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2014年4月28日

北京たより(2014年4月) 『郭隗』 ―「日中友好活動をしなやかに続ける日本人大学生 その2」―

井上 邦久

菜種梅雨の上海から、12日土曜日の昼便で北京に移動しました。
空港のタクシー乗り場には白い綿毛が沢山飛んでいました。乗車整理員に「柳絮?楊絮?」と訊ねたら「柳のワタの柳絮だよ」と教えてくれました。
粉雪、櫻吹雪そして柳絮と、この時期の北京は、大げさに言うと白色系飛来物が2週間ごとに変身し、そして季節が巡ります。
寒気が緩みかかって以降は、大連から天津への移動の途中で北京に立ち寄るということはあっても、ラフな服でのんびり過ごす北京好日はありませんでした。

例年3月は中国の会計事務所による2013年度監査に始まって、日本からのJ-SOX・公認会計士監査対応、そして大連から香港までの現地法人の決算役員会が月末ぎりぎりまで続きます。
加えて今年は、人事総務の責任者に急遽中国に来てもらい色々な意味での環境がより厳しい北京・天津(山東2拠点代表も参加)そして上海で、駐在員・帯同家族・ナショナルスタッフとの交流を企画設営したので帯同移動が増えました。
大気汚染に留まらず子弟教育や生活環境への理解共有が目的。
危機管理の視点も絡めて現地と本社が具体的にどんな「解」を導き出せるかがテーマでした。また月末には香港でグループ会社全体の会議が開催され、昨夏に続き出席報告したので、その為の準備も大変でした・・・と、
それなりに仕事もしています。

4月1日、恒例の東京での期首集会、入社式で一区切りをつけます。
その間に横綱が3名となり雲竜型の土俵入りを夏場所から楽しめることになりました。
その間にセンバツは古豪平安高校が優勝。ベスト4の内の2校は想定通りでしたが。
その間にバッファローズとカープが渋い監督の采配と投手力の整備で開幕ダッシュ。

3月10日夕方、北京大学留学中の渡辺航平君と北京飯店のロビーで待ち合わせました。
歩いてすぐの王府井『東来順』で羊肉火鍋が沸騰するまでに「僕らの日中友好@北京」の活動状況の報告をしてくれました。
メンバー手作りの合唱曲の初稿楽譜も見せてもらいました。また昨年の上海に続いて北京での路上フリーハグ実施に向けて、各方面への確認手続きを進めているとの説明には、法学部学生らしい緻密な側面も窺わせました。

湯気が上がり、羊肉や野菜や豆腐に火が通ってくると、二鍋頭(庶民の味方の北京地酒。倹約令対象外)を呑みたくなり、成人祝いというもう一つの目的を思い出しました。
あとは問われるままに好みの文章や座右の書を語り、吉行淳之介と加藤周一の共通点、戦中の北京での中江丑吉の生活、歴史上唯一の哲学者で第一権力者であったローマ皇帝の書いた『自省録』を温家宝前首相が読んでいたらしいことなどをお喋りしました。
気がつけば独り酒になっていましたが、4月1日、新入社員向けのオリエンテーションで渡すつもりの中国地図を閉店間際の書店で買うことは忘れず、地下鉄ホームで別れました。

4月になって、10日と13日に北京フリーハグ。12日に活動報告会と合唱曲の発表を北京大学の記念ホールで行う旨の連絡を貰いました。
奇しくも12日の昼には北京に戻る予定をしており、空港到着後19;30まではフリーなので、15;30の開場時間には空港快速と地下鉄で北京大学東門駅に間に合わせることを伝えました。
人事を尽くしたあとの飛行機の遅れは天命である、といういつもの開き直りで何とか時間までに駆けつけて、会場の隅で静かに拝聴しようと思っていました。

前夜は銀色の雨降る上海。午後から面談、会議そして懇親が続き(上海でも仕事をしています)携帯電話を無音状態のままにしていました。
移動途中で渡辺さんからの電話着信そしてメールの記録を見て、翌日の会場が諸事情により北京大学から日航ホテル系の京倫飯店へ変更されることを知りました。・・・委細了解です。こちらも時間に余裕ができて助かります。新会場は馴染みの場所です。直前の「諸般の事情」による変更で大変ですね。メゲズに頑張って下さい・・・と取り急ぎの返信をしました。

従来から良くあることだから慣れて(いや、「馴らされて」が正しい)いますが、約束事を直前に、分かりにくい理由で引っくり返すやり方は実に宜しくない。
冷静かつ論理的に反論しようにも、当事者が不在になったり、過程を知らずに決定のみを伝達する役目の人間しか出てこなかったり。しかも直前に告知されることが多々あります。物事を決めるプロセスの透明性が低く、しかもルール解釈を強引にされて強い者の意図に巻き込まれる。
万古不易とまでは言いませんが、変わらない一つの底流だと思います。
西欧諸国が政治経済の分野で表面的に接近しても、最後に跨境できない壁がこの「決定プロセスの不透明性」にあると思います。

30年以上前の北京空港で或る年配の方が「この国にはカントが居ないね」とポツリと語られたことをずっと憶えています。旧制高校で学んだ西洋哲学の理性尊重や合理主義とは異質のシステムや発想に違和感を覚えたのでしょう。
もちろん今回の会場変更について、当局には諸般の事情があったのでしょう。或いはもともと欧米式の発想やスタイルを何とか理解許容しようと無理をする日本人とは異なり、伝統的な発想の根っこを大事にして学生の動きを規制したのかも知れません。

ホテルューオータニ系の「長富宮飯店(万里の長城と富士山由来の命名)」と並んで、早い時期に開業した「京倫飯店」は国際貿易センターにも近く、1980~1990年代には頻繁に利用させてもらいました。久しぶりにロビーに入ると、合唱練習の声が聞こえて場所はすぐに知れました。報道関係の人が多いなあと思いながら、離れた場所で待機していたところ、渡辺さんから「木寺大使が来られるので一寸待っていて下さい」と言われ、ちょっと驚きました。更に導かれて会場に入ると来賓席があり、正装の大使夫妻一行の横に座らされました。主賓が大使と二人だけということには、かなり驚かされました。

海南島でのアジア・フォーラムから前夜北京に戻ったばかりの大使と上海からラフな格好で何とか駆けつけた軽輩が「来賓」というのもこの会らしいなあと徐々に納得していきました。
大使から、この会への参与のきっかけを聴かれたので、昨年末の清華大学日本語スピーチ大会への賛助と渡辺さんたち三人のグループとの遭遇を伝えました。

程なく活動報告が始まり、作曲者挨拶、そして合唱が行われました。
最後に渡辺代表からの挨拶がありました。
冒頭に直前の会場変更により迷惑をかけたことへの真摯なお詫びの言葉がありました。
万古不易などという進化に乏しい大人の義憤などと異なり、一言の言い訳も、恨み節のかけらも無いシナヤカな姿勢はいつもの通りでした。

「言い出しっぺ、そして(だから?)代表の渡辺です。仲間が3人になり、24人の運営委員、そして150人まで膨らみました。最年少の自分をリーダーとして盛り立ててくれて有難う」という仲間への感謝の言葉が印象的でした。
途中、感極まることも何度かありましたが、外国語学院の女子学生がとても冷静に自己制御しながら、抒情的な日本語を母国語にしていきました。
女子学生ご本人も泣きたい気持ち(自らの感動と三人の日本人男性の翻訳しにくい情的表現)だったようですが、要点は外さず会場の流れも考慮して簡潔明瞭に役目を果たしていました。

清華大学でのスピーチコンテストに続いて、今回も女子学生の目立たずとも大切な実務的貢献によって会の感動が深まりました。

木寺大使のスピーチもとてもユーモアに溢れ、垣根を低くする語り口で満場の共感を呼びました。
記念撮影のあとは、握手よりもフリーハグでお開きでした。大使より別れ際に「若い人たちをしっかり支援してくださいね」と強く握手をされました。そこでシナヤカにハグをする機転が利かなかったので、次回の別の会合での愉しみに残しておきます。

「隗より始めよ(先従隗始)」。

本来の『戦国策』での郭隗さんの昭王への建策(就職活動?)の意味とは、異なった用法が一般化しています。曰く、大事業を起こすには、身近なところから着手するべし。言い出しっぺから動きなさい。
渡辺さんが、両国の関係はこのままではいけないと考えたこと(0→1)
身近な仲間が話を聴いてくれたこと(1→3)
3人が動き出して、賛同者が増え、分業が進んだこと(3→24)
更に賛同者が増え続けていったこと(24→150)

このプロセスはどれも重要ですが、やはり(0→1)に無限の可能性を感じます。

二日後の深夜にメールが届きました。
「突然の会場変更などありましたが、多くの方のご支援、ご指導により無事開催することができました。当日は、中国人学生30名、日本人学生30名の計60名の参加でした。当初、当活動には中国人学生109名、日本人学生41名の計150名が登録していました。ですので、報告会には100名ほどの参加を予想していたのですが、急な会場変更などで参加人数が減ってしまったのではないかと考えています。
ただ、当初予定していた100名の合唱を披露することができませんでしたが、私たちの想いは伝えられたのかなと思います」

太閤園、大横川、富岡八幡宮、柳橋「大黒家」店先、代々木上原からの小田急線沿線、茨木弁天と、今年は櫻に恵まれました。櫻狩の仕上げは北京西方の玉淵潭。金朝時代から続く景勝の地。石碑によれば、東湖と西湖に分かれた敷地北西の一角に、1973年日本から多くの大山櫻が植樹された、それ以降に山東櫻などを植え足して「櫻なら玉淵潭」と呼ばれるまでになったようです。
湖岸の八重櫻の下で、焼き栗を剥きながら、対岸から流れてくる毛沢東賛歌の懐メロ斉唱を聴くとも無く聞いていました。

                (注:在北京日本人大学生「その1」は、2014年1月17日のブログ、「国際」項で、
『北京たより』 骨格 その2 清華大学中日友好協会日本語スピーチコンテストに観る「骨格」、
として掲載されています。)(井嶋)

 

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■「僕らの日中友好@北京・我们的中日友好@北京」
・Flickr(写真):https://www.flickr.com/photos/109475294@N02/sets/
※これまでの活動全てを振り返ることが出来ます。
チェックしてみて下さい!

■「僕らの日中友好@上海・我们的中日友好@上海」※2013年3月に行った上海での活動
・优酷(映像):http://v.youku.com/v_show/id_XNjI4NDE2ODEy.html
・YouTube(映像):http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=jWOfNwIAzJc

■Next Vision Asia
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2014年4月16日

「私」の、自然な老い大願成就・・・・ ―最後?の「私」を求めて― [2] 老いの中で甦る二人の面影

その一人:「私の孤独」を愛した数学徒

井嶋 悠

彼は、繰り返しジョルジュ・ムスタキの「私の孤独」を聴いていた。
当時のことだから、45回転EPレコードである。
何度か聴いて、窓際でギターをつま弾くのである。「私の孤独」を、ポソリポソリと。

窓際といっても、2階建て安アパートの2階、4畳半一室の窓で、外は隣との距離1mほどの同じようなアパートの、古く所々ひび割れたモルタル壁が立ちふさがっているだけである。
彼は、その薄暗い一室でいつも「私の孤独」を聴いていた。独りで。訪問者はほとんどいない。

40年余り前、昭和44年(1969年)頃のことである。

そのアパートは、戦後間もなく建てられた都心の木造で、トイレも流し場も共有で、もちろん風呂などあろうはずもない。家賃、月3000円。南京虫の(当然ダニ、ノミも)猛襲は言うまでもない。
翌朝、顔や体の到るところ、赤く膨れ痒い。根気強く、いささかの個人出費を覚悟で、毎晩、いぶり駆逐をすると数日で奴らは退散するのではあるが。
私は、関西の大学院を1年で中退し、志があるようなないような意気軒昂さで、彼の隣室、同じ3畳一間に入居した。

それが、彼との出会いである。

その時、彼は東京大学大学院修士課程2年生の、ほぼ私と同年齢の、数学徒であった。
彼は、銭湯時と夕食時と、週に2日ほどの通学以外、部屋で過ごすことがほとんどであった。
部屋では、机兼用の炬燵が一つ中央を占め、あとは壁際の小さな書架に何冊かの専門書と必要最小限度の食器類、そして押入れ前に若干の衣服が吊るされているだけである。
そこで、ジョルジュ・ムスタキの優しさ溢れるしゃがれ声をひたすら聞き、沈思黙考しているのである。

そういう私も、似たようなものであったのだが、違ったのは2点。一つは、家賃と生活費の最低限度を稼がなくてはならないこと、一つは、所属なしであったこと。

そこに到る彼が語った、と同時に私が惹き入れられた彼の自伝

出身は、長崎県の小中学校は在る離島。

(彼は島の名を言ったのかもしれないが、覚えていない。少なくとも私からは聞いていない。そもそも離島と聞いた時、彼が連絡(ポンポン)船に乗って行き来している姿が海とともに広がるばかりで、島の名はどうでもよかった。)
高校は長崎市内の伝統ある公立高校で、下宿生活。
理系、特に数学に関心が向いていて、進学先は東大理学部以外考えられなかった、と言うか、他が浮かばなかった由。
その理由の一つが、校内外での「実力試験」での、彼の実績がそうさせたようである。

曰く、
「5教科[国語・数学・理科(2科目)・社会(1科目)・英語]の総合平均点は常に95点以上であった。」
そして私の驚嘆に対して、
「だってそうだろう。国語と英語は、答えが一つではないから100点は難しいが、他は、答えが一つなのだから、100点が自然だろう。」

身長175センチほど、やや筋肉質の痩せ型にして猫背の体を横たえ、黒縁の眼鏡越しの優しい眼を伏し目がちに、訥々(とつとつ)と話す彼の言葉に、誰が疑問、不審を抱くだろう!

自省し、痛切に重ねて思う。

言葉、その語彙、声調、表情は、その人となりを直覚させる。「文は人なり」の前に。

ごくごく自然に現役合格。「駒場寮」に入寮。
そして、2年次で休学。

理由は、一体自分は何をしていたのだろう!?との自己嫌悪、悔悟。
曰く、

「寮内には凄い連中がいるんだ。高校時代、ひたすら、音楽をしていた、自治会活動をしていた、部活動をしていた、……受験勉強? しなかったなあ、……。
突き刺さり、思い知らされた。自分の高校時代って何だったんだ?! 高校と図書館と本屋と下宿以外、何も知らない自分って何だったのだ。襲い来る悔悟、ほとほと自分が嫌になった。」
1年後に復学、在学5年、大学院に進学。

寡黙で、且つ人見知りの強い彼から話し始めることは少なかったが、いつしか心通じ合う時間が積み重なって行った。

もっとも、私の方は、己が可能性を、何の根拠も、刻々の切磋琢磨もないにもかかわらず、どこか信じている能天気の滑稽な風来坊ゆえ、彼にとっては曰く言い難いものがあったかもしれない。

その彼が、或る決まった日に(それが、毎月だったか、2か月に1回だったかは記憶があいまいなのだが)、光り輝く表情になる。
その日が来ると、喜悦満面、早々に部屋を出、数日帰って来ない。そして帰って来たときは、いつにもまして穏やかな表情の彼を新しい服が包んでいる。

何回かそれに接し、彼から聞いた微笑ましい真実。
その日とは奨学金支給日で、それを受け取るとそのまま彼女の居る大阪に行くのである。彼女は中学の同窓生で、中学卒業後、大阪に就職しているのだ。
彼女が彼のために服を選び、買っている姿を、思い浮かべ、どれほど微笑ましく思ったことだろう。
もちろんほのぼのとした羨望と憧憬をもって。

彼と出会って1年ほど経った深夜3時ごろ、彼が来て言う。いつものように訥々と、淡々と。
修論ができた。読んでほしい。」
渡されたのは、市販のA4版レポート用紙10枚ほどに、数式等手書きの論文である。
分かろうはずもない。
「で、どうするの?」
「朝一番で提出してくる。」

何日か後。
「OKだった。島根大学に赴任する。博士課程に進んで研究する気持ちはない。」

今はどうなのか知らないが、当時、同大学生の間では、地方大学に赴任するのは“都落ち”と言われ、希望者はまずないとのことで、希望すれば即決定であったそうである。

その2,3か月後。

私は彼の見送りで東京駅にいた。見送りは私一人であった。やはり東大在学中(文系)で、後に官僚となる弟さえもなく。
新幹線の扉が閉まる時、「じゃあな」と言って、彼は西に向かった。
私は、いつものように八重洲口前に出た。その時、襲い掛かった巷間に浮遊する、あまりにも馬鹿馬鹿しく愚劣な自画像。絶対の孤独感。そして罪の意識。

いつものように人は歩き、車は走り・・・。私の記憶画面にその時の音が、一切ない。
すべてを消去したい気持ちに突き動かされる自身があった。しかし、明日への時間は、そのままそこにあった。実家に帰ることにそう時間はかからなかった。

実家に帰って数か月後、高校時代の恩師からの電話が、まずは半年間の非常勤講師に、そして後33年間の教師生活に導くことになる。
その先生が、次回に記したい「高校時代の怪人・怪物恩師」である。

2年ほど経って、松江に彼を訪ねた。
地図を広げて「まだよく分かってないんだ」と言いながら、松江を案内してくれた。
年賀状など書簡交換が続いた。そこには「今、松江城の油絵に挑戦している」といった、いかにも彼らしい便りもあった。
また、便りで彼が結婚したことを知ったが、相手の女性はあの大阪の女性ではなかった。
書簡交換が10年くらい続いただろうか、年賀状が来なくなった。
その翌年、一度もお会いすることがなかった夫人から彼の死去の報告と挨拶が来た。死去理由は書いてなかった。

私の中で、不思議なほどに静謐な哀しみが通り過ぎて行った。

「私の孤独」の3番(最後の節)で、ジョルジュ・ムスタキは次のように歌っている。
夫人の激しい悲憤を予測しつつ引用する。

――……彼女(注:孤独を指す)は私の死に際しては / 私の最後の伴侶となるだろう

いいえ、私は決してひとりではない / “私の孤独”と一緒なのだから ……――

人間の、絶対孤独感の恐怖、と同時にその魅惑、自己絶対観の愚劣、その実感から知らされる“かなしみ《哀・悲・愛》”の自覚そこから生まれる生きる力。己が生への創造の期待。

それがあっての再生を心に秘めたにもかかわらず、33年を振り返れば、結局は時どきの言い訳を弄しての自己弁護であったとしか言いようがない、それが私の教師人生だったかもしれない。
日毎に、教師であることでの権威や甘え、驕慢にのめり込んで行く自身が、そこにあった。気が付くのは、いつも後だった。

因みに、23歳で辞世した娘は、その晩年、絶対の孤独の恐怖を口にし、私は黙ってそれに頷き(うなずき)、聴き、自身の半生を振り返っていた。
以心伝心、彼女はそれ以上言葉を続けることはしなかった。

私学中高校は、公立学校と違って他校への異動がほぼない世界にもかかわらず、私の場合、3校も経験できたのは、その折々で尽力くださった方々があってのことなのだが、同時に己が再生への奮起、期待があったとも言えなくはない。
もっともその実現後にあったことは、現実の凄味に打ちのめされる私の弱さであったのだが。

天は私に後どれほどの時間を残しているのか、それは天の領域、裁量は天意である。
必ずやって来るこの世からの旅立ちは独り。
しかし、“お花畑”の先に、娘が必ずや待っていて、父や母、妹の元に案内してくれるに違いなく、
その道すがら、「私の孤独」を愛した彼に、昔のあの調子で「やあ」と言って出会うことだろう。

そんな“新世界”への夢を力に、孤独という言葉は私から消え、自ずと然りの時を迎えることを思う。
娘の苦笑を思い浮かべ、1、私 2、賢妻 3、長男、の長幼の序(順)遵守の願いがかなうことを前提に。

ただ、私が再会を希った彼女ら、彼らが、新たに“この世”か、はたまた別の世界に移動していたら、いささか狼狽(うろた)えるかとは思うが。

「私の孤独」は、今も愛聴者が多いと言う。否、ますますかもしれない。
しかし、私たちが世話になったあのようなアパートはもうない。

 

2014年4月2日

「私」の、自然な老い大願成就・・・・―最後?の「私」を求めて― [1] 老い・憂愁・檄

井嶋 悠

初めに私事を記す。

この寄稿の後ろ側には、4月は私に大きな歴史を一層呼び覚ます二つがあるので。

一つは、4月1日が、私たちの結婚35年目であること。

 どれほどまでに多くのことがあったことだろう。お釈迦様の(てのひら)の悟空に過ぎないのだが。

一つは、4月11日が、娘の3周忌であること。

 どれほど父親として、教師として、私を内省し、自責したことだろう。もちろん今も、であるが。

 

孤独を言葉に表すのは人間特有のことかもしれない。
私は人間の言葉しか知らないし、それも日本語と言う限定の中でのことであるが。

これまで40年、犬を家族の一員にして来た。

今の“家族”とは寝所が同じ仲で、本人からすると「我が床に居るにしては、(いびき)、態度が解せぬ」と思っている節がある、そんなフレンチブルドッグとシーズーの、今風に言えばミックス犬の彼女である。
これまでの“家族”も、今の“家族”も、孤独を明らかに意識していると思われても、人間のように露わにはせず、天意、自然に身を委ねている
そして私は、人の勝手さでそれを畏敬し、救われて来ている。もっともそこには彼ら彼女らの眼差しが、時に負い目として残っているのだけれども。

孤独について、病と死とに直面していない、それも「高齢界」に入ってまだ3年の私ながら、夜中不図鬼気迫る怖しさのような感覚に襲われることがある。
それは老いを迎えている証しかとも思う一方で、そこには大きな病を抱え、自身に、家族に死を日夜直々に予感している人々への傍若無人の無礼な私がある。

そんな愚昧でエゴの私ではあるが、夜半には、天井に心の断片を映したり、本を読んだり、音楽に聴き入ったり、はたまたDVD洋・邦映画を観たり、自然な眠りの境に入るべく努めている。これも酒の勢いに任せていた若輩時の退廃(デカダン)からの老いへの自然な一つの歩みなのかもしれない・・・。

老いを迎えた文学者(山本健吉)の随筆の冒頭は、こんな言葉で始まる。

――老年の居場所とは、もっと安らかなものだと思っていた。だがこれはどうやら私の見込み違いであったようである。老年とは、その人の生涯における心の錯乱の極北なのである。……――

彼女はそんな私を同床で観ているはずだ。(我が家では、愛情云々といったような難しいことではなく、10有余年前からごくごく自然に夫婦寝室別室、との贅沢な住環境にある。)

私は、老い相応に(かわや)を数度往復し、賢妻から「年寄りにしてはゆっくりねえ」と、老い不相応の驚嘆・揶揄される時刻に、彼女のやっと起きたかとの視線を受け、起きる。
何とも優雅な老いである・・・・・。
にもかかわらず、孤独に打ちのめされ、何の脈略もなく不意に、自暴し、自棄に馳せようとすることもある。妻や長男や亡き長女への言い訳を巡らせながら。

何という放縦(ほうしょう)。襲い掛かる自己嫌悪。

とは言え、そんな私に(あらが)う私もいるから、今ここに、こうしてある。

最近、その孤独を、まだまだ意図的ではあるが、自家薬籠中にしようとしている私に気づくことがある。
孤独の愉悦を直感することが、少なくとも以前の“青い言葉”を越えて増えつつある。

つい先日、本で出会った心激しく揺さぶられた言葉。
だんだん暗くなってゆくけれど、怖くはないからね、安心してまっすぐ歩いて行くんだよ。やがてお花畑にきたら、そこでお休み。みんな一緒になかよく遊ぶんだ  よ・・・・・」
これは、幼い息子を病で亡くした和尚の父が、その息子の臨終の際に掛けた言葉とのこと。
私は、娘が23歳で辞世するその直前、彼女が私に何かを語り掛けたその時、彼女にどう応えただろう!

老いと憂愁は対のように語られることが「輿論」にして「世論」の一般なのかもしれない。

そこに漂う静謐な死への、心地良い響きからの誘い。癒しに向けた「空」の諭し(さと)、心遣い。

長年「人間〈じんかん〉」に生き、過去と現在の無数の人々に、時に生きる力を、時に死への遁走願望を重ねて来た、そんな私たち、老若を越えた自然な情として、誰もその厚意を咎めることはできない。
「苦」の世界から絶対平安「浄土」の世界への、仏の、天の言葉の魅惑

そこには、同情ではない愛情があるようにも思える。途方もない後ろめたさを抱えての。
その時、じんかん〈世間〉の、言葉巧みな「捨て・棄て」を直覚する老人もいる。

愛と福祉に名を借りた一律価値への誘導に見る、老いの多様な個性を認めない?頑な(かたく)さ?偽善?残酷?
高齢化(長寿化)と高度医療技術化と老いの意思に係る課題。現代。

これは、私の知見の狭さなのかもしれない。
或いは、憐憫の情で伝えるマスコミに感化された一面だけを見ていないのかもしれない。

資産の多少とは別に、医療や言葉、生活習慣等での不安を抱えながらも日本に見切りをつけ、心の安寧を求めて海外に移住する老人[年金生活者]も多いと聞く。
国政を担う議員たちが、あまりにも自明な義務・職務を、正義派よろしく厚顔無恥そのままに公然と叫び、公約として文字にし、結局は陽の当たる場所・人には一層陽を与える、そんな現代日本にあって、移住を決意する人々の心情に共感する人は、私を含めて多い。

いずれの地にも桃源郷はないと承知していながらも、「足るを知る」は永遠の絵空事かのような拝金・虚飾に歯止めは効かず、軽佻浮薄に(さいな)まれ日本で老いを過ごすよりは、とのほのかな期待をもって。

憂いの表情と声調で道徳心の退歩を物知り顔で嘆く大人たちの、「悲・哀・愛」の『かなしみ』を忘れた、自己絶対・正義からの人為的作為的愛国心教育、指導の、何という錯誤、醜悪。

子どもたち、若者たちを侮っていることに無神経になっている私たち大人の傲慢、浅はかさ。
彼ら彼女らの感性は、言葉(理知性)を聞くと瞬時に、心の深奥で真理を直覚しているのだから。

私たちは自身の昔をこうも簡単に忘れ去るものなのだろうか。
生きることの寂しさ、その裏返しとしての年を経ることで無自覚に堆積される驕慢、尊大・・・。
老いは、幾重もの生・地層を経たからこそ体感できる、透明で、静かで、時に聴く者に「無」の永遠の活力を知らしめる、そんな言葉を直覚する恍惚を体得しているにもかかわらず。

幕末から明治にかけて来日した西洋人たちの、日本への慈愛溢れる言説を14のテーマに分け、現代を考えようとした書『逝きし世の面影』の著者、渡辺 京二氏は、書中でこんなことを言っている。

―・・・・ダーク・サイドのない文明はない。また、それがあればこそ文明はゆたかなのであろう。だが、私は、幕末、日本の地に存在した文明が、たとえその一側面にすぎぬとしても、このような幸福と安息の相貌を示すものであったことを忘れたくない。なぜなら、それはもはや滅び去った文明なのだから。――

そして、夏目漱石は、死の5年前、明治44年(1911年)、45歳!の時、『現代日本の開化』との表題で、日露戦争勝利後の浮ついた日本に警鐘を鳴らし、
森鴎外は、大正11年(1922年)60歳、辞世の直前、「馬鹿馬鹿しい」と、何がそうなのか分からいそうだが、呟いたという。
また、江戸市井の老若男女をこよなく愛した漫画家にして江戸考証家の杉浦日向子は、9年前の2005年、46歳!で世を去った。

と、かように老いることを実感し始めた私。
いつの世にもある?!老いの繰り言……?

しかし、憂愁があってこその明日への、明日がいつまでかは天意次第だからこその気楽さで(もっともこれがとんでもない難題なのではあるが)、過去の〈じんかん〉から解き放たれた生きる力があっても良いのではないか。
〈じんかん〉経験の蓄積は十二分なのだから、との思いが過る。

過去への自負、こだわりからの老いの意固地を、さらりと葬送しての。
過去を思い出すたびに、無恥と未熟に赤面し、自責する私はことのほか切々とそう思い、願う。

誤解を怖れず言えば、かように自負し、固執するのは概ね“爺”に多く、“婆”は微笑み、寡黙である、と経験上から直感する私の中では、このことも母性と父性につながっている。

老いゆえの過去に呪縛されない気概を持つことでの生きる実感。
老いだからこそ生まれる創造へのときめき。

それは、多様化・複雑化するグローバライゼーションの現代にあって、経済共同体としてだけではなく、或いはその土台の一つとして、東アジアを問い直すことの意義が言われる中、諸事情から停滞している「日韓・アジア教育文化センター」に、昔とは違った光明を与えるのでは、との期待ともつながる。

ただただ仰望するだけの無礼と智者からの嘲笑を思いつつも、例えば次の三人の日本の老いの偉人たち。

古代大和の時代、最晩年6年に、人の営みへの愛と哀しみを歌い74歳で辞世した山上憶良

室町時代、能楽から無窮自然の美意識「老いの花」を唱え、70歳で佐渡流刑後、80歳で辞世した世阿弥

室町時代、87歳の臨終に際し、森女の膝の上で「死にとうない」と言って辞世した一休〈さん〉禅師

そんな私に、深夜また、日中(ひなか)道すがら行き交う人に触発され、「お前はどうするのだ」と不可思議な力で甦って来る、過去に私に力を与えた、今は亡き何人かの面影が通り過ぎて行く。

その中で、次回、「夭折した数学徒」、「高校時代の怪物恩師」の二人の面影を記してみたい。

私の老いの力とするために。