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2013年10月28日

センターの発展へのエネルギーにー関西での感謝と報告ー

井嶋 悠

或る時は関西で、或る時は東京で生きて、とはいえ大半は関西にもかかわらず、はたまた本籍も菩提寺も京都ながら、余程東京生活が烈しかったのか、かてて加えて杉浦日向子さんに余程魅かれたのか、嗜好と風土に江戸を好ましく思う自分が居て、68歳にもなって東西宙ぶらりんの私は、郷土!?に来て、何人もの理解者と共感者と時間を過ごすという至福を、今回もいただいています。

そこに「想定外」のことが入り込んで、帰宅は来週 !になりそうで、関西での感謝を共有していただけるこを願い報告します。

・韓国の或る女性の自叙伝の日本語版の話がありました。私としては逆も期待しますが、果たしてどうなるでしょうか。

・中高校での、教師の無自覚な、時には良かれと思っての、生徒へのパワハラ(いじめ)に同意する先生方に会えました。

・この厳しい日中、日韓情勢にあって、新たな意欲で日本語教育をはじめとする民間外国語学校開設者と会い、意気軒高なエネルギーを学びました。

・自死の問題に関して、臨床心理士の先生から助言と励ましを受ける幸いに浴しました。

・海外帰国子女教育が、日本の社会を映し出すと同時に、世界でのありようを考えさせ、また日本の学校教育の正負に気付かせる、と言われて久しく、例によって!?彼方に流されつつある感さえある今にあって、懸命に問題提起を続けている先生方に会い、あらためて初心の大切さに思い至りました。

・少子化が拍車を掛けているのでしょうか、学校を取り巻く環境は私など元職には想像を越えた厳しさです。その中にあって慈愛とそこからの熱情をもって日々取り組まれている、不登校高校生のための学校の、日本語学校の、インターナショナルスクールの、そして学院全体からの立ち場の先生方と歓談できました。幸いを力に、です。

2013年10月14日

上海たより  第2回  『加倍』 ―「倍返し」を中国語では? そして言葉と人と歴史とー

井上 邦久

 

『あまちゃん』最終回、2012年夏の北三陸鉄道再開祝賀シーンに、何度もソ連国旗が出ていたのが印象的でした。その翌日、緊張の会議シーンにカメラマンが写っていたご愛嬌とともに『半沢直樹』も終わりました。

二つのTV番組は中国のDVD店に並んでいます。またDVDを待つまでもなく、放映翌日にインターネットで中国語字幕付きで流されて、熱心な当地のファンの支持を得ているようです。弁護士事務所のパートナー先生も早くから『半沢直樹』を追いかけて居ました。

豊富な日本経験の持ち主で、熱心なタイガースファンでもある先生に教えて頂きたいことがあります。今年の流行語になりそうな「倍返し」を、中国語字幕では「加倍奉還」と表現していることの可否についてです。

東京から逆に上海ドラマを追いかけている後輩社員から、女性同士の諍いシーンでも「加倍奉還」というセリフが出ていたとの報告を貰いました。この中国語訳では、日本語の単純語感から見ると、倍にして(感謝の気持ちを)お返しする、という印象を受けてしまいます。他に適切な言葉がないか色々と調べていますが、「加倍回撃」という訳し方くらいしか思い到らず、自信はありません。

相手の名前を訊ねる時の中国語の用法は、普通には「你是誰?」「你姓什麼?」などがあり、相手を尊敬する丁寧な言い方としては「您貴姓?」を使い、問われた方は「免貴姓○」(○は陳とか汪とかの姓)と応えます。尊敬される程の者ではありませんが(「貴」を「免じる」)○と申します、という謙譲表現を挟むことで滑らかな会話となります。

ところが、ずいぶん昔の中国東北地方を走る夜行列車内で起こった喧嘩の最中、「お前は誰やネン?」とぶつける状況となった時に、この「您貴姓?」が口から出てしまい、周りの爆笑を買って、結果として座が和んで事なきを得た、という失敗(成功?)実例を、今年も大学の集中講座の学生たちに話しました。

ところが、或る中国の人から、喧嘩のような緊張した状況でとびきりの丁寧な「您貴姓?」を使うと、言われた方は却って震えあがって、抜き差しならぬ深みにはまる惧れもあるから注意するに越したことはない、と教えて貰いました。

「加倍奉還」にも、表面的な丁寧さが、まさに凄い脅しを含めた「倍返し」になっているのかも知れないな、とも思い始めています。

いずれにせよ、文化や言葉が異なる相手との喧嘩は難しいので、よく自分と相手を見極めて(見くびらず、少しおだてて、臆せず、毅然として・・・)からにすべきだと思います。喧嘩と口説きと値切りは、日本語も含めたどんな言語でも難しくて、残念な思いを若い頃から続けています。

国慶節式典の行われた10月1日、北京は雨。傘も髪も服も黒一色の男たちが、序列に従って歩む儀式を、上海の地下鉄11号線車内テレビで眺めていました。満員の車内の人たちは、画像には無関心のようで、席を譲ってくれた少女を褒め上げるオバちゃん、訛りの強い言葉で子供を叱る賢母、SONYのヘッドフォーンを当てて自分の世界に没入している学生・・・誰も画像を注視するどころか、無視や軽視という程の意識もない、まさに無関心の状態でした。2号線江蘇路駅で11号線に乗換えて、10番目の南翔で降りる客が多く、その次の馬陸駅では乗降客はまばらでした。残りの多くは次の嘉定新城か上海賽車場(F1レース場)へ向かう乗客でしょう。

立派な馬陸駅の周りには、民家は見当たらず、造成中のマンション広告が目立ちました。馬陸駅に降りてはみたものの、地図もなく、水を買うのも難しい状態でした。

そこへ黒服ネクタイの青年が近寄ってきて、立派なパンフレットとともにマンションと自分の売込みをして、モデルルームに行ってくれ、決める時は自分の携帯電話に是非連絡し欲しいと言いました。

「好、研究研究(OK、考えてみる)」と言って退散し、停車場から直ぐに発車しそうな「馬陸1線」バスに飛び乗りました。初めての町では、先ずバスに乗って終点まで行くのが習慣です。何処まで行っても1元(15円)なので経済的には困難は少ないのですが、時間的には風任せなので少々困難が伴います。

駅の周辺はマンション建設ラッシュ。貰ったパンフレットには、「夢見た家が眼の前に」「NOBLE、WHO SAID DISTANT」と遠隔地とは言わせない掴み言葉が。55平米のワンルームから98平米の3LDKという、上海中心部の半分くらいの面積、頭金20万元からということです。何とか背伸びしてもアキレス腱を切らずに、共稼ぎ夫婦が「研究研究」できる範囲かも知れません。詳しくは不動産屋の趙海亮青年に問合わせて下さい。

10分程して馬陸鎮人民政府の辺りを通過しました。続いて広大な工業区に沢山の自動車部品や電機部品の工場が並ぶ地域を過ぎると、ブドウ畑が現われて終点は観光ブドウ園でした。1980年初の馬陸人民公社に優秀なリーダーが現われた、「巨峰」の栽培を広めながら天候や市場動向に大きく左右されない体質強化の為、研究所・販売チャンネル・観光ブドウ園などを作っていった、そして今では「馬陸ブドウ」はブランドになったと看板に書いていました。

しかし、国慶節休暇の終わる10月8日で閉園ということであれば、30元の入場料を払って入場するまでのことはあるまいと、即売場だけを覗きました。売り子さんたちも閑そうだし、売り場のブドウも少なく侘しい雰囲気でした。「ここにあるだけ、他ではもうブドウは売っていないよ」という不動産屋の青年とは異なる不熱心さが面白くて、味や鮮度は期待せずに10元の包を買いました。(社宅で冷やしたら、期待外れに美味しい巨峰でした)

 

40年以上前、雑誌『中国』という一種の啓蒙雑誌がありました。主筆の竹内好による「中国を知るために」という連載は単行本にもなって、初学者の入門書・指南書として分かりやすく熱心に読みました。その中に、果物の話がありました。

夏から初秋には、たわわに実をつけた柿の木も晩秋には収穫や落果を続けます。それを見て、中国人は「もう、無くなった」と言い、日本人は「まだ、有るではないか」と反論する。数えきれないくらいあった果実が、数えるばかりになった状態を「もう無い」と感じるか、「まだ有る」と考えるか、という一種の文化論でした。

ブドウ園には「もう無い」と判断した日本人は入場せず、「まだ有る」と言う中国人の売り子の言い方が面白くて、竹内好の古い文章を思い出しました。

その竹内好が1972年初めのニクソン訪中の報せに接して、朝日ジャーナルに緊急寄稿した一文の題が、たしか「晴天の霹靂」であったと記憶しています。蒋介石の中華民国政府との関係、ベトナム戦争、ソ連とのバランスから見て、米中関係の良化は無いとしていたが、その有りえないことが起こった、と不明を率直に認める文章だったので印象に残っています。

しかし、不明であったのは直前まで知らされていなかった日本政府も同じであり、それからほどなく反中国・親台湾の佐藤栄作長期政権が退陣し、田中角栄内閣が成立しました。そして、バスに乗り遅れまいとする総資本の後押しで中国を訪問し、戦争状態の終結と国交正常化の交渉を行ったのは、42年前のこの季節でした。

42年前の9月29日の出来事について、9月26日付『環球時報』13頁、周斌氏(元外交部高級通訳。79歳)の手記が掲載されています。北京で「中日共同声明」に調印したあと、周恩来首相の専用機で上海へ移動した機内での田中角栄首相、大平正芳外相の様子。上海虹橋空港到着後に直行した「馬陸人民公社」での周首相と張春橋(上海市革命委員会主任。後に四人組として訴追)の振舞い。上海虹橋空港での別れ際に周首相が「天皇陛下に宜しくお伝えください」と語ったことなどを通訳した体験を記述しています。以下に部分抄訳します。

田中、機上で鼾をかいて爆睡    大平、詩作について(周)総理に教えを請う

「田中角栄 上海訪問19時間の追憶」

1972年9月29日午前10時「日中共同声明」発表。多年の外交関係中断から恢復。

午後1時30分 田中・大平は北京を離れ、3時30分 上海に到着。

翌30日午前10時半 上海を離れて帰国。

田中は自らの専用機をあえて使わず、周のソ連製専用機への同乗を強く希望

 

搭乗10分足らずで、田中は深い眠りに。「機上会談」を要請した田中の外交儀礼を逸した振る舞いに、大平は大いに当惑し、「済みません」を繰り返しながら、揺り起こそうとするも、周は不快感を微塵も見せず、懐の深い態度で大平を感動させた。

 

(中略)上海虹橋空港から錦江飯店に向かう前に、嘉定県馬陸人民公社で立寄り。

周は張春橋が接遇する一行から離れて、公社の工場や田畑にいる群衆の中に入って行った。

涙ながらに訴えてくる女工たちに暖かく接していた周の姿勢を、後に田中は回想録に記述し、中国が強大になっても、日本の脅威とは成り得ず中国は侵略国家ではないとしている(後略)

 

内容の多くは既に知られた事柄ではありますが、今のこの時期に、この記事が『環球時報』に掲載される意味を考えさせられました。併せて、自分自身が1971年2月の上海初訪問の際に案内されたのが、やはりこの馬陸人民公社であったことを思い出しました。

周りの上海人社員たちに、馬陸について聞いても「ああブドウの馬陸ですね」「高速道路や地下鉄ができてから大きく変わっているでしょう」という反応止まりでした。親切な一人が馬陸鎮政府に問い合わせの電話をして、人民公社はもう跡形も無くなりそうであることを確認してくれました。大方は無くなっても、何かが有るのではないかと思って訪ねて来た日本人は、ブドウ園から同じバス、同じ席に座りました。往路とは反対側の景色を眺めながらも人民公社の痕跡は見えませんでした。バスの乗客も42歳以下と思われる人が大半でした。

文革と云う、触れて欲しくない時代のこと、しかもその代表選手であった人民公社のことを訊ねる時には、相手をよく見極めて喧嘩にならないようにすべきですが、今回はその質問ができそうな候補者にも遭遇できませんでした。資料によれば、一時期「馬陸・大阪友好人民公社」という蜜月の存在もあったようですので、大阪府知事か大阪市長に問い合わせましょうか?

 

馬陸駅に戻り、一駅上海寄りの南翔駅から歩いて南翔老街をさっと歩きました。名物の小龍包

発祥の店は大混雑だったので敬遠して、「しまむら」「ユニクロ」「パリ三城」「青山」などが犇めく駅ビルで生煎(小龍包を焼いたモノ。4個で6元)を食べて遅いランチとしました。これも期待以上に、美味しかったです。

2013年10月14日

「自死」の重さ 再考 ―併せて自死観に見る現代日本(日本人)の酷薄と軽薄について―  序・その1

井嶋 悠(本センター代表・元私学中高校国語教師)

 

 

用語については、「自殺」の方が一般的かとも思うが、死の持つ尊厳、森厳さから「自死」とする。

日本の自死数は、2102年に約28,000人で、それまでの14年間の各年31,000人前後を下回ったとのことです。

それでも、未遂者を含めると年間約30万人になるそうで、彼ら彼女らに心を寄せるがゆえに、その家族、親戚、友人への負の波紋は、計り知れません。

 

尚、自死には様々な理由がありますが、ここで扱うのは、[その2の(1)]で引用します日本人臨床心理士がその著『ひきこもる小さな哲学者たちへ』で言う「『ひきこもり』は哲学である」への共感です。

 

この自死数値(1年 30,000人)で、一つの計算をしてみます。

○15年間で45万人が自死で亡くなったことになり、それは毎年1日約82人、毎1時間に約3.4人が亡くなっていることになります。これは、交通事故死者数の約5倍にあたります。

 

自死は、古代から、未開国・地域、文明国・地域関係なく、必ずあります。

生と死に、その時間に、時に苦悶し、時に歓喜し、自己矛盾に思い巡らす人間がある限り当然のことでしょう。

しかし、日本の数値は、他国がどうであれ異常ではないでしょうか。もちろん国際比較では上位です。

 

世代では、高齢世代が多いですが、死因全体で見たとき、例えば22歳の自死は、55歳のそれの約6倍になるとのことです。

しばしば耳にする「若者の甘え」とか「日本の文化?」で済まされるとは到底思われません。

そこに日本社会の大きな問題[例えば、生き苦しさとか]が、あるように思えてなりません。

それは、先に引用した「『ひきこもり』は哲学である」に通ずることです。

 

その日本は、経済大国であり、文明国として自他認めるところです。

しかし、ひょっとして1868年(明治維新)~1945年(太平洋戦争)、1950年(朝鮮戦争)~現在、の短い期間のひたすらの力走がもたらした負の結果なのでしょうか。

今回、自死について私が発信したく思ったのは、下記四つの理由からです

その時、私の脳裏に在る自死年齢は、10代から20代、30代の青少年であり、同時にそれは高齢者世代のそれと表裏一体である、と考えています。

 

一つは、自死への決断は生と社会への、本質的な問題を蔵する命をかけた警鐘でもあること。

一つは、私にとって自死は畏怖の対象で近寄り難いにもかかわらず身近なことでもあること。

一つは、2012年、先進国[OECD(俗称:先進国クラブ)加盟国]で韓国が、それまでの10位以外から突然に日本を越えて2位となったこと。(その年、日本は8位。)

一つは、現代日本を象徴するかのような大人の酷薄、また盲目的西洋崇拝の軽薄に改めて接したこと。

 

そして、これは私個人だけでなく、世界を、東アジアからまず考えてみたい、と20年の時間の中で思い到った[日韓・アジア教育文化センター]としても、意味あることではないかとも思っています。

 

以下、上記四項について、何回かに分け、若干の私見を記します。

これは自死を介しての、68歳となった私の個人と社会と日本についての、一つのまとめとも言えます。

 

 

その1

「自殺は警鐘であること」について

 

世は生き辛い。それは古今東西、人々の実感だ。そして日本。「2011.3.11」から2年半の政治の、社会

の疑問だらけの現在。

日本は経済大国にして、世界を牽引する先進大国である、と一部日本人は今も言う。

ほんとうだろうか。

私が知る現在を生き抜く若者は、「?!?!」にある。

そして老人世代の私は、その若者たちに共振している。

若者と老人の自死は表裏である。二つの異質な、しかし共通してある透明な寂寥。

 

国の借金1008兆6281億円(1万円札をつなぎ合わせると地球を何周するんでしょうか。)、諸外国への時に無償での援助、世界第2位の国連負担金、沖縄の思いやり予算、3.11復興予算の不可解な使途、また海外からの援助金の使途のあいまいさ、傲慢、無礼。企業への給与を上げろの政府大号令……

の一方で、

経団連の95%を占める中小企業の実態、首都圏をはじめ全国の貧困家庭、若者のワーキングプア……

にもかかわらず、

アラブ圏での原発売り込み成就を、ほとんどの納税者が首をかしげ憤慨する度々の「外遊」を、政治課題を、独善的にまた八方美人そのままに美辞麗句で、国内に、世界に、得意満面、臆面もなくマスコミに語る我が国の宰相。

その宰相の、極め付けとも言える二つの発言。

一つは、オリンピック東京(正しくは日本であると思うが)誘致プレゼンテーションでの、壇上からの(権力者らしく?)両手で抑える仕草の[under the control]《theではなくmyと言いたかった?》発言。

(因みに、オリンピック招聘の初期プレゼンテーションで東京都知事は、日本は金持ちで、しかも現金で用意している、と声高に英語で言っていたが、「in cash」と聞いたときは身の毛がよだった。)

もう一つは、アメリカの投資者対象の演説会での「日本は儲かる国云々」発言。

「カネ・モノ日本」との内外での疑問が出て30有余年。今も金満自慢を善しとするリーダーたち。

何という卑賤。下品。

と思うのは、非現代人? 国際社会は金銭社会?

「貧すれば鈍す」ではなく「富すれば鈍す」?

二人の誘致プレゼンテーションの対極にある二人の日本女性のプレゼンテーション

 プレゼンテーションが誘致に大きな影響があるとするならば、それは佐藤 真海さんと高円宮 妃久子さん二人のプレゼンテーションの賜物と、私は思う。

そこでは、自他への慈愛溢れる言葉が、お二人自身の歴史が紡ぎ出した言葉として聴く者に静かに重く浸み入り、だからこそ文化を超えて人の心の奥にある三つのかなしみ【哀・悲そして愛[しみ]】を突き動かしたし、それらを凛とした微笑みで話されている姿は気品そのものとして映ったからである。

 我が国宰相は、「儲かる国日本」と併行して、国連で「女性の活躍」に関する演説を行ったが、「何を今さら、今ごろになって」と、古代からの日本の歴史を知る心ある多くの日本人女男は、一国の男性政治家そして宰相としての自省の無さを恥ずかしく思っている。

その宰相を、また大臣たちを取り巻き支える、弱者の哀しみ、痛みを観念的にしか理解し得ない多くの官僚や学識者、はたまた正義派気取りで空虚な言葉を垂れ流すマスコミとそこに群がる“ご意見役(コメンテーター)”。

先日、被災地福島の女子高校生が、テレビカメラの前で突き放すように言っていた。

「同情の眼で見るのはやめてほしい。」

 

私が大学卒業論文で対象とした昭和10年代のらい病(ハンセン病)作家北條民雄の言葉が甦る。

「同情ほど愛情より遠いものはない。」

と書く私は、卒業後45年経った今も、同情と愛情の狭間で右往左往しているだけなのだが……。

先の選挙での大勝利にみる、前政党の期待を裏切った失政の結果であることを、そしてその前の自与党時代を忘れての自画自賛の勘違い、無責任。(その私は無党派、支持政党なし、というよりは政治家また政治的人間が生理的に不得手な類。)

テレビカメラを前に、知事に「私も経営者ですから」と胸張って、電力料金の値上げ申請をする社長の厚顔無恥、傲慢、冷血、非人間性。

「増税と社会保障の一体化」。この当たり前を国民の何パーセントが心から信じているだろうか。

政府、官僚、学識者は、こんな不信が出る理由を、自身のこととして承知しているのだろうか。

言葉の玩具化、冒涜。

「私は日本人です」と言うことの恥ずかしさ。後ろめたさ。自身から優しさが消失して行く実感、不安、恐怖、寂しさ。襲う更なる生き辛さ。

自身の存在を自負する一部の大人たちが声高に発する「誇りを!」に、憫笑(びんしょう)し、苦笑する若者の繊細な感受性。

或る若者が、自死を選んだ。

その若者を知る、労苦ばかりの人生と現在を背負い、天涯孤独を自覚し生きる40代の大人がつぶやいた言葉。

「あの子は、人の哀しみと痛みを皮膚で、全霊で、直覚していました……。」

 

若者の、瑞々しく鋭い感性と知性の不足を知っているからこその狭間での葛藤。そこにある優しさ。

老人の、多重の地層「生」を経ての透明な感性と疲労と孤独との狭間での葛藤。そこにある優しさ。

 

両者に共通する言葉[理知性・論理]への、根本的懐疑、不信。

 

彼ら/彼女らを追い込む単線型特急社会。

「弱い」と叱声され、憐憫(れんびん)同情され、自身を責め、その自身を嫌悪する若者と老人。

「忙しい(心亡くなる)」が、正統正義の自己主張かのような摩訶不思議な現代。

日本はどこに行こうとしているのだろうか。

「強い日本を取り戻そう」の怖しさ、おぞましさ。

日本が、今すべきこと。

いかなる年齢でも、それぞれが立ち止まって自問自答できる自他の心の“ゆとり”が自然である、そんな社会への意識の変革、構築。

それを為し得なければ、日に日に「人工」化を邁進し、心の硬質化に拍車がかかる現代にあって、人と人の、その間の“潤い”は辞書の言葉だけにしか留め得ないだろう。

【備考】

  19世紀のフランスの社会学者エミール・デユルケムの『自殺論』(1897年)を講義した、デユルケムの研究者である社会学者宮島喬氏の『デユルケム「自殺論」』

    は、デユルケムの著作を引用しながら彼の自殺観を概要すると同時に、日本を含めた現代の自殺を展望した書で、私の自死観(個人的要因は否定しないが、先ずは
社会的要因の大きさを意識した考え方)を固めるに意を強くした書である。

2013年10月14日

心静まる自然に触れて ―タイでのひととき―

河野 祐子

 (彼女は、2007年の香港での「第4回日韓・アジア教育国際会議」の主人公です。これは、その彼女が3年前に寄せてくれた写真と文章です。タイは、彼女が気に入っている国ですが、お父様がタイに赴任中で、それで訪ねたのがきっかけとのことです。)

IMG_1856

 

私は香港で生まれ、その後東京・シンガポールで過ごし、今大阪で私のこれからを模索している20歳です。
この写真は、昨年父の赴任先タイを訪れたときに撮ったものです。 場所はチェンマイから2、3時間程の小さな村、Pai. 本当に小さな村で静かでとても落ち着く場所です。
この写真にはまだまだ道は長い、越える山はまだまだある。道は砂利できっとつまずく事もある、そんな私の出発への思いと重なっているのでこの写真にしました。

2013年10月13日

栃木県立鹿沼高等学校訪問記 ―日韓高校交流―

永登浦女子高等学校(韓国ソウル)日本語教諭
権 俊(クォン ジュン)

(以下の寄稿は、今回のホームページ更新前の「ブログ」に掲載した少し前のものですが、寄稿者の権 俊先生は、私たち日韓相互理解の原点である「ソウル日本語教育研究会」の元会長であり、私たちの活動の中核的な一人で、今回の更新に際して再登場していただくことにしました。)

2007年10月5日、韓国からの8人(ソウルからの高校生3人、釜山からの高校生3人、私を含めて教師2人)が栃木県立鹿沼高等学校を訪問して、大和俊晴校長先生をはじめ先生の方々、生徒たち、ホストファミリーの皆様にたいへんお世話になった。
歴史のある名門校らしく、習うべきところがたくさんあった。
熱心で親切な先生の方々、明るくまじめに勉強している生徒たち、きれいな学校環境、訪問者に対しての気配り、人情溢れるホストファミリーから私たちは皆感動した。
鹿沼高校のすばらしい先生の方々と生徒たちに出逢えたことは、私どもにとって大きな幸運であり、一生忘れられない思い出になった。
学校訪問とホームステイが終わって生徒たちは、きれいなまち、規則を守る社会、礼儀正しい生徒たち、人情溢れる家庭、高校の授業と放課後の部活動のようす等々からいろいろと考えさせられたと言っていた。
学校の先生が自分の授業を外部からの人に公開するのは嫌なことであることは、教師の私の経験からよく分かっている。又、ホストファミリーの希望者を探すのも難しかったと思う。
ホストファミリーの皆様と鹿沼高校の先生の方々に、お忙しい時期であるにもかかわらず貴重な時間をさいていただき、心から感謝している。
日本と韓国の友好をもっと深める為には人的交流、中でも青少年の交流が大事であると思う。
今回日本を訪問した生徒たちはこれから韓日友好のために何か役に立つ人間になりたいと言っていた。

2013年10月11日

本センター「文章表現教室(通信)」小学生対象の指導 ―指導の実際から―

森本 幸一(本センター委員・小学校教諭)

私が、Sさん(当時小学校2年)を、添削指導してもうすぐ一年となります。
Sさんは、この「作文教室」をどのように思っているのか気になります。
二年目ともなると、このまま同じようには続けられないでしょう。
その意味でも、この「文章表現教室」についての彼女の思いを知りたくなりました。
そこで、作文の課題を「作文について」としました。

すると、Sさんは、次のような作文を書いてくれました。
「作文について」            
①わたしは、先生からとどいた、かだいが書いてある紙をうけとったらやる日をきめます。
  ②7やる時になったら、だいを考えます。

その時は、ちょっとさぼります。お母さんに見つかったら、「こらー!あんた作文。」とおこられます。
③つぎに、文を考えながらかきます。これは、また、むずかしくて、さぼりまくりです。でも……
④さいごに、丸をかいておわると、「やったー!。」と言って、すっごくうれしいです。

こんな作文を、Sさんは、書いてくれました。

そこで、次のような返事を書きました。(この作文に関する事だけを引用)
少し春らしくなってきましたね。まだ、ちょっとさむいけれどね。作文うけとりました。
「作文について」
 とってもよく書けています。ぼくの作文のかだいがとどいたら、どん なふうにしてSさんが、作文しているかが、よくわかるからです。

「したこと」と、心で「思ったこと」が、よぶんなことばがなく、とってもわかりやすく書けているからです。
もうすこし、くわしく書きます。
①わたしは、…うけとったらやる日をきめます。すごいけいかくせい
②やる時になったら、だいを考えます。なるほど。そのあとがいいですね。

「ちょっとさぼります。」
そして、もっといいのが、「お母さんにみつかったら、…とおこられます。」

そのときのようすを、Sさんのそばでみているようです
でも、お母さんが読まれたら、こわいかも…(えへへ)。
③つぎに、のところは、ぜんぶとってもいいです

とくに、前のときは、「さぼります」で、こんどは、「さぼりまくり」なんだね。
この「さぼりまくる」と思っているかもしれないんだけれども、ほんとうは、

作文を書くときにとってもたいせつなところだよね。
「ああ書こうか、こう書こうか考えているところだもんね。
そして、そのあとの「でも……。」が、よすぎます
あとに何を書くのかなと、気になったよ。

④さいごに、 丸をかいておわると、…「すっごくうれしいです。」
(そうですか、そうですか。作文、きらいでなくてよかった。)と、ぼくが思うほど、Sさんの気もちがよくわかるように、書けていますよ。
〔つぎの作文のかだい〕
○さて、つぎの作文ですが、ちょっとむずかしいかもしれないけれど、やってくれるかな。
それは、「作文について」が、とてもよく書かれているので、それを、
もっともっとよくなるように、つぎのことに気をつけてもう一ど書くことです。

がんばってくれるよね。
それでは、どのように書くのか、言いますよ。

まず、大きく二つあります。
(一)その一つ目は、作文の書き方です。
  作文は、3年生ぐらいになったら、書く前に、どのようにかくか、考えます。
まず、作文を、「はじめ」「なか」「おわり」をどんなふうにして書くか考えます。
Sさんが書いた作文の①から④は、よく読んでみると、「なか」になります。
そうすると、「はじめ」と「おわり」にどんなことを書くか、です。

そこには、作文について思っていることを書きます。
たとえば、はじめは、わたしにとって作文を書くことは、「きらいのちすき」

「くもりのちはれ」です。とか、「すきなのか、きらいなのかわかりません。」とかね。

Sさんが、作文について思っていることを、まとめて書きます。
おわりも、おなじです。

いままで書いてきたことのさいごに、作文について書きます。
(だから)作文を書くのは、ちょっといやなんだけれども、なぜかすきなんです。

とか、さいしょは心のなかが「くもってしまうほどくるしいですが、書きおわるとはれるんです。」 とかね。

 

(二)二つ目は、「なか」のところです。
  このままでもとってもいいんですよ。
でも、もし、Sさんの気もちがもっとよくわかるようにするために考えてみてください。

たとえば、
①紙をうけとったときの気もちです。
「ああ、もうきた。」いやだなあ。とか、「やっときた。先生、いつも、かだいをおくってくるのがおそいんだから。」とか、「作文のかだいがいつくるかいつくるかと、まっています。」とかね。

②「お母さんにおこられた」あとの気もちを書いてほしいです。
「しまった。」とか、「お母さんごめん。」とか、「またやっちゃった。」
「みつかっちゃった。」とか思います。とね。または、お母さんに言われてからするのです(えへへ)。とかね。

 

いじょうです。

Sさん、がんばって書いてみてね。
このような文章を、Sさんに送りました。
そうすると、次のような作文が返ってきました。

「作文っていいな」 
わたしは、いつも、先生からファックスで、もらった次の作文のかだいが来る時うきうきします。
なぜかというと、次の作文のかだいが何か、早く見たいからです。だからとどいたら「つぎの作文は。」というところをさがして、そこを読みます。

それから、さいしょから読みます。
つぎに、やる日をきめます。
つぎに、やる日になるとやります。その時、心の中で、(今日はどう書こうかな。)と思います。
そして思いついたら、だい名と、文を書きます。
その時に、ちょっとさぼって弟が見ているDVDをよこから見て、お母さんに見つかったら、「こらー!あんた作文は、」と言われます。
そうすると、ごまかします。どうやってかは、「お母さん今日の夜ごはん何。」と言います。
丸をかいて、さい後は、終わります。だから、わたしは作文が好きです。
このような作文を受け取りました。
書き出しは、ずいぶんよくなっていました。
最後の二行は、前の方がよかったのですが、今回は、これで満足としましょう。
そこで、私は、次のような返事を書きました。

○「作文っていいな」
がんばって、書きなおした作文、前の作文もよかったけれど、もっとよくなりました。
それは、作文の「はじめ」にあたるところが、「なぜ、作文っていいのか」が、

とてもよくかかれているからです。Sさんが、作文のかだいが来る時を、「うきうきして」まってくれているということは、ぼくにとって、とってもうれしいことです。
これからも、作文を書く時は、「はじめ」「なか」「おわり」を考えて書いてくださいね。

とまあ、こんな具合です。
私の文章表現教室を知らせる「窓」から、少しはその様子をお伝えできたでしょうか。
文章表現教室、あせらずやっていこうと思っています。

2013年10月7日

新たな定期的寄稿者の紹介と第1回

紹介しますのは、文学、映画、美術、音楽等々、芸能芸術に造詣深く、また無類の相撲ファンで、それに加えて文章才に恵まれた、豊かな心溢れる日本の商社マンです。現職は、上海・北京を基軸に中国各地を走り回っておられます。名前は、井上 邦久さん。

大分県の生まれのアラカン世代。
高校時に大阪に転居し、氏曰く「高校時代は落ちこぼれ、大学時代は反体制を気取り、社会に出てからも脇道を歩いて来た」歴史を持つ人で、学生時代からの日中架け橋の夢を実現され、日々、中国をまた日本や外国を、正しく東奔西走されている。その大学1年生時代には、仲間20人ほどとの一か月の中国旅行中、突然、「北京人民大会堂」で周恩来首相と長時間の交流ができた上に、中国内の旅費を補填される、との好運にも遭遇。

氏は、氏ならではの視点、うんちく薀蓄から、滋味溢れたエッセー『上海たより』を書かれていて、2年ほど前から井嶋にも送信下さっています。

今回、氏の了解を得て、日韓・アジア教育文化センターの「ブログ」の「国際」項に、随時転載できることになりました。氏のファンが、一層増えることと思います。
お楽しみください。

その第1回です。
上海での今年の酷暑のことや氏の知己との文芸の旅、更には芥川 龍之介の上海記のことなどが書かれていて、第1回にふさわしいかと最新エッセーを先ずお送りします。
次回以降、これまでの、これからの中から適宜選んで転載します。

 

 

上海たより 第1回  『三伏』

暑中お見舞い申し上げます。

三伏は夏の季語でもあります。五行説由来で諸説あり、初伏(夏至から第3番目の庚の日から10日間)、中伏(第4番目の庚の日から10或いは20日間)そして末伏(立秋後の庚の日から10日間)と続く三つの伏です。極暑(火の気)を恐れ、庚(かのえ。金の気)が伏して(隠れて)しまう期間が30~40日続くとされます。この時期に韓国ではサンゲタンやポシンタンといった精の付く食材を多く摂るようで、日本の鰻も三伏に由来するのかも知れません。
その三伏に入ってから、上海は体温を超える猛暑が続き、最低気温も30℃前後という状態です。全国主管者会議に集まった香港・台北・広州からの代表も上海の暑さに吃驚し、最高気温が25℃前後の大連の主管者は、同じ国とは思えないと話していました。

そんな暑い時期には、涼しくした部屋に蟄居して、大人しくごろ寝をするか、積読の山を崩しながら昼寝をするのが賢い過ごし方でしょう。
ところが、賢明ではない凡夫は本の山に向かわず、先週末は蘇州の霊巌山に登り、今週は南京での登山用具などのアウトドア展覧会に赴きました。新幹線で蘇州へは30分、南京へは1時間余りで楽に移動できますし、上海より比較的低い気温(南京/37℃、蘇州/38℃)でしたが三伏の酷暑下の行動であることに変わりがありませんでした。
これも猛暑と大雨で名高い長沙の知人から「上海・蘇州・南京の三か所合計で115℃。煉丹炉中の孫悟空のようだ」と妙な暑中見舞いが届きました。

金融・流通など第3次産業の進出が多い上海に比して、蘇州は早くから日本の製造業進出の中核として他を圧倒しています。
その蘇州の中でも有力メーカーの総経理を長年務め、蘇州日本商工会のドンとして人望の篤いK氏とは、各地での講演にも忙しいコンサルタントのM氏の紹介で、呑み・喋り仲間にしてもらいました。
3人ともアラカン族であり、とりわけK氏は宮崎県人で、大分県生まれの人間にとっては、日豊本線(九州イーストコーストの日向と豊前を結ぶ鉄道)繋がりの面でも親近感があります。この春にK氏の肝煎りで蘇州商工会のセミナーが開催され、土曜日午前にも関わらず参集された多くの方々の前で、M氏らとともにお話しをしました。セミナーの後に楓橋や寒山寺などを案内して貰いながら、今後とも単に呑み・喋りだけでなく、お勉強もしましょうと云う事になりました。

今回は蘇州西郊の霊巌山に傾国の美女、西施を探そうというお勉強でした。西施は2500歳くらいの美女だから期待はしないようにと笑う先達のK氏を中心に歴史のおさらいをしました。
霊巌山は春秋戦国時代の呉越の戦いの旧跡の一つ。会稽山の戦い(紹興近辺)で危うく命を拾った越王勾践は、臥薪嘗胆して捲土重来を期し、策略として50人の美女を呉王夫差に贈った。夫差は「宮女如花満春殿」と謳われた館娃宮を霊巌山の頂に建て、政治を忘れ、とりわけ西施に溺れた。好機到来と越軍は霊巌山を囲み、夫差を撃ち雪辱を果たす。西施は逃れてその後の行方は今も知れず・・・
蘇州新区のホテル前からバスで半時間余り、冷房の効いた小奇麗なバスの料金は何処まで乗っても2元(30円)で、霊巌山麓の終点の木瀆まで連れて行ってくれました。木瀆は上記の館娃宮を建設する為に水路で運んだ木材の集積地とのことでした。木瀆は水郷古鎮観光地の一つになっている様子でしたが、今回は登山が目的なので次の愉みに残しました。
先達のアドバイスで入場料の必要な正門は回避し、大きく迂回した脇道を採りました。土産物屋が途切れた所は船着場跡のような感じで、そこには立派な石門もあり、どうもこちらが表参道のような気がしてきました。金気が伏せる時期だけに無料入山は有難い。火気も運よく穏やかになり、雲が日差しを遮ってくれました。

讃岐象頭山の金毘羅さんの参道のような傾斜、距離でした。入山料をセーブするような我々には無縁でしたが、前後二人の肩に担われる轎(輿。座席型駕籠)も見かけました。常緑樹側の蝉しぐれが反対側の竹林に反響し、風に揺らぐ竹の葉のせいか妙なる音楽を奏でていました・・・という余裕は先達のK氏だけの世界で、我々は処々にある亭や磨崖仏を給水ポイントにしました。ところが8合目(という程の高山ではありませんが)あたりに基礎だけが残された石碑がありました。基礎部分の裏側の黒く塗られた刻字を辿ると、福岡県八女地区の公共団体が建てた友好祈念の碑であったことが何とか読み取れました。先達の説明では、昨年秋に傷つけられた、元々それほど多くの人が来る場所ではない、何故そこに建てたか不詳、知名度の低い祈念碑までわざわざ傷つけに来たことを知っている人は少ない、報道もされていないと思いますよ、との事でした。

岩山を抜けて頂上へ。「東晋時代に寺が建てられ、唐代から清代まで禅宗道場として高僧を輩出したが、咸豊30年に兵火で破壊された。民国に到り印光法師らによって浄土宗道場として再興された」と拝観料1元のチケットに書かれていました。チケットの裏には「西施梳粧台遺跡」の図が描かれていました。
掃除の行き届いた院内には、参拝者と修行僧が多く、観光客は静かでしたから大声で喋っていたのは我々三人だけだったかも知れません。(当地のガイドのマイク案内とJRアナウンスの煩さには辟易しています。カラオケ同様にマイクを持つ人は謙虚であって欲しいものです)。
とても感じの良いお寺に来ても食欲好奇心は鎮まらず、精進麺を食べさせる堂宇を目敏く見つけました。残念なことに、営業時間が過ぎていてこれも次回の愉みとなりました。椎茸麺が18元という値段札には驚きました。入門料が1元なのは、無料にすると却って面倒が多いから、形ばかりの有料にするということでしょう。上海の城隍廟(豫園古鎮の起点)の精進麺は5元(土日祝は8元)ですが、やはり車道もリフトもない聖地のせいで高いのでしょうか?
精進麺に気を取られている内に西施のことは忘れていました。帰りは間道を抜けて下りましょう、と先達はスタスタ細い薮道を歩き始めました。西施が逃れた道、日本人は我々三人しか通ったことのない道という強い確信に満ちた足取りでした。下山後に大きなキャンバスの学校、隠れ家的農村レストランの横を歩いていたら、高級ハイヤーとすれ違いました。この奥を通り抜けはできないから、必ず戻ってくるに違いないハイヤーを捉まえようと衆議一致(ホンネはもう歩きたくない)。
好運にも予測が当たり、ホテルまで快適なドライブでした。

 

上海に戻って、積読の山から一冊、『上海游記』『江南游記』を引き出しました。
芥川龍之介が1921年3月から7月末まで、大阪毎日新聞の派遣で各地を歩いた時の紀行文です。
新聞連載ということで、ジャーナリスティックな視点を意識したのか、孫文の辛亥革命が袁世凱大総統に掠め取られた時代の混乱を社会荒廃としてとらえています。
一方では日本政府の対華21ヶ条要求への反発から排日・抗日の流れが増していることにも目配りして、壁に貼られた檄文や高校生の排日の歌声を見聞きしています。
また28歳の社会主義者の李人傑氏との面談で、共和でも復辟でもない若い芽吹きを感じているところはサスガです。しかし芥川が滞在中の7月に、中国共産党の第一回大会が上海で秘密裏に行われた事までは当然ご存じありません。
本業の小説家としては、美味求真、妓館名妓、清朝遺臣、上海紡績、租界風物、天蟾舞台などを通して、上海と上海に生きる中国人そして日本人を描いています。
上海、杭州、蘇州、南京の名所古跡の「観光」には冷淡というか悪意に近い皮肉な批評が続いています。一方、土地の風や匂い(臭い)を感じる「観風」には厳しい視線や言説の背後に暖かい眼差しと諧謔を感じました。

その芥川が上海在住の島津四十起氏の案内で蘇州霊巌山に登り、霊巌寺を見物しています。
まず市内からは初めて乗せられた驢馬で冷や冷やしながらの移動。登り口が見つからず、道を尋ねれば更に分からなくなるという法則通り、ウロウロした挙句に驢馬がエンスト。俳人通人でもある先達は「何、こう云う事も面白いです。あの山がきっと霊巌山ですから、――そうです、兎に角あの山へ登って見ましょう」という姿勢。やっとの思いで登ったら、西施弾琴台も館跡も岩があるだけで草もない。折からの雨で太湖も望めず、腹も減ってきた(精進麺の有無は不明。寺の坊主から分けて貰ったどす黒い砂糖をなめても元気は出ない)。
そんな情けない思いをしながら下山したら、驢馬がいないし驢馬曳きの子供も見えない。持参した傘は驢馬の荷駄に残したまま。やっと農家の軒先に雨宿り。農夫は駕籠かきを副業にしているのか轎子が見えるが、そんな時に限って先達の中国語は通じない。ついに自己制御が切れて、「お互いに迷惑しますね、案内者がその土地を知らないと、・・・」と売り言葉。島津氏も買い言葉を返し、ずぶ濡れになりながら、血相を変えた男二人が立ち尽くしたのは、もしかすると我々が好運にもハイヤーを捕えた場所辺りではないかと思えてきました。

その夜は、昨年9月の騒動では難を免れた料理屋で置酒歓談。
数千人の工場の様々な課題(賃金上昇だけでなく、食堂運営や社員旅行までも一筋縄ではないこと)から、時節柄か自分の墓をどこに設けるかまで色々な話題で盛り上がりました。
K氏の故郷の焼酎「百年の孤独」(黒木酒造の当主はK氏の一年後輩という有難い関係)や銘酒が空になる頃、独り夜舟を漕ぎながら、西施の宮殿を訪ねる夢を見ていました。
徒然草の「山までは見ず」の仁和寺の法師ではありませんが、何事にも先達は有らまほしき存在です。
芥川の文章を読んで、K氏の有り難さを改めて感じました。立て替えて貰ったバス代と入門料の返金と精進麺を口実に蘇州を再訪することを愉みにしています。

芥川の上海江南游記から90年、二つの国は戦争と体制変革と経済至上時代を経験しました。両国の先達が傷ついた友好祈念碑を訪ねる事はないでしょう。
されば、芥川が石碑を見たとしてどんな冷ややかな警句を発するかを想像しながら、火の気が旺盛な三伏を凌ぎたいと思います。

2013年10月6日

二人の日本人の智恵 ―私に日本人としての在りようを教える二人―

井嶋 悠(本センター代表・元私学中高校国語教師)

2006年、上海で「第3回日韓アジア教育国際会議」を、韓国の池 明観先生から「東アジアの過去・現在・未来」との表題でお話しいただき、日韓中台で、改めて東アジアを考えてみた。

そして、その三日間を『東アジアからの青い漣』と題して、ドキュメンタリー映画[監督:逢坂 芳郎]としてまとめた。

(その会議の詳細は[活動報告]の項を、映画については[映像 Film]の項を参照ください。)

その時、私は、世界の若者が、中央アジアで、陽光きらめく彼方に地平線が円環のまま見渡せ、夜ともなれば満天の地上に落ちんばかりの星々に包まれる、そんな大地で手を取り合って大昼寝する姿を思い浮かべた。
或る時、映像制作を担った青年たち(30代初めの異文化体験者で、映像作家、デザイナー、写真家)に、

「自分にとって抒情とは?」と質問を試みた。

彼ら曰く、

「水のをえた歌、音楽。例えば弦楽器或いは木管楽器が奏でるパッフェルベルのカノン。」

「忘れられて行く日本の美意識。浄瑠璃や能が醸し出す象徴性。」

「アジアの市井の人々の日々の暮らし。そこにみなぎる溢れる雰囲気、世界。」

以下は、彼らに触発されて思い起こした、一日本人の私が、日本を考える拠りどころにしている、二人の「智恵溢れる人の言葉である。
これらは、私の中で日を経るにしたがって益々思い入れが強くなっている。
しかし、それとは裏腹な方向に日本は進んでいるように思える今、それを主導し支持する多数の人たちからは、「井の中の蛙大海を知らず」、あまりに非現実的、とのを受けるのだろう。

鈴木大拙 

『東洋的な見方』(1960年前後の氏のエッセー、評論、講演等を集めたもの。氏は1966年死去)から。

「東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、母を守るということがある。母である。父ではない。

「西洋人は人間を自然性化する。東洋人は自然を人間性化する。」

「この有限の世界に居て、無限を見るだけの創造的想像力を持つようにしなくてはならぬ。この種の想像力を、自分は、詩といって居る。この詩がなくては、散文的きわまるこの生活を、人間として送ることは不可能だ。」

古代から日本の女性の存在は、自然風土を糧に、豊潤な文化の源泉となって来た。底流にある哀しみ・悲しみ・しみ、その強靭な優しさ。母性。きらめく抒情の世界。抒情詩。
日本語と自然。オノマトペ(擬態語と擬音語)。自然への研ぎ澄まされた五感の感受性。そこに築かれる生活。現代の喪失感への直覚。
大拙氏の言葉(論理)を、言葉での「理解」(理で解く・分かつ)ではなく直覚する私たち。その感性とそれがゆえの国際社会での難しさ、危うさ?

                               

 夏目 漱石

  『現代日本の開化』(1911年:明治44年 和歌山での講演)から

 日清戦争、日露戦争に勝ち、日本は意気軒昂な時代を送っていた時の講演で、氏は、日本の今は「外発的」な「開化」であって、「内発的」な開化の大切さを言い、うわつく日本に警鐘をならす。そして公演の最後に次のように言う。

 「・・・我々は日本の将来というものについてどうしても悲観したくなるのであります。外国人に対しておれの国には富士山があるというような馬鹿は今日はあまり云わないようだが、戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすればできるものだと思います。
ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案も何もない。ただできるだけ神経衰弱に程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方ない。・・・」

ちょっと歴史のおさらいをしてみる。

1868 明治時代の始まり。日本の近代化。
1895 日清戦争
1905 日露戦争
1910 韓国併合
1937 日中戦争
1941 太平洋戦争
194586広島に、9長崎に、原爆投下。 15 敗戦        戦後復興へ
1950 朝鮮戦争
1961 ベトナム戦争   戦争特需による経済成長
日米安保条約下での安定と繁栄 そして沖縄の矛盾
20113.11 大震災と原発事故

アメリカの保護と他国の戦争を背景に、先人の努力によって、わずか半世紀で奇跡的な高度経済成長を遂げ、経済大国として世界の「一等国」となるも、莫大な借金をかかえ、りに危機感を抱き始めたからか、「強い日本を取り戻そう」と、用不用進化論的大国主義志向が再び声高に言われ始めている。

「強い」とは何を意味するのか。「形容語はその人の価値観を示す。用不用進化論的大国主義志向の意味での合意は既成の事実なのか。私にはそう思える。それが日本の生き方なのだろうか。

脚下照顧。東アジアの心を、2000数百年の心をかえりみ、そこから東アジアに位置するそれぞれの国・地域が、今をかえりみることは、必要なことではないのか。狭量偏狭な地域主義とかナショナリズムからではなく、近来の批判用語としての「内向き発想」でもなく。

とりわけ若い人たちが。

年齢が加わると、人間、どうも懐古趣味的になるのでよくありませんから。

 

2013年10月5日

生きる意味、いのちの尊さ

マギー 梁(リャン) 安玉(アンギョク)
(本センター委員・香港日本語教育研究会長)

すべての「生」には意味がある。

何らかの原因で亡くなった幼い子の短い生涯でも、その周りまた社会や国、しいて言えば人類へ何かの示唆になるものを残してくれると思われる。
従って、自分と他人のいのちを尊重し、大事にしなければならない。それに、あらゆる生命のあるものとの共存共栄も心がける必要があると思う。

先日、夜明け前の暗い山道を散歩しているところ、引っ越している蟻たちを踏んでしまって、申し訳ない気持ちで一杯だった。
私の足が、蟻たちにとってどれくらい巨大な異物に見えるであろうか。おそらく、それは人間にとって崖から転がってきた巨大な岩石のような恐ろしいものの如くであろう。
わたしは蟻の気持ちになって、はじめて私の足が、蟻にはどれほど災難であるか、悲しいほど解った。

生きる意味といのちの尊さは、自分と自分以外の存在との関係から成立したものではないかと思う。そして、私は「同情」という表現を「自分以外の存在と同じ感情を持つ」と言う意味として理解している。
現代社会、特に都会の孤独な人間は、この「自分以外の存在と同じ感情を持つ」気持ちと能力が、段々希薄になりつつあるゆえに、さまざまな想像のつかない事件が発生したのであろう。
例えば、若い母親が、幼児を餓死させたり、少年が親や親類を殺したり、子どもが自殺したりするような痛ましい事件の根底にある原因は、自分と自分以外の存在とのつながりが分からなかったり、失ったりしたからだろうと思う。

生きることはとても大変なことであるからこそ意義がある。
人間一人ひとりそれぞれの力で懸命に生きていることによって、人類が継続できる。私たちが、自分以外の存在と同じ感情を持って精一杯生きていれば、人類がますます繁栄していくと確信している。

若い方の皆様、ぜひ自分と自分の周りの人々とのきずなを大切になさってください。

2013年10月2日

先生方、自身の驕(おご)りに気づいてください!―教師の、生徒へのいじめ(パワハラ)―後編

井嶋 悠(本センター代表・元私学中高校国語教師)

 

.教師の生徒への眼に見えないいじめ(パワハラ)

娘が味わった目に見えるいじめ(パワハラ)は、近年多数顕在化している。

しかし、ここではでは、私自身が以前から疑念を持っていた学校世界に多々ある、教師の眼に見えない、或いは教師が無意識下に、時に生徒への、教育への強い愛情の発露との思いから行い、結果として生徒へのいじめ(パワハラ)となっている幾つかを取り出し、なぜそれがいじめ(パワハラ)なのかの私見を表すこととした。

そこには、時代と社会、教育、学校を考える重要な問題が内蔵されている、と私は思う。

ここに記す教師の独善と権威主義がなくならない限り、昨今のいじめ対応は、所詮その場その場の対症療法であり、官僚や政治家の自己満足、いわゆる揶揄侮蔑の意味での“官僚的”対応に過ぎないとさえ思うし、
そもそも国としての「いじめ対策」の計画発案する“エリート”官僚の多くは、更にはその人たちを支える研究者は、例えば娘が味わった哀・悲しみ・痛みを、観念的には理解し得ても、全霊的に直覚できる人は少ないとは思う。
そして教師世界の閉鎖性も手伝って、一部教師を益々独善に向かわせることになるように思える。

それほどに「根源的ゆえに急進的」との意味でのラディカルな課題であり、だからこそ教職休職者、また離職者が多いのでは、と休職経験者である私の我田引水ながら思う。

と言う私の根底には学校、教師への可能性、信頼、期待があってのことで、それは33年間勤められた支えでもあり、娘も共有していたと思っているのだが、娘を知る旧知の人物の、娘の死を知っての私への次の一言は、今もって脳裏を駆け巡っている。

「お嬢さんは、学校に期待されていたんですか?!」

発言者
[現在50代前半の弁護士(女性)。大学文学部を卒業後、就職、結婚そして出産を経て、或る日、弁護士を志し、2年の研鑽後、司法試験に合格。昔から語学に興味があり、英語・フランス語・韓国語[履修順]に堪能で、また人権を課題とした事例にも取り組んでいる。]
以下、事例と私見を挙げる。

尚、専任教員として3校、非常勤教師として2校の私学を経験し、各校の特性からの生徒・保護者の言動、行動にも疑問は多々あるが、ここでは触れない。

【いくつかのパワハラ(いじめ)事例と私見】

 

知識の多さを誇示することで、生徒たちに発言する気持ちを萎えさせる先生

――所属教科の知識は、足りなければ補うのが自明当然であるが、何でも知っているかのような横柄さで対応する先生は多い。

それが、権威主義と結びつくので相当ややこしいこととなる。
知識の豊富さ=優秀の図式なのだろうが、若い生徒たちは、ほんの一部を除いて言葉を理性と感性の間でさまよいとらえているがゆえに(一時流行った「意味わかんないっ」などその好例かと。)、耐えられないものを感じてしまう。
瑞々しい感性は、若い人の(とりわけ10代の)宝物であり、大人は確実にその瑞々しさを喪失しつつ年齢を加えている。
そうでない大人は、ほんの一握りで、且つそれを維持深化するにどれほどの努力を払っていることか。
要領のいい生徒は、知識による強圧の先生に対して無視するが、それが評価を益々下げることになり悪循環に陥る。
時に「うるさい!」と反旗をひるがえす生徒もいるが、そういう先生の前では思うつぼである。
なぜなら、そういった先生たちは「あいつらまだ何も知らない、わからない“ガキ”」と思っているのだから。
「人(人間)が言葉を使う、その人間とは?言葉とは?」の原点を、先生は自身の10代を思い起こし、再考すべきではないのか。――

親愛の情の後ろに見え隠れする権威主義にある先生

――言葉づかい(その語彙、調子等)や態度で、生徒に親愛の情、親近感を自分から出していく先生は多い。また昨今、そのような教師は、「良い先生」との評価を受けることも多い。

はたしてそうだろうか。
それらは、民主主義の下での、感傷的な、昔の良い先生像、例えば威厳、聖域感からの皮相な反動に過ぎないのではないか。(但し、民主主義そのものについての吟味は、今はしない。)
と言うのは、「親愛」の教師が、時間も含め或る限界が表に出て来ると、適当な口実をつけて問答無用としているのに何度も出会った。民主主義の難しさに葛藤しない先生がそこにある、権威主義。

その時に生徒たちが思うことは「なんやかやいいこと言うけど、最後は結局それか」で、自由な議論を、と言われ先生の方向に人為的に誘導されていく自分に、そして先生に腹立たせる。
そして先が見えて来れば、積極的には発言しない。生徒は益々冷め、先生は生徒に悲嘆する。

テレビ等で非常に好意的に紹介されている、アメリカの有名大学の講義でさえ、或る学生との問答で「もういい」と、その有名な先生が議論を切っていた。――

教育の、社会の理想をとうとうと限られた場所で語る先生

――誰しも理想を持ち、描く。いわんや10代後半は、である。

しかし、理想は一つではない。にもかかわらず、例えば、教室といった限られた場所で、己が教育の理想を、数十人の生徒を前に、時に時間を無視して語る先生。

それは、或る理念理想で創設された私学に多い。
情熱的な先生、との評価が生まれるが、そこにある二つの独善に目をつぶっている。
一つは、その先生が、あたかも一人で、理想に向かい、実現への努力をしているとの独善。
一つは、教室では(更には教員社会でも)一人一人先生は殿様、というあの独善。

共通しているのは、自己絶対発想である。学校世界に多いことは、かなり前から指摘されている。
多くの生徒は苛立ち、また或る生徒は自身の存在を恥ずかく思い、責め、黙し、外から見れば一生懸命に聞いているように見える。
時に爆発させる生徒もいるが、多くは冷ややかにそれを傍観し、他に波及することは少ない。

ところで、そういう先生をカリスマ的に崇めるのは、女性(生徒・保護者)が多く、そういった形で理想を語る先生は、男性が多い。なぜ?――

現代日本の教育の歪みに関わらざるを得ない?先生
(この項は、最初の「知識と言葉(表現)」の内容と重なるところもありますが、敢えて記します)

――大手予備校の「小論文」の指導資料(経済学部進学希望の志望理由書の指導)を見る機会があった。

上級レヴェルで、また私が経済に無知だからだろうが、心頭を直撃したことは、「大学(ここでは、教養と専門の2課程を持つ4年制)って、なんのためにあるの?」であり、
高校からすれば、「大学(厳密に言えば大学教師)は高校に何を求めているの?」である。

ここまで高度な内容[経済の入門?]を消化?しなくては、“有名(難関)”大学には入れない不可解な現実。予備校が盛況なわけだ。

限られた時間。知育徳育体育、全人教育等々、百花繚乱の教育論
学校社会の保守性、閉鎖性大学進学が50%を超えることでの大衆化と益々の格差。増える専門学校進学の賢い?選択。
そして若者の学力低下を、理系文系の特性を無視し、時に感覚的に言挙げする大人。
その狭間でもがく生徒の救世主?

限られた時間で結果を出す自信と豊富な語彙(知識)で自身の型(その内容と語彙)にはめる意気軒昂な?指導。やらせ?一方でのカリスマ的人気。その小論文は「誰の小論文?」との自然な疑問。疑問を持てば大学に行けない?

かつて小論文入試が導入されて数年後の或る大学教員の嘆き。「小論文評価をしていると工場の、それも日本の優秀な工場の、ベルトコンベアの商品を思い浮かべる。」

この先生は、今、どうしているのだろう?――