗の高僧・蓮如の言葉)は、遥か彼方のことではあるが、詣り、唱える世界に純一に溶解できる自分を夢見る。信仰とか信心といった宗教に係る言葉を持ち出すのではなく。
娘の「独りであることでの哀しみには向き合えるが、絶対の孤独が怖い」との晩年の言葉が過ぎる。
何とか一時(いっとき)でも、「闇」に彷徨(さまよ)うことのない安らかな眠りを願い、晴れた夜空を、もちろんこの地はあのこぼれんばかりの夜空で、眺め、「星月夜」との美しい言葉[雅語]を持つ日本の古代人(こだいびと)に思いを馳せる。

後1週間ほどで七月。旧暦の呼称、文月。そして七月七日。七夕。秋の季語。新暦では夏の盛り。
文月と言う由来には幾つかの説があるそうだが、文(恋文)のやり取りなどあろうはずもないとは言え、織女と牽牛の、哀しく、切々とした聖い恋に心が向く。愁いの恋。やはり秋。
この駄文を綴っている昨日、夏至だった。この日以降、陽光時間はわずかずつしかし確実に、短くなりながら冬至(半年後の12月)に向かう。身体の感覚に季節が、人為(理知)と一切関係なく溶け込んでいる私にふと気づかされる。歳時記が日本人の聖典とも言われることに、近年「24節季」や「72候」についての書に衆目が集まっていることに、現代人の心の反映を我が事として、古人の智慧・知情意の大いさに得心している。何という遅まき!

老いの生き方として敬愛する奈良時代の歌人・山上憶良は『萬葉集』巻八に12首の、織女に身を置いた歌を遺している。内、どきっとさせる微笑みの1首、星空の華(ロマン)に想いを馳せる2首を引用する。

「天の川 相向き立ちて 我が恋ひし 君来ますなり 紐解き設(ま)けな」

「袖振らば 見も交(かは)しつべく 近けども 渡るすべなし 秋にしあらねば」

「彦星の 妻迎え舟 漕ぎ出(づ)らし 天の川原に 霧の立てるは」

三首目の「霧の立てる」の意とはつながらないが、中国・四川大学に留学経験を持つ俳人・原 朝子氏(1962年生)の著書『大陸から来た季節の言葉』の「七夕」の項から、二人の切々たる思いを表わした中国古詩の一節に「泣涕(きゅうてい)(涙)零(お)ちて雨の如し」との表現があることを知る。雨の七夕、涙雨。

中国伝来の七夕伝説に心向かわせた古代日本人だが、星そのものには神話世界で2、3神登場するぐらいであまり関心が向かなかったとのことである。それについて或る研究者は、日本人にとって夜は鎮魂の時であった旨言っているが、農耕民にとって昼の重労働からの安息⇒鎮魂と言う見方もあるのでは、と勝手に想っている。
そのことと関連して、高温多湿の風土で鮮やかな星に巡り会うことが少なかったとの説明にも触れたが、現在の栃木県北部での居住経験から言うとこれは関西風土からの発想かもしれない。以前、「紅葉・黄葉と東・西」の表現に係る指摘に興味を持った私の、これまた勝手な想像である。
その日本人(と、朝鮮半島からの渡来人が多かった時代であるが一応こう言っておく)が、七夕伝説に心魅かれたところに、合理より非合理、科学より文芸の日本的ロマン性を思ったりもするが……。

閑話休題。

もう一つ、古人(いにしえびと)から。次の時代(平安朝)の清少納言『枕草子』(236段)

「星は昂星(すばる)。彦星(ひこぼし)。夕づつ(宵の明星)。よばひ星(流れ星)、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて。」

「山は」「河は」等、また「すさまじきもの」「うつくしきもの」等と同じく、感傷を排したロマン性(と言えるのかどうか分からないが)はすごいと思う。彦星を採り上げてはいるが、物語(ロマン)的視点はない。

また、七夕が機縁となってはいるが、七夕伝説を離れた名歌もある。
『百人一首』に採録された、大伴 家持(山上 憶良の大宰府時代の僚友・大伴 旅人の子で、奈良時代晩期の歌人)の歌。

「鵲(かささぎ)の 渡せる橋に おく霜の しろきを見れば 夜ぞ更けにける」

或る研究者によれば、ここで言う、「鵲(かささぎ)の 渡せる橋」とは、七夕伝説(織女と牽牛の間に横たう天の河に、翼を広げ出会いの橋渡しをしたと言われる鳥・かささぎ)から転じて、宮中の庭から屋内にのぼる階段(階:きざはし)を表わしていて、七夕伝説を心に留めながらも、貴族人の別の想像の広がりと説明され、それがあっての「おく霜」であるとのこと。
このかささぎ、20年ほど前、ソウルの或る方のお宅(豪邸)に伺い、群生している姿を見たのが初めてで、日本にはいないと思い込んでいたこともあって(後に、佐賀県の県鳥であることを知った)、魅入った私が今も鮮明に残っている。

【補遺】家持の父、山上 憶良の僚友の大伴 旅人のこと。
私は、休肝日など意に全くと留まらない酒好きで、それでの失態を凝りもせず数限りなく50有余  年続け、ごまめの歯ぎしり風で言う高額納税者で、愛酒家の聖地の一つ、東京・新橋の生まれ育ち  のカミさんに言わせれば、単なる酒好きで酒豪でもなんでもない、噴飯ものの脆弱な酒好きである  が、大伴 旅人の有名な「酒を讃える歌十三首」(『萬葉集』)に触れた時には、思わず笑みこぼ  れ、親愛と憧憬の心を寄せた。肖像画がこれまたいい。

例えば、次のような歌。(  )は現代語訳(訳者不明)。

「験(しるし)なき 物を思はずは 一杯(ひとつき)の濁れる酒を 飲むべくあるらし」(くだらない 物思いをするくらいなら 一杯の 濁った酒を 飲むべきであろう)

「世間(よのなか)の 遊びの道の かなへるは 酔ひ泣きするに あるべかるらし」(世の中の 遊びの道に 当てはまるのは 酔い泣きをする ことであるらしい)

「生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば この世にある間(ま)は 楽しくをあらな」 (生きている者は いずれ死ぬと決まっているから この世にある間は 酒飲んで楽しくやろう)

生老病死。
最近、一か月でも一年でもなく、一日の時間の速さに圧倒され狼狽(うろた)える私がいや増している。平安時代末期から鎌倉時代にかけて大きな足跡を残した西行法師が、1118年の何月に生まれたのかは分からないが、1190年2月16日(新暦で3月31日)春、かの「願はくは 花のもとにて 春死なん そのきさらきの 望月のころ」の歌そのままに72年間の生涯を終えた。
春夏秋冬。朝昼夜(晩)。生まれ、生き、命輝き、愁い、鎮魂し、新たな生に引き継がれ……。

長寿化は「寿」にもかかわらず、家族の有無とは関係なく不安とおののきを抱いている人は多い。私もその一人である。その心身介護を担う人々への社会としての保障、支援の何と付け焼き刃的なことか。文明、先進とは?と重ねて反芻する。政治家のあまりのていたらく。寂しい国。他にどのような表現が?

私は独り在ること、死を泰然と迎えられるよう、「旅に病(やん)で 夢は枯野を かけ廻る」(芭蕉)の気魄が少しでも持てるように、と小人は小人なりに努めてはいるものの、はてさて。賢妻曰く「男は不甲斐ない。女、それは母性の強さよっ」と。

沖縄の音楽グループ「りんけんバンド」に、曲調も歌詞も天の広がりを直覚させる、叙情性豊かな名曲『黄金(くがに)三星(みちぶし)』がある。[「三星」とは冬の星座オリオン座だが、七夕伝説に通ずるギリシャ神話での哀しみの恋がある。]
初めて聴いたとき、こみ上げる叙情の激しさに胸突き上げる私があった。そういう人は多い。詞としてそこで沖縄の歴史、太平洋戦争、戦後の叙事は何も語られていない。しかし、その歴史に自ずと迫る。

最近、誤解と指弾を怖れず言えば、「子どものため」には、一切の疑問、反論を許さないかのような空気を感ずることがあるが、では、沖縄戦の時の子どもたちの悲惨と現代日本、とりわけ本土(やまとんちゅう)の私たちは、そのことをどこでどう紡いでいるのだろうか、と言葉を紡ぐだけの私は自問する。
日本語を代々(よよ)母語とする者にとって「宗教」との言葉は複雑微妙な心象を与えることは否定できない。少なくとも私はその一人である。
その点、唯一絶対神を仰ぐキリスト教・イスラム教(二教を同列に並べることの是非は今は措く)の国・地域の人々には、疑問を抱いている人もあろうが、心身一体自然な心象があるように思える。

私のお気に入りの映画の一つにアメリカ映画『ノエル』(2004年・チャズ・パルミンテリ監督)がある。文化度の高い人からは、感傷的(センチメンタル)と一蹴するかもしれないが、神への信仰を持ちつつも老いに人間として向き合っている姿が描かれている。教条的なそれではなく、人の心の優しさと切なさの行間の余情綾(ド)織り(ラマ)として。私はこの映画にアメリカの良心、奥行きの深さを思い知らされている。(現在のアメリカ大統領選挙で思う別の奥行きとも、私の中ではつながっている。)
因みにこの映画は、才能豊かなスタッフとキャストの一体があってこそ名画(形容語はその人の価値観を表わす意味では、私の名画)となる、との当たり前のことを静かに強く知らしめる作品でもある。

いつの日か、これまでに仕事場で出会ったアメリカ人を思い浮かべ、私のアメリカについて少しでも内の整理ができたら、と思ったりする。「アメリカ病」と「日本病」を併せながら。

2016年6月19日

中国たより(2016年6月)    『朱子学』

井上 邦久

5月末に上海へ、そして上海から広州を往復しました。上海での要件が月曜午前の約束となったため、週末から上海入り。上海のオフィスに顔を出したら、唐突に広州に出かける用件が生まれました。お蔭で、週末の上海で色んな方々とゆっくりお話しする機会を得ました。また、今回思いもがけない訪問となった広州は、学生時代に初訪中した際に香港から先ず足を踏み入れた都市です。春秋の広州交易会にも1980年から20回連続して参加しました。

「経済改革、対外開放」政策の立ち上がりを、最前線で定点観測できたことを今も幸運に感じる、強い思い入れのある広州です。
1978年から1979年にかけて、鄧小平が掲げた「経済改革、対外開放」政策がさかんに謳われるにつれて、「改革開放」と略することが多くなりました。更には「Open Policy」と喧伝されることで、一種の錯覚が生まれて行った気がします。確かに深圳や厦門などの経済特区の開設や「利用外資」のスローガンの下で「対外開放」が進行しました。
しかし、それはあくまでも「対外開放」であったことを忘れてはいけません。「対外開放」を「対内開放」さらには「対内解放」にまで過剰に期待したことが、1989年6月の北京での悲劇に繋がる一因になったと思います。1980年代の中国社会には政府に対する淡い期待、厳しく言えば「甘え」があり、それが民衆運動の過程で加速することによって、政府が許容する臨界点を超えた時、権力のグリップが握り返されたと考えます。

漢字を共有する日本と中国。同文同種の甘えは危険だと諸書に記され、戒められてきました。しかし、ついつい日本的な翻訳、日本人好みの解釈が定着して、錯覚や誤解のもとになってきたことも否めません。
その一例が上記の「対外開放」を厳密に峻別していないことです。「対外」という限定的な言葉が付いている以上は、「対内」の開放はないのだという当たり前と言えば、当たり前の警鐘を鳴らすべきであったと思います。
ついでに言えば、中国語の原文には堂々と「利用外資」と書いているのに、その訳文をわざわざ「外資を活用して」とする翻訳文が多くあります。悪い冗句ですが、「中国に投資して、相手側に利用されて損をした」とボヤク人が出てこないように「外資を利用して」と正確を期すべきだと考えます。たしかに中国語の「利用 li yong」には、日本語の利用・使用・活用の語意もあります。そして一方では「うまく使う」「利する」とともに「甘える」「依存する」という使い方もあるようですから。

さて、上海での週末週明けの時間を利用して、色々な会合を開かせて貰いました。それぞれのメンバーが語る味わい深い話題を通して、様々な考察と啓発の機会を頂きました。

雨がしとしと日曜日の昼、1923年に建てられた洋館を利用した餐館に、濡れた傘を携えて7名の男女が集いました。会費100元の飲茶とお喋りの開始です。
上海の華東師範大学で博士号を修得した九州出身の中村貴さんを囲む形に座りました。中村さんは「上海歴史散歩の会」の松江散歩に際して見事な資料を書下ろしてくれました。事前に読んで内容の豊かさや潔さに感心し、散歩当日の控えめながらも要点を外さない姿勢にすっかりファンになりました。新進気鋭の研究者が江南のホームグラウンドで、最新学術の精華に基づく「ガイド」役をしてくれたことを「贅沢」だと感じました。その後、しばらくして中村さんの博士号修得祝いの小宴で、「贅沢だよね」と何気なく口にしたら、傍らの散歩の会事務局の入江さんが共感してくれました。この種の「贅沢」を感じ合えることもまた「贅沢」でしょうか?

さてこの日の会話も上海は何故「申城」と呼ばれるか?黄浦江の名の由来は?という身近なテーマからスタート。戦国時代の四君子の一人である春申君が開拓した上海の故地を「申の城」、春申君の姓の「黄」を上海の母なる川の名に利用して「黄浦江」としたという説明でした。 弁護士やコンサルタントの皆さんの発言に続いて、コーチング会社のKさんから「この一年、コーチングの対象が駐在員から中国のナショナルスタッフ(NS)中心に変わってきた。また、従来の上海中心から武漢・重慶という西方の都市部にもコーチング業務が広がりつつある」という新鮮な話題が出されました。

国内の市場開拓が本格化  → 駐在員の力量では不足 →NSリーダーの需要増

住宅・教育等の価格費用増 → 駐在員の経費が増加  →NSリーダーの需要増

市場が西方都市部へ展開  → 現地に根差した要員育成→NSリーダーの需要増・・・

という構造変化についての分析が集約されていきました。

続いて、そもそも「コーチング」とは何ぞや?という根本の議論になり、Kさんの丁寧な解説でも理解が難しく、「喩えて言えば、机を挟んで相対して指導を受けるTEACHではなく、机を前に二人が並び、良い方向を目指して話しながら気付いていくのがCOACH?」という年輩者のたとえ話で何となく分かったような、分からないような状態になりました。そこへ中村さんから朱子の言葉の紹介があり、その内容が「コーチング」理解に重なるのではないか、という発言で一同が得心しました。やはり、年輩者の物知り風のたとえ話より新鋭の研究職の説得力には切れ味がありました。

後日、中村さんから送ってもらった出典を以下に記します。

『朱子語類』巻十三・九 原文「某此間講説時少。践履時多。事事都用你自去理会。自去体察。自去涵養。書用你自去読。道理用你自去究索。某只是做得箇引路底人。做得証明底人。有疑難処。同商量而野水」

日本語訳
「私のところでは、講義の時間は少なく、実践の時間が多い。何事もすべて君自身が取り組み、君自身が身をもって考え、君自身が修養せねばならん。本も君自身が読み、道理も君自身が研究せんといかん。私はただ道案内人であり、立会人であるにすぎん。疑問点があれば一緒に考えるだけだ。」         出典 三浦國雄『「朱子語類」抄』講談社学術文庫 33頁

上海から戻り、梅雨の晴れ間の鳥越まつり。総武線浅草橋駅で台東区鳥越一丁目出身の竹上さんと待ち合わせ。鳥越神社氏子として育った竹上さんの案内で、戦災を免れた路地を辿り、幼馴染のお店が続く買い物横町の近く、お兄さん夫妻が住む実家でビールをご馳走になりました。神社のお札、鳥壹と染めた粋な手拭い、そしてオリジナルの寿恵廣(すえひろ=扇子)まで記念に持たせていただきました。昼食は柳橋まで歩いて大黒家さんで。竹上さんの縁戚でもあり、何時に増しての美味しい天麩羅を頂きました。女将さんからのお土産は人形町の富貴豆煮つけでした。
頂いてばかりのこの日の仕上げは、「いつもはこの種の新書は買わないのだけど・・・実体験者本人が書いているので」と竹上さんが遠慮気味に渡してくれた『キリンビール高知支店の奇跡』田村潤(講談社+α新書)でした。新聞広告で知ってはいましたが、ビジネス成功談は苦手なので食わず嫌いになるところでした。お蔭で朱子学の実践例を知ることができました。本屋で「まえがき」と「あとがき」を立ち読みすれば、エキスが感じられ全部を読みたくなる確率はソフトバンク・ホークスの勝率くらいでしょうか。

最後に、実践的なコーチと言えば、やはり野球。以前にも触れたことのある佐藤義則投手コーチに行き着きます。ダルビッシュ有、田中將大を育て、現在はソフトバンク・ホークスを支えています。

「教え子に理論をおしつけることはせず、納得するまでとことん付き合う。それが佐藤の流儀だ。松坂大輔らの大きな戦力が加わった今年のソフトバンクだが、一番の「補強」はこの男かも知れない」(二宮清純)

朱子学の宣伝はこの辺で留めます。                                            (了)

2016年6月7日

「教科書を教える」 「教科書で教える」 ―教師にとっての教科書・生徒にとっての教科書―

井嶋 悠

前回の投稿で、或ることでの発心から駄文の投稿を続ける二つの理由を改めて私に確認した。
ただ、駄文を綴るにしても私のこれまでのささやかな職業・人生そして学習体験からだけでは、単なる思い付きに過ぎず、少しでも「70にして自照自省、学?に志す」!?の勝手な感得のために、古(いにしえ)の、今の魅惑的な人々の感性をいただいている。
その主典拠は、33年間私を生かしめるに不動の!支柱であった「教科書」である。それは、例えば豊富な読書体験を持つ人からは嘲笑ものかとも思うが、後悔先に立たず、やむを得ない。
今回、その教科書のことを少し書く。それが表題である。

ここで書く教科書に関しては、中高校(私学)の国語科必修科目としての体験からの言葉で、選択科目(必修・自由)でのそれではない。尚、選択科目について、私は以下のことを踏まえ、もっと自由選択を拡充すべきとの考え方である。

国語科教育の目標は、母(国)語である日本語の確かな「理解と表現」(学習指導要領では「表現と理解」)とそのための「言語事項」である。
その目標が達せられるなら「を教える」「で教える」どっちでもいいことなのだが、少なくとも私の知見では、
①教科書だけでは進学受験がおぼつかない ②教師によっては教科書を軽んじている、との現状は確実にある。①を充足方向にしようとすれば問題集に軸足が移るのは必然である。

【蛇足】

この問題集優先指向は、55年前の私の高校時代も同じで、進学校だったからなのか与えられる問題集は『難問集』と銘打たれ、これは他の教科でもその傾向があった。因みに、問題集にも『教師用指導書(とらのまき)』があって、答え(結果)から指導(教授)する教師がほとんどであった。これは、要領のいい同窓が、問題集の出版社からそれを取り寄せて知った。更に蛇足を加えると、期待をもって異動した某校・上司に幻滅、憤慨し退職した後、家族生活のための一方策として塾教師を2年間した折、この方法で良いのか経営者・同僚に確認したところ、何を今更との冷ややかな視線を受けた。
②については、大学併設の一貫校の、特に高校で多い。

①について。

なぜそうなるか。各段階での入試問題に表われる上級校教師の学力観と教育観、その背景に在る社会・教師の年齢(学齢)適応学力観、それがために今では必要不可欠ともなっている“進学”塾(予備校)、といった“異常”については既に投稿した。
その結果、例えば中高大一貫校で、志望学部が無い等の理由から他大学受験を希望する生徒は、在籍校授業を軽視し、塾授業に傾注するといった事例は多い。

②について。

人格、教授術共に優れた教師の場合、国語好きを増やすかとも思うし、在職中憧れに似たものを持ったこともあるが、自照自省の今、後述するように、遅れ馳せながら?疑問の方が強い。

 

「教科書を教える」「教科書で教える」

これは、在職中に知った表現で、あくまでも教師側からのもので、在職中“ダメ教師”と同僚や同職者から揶揄されることも多かった私だったことも手伝ってか、後者を憧憬していた。
しかし、70歳を越えての過去と現在と未来の思い巡らせに在って、後者は傲慢尊大そのもの、前者こそ在るべき教師像と思うに到っている。

「で」教える。 何を教えると言うのだろう? 人生? 文学? ……

そういう教師が、10代の生徒の心に、ずけずけと誇らしげに、多くは問答無用で押し入り、また時には過度に迎合し、どれほどに傷つけていることか。瑞々しい感性は、そんな教師の人としての愚劣さを、とうに直覚しているのだが、不器用な生徒は苛(さい)なまれ、もがいている。今は亡き娘もその一人であった。
自身も元生徒だったことなどどこにもなく、事実かどうかは別にして模範的優等生であったことを、或いは己が高学歴を矜持するかのように「今の子は何を考えているのか。到底ついて行けない」と言う。
私は劣等生との自覚があったので、さすがに矜持はなかったが、自身が気づいていないだけで彼ら彼女らの心を傷(いた)めつけたことは数限りなくある……。
それでもそのときどきで心を尽くした思い出もあり、少数であれ、私を良しとする同僚・同職や教え子・保護者に励まされ、交流を続け、それがあって33年間勤められ、そして今在る。

教科書は、何をおいても教科書を教えるべきだ。
日本文学(国文学)・国語(日本語)に造詣の深い人の、教科書への不満はしばしば耳にした。しかし、それらは選択科目で講ずれば良いことで、教科書に掲載されていることの確かな理解が確かな表現を導き、確かで広い関心興味が喚起され、後続の選択講座に向かう、それが各人の自己個性化につながる。そのことがそれぞれの学齢・年齢での、知識からその人の智慧への昇華だと思う。漢字が多く読め、多く書けることは素晴らしいことだとは思うが、誤解を怖れずに言えば、それは国語力の真髄へのほんの一部のことに過ぎない。

国語教科書の出版社は5,6社あるかと思うが、これも私的感覚ながら、大同小異である。
教科書は1年間で終えるのを基本としているが、掲載作品すべてを終えることは到底不可能で、ましてや整理された丁寧さで教授するとなればなおさらである。にもかかわらず、あれほどの掲載量があるのは、学校特性、教科特性そして教師特性による採択学校の個性の発露ため教材選択への配慮であろう。後は、学校・教師の姿勢の問題である。そしてそこに具体的で現実的な「基礎・基本」が炙り出されて来るのではなかろうか。
私は「整理された丁寧さ」と、羞恥心もなくしたが、ここには「教えることは学ぶこと」また「教師は向き合っている生徒に育てられる」との思いが込められている。

散文であれ、韻文であれ、教師は教科書掲載作品について、あれがない、あれがあるべきだ、と言う。それは仲間内での談義であって、教科書では不毛な議論である。
編集者・監修者またそれを選ぶ出版社の良識、良心を信じ、豊かな教授を目指し、その後は個々の生徒に一切を委ねるべきだ。そのことで国語科教育の「基礎・基本」、国民の共有が生まれるのではないか。
そこから、現在の入試制度、内容、また在籍期間を含めた単位履修等の学校制度、内容の変革が視えて来るだろうし、高校の義務教育化、大学の大衆化といった今日的課題への視座も明確になるのではないか、と思う。
日本が長寿化、少子化の道を歩んでいる今、カネ・モノ発想からの諸施策ではなく、だからこそできる可能性を思う。それこそ次代を担う子どもたち、若者のために。若年と老年が「哀しみ」から「愛しみ」溢れる世界に冠たる国へ。

最後に一言。教科書検定制度について。
私は、学校(主に私学)、地域(主に公立)それぞれが責任をもって検討、採択することの有効性を考える制度反対の一人であるが、国語科の場合、例えば社会科のような難しさはまずないように思う。