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2017年4月23日

桜・花・華 ―私の好きな三首の和歌と三つの“今”― 

井嶋 悠

私が住んでいる栃木県北部は今、春爛漫。春風駘蕩。春心。春眠…。心地良い日本・日本語。古来、春秋論争があるが、枯淡の境地未だ遠く、加えて冬を苦とする勝手もあってか、私は春に浮き立つ。それは、昨年訪ねた八甲田山の紅葉のあまりの壮大さにただただ圧倒され言葉を失う私の裏返しかもしれない。
水浅葱色にも似た水色の空、春陽の下、いささかの冷気を残す春風に揺らぐ菜の花、桜花(さくらはな)(「さくら」、とひらかなで記すのが最もふさわしいかと思うが)。百花繚乱の始まり。
鶯のさえずり。雉の雄叫び。啄木鳥の幹を打つ音。烏のガラ声…。
その只中に暮らす、分不相応な幸いは重々自覚しているので来世が不安な年金暮らしの一人。

ところがあろうことか、その今、当地市会議員選挙の真っ最中。地方選挙であれ、国政選挙であれ、聞き、見る度に、いや増す空虚。老いは涙頻度に表われるが、あまりの苛立ち、虚しさに、春爛漫と被(かぶ)さって涙が込み上げる、人生初めての体験。
桜がこれまでと違って見える。山桜やそめいよしの、世の芥を掬い上げ掃き清めるかのような、桃の花色にも近い桜色の枝垂れ桜の、芥を遮り覆い隠すかのような、その枝ぶり。あたかも母親が我が児を抱(いだ)き、護る、下からの、上からのしぐさのように。

日本をこよなく慈しむ70代の二人の女性、一人は極貧家庭に生まれ懸命に生き今独り暮らしをする近隣の人・一人は旧知の生まれも育ちも東京下町、の厳しくも怖い言葉「日本は終わった」「東京は一度崩壊すれば良い」。

出陣!?式での支援者(ほとんどが中高年男性)の日の丸と必勝を染め抜いた例の鉢巻揃い姿。恐るべき画一。その人たちが、社会を主導する政治を司る恐怖の不安。選挙カーから繰り返し噴き出され轟く騒音。
「お騒がせ致します」「ご挨拶に参りました」……の慇懃無礼。
「市民(国民)の生活を守ります」「身を賭して働きます」……の当然を声高に言う厚顔無恥。言葉の弄び。
その選挙経費、当選者議員報酬等々すべては私たちの税金。かてて加えて、外遊病重篤の首相を筆頭に、権力と欧米を偏愛する政治家たち。その欧米の良識人が揶揄する八方美人(と言えば聞こえはいい、か)、『和』への、深謀遠慮など微塵もなく、二言目には“おもてなし”の幇間(ほうかん)(その職にある・あった人の哀しみを切り捨てた何とも失礼な用法だが)外交。おひざ元日本国内の弱者、貧者に我慢を強い、結果「自己責任」の一見もっともな言葉で切り捨てる羊頭狗肉そのままの言葉遊び。

「君子危うきに近寄らず」とはこういう意味だったのか。老人の政治離れは必然の流れ、勢い。続く謙虚な若者たち。先の二人の女性の言葉に共感合意する同世代の、幾つかの主義への軽重はあるが支持政党なしの私。もっとも、それぞれがそれぞれの正義の言葉で、対立者を邪悪化し、可視・不可視の暴力を使って息の根を止める(殲滅!)。それが政治的権力者うごめく古今東西政治世界共通のおぞましさ、人の性(さが)、と思えば、学校社会での体験も思い返され、日光三猿[見ざる・言わざる・聞かざる]は自然な?良識、と思ったりもするが、権力者たちからすれば私のような似非良識人は“想定内”の思うつぼ?

と言う私は、戦争、貧困、差別、病いで、虐げられ、死と向かい合っている世界の子どもたちに、寄金・寄付を、それも時折、するだけで何もしていない。1985年の音楽・ドキュメンタリー映画『We are the World 』(制作:アメリカ)や2005年の世界の著名な8人の監督によるオムニバス映画(制作:イタリア・フランス)『それでも生きる子どもたち』に、スタッフも含め賛同参加している人々を羨むだけの私でしかない。

因みに、20年程前の在職中、アメリカに出張した際、アラブ系のタクシー運転手が「あんなの、あいつらの金もうけだろう」との切り捨てが心に刻まれているが、実際はどうなのか知らないし、そもそも何事も公にすれば必ず批判非難はあって、それに立ち向かう、或いはいずれかに与し徹する器量がないのも私ではある。
ただ、アメリカの一つの象徴である[ハリウッド映画]の、ベトナム戦争であれ、湾岸戦争であれ、黒人・インディアン差別であれ、アメリカの負の部分を痛烈な真摯さで映画化し、世界に配信し、興業収益を上げる(スタッフ・キャストの高収入)ことが求められ、それがあって次につながる、その「ストレスフル」に競い、克つ、スタッフ・キャストの強靭な意志力と切磋琢磨、そこに“アメリカン・ドリーム”をみる。(その裏返しとして、酒・クスリ等中毒が多いことも周知だろう)。

学校教育の相違の根底・背景に思いが及ぶ。風土・環境・歴史を外した日米教育比較は虚しいように思える。

古来桜の名歌は、教科書にあったり百人一首にあったり、私たち多くに馴染み深いものが多いが、その中で私の好きな3首を採り上げ、先人の批評を参考に、今の私の寸感を記す。もちろん、読書人や識者にとっては今更、との内容の無知・無恥、露わなものではあるが。

【ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ】 紀 友則(845~901)

うらうらとした春の日、甘美な心持ち「春風駘蕩」に在って、どうしてそんなに慌ただしく散るのだろう、との嘆きの光景と思い描いていた。
今、「ひさかた」は西方浄土を連想させ、そこからの「光」であり、歌人は、朗詠の初めでその久遠を置き、「散る」(死)を、それも「しず《静》心なく」との形容を以って結ぶ。その間を結ぶ、自然と生、命、そのそれぞれの人生を「花」に譬えて。「阿吽(あうん)」の左右の像のように。と私の中で強く合点する。

【山本 健吉(1907~1988)日本文学評論家・研究者】の言葉。(『ことばの歳時記』(1980)「花」より私の要約を含めた抄出)】

――花(桜)時、柳田国男のお伴をして高尾山に行った折、柳田国男の桜を見、農村の人々[常民]
の生活の哀歓に思いを寄せた感嘆(古代の人々が山の端の桜に、その年の収穫を思い及ぼし、散
ることの切実、との信仰的態度を基にした感嘆)に触れ、次のように記す。

「…万葉の時代にはまだ、桜の花が日本の花の代表として、審美的に愛着されるような条件は、
十分そろっていなかった。当時はまだ、梅と桜が王座を争っていたと言ってよい。だが結局、
梅は主として知識階級の鑑賞の対象にすぎなかった。桜が愛着の対象となる根は、広くかつ深
かった。(中略)
そして、上記の歌と『世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は、のどけからまし』(在
原 業平)を引用し次のように記す。
「…大分感傷的態度が出てきている。だがこれらの歌にも、やはり桜の散ることに対する実生
活上の不安の気持ちが、どこかに余韻を引いているようだ。」――

 

【願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月のころ】 西行法師(1118~1190)

古典入門の授業、作品と生徒たちの季節感、生活感を合せるための旧暦と新暦の説明はその一つで、一年を平均し(大雑把に)旧暦→新暦は、プラス1,5か月と話したりする。

そしてこの歌。如月は旧暦2月だから、新暦では3月中旬、だから望月(15夜)も活きて来る。し
かし、そこでは、桜は、その性質上或る程度の冬の寒さが必要とは言え、3月中旬に桜は開花して
いない事実が抜け落ち、且つ「花=桜=日本古来の伝統」との思い込みの落とし穴が潜んでいる。
素直、純朴な生徒は、どこか不自然を直覚するのだが、先に進むことで頭の中で桜は満開となって
しまう。
教師によっては、時に「散華」と日本人論、にまで行ってしまうが、私の場合、そこに踏み入れる
勇気と自信はかった。

西行は、武家の出自で、23歳で出家し、京都・鞍馬で隠棲生活に入るが、諸国を旅し、最期を大阪・河内で迎えている。この歌は死の10数年前に作られたとのことだが、その頃は伊勢か奈良に在った。
当時、暖をとるのも限られている中、ましてや隠棲生活での冬の厳しさはひとしおであったろう。その日々から、春の実感の喜びは何にもまして掛け替えのないことではなかったか。それは、北関東の地に生活し、ストーブ等で身を温めているにもかかわらず、ひたすら日々刻々春を願う、加齢とともに冬の苦手が顕著になって来ている私は、武家の出にして出家者からすればお笑い草の失礼ながら、自身を重ねて想像する。
桜だけではない。立春、啓蟄前後から見え始める一輪の野の花に思う春到来の喜び。日一日それは増して行く。その上昇線上の頂に桜がある。妻は幼少時、結核で死の寸前で見たのは一面のお花畑であったとのこと。

【同じく山本 健吉の同書から】

――この歌の引用の前に、芭蕉の『薦(こも)を着て 誰人います 花の春』を挙げ、「花の春」
は新年を示す季語で、「花」は桜ではないが、桜の華やかなイメージとともに、三春(旧暦
正月・2月・3月)にわたっての季節感を持つ二重規定の季語との説明をし、以下のように記
す。
「この歌は、事実としては矛盾する。旧暦二月十五日は、花時には早すぎるのである。だ
が、二月十五日が春のもなか(最中)であるという意味で、春の花すべてにわたっての賞翫
であるこの季語に妥当するのである。――

尚、氏はこの後、桜に関して、四つの言葉と時期を次のように記している。

・初花  三月  ・花  四月上、中旬  ・残花  四月中、下旬  ・余花  五月

 

【しき嶋の やまと心を 人問はば 朝日ににほふ 山ざくら花】 本居 宣長(1730~1801)

日本文化の特質(日本人の感性の特性)として、清楚、明澄、自然への謙虚、忠実、といった説明に得心する私としては、この歌をそのような感覚から思い描いていたが、軽率なことに「やまと心」を「やまと魂」といつしか置き換えている私があった。おそらく、[国学]系の何かに接しそうなったのだろう。

小林 秀雄(1902~1988:文芸評論家)は、随想『さくら』[現代の随想 第5巻 小林秀雄集所収]で、次のように記していることを知った。

――……散り際が、さくらのやうに、いさぎよい、雄々しい日本精神、といふやうな考へは、宣長
の思想には全く見られない。後世、この歌が、例へば「敷島の大和心を人問はば、元の使を斬
りし時宗」などといふ歌と同類に扱はれるに至った事は、宣長にしてみれば、迷惑な話だろ
う。(中略)
〈そして、桜好きだった宣長について触れた後、次のように記している。〉
「『やまと心を 人問はば』の意は、ただ「私は」といふ事で、「桜はい々花だ、実にい々花
だと私は思ふ」といふ素直な歌になる。宣長に言はせれば、「やまとだましひ」を持った歌人
とは、例へば「つひに行く 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思わざりしを」と
いふやうな正直な歌が詠めた人を言ふ。
〈そして、宣長は、綿密周到な遺言書を残し、そこに、諡(おくりな)を秋津彦美豆桜根大人(あ
きつひこみづさくらねのうし)とし、墓の石碑の後ろに山さくらの木が描かれてゐる、と記
す。〉――

 

桜花の期間は短い。私の中では、満開前後に必ずと言っていいほどに、嵐にも近い風・雨が半日或いは一日ある。そこにも天意、自然の意思を想う。今年も一昨日、嵐が到来し、山ざくら、そめいよしのは大半落花した。

先に触れた「散華」。この言葉を慈しむ人は多い。娘もその一人であった…。しかし、私はこの言葉、漢字そのものから美しい心象(イメージ)を持つが、《戦死》に結びつけることには抵抗がある。あまりに哀し過ぎ、寂し過ぎる。己が命を故郷・祖国に奉ずることと人の性(さが)・業とさえ思う戦争の接点を、今もって私の中で見い出せていないから尚更のこと。

花は地に埋まり、樹々は葉桜となって初夏に向かう。あの黒々とした幹は来る年の花に備えて新たな養分を蓄え続ける。老人たちは、来年も見られるだろうか、と或る人は本心から楽しげに、或る人は悲しげに言い合う。
私は小心な俗人、まだまだ前者の境地に達していないが、それでも心模様の変容が、「ひさかたの光」「春死なむ」「朝日ににほふ山ざくら花」に私を惹き入れるのだろう。

 

2017年4月5日

中華街たより(2017年4月)  『ハナミズキ』

井上 邦久

「茨城キリスト教大学への出張が金曜日にあるので、大阪に戻る前に会いませんか?」という連絡が直前にありました。高校時代からの付き合い、しかもバスケットボール部で共に汗を流し、ベンチを温めた者同士の関係は、蓮根の糸ほどには粘らず切れずに長続きしています。二十歳の頃に住んでいた京都市藤森の疎水沿いの小路で、「洗礼を受けてきました」と唐突に伝える神田氏に、「受洗した人にはどんな言葉を?」「おめでとう、で良いのです」「おめでとう」という会話を交わしたことを一昨年のクリスマスくらいの感じで憶えています。

毎月第二金曜日は、明治大学キャンパスでのWAA(We Are Asian)の例会の日だったので一緒に参加しました。明朗闊達・融通無碍の主宰者の田辺教授を紹介してくれたのが井嶋悠氏(NPO法人日韓・アジア教育文化センター主宰)でして、井嶋氏が運営するセンターのHP(http://www.jk-asia.net/)に上海たより、北京たより、中国たより、そして中華街たよりを長年に渡って掲載して頂いています。その井嶋氏を紹介してくれたのが大阪YMCA校長時代の神田氏ですから、御縁がぐるりと一回りしました。

翌朝、中華街の寓居から関帝廟・媽祖廟を経て、みなとみらい線の始発駅の元町・中華街駅ビルのエレベーターでアメリカ公園に登り(昇り)ました。港が見える丘から霧笛橋に向かう途中に石碑があり、唱歌『みなと(湊、港)』の歌詞と楽譜が刻まれていました。日本初のワルツ(四分の三拍子)の作曲者の名は、吉田信太とありました。傍らの老婦人が「この歌の出だしはどうでしたかね?」と問われたので、神田氏は讃美歌と吉田拓朗のフォークソングで鍛えた喉を披露して「空もみなとも夜ははれて 月に数ます船のかげ」と歌ってさしあげました。ここでもマタマタ吉田姓に遭遇しましたが、寄り道はせず外人墓地に向かいました。

外人墓地、正式には公益財団法人・横浜外国人墓地の記念館だけを見学するつもりでしたが、3月からの天気の良い土曜日曜のみ内部見学も可能とのこと。幾ばくかの寄付金を箱に入れて、墓地整備のボランティアの方から公開順路案内図を貰いました。その図の著名人墓石リストの一番目にJohn Trumbull Swift氏の名前を見つけて興奮している神田氏からYMCAの最初期の功労者であることを教わりました。C.Griffin(日本ボーイスカウト創始者),H.J.Black氏(外国人初の落語家)の墓や戦没者慰霊碑(第一次世界大戦に横浜から出征し戦死した外国人の慰霊碑)とともにElizabeth Scidmoreさんが母親や外交官だった兄と眠る墓と顕彰碑を拝見しました。1991年にワシントンから里帰りし、墓前に植えられた「シドモア桜」の蕾も硬い、3月11日の記念日のことでした。

日本ではエリザ・シドモアと呼ばれているElizabeth Scidmore(1856~1928)、、19世紀末からの日米交流の貢献者として知られ、彼女がワシントンのポトマック河畔に日本の桜を移植開花させる事業の土台を作ったことから、普通品種の桜も「シドモア桜」と呼ばれています。開港間もない時期に来日し、記者・文筆家として桜を含む日本文化を欧米に発信し、『Jinrikisha Days in Japan』(1891年。『日本・人力車旅情』恩地光夫訳) などの著作が出版されています。
文筆家、外交アドバイザーとして社交界のトップレディとなったシドモアさんは、親密だったタフト大統領夫人を通じて働きかけました。向島の桜をポトマック河畔にも咲かせようという個人的な願いが外交ルートに乗り、害虫問題などを克服して、1912年3月27日に植樹した桜が健全に育ったようです。
1915年には、米国からハナミズキが花言葉通り「返礼」として東京市に贈られています。2015年、日米両国で桜とハナミズキをデザインした切手シートが発売され、東海岸の友人と交換したことを思い出しました。

今年の3月27日は朝から氷雨、横浜の桜は開花未満でした。元町・中華街駅から東横線に乗り入れて20分の大倉山駅。駅から急坂を登りつめた場所に大倉山記念館があります。その前庭で、里帰りしてシドモア家の墓前に育った桜の植樹式がありました。挨拶に立った横山日出夫港北区区長から篤実なお話しを聴くことができました。先ず今回植樹する桜の苗木を準備した池本三郎樹木医の紹介。そして1915年に米国から贈られたハナミズキの最後の一本から接ぎ木をさせてもらうまでのご尽力の経緯を知りました。池本氏ら樹木医の手で接ぎ木を守り育てて頂き、二年後には桜の隣に植樹したいとの決意を語られました。

記念館での講演会では「シドモア桜の会」の恩地薫会長からシドモア女史について、池本三郎樹木医から「シドモア桜の接ぎ木について」のお話を興味深く聴きました。恩地会長は前述したシドモア著作品の翻訳者夫人であり、漫画家の小林治雄氏が作成した『エリザ シドモアとワシントンDCの桜』を配布紹介され、講話も資料も詳細で分かりやすい内容で理解が進みました。
池本氏は、接ぎ木でしか桜は殖やせないことや接合部に芯を残した穂木を台木のマザクラに固定させる手法などを穏やかな口調と実技で説明されました。中でも、古来種マザクラは自身の花は咲かせないが、強い品種で水をよく吸い、根が出やすい。しっかり台木としての役割を果たしつつも、穂木の性質に何ら影響を及ぼさない、という解説に強い説得力を感じました。
講演後にご挨拶し「マザクラは自己主張をしない性格の好い品種ですね」と話したら、明るい笑顔で応えて頂きました。2年後のハナミズキの植樹が益々愉しみになりました。

横浜出身の美空ひばりの『ポトマックの桜』。一青窈の『ハナミズキ』。花の下、どちらも歴史への思いが籠った歌であることを改めて感じています。

2017年4月5日

「汝、自身を知れ」 ―那須・茶臼岳での遭難事故からの自照自省―

井嶋 悠

後悔先に立たず。
人生、経てば経つほどに後悔幾重にも、と思うは私だけだろうか。
後、1週間もすれば娘が、23歳にして憂き世穢土から浄土に旅立って5年が経つ。「一日一刻が永遠」の浄土にあっては、悪業宿業にも似た後悔など、その言葉さえあろうはずもないのだろう。
親としての後悔。教師としての後悔。そして生きて来た途での後悔。
娘に憂き世穢土を知らしめた一つに学校教師があることを思えば、私が教師であったことの「後悔先に立たず」の天のとんでもない皮肉。難詰。

子が親より先に死に向かう、子の、親の、極まりない哀切。
恥ずかしながら、この歳になって『かいなでて 負ひてひたして 乳(ち)ふふめて 今日は枯野に おくるなりけり』(良寛)との歌を、『日本の涙の名歌100選』(歌人:林 和清氏編(1962年生)で知った。

因みに、『わが人生に悔いはなし』は、石原裕次郎、1987年のミリオンセラー曲[作詞:なかにし礼、作曲:加藤登紀子]。大ヒットしたのは、後悔ばかりの苦い人生がいかに多いかの証しではと、歌詞の「はるばる遠くへ 来たもんだ」に向かえば、中原 中也の『頑是ない歌』に向かい、「桜の花の 下で見る 夢にも似てる人生さ」に向かえば、西行の、「願わくは 花のもとにて 春死なむ その望月の 如月のころ」(娘も愛誦していた)に向かう、へそ曲がりの私は思う。
石原裕次郎は、52歳で肝臓がんで亡くなり、私は今夏73歳を迎える……。

先日(3月27日)、家からほど近い(車で30分ほど)那須連峰の一山茶臼岳で、栃木県内の7校山岳部の合同雪山訓練中、雪崩で、7人の男子高校生と引率教員の1人(すべて私たち居住地の隣市にある県立大田原高校)が亡くなり、40名が負傷した。
事前の手続き、携帯品等準備、現場での判断・対応を、責任者の記者会見等報道で知る限り、教師の、惰性(馴れ合い)・過信、要は「驕り・傲慢」以外何ものでもない、と女子サッカー草創期(1980年前後)に中学・高校の女子サッカー部監督[顧問]やスキー講習(中学校3年生以上の希望生徒が対象で、指導は引率教員)行事をしていた元教師として思う。私の場合、たまたまこれほどまでの社会的問題になる事故がなかっただけのこと。
世の災害の大半は「人災」で、「天災」はごくわずかである、と自覚し始めた昨今だからなおのこと自省自責に駆られ、様々な過去の場面が私の内を駆け廻る。「自然」その意味の再自覚の緊要。
ところで、160mにわたって生じた雪崩の起点は、「天狗の鼻」とか。これも天の采配なのだろうか。

蛇足を加える。
これは教師だけのことではない。人が、“大人”が、「絶対」との言葉を安易に、しかも自信と気概に満ち溢れ使う感覚、意識の怖さでもある。罵詈雑言を叱咤激励と言い、打ちひしがれ、死すら想う若者に、“軟弱”と追い打ちをかける。
そこまでして日本は、世界の、経済大国によるリーダーでなければならないのか、とやはり偏屈な老人私は思う。

「汝、自身を知れ」
紀元前4世紀、人の善・悪・真を美の華から求め、華開かせたギリシャの時代、アポロンの神殿の入口に記されていた言葉。それから25世紀、2500年。死は一切の例外なく訪れるが、自身を知る、「無知の知」は途方もない苦行難行を経た者だけが知り得る。
私は? 正真正銘の無用の自問。

元中高校国語科教師の或る時期、古典授業の易さをうそぶいていた無知・無恥を正直に告白し、古典の、もっと限定すれば国語教科書の重さを、あらためて自身に言い聞かせたく、吉田兼好『徒然草』134段から、その一節を、少々長くなるが、引用する。
人一人一人が謙虚であってこそ社会・国は謙虚になる。「市民」「国民」そして「子ども」「大人」と言う時のそれぞれの具体像の確認のために。と他者(ひと)に言う前に「後悔先に立たず」を繰り返す私のために。

【古文のため、読みづらさを思われる方があるかもしれないが、せっかくの名文、引用部分の大意要旨を参考に、その音調、律動を味わってほしい。】

《備考:吉田兼好・鎌倉時代末期13世紀から南北朝時代中期14世紀の人。『徒然草』は、筆者50代の、1330年~1336年にかけての著作と言われている。今から700年近く前の文章である。》

《補遺:芥川 龍之介(1892~1929)は、35歳で、妻と二人の児を置き、自ら死を引き寄せた、その2年前に刊行した箴言集『侏儒の言葉』の中で「つれづれ草」として、次のように書いている。

「わたしは度たびこう言われている。――「つれづれ草などは定めしお好きでしょう?」しかし不幸
にも「つれづれ草」などは未だかって愛読したことはない。正直な所を白状すれば「つれづれ草」
の名高いのもわたしにはほとんど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにも
しろ。」

※〔上記補遺私感〕
稀有の才を天与され(後に、それが本人を苦しめたと私は思っているが)、今の私の半分の年齢で命を絶ち、社会様相、学校制度等環境の相違から同じ地平から比較できないが、肯んずる私もいる。しかし、当時の中学校は現高校で、「大学の大衆化」に象徴される学校教育現状と少子化、効率優先の、モノ・カネ本位社会、更には知識偏重の限界的弊害の今、彼が生きていたらどのように言ったか想像の興味が湧く。
ただ、彼のような俊才にとっては、教科書は所詮教科書で、私の自省「教科書で教える」驕りではなく「教科書を教える」ことを再考している立場とは相容れないかとも思うが。

【引用部分の大意(要旨)】

人は、他人にばかり眼を向けるが、最も分かるはずの自分自身のことに眼を向けない。自身の姿形(風貌)、心の、また技芸の在りようを自覚している人こそ優れた人である。だから他者(周囲)の誹りにも気づかず、すべては、利己の貪欲が自身に与えた恥、辱(はずか)しめである。
これを、先の『侏儒の言葉』で言えば、「阿呆はいつも彼以外の人人をことごとく阿呆と考えている。」ということになるだろう。

【引用本文】

―賢げなる人も、人の上をのみはかりて、己を知らざるなり。我を知らずして、外(ほか)を知るといふ理(ことわり)あるべからず。されば、己を知るを物知れる人といふべし。

貌(かたち)醜(みにく)けれども知らず、心の愚かなるをも知らず、芸の拙きをも知らず、身の数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病のをかすをも知らず、死の近きことをも知らず、行ふ道の到らざるをも知らず、身の上の非を知らねば、まして外の誹(そし)りを知らず。[中略]貌を改め、齢(よわい)を若くせよとにはあらず。拙きを知らば、なんぞやがて退かざる。老いぬと知らば、なんぞ閑(しづ)かにゐて身をやすくせざる。[中略]

すべて、人に愛(あい)楽(げう)(親愛の意)せらずして衆に交はるは恥なり。貌醜く、心おくれにして出で仕へ、無智にして大才に交はり、不堪(ふかん)(下手の意)の芸をもちて堪能(かんのう)の座に連なり、雪の頭を頂きて、盛りなる人にならひ、況んや及ばざる事を望み、かなはぬ事を愁へ、来たらざる事を待ち、人に恐れ人に媚(こ)ぶるは、人の与ふる恥にあらず。貪る心にひかれて、自ら身を辱しむるなり。[後略]―

娘が与えてくれた自照自省、その拙文を投稿する私。赤面羞恥するばかりで、兼好の言う具体例である。それでも、娘の鎮魂があっての自己整理を続けなければ、との私もいる。それが私の老いに生きること、と「咳をしても一人」(尾崎放哉(1885~1926)の鬼気にはほど遠い肝に銘じている。

後悔は、動物のドキュメンタリー映画を観ていると人間だけの所為(所業)とも思えないが、人間ほど繰り返す愚かさはないようにも思う。それは明日命に直接に関わるからだろう。理屈[言葉]を弄する暇(いとま)などないということなのだろう。
そう考えると、『侏儒の言葉』から繁く引用される「人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である」との表現は、書き手が古今東西の文化(芸術)に精通した、近代叡智の人だっただけに再びあれこれ思い巡らせたりするが、私の時間は限られている。
やはり「後悔、先に立たず」に帰着する……。