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2016年10月31日

優れた人たち ―言葉と気と静謐と―

井嶋 悠

 

先日(10月20日)、7時間余りに及ぶ妻の心臓手術に天意は命の継続を与えた。その天意を現身(うつせみ)として与えたのは、専門意識高く人格豊潤な4人の医師(すべて男性)と人為のわざとらしさとは無縁の微笑みで献身する看護師たちである。(因みに、その人たちはかの著名な公私立大T大K大等々ではない。)
「病は気から」の、手術に向かうまでの10日間の医療に携わる人たちの心遣い。和み。「医は仁術」の知識でない実践が創り出す静穏に私たち夫婦は包まれ当日を迎えた。
そこにはくどくどしい言葉はない。あるのは端的な言葉だけである。饒舌な言葉で愛を語る偽りがない。言霊との表現にはその直覚が端緒にあるのかもしれない。だから「言霊の幸(さき)はふ国」は世界すべての国・地域の人々の願望であり畏怖となるのだろう。私は日本人で、日本語を母(国)語とするから『萬葉集』からそれを知る。言葉に異言語はあるが、霊、魂に異文化はない。
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」(『新約聖書』ヨハネによる福音書冒頭)は、西洋文化の基盤の一つキリスト教の言語観である。国際文化=西洋(欧米)文化、の近現代にあって、だから英訳聖書で「言葉」は、「Word」の大文字で始まり、時に「LOGIC」と訳されるのだろう。

手術が終わり執刀医から経緯と現在の説明を受けた時、2012年春に娘を天上に見送った私があったからなのだろう、深奥から安堵がこみ上げ、脱力が襲い、一瞬遥か遠くに引き込まれて行く私がいた。ふと娘の葬儀で妻が私に言った「今年もう一度葬儀をするのはいやだからね」が甦る。
娘が無言で私に与えた自照自省を何とか今も続けているのは、石原裕次郎最後の曲『わが人生に悔いなし』(作曲:なかにし礼 作詞:加藤 登紀子)(1987年)の表題よろしく呟いて、娘と再会したいとの一念があってのこと。感傷(センチメンタル)で溺死することなく、哀しみを我が身のものとする難題に、冷たささえも時に痛覚する文字[書き言葉]を連ね、投稿と言う公に向かう支離滅裂、甘え……。
それでも、私がこれまで生き、血肉となっていると実感する言葉を使って書くことで、自身を、中高校教師であった私を、確認したいと3年半が経った…。

曲の詞を一か所引用する。

「たった一つの 星をたよりに / はるばる遠くへ 来たもんだ / 長かろうと 短かかろうと/わが人生に 悔いはない」

私にとってこの曲の3人に思い入れはないので表題があるだけだが、中原 中也(1907年~1937年)の『頑是ない歌』は心に沁み入る。一部分を引用する。 [参考:この詩は、詩人の死の半年後の刊行された詩集『在りし日の歌』に所収。尚、死の前年に長男(2歳)を、中也死の3か月後に次男(1歳)を、それぞれ病で亡くしている。]

『頑是ない歌』

・ ・ ・ 思えば遠く来たもんだ 此(こ)の先まだまだ何時(いつ)までか 生きてゆくのであろうけど / 生きてゆくのであろうけど ・ ・

さりとて生きてゆく限り / 結局我(が)ン張(ば)る僕の性質(さが)/ と思えばなんだか我(われ)ながら / いたわしいよなものですよ

考えてみればそれはまあ / 結局我ン張るのだとして / 昔恋しい時もあり そして /  どうにかやってはゆくのでしょう

中原中也の詩は歌謡曲の(歌)詩(詞)であるとの評者の言葉に接し、どこかでなるほどと思う自身を否定しないが、私の中で、『頑是ない歌』からは詩が伝わって来るが、『わが人生に悔いなし』からは伝わって来ない。

美空 ひばり(1937~1989)の『川の流れのように』(1989年)は、カルメン マキ(1951~)の『時には母のない子のように』(1969年・作詞:寺山 修司)世代?の私にとって心震わされた曲で、海外帰国子女教育に携わっている時に、在留子女の父親から聞いたエピソードは深く心に今も在る。

感傷の言葉に恥ずかしさを思う私は、論理【合理】を愛し、それを信条として生きる人に敬意を持つ。しかし、後者は私と別次元別世界の人たちで、そうかと言って感傷を高め、澄明溢れる感性派にはほど遠く、怠惰で感傷溺死の際を彷徨(さまよ)う凡夫に過ぎないが、それでも思い巡らす愉しみに生を得ている。
日本の詩は、西洋や中国の詩と比して、短詩型や「五七調・七五調」との定型はあるが、自由詩謳歌?の世界と言われ、そこから“日本(人)的なもの”を思ったりもするが「君子危うきに近寄らず」で、閑話休題。

音楽は神の直覚に最も近い芸術で、詩がそれに続くとされ、私自身、その多少深浅は別に、だからそれらから琴線揺らぐとき、生と死の象徴が瞬時に引き起こされるのだと思っている。娘が死をもって私に生を、妻が2度目の(1度目は幼少時の肺炎)死線一歩手前から新たな生を自身に、同時に私に生と死を思い知らせることになったように。
そう言う私は、この数年、時空共々「思えば遠く来たもんだ」と善きにつけ悪しきにつけ血肉こもった言葉で溜息つくことも少なくはない。

「屋下(ここでは敢えて”下”とする)に屋を架す」ながら、歌謡曲等にあって作詞・作曲の順に記されるのはなぜだろう?と、これも論理優先社会の一つの徴(しるし)なのか、と久しく思っているだけで留まっている。
先に「病は気から」を「医は仁術」の人々から記した。病を抱えている人への慈しみ。慈愛。励まし。それがあってこその「病は気から」の言葉の力だが、妻の場合、彼女の生来素地がその力を倍増させ、「手術が2か月遅れていたら危なかった」(執刀医の言葉)にもかかわらず快癒方向に向かわせているらしい。
それに係る、医師がきょとんとした微笑みを誘った幾つかのエピソードから3つ。

○心臓弁膜を取り換えるにあたって「人工弁か生体弁」の自己決定のための長短説明で、生体弁はアメリカでそのために飼育されている牛から採ることを聞いたときの彼女の質問。
「その牛の肉はどうするのですか。」
尚、彼女の意志決定は生体弁であった。

○手術中は全身麻酔云々との説明の中で、35年ほど前、腹膜炎のため、自身の命か世に出る準備をしていた娘の命のいずれかの死を覚悟してくださいとの敬愛する医師の言葉を思い起こし、言った言葉。
「手術を中継映像で視ることはできないのですか。自分の心臓を視るなんてとても貴重に思えて。」

○手術後の集中治療室[ICU]で数日治療を受け、退室し、病室に戻る時の言葉。
「とてもいい勉強の時間でした。」
集中治療室には5人ほどの患者がいて、彼女が在室中に1人は亡くなり、また看護師たちの昼夜問わず超人的働きに接し、荘厳と尊敬から感銘を呼び起こしたことがこの言葉の背景。

これらの発言は、何度も記して来た「江戸っ子気質」にやはり通じているように思える。
日本は今や世界の最長寿国で、2016年の世界保健機構[WHO]の発表では、男女平均値で日本は世界1位で、83,7歳である。因みに、明治の文明開化で医学の師であったドイツは81歳で世界24位にある。
これは妻の救い手であった医師や看護師、研究者、技術者があっての賜物だが、私の中で「寿」は寿ぎの字義に向き「格差」の現実と背景を知れば知るほど素直に首肯できないでいる。しかし、高齢化との表現にも事実[客観]の冷たさを感じていて、未だ適語を見つけていない。

私たちにとって切実な現実の一つ「年金」問題。
「胴上げ型」から現在の「騎馬戦型」そして2050年頃には「肩車型」になると言う。年金額の多少は、その動機、経緯、背景等には今は触れないが、現職中の給与からやむをえないこととしても、しかし例えば、24時間営業のコンビニがそれを為し得るのは現場の人間があってのことで、企画室等だけで実現できるはずもない。(下衆の勘繰りに過ぎないが、首都圏等で留学生を含めた外国人働き手を、時にあたかも使い捨て的にあてにしている、などということはないだろうが。)

様々な現場の人々の統合があってこその経済大国、国際社会牽引国日本、との考え方が論外でないならば、広く社会保障の財源不足を言い、増税また値上げを容認する政府が主導する日本は、少なくとも私にとって“大和”や“日の本”の心像(イメージ)はますます遠くなり、国際間の現在を戦時的緊張感の時代で括る現代にあっては、時代後れと言う意味での時代錯誤人なのだろう。
中学校高校で大人(教師)たちがしばしば当たり前のように発する、分かるような分からないような、結局は分からない表現、「中学生(高校生)らしい服装、行動」「中学生(高校生)らしい(更に限定しての中学校1或いは2或いは3年生!?らしい)表現」云々に照らせば、隠居は隠居らしくあってこそが謙譲であり美徳であり、それができないのは“枯れない”落葉樹!と言うことなのだろう。

時代が進み見栄えがモダン!化しても核心が変わらなければ、結局は[画一(化)]「全体(化)」に容易に戻る怖ろしさは古今東西の繰り返し。それを“人間の限界”と言ってしまえばそれで事足れるのかもしれないが、そこを突き破る思案なくして若者を一方的に虚無的とか無気力とか家畜・ペット化と批判することはあまりに傲慢で、寂しい。
私にあるのは、娘が激しく与えた自照自省への気だけであるが、年齢相応の体力減少体感の多い日々ながらも、もう少し私の思案を、それがどんなに拙劣かは自覚しているが少なくとも私の言葉であることだけは大切にして、続けられたらと思う。その時、1991年以来浮沈を繰り返すも何人かの絆を持ち得た人々によって存続する『日韓・アジア教育文化センター』に思案を投稿できる幸いを噛みしめている。

たまたま観た北野武脚本・監督・(主)演の『菊次郎の夏』(1999年)で多用されていた、主人公たちの歩いて立ち去る後ろ姿を固定したカメラでひたすら追う映像、また北野武氏演ずる菊次郎が哀しみに突き上げられカメラを凝視する表情、それらの静謐な画面が思い起こされる。そこに言葉はないが観る者の心を揺さぶる音楽(音楽監督:久石 護)がある。映画での映像と音楽の相乗。
北野氏の映画は“全員悪役”以外私の中に入って来なかったのだが、ひょっとして氏は真の“喜劇”人なのかと遅まきながら思え、氏と山田洋次氏・渥美清の三人それぞれの映画観、人生観はたまた言語観に、私が私を視る何かのヒントになることがあるようにも思えた。偶然の人為を越えた示唆……。

最後に、寅さんの決まり文句の一つ。「それを言っちゃあおしまいよっ」に誘発されて。

「言葉の氾濫」と言われて久しい時代。氾濫は生物を死に引き込み、人の心は麻痺する。当たり前のことをくどくどしく言葉で諭せば、10代(に限らないが)の多くは爆発か忍従に追い込まれる。
電車内アナウンスの「席を譲れ」「携帯をマナーモード(この表現も日本的?)にせよ」「足を伸ばすな」「床に座るな」等々の短い駅間での息つく暇のない道徳説諭。それも機械音声で。
首都圏をはじめとする大都市圏の駅での、とりわけ元国鉄現JR駅での、エスカレーター不備、切実さ最たる一つ「手洗い」への不親切(相変わらず“ご不浄”感覚なのか。)に、日本人の私たちが困惑しているにもかかわらず連呼される、観光立国日本、「おもてなし」の国日本。観光も仁術であるはずなのに、これでは「観光は算術」の日本と揶揄されるのも時間の問題……。

具体的感覚的?日本人?にとって言葉は、遊戯(たわむれ)の「記号」と言うことなのだろうか。

そもそも東京オリンピック誘致での、IOC総会での当時都知事であったI氏の下品な勧誘スピーチに諸外国の委員が賛同したのだから、現代はそういう時代なのだろう。
「(だから)それはちゃんと言っただろう」と。

 

2016年10月12日

中国たより 2016年10月   『青島会』 

井上 邦久

この季節、中国の市場や観光地でサトウキビ(甘蔗)を買うことがあります。50センチくらいに切って、黒っぽい皮を削ってもらい、端からしゃぶっていくと徐々に甘味が増えてきます。佳境に入るという字義には、甘蔗の甘い部分へ近づいていくこともあると教わった記憶があります。

今まさにプロ野球は佳境に入ろうとしています。今年は秋まで鯉のぼりが応援スタンドで泳ぎ続けた広島カープが様々な話題に包まれています。
創成期の市民の支えなどの美談を読むと、こうの史代さんが2004年度メディア芸術祭マンガ部門大賞を受賞した『夕凪の街 櫻の国』を思い出しました。
原爆スラムと呼ばれた簡易住居で健気に暮らす女性たちが「今日のカープは勝ったかね?」「長谷川良平が投げて、金山二郎が打ったよ」というような会話を交わす場面が印象的でした。心身に原爆後遺症を抱えながら倹しい生活の中でも、カープを応援することで明るく生きようとする人たち。元祖カープ女子のような主人公を同名の映画では麻生久美子が好演していました。
広島カープが創設された1950年前後の混乱期を経て2リーグ制が開始。戦力の平準化のために、松竹ロビンスから国鉄スワローズに移籍させられた選手のなかに千原雅生内野手がいました。

営業駆け出しの頃、社運とまでは言わずとも「部運」をかけた大切な中国出張に、鞄持ち兼通訳として参加したのは1982年の夏でした。酸化鉄磁石用の化学品原料の供給元を青島、北京、武漢、南京、上海と巡る出張には、TDKの購買担当役員を筆頭に技術部長らが脇を固める物々しいご一行でした。事前に団長の役員は元プロ野球選手だったらしい、という話を代理店関係者から教えて貰いました。早速、野球名鑑を調べて千原さんが国鉄スワローズの正三塁手であったことを確認しました。出身は同郷の大分県ということで、大分市出身の伯父にも問い合わせたところ、「千原さんは大分市の有名な料亭の息子さん。戦前の大分商業のスターで、門司鉄道局大分の野球部からプロ野球に引っ張られた」ことを知りました。享栄商業中退でスワローズに入団し、すぐにエースになった金田正一投手とも一時期は一緒にプレイしたはずです。
初対面の時、大柄な千原さんは優しくも鋭い眼差しで挨拶され、「田村駒さんは元気ですか?」と同じ関西系商社の名前を唐突に口にされました。戦前から野球チームのオーナーとして著名であった田村駒(株)の社長の田村駒次郎氏が、戦後にチームの愛称をロビンス(駒鳥)とし、京都の衣笠球場を本拠地としました。千原さんも一時期ロビンスに所属されていた御縁がありました。野球と故郷大分が触媒作用をしてくれて、千原さんとの距離が一気に近づきました。

青島での業務もほぼ終了した午後、千原さんから「井上君、たっての頼みを聴いて欲しい。迷惑だったらハッキリ断ってくれ」「青島神社の跡地に行きたい。中国の身元引受公司を困らせることは承知している」「1945年8月15日の午後、青島駐屯の兵士が青島神社に結集した。その中に決死の思いをした一人として私も居た」・・・色々と考えて、親しくしている公司の実務担当者に率直に伝えたところ、「その場所は子供の頃に遊んでいたので良く知っている」「仕事も終わったし、三人だけで海岸ドライブに行きましょう」と車を手配してくれました。
当然ながら鳥居も社殿もなく、石の階段と手水場が名残として見つかりました。千原さんは公司の担当者に「ありがとう」と一言お礼を伝え、あとは寡黙でした。

日本が青島に駐留したのは、第一次大戦の後であることは知られています。
以前に奈良岡聡智『対華二十一カ条要求とは何だったのか・・・第一次世界大戦と日中対立の原点』(名古屋大学出版会、2015年)から色々と考えさせられ、とりわけ山東半島や青島がキーワードであるとの感想を綴ったことがあります。

この夏、加藤陽子さんの『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(2010年)が新潮文庫に入り、続いて同じ八月に『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』が出版されて、ともに刷数を増やしているようです。
日清・日露そして第一次大戦が流れとして繋がっていること、そして山東半島や青島がその繋ぎ目として重要な土地であることが改めて解明されています。
二冊の本は、中高生に授業形式で話を進めるスタイルが共通しています。優秀な中高生が鋭い指摘や回答をしていることも共通しています。後書きで加藤さんは、中高生とともに中高年にもどうぞ、とお誘いをしています。

「近代史、現代史を授業では習っていないからなあ・・・」という言葉をしばしば耳にします。何故、授業で教えないか?本当に教えていないのか?についてはよく分かりません。ただ、仮に授業での印象が少なくても、知る・学ぶ方法は色々あることを加藤さんは示しています。

スタンドを紅葉に染める安芸の陣

    米国の木陰に憩う原爆忌

    9・18それでも選ぶ戦(いくさ)みち

野球中継のあと、興奮を鎮めるために読みだした歴史の本が佳境に入って、秋の夜長を満喫するのも良いですし、催眠効果によりすぐに熟睡するのもまた健康的だと思います。                                          (了)

2016年10月2日

小人閑居して大人の気を倣(なら)う…… ―長寿化と少子化と教育と―

井嶋 悠

 

カミさん(“妻”より、私が今在り得るに相応しい響きゆえこう書く)が、8月以降、糖尿病と心臓病の精密検査と集中治療で3回入退院を繰り返し、来月20日に心臓弁膜及び不整脈の手術と、手術後3週間ほどの療養のため14日から長期入院する。
在住市が行なう毎年の集団検診で、何度か要精密検査の連絡があったものの、女は男より忍耐強いとの母性自覚と痛い苦しいを言うは江戸っ子の恥で、聞き過ごすこと3年、体と志は別そのままに天が下したのがこれ。
経験豊かな医師曰く「40年程医者をして来たがよくまあ生きておれたなあ。病院に行くのはめんどう、も分からなくはないが、度を越すのも困りものだねえ」の重症。近々に障害者1級手帳が交付される!能力の高さを直覚させ、和み滲み出る医師、看護師に恵まれ、快復の光明を信じているとは言え。

「医は仁術」との言葉が浮かぶ。仁愛の仁。慈しみ。博識の、技術の讃ではない。人の根幹への讃。それは、とりわけ「師」が付く職にある人の必須ではないか、と元教師は自省強く思う。知識、博識で惑わせられるほど若者の感性は薄っぺらではない。もっとも、私的印象ではあるが、教師前半期と比べて後半期(1980年代後半以降)、多知識(者)=優秀の傾向が確信になって来たように思える。
カミさんを導く医師・看護師が醸し出す「気」には一切の衒(てら)い装いはない。私たちに染み入るゆったりした命の響き。大都会ではとうに喪失しているが、「69歳の東女に71歳の京男」の私たち夫婦の一致した思い。

当の本人、江戸っ子気質は三つ子の魂、一日一刻生涯、五月は鯉の浮き流しは健在で、病膏肓(こうこう)に入るは烈し過ぎるし、担当医師に甚だ無礼な表現であるが、大事(おおごと)との自覚は言葉や表情の端々に表われていて、入院に向けた身の回りの準備は正に用意周到。ただ、その態様はまるで子ども時代の遠足準備のようでもある。これをどう取るか。
「私はこのまま。オモテウラない」との常日頃の自負をそのまま受け入れるのか、いや彼女なりの精一杯の気遣いなのか。私はもちろん先の吹き流しの後に続く「口先ばかりで腸(はらわた)はなし」、オモテがすべて、ホンネで生きてこそ気概をただただ信じ、「車なしには生きて行けない車社会」の当地での生活、通院で、「走らない、混雑場所では車いすを使う、1㎏以上の物を持たない、一日の食べ物摂取カロリーは1400キロカロリー以下」等々、幾つもの禁止令を遵守する健気なカミさんに付き添っている。
6階建ての病院の正面入口を入ると、総合受付や薬受け渡し場所等々がある広く明るいロビー(待合室)で、多くの人が行き交う。私は妻の診療が終わるまでそこで待つ。時に2時間くらいになることもあるが、行き交う通院者、入院者、職員、医師は、私に貴重な自照をもたらす。とりわけ老人や幼児は、私を叱咤し、来し方が巡り、今日や明日を思うのだが、それは感謝であったり、悔悟であったり、得心であったり……。

今回の大事も、娘の死による自照自省と同じように、夫婦して気づかされ、見えて来ることは多い。

世は健常者の視線で組み立てられ、動いているとの実感。思い知らされる私の想像力の貧困と字義知識だけの言葉で過ごして来たこれまで。
以前にも書いた、被災後のニュースで知った福島の或る女子高校生の「同情の眼で見るのは止めてください!」が突きつけた厳粛が甦る。昭和10年代の癩病(当時、ハンセン(氏)病との言葉はなかった)作家・北條民雄の「同情ほど愛情より遠いものはない。」の叫びと共に。これは私の中で今もって未解決で、自身の言葉で言えないのだが。
一方で、障害者手帳申請時での説明で知った医療補助制度の厚さ。より具体的場面で実態はどうなのか、また都(と)鄙(ひ)での格差の有無についての確認等は今後のことではあるが。等々。

「慌ただしく」「忙しく」過ごさざるを得ないのが現代で、それが「現代人」の矜持と覚悟はしていても、そういう自身の虚しさに苛(さいな)まれている人は年齢を問わず多い。
都鄙の格差はますます強く厳しく指摘されるが、文明と人、文化と生に思い及ぼすとき、鄙の価値への回帰が確実に始まっているのではないか、それも喫緊のこととして、とこの地に移住して10年、思う。
因みに、カミさんの心臓手術医師団は3人で形成され、3人とも地方出身の地方大学出身者で、カミさんはこよなく3人を親愛している。

「ふくよか」なやさしさ。「しなやか」なやさしさ。「たおやか」なやさしさ。湿潤な土の香り漂うやさしさ。遥か昔、西から、南から、北からやって来た“原日本人”が、海に囲まれ、山川草木に溢れ、四季豊潤な温帯((正しくは亜寒帯から亜熱帯だろうが温帯とする)の日本列島で、何代かの時間をかけて育んだ言葉。和語。やまとことば。
やはり日本は母性の国だと思う。母性=女性の安易さではない原理として。

氷川 玲二[1928~2000:英文学者。1970年、大学教員職を辞し、スペインに定住。ヒッピーの指導者にしてスペインの大学教員を経て帰国。]の、『意味とひびき―日本語の表現力について―』(1995年)(『池澤夏樹個人編集・日本語文学全集30』(2016年)の一巻、《日本語のために》所収)と言う、ひらかな・漢字・カタカナ、和語・漢語・カタカナ語を入口に日本・日本語・日本人を自由自在、示唆豊かに語るエッセイを読んでいたら、こんな言葉に出会った。(私は、筆者についてこのエッセイ以外、経歴的な事しかしか知らないが、天は時折“凄い”人を創る、そんな一人だと思う。)

「ひらがなで生活し、漢字で思考するぼくたちの言語活動」

そして私は「母性で生活し、父性で思考する」と勝手に広げ、日本史の女性男性の幾人かを思い起こし、私の現代日本観に重ね、心を亡くす「忙しさ」、心を荒げる「慌ただしさ」への警鐘ととらえる。
10代のあの瑞々しい感性を確認し、培い、未来を思索し、試行する時間としての学校時間、教育(中でも小学校から高校までの)の本質的(ラジカル)な再考と改革が、長寿化、少子化の日本だからこそできるのでは、との期待を持つ。

私は、なぜ現政権を支持する、政治家、専門家・マスコミ人、官公吏等の大人が、相変わらず50%前後在ることに知情意から受け容れられない一人で、ただ有り難いことに周囲に同意見者は多い。
「金(かね)と武」をもって強い国、大国とする独善を正義と心得、財政難を理由に増税を言い、国民の税金の海外での大盤ふるまい、そのための史上最多の外遊経費の濫費の上記リーダー(首相)が、先日アメリカで、金融関係者を前に「日本の高齢化や人口減少は、重荷ではなくボーナスだ」旨講演したとのこと。
「日本はこの3年で生産年齢人口が300万人減少したが、名目GDPは成長した」「日本の人口動態にまったく懸念を持っていない」「日本の開放性を推進し、一定の条件を満たせば世界最速級のスピードで永住権を獲得できる国になる。乞うご期待です」と意気軒昂に語った由。
聴衆が金融関係者、それも絶対追従の憧憬国アメリカの、と言うことで舞い上がったのだろうが、日本の、貧困にあえぐ子どもやその親(多くは母親)は、更には災害大国日本にあって自身の過失ではないにもかかわらず被災再建の借金を強いられ途方に暮れている人々は、また憂愁と理想の間(はざま)で苦悶する若者は、この意気軒昂をどうとらえるのだろうか。
報道の見出しに「ボーナス」を見、一瞬期待したが見事なぬか喜びだった私は、同じ日本人として首相の厚顔無恥を恥じ、仕事で出会った思慮深いアメリカ人の失笑が浮かぶ。

先日、文化庁の調査で、メールなどで「OK」という単語をひらがなで「おけ」などと表現することがある10代の若者が半数に上る、とのニュースがあった。そこで、或る専門家は「若者の間で入力ミスであろうと、とにかく早く返信したほうが仲間に信頼されるといった思いが強い。若者が常にせかされた社会で生きていることの表れだ」と言っていた。
そこに、なぜ「せかされている」のか、急かすことをさせるのは何なのか、更には誰なのか、との発言がない。(あったのかもしれないが少なくとも放送にはなかった)。マスメディア(マスコミ)が依頼する専門家だからなのだろうか。非常に残念に思う。

教育は(学校教育)社会の、国の礎とは常に言われることである。

【蛇足】私が教育を述べるときは、中高校国語科教師であったので中等教育、国語科教育を糸口にした文系教育からのそれで、理系には甚だ疎い。

教職時、直接に聞いた現教育に係る言葉の幾つかを採り上げる。

その場で嫌悪感を沸々とさせながらも異議申し立てすることなく聞いていた私は、私なりの理由はあるのだが、お前は一体何なのか、との難詰を思い描きながら。

教育関係者の言葉。

「高学歴にこしたことはない。」

或いは、
最近の若者の知的レベルの劣化、低下を嘆き憂い、自身が立つ教育現場の前の教育現場(大学なら高校、高校なら中学校、中学なら小学校)の教育を批判する教員の言葉。
或いは、
学歴社会批判論を展開しながら、己の高学歴を誇示しエリートを自任する一部?の大人の言葉。ウラオモテ。ホンネとタテマエ。
私は、高学歴をひとまとめに一蹴するほど図式的ではないが、有名大学に合格した段階で“終了”し、校名を権威にしての闊歩が多過ぎやしないか。その頂点?と自他?認める東京大学。親族を含め何人かの卒業生と出会っているが、なるほどこれはほんものだ、と思った人はほんのわずかである。
「批判はそこに入学して言え」との叱声は、今もあるかどうかは知らないが、塾在っての進学の現代、所得高額者の子女の高学歴化傾向の現代、にあってはたしてどうなのだろう?それもあっての「大学入試改革」なのだろうが、そのことについては後で触れる。

教育関係者の言葉。

「企業が求める教育でなくては教育の意味はない。」

企業内管理職者の言葉。

「学校で学を教えるのは止めて欲しい。教育は私たちがする。」

「“有名大学”と“無名大学”出身者の協働開発がユニークな製品を産む。」

資本主義社会の悪しき一面として企業を視る人はあるだろう。私はそこまで言えるものはないが、教育を企業と言う一面から視ることに強い違和感がある。国際社会での共存と競争だからこそそういう視点になるのか、とも思ったりするが、発言者が常日頃、多様性の教育、個性伸長等を強調している人たちなのでなおのこと拒絶する私がいる。

[私の中で上記と重なる或るエピソードを。]
当地で出会った当地出身の高卒学歴を卑下する自営業の50代男性。大阪で修業するもその商法・経営法に馴染めず戻り、今ではウラオモテのない真摯な人柄から多くの敬愛を集めている。その男性が或る時、私たち『日韓・アジア教育文化センター』のホームページをざっと見て一言。「日本の教育を変えたいのでしょう」。どれほどの励みとなったことだろう。

金と武の強大性を確固たるものとすることが、不安定極まりない国際社会・グローバル社会での自立となり、先進国として指導的立場となるが、日本の命題であるならば、教育は息苦しいものにならざるを得ないし、「慌ただしい」「忙しい」も「急かされる」とも合致する。
日本は豊饒の、しかし同時に人為をはるかに越えた危険な、自然風土の国。そこにあって、自然と人為の共存共生への伸長は、金と武とどうつなげようとしているのだろうか。

1868年.近代化の大号令から今年で148年。大東亜戦争(太平洋戦争・15年戦争)敗北から71年。1972年沖縄が様々な制約拘束の下アメリカから返還されて45年。
604年の「17条の憲法」の制定から1412年。1603年江戸時代の始まりから413年。現代日本語の源流を知るには室町時代(1348年)からで良いとの説に立てば668年。それぞれの経った時間。
平均寿命80歳の現代日本の文明・文化は、何が基層で、或いは何を基層にしようとしているのだろうか、その起点(基点)とする歴史は、どこを拠りどころにするのだろうか、そして私は何を、どこを?と。

先に引用した「ひらかなで生活し、漢字で思考する」が、「カタカナで生活し、カタカナで思考する」化しつつある現代にあってはなおのこと。

「学歴がすべてではない」を、学歴で苦難の人生を強いられた一部を除いて、全的に否定する人は今では数少なくなっていると思う。しかし、学歴の終着点の一つ大学入学のための教育費過負担と入学後の学費高騰による経済格差、また出身大学歴としての大学格差は歴然としている。大学進学より資格取得度の高い専門学校に進学する若者が増えている。定員割れの危機的状況の大学は、専門学校と連携している。多くが何のための大学進学?と考える。それほどに大学は多い。大学の大衆化による大学の危機。

私の親族の例を挙げる。
精神的問題を抱える青年(男)がいる。某私立大学に事前相談に行ったところ大学側は快く受験を薦め、入学できた。しかし1年後、受講教員から退学を求められ退学した(させられた)。親は未だにその理由が(核心の理由)が分からないと言っている。たまたま家庭の経済等環境がよく、親の元で生活しているが既に30歳を越えている。親は自身たちの死後の彼の在りように心を傷めている。

学歴社会を非とするならば、少子化でますます余剰気味の大学現状なのだから減らせばいいとも思うが、学生保護者教職員等々一命に係ることで、事はそんなに安易ではない。だからこそ求められる質の改革と卒業生の存在・活動成果の、美辞麗句や見てくれの広報ではない広報。論より証拠、と幾つもの学校浮沈を見て来た私は実感する。証拠の一元的価値観残滓(ざんし)を払拭させ新生させるためにも。
私の思考の矛盾は承知しているが、大学が変われば高校も中学校も更には小学校も変わる。変えるのは教師という大人であり、その教師は変える意思によって自身が変わる。教師は生徒によって育てられる。教師が変われば、生徒も保護者も変わる。社会があっての教育から教育があっての社会への教師の明確な意識変革。などと考えるのは私だけかと思うが、少なくとも教師不信に喘(あえ)いだ亡き娘は首肯してくれると思う。

【付記】改革のための中高校制度変革の私案要点を。

○中学校高等学校期間を8年とする。数年前から機能している中等教育学校視点の8年制。
8年間を4期に分けて、入門⇒基礎⇒発展Ⅰ⇒発展Ⅱとし、「卒業論文」をもって終了とする。入門期ですべての科目の「気」を感じ、知り、そこから自身を知ることの重さと発見する楽しさ、感性想像力の涵養が生み出す未来に向けた思索と試行。もちろん、そこには大学受験を意識した「主要5教科目」とか「芸能科目」といった一部の学校関係者が使う差別用語はない。
選挙投票機会が在籍最後の2年間にあれば、緊張感を持った有終となるのではないか。それは高校卒業後就職を選択する者にとってはなおさらのことではと思う。そして、卒業が成人式の年でもある。

○4年制大学の専門性の徹底を意図しての教養課程の廃止と大学院前期(修士)課程の学部移行での4年。
短期大学での専門性前期の浸透、徹底。

○「支援」から「共生」へ、に向けた障害者の受け容れの義務化。(これは先述の私の未解決の課題「同情と愛情」につながることである。)
入学後の共生内容・方法の学校・保護者での合議。その前提となる国の指針。当該生徒の教育及び学校生活上で必要な人員(教員)の人件費等経費の国・地方自治体補助金による保障。)

或る全国紙で、『新大学入試』との表題で、「公平」「安定」は確かかとの見出しを付けた社説(9月15日)を読んだ。

「2020年度から始まる予定の新しい大学入試について、文部科学省が検討状況を明らかにした。」との書き出しで始まり、「思考力、表現力をみる記述式」の国語と数学での導入、そこへの課程(「学習指導要領との整合性」等)と合否採点(「教員負担」の過剰や「採点基準のばらつき」等)での問題が、英語の「話す」「書く」の民間機関の資格試験等結果導入と併せて論じられている。(「 」は記事内の表現)
4年後からのことであり、本質的変革への一歩として是非、実現させて欲しい。
かの「(横断的)総合的学習」の、学校・教師社会の構造改革を措き、「(横断的)総合的学習」と相似の欧米の教育構想を持ち出したり、場当たり的な無節操な糾弾や、更には「基礎・基本」内容を雲散霧消のまま続けられる学習と進路といった過ちを活きた礎石に。

その上での二つの疑問を記す。

○塾の問題

今日、進学成果は塾が必要不可欠であることは、入試問題内容からも明明白白で、そのことへの「理」なくして、「学習指導要領との整合性」云々はどう考えれば良いのか。因みに、“有名大学”進学を誇る“有名進学校”の生徒もほとんどが塾を力にし、海外在留子女のための現地での塾(現地開設や日本の塾の海外塾)の生存競争は、時に国内以上に厳しいその現状への明瞭な視点がないかぎり、「思考力、表現力をみる記述式」は塾・予備校あってのことになる怖れを思う。「小論文」導入とその後、同様に。
こんな疑問も湧く。「この社説を書いた記者及びこの稿を良と判断した上司は、塾に行ったことがないのだろうか」。それとも「塾は成果のための道具に過ぎない」と言うことなのだろうか。
私は、「補習塾」には必要性を思うが、「進学塾」は必要悪と思っている。この必要悪表現はあまりに非現実的暴言だろうが。

○「大学教員負担の過剰や採点基準のばらつき」について

なぜ負担を過剰とするのか。「教育」への大学教員の考え方は、やはり小中高校教員の教育観とは違うと言うことなのだろうか。そうならば大学・大学人の構造・意識改革が必要なのではないか。
また、採点基準のばらつきがなぜ問題なのか。人が人に教え育む人為としての教育での、主観と客観に係る問題かと思うが、思考と感性の記述評価での内容と方法(構成、語彙等)への視点が混在しているのではないか、と入試採点での教師間議論経験から思う。このことは「個性伸長」「多様性への寛容」といったことともつながるであろう。

記者には、「慌ただしい」「忙しい」も「急かされる」も増幅されるばかりだが、現代はそういう時代であることを受け容れなければならない、それほどに厳しい時代であり、長寿化と少子化だからこそ自己を一層深められる千載一遇の機会である、との意識があるようにも思える。

長々と書いて来たが、これらは老いの繰り言と言えばそうかもしれない。人生、喜怒哀楽、欣喜雀躍することも何度か?ある。しかし浮き世は結局憂き世と、差別はなくならないと思う今の私には強い。しかし減らすことはできる。それが人為の素晴らしいところだ、と娘の苦しみを、続く若い世代の人たちが取り込まないことを願う私もいる。