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2021年10月21日

多余的話(2021年10月) 『牛の話』

井上 邦久

9月に触れた『僕の訪中ノート1971』(編集工房ノア)は、1971年2月20日、(晴)から始まる。
10時、香港最北駅の羅湖に到着。橋を一人ずつ歩いて渡り、深圳側の人民解放軍兵士が機敏な動作でパスポートチェック。
広州行きの列車待ちの深圳駅前には水田が広がり水牛が緩慢に動いているように見えた。その日が晴か曇りか記憶にないが、初めて接した兵士と水牛はよく憶えている。

水牛の角を見て、岡本太郎デザインの近鉄バッファローズの帽子を連想した。読売巨人軍の背番号3を長嶋茂雄に譲り、関西の鉄道会社系の近鉄パールズの監督に就任した千葉茂。その現役時代の愛称として親しまれた猛牛にちなんでバッファロー(ズ)としてイメージ一新を図った。
その後変遷を経て、オリックスバッファローズとなり、今まさかの変身を遂げつつある。近鉄バッファローズは系列の航空貨物会社のアメリカンフットボールチーム名として健在であることを、北京駐在時代に飛び込みセールスしてきた「牛突猛進」タイプの営業マンから教えて貰った。

J&J須賀川工場のある福島県中部は「中どおり」と呼ばれ、今井工場長夫人がMidwayと訳された記憶がある。
三春町の張り子細工とともに、会津の張り子の赤べこは実に可愛い。ただ赤い牛の黒の斑点には注意を払わないままだった。

この数ヶ月、天然痘のことを香西豊子さんから学んだ。
昨年来の疫禍について専門家諸氏が百家争鳴し、科学的とは思えない言説もある中で、医療系社会学者の香西さんの新聞発言に注目した。
近作の『種痘という〈衛生〉近世日本における予防接種の歴史』(東京大学出版会)は8,800円+税という価格もさることながら、果たして読み通せるか自信がなく思案した。

市立図書館には置いて居らず、ダメ元で購入申し込みをしたら、府立図書館の蔵書を期限付きで仲介貸出してくれた。期限が限られていると意外な集中力が上がるもので、日本における天然痘の歴史は、蘇我氏物部氏の対立の頃から始まるという文章の流れに何とか乗ることができた。
江戸時代まで頻繁に発生し、子供が罹りやすく命を落とすこともあった。隔離手法や漢方人痘療法もあったが、達磨などの赤色の玩具、源為朝の疫病退治図、赤飯、茜木綿の病衣などにより、赤色は天然痘の発疹の赤を制して取り去ると信じられた。滝沢馬琴日記などを引用して、子供達の発症、闘病、快復(或いは夭逝)の記録解説が詳しい。

罹ることは仕方ないが、なるべく軽めに済ませたいという「With天然痘」の習しがあったことに着目した。また無痘地域として、八丈島・熊野・岩国・大村などが知られおり、岩国藩主は明治まで誰一人罹患しなかったという。城下から錦川で隔てられた山城で生涯隔離されていたのだろうか?
その岩国藩から池田瑞仙錦橋という治痘医師が幕府の奥医師に異例の抜擢をされ、実子池田京水、二代目瑞仙霧渓(平岡晋)が「池田痘科」の名を成した。

1849年を画期として牛種痘の時代に入る。
ジェンナーの美談(?)として知られる牛種痘法は18世紀末にイギリスで実用化され、1802年にインド、1804年にはバタヴィア、1805年にマニラそして広東/マカオに伝来した。イギリスが中国に阿片を持ち込み、天然痘の種痘法を伝えた時期はほぼ同じであるとの事。

日本では天然痘とは長い付き合いで、民間では怖れつつも手なづけ、「池田痘科」一門の人痘ウィルスの施術効果もあって、牛由来の舶来手法の必要を渇望することも少なく、外来物への保守的な風土も邪魔をした。しかし、1849年長崎オランダ商館医のモーニケと佐賀藩侍医の楢林宗建の連携でバタヴィアからの牛痘苗が一人の児童に活着して情況は大変化。
1849年から1850年の短期間に桑田立斎らが十指に余る種痘奨励書・手引書を出版している。このあたりの動きの速さには驚嘆する。

各地に種痘所が設けられ、江戸は神田の種苗採取所が後の東京大学医学部に繋がるとの事。更に佐賀藩と並んで先駆的だった福井藩侍医の笠原良策や大阪の緒方洪庵らの活動を経て、蝦夷地や琉球も含めた津々浦々に牛痘接種が普及し罹患者が減少したとの事。
牛の天然痘(牛痘)が牝牛(vacca)乳房に発し、そのウィルスを使う牛痘種痘(vaccination)がワクチン(疫苗)の語源で、パスツールがジェンナー顕彰の為に、牛痘由来以外の免疫抗原をも広くワクチンと呼び一般名称にしたとの事。

折よく、仏教大学OLC(OpenLearningCenter)講座が10月から始まり、香西教授の『「疫病」に向きあうー日本列島における治療と予防の歴史』全6回も開講。
初回は都合でオンライン受講、来月は教室に向かう予定なので、上述に繰り返した「・・・との事」接種の受け売りが増殖することは必至。

疫禍の下、巣籠もりしながら感染病の基礎知識の一端を囓ることで、若い時から読みあぐねていた森鴎外の『渋江抽斎』を今回は一気に読了できた。
また、夏目漱石が生涯気にしていた「痘痕(あばた)」も幕末までの子供の通過儀礼であったと知った。
どちら事も得がたい副反応効果と捉えている。

2021年10月6日

日本から米国へ、韓国から日本へ ―大谷 翔平選手・春日王元幕内力士-

井嶋 悠

Ⅰ:大谷 翔平選手

以下のアメリカ大リーグにかかわる発言は、下記書物からの引用転載で、その部分は「 」で示している。伊東 一雄・馬立 勝著の『野球は言葉のスポーツ―アメリカ人と野球―』

私には夢が一つある。いや、この年齢となればよほどの環境変動がない限り、あったの方が正しい・・・。
それは、アメリカ大リーグの試合[公式試合ならどのような組み合わせでも構わない。ただジャイアンツは避けたい。日本のジャイアンツが嫌いなので。]を観ることである。但し、希望条件があって芝生の外野席で、陽光を燦燦と浴び、好きな所に座り、アメリカのビールを片手に、あのパサパサのパンのホットドッグとポテトチップをほおばることのできる球場でなくてはならない。
現職時代、出張でロスアンジェルスとサンフランシスコに行ったことがあったが、あそこ(カリフォルニア)の陽光は、現地の日本人が言うには、カリフォルニアは年中春で、言わば人を確実に鈍化させるほどに平和と温和さを兼ね備えた陽光の地である、と。だから屋外球場であることが最前提である。これについて、シカゴ・カブスのオーナーは言っている。

「野球とは陽光を浴びてプレーすべきもので、電灯の光のもとでプレーするものではない。」

こんな言葉もある。

「屋根付き球場は自然の中で楽しむ本来のスポーツから外れた、ビジネスとしてのスポーツの要請から生まれた施設だ。野球を室内競技に変えた不自然さが生んだ、まことに不自然きわまる出来事だった。」

(編著者の言葉)


観覧するチームに日本人選手がいればもちろん応援したいので、一応国旗を携えて行く。

もっとも夏のナイターもまんざらではないことは経験上否定しないが、やはり陽光の方がいい。そうかと言って高校野球を観に行きたいとは思わない。理由は単純である。あの野球があってその学校があると言う営業性があまりに多いのと、高校生=純粋無垢との性善説が苦手なのである。だからそれらの逆が登場すると結構テレビ観戦に向かう。

妻は、高校野球には大いに関心を示すが、プロ野球にはとんと興味がない。かてて加えて海外旅行など全くと言っていいほどに関心はない。しかしパサパサのパンを非常に好む習癖があるから、この企画には恐らく乗ってくるかも、と想像するが確率は限りなくゼロに近い。

そんな似非プロ野球ファンと言うか少しは知っている程度で、それも選手名で言えば田中 将大君で私の知識は休眠状態にある。
そんなところに、選手として人格として欠点がないのが欠点との印象を持つ大谷 翔平君の出現である。エンゼルス初期の頃のインタビューで、今までの野球生活の中で、最も記憶に残る試合は何か問われ、しばらく考えた後、小学校時代にピッチャーをしていたことです、とか、日本人の取材で趣味はと聞かれ、岩手には何にもないしなーと応える、見事なまでに余裕がある20代なのだ。彼の行くところすべてにほのかな笑みの気が漂う。
ホームラン王を争っているレゲーロ選手も言うように、母の胎内に神の手で送り込まれたとしか、それも可能な限り人間らしく振舞うどこにでもいる人間として、送り出したとしか思えない今シーズンなのだ。来シーズンも、そしていつか地球を立ち去るまで成長して欲しいと思わざるを得ない。その時こそ彼は真に天才の「天」と言う語を自己のものとし、人間として余生を送るだろう。
尚、ここで天才との言葉を使っているが、「天才とは1%の才能と99%の努力」との、確かエジソンだったかの、言葉を思いながら使っている。

今も根強くあると幾つかの場面で言われる、アメリカの人種差別[有色人種蔑視、侮蔑の感情をもってアジア人と一括りにする発想]またパールハーバー襲撃を憎悪し続ける心が、アメリカ中南部を中心にあったとしても大谷選手は軽々とそれらを乗り越える天性を備えている。否、乗り越えるといった人為性ではなく馬耳東風であるように思える。

イチロー[鈴木 一朗]氏も、10有余年のアメリカ大リーグ生活の中で、多くの記録を塗り替えた選手だが、私には大谷選手とは全く別なものを思う。
イチロー氏はどこか古武道士の印象が漂い、それは日本代表チームを「サムライ」と言うに近いもので、やはり天賦の才に恵まれたのであろうが、私の中では天才が放つ陽明性、少年性がないのだ。
巨人でプレーしたことがあるレジ―・スミス氏がこんなことを言っているそうだ。

「ベースボールはプレー(遊び)だが、野球はワーク(働き)だ」と。

大谷選手は日本人の好む「道」とは無縁で、どこまでも遊びの域に貫かれている。遊びの天才と野球道の天才。そして私は野球に「道」を求めたいとも思わないし、だから「サムライ」との名づけにも違和感を持っている。
野球は老若男女が人生とは?といった哲学に心かき乱されることなく一心に楽しめる娯楽であると私は思うし、だから陽光が必要不可欠なのである。ホームランは当然賞賛に値するも、その丁度裏返しの三振王でも何ら責めない。アメリカのアメリカたる所以と思う。

大谷選手は、来季の契約でアメリカ的に莫大な契約をするのだろうが、イチロー氏は既に億万長者に到達している。そして、大谷選手はカード一枚に何億もの金を畳み込む天才性を想像するが、イチロー氏の場合何十冊もの整理された通帳に留めおくそんな天才性を思ったりする。一野次馬としては、大谷選手の契約更改で彼が何を言うか興味津々である。イチロー氏の時はどうでもよかった。尚、初めに引用した同じ人物[オーナー]の言葉に次のものがある。

「大リーグ野球はビジネスというにはスポーツでありすぎ、スポーツというにはビジネスでありすぎる。」

尚、大リーグへの先駆者とも言える1968年生まれの、大リーグ在籍12年の野茂 英雄氏がいるが、大谷選手とは26歳の年齢差があり、私自身西鉄黄金時代のあの奔放性とか大洋のホーム球場での野次は絶品とか野球そのものとは関係がないことだけに興味があっただけのことで、ここで氏には立ち入らない。

野球はアメリカの国技の一つで、その国技で当事者たるアメリカ国民を熱狂させた二人。とりわけ大谷選手への熱狂。彼には、異文化理解も異文化間葛藤もほとんどない、なかったのではないか。体中の感性がアメリカに融合した外国人の大谷選手。またそれを支えた日本人通訳の水原 一平氏の気配りと謙虚さ。
国技の国アメリカから日本の野球に入る選手も多いが、それはあくまでも「助っ人」としてである。
大谷選手は一日本人として、アメリカの国技に熱風を、アメリカに限らず世界に吹き込んだのである。

Ⅱ:春日王関

では、日本の国技と言われる大相撲(法令上国技として登録されているわけではないが、古代からの歴史と伝統から国技として扱われている)ではどうか。多くの日本人を熱狂させた外国人力士はいるだろうか。高見山関を思い浮かべる人もあるだろうが、大谷選手ほどの熱狂さはなかった。
やはりモンゴル勢かとは思うが、相撲協会、NHKまたそれに肩入れする人にとって、大相撲はあくまでも聖なる競技であり、当然「道」の完遂こそ目指すべきこととして見られるのでどうしても?がつく。
例えば、将来それらの記録を破る力士はないだろうと言われる白鵬関。横綱前半期は、その片鱗を感じさせたが、後半期はあくまでも勝つことを至上とすることで批判を一身に受けた。
そこでは結果がすべて、勝てば官軍風潮の、現代社会の世相から抜け出すことができず、白鵬にいいように振り回された感を私は持っている。

それは相撲をどうとらえるかということであろう。私は、ここ何年か前から、相撲協会、NHKの姿勢に疑問を持っている。場所数の問題。地方巡業の在り方、財政問題等、私が想う伝統文化の姿ではない、商業性もっと強く言えば拝金性に陥っているように思えてならない。
白鵬関は今年(2021年)7月場所の千秋楽で照ノ富士関と競ったが、結果は白鵬関でも、内容は同じくモンゴル出身の照ノ富士関に横綱の風格を思ったのは私だけだろうか。
その相撲はスポーツとして扱われるが、はたして例えば野球とは同じスポーツではないように思えてならない。それは相撲SUMOで、しかも大相撲である。

モンゴル人力士は26人で、内直近の横綱5人の内モンゴル人が4人占めている。
しかし、ここでは『日韓・アジア教育文化センター』として、また二国間交流史の最も長い隣国、一衣帯水の国韓国からの挑戦者を思い起こしたい。

韓国には、4,5世紀からの歴史を持つ、韓国(朝鮮)相撲伝統競技「シルム」があり、そのシルムの漢字表記が「角力(すもう)」であるとのこと。これからも近似性に考えが及ぶが、ただシルムは組手から始め、相手を倒すことで勝負が決まる。韓国からの現時点で唯一の力士が、シルム出身の元幕内力士春日王関である。
以下、経歴等『ウキペディア』から適宜引用転載する。

春日王 克昌(かすがおう かつまさ、1977年生まれ– 現44歳)は、韓国・ソウル市出身。本名キム・ソンテク(金成澤、김성택)
3歳の時に父を亡くし、ソウル市から仁川市に移り、母子で裕福ではない生活を送る。小学校4年生の時にシルムにテコンドーから転向した。中学校、高校、大学でシルムに精進し、大学3年生の時に大統領旗統一壮士大会無差別級で優勝した。
その後20代春日山(元幕内・春日富士)に誘われ1998年春日山部屋からの誘いに応じ、大学を退学し入門。
稽古熱心で素直に指導を受ける努力家であったため、相撲文化の吸収も早く、時を経ずしてネイティブ並みの日本語を話すほどになった。
順調に出世して2000年1月場所に幕下昇進、幕下優勝も経験して、初土俵以来23場所後の2002年7月場所には十両に昇進し、初の韓国出身関取となった。十両3場所目の2002年11月場所では十両優勝を遂げ、翌2003年1月場所の新入幕では早々に10勝5敗の好成績を挙げて敢闘賞を受賞した。
この活躍を受けて、一旦は「日韓共同未来プロジェクト」の名のもと2003年にソウル市の蚕室(チャムシル)体育館(ソウルオリンピックの会場の一つ)で戦後初の「大相撲韓国公演」を開催することが決定されたが、中国などでのSARS流行にともなう渡航自粛で延期となった。
延期されていた韓国公演は2004年2月14~15日にソウル市の奨励体育館で、同年2月18日にプサン市の社稷(サジク)体育館で開催された。
この際の春日王の番付は十両であったため、本来なら海外公演には参加できないところ、相撲協会の特別の配慮で参加できることとなり横綱朝青龍以下の幕内力士40名に春日王を加えた41名の力士により行われた。
横綱春日王は土佐ノ海関らとともに、ソウル市内や釜山市内にある地元初等学校や日本人学校小学部を親善訪問して生徒たちに稽古をつけたりした。
また公演のプログラムでは、観衆に対し大相撲について解説するスピーチを行なったり、本人以外全て幕内力士で構成されたトーナメントで横綱朝青龍を破るなど善戦し、地元の観客を大いに沸かせた。
その後、膝の怪我から十両と幕内を往復する中、2011年十両優勝を果たした。しかし、その年に起こった八百長問題に連座し、引退。

【人物像】について、やはりウキペディアから一部を引用する。

  ◎性格が非常に温和で、土俵や稽古場を離れると良く人に気遣い
   が行き届き、ニコニコと笑顔を絶やさずに人当たりがよく、来
   日わずか数年とは思えないほど流暢な日本語を話すことなどか
   ら、後援会や春日山部屋周辺住民をはじめとしてファンの人気
   は絶大で、好調時はもちろんのこと本場所で連敗が続いた場合
   には、部屋にファンからの激励の手紙やファックスが多数舞い
   込む。

   ◎早くに父親を亡くし、幼少時から母親が掃除婦などをしながら
   身を粉にして自分を育てるのを見てきたため、母想いは人一倍
   である。初来日して春日山部屋での稽古を見るなどして相撲の
   迫力に触れ「ここで成功すれば、親孝行できるのではないか」
   と考えたのが角界入りを決心した動機であり、またその後の精
   進の原動力になっている。
  入門後は一切無駄遣いをせずに貯めたお金で母親のために住宅を
   購入してプレゼントしたほか、母親が入院・手術した際にはす
   ぐに飛行機で里帰りして見舞い、万一手術後の予後が芳しくな
   い場合には日本に呼び寄せて近くで看護したいと願い出てい
   る。

  ◎力士養成員(幕下以下のいわゆる「取的(とりてき)」)時代
  から、部屋が主催する地元川崎市内の教育機関や地域奉仕への催
  事に精力的に参加し、2002年6月11日に川崎市役所を表敬訪問し
  た際には、川崎市長から「春日王関は地元の誇り」とまで言わし
  めている。反面、ひとたび土俵に上がると真剣そのものでプロ気
  質に富んでおり、今まで何回も怪我をしてきたものの決して泣き
  ごとは言わず、観客の見つめる本場所の土俵上では多少の怪我程
  度では絶対にサポーターや包帯を付けないという信念の持ち主で
  もある。

春日王は八百長に連座し引退した。それから10年が経つ。罪を犯せば罰がある。その罪はその人の死後まで消えることはないのだろうか。私はそうは思わない。そこに罰に生きる重みがある。
春日王の人柄が、上記の言説通りならば、その苦しみは本人が最もよく心に留めているはずだ。
今、実績のある彼の働きが求められているのではないか、と【日韓・アジア教育文化センター】の一人として思うし、センターで得た韓国人の友人たちも同じではないかとさえ思う。
日韓関係は、1965年の日韓基本条約ですべて解決済みと日本側は言う。しかし、韓国は謝罪を求め、日本はその話しは済んだはずだと言う堂々巡り。ここにはいわゆる「政治」が跋扈(ばっこ)しているように思えてならない。そして中にはそのことから嫌韓、反韓日本人になる人もある。同時に韓国でも嫌日、反日に油を注ぐ人は絶えないのではないか。

韓国の映画技術は、また入場料を取って観せる姿勢は日本より勝っていると思う。韓国ポップ音楽に、韓国ドラマに心酔している人も多い。東京・新大久保、大阪・鶴橋を歩けば韓国に浸っている若者を数多く見ることができる。
モンゴルや西側諸国もいいが、かてて加えて主にシルムに励む若者にも眼を注いで欲しい。
そのことで、力士の粋な浴衣姿、個性あふれる化粧まわし、行司の装束の絢爛(けんらん)豪華、天井から吊り下げられた伊勢神宮の形式をかたどった屋根等、力士の取り組みの勝ち負けだけではない、いろいろな発見が改めて気づかされるだろう。そのことで何千年の文化交流史にみる共通性、相違性に気づかされ、間欠泉ではない真の友好国関係に貢献するのではないか。

隣人を愛すことは難しい。しかし、今時の若者は清々(すがすが)しい、と思いたい。