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2020年11月29日

多余的話(2020年11月)   『もう少し中国の話を』 

井上 邦久

 2009年の夏から上海を拠点に駐在生活を始め、その年の国慶節の速報を短文にして日本へ発信したのが始まりです。それから、北京・横浜を経由して大阪に拠点を移したのが三年前でした。
その間、上海の花屋や北京の鍼灸師に癒されほぐされ、横浜中華街の老舗一楽や景珍楼で和みながら、毎月一篇のペースで綴ってきました。
2015年に癌全摘手術、2017年に関節手術のため1ヵ月ずつお世話になった枚方市や中之島の病室から発信したこともありました。

当初から大学の副教材として扱って貰い、編集印刷して冊子に仕上げて頂くという得難い環境に恵まれたことに改めて感謝しています。一昨年からは自ら校正編集をして、今回の冊子は通算10冊目になります。

長きにわたって拙い雑文にお付き合い戴いた皆様に御礼を申し上げます。

上海や北京からは中国情報の発信や折々の交流余聞が中心で、横浜山下町の中華街からは華人華僑の世界を綴りました。
それ以降は身辺雑記が増えてきましたが、コロナ禍の為「計画は全部中止だ、家に居て黙っているんだ」状態に陥ってからは、自ずと気楽で元気が出そうなテーマが並びました。10月は締めとして中国と大阪に関する小文を綴り、日中貿易略年表を添えました。以上、安否確認代わりの序文と致します。                   
                         勤労感謝の日、茨木にて

こんな序文をつけて10月までの一年分を小冊子にまとめました。
副教材として受講生や関係者に配布し、メール送信ができない方々に歳末のご挨拶代わりに郵送する予定です。
井嶋悠先生が主宰する 日韓・アジア教育文化センター(www.jk-asia.net)
田辺孝二・潜道文子両先生が運営されるWAA(We Are Asian)を通じて御覧いただいている皆さん、そして筆者からの直接メール配信にお付き合い願っている方々に改めて御礼を申し上げます。

11月も懲りずに中国についてまとめました。
自宅から徒歩圏内の私立大学経営学部での特任授業も年明け直後のゼミ生への講義以来でした。「総論でなく自己体験に基づく実務各論を伝える」という主任教授の方針に従い、毎年定点観測の報告をしています。

今回は以下の三項目についてお話をしました。

ⅰ 中国市場は相対的・表面的に悪くないが、潜在的な不気味さがある
ⅱ この1年注目された2都市:香港200年と深圳50年の歴史の転換点
ⅲ 商社において基軸となる「人とカネの管理」についての昔ばなし

参考資料をパワーポイントにしましたが、安直な骨だらけの代物、喉に引掛かかりそうなので控えます。

 深圳と香港の境界でパスポートチェックがあり、時には長い列に出くわしたこともあります。別のゲートに並ぶ幼稚園児から高校生の列は、深圳に住んで香港の学園に通う子供たちで賑やかでした。
公開中の白雪監督『過春天・THE CROSSING』は境界線上で見かけたかも知れない女子高校生を主人公にしています。母親と深圳に住み香港の学校に通う日々の軋みが物語の主旋律でした。
大阪アジアン映画祭では『過ぎた春』、今年は『香港と大陸をまたぐ少女』品性も知性も感じられない邦題です。
10年前にキム・テギョン監督が韓国映画『クロッシング』で北朝鮮・瀋陽・ソウル・モンゴル等の境界線をクロスする脱北者を描き込みました。韓国映画の重すぎる悲壮感に比べると香港から深圳へのスマホ密輸に関わる高校生「運び屋」のお気楽さは肌合いが異なります。
しかし生活描写の背景に香港と深圳特区の歴史と矛盾が徐々に滲み、浮かび上がる演出は巧みです。
1996年張曼玉主演の香港映画『甜蜜蜜・ラブソング』は天津と広州から香港に出稼ぎに来てブラックマンデー(1987年10月19日)の株暴落で生活が暗転した人たちを活写していました。それから一世代、二世代下の人々の物質生活は豊かでも精神生活面には苦い印象が残りました。

中国北西部の蘭州で雪の降る日に生れた白雪監督も6歳から高校まで深圳で過ごして雪を見ていません。後に北京電影学院で学び、北京で暮らす白監督の長編映画第一作です。これは香港映画ではなく今時の中国映画だと感じます。

2020年11月28日

人権意識 ―中学校時代の私と教師時代の私の回顧―

井嶋 悠

                 まえがき

今回の投稿にはちょっとした特別な想いが、私の中にあります。

と言う私は33年間、私立中高校3校で国語の教鞭をとり、時には日本語教育にも携わりました。
この【日韓・アジア教育文化センター】[jk-asia.net]のブログでの私の投稿は、娘の死(享年23歳)後1年半、2013年9月30日『先生方、自身の驕りに気をつけてください!~教師の生徒へのいじめ(パワハラ)~』〈前編〉に始まり、2020年10月29日『「中2病」からの学校特別プログラムカラ『日本国憲法』第三章【国民の権利及び義務】の一部条項を使っての自検証~』で現在に到っています。ブログ総数は270篇あまりです。大きな感慨に襲われます。
尚、2019年6月20日投稿の『日韓の溝を埋めるために』(井嶋)は、韓国の仲間・朴(パク) 且煥(チャファン)先生の尽力で韓国語に翻訳され、韓国の日本語教育関係者に配信されました。感謝と名誉が心に刻まれています。

センターを支える方々は、日本語を母(国)語とする小学校から大学の先生方、ソウル・香港・北京・台北で外国語としての日本語の教育に携わっている先生方また映像やデザインに関わっている日本の方々、これまでの交流会等に参加した学生と多士済々です。
ただ、それぞれに時間に追われる日々で、ブログにまで関わる余裕はほとんどありません。非常に残念なのですがやむを得ません。ですからブログ投稿は私ばかり出て来てしまいます。
これは、センターを立ち上げた一人である私なりの責任、亡き娘と私との絆である教育[学校教育]への自照自省と言う根底的理由がそうさせているのですが、他に私の中に間欠泉的ではありますが、表現することへの下手の横好きがそうさせているところもあります。他の人たちはそのことをよく理解くださっています。
このような状況にあって、当初より私たちの活動に関心を寄せてくださっていた、教師ではなく、主に日中間の貿易に携わり、同時に日中の諸文化に造詣の深い井上 邦久氏が、私どもの願いを聞き入れてくださり、定年後の今も毎月変わらず投稿下さっています。感謝と言う特別な思いです。

今年、5月頃だったでしょうか、或る出版社主催の、それぞれの人生をそれぞれに自由な(文芸)形式で書くという公募の新聞広告をたまたま見ました。募集締め切り1か月ほど前のことです。
今夏には後期高齢者の仲間入りとなる身、75年間を振り返ることがいつもより増えていました。そこで思いついたのが上記公募への応募でした。
結構トピックが多い人生ではと自認する私にとって中学校時代は、大きな転機であったように思い返されました。社会意識の無自覚的萌芽。私の家庭、親族環境では大学進学が自然との世界で〈注〉、高校以降もその流れの中にありました。そこはそこでトピックは幾つもありますが、頭[知識]ではなく身をもって知った社会矛盾、人権は中学校時代こそ生きた教材でした。その時代の私と縁あって教師となった私を交錯して書けば、応募しようと考えた長編部門の最低文字数400字原稿用紙50枚以上の規定を何とかクリアーできると考えたのです、51枚でした。表題は『人』としました。
結果は選外でした。当然でしょう。ただ、有難いことに講評をいただけました。
この文章は、巧拙で言えば拙だったわけですが、センターのブログに転載できるのではと考え始め、いただいた講評などを参考に読み直し、ブログとしては長いので何回かに分けて投稿するのも方法ではないかと思ったりしていました。

そんな時、今月(11月)になって面識のない30代と思われる方[ご本人がゆとり世代といわれていることからの類推]から、幾つも考える機会を得た旨の便りをいただきました。どれほどにうれしく、元気づけられたことでしょう。後期高齢者もまんざらではないなと。
ブログに投稿する時機を得たように感じました。それが今日です。
尚、本文は加筆修正したところもあり応募のものとは同一ではありません。

これらが今回の私の投稿に特別な感慨を与えている背景です。

:この環境の問題は、家庭経済問題を含め一概に言えることではないが、ここではあくまでも私個人の場合で言っている。進路、進学問題は、子どもがどういう環境にあり、保護者はどう考えているのか等、多角的具体的にイメージして語らないと、概念的一般論に陥りやすいので注意しなければならない。〉

               第一章 芽生え

さかのぼること60年前、1958年から60年の3年間のことである。その時、人権との難しい語彙は私の中で定着していなかった。しかし今から思い返すに、中学生活の日々の中でそれへの予兆の時間を過ごしていた。このことは、後に大人になって襲い掛かって来ることになる生きることの哀しみの萌芽とも言うべきものであった。

中学1年から3年までの10代前半の中学3年間に、日本社会はどのように動いていたのか、当時、社会的関心の無かった私だからなおのこと今、確認したい欲求に駆られ日本史年表を開いてみた。
1957年から58年にかけて「なべ底不況」とあり、事象として「南極観測隊、昭和基地設営」「東海村原子力研究所に日本で初めての原子の灯がともる」「初の国産ロケット発射に成功」が挙げられている。
私の記憶から隊員を迎えるペンギンが浮かび、「原子の灯がともる」の「ともる」との言葉が漂わせるほのかさと現代日本がとりわけ2011年来抱える厳しさとが重なる。誰がこの震災を予想し得ただろうか。

1958年、「日米安全保障条約の改定交渉」が始まり、「一万円紙幣が発行」され、「関門国道トンネルが開通」し「東京タワーが完工」した。また「小中学校で道徳教育が始まる」とある。
私より一世代上の人々の中の意識高い人たちが、1960年或いは1960年代を問うて行くことになる時代の出発点、日本の大きな転換期とも言える年である。私が高校そして大学への道程(みちのり)が当たり前かのように無自覚のまま、その潮流に乗っかかり始めた頃である。

1959年から61年にかけて「岩戸景気」と賑わう一方で、「日米安全保障条約」阻止行動が始まった。また前天皇平成天皇が皇太子時代、民間出身の美智子さまと結婚され、ご結婚のパレード等、テレビ中継が行われることで直前契約者が200万を突破した。9月に上陸した「伊勢湾台風」では死者が500人を超えた。
テレビを持つ家庭はまだまだ限られていて、だからなおのこと、今以上に大きな影響力を発揮し、数年後の東京オリンピック時と同様に、国民を一つにする重要な媒介となる。当時、その貴重性からか、テレビに見られているとでも言うような畏れに似た感覚にあった。小学校時代など、テレビの前に正座して観ていた。大人に行くに従って、そのテレビへの嫌悪感が募り始めるが、それは私の場合、中学校を卒業して10年以上先のことである。

1960年、「日米安全保障条約」の批准に関して衆議院で強行採決が為され、国会を取り巻く反対運動で東大の女子学生が、警察との衝突の中で死亡した。また10月には「社会党(当時)委員長だった浅沼 稲次郎が右翼の青年に刺殺」され、その青年は留置場で自殺した。不穏な様相を呈してはいたが、「消費ブーム」「レジャーブーム」と言われ、1956年の『経済白書』で記された「もはや戦後ではない」が、多くは希望的明るい展望として受け止められていた。
ただ、「もはや戦後ではない」を、もっと厳しい意識(敗戦の傷の深さや朝鮮戦争特需の発生といった好条件が存在したという意味での「戦後」は終わり、今後の成長には「苦痛を伴う近代化」が必要だと強調する意識)という論者もあり、私はこの論者の認識を大人なって共感実感することになる。

それにしても恐るべき年・時代に中学を卒業したものである。

歴史は知識ではない。いわんやクイズ的知識に到っては論外である。私の中学校3年間の歴史と、日本社会の当時の歴史を重ねることで不思議な感覚になる。歴史が私に生きる知恵を教え、社会の在りようにより眼を向けさせ、結局は自身を問うのである。
或る中高校大学(それもほとんどの生徒がその学内大学に進学)の私立一貫校での歴史教育に係る事例で、その先生の指導観を聞いたとき、大いに興味を引いた。
その教師歴20年あまりの高校日本史教師の指導根幹は「歴史はうねりだ」で、その実践は多くの生徒を魅了していた。しかし、学内大学教師から「高校段階の日本史の常識[知識]を持っていない。どういう教育をしているのか」と批判の対象となっていた。
その教師の志は今、受け継がれているのだろうか。
私が高校で受けた細かな知識を覚える歴史でなければ良いが。世界史など、教科書は大部な参考書で、それを細かくつつき定期試験が行われていた。

2011年の「東日本大震災」では、死者18,000人余り、現在も行方不明者2,500人余り、負傷者6,000人余りの犠牲者を出し、原子力発電所の爆発の最収束までには後数十年或いは予測不可能な時を要するという。
その復興の道程で私たちは何を学んでいるだろうか。そして「新型コロナ・ウイルス禍」で世界は停止状態となり、新しい生き方を模索することが言われ、ここ数年来、顕著になりつつある「近代化」また「文明」論議を、ことのほか重いものにしつつある。

或る学者が「私は畳の上で水泳を覚えた」と書いていた。微笑ましくもあり、然もありなんとも思う。本で学んだことは知識であって智恵ではない。読書体験からと生活体験からでは、その発する言葉の重みが違う。だからと言って後者がすべて「活きた言葉」とは言い切れない。
そもそも言葉は理屈[論理]だからなおのこと、知識と生活両者の接点が求められ、そこに使い手の言葉が表れる。想像力が問われる由縁かと思う。
キリスト教やイスラム教の唯一絶対神宗教では言葉は神であることと、日本では以心伝心が言葉である[言霊]との違いと言うことだろうか。
合理性を重視する西洋型近代社会が正統にあっては、私など今もって自身の中の思いと言葉との間で葛藤し、混乱することしばしばである。
中学生時代は、相手の言葉への直覚と自身の言葉による対応の乖離から生ずる苛立ちが顕著になる時期と言うのもうなずける。心身分離不安の思春期の始まり?

その中学時代から10数年後の28歳時、高校時代の恩師の一言の説諭から、考えもしていなかった中高校国語科教師[私立三校(いずれも中高校一貫校)を経験]が生涯の仕事となる。その間33年、志を持って3度職場を変え、その都度、現実が私の描く学校像、学校教育像を、ものの見事に跳ね飛ばしたが、家族や数少ない理解者の支えを得て何とか61歳まで勤めた。
今では昔のことであるならば、これほどに喜ばしいことはないのだが、どうなのだろう。

私が中学校で見せつけられた偏見と差別はなくなりつつある旨聞きはするが、あくまでも「つつ」であって、今も歴然としてある、と幾つかの事例に接して来て、思わざるを得ない。
コロナ・ウイルス禍での度々報道される、独善に拠る、極悪非道そのままの誹謗中傷、差別感情と行動は、中学時代に知った「差別」と同根である。汚いものは排斥されて当然[正義]とのねじけた感覚。歴史。その渦中で問われる人の在りよう。「同情ほど愛情より遠いものはない」との、昭和10年代の癩病(これは当時の呼称で現在はハンセン病)作家の叫びは、今もって私の中で未解決の問題の一つである。

郷愁という感傷は美しいが危なっかしい。あの3年間を時に美しい郷愁として思い起こしたりもする。歳とともに流されまいとの思いは強くなるが、それでも流され、後悔の絶えることはない。感傷を一概に否定しない私だが、感傷に流された論理性は人を危険に落とし込む。この接点の難しさは、日本人がゆえの感性と知性なのかもしれない。そうだとすれば甚だ危険である。「この道はいつか来た道」である。