ブログ

2019年10月26日

日韓の“溝”を考える Ⅱ 『日韓・アジア教育文化センター』体験

井嶋 悠

先日、現在も悶悶(もんもん)とした中に在る[日韓の溝]について、『日韓・アジア教育文化センター』での20年来の交流で得た私見を投稿した。これはその続編で、やはりセンターでの貴重な体験が基にある。

前回の主点は二つにあった。 一つは、日本の植民地支配の歴史からの日本人である私の心の棘(とげ)で、もう一つは、韓国の『怨と恨の文化―その文化創造のエネルギー―』である。
後者は、韓国人学者たちの鼎談(ていだん)による『韓国文化のルーツ―韓国人の精神世界を考える―』(国際文化財団(韓国・ソウル)編・サイマル出版)との書に啓発されてのことで、例えばその中の次のような発言である。

――恨の「結ぶ」と「解く」は、喪失と回復に置き換えることができ、植民地化での母親喪失意識や祖国喪失意識、南北分断をテーマとした文学作品等に表われた故郷喪失意識である。(中略)絶対的状況に陥った原因が相手にあると信じて恨みを抱くのだが、同時に自分にも責任があるのだと、自己省察に戻る。これは相手を愛するがゆえの感情である。相手を恨みながら、同時に自分を恨むと言う愛と憎悪の感情。恨の感情が複合的なのは、絶望と未練、恨みと愛、この二対の感情が互いに矛盾しながら混在しているからである。――

前者について、言わずもがなではあるが、1910年の「日韓併合」からの36年間[より厳密に言えば、1905年の「日韓保護条約」からの41年間]の植民地支配の事実とその負の側面であり、これは一部で頻(しき)りに言われる「自虐史観」ではない。私の中では「自愛史観」である。

そして今回、この機会に私の歴史への疎(うと)さを補正しながら歴史の中で発せられた言葉を確認し、私自身の立ち位置を少しでも明確にさせたく投稿することにした。
1965年の『日韓基本条約』では、現北朝鮮の扱いが問題となったようだが、ここでは私の交流があくまでも現在国交のある大韓民国なので、韓国のみを意識して表現している。

人間は他の動物と違って様々な能力を有し、時代を切り拓き、歴史を創造して来た。そして今、100年前のほとんどの人が想像しなかった文明の恩恵に浴している。しかし、その主体者で創造者はあくまでも人間であって完全完璧(かんぺき)などあろうはずがない。従って創造された文明も歴史も完全完璧ではなく、必ずや瑕疵(かし)がある。私などその瑕疵の多さで私自身に辟易(へきえき)している。
日韓で馴染みの深い中国古代の思想家孔子は言っている。

「過(あやま)ちては則(すなわ)ち改たむるに憚(はばか)ること勿(な)かれ。」

過ちに気づけば直ぐに訂正せよ、それが徳のある人間らしい人間であるということだ。治者ならばなおさらその勇気が求められる。
もちろんここに日韓での、更には世界での別はない。

私が最前提として確認しておきたいことは、明治時代1900年前後での日本の「征韓論」に始まり、1945年韓国「光復説」に到る対韓国40有余年の歴史の是非である。瑕疵の大元(おおもと)になることである。
そうでなければ、次のような日本の首相[内閣総理大臣]による、閣議決定を経た公的談話による謝罪があろうはずがないからである。そしてこの談話は、現在も引き続き継承されていることになっている。
それは、1995年8月15日、時の総理大臣村山 富市氏より出された『戦後50周年の終戦記念日にあたって』とのいわゆる「村山談話」である。その一部を抄出する。(抄出に際し一部改行している) なお、その文中で村山氏は終戦ではなく「敗戦」と明確に使っている。

――とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。 政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、(中略)また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。(中略) わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤(あやま)ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。―

ここで言う「支援する歴史研究」とは、善政もあったとの「も」を使う歴史研究ではなかろう。その上での信頼関係の構築でなくしては、非統治国民にとっては単なる政治言語による美辞麗句に過ぎない。そうでないからこそ「戦後処理問題」について「誠実に対応」するとの言葉が強く響いて来るのではないか。
また、「わが国は」以下2行での表現の率直さ、厳しさに、戦争を知らない世代であっても素直に同意したいし、「疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し」に、強い説得力を持っていると信ずるのである。
この談話を、談話の30年前1965年『日韓基本条約』と切り離して考えることはあり得ない。 しかし、2019年の今、日韓関係はこじれにこじれている。なぜか。
条約成立過程での日韓での意思疎通はどうであったのか。互いに国民の総意を得て条約成立に到ったのか、だからその問題は解決済みととらえ、こじれること自体に疑義を投ずるのか、それとも双方で或いは一方で、確かな相互理解、信頼が不十分であると思っているのか。
現日本政府は「完全かつ最終的にして不可逆的」に合意したことを議論の前提に置いているので、慰安婦問題であれ、徴用工問題であれ、これらの要求は国際道理・倫理にもとるものであるとし、共通理解が成り立つ最基盤さえない。 そうであるならば、どうすればこじれた糸を解(ほぐ)すことができるのか。

そもそも私たち日本国民は、日韓間に関してどのような歴史[近現代史]を共有しているだろうか。
一般書店の雑誌コーナーで度々見掛ける「嫌韓」「反韓」の歴史なのか、それとも真逆にある朝鮮への蔑視、植民地支配を謙虚に受け止める歴史なのか。
例えば、植山 渚氏著『日本と朝鮮の近現代史―「征韓論」の呪縛150年を解く―』の推薦文を草した歴史研究者渡辺 治氏の「共有するべき常識を示し、同時に私たちがいま、国民的に論議すべき問題」との考え方があることをなぜマスコミは報じないのか。
学校教育、とりわけ小中高校教育、では近現代史はどのような視野で教えられているのであろうか。
文明開化や殖産興業と併行して、例えば征韓論の意識的無意識的背景に福沢諭吉が、その著『脱亜論』の中で言う「朝鮮・中国=悪友」があったことはどのように言及されているのだろうか。

今、両者に和解点はまず見い出せない。それでも和解点を見い出す社会的合意の形成に向かわない限り、両国の対立は不毛なままで、結局は時が流れ、次代に委ねるとの責任回避、無責任に堕する、その繰り返しではないか。

では、日韓基本条約が成立した1965年とは、両国にとって一体どのような時代だったのか。
条約は、1965年6月22日に調印された。しかし、その成立過程を知る時、非常に複雑な思いに駆られる。 まず日本。12月に発効する直前に強行採決で成立している。次に韓国では、調印1年前から反対デモが激しくなり、非常戒厳令が出される中で調印され、8月には野党議員が総辞職し、与党のみで単独承認されている。
両国とも余りにもいびつな過程を経て調印、成立に到っている。これを、国政選挙で選ばれた国会議員によるものだから、多数決の暴力ではないと言い得るか。私には言えない。何となれば、選挙時の争点に「日韓基本条約」があったとすれば言いづらさが残るが、そうでなければ、更には国と国の間と言う新たな大きな問題を強行採決するのは、民主主義の根幹に係ることであるから。
では、この条約成立に向けて、それほどまでに急がせたのはなぜなのか。 そこにアメリカと日韓の経済の影が見えて来る。 アメリカのベトナム戦争への過度の介入と1965年2月韓国のベトナム派兵問題。
そしてそれ以前に韓国は、1950年からの3年間、半島を、民族を分断する朝鮮戦争(動乱)を経験している。
その時日本は、各地が、焼け野原と化した敗戦からわずか20年の1964年前後に高度経済成長を遂げている。これは朝鮮戦争特需と日米安全保障条約があったからのことである。

このような歴史を前にして、人間が歴史を創って行く、創って行かざるを得ない?虚(むな)しさと哀しみまた寂しさを思う。
私はここにおいて、日本は2000年来の交流を重ねる隣国、一衣帯水の国、韓国との未来の出発点とするために、明治時代から1945年及び1965年までの歴史事実を前提に、「日韓基本条約」に対して日本の首相・韓国の大統領をはじめとして社会的要職にあった或いはある人物がどのような発言をしたのか、『事実』を国民に整理し示していただきたいと願う。
私が調べただけでも、日韓で“揺れ”が多い。 このような願いは、その都度見解を述べて来たとする統治者からすれば、私の国民としての義務の怠慢との誹(そし)りを免れ得ないとは思う。
しかし、日本の植民地支配と侵略の傷の深さは、その先人の後を継ぐ「戦争を知らない」世代の一人としては重過ぎる。慰安婦問題、徴用工問題、サハリン残留韓国人問題、韓国人原爆被害者問題、徴兵での軍属従事と戦後の国籍及び補償問題等々、そしてこれらは条約と個人請求権や国際法の領域にもつながって来て、かてて加えて三権分立と国家、国家間と、余りにも問題が多岐で専門的過ぎる。

マスコミは、人々に事実を知らせると同時に、その事実が備え持つ経過を人々に、わかり易く知らせることも重要な職責であろう。その時、マスコミ事業体の自由な個性があって然るべきで、そこから諸情報を統合、総合して謙虚に己が判断を持つ自覚も生まれる。

先日、日本の前外務大臣が、韓国の駐日大使を召喚しての会話中、大使の言葉を遮(さえぎ)って「無礼だ!」と叱責した。ここに到る歴史経緯及び相互理解のための公人の会話として、許容されるのかどうか私たちはどれほどに考えたであろうか。場合によっては、世にはびこる「ヘイト・スピーチ」と同次元に堕する可能性もある叱責である。そしてその大臣は新内閣で別の大臣となり、何もなかったように時は移ろいで行く。

民間交流の有用性は言うまでもないことだが、私たち『日韓・アジア教育文化センター』での交流体験から、私たちの非力を受け止めつつも、或る限界を感じたりする。 それでも、多くの日本人、韓国人、中国人、香港人、台湾人の協力により、交流を重ねて行く過程で、教師間に、生徒間に篤い友愛は確実に生まれた。
そんなわずかな体験ではあるが、「親○」「知○」「克○」「反○」「嫌○」と言っている間は、相互信頼は生れないと実感的に言える。それらの言葉を越えたところに確かな、真の、しかも自然な信頼がある。
これは、古代中国の思想家の言葉を借りたまでのことである。
その意味からも、先に引用した韓国の国文学者の「愛と憎悪」に係る発言の意味は重く深い。 と同時に、 日本人学者が言う
――「併合」と言う用語は、韓国が「全然廃滅(はいめつ)に帰して帝国領土の一部となる」意味を持たせて作った新語であった。したがって「韓国併合」は「韓国廃滅」の本質を隠蔽(いんぺい)した用語であった。―― [君島 和彦氏「韓国廃滅か韓国併合か」『日本近代史の虚像と実像 2』所収] が、
日本を愛するが故の言葉としてどれほどに受け入れられるか、真摯に考えるべきことと思う。

言葉は、人を天に翔(か)け昇らせるほどの生を、一方で心臓を一刺しするほどの死を与える。ここまで記して来た人々の言葉は、それぞれ嘘偽りのない言葉のはずである。それらの言葉をどのように受け取るかは、それぞれに委ねられている。自問し、自答しなくてはならない。 今日の日韓の溝を前に、前回、日本語を指導する韓国人、韓国語を指導する日本人、への期待に触れた。他者に期待する前に私自身はどうなのか。前回から今回へ、私の内にあっては、問題の全体像が鮮明になったと思っている。機会を見出し、深みへと自身を導けることを思う。

2019年10月14日

33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から Ⅲ 中等教育[時代]後期(高等学校) その2

井嶋 悠

前回、全体的な事と高校卒業して10年後に、我が師となる国語科の先生二人のことを書いた。
今回は、他教科の何人かのやはり個性豊かな先生方に登場していただき、それらを通して、高校教育について考えを馳せてみたい。
劣等生であったがゆえに、ひょっとして考える好材料になるかとの期待も込めて。

【英語】  何人かおられたが、すべて男性日本人教師だった。  
精緻に文法を教授される若手の先生がおられた。先生は、黒板を一杯に活用し、何色かのチョークを使い、時に自問自答を含め、見事なほどに教えられるのであるが、私など到底ついて行けず、ただただ呆然と黒板を眺めていた。多くの生徒は、あの先生はいずれ大学に移るだろう、と大学の授業内容も知らずに勝手に言っていた。そしてどうなったかは知らない。

ここで、別のやはり真面目な婚約中とおぼしき男性英語教師へのちょっとした悪戯を紹介する。 その先生の授業は、見開き1ページで1課構成の英文解釈参考書であった。
先生は、毎時間初めに前回の小テストをされ、その上で次に入って行かれるのだが、「今日は誰にしようかなあ」と呟きながら指名される。そこには、何ら統一性がなく、はてさてどういう形で指名されるのか、一部で話題になった。
そこで、或る生徒の「前回のテスト優秀者が当たるのではないか」との発言が妙に説得力を持ち、その正否を証明しようということになり、実験台に指名されたのが私だった。
授業前日、懸命に復習等小テストに備え用意万端整え、稀有なことに授業を待った。
そして当日。何とそれまで一度も指名されたことがないにもかかわらず、いつもの「誰にしようかなあ」との呟きの後、私が指名されたのである。
数人の私たちの微笑みの眼が行き交った。

【日本史】 50代前後とおぼしき先生がしばしば毅然とした口調で言われた「歴史はうねりだ」との言葉は、その前後は覚えていないが、強く心に残っている。暗記モノの、知識の日本史ではなかったのである。 考えることに大きな影響を与えたが、大学受験とは別だった。
因みに、某私立大学受験で日本史を選択したが、当日見返しも含め最短の30分で退室した。その大学には合格した。

【世界史】 若手(30代だったように思う)の先生は、教科書として某出版社の大部な受験参考書を使い、それで授業をされ、生徒に質問し、答えるとそれは参考書の何ページのどこに書かれているかを確認され、正解だといたく満足げな表情をされていたのが印象に残っている。

他教科にも個性甚だしき先生方がおられたが、際限がないので、最後に数学から一人登場していただく。尚、音楽、美術は教えを受けたのかどうかすら記憶がない。  
その先生は大変きれい好きで、チョークをそれ用の金属の筒状のものに差し込み、黒板消しも静かに使われていた。ただ、私たち生徒から少々軽んじられていた。と言うのは、問題集授業で優れ者の生徒が入手した、「教師用解答書」そのままに、生徒の黒板解答を説明されていたからである。

【英語を第1言語・母語とする外国人教師[Native Speaker]の授業】   
なかったと記憶している。要は、英語の授業は、文法・読解・作文であった。  中高校時代、外国人英語教師に限らず外国人との出会いは皆無であった。
そんな人間が、教師としての最後の10年間、インターナショナル・スクールとの協働校に勤務するとは…!  ただ、そこで「公立英語学習」と“好奇心”が、会話することに有効であったことを実感し、外国人との会話は分不相応に増えた。もっとも懶惰(らんだ)な私、飛躍的進歩とは程遠かったが。

体育館は戦時中の工場跡そのままで、どうひいき目に見ても体育館にはほど遠く、部活動、生徒会活動 も低調で、小高い丘の上にあると言えば聞こえはいいが、登校時は往生した。
そして紹介した個性豊か な先生たち。今と違って(と思いたいが)、先生は先生、生徒は生徒のタテ社会。
受験生としての「四当五落」を切実に信じ、苦悩していた友人。
試験の点数ばかりを気にして、得意と する生徒に点数を確認し(因みに、私のところには国語、それも主に現代文で確認に来ていた)勝った、 負けたの狂騒動の、修学旅行で布団蒸しにされた同窓。
ガールフレンドができて休み時間はいつも二人 で過ごしている同窓男子を横に見て、サッカーや野球で発散していた私たち(一部)。
少々悪さが越して 他校に転校した中学からの同窓男子。
多くの男子生徒が憧れる“マドンナ”から、誰が年賀状をもらえ たか、何でお前がもらえたんだとやっかむ者もいて…。言い出せばキリがないのでこのへんで止める。
まあ青春時代と言えばそうだが、先の附高=不幸が甦る。 そんな中、それぞれに進路を決めて、それぞれぞれの道に。 私は浪人。仕事柄、74歳の今も現役がいる。

思い返せば思い返すほど、我ながらどこまで晩熟(おくて)で、お人好しなんだ、とつくづく感じ入る。情けない 話しである。
小学校、中学校、高等学校、それぞれに色彩があり、高校など灰色イメージがあるが、どうしてどうし て見ようによっては最も色彩豊かに浮かび上がって来る。とは言え、高校時代に戻りたいなどとは微塵 も思わないが、あの3年間は、大人への脱皮の一直線だったのだろう。だからその分憂鬱でもあったの かもしれない。

2019年10月3日

33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から Ⅲ 中等教育 [時代]後期(高等学校) その1


井嶋 悠

Ⅲとあるのは、個人的体験から「学校教育」を考える愚文の、小学校篇中学校篇に続く、第Ⅲ篇:高校篇との意味である。
個人的体験とは、自身の生徒時代及び33年間の私学中高校3校(33年間)での国語教師時代、そして23歳で世を去らざるを得なかった娘の学校不信であり、それらからの私の学校教育に係るホンネである。
このような気持ちに到らしめたのは、74歳という年齢になったことが私に何かを働き掛けているのだろうが、一番初めに記したように、旧知の友人でない或る方の私への一言が、大きく作用している。
いろいろなことがあり、いろいろな人に会い、いろいろな思いに駆られ、今日まで様々な人々の友愛、恩顧があってこそこんな私が来られた、と自照自省している過程で、その言葉は発せられた。
その言葉は何かを意図するものではない、当人の素直な感想なのだが、私にとって余りに痛烈であった。

「どうしてそんなに屈折してるの?!」

今後、その方とお会いすることはないとまで思わせたほどの、きつく突き刺さったこの言葉。非難するのではなく、人生を振り返る契機(きっかけ)をつくって下さったとの意味で感謝している。
本題に入る。

就職する生徒も多い時代、特に意識することなく高校進学の道にいた。そのための「進路指導」が、特にあったわけではなかった。
ただ中学3年次の修学旅行[当時は新幹線などなく、“修学旅行列車”で車内泊をし、東京方面に行った。]の列車内でクラス担任が行なっていた。“個人情報”など関係なく生徒たちがわさわさしている中で。このゆるやかさは好きだ。良い時代だったと思う。
一言で指導は終わった。「池附、受けたらどうや」。
池附とは、大坂教育大学付属高等学校池田校舎の略称である。他に学年で10人余りが受験することになった。
今回は、その高校で得た教育私感である。

高校になると、生徒も教師も中学以上に個性的だったとの印象が残っている。ただ「進学校」で、である。要は、全員が大学進学を前提としている高校である。
私は自身の教師体験から私学進学校は苦手である。高校時間=問題集解読時間のように思えてならないからである。
もっともその進学校と言っても2種類あることは知った。一つは、余裕ある進学校。一つはただ進学校で、私が最初に教師になった私学は前者であったので少しは私自身心に余裕があった。しかし二つ目の学校は後者で、これはどうにもついて行けず2年で退職した。
以前に投稿した、家族共々地獄の3年である。

立ち戻って、生徒自身の時。
私は合格の歓喜もなく、漫然と時に流れに身を置いていたといった風情であった。ただ、合格手続きに行った際、事務室窓口で入学式までの大量の課題には唖然、呆然した。 (尚、その課題の後始末は、入学早々の試験で確認され、校舎入口に全員の成績と氏名が、成績順に大きく公表された。学習(主に理数系)嫌いな私の自業自得とは言え、最初の屈辱である。)
賢い(≠勉強ができる)同窓は、入学間もなく、付高=不幸と看破していた。教科学習、課外活動等々含めての学校時間と考えれば、なるほどと後に得心した。

と言うことで、今日当然のように言われる「個の教育」を考えることを目的に、私にとって個性的教師を何人か取り上げる。
もちろん生徒にも多種多様な思い出深い存在はあるが、学校教育の主要素は教師にある、と教師体験からの自省と教師に係る娘の悲鳴があるからである。
教科全体(特に「5教科」)で言えることだが、「進学校」の標榜がそうさせるのか、概ね教科書学習は2年次に終わり、後は多くが問題集(それも高程度の)をすることが多かった。(この記憶は、かなり大雑把ではあるが、そういった印象、記憶が濃い)。
また2年次後半から(一学年三クラス×50人前後)三クラスは『国立文系』『国立理系』『その他』の組に分けられた。あくまでも“られた”であって、自主的選択ではなかったように覚えている。

【私に係る余談】
初め『国立文系』のクラスであったが、数学に全くついて行けず、或る日、勝手に『その他』クラスに移った。しかし、事前に伝えていなかったため、或る教師が逃避行(さぼり)と思ったらしく、『その他』クラス生徒に確認され、そうでないことが判明、私は叱正の難を免れた。
それにしても、「その他」とは、今日では到底考えられない呼称である。ただ、前二者の名称を考えれば、単純明快名ではあるが。

以下、強く心に残っている個性的教師数人を紹介する。
高校の教師像を考える一資料として。進学校と言う制約があるが。劣等生の私のこと、授業内容に係る記憶はほとんどない。
尚、表現に際して尊敬語表現に不備な点が多々あるが了解いただきたい。
圧倒的に男性教師が多く、ここではすべて男性教師である。
現在、その母校は進学校としての地位を一層定着させているが、仄聞では私たちの時代とは比較にならないほどに変わったようで、教科学習、課外学習併せて、自由な佳き校風にあるとのことである。

【国語】二人紹介したい。
◎一人は、生徒に非常に怖れられていた40代前半の教師で、古典を専らにされていた。先生は、いつも教科書を用いて授業をされていた。
何でも大学院で能楽を学び、剣道4段とかで、4,50センチほどの竹棒を携帯し、実に姿勢よく且つ朗々とした声で、黒板の文字も颯爽と授業をされていた。 先生は、教室に立っておられるだけで、近寄り難い緊張感を漂わされていたのである。
しかしなぜか、私をかわいがってくださり、時に私が後方に座っていると、「井嶋!前に座れ」と、かの竹棒で教卓の真ん前をさされるのであった。
この私への愛情が、後に、三つのことで深くつながるなど、誰が想像し得ただろうか。その三つのこととは、  
 一つは、私を非常に嫌悪していた(その理由は今もって分からない)或る教師が、職員会議で私の退学(放校)を持ち出し、先生が抗弁くださり、その動議は当然のことながら否決された旨、他の教師から伝え聞いたこと。  
 一つは、先生に乞われて長期休暇中の身の回りの世話をすることとなった。 先生は、旧家の子息で、老母と同居され、結婚、長女の出生、離婚と目まぐるしい流転もあり、私が大学進学後も世話は続いた。 そこで直面したこと。先生はアルコール依存症であり、ギャンブル依存症でもあったのである。そして長期休暇中は、ほとんど入院されるのである。しかし、私の中で反発、批判する気持ちは微塵もなく、可能な限り世話をした。  
 一つは、先生は後に公立高校に異動され、私が大学院生の時、一学期だけであったが、その高校の非常勤講師を仰せつかった。その数年後(この数年間のことは私の身辺事情の変容であり、ここでは省略する)、私が27歳の時、私を私立中高校の教育の世界に導いてくださったのである。   
つまるところ、この先生の導きがなければ、今の私はいないのである。恩師である。

◎もう一人は、いつも気難しい表情の50歳代の教師である。
教科書も指導されたのであろうが、私には難問問題集(現代文)の先生との記憶が強い。ただ、どういう問題に取り組もうが、必ずと言っていいほどに、女子生徒がいるにもかかわらず我関せず、終わりはストリップの話しで落ち着くのである。「赤や青のスポットライト云々」と始まるのである。私を含め多くの男子生徒は、おっ来たとほくそ笑むが、誰も軽蔑していなかった。
やはり近寄り難い人格がそうさせたのであろう。   
修学旅行(南九州)でこんなことがあった。先生は引率責任者として来られた。或る夜、就寝時間後、日頃私たち数人から、試験の点数競争ばかりする嫌な奴と思われていた生徒一人に“布団蒸し”の罰?を加えたところ、襖を破ってしまった。更には恒例?の枕投げを部屋越しにし、欄間を壊してしまった。
先生は、翌朝出発前に旅館に謝罪され、私たちを一切咎められなかった。無言である。その時、怖れが畏れに変わった。   
私が教師になってから、年賀状を出すようになった。いただく年賀状には、常に短い漢文・漢詩が添えられていた。私が劣等生であることを承知されてか鉛筆で返り点、振り仮名がつけられていた。劣等生が国語教師になったことへのご配慮なのであろう。   
或る時、一冊の書が送られて来た。『芸道の研究』である。私は二度畏れた。   
先生が亡くなって後、息子さんと会う機会があった。北海道の高校で教師(体育)をされ、20有余年が経つ。

次回は他教科の先生方のことを、その 2として記す。