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2015年11月28日

叙情があっての叙事を想う ―初めに叙事(言葉)あり、の現代日本の息苦しさ―

井嶋 悠

11月9日投稿のブログで、八甲田山、八幡平で出会った全山もみじ〔紅葉・黄葉〕で覆われた、その樹々の統合が私たちに迫り来る「秋の気魄」について書き、前回(11月18日)、政治と私の不可解から最後に犬と現代人のことに触れた。 それから2週間経った今、居住地栃木県北部のもみじ期は、そそくさと遠くに去って冬の気配が濃厚になって来た。 かねてから「人間冬眠必要」提案者である私は、(因みに、娘も、心身悪戦苦闘進行中であったこともあってか、苦笑しつつ賛同者であった)、「冬来たりなば、春遠からじ」との心の余裕などなく、冬嫌いの愛犬共々、ストーブの前にまどろむこと多の日々である。

『三夕の歌』の一つ、藤原定家の「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮れ」を借用すれば、「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 鄙(ひな)の我が家の 秋の夕暮れ」である。
そして、私も含め多くの日本人は、『三夕』のもう一つ、西行法師の「心なき 身にもあはれは 知られけり しぎ立つ沢の 秋の夕暮れ」に、「しぎ立つ沢」を眼にしたことがなくとも、その情景をそこはかとなく想像し共感同意する。

「あはれ」「もののあはれ」の秋、晩秋、とりわけその夕暮れ時。 ドボルザークの交響曲『新世界より』の第2楽章『家路』に陶酔し、唱歌『赤とんぼ』の詩[三木露風・作詞]とメロディ[山田 耕筰・作曲]の哀しみ溢れる叙情に心の琴線を震わせる人は多い。もちろん私もその一人である。
「あはれ」の叙情は秋を基本にし、そこには哀しみ、寂しさが自明のように通底する。
しかしこの語は、『萬葉集』の時代からあり、識者は集での「親愛」「賞讃」の意の用法を引き、意味の多様を説明する。「あはれ」語源説の一つに感嘆を表わす「天晴(あっぱ)れ」があることも考えに入れれば、春夏秋冬それぞれにあって然るべきであろう。 しかし、秋の哀しみであり、澄明さに心が向くその強さは他の季節のかなうところではない。

江戸時代の著名な文学研究者・本居宣長は、『源氏物語』を頂点にして日本文芸を基に「もののあはれ」との美意識を編み出し体系化したことで知られるが、文芸は、人が自身を取り巻く人々、自然、社会、森羅万象を見据え、心(想像、感性)を馳せることで成立するのだから、人の生の一切合財が「もの」を表わしている。 しかし、生まれ、かな(悲・哀・愛)しみの生にあって、人は「浮き・憂き世」そのままに幾多の哀しみを自覚し、孤独を思い知らされ、もがき、何かの、誰かの力を借りて何とか昇華し、紆余曲折漸(よ)う漸う生きようとする。 とは言え、「有限」の知情意動物のかなしみ、“無常”に圧倒され、「悲・哀」を直覚することがはるかに多い。だから「愛しみ」に私たちは心躍らせ求め、生きようとする。
これは古今東西多くの人々が言う、そのことへの私の体験からの確信的主観で、だから春夏秋冬を人生になぞらえるとき、秋の気配、それも夕暮れ時の清澄な静けさに身を委ね、寂寥に包まれ、時にそこに耽溺さえするのではないか、と思ったりしている。
それがあっての、八甲田山・八幡平の秋の天の気魄であろうと思う。

このことは、人である限りいずれの文化にあっても、不変にして普遍ではないかと思うのだが、東アジア人の中でも、また知り得た西洋人と比しても、その叙情性が日本人は強いように思える。
感傷的“人種”日本人……。

私は歌謡曲の愛好者ではないが、或る時出会った帰国生徒の父親(海外駐在員)の言葉、「週末、現地周囲から家族を放ったままでと非難を受けながらも、駐在員同士で飲んでいるとき、美空ひばりの『川の流れのように』を聴くと、止めどもなくなく涙が溢れ出るんです」に、海外駐在員経験がないにもかかわらず心激しく揺れ動かされた私があった。

叙事の世界の一方の雄かのような政治の世界が、理念等々「合理」以前のこととして生理的に不適応で、それは33年間事ある毎に教師不適格を痛覚していた背景でもあるのではないか、とも思っている。
続けられたのは、そういう教師が在ることの有効性を、稀少数派とは言え、直接間接に私に発した生徒、保護者、教職員そして家族があってのこと。ことさら言うまでもない。

ここで私が固執する叙情とは、日本の梅雨から夏の風土にある高温多湿のそれではなく、秋の清涼澄明な大気に突き抜け漂う心で、それは私の中に色濃く流れる高温多湿体質を忌避したいとの願望の裏返しであるのかもしれない。近年「泣ける映画(作品)」がごとき、叙情(心)を叙事(事としての言葉)で脅迫、抑え込もうとするかのような摩訶不思議なキャッチフレーズとは真逆にある感覚。 叙情か叙事ではない。叙情と叙事であって、但し叙情あって叙事、との私の生理である。

中高校国語教科書にしばしば登場する近現代を代表する詩人の一人、三好達治(1900~1964)の以下の詩が持つ響きである。

乳母車

母よ――
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花(あじさい)いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり (以下、第2連~第4連、略)

 

甃(いし)のうへ

あわれ花びらながれ
おみなごに花びらながれ
おみなごしめやかに語らいあゆみ
うららかの跫(あし)音 空にながれ
おりふしに瞳をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍(いらか)みどりにうるおい
廂(ひさし)々に
風鐸(ふうたく)のすがたしずかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうえ

[引用者注:季節は春であるが、ここにも清澄な叙情が流れている。
「甃」(井戸瓦。敷き瓦)
漢和辞典[大修館書店『漢語林』]での「解字」
―秋はけがれを去り飾るの意。井戸水の清潔を保つために内壁や周囲に敷く瓦。

同じく近代詩を代表する詩人萩原 朔太郎(1886~1942)の詩集『月に吠える』の序で彼は言う。
―詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。
―すべてのよい叙情詩には、理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴ふ。 これを詩の  にほひといふ。
―私は自分の詩のリズムによって表現する。(略) リズムは以心伝心である。
―詩は言葉以上の言葉である。
―詩を思ふとき、私は人情のいじらしさに自然と涙ぐましくなる。

言うまでもなく私は詩人でもなければ、詩の篤く、熱い読者でもない。神社の狛犬が表わす「あ・うん」に魅かれる元中高校国語科教師(言葉を最も弄する教師)であるがゆえに、上記の詩人の言葉に強く引き入れられる私がいて言葉を借用した。詩の生を想像し。

学校社会は社会全体を映し出す鏡であり、縮図である、との言説に、33年間の中高校学校教員体験から実感として同意している。
しかし、そこには感傷はあっても叙情はない叙事の世界であると、内省自省からとは言え、過言を承知で思う。 そのことが日本の教育の総論/各論での改革で、欧米の教育を最優先する発想の一因なのではないかと思ったりもする。合理と非合理における東西異文化?
1945年を原点に、憲法と教育基本法の遵守と実践を主張する社会意識の高い(強い?)或る教育学研究者の言葉(叙事)に、知として同意しながらも、心の脈動(叙情)と一体化しない「理解」の段階で止まっている、そんな私のもどかしさ。

私の中で突き刺す現代日本社会の鏡・縮図としての「学校社会の叙事優先或いは叙情のない叙事」を、二つ挙げる。

それらは、以下の学校体験(専任教員としての3校)が基盤であり、あくまでもそこからの管見である。
【3校の共通項】
・私立中高一貫教育校(但し、内、2校は女子校、1校は共学校)
・ほぼ全員(生徒・保護者・教員)が大学進学を自明とする
・自由を謳い、国際教育、英語教育、海外帰国子女教育、外国人子女教育を標榜する

見る人によっては羨むイメージを持つかもしれないが……。

大学進学の頂点(極み)東大進学から見えること

東大卒業者(親族も含め)との出会いは多い。しかし、人格的に敬意を表し得る人物は多くない。 かなりの部分で、権威性を、独善性を、閉鎖性を直覚するのだが、本人は無意識化している。そこが「上意識」なのだろうが、その人たちが、創立時の明治時代ではない、現代日本社会の各領域で指導的立場にあることを自他当然としている場面に思い及ぶと末恐ろしい。 彼ら彼女らの自負と偏差値という数字との関係。 1980年代以降「教育の商品化」は止まることを知らない。経済的豊かさが進学を保証するとの図式。塾産業無くして進学なしの異様。 進学者の保護者(特に母親)の会、いわゆる「ママ友」の一つで、東大進学を誇る某私学のそれの、例えば「食事会」に見る虚飾に浸る母親をどう見るのか。 これらの事象(叙事)に、どんな叙情があるのだろうか。少なくとも私には全く分からない。 この事象を悪しとし、無くすための入試方法、学力評価法はあり得ないのだろうか

《補遺》 当時、“やんちゃ”の高校生が集まる学校(男子校で、中学校でのやんちゃ連[社会的呼称は不良或いは非行中学生]が、中学校での進路指導でその高校への進学を奨められると、多くが泣き崩れたと言われていた)の、当該教員(男性)から聞いた事例。
「1年生での自暴自棄もあっての心身壊滅的様相の日々、2年生での連帯意識の芽生えと共同体  作りの上昇志向、3年生での見事なまでの一体化と学校行事等への取り組み、を間の当たりにした感動は比類がない。」と。
彼らを見守り、支えるその教員(たち)の器量を持たない私ではあるが、そこに叙情があっての叙事の素晴らしさを見る。
尚、その学校は世の変化(その内容と良し悪しには今は立ち入らない)からなのか、今は中堅?進学校となっている旨聞いている。

AO入試等の入試方法から見えること

○×式画一的入試方法から、一人一人の個を吸い上げたいとの視点から編み出された、「小論文」「自己推薦」「学校(長)推薦」また「面接」重視の入試方法。
1980年前後から導入された「小論文」、見識ある人々が当初より危惧していた新たな「画一化」が進んでいる。
知識と形式からの論説文表現指導。そこに見る塾産業の競い合い、学校教師を含めた“プロ意識”による自身の「雛型作り」の現状。
国語科教師として生徒の作文鑑賞と指導は、相当の時間と体力を必要とされるが醍醐味でもある。 そんな中での、私の理解さえ及ばない二つの事例。
一つは、某予備校の「上級」小論文講座に見る高度な知識の要求とそのことでの自尊意識形成。
一つは、某高校での、語句選択から方法・内容の微に入り細に至る指導。
そこに在るものは、結果を求めての叙事(担当者は叙情と言うかもしれない)であり、そのことでの進学実績上昇の事実とも併せた教師のカリスマ性?からの指導という名の強制ではないか、と思う。 それとも、ひょっとすると、これは教師と生徒双方の限られた時間にあって他にどんな方法がある?との、身をもっての提言と言うことなのだろうか。
それによって作られた小論文かそうでないか、大学側はどのように判断しているのだろうか。
そして思う。 長寿化社会にあって、大学教育また大学院教育とは一体どうあろうとしているのだろうか、と。

 

上記二つの現実は、海外・帰国子女教育や外国人子女教育とも重なって来る、正に日本を映し出す一面であり、当事者の生徒たちにとって、更には心ある教員にとって、困難極まりない問題でもる。
そこに、かの「英語ペラペラ」が加わる時、それから外れる彼ら彼女らの心中は、多くは「世の中そんなものよ」とは言うが、本音はどうだろうか。 ペラペラの持つ狭隘にして薄っぺらな響きにどれほどの叙情性があるのだろうかと思うし、その用語が一般化している現代日本に寂しさを思うのは老いの身ゆえだろうか。

こんな出会いがあった。台北日本人中学校卒業後入学した生徒。 日本人学校での限られた授業と日常生活で身に着けたわずかな中国語力。しかし、漢文授業で押韻説明の時、その生徒の音読でもたらされたクラス生徒の感嘆と説得力。私が説明すれば叙事の叙事に過ぎないが、その生徒がすることでの叙情からの叙事が持つ力を思う。

先日、都心のいつも多く人が訪れる、或るペットショップ(子犬と子猫)で出会った風景を思い出す。
明るく清潔な、特に広くない店内に設けられた椅子に、凛と背を伸ばし浅く腰掛け、膝には生後数か月くらいであろうか無心に餌をほおばる愛くるしい子犬を置き、手のひらに収まるほどに畳んだハンカチで、瞳の動きから周囲を気にしているのは明らかなのだが、こみ上げてくる涙を抑えきれず拭っていた40代とおぼしき婦人と、彼女が醸し出す清楚な漂い、空間。
横の同年代或いはそれ以上の男性(会話から夫君とは思えなかったが)が、薄っすら微笑みを浮かべて言う「昨日一晩、この子は何も食べなかったんだ…」との言葉が聞こえ、彼女は何度も首をタテに振る。 私はその直後、前を通り過ぎ勝手に想像する。
「昨日、この店で購入した子犬が、環境の変化で一晩何も食べず、心配でたまらない彼女は、医院に行くより購入先に相談に来たのだろう。そして、膝の上で旺盛に食する子犬を見て、安堵、安らぎの喜びの涙がいっときに溢れ出たに違いない」と。
当たり前のように、この子犬の、彼女のような人に飼われることの幸いと犬ならではの慈愛でこれからいつも彼女に寄り添う姿が浮かんで来た。
三好達治の詩に通ずる叙情。確信する。清楚のない叙情はあり得ない、と。だからひたすら清楚を憧憬する。叙情から叙事へ。

私にとって戦後の清楚な女優は誰だろう?と、手元にある「女優ベスト10」(『日本映画ベスト150』文芸春秋編・1989年刊)を観たり、そのベスト10にはないが香川京子さんかなあ等々思ったりもするが、しっくり来ないなどと妄想していたら、先のベスト10の第1位の原節子さんが亡くなったとの報。 映画での彼女に清らかな妖艶さを感じていた一人ではあるが、清楚とは違うようにも思え。 そのとき、彼女の突然の引退後の53年間が、ひょっとして清楚の叙情ではないか、とふと過る。

《蛇足:以前、やはりこのブログで、小津安二郎監督の『東京物語』が、私にとっての最高の映画と記したが、作品中に、母の弔いの後、
香川京子演ずる末娘が姉や兄の俗性を謗(そし)り、戦死した次男の嫁役の原節子が諭す二人だけの場面がある。この一か所が、当初から私にどこか違和感を与えているのだが、その理由が、清楚の叙情に入り込んだ世俗の道徳(叙事)の浮き上がりなのか、とも思ったりする。》

結びに、『古今和歌集』(905年)の序から冒頭部分と他の部分一節を引用する。
1200年余り前、すでに日本人の叙情が、歌(文芸)創作を通して的確に表現されている。 自然と人間と表現と。そして、いつの時代も「徒(あだ)」の「はかなさ(儚(はかな)さ)」、虚しさに、彷徨(さまよ)い昇華しようとする人間を、到底そこに及ばないがゆえに私は、一層の敬愛をもって見る。

〔冒頭部分〕

やまと歌は 人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける 世の中にある人 ことわざしげきものなれば 心に思ふことを 見るもの聞くものにつけて 言ひいだせるなり 花に鳴くうぐひす 水に住むかはづの声を聞けば 生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女のなかをもやはらげ 猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり

 

〔他の一節〕

今の世の中 色につき人の心花になりにけるより あだなる歌 はかなき言のみいでくれば 色好みの家に 埋れ木の人知れぬこととなりて まめなるところには 花すすき穂にいだすべきことにもあらずなりにたり

(引用者注:ここにある「色好み」については、当時の貴族社会での美意識、倫理観など現代のそれとは違うことを理解して読む必要があると言われているが、ここでは省略する。)

《大意》今の時代、昔の真実を求める姿とは変わり、華美になり、歌も浅薄で、空虚なものと化してしまった。そのため歌は、真善美を愛す
る個人一人の中でのみ生き、公からは遠ざかってしまっている。

2015年11月18日

パリとエジプト上空でのテロ惨劇と政治と私と犬と ~己が生反芻中への一助のために~

井嶋 悠

先日13日、パリで「IS国」によるテロの惨劇が起き、近々新たな襲撃の可能性も予想され、大統領は「戦争状態」との声明を出した。
更には、今日(17日)、先月のエジプト上空でのロシア旅客機爆発・墜落は「IS国」の犯行とロシア政府から発表された。

繰り返される、己が絶対正義の侃々諤々(かんかんがくがく)ではなく喧々囂々(けんけんごうごう)、罵り合いからの殺戮と戦争、内戦の歴史。
政治の避けられない側面……?

「IS国」支持者や宗教、思想は違うが根源的(ラディカル)革命の貫徹、完遂を目指す世界に散在する「反体制過激(ラディカル)派組織(集団)」員を除けば、パリやエジプト上空でのテロを容認する人はいない。私もその一人で、一部散見される同情論的な見方も持ち合わせていない。
これらのことは、私が23歳の時に衝撃を受けた言葉(昭和10年代の癩病《現ハンセン病》作家・北條民雄の病中での叫び)で、今もって頭・心・身で為し得ていない「同情ほど愛情より遠いものはない」につながることでもある。

政治・経済・地域情勢等々での交流深化を目的に、パリのテロ惨劇が企画されたと言うシリアの隣国・トルコ訪問中の我が国首相の公的言葉。

「強い衝撃と怒りをもって断固非難する」と述べた後、次のように続ける。

「私たちと価値を共有するフランスが今、困難に直面している。日本人はフランスの人々と常に共にある。強い連帯を表明する」と。
(『東京新聞』15日・朝刊より引用)

不穏当、不適格な表現というわけでもないが、違和感を持つ私を否めない。
それは、私のフランス理解が、芸術領域でいささかの崇敬的親愛の情を持っているとはいえ、高校世界史授業程度の知識でしかなく、一度校務でパリ日本人学校を訪問し2日間滞在したとは言えただそれだけのことで、いわんやフランス人の知人友人があるわけでもなく、要は無知に等しく、且つ併行して、現首相の、日本国の導き方、人を人と見ない独善・驕慢の態度、それらしき言葉を弄すればすべて事足れりの官僚的概念的発想等々から最近とみに拒否反応が強くなっているからなのかもしれない。

己が絶対の自信、独善、驕慢者は学校教師にも多いのが自省からの思いである。なぜだろう?との問い掛けだけにここでは留め置くが、この一部?教師の存在が、日本の教育改革が理念と制度、それも多くは欧米からの模倣的導入、に終始し実効性を持ち得ない元凶の一つになっている、と私の身には沁み入っている。
話を元に戻す。

しかし、なのだ。

「私たちと価値を共有するフランス」

「私たち」って、日本人の代表者としての発言だから、日本人全体を指すのだろうと思うのだが、どんな「価値を共有」しているのだ
ろう? 疑問を持つのは私だけなのだろうか。

「常に共にある」

常に? 例えば、どんなことで? やはり私だけなのだろうか。

「強い連帯」

この発言の後ろに、政府推薦の有識者でさえ憲法違反の疑念を言っていたにもかかわらず「集団的自衛権」を2か月前(9月19日)に成
立させた、あの不遜の慢心があるのでは、と思うのも私だけなのだろうか。

同時に思う。
サブカルチャーも含めた日本文化に親愛の情を寄せるフランス人が多い今日、そのフランス人(と言っても多様であるが)が、この日本国首相の言葉を聞き、どんな感覚を持つのだろう、と。感謝の言葉以外に。

もっとも、これらの根底には、井上邦久氏の『中国たより』11月号「日韓中」[この「ブログ」の11月11日掲載]にある「形式知」「暗黙知」への私の無理解がそうさせているのかもしれない。

しかし、独り合点ながら得心する。
政治に眼を向け、自身の事として考え、調べ、時に疑問を抱き、時に痛烈に批判し、そして嫌悪する、そんな自身がふと虚しく、寂しくなる、その要因、背景を。
古今?東西?政治家(正しくは政治屋?)の発言が聞こえて来るようだ。「政治は深奥にして深遠な世界。生兵法は大怪我のもと、ですよ」との慇懃無礼な説諭が。

そして、「なるほど、だからなのだ、選挙での演説やテレビ討論、はたまた国会中継が、つまらない喜劇など足元にも及ばない滑稽(おかしみ)に溢れているのだ」と私に覚らせる。当事者が真面目に、しかも意気軒昂に声高になればなるほどに。だから、それらは“茶番・猿芝居”で、滑稽の後に打ち寄せる哀しみなどなく、いわんや“滑稽美”とはほど遠い。これも私だけの個人的感覚かもしれない。

1990年代後半から選挙投票率は50%余りで推移し、私同様支持政党なしは50%から60%強である。
来年から投票権が18歳以上に引き下げられた。正しく「改」で、日本にとって光明ではないかとさえ思える。

“言葉-それも観念的言葉-遊び”としか思えない、赤字超大国日本の再建計画などどこ吹く風、高齢化に伴う福祉対策、少子化に伴う教育対策、更には何が何でもの原発施策、沖縄に象徴される米軍基地と国家防衛(軍事)施策での、脚下照顧など政治家の辞書にはなく、財源不足を錦の御旗に繰り広げられる税率引き上げ等々の「国民」との抽象語を都合よく利用しての吸い上げ、“大企業と大都市とその他大勢構造”の物心都(と)鄙(ひ)発想はそのままに、「6人に1人」が貧困家庭の子どもの現実、先進国10有余年連続世界一の自殺国日本の、「一億総活躍社会構想」の摩訶不思議、狂騒。

高校義務教育化となってもおかしくない今日、感性瑞々しく大人の奇妙な功利性に毒されていない高校生が、痛みと「かな(悲・哀・愛)しみ」に真摯に向き合っている教員と協働して、政治(哲学)を、日本の政治を、世界の政治を語り合うことでの可能性を、公私立の温度差を想像しつつも、私学経験の私は思う。

例えば、月に一度、合同ホームルーム学習で、教員と生徒から、その学校の“校風”を意識した人物を講師・問題提起者に指名し、その話をクラスに持ち帰り、討議し、次の月例会で全体報告するとか……。これは国語科教育で言う「表現と理解」の学習とも重なる。
それこそ高校生からいろいろなアイデアが出されることだろう。
その際、二重国籍を含む外国人生徒、帰国生徒の体験は、活きた言葉として伝わるであろうし、発言者の彼ら/彼女ら自身の内省の時にもなるであろう。
そして、その積み重ねは、いささか大仰であることを承知で、学力観を考えることでの素因となるのではないか、とさえ直覚する。

頑なな政治家や文科省を中心とした官僚、また曲学阿世の有識者たちは、しきりに「手引き」等々その人たち十八番(おはこ)の指導書作成を進めている。作成自体、己が足元の崩壊を直覚してのことなのだろう。

しかし、なのだ。

この拙文も、2年余り前から意図的に行っている私的集成の、【日韓・アジア教育文化センター】《ブログ》への投稿なのだが、今夏、古稀を迎えた老いの身としては、自身の性向と天与ゆえ一層不明の余生時間からも政治に係る発言は極力控えたい私がいる。

劇作家・井上ひさし。彼を知る人は多いと思うが、劇作といった難しい響きではなく、1960年代後半、一世を風靡したNHKテレビの人形劇『ひょっこりひょうたん島』の原作者の一人であるといった方が親しみを持つ人がより増えるだろう。
その彼の、宮沢賢治の、「かな(悲・哀・愛)しみ」に満ち溢れた詩『雨ニモマケズ』と『永訣の朝』を下敷きにしたパロディ詩に接すれば、政治屋の繰り返される!愚行と、そんな政治を考える馬鹿馬鹿しさ、そして寂しさが私をいや増して襲うだけで他に何もない。
世は、人は、命あるものは「無常」にもかかわらず、政治は繰り返される。なぜだろう?!
無常ゆえに美或いは美感が生まれるとも言え、だから政治に美・美感など生まれようがないのだろう。
こんな詩だ。(制作時は、田中角栄内閣時代1972年~1974年である)
5連からなっている長詩で、第1連からと第5連から、一部分を引用する。
今の内閣のこと?と思えるほどの出来栄え。さすがである。

[第1連より]

野次ニモマケズ / 失笑ニモマケズ / 言ヒ損ヒニモ読ミ間違ヒニモメゲズ / 丈夫ナ舌ヲモチ / 迷ヒハナク / (略) 東ニ勇マシイ親分アレバ / 行ッテ盃ヲ受ケ / 西ニEC諸国アレバ / 行ッテコノ顔ヲ売リ / 南ニ援助ヲ求ムル国アレバ / コノトキハ反リ返リ / 北ニハケンクワッヤソショウヤ / シンリャクガアルトキメテ怯(おび)エ (略)

[第5連より]

……東ニ景気ノ悪イ大国アレバ / 行ッテ智恵を貸シテヤリ / (略) / 南ニ難民ノぼーとアレバ / 行ッテ我国ニ来テハイカガトイヒ / (略)/ヘコタレモセズ / クニモサレズ / サウイフ国民ニ / ワタシタチハナリタイ

 

ことさように苦々しく言いながらも、政治は一人一人の生の日々を左右することであり、一方でどこかで私流の折り合いをつけることを思ったりもする。
テロの惨劇報道での哀しみを目の当たりにし、共に涙する心をもって、東洋人として、日本人として脈々と心性に受け継いでいる、東洋哲学の、

「性善説」:「人の学ばずして能(よ)くする所の者は、その良能なり。慮(おもんばか)らずして知る所の者は、その良知なり。」
(孟子・BC4世紀前後の人。“教育ママ”の元祖「孟母三遷の教え」が母)

「性悪説」:「孟子曰く、人の性は善なり、と。是れ然らず。」

「凡(およ)そ人の善を為さんと欲する者は、性の悪なるが為なり。悪(みにく)きは美しからんと願い、狭なるは広からんと願い、貧なるは富まんと願い……。苟(いや)しくも中になき者は必ず外に求む。(略)今、人の性は固(もと)より礼儀なし。故に勉学してこれを有たんことを求むるなり。……」                                                                                                                                                                           (荀子・BC3世紀前後の人)

と、

聖徳太子が説いた「敬和」
(「和を以て貴しと為し、忤(さから)ふ無きを宗(むね)と為せ。 人皆な党有り、亦た達(さと)れる者は少なし。 是れを以て或ひは君父(くんふ)に順(したが)はず、乍(たちま)ち隣里(りんり)に違(たが)ふ。 然れども上(うえ)和(やはら)ぎ下(した)睦(むつ)びて、事を論ずるに諧(かな)へば、則ち事理(じり)自ずから通ず。 何事か成らざらん。」)                  『十七条憲法 第1条』

[現代語訳]

和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。

と、

現代と国際と日本を、自問自答、自己検証する時間、としたり。

昼夜問わずいつも私と妻の横には、御年8歳になる雌の、フレンチブルドッグとシーズーのダブル(一般にはミックス)犬が居る。名前を「ひな子」と言う。日向(ひなた)にまどろむ杉浦日向子(以前、妻からその存在を教えられた私の敬愛する女性の一人)のイメージから名付けられた。名付け親は妻である。

(この「ダブル」との表現は、海外帰国子女教育、外国人子女教育で学んだ一つで、「半分ずつのハーフ」ではなく、「二つの文化保持のダブル」の意である。)

非常に学習能力の高い、必要最小限の吠えをわきまえ、美形とは言い難いながらも“女は愛くるしさ”を地で行く、我が家の精神的支柱で、この彼女を家族の一員とするに功を為したのが今は亡き娘である。因みに、自立していて生活が別ながら、戌年の長男とも意気投合していて、会えば以心伝心、巻尾が勢いよく揺れる。

性格柔和、風貌豊潤、私は彼女に憧憬の人・老子を重ねていて、孤独の不安と喜悦、老いゆえの煩(わずら)いを思うときなどに、彼女のまどろみなどお構いなく声を掛ける。彼女は黙し語らず、大きな瞳で「無為にして自然」と語り掛け、我が寝床(ベッド)に潜り込み、そこで私は何かを得る。

ペットレス症候群との言葉が普通に使われている現代日本。
犬や猫と人(私の場合は犬)。そんなことについて物することも己を、更には老いを知ることになるか、とも思ったりしている。

2015年11月11日

 中国たより(2015年11月)    『日韓中』

井上 邦久

 木々が色づく紅葉の季節、韓国語では丹楓(タンポ)という古風な言葉が残っていると若い現地社員から教えてもらいました。但し、その社員も日常的に使う言葉ではないとのこと。一週間前の北京では銀杏などが色づき黄葉(HUANG YE)と呼んでいました。

11月1日、街路樹の丹楓が進むソウルで、第5回韓・日・中ビジネスサミットが開かれました。前もってパスポート明細や宿泊先の問合せがあり、厳しい警備への対応を促されましたが、会議式次第や発言者の詳細情報が届いたのは出発前日でした。云うまでもなく、2013年以来となる日本・韓国・中国の三ヶ国首脳会談に合わせた急な動きであり、三つのベクトルがなかなか揃わないままに、なんとか開催に漕ぎ着けた感じです。

会場のロッテホテルの下見をしてから、近くの繁華街の明洞を久しぶりに散歩しました。以前は看板やポスターに僅かしか見出せなかった漢字がずいぶん増えたことが第一印象でした。次に年配の男には買うものが見つからないほど、化粧品・アパレルの店が圧倒的であることに驚きました。80后(1980年以后の生まれ、一人っ子世代)の中国人女性という、世界的にも購買意欲の高い客層を狙った通りでした。

いつもビルの谷間に残った大衆食堂での朝食から水先案内を務めてくれる現地法人のボスは、明洞から道を折れた処にある二十世紀初頭に創設された華僑学校、その隣の中国大使館(旧中華民国大使館址)に導いてくれて、中韓国交樹立(=台湾との国交断絶)前後の話を聞かせてくれました。向かいの建物には国民党のシンボルの青天白日が刻まれたまま残り、その前では反中国政府のビラを配る人もいました。そのどちらにも目を留める人もなく、大使館警備員は増強されているとはいえ、雰囲気はのんびりしていました。
会議会場では、屈強の私服警官が目立つ程度(本来は目立ってはいけないはず?)で、入場カード登録も安全検査も緩やかでした。開始前の榊原経団連会長の表情も穏やかで、高揚感とともに安堵の色が窺えました。

二つのセッションに分かれたパネルディスカッションには、韓国は政府高官OB中心、日本は経団連副会長のお二人、中国からは王府井百貨店社長、安邦保険総裁といった民間人がパネラーとして参加されました。
韓国側から、北朝鮮に市場経済指向の兆しがあるので、物流投資を三ヶ国で支援しようとの提案。更にはロシアも睨んだ北東アジア開発への参画要請がありました。二週間前に、北朝鮮と中国の国境の新義州と丹東で経済開発区構想が「始動」したという報道もありました。
何年も前から「始動」し続けているので、今回はギアチェンジがあるのか無いのか現地確認が必要かなと思っています。

中国側から、北朝鮮関連については具体的な動きを知りたい、という冷ややかな一言。あとは、一路一帯、アジアインフラ銀行(AIIB)などの政策のアピール、そしてGDPの1%の意味が、10年前・20年前とは実額ベースでは大きく異なっていることから、7-9月の前年対比の成長率が0.1%少ないことについての議論の不毛さを強調する「民官人」的発言が記憶に残りました。
日本側からは、日本は色んな提案企画に反対しているわけではない。いつもドアは開けている。ただ、内容や運営手法を透明にしてもらいたいだけだ、というYES、BUTの印象。

いずれも、同時並行して行われている三ヶ国首脳会議の動きを見守るハーフウェイの立場であり、踏み込んだ議論にはなりにくい環境だと同情しました。そして、会議の最終章の時間、にわかに報道関係者の数が増え、政府関係者と警備担当が増えました。
目の前のテーブルに着いた韓国の李外務大臣の後ろ髪が少々不自然だなと思う間もなく、中国の王毅外交部長(外務大臣)が親しげに近づき、その肩を抱くかのようにして隣に座りました。遅れて静かに来場した岸田外務大臣は椅子一つ分の距離を置いて着席しました。
衆人環視の中での三人の動きに、現下の三ヶ国の距離感と表現の違い(形式知と暗黙知)を感じてしまいました。

そして、朴槿恵大統領に先導された安倍首相と李克強首相の到着。まず三ヶ国の経済団体代表のスピーチ(いずれも経済界の足並みは揃い始めたので政府による支援を宜しく、といった内容)がありました。続いてビジネスサミットへの祝辞目的の簡単な挨拶だけかな、という予想は裏切られ、三首脳はそれぞれの個性と意見を出しつつも、言葉使いと表情を制御していることを感じました。中国語の同時通訳者が少し緊張気味の印象でした。

昨年秋の北京に、APEC BLUEと称する青空をもたらしてくれた会議での緊張感とギコチナサとは異なり、同じく一週間前の北京で共同声明発表に至らなかった「東京―北京フォーラム」の喰い足らなさ(或いは残尿感)とも違う雰囲気が会場にありました。下世話な喩でいば、しっかり者の妹分が、意地っ張りの二人の男を何とか宥めている光景のようにも見えました。
翌朝の新聞一面には、各紙各様の三人の写真が大きく掲載されていました。その写真の表情を見ながら、久米正雄による大正時代の新造語「微苦笑」という言葉を思い出しました。

数千年に及ぶ交流の歴史があり、今年は2000万人を超える相互往来のある日韓中三ヶ国のGDPは世界全体の25%近くを占めると言います。紅葉、丹楓、黄葉・・・それぞれの国で表現や色合いは異なっていますが、季節の変化を感じる地域の国同士であります。
今回のソウルでの集いを友好とか親善とかのお題目ではない現実的なパイプ、パイプが無理なら最低限の生命安全を保障するカテーテルを繋ぐ起点にしてもらいたいと切に思います。

関空に戻る夕方の大韓航空の機内食は,オニギリ一個でした。オニギリも今では日本・韓国・中国のコンビニで普通に売っている食品です。               (了)

2015年11月9日

昨年に続いての「恐山」参詣の旅 ~その途次途次で拾った幾つかの覚え書き~ Ⅲ 八甲田山・奥入瀬渓谷・八幡平

井嶋 悠

『昨年に続いての「恐山」参詣の旅 』Ⅲ(最後)である。

この拙劣文は、娘の死があっての、昨年の恐山参詣の感動、驚愕での今年であり、恐山を目標地とした私たち夫婦と愛犬の東北の旅の、私のつれづれである。
だから、恐山を詣でれば主目的は達成されたとも言え、そこからの(Ⅰ)花巻・遠野で、今回(Ⅲ)の八甲田山・奥入瀬渓谷・八幡平である。

付録が時に本誌にはない発見を与えることは、少年時代の雑誌に係る思い出も含めてある。などと言えば、娘の陽気な激怒必定だが、そんなアホな私の娘であることを善しと思い続けてくれた彼女のこと、きっとサラリと見過ごしてくれるだろう。
往路の遠野の佐々木喜善記念館がそれであり、復路の今記そうとしている“紅葉狩”がそれである。

私は今日この頃になってやっと、自然と人間のことが得心できるようになった、かな?と思う。
自堕落の20代前半を過ごしていた時、「自然は芸術を模倣する」との言説に触れ、蠱惑(こわく)的直感を持った一人で、しかし今、それは人の驕りの極みであって、人間誕生以来、少なくとも日本では、「芸術は自然を模倣する」の絶対真理に、晩稲(おくて)を越えた恥ずかしさで、到りつつある。
と言っても、そもそも私に芸術を述べるほどの素養や蓄えはなく、だから「芸術」の箇所を、社会とか国とか、また私の生業世界であった学校(中高校)を置いて、そこはかとなく思い巡らせている中での直覚である。するとどうであろう!そこから日本の歪み、危うさが炙り出されて来る。

そんな私たちが、恐山からの帰路に通った八甲田山・奥入瀬・八幡平での二つ(・・)の「紅葉狩」。 一つは、手に触れることのできる「紅葉狩」、一つは、人を一切拒絶し、有無言わせず圧倒する「紅葉狩」。
前者が奥入瀬での紅葉狩であり、後者が八甲田山・八幡平での紅葉狩である。

奥入瀬渓流に沿って、バスがかろうじてすれ違えるほどの土の道の、撮影適地とおぼしき端に車が止められ、人々は紅葉に触れ、カメラを構え、紅葉狩を満喫している。平日もあって日本人の多くは高齢者で、後は外国人観光客である。
人混みを極力避けたい私たちは、それらを横目で見ながら低速ドライブで通り過ぎ、人が少ない私たちの好適地で停め、いっときの紅葉狩を楽しむ。心安らぐ静閑な時間。

最近、高齢者(多くは男性)が、見るからに重そうな高級カメラを構え、自然に向き合う姿をよく見掛ける。写真には関心が向かない、非文明的なことの多い私だからだろうか、機械を介することで自然と同化せず、異化しているよう思えてならない。その人たちは、カメラを介してより強く同化していると反論するのだろうけれど、いつも疑問が湧く。だから、私は紅葉狩の本筋、正道から外れているとさえ思ってしまう。

奥入瀬に引き替え、八甲田山・八幡平のそれは、一本一本の樹々が、自立し、天意のままに、厳然と、もみじ(紅葉・黄葉)となって全山を覆い、その山々は晴れ渡った空を突き抜ける陽光を浴び、燦然と輝いている。正しく錦繍(きんしゅう)。
能楽での衣装は装束と言われ、それは公家の有職や武家の故実の衣服を指し、歌舞伎や舞踊とは違う格調の高さを意識してのことと言う。私の少ない鑑賞経験からも、豪奢と言う言葉にふさわしい、そんな輝きの風景である。
その合い間に舗装された一本の道が通っていて、行き交う車もほとんどなく、私たちは前後左右から迫るもみじ林に抱擁され、ひた走る。時折、見晴台として設けられた場所で車を停める。

そこで出会った中型トッラクで駆けつけ、手洗いを済ませ、機敏な動きで立ち去る颯爽とした若い女性。その地の人で、仕事か何かの行き帰りなのだろう。私は清澄な大気と絢爛な林を更に高める点景を想う。
大自然を前に頭(こうべ)を垂れ、跪(ひざまず)く私たちを、人為のない自然な息吹きそのままに、心に描く。
この地に生まれ、育ち、いま生きている人、とりわけ若い人は、日本の今の都市文明と、どこで、どう折り合いをつけているのだろう、と都会人の観念的無責任さで思ったりもする。

古来、秋は寂しさ、あはれの美としてとらえられ、現代人の私たちも多くは同感する。
しかし、それらは晩秋の、里山を、鄙地(ひなち)の、それも夕暮れ時を描いているのではないか。そしてそれを表現した人たちは、当時の有識者である。

例えば、百人一首での、また新古今和歌集にある「三夕の歌」の一つは、次のような歌である。

(百人一首)[さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ]

(三夕の歌)「心なき 身にもあはれは 知られけり しぎ立つ沢の 秋の夕暮れ」

また、才豊かにして煥発の日輪的女性清少納言は、『枕草子』の、古典中の古典として今も伝わる冒頭「春は曙。…… 夏は夜。…… 秋は夕暮れ。…… 冬はつとめて。……」で、それぞれの美を描写するに際し、「をかし《対象を観照する境地の美》」を駆使するが、秋では「あはれ《対象と一如となる境地の美》」を使っている。[左記「をかし」「あはれ」の説明は、栗山 理一編『日本文学における 美の構造』より引用。]

私たちが、八甲田山の、八幡平で出会った秋は、夕暮れの前の午後の時間であったが、気魄溢れる秋であり、「きっぱりと冬が来た (略) 冬よ 僕に来い、僕に来い 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」(高村光太郎)に向かう秋である。
しかし、冬が厳しいことを否定する者はいない。
萬葉集の山上憶良が歌う「貧窮問答歌」に登場する農民たちが、言葉を紡いだとすれば、寂しさの秋をどう表わすのだろう。冬への不安を、春への一層強い望みを、気魄の秋の形で歌い上げるのだろうか。

尚、「あはれ」やその背景でもある「無常観(感)」の覚醒での、生の強い意志(気魄)についてはここでは触れない。

春は万物の命息吹く季節である。

「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」[紀友則・百人一首]であり、
「その子二十歳 櫛にながるる 黒髪の おごりの春の うつくしきかな」(与謝野晶子)であり、
死への気魄「願はくは 花の下にて 春死なん その如月の もちつきのころ」(西行)である。

そして、万葉期の額田王以来、貴族間(王朝)では春秋優劣論争が繰り返され、以下に引用する解説からも、そのことを受け容れる私たちがいるが、同時に、四季折々に美があり、優劣を論ずることの頑なさに疑問を持つ私たちもいる。

――「源氏物語」における春夏秋冬の用語例は春74、夏15、秋73、冬11となる(「源氏物語大成」による)。春秋が拮抗し、夏冬が格段にすくない。この割合は「古今和歌集」における四季の部立に相応する。すなわち春134首、夏33首、秋144首、冬28首である。また、「源氏物語」における春夏秋冬の用語例は春74、夏15、秋73、冬11となる(「源氏物語大成」による)。これから見ると、「源氏」の四季観は和歌的範疇に属し、繊細優美な王朝風雅の世界を基盤としているように見える。――

因みに、光源氏は、春秋優劣を決めることはできないと語り、先の清少納言は春夏秋冬それぞれ独立して美をとらえている。

【余談】
京都の冬は、私の幼少時生活体験(60年余り前)からもことのほか厳しく、平安朝の侍女たちに焦点化する清少納言の冬の描写に、彼女の天賦の才を思ったりする。

思わぬ秋に出会った私たちは、八甲田山と八幡平の錦秋が放つ霊気をどう受け止めるか、鋭気とするか、後(しり)ごみの気とするか。

娘は、先に引用した、西行の「願はくは 花の下にて 春死なん その如月(きさらぎ)の もちつきのころ」を、こよなく愛し、天は願いを聞き入れたのか、如月(新暦3月)ではないが、命日は4月11日だった。
私は、やはり先に引用した紀友則の「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」に、「しづ心なく」を全き理解できるほどの風流人士とはほど遠いが、「ひさかたの」の響きから広がる想像に導かれ、その「光のどけき 春の日」に陶然とし、法悦にも似た恍惚世界に引き入られる。それは嘆きから気魄に変わる意思ととらえたいこととして。
春夏秋冬。それぞれの美。自然の美。「芸術は自然を模倣する」
教育は自然をどのように模倣しているだろうか。

学校教育世界にあって、今では文化相対視点は当たり前のことで、そんな中にあって「異文化理解」と「異文化理解」との言葉があり、「人間」(じんかん・にんげん)と同様、あれこれと考えが巡る。
また、「個を育てる・伸ばす」との言葉も、ずいぶん前から言われているが、今はどうなのだろうか。
「主要5科目」「芸能科(主要5科目以外の教科)」といった言葉が、初等教育、中等教育の10歳前後から18歳前後までの感性研ぎ澄まされている時期、特に抵抗もなく教師、親、大人によって使われることはもうなくなったのだろうか。
長寿化、少子化の益々進む世。肉眼でしっかりと見入り、検証する時に在るように、やはり内省、自省から思えてならない。その見入る時間を個々で持つことができる、個々が「自由」を直覚し、思考することができる、そんな世であって欲しいと思う。
しかしその時、今、世は功利という人為が最善、最優先過ぎる、と思うのは、やはり老いの(人生を春夏秋冬に見立てた、晩秋から冬の死に向かうと言うあの)愚痴でしかないのだろうか。

《追記》
拙文とは言え、少しでも自分なりの納得を持ちたく、参考資料を求めて図書館に行く。幸いにも自宅より車で20分ほどのところに、充実した市立図書館がある。新たな発見、学びも多い。今回もあった。秋に係る私の八甲田・八幡平の感激の参考となる文章を探しに出掛けて。

豊島(とよしま)与(よ)志雄(しお)の随筆『秋の気魄』[「日本の名随筆 19 秋、所収」である。氏は、1890年(明治23年)~1955年(昭昭和30年)、芥川龍之介らと共に文学活動を展開した小説家・仏文学者である。

私の言う気魄とはいささか違うが、我田引水の我が意を得たり、2箇所引用する。

(冒頭)
「秋と云えば、人は直ちに紅葉を連想する。然しながら、紅葉そのものは秋の本質とは可なりに縁遠いことを、私は思わずにはいられない。」

(終末)
「秋は、凝視の季節、専念の季節、そして、自己の存在を味うべき季節である。秋の本当の気魄に触るる時、誤った生存様式―生活―は一たまりもなくへし折られてしまうであろう。その代りに、正しい生存様式―生活―は益々力強く健かに根を張るだろう。春から夏へかけていろんな雑草に生い茂られた吾々の生は、秋の気魄に逢って、その根幹がまざまざと露出されて、清浄な鏡に輝らし出されるのである。秋に自己を凝視してしみじみとした歓喜を味い得る者こそは、幸いなる哉である。」