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2017年6月25日

「かわいい」 ―パンダ母子映像報道から―

井嶋 悠

「ブログ」とは、「Web」と「Log」(日誌)を組み合わせた言葉。
2012年4月11日、娘、永眠の日。そこに到る日々、彼女に寄り添う日々にあって、冷厳な事実を突きつけられた私たち。失意と落胆、そしてむくむくと湧き起る学校への、教師への憤怒。親として、人として、教師(中高校)としての、自照自省の始まり。
その一つの形が、1991年からの日韓中台の「日本語」に係る人々と創設した『NPO法人日韓・アジア教育文化センター』(2004年)の【ブログ】への、2013年9月からの投稿である。
それは私の勝手な(と言うのは娘の真意の確認はできないので)娘の鎮魂、供養が初めにあったのだが、進める内に私の生の自己確認ともなり、意志継続薄弱な私としては人生稀有なこと、現在に到っている。そこには文字通り「有り難い」、何人かの方々からの共感と励ましがある。娘の苦笑が浮かぶ。
そもそも「日記(日誌)」は、自身が自身のためにするものだが、近現代?の世からは、読者を意識して書く人々(多くは作家を生業(なりわい)とする人たち)も多くあるとか。私にはそのような度量も器量もないが、投稿する(書く)ことで、再来月72歳を迎えるそれ以降への糧に、少しは貢献しているようだ。
先日、この稀有な体験を後押しくださっている同世代の、今も現役で仕事に精励する方と、旧交を温める機会を得た。
今回の投稿は、その方への、その方を介しての何人かの方々への、改めての感謝が初めにある。

 

日本は、かの「バブル景気」の様相に近づいているとか。
東京都区内の、首都圏の交通至便な駅周辺に林立される“高層(マンション・)住宅(オクション)”が即日完売される現実を、マスメディアから聞けばそうなのかもしれない。しかし、遠近様々な人たちの無形有形の援(たす)けによって借金(ローン)も終え、しかも自然に生かされている人を(逆はない)体感する地に今在るとは言え、到底そうは思えない。心のひだを共有する人々との会話からも。バブルはいずれ必ず崩壊する。人為の驕り。
この地には、首都圏から移住した(ほとんどはリタイア組)人々が集まる“東京村”なるものが何か所かあることを聞いた。かなりの高い比率で地(じ)の人々には不評である。その理由はよく分かる。

「憂き世」は人が人である限り世の常だからこそ、「浮き世」と書くことに己を鼓舞する人間の機微を、慈しみを、そして哀しみを、思い知る。
誰しも「哀・悲しみ」を求め生きてはいない。「かなしみ」に「愛」の字を充てた古代人(びと)の叡智。そこに東西南北異文化はない、との観念(知識)の言葉は今、私の言葉として在る、と思っている。
手元の『古語辞典』(旺文社)での、「かなし」の字義説明の初めの箇所のみ引用する。

1、【愛し】相手を愛し、守りたい思いをいだくさま。いとおしい。かわい
い。
2、
【悲し・哀し】泣きたくなるようなつらい思いをいだくさま。かわいそ
だ。いたましい。
1、から「いつくしむ」「いつくしみ」との言葉に導かれる。『現代 国語例解辞典』(小学館)には次のように書かれている。

【慈しむ・愛しむ:愛情を持って大切にする】。慈愛。ここにも異文化はない。
連日、上野動物園のパンダ親子の報道は、与野党・政治家の「正義」を掲げての醜態に、それに与するジャーナリストたちに、日本は終わったとまで言わしめ辟易している私や私たちに、浄福と生きる力を与えている。

民俗学者の(高級官僚でもあった)柳田 国男(1875~1962)が言う、「すみません」は「心澄まない」との意に従えば、恐縮、謙譲の日本人性を表わしていることになるが、今、どうなのだろう。「国民の・都道府県民の、市町村民の、ために」との、己が公僕[要は彼ら彼女らの給料は私たちの税金]を忘れ、当たり前すぎることを臆面もなく言葉にし、自党にあってさえの罵詈雑言を繰り返す“ヒーロー・ヒロイン”!たちの、言葉観の源泉、背景にあることとはどういうものなのだろう。それも「国際的(欧米的?)」の一つなのだろうか。
かつて、その「国際」の先端を標榜する学校に勤務したときのことが幾つも思い出されるが、国語力の[表現と理解:話し・書き上手と聞き・読み上手]の最悪例に、自身を貶(おとし)めたくないので止める。

日に日に成育する子どもの愛くるしさ。何年か前からひたすらに発せられる、とりわけ若い女性の常套的讃辞表現「かわいい」。漢字で表わせば「可愛い」。

白川 静(1910~2006)の『常用字解』で確認し、抄出する。(尚、氏の学説に関してあれこれ批判があるそうだが、批判は世の常だし、学者でない私としてはあずかり知らないことである。)

【愛】国語では「かなし」とよみ、後ろの人に心を残す、心にかかることをいう。
【可】願いごとを実現す「べし」と神に命令するように強く訴え、それに対して神が「よし」と許可する(ゆるす)のである。許可とはもとは神の許可をいう。

古代人(こだいびと)が、天変地異に遭遇しても懸命に生きる切々とした純真さが伝わって来る。今も私たちは、毎年のように自然災害、更には人為災害に襲われているが、人が行なう科学・技術開発と発展への最前提を忘れ、自己(人間)過信に堕していないか。ここで、前世紀既に自省を深めた西洋[欧米]社会のことをことさら出すまでもないだろう。

清少納言は1000年余り前に言っている。「なにもなにも、小さきものは、皆うつくし」。それにさかのぼること半世紀ほど、日本最古の物語『竹取物語』(かぐや姫の物語)。

「うつくし」。先と同じ古語辞典から引用する。

  1. 【愛し】いとしい。かわいらしい
  2. 【美し】立派だ。

清少納言が『うつくしきもの』(149段)(これも高校古典教科書で必ずと言っていいほどに採り上げられる)の中で挙げる、幼い子どもの幾つかの描写とあのパンダの子どもの愛くるしさに、女性ならではの母性をつなげることは、余りに偏向的なのかもしれない。専門家の解説から、清少納言の美的感覚は彼女特有と言うのではなく、当時の洗練された一般的(貴族社会だけ?)美的趣味そのものであった、と知ればなおのこと。

しかし私は、あの母のしぐさ、眼の時に育児疲れさえ感じさせる慈愛の表情「いとおしさ・かわいさ」に心揺さぶられる。もっとも清少納言や当時の貴族には想像を越えた巨大さだが。
この母のかわいさは、別の小舎で笹をひたすら(無心に?)食する能天気な父親の姿で益々増幅される。

 

前回、樋口一葉に触れた。彼女の身長は当時の女性の平均身長140㎝台だったとのこと。それが凛とした美しさと可憐な印象にひときわ光を与えているのかもしれない。また大正天皇の従妹で、2度の結婚を経て、1921年(大正10年)36歳の時、7歳年下の宮崎龍介〈孫文を支援した革命家・宮崎滔天(1871~1922)の長男〉との、運命的恋を得たとはいえ、波乱の人生を送った才知と美貌と意志の歌人・柳原白蓮(1885~1967)も140㎝台だった由。
などと言えば、先の偏向同様、旧世代の男の勝手・独善の極みではあるが。
因みに、夏目漱石は男性平均150㎝台前半の時代にあって159㎝あったとのこと。そして現代、30歳の平均は、男171㎝前後、女158㎝前後だから、漱石は今風で言えば180㎝近くの、痩身のすらりとした“イイ男”だった。

そう言う私は162㎝で、小中高時代の整列ではいつも最前列で、男女を問わず高身長の人を羨ましく見ていた。しかしそれも他者の心知らずで、165㎝ほどあった娘は猫背で歩き、もっと胸を張って歩けばいいのに、との私たちの言葉には馬耳東風だった。
閑話休題。

柳原白蓮には『ことたま』(言霊のこと)との、大正・昭和(戦後も含め)時代に書かれた自選エッセイ集(2015年刊)がある。その中で、例えば、「昔の女、今の女」(1953年)など、戦後8年にして今を見透かした慧眼と感性の言葉を見る。

私は、表立って「趣味は芸術鑑賞」と言う人や、ここ数年?ポピュラー歌手が自他で「アーティスト」と呼称する感覚が“凄い!”と思う偏屈老人の一人で、「すべての芸術は音楽を憧れる」やそれと同系列表現(元は、19世紀のイギリスの文学者ウォルター・ペイターの言葉)は、私の場合、本来の意味からは逸脱した勝手な解釈を承知しての共振直覚する一人でもある。それは原初的霊性的な「呪術」に近いかもしれない。
そこに、例えば文学において[5・7・5とか5・7・5・7・7]との律動(リズム)であればすべて、といった短絡さはないが。これは形式と内容と感性に係る難題であろうし、私が如き者には手に負えないので立ち入らない。ただ、「詩」を「うた(歌・唄)」とも訓(よ)むことになるほどと思う一人ではある。

 

音楽は人に、とりわけ「憂き」世を体感する人に、過去と現在と未来の自身について、時に後ろ向きの、時に前向きの情動、[感傷(センチ)と理想(ロマン)]を、時空を超えて掻き立てる力を持つ。そこに在るのは、無形透明の響きだけである。形としての言葉[詞]はその後である。

音楽の三要素は[リズム(律動)・メロディー(旋律)・ハーモニー(和声)]と言われ、その美的直感も当然多様で、私の場合一つの比喩表現で言えば「クラシック音楽の古典派(クラシック)」が基調にあって、だからだろう、ドラム・太鼓には、乾いた潤いとでも言うような魅力を感じさせる。
『イマジン(IMAGINE)』はジョン レノンの、ビートルズ時代晩年の『レット イッツ ビイ(LET IT BE)』と同様に、心に沁み入る私の好きな曲であるが、いずれもそこにオノ ヨーコ(1933年~)がいる。最近、「イマジン」の着想、制作での共作が公的に発表された。

(因みに、彼女についてはあれこれ善悪批評もあるが、彼女の(話す)日本語の美しさは秀逸とのこと。それは「東京・山の手言葉」とも言われるが、下町生まれ育ちの江戸っ子三代目を大切にしている妻、その両親(家系的に秀でていて、そこで得た価値観を大切にしていた)の子ども(息子・娘)への厳しい躾の一つが、「さあさあ言葉」の厳禁だったとのこと。(とりわけ娘〈そして広く女性〉の)

もう一つ。1930年代のジャマイカで生まれた、労働者・農民を核とした宗教的思想運動『ラスタファリ運動』を音楽から支えた推し進めたボブ マーリー(1945~1981)の心沁み入る曲は『NO WOMAN NO CRY』。幼少時に父が亡くなり、その後の彼を支えた、音楽家でもあった母親の存在。

いずれも、私にとって先ず[三要素]があって、その後に詞を知ることでの沁み入る、である。

これらの曲を「かわいい」と言う人は、どんなに今様?の若い女性でも、まずいないと思う。「かわいい」の語義をどこかで皮相的一面的にとらえ始めているからではなかろうか。社会と言葉の、人の変容。

「重・厚・長・大」から「軽・薄・短・小」へ、は日本の技術の高い讃辞表現。これを心のことに流用すれば、今日の「かわいい」は文字通り軽薄短小で、それは中学生棋士藤井 聡太君(2002年~)登場で、将棋教室の大繁盛=親(とりわけ母親)が通わせるといった、“芸能人マスコミ”に翻弄される女性(だけではないが)への不快不安的疑問に通じ、同性からも多く発せられているが、後を絶たない。
なぜなのか。「時代」、との表現ではあまりに悲観的虚無的に響く。

 

「男女協働社会」は当然必然のことで、国連からの人権問題指摘からも明らかなように日本はまだまだ発展途上国(後進国)である。「男社会」歴史の意識変革のあいまいさがそうさせている、と人格的能力的に優れた女性に多く出会って来た私は思う。これも自照自省からの(これは改めての)大きな自覚の一つである。
男・女すべて一括りに観る危険は承知しているとは言え、やはり最近事例、女性国会議員の暴言、非道行為は、明らかに犯罪で、学歴的職歴的に「非の打ち所がない」(テレビでのコメンテーター?表現)の彼女がなぜ?と思いながらも、個人の異常で終えようとしていることには疑問が残る。
先に記した、柳原白蓮の「昔の女、今の女」(1953年)の結びの一節を引用してこの投稿を終えたい。

――表立っての実行は男がやりますが、それを動かす力は古今東西にわたって女にあるのですから、女たる者の責任は重大です。
一口にいえば昔の女は馬鹿で、今の女は利巧です。自己満足のためには、他を犠牲とするとも、己れは犠牲を欲しません。しかし、智慧の実をあんまり食べすぎるとまたしても神様からエデンの国を追われるかもしれませんよ。――

「かわいい」の、真(まこと)の女性をそこに見るのだが、どうだろう?

日本国憲法をノーベル平和賞に、と数年前提案した人は、母親でもある国内在住の日本人女性だった。

 

2017年6月6日

中華街たより(2017年6月) 『ハナミズキ Ⅱ』  併せて  【上海の街角で】『接続性』

井上 邦久

【中華街たより】

外国語の習得や読書の環境として独房が適していることは良く知られ、古今東西多くの人が独房での逸話を残しています。4月末から5月下旬にかけて、大阪中之島の住友病院で独房生活を送りました。昨秋以来、波長の合う整形外科医と内分泌内科医と相談や準備を重ねてきた関節部品手術を実行し、並行して生活習慣病の改善も図りました。2014年から続いた半世紀分のオーバーホールの最終修理が終わろうとしています。

 

入院前に持ち込み書籍は厳選しました。加えて有難い事に、見舞いに多彩なジャンルの書籍を持参して頂きました。その一端を挙げて「自選他薦」書物の簡単な読書感想のメモを綴りました。

  1. 『仰臥漫録』 正岡子規(岩波文庫 1927年)
  2. 『此ほとり 一夜四歌仙評釈』 中村幸彦 (角川書店 1980年)
  3. 『ウニはすごい、バッタもすごい デザインの生物学』本川達雄(中公新書 2017年)
  4. 『「接続性」の地政学 グローバリズムの先にある世界』 パラグ・カンナ(原書房)
  5. 『日中いぶこみ12景』 相原茂+蘇明(朝日出版社 2015年)
  6. 『プロ野球2017選手データ名鑑』 (宝島社 2017年)
  7. 『仙人になる方法』舟橋克彦・作 太田大八・絵(赤い鳥文庫・小峰書店 1988年)
  8. 『[新版] 世界憲法集 第2版』 高橋和之(岩波文庫 2015年)
  9. 『自省録-歴史法定の被告として―』 中曽根康弘(新潮文庫 2017年)
  10. 『中国の伝統文芸・演劇・音楽』 赤松紀彦編(幻冬舎 2014年)
  11. 『動物のお医者さん』 佐々木倫子(白泉社 1987年)
  12. 『植物はなぜ薬を作るのか』 斉藤和季(文春新書 2017年)

 

  1. 床に臥す時、枕頭に置き、気まぐれに繰り返し読みます。余命いくばくも無い子規を慰める陸羯南一家の思いやりに感じ入ります。示し合わせた訳ではないのに、俳句同人が見舞いに『病床六尺』や新刊『子規の音』(森まゆみ)を持参してくれました。

 

  1. 蕪村ら四人が、安永年間の京都で、或る一夜に巻きあげた四歌仙(36句x4巻)についての評釈本。実に味わい深く、勉強になりました。今回も入院中に、いつもの連衆とメール連句を始め、退院前日に挙句まで巻き上げました。その創作実作の参考書にもさせてもらいました。

 

  1. ゴキブリが褐色である理由は?蜂の羽の上下動速度の仕組みは?サンゴが生き抜く為の共生手法は?など、身近な昆虫を通した気付きからヒトの股関節生成の玄妙さまで、興味深い説明が続き、発見やヒントが次々にありました。中でも「サンゴ礁学会」は、岡山大学・琉球大学を拠点としており、その源流は戦時下のパラオ熱帯生物研究所に所属した川口四郎さんによって1944年(!)に世界的な発見が為された事に始まる‥等。

 

  1. インド人の冷静な文章で技術の進化と中国の拡大を、できるだけ客観的に捉えようとしています。冷戦終結のあと、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』が長く羅針盤にされてきました。しかし既に技術の進歩と国家間のバランス変化は、新しい指針や地図を必要とし、一つの試みがこの著作かも知れないと感じました。病室から寄稿したhttp://www.shanghai-leaders.com/column/life-and-culture/inoue/inoue31/も参考まで。

 

  1. 昨年から指導を頂いている神奈川県立アカデミアの新谷雅樹教授の講座用教科書です。異文化コミュニケーションを「いぶこみ」と略す意味目的が不明ですが、語学を通じて文化を知る姿勢で、相原茂さんが熟成編集されたテキストです。第一回の授業で12章から逆に始めると聞き、独房で11章、10章と声に出して独習しました。6月に入って出席したら、予想通り12章を舞台に新谷教授の「藝」が続いていました。別の時間枠での、佐高講師による『時事中国語の教科書 2017年版』(三潴正道・陳祖蓓。朝日出版社)のテキストリーディング授業が着実に前進しているのと好対照で面白いです。

 

この小さな本は座右の書であり、生活の一部です。全選手の経歴・記録が
載っており、年俸の推移を見るだけでも味わい深いものがあります。

ここまでが「自選」のものでした。

⑦から以降は、それぞれの方から頂いた書物です。⑧だけは憲法記念日の前にリクエストしたものです。主宰するアジア塾での今期開塾講話(先生は「放談」と自嘲)として渡辺利夫先生は各国の基本理念と憲法制定の歴史を知る必要を述べられました。韓国憲法の前文などを読むと、その感を強く持ちます。⑪は話題の獣医学部(北海道のH大学とされています)の世界を坦々と描いた傑作漫画でした。

そして、⑫の植物の本です。・・・それは「動かない」という選択をした植物の「生き残り」戦略だった・・・ポリフェノール、解熱鎮痛剤、天然甘味料、抗がん薬まで―――。なぜ、どのように植物は「薬」を作るかを、植物メタボロミクスの専門家が最先端の研究成果で説きあかす、と帯に書かれていますが、③の表現を借りれば「ケシはすごい、ニチニチソウもすごい」ということを丁寧に分かりやすく伝えてくれます。

米国国立がん研究所が行った植物成分の抗がんスクリーニングによって見つかった化合物・・・1966年中国産のキジュ(喜樹)という樹木のエキスから発見しました、と88頁に書かれたカンプトテシンの項を読んで、思いは15年前の四川省楽山の山中に戻りました。
ライフサイエンス事業を本格的に立ち上げようと、医薬関連の資格と知見を持たれた三人の方に入社していただいて組織を整えました。上海での創薬事業に着手、イタリアからの肝臓薬原体輸入に続いてカンプトテシンの原料を中国から輸入して、日本で精製した後に米国の巨大医薬メーカーに届ける事業に注力しました。喜樹(インドハナミズキの一種と教えられました)を求めて、成都へ通い楽山の山中に入り込み、米国のFDA規制の世界で鍛えられた日本の専門家が、蜀国の農村工場の皆さんに製薬業務の基本ルールであるGMPとは何かを伝える第一歩から参画させてもらった日々が鮮やかに甦りました。

「呆気なやこれが告知かハナミズキ」2年前の拙句です。がん告知の時にハナミズキを思い浮かべた理由は言うまでもなく中国の山奥での体験に基づきます。

歩行練習の散歩の折、横浜公園の一隅に喜樹を見つけました。説明プレートにはキジュ(別名カンレンボク)、・・・横浜ゆかりの生物学者、木原均博士が77歳の喜寿のお祝いに喜樹を贈られた。・・・その後に、実生苗木を昭和天皇に贈って喜ばれ、横浜市にも一本を寄贈された。近年、この樹に含まれているアルカロイドに制癌作用があるというので注目されています。(1996年)と書かれています。

身近な処に縁のある事柄があり、それを見つけては喜んでいます。
(了)

 

【上海の街角で】

3月下旬、第115回の華人経済・文化研究会で、今年も「中国。この一年」と題する報告をしました。2013年から毎年3月に同じタイトルで定点観測を意識したお話をさせてもらっています。今年は、次の三項目を柱にしました。

(1)北京の掏摸(スリ、小盗)が減った
(2)「海」への進出が目立った
(3)華南の産業構造改革が注目されている

(1)人民日報以外の多くのメディアに寄稿や出演をしている、著名なジャーナリストの陳言さんから教わった話です。最近の北京では人が外出しなくなった。外出しても現金は少ししか持っていない。だから掏摸の採算性が悪くなり、掏摸の数が減少した、ということです。もちろん陳言さんがデータを公安警察で調べたわけではなく、彼独特の表現方法で、大気汚染・宅配サービスの急成長・モバイル決済の急拡大などを分かりやすく指摘したわけです。 自動販売機が急拡大していること、自動販売機の盗難が激減していること(モバイル決済のため、販売機の中には現金がない)と同じ理屈です。

(2)大陸国家であった中国が海洋国家に急激に変貌しています。沿岸警備船舶の増強と人民解放軍における海軍の地位向上(それも従来の北洋艦隊優先から南洋艦隊の重視へ)世界の海運物流市場で圧倒的なシェアを確立し、ギリシャ、パキスタン、スリランカ、ジブチなど世界各地で港湾拠点の確保を推進中。旺盛な魚需要を満たすための遠洋漁業船団の急膨張(魚の消費量も、漁船20万艘も断トツの世界一)。海軍・海運・海外拠点・漁業すべての面での「海」への進出が顕著となった一年でした。

(3)歴史的にも開明的であり、東南アジアなど海外に開かれた土地柄である華南。海外進出の伝統の担い手である華僑の故郷としての華南。従来から国有企業比率が東北や華北に比べてとても小さい華南。その華南では1992年以降、深圳を中核とする「特区」としての成長と巨大なサプライチェーンの構築が継続されてきたのは周知の通りです。この基盤の上に、活発なR&D投資による新産業の創生気運が党・政府の政策と相まって醸成されてきました。そこへ米国発祥のメイカー・ムーブメントの聖地としての深圳への投資人気が集中し、過剰なまでの期待が寄せられています。

以上のような切り口で、それぞれの具体的な事例を挙げて、中国各地からの湧水が集まって川になり、その水がナイヤガラのような瀑布ではなく、赤目四十八滝のようなカスケードを形成していることを私見も交えて報告しました。 恣意的な情報処理や世界的な視野から中国を捉えていない反省が残りました。
五月になって読んだ新刊に『「接続性」の地政学』パラダ・カンナ(原書房)があります。副題として「グローバリズムの先にある世界」とあります。 1977年インド生まれで、現在シンガポール国立大学上級研究員の著者は、従来から世界経済フォーラムにおける次世代リーダーの一人と見做されていましたが、CONENECTOGRAPHY Mapping the Future of Global Civilizationと題する原著により、更にその評価を高めているようです。
日本では、尼丁千鶴子・木村高子両氏の滑らかな翻訳で出版されるや否や、多くの書評に取り上げられ書店に平積みされています。多くの方が既に手に取られていることと思いますが、屋上にミニ鳥居を重ねるような私見と印象を以下にメモします。

(1)サミュエル・ハンチントンが『文明の衝突』で冷戦後の世界を捉えなおし、長く一つの標準として語られてきた。しかし、その標準だけでは冷戦終結から四半世紀が過ぎた現在の大きな政治的変容や技術的変革を説明できなくなった。パラタ・カンナは「文明」に代わって「接続性」を強調。

(2)新たな標準はサプライチェーンであり、グローバリゼーションの未来を語るのは「接続性」の度合いである、としている。

(3)経済が深く相互依存している世界のシステムの内実を解明して、表面的には政治的、軍事的に対峙しているように見える国家間の緊張した外貌とは異なる経済と技術の連携を説明。この点でかなり楽観的な印象が残る。

(4)この新しい世界を組み立てているのは中国であり、中国は新植民地主義者でなく新たな重商主義者である。経済合理性に合わない「領土」や「扶養家族」を増やす気がないとする。孫文が『三民主義』の中で「中国は列強の植民地ではない。(インドのような)植民地にもしてもらえない半植民地である」と喝破したことを想起し、孫文の曾孫たちがアフリカや南米を植民地にする気がないことに気付く。

(5)中国の華南地区の「特区」に着目し、華僑の存在に過剰なまでの可能性を期待している。・・・中国が4000万人の華僑の一部に二重国籍を認めれば、それは国内に新たな優秀な人材を呼び込み、高齢化する人口に活気をもたらすきっかけになるだろう・・・(上巻97頁)

(6)インフラとサプライチェーンについての記述が繰り返してなされている。通関手続きを半減すれば、貿易量は15%、GDPは5%上昇するが、輸入関税撤廃はGDPを1%上昇させるだけとか、中国の可動式の深海用掘削プラットフォームであるHYSY-981は、今日の地政学においては移動可能なサプライチェーンの島であるといった具合。

(7)「マラッカの罠」回避の為、中国はタイのクラ地峡運河構想、ミャンマーやバングラディッシュの港からの陸路建設、北極海航路開発に熱心。

グローバルという言葉が日本にもたらされて半世紀以上が過ぎていますが、未だにカタカナ表記のみで、中国語の「全球」のようには、日本語の適訳がありません。それでいながらグローバルという単語が独り歩きして、頻繁に使われています。しかし、グローバルとは何ですか?という質問をすると返答は色々です。その解を探す意味でも、この本はグローバルというものを逆照射しているので、国際化や跨境化(ボーダーレス)とは異なる視点が参考になりました。
「真水もて熱帯魚飼うセオリスト 己の次に中国を愛して」という岡井隆の有名な短歌にもある通り、中国に対しては好悪両極の評価をしがちな日本人と比べて、インド人は「中国とは文化も価値観も違うけれど、しっかり中国のことを把握する価値はある」という覚めた(醒めた、冷めた)見方ができるようです。世界を実地に歩く著者のカンナ氏もその一人であり、実に多様な中国を歩いて、知って、考えているようです。

カスケードを発見するだけでなく、全地球的な見地から源流と下流域を分析することが大切であることを学びました。来年3月の定点観測は少しだけ深みのある報告ができるかも知れません。                (了)

 

2017年6月6日

『たけくらべ』再読 ―私と浅草、そして吉原―

井嶋 悠

若年時より、自分に都合よく言えば『書を捨てよ、町へ出よう』(かの寺山修司〈1935~1983〉の評論集(1967年)、併せて演劇、映画の表題)で、20代後半からの中高校国語教師時代も授業、クラブ顧問(監督)、校務で超精一杯の日々、その後は痛飲で、土壌ないにもかかわらずの狭小の読書、学習体験・見識ではあるが、樋口 一葉(1872年〈明治5年〉~1896年〈明治29年〉)のこの作品は、日本文学史上不朽の名作10指の一つだと思っている。
(昭和生まれ(20年)からなのか、明治、大正、昭和といった元号の方が、西暦より親近感が湧く。しかし、なぜか平成にはそれがない。これも老いの感性?)

 

「廻れば大門の見返り柳いと長、お歯ぐろ溝に燈(とも)火(しび)うる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の往来(ゆきき)にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前とは名は佛くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き、三嶋神社の角をまがりてより是れぞと見ゆる大厦(いえ)もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ處とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形(なり)に紙を切りなさいて、胡粉ぬりくり彩色のある田楽みるよう、裏にはりたる串のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず……」の、

凛として美しく端正な顔立ちの眉間に少しばかり皺立て思案に思案を重ね、文机に向かい、毛筆を一気に滑らせる姿が思い描かれる書き出し。音楽の文体。

 

「龍華寺の信如が我が宗の修業の庭に立出る風説(うわさ)をも美登利は絶えて聞かざりき、有し意地をば其まゝに封じ込めて、此處しばらくの怪しの現象(さま)に我れを我れとも思はれず、唯何事も恥かしうのみ有けるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり、誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懷かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに傳へ聞く其明けの日は信如が何がしの学林に袖の色かへぬべき當日なりしとぞ。」の、

〈一輪の水仙に象徴される清らかさと淋しさ〉の、清澄な画(え)が脳裏いっぱいに広がる結び。

 

下町の、吉原の、大人に差し掛かる不安をふと過ぎらせながら、一日生涯そのままに活き活きと子ども時代を過ごす少年少女たちの、大人たちの、濃やかな描写に、時を超えその場に舞い降り、共に哀しみと愛(かな)しみを共有する私たち。内容と文体の見事なまでの一致。
この作品は、中高校教科書に抄出であれ、口語体に直したものであれ、相当高い率で採られているので、現在18歳以上のかなりの人が、目あるいは耳で接していることになる。凄いことだと思う。よく覚えていない人も多いとは思うが、それは教師の、また“あれもこれも”の[基礎・基本]現状かとも…。

私の高校時代の、厳(いか)めしく近寄り難い国語教師(50代の男性)。私たち悪童の態度・悪戯の時も、溢れる慈愛の眼は隠しようがなく、しかしそれを一切表に出されなかった昔気質の、だから私たちは畏敬していた、今は亡き先生は、彼女の美しさをどれほど讃えておられたことだろう。
その先生が、劣等生以外何者でもなかった私に、定年退官後著された『芸道思想』に係る研究書をわざわざ送って下さった時の驚愕、差し上げた年賀状の毛筆によるご返信で、いつもご自身の漢詩を添え、(我が学力を承知して、鉛筆書きの返り点と送り仮名付)くださった葉書は私の宝物の一つである。なお、そのご子息は、20年ほど前から北海道で高校の体育科教員をされている。

 

そんな私が、その先生と同僚(剣道4段ならではの背筋厳しく、強面ながら、おかしみを漂わせた古典主担当の男性)の先生の、なぜか!ご厚情を得て教師となり、小説教材を、限られた時間と授業展開法での悪戦苦闘、試行錯誤も懐かしく思い起こされる。
ところで、在職中に直接聞いた中高校大学一貫教育の或る私立中高校では、時間とは関係なく、作品を読解・鑑賞する旨聞いたことがあったが、今はどうなのだろう。
これらの直接間接体験が、これまでに何度かこのブログに投稿した中高校教育制度と内容に係る私論の原点となっている。

《いつもの余談》
5000円札の肖像は樋口一葉だが、発行時あの画には甚だしく失望した。才と孤独と貧苦の中で磨かれた凛とした美しさがどこにもない。まあ、10年前からの年金生活、5000円札(いわんや一万円札においてをや)にまみえることは千載一遇だから良いのだが。
閑話休題。

 

吉原は浅草・浅草寺の裏手、約1キロの所に在る。
私にとっての浅草は、小学生の時、近所のお爺さんが連れて行ってくれ味わった(当時私は大田区在)バナナの、衣類の露天たたき売りの、心躍る時間で、今の世界的!?一大観光地の喧騒とは無縁だった。
その後、20代[1970年前後]での東京生活時に訪ねた浅草も、[六区]はまだ活きていた。そこで得た情感があってなおのこと、渥美清や、萩本欣一さん等々に、勝手な親愛感を寄せていたと思う。
(一時代を築いた『コント55号』萩本さんの相方坂上 二郎(1934~2011)は、晩年、私たちが今居る那須に移住し、『東北大震災』の翌日、那須で亡くなった。日ごろお世話になっている那須生まれ育ちの50代女性の言った言葉が、坂上さんの個性に魅かれることが多かった私なので、強く残っている。

「あの震災がなければ、もっと多くの人たちが、彼の弔い、葬儀に来られただろうに。」

 

仲見世通りのあの国際的!賑わい(と言うよりラッシュ時の混雑に近い)の今、[六区]通りに演芸館もストリップ劇場も呑み屋も場外馬券売り場もあることはあるが、通りを覆っていた自然な開放感はない。それでも郷愁があって、上京すると時折訪ねる。今も、足取り定まらない寂しげで哀しげな老人はいるが、より一層孤独感を強く漂わせているように思えるし、どこか通り全体に奇妙な閑散さ感じる。見事なまでの近代化の街並がもたらすことでの、これも勝手な老いの感受性なのだろう。
私が描く居酒屋のイメージとは違う広さの、道にまで席を設けた居酒屋が数軒並び、女性の呼び込み合戦も行なわれていて盛況溢れているのだが、何か違和感が起き足早に通り過ぎる、現代数周回遅れの私。

何年前だったか、“春のゴールデンウイーク”直前に上京したときのこと。
「大門」「見返り柳」を見たくなり、4月末の晴れた日、浅草寺から独り散策した。「言問(ことと)い通り」を過ぎると、観光客はほとんどいない。「吉原大門」近くにあったコンビニで弁当を買い、斜め前の小さな公園(それでもブランコが二つ、砂場、そして遊園地によくある[コーヒーカップ]一つと、ベンチが備えられている)で昼食。五月晴れの下(もと)の身も心も麗(うら)らかなひととき。このご時世、不審者情報で警官が来ることもなく。周りは一戸建てや幾つかの昔ながらの2階建てアパートの閑(しず)かな住宅地。
私の他には、所在なげな老人(男性)一人、幼児を連れた若いお母さん、そして小学生が3人(3年生前後の男の子2人といずれかの姉とおぼしき5年生前後の女の子)。小学生たちに『たけくらべ』が重なる。平成たけくらべ。

 

この公園から徒歩数分の一帯は知る人ぞ知る、全国有数の“ソープランド”街で、江戸期吉原の後継・跡地的感覚で言う人もあるが、どうも私にはしっくりと来ない。
と言っても、遊郭も赤線・青線もソープランドも知らない(或る人に言わせれば勇気と甲斐性がない!/?)が、江戸期の吉原の「愉楽」と「苦界」を、幾つかの書物、落語、映画等からだけの、それもわずかな知識(単なる知識)の限界でのこと。それは、今日ソープランド等「風俗業」で、かなり多くの若い女性が、自身の意志で“働く”現代性産業(産業!?)の実態、その背景に在る、性意識[倫理観]の変容(古代日本人の性意識の原点回帰?…)、需要と供給の現実、現代日本の経済・社会現状等を知ればなおのこと、軽率な物言いはできないことを知らされる。
ただ、その間近で子どもたちは無心に遊んでいることだけは事実である。

 

性労働に係る現在について調べていたときの心に刺さった言葉を一つ記す。

「最近蔓延しているポエム(みたいな謳い文句)なんて絶対に嘘だし、かつ夢とか希望とか安定なんて、この世にないし、みたいな考えになっている。こうした現実に気づいたとき、時間に束縛されずに必要な金額が稼げる風俗を選択することは自然なことなのかもしれません。」
(『日本の風俗嬢』中村 敦彦・2014年:より、風俗嬢の相談、生きるための支援をしている非営利団体代表の言葉)

やはりこの書で知ったこととして、かの偏差値トップレベルの複数の国立大学生が、在学中からその性労働に携わり、決して負の心ではない、とのこと。
官僚、政治家またそれにつながる評論家、マスコミそして教育者は、どう考えるのだろうか。いつもの「例外のない例外はない」で終わるのだろうか。

 

公園でのこの上なく静かなたたずまいで出会った二つの光景。もちろん、いずれも私の感傷と言う上下(うえした)の証しに過ぎないのかもしれないが。
幼子を連れてアパート方向に帰るお母さんの、様々なこと・ものを背負ったかのような哀しげな背中。
小学生の女の子が、大きなシャボン玉を青空に向かって、独り描いていたとき見せた至福の微笑み。

あの子どもたちは、お母さんは、老人は、ゴールデンウイークをどのように過ごしたのだろう。

 

一葉は、当時の女性の立場に「かひなき女子の何事を思ひ立ちたりども及ぶまじきをしれど」と、苛立ちにも近い無念さを秘めながら、こんなことを書いている。

「……天地は私なし。……。娼婦に誠あり。……良家の夫人にしてつまを偽る人少なからぬに、これをうき世のならひとゆるして、一人娼婦ばかりせめをうくるは、何ゆゑのあやまりならん。」(明治27年)

「……安きになれては、おごりくる人心のあはれ、外(と)つ国の花やかなるをしたひ、我が国振りのふるきを厭(いと)ひて、うかれうかるゝ仇(あだ)ごころは、なりふり住居(すまい)の末なるより、詩歌政体のまことしきまで移りて、流れゆく水の塵芥(ちりあくた)をのせてはしるが如く、何処をはてととどまる処を知らず。かくてあらはれ来ぬるものは何ぞ。」と書き、この後当時の外交問題に切り込み憂国の情を吐露する。(明治26年)

これらのことに私があれこれ言う学力・器量はないかとは思うが、なぜこれを引用したかで了解は得られると思う。

【参考】彼女の憂国の情の翌々年(明治27年)、日清戦争が始まり、以降「三国干渉」を経て、日本の大陸施策の展開、そして日露戦争とつながって行く。尚、大正14年(1925年)の公布された『治安維持法』につながる『治安警察法』は明治33年(1900年)である。

 

ところで一葉の言葉の引用に関しては、佐伯 順子氏(1961年~・比較文化研究者)[編]の『一葉語録』(2004年)を基にしている。氏は、1987年、大学院博士課程在学中に『遊女の文化史』を著し、大きな注目を集め、現在に到るまで研究と教育に確かな足跡を残している。
実は、彼女の中学校3年生の時の国語授業担当及びクラス担任は、私だった。夢のような話である。

 

吉原大門にほど近い場所に、台東区立『一葉記念館』があり、訪れたが、そもそも○○記念館といったものに関心の薄い私、展示等より、建物のひときわ目立つモダン性(超近代性・現代性?)が先ず私の心に残っている。