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2023年10月22日

多余的話(2023年10月)  『小伝馬町』

井上 邦久

火照るような酷暑が10月になり一気に気温が下がると朝夕の風が爽やかに感じるようになりました。東京、日本橋小伝馬町の寶田恵比寿神社のべったら市の頃になりました。下町小伝馬町での勤め人だった日々や行き交った人々を懐かしく思い出す季節です。

大阪本社の中国貿易室を入社三か月でお払い箱になり、東京支社中国プラント室に異動しました。1970年代の初頭の中国は「洋躍進」と称された勢いで大型プラント契約を重ねた時期でした。繊維原料となるプロピレンやアクリルニトリル等のプラントを受注した結果、各プラント50人前後の技術実習員の受け入れ要員として、「中国語を話せるはずの猫の手」を必要としていました。着任した翌日に川崎へ移動し、上海金山石化の実習団に挨拶をして同宿、その翌日からはヘルメット・作業服・安全靴の出で立ちで化学工場での三交替シフトに組み込まれていきました。
機械設備や化学反応の専門用語どころか、日常会話さえも覚束ない中国語レベルだったので化学メーカーの技術者や中国人実習員に迷惑をかけ続けました。休日の箱根へのバス旅行での通訳も一種の辛い修行でした。にこやかに語るバスガイドの「こちら小田原の名物は提灯・蒲鉾・梅干です」といった案内をブッツケで訳しようもなく、絶望的になったことを50年後の今でも悪夢のように思い出します。

その前年の秋には瞿秋白研究を卒業論文に選び、遺書とも偽作とも云われる『多余的話(言わずもがなの記)』の解読に取り組んでいました。その学生が工場現場で「猫の手」勤め人になっている変化に我が事ながら「これでいいのかな?」と不思議に思っていました。
当時の中国政府の外貨準備計画が甘かったせいか、プラント契約の破棄も含めて新規発注に急ブレーキがかかり、中国プラント室は解体。当然ながら戦力外通告を受けた後、樹脂製品の国内物流業務に再配置されました。そこはベテランの女性社員がフィルムやトレイの受発注をテキパキとこなす部署であり、中国語の需要は皆無。簿記や算盤に疎い者は「猫の手」としても使って貰えませんでした。悶々と地下鉄小伝馬町駅の階段を数えながら上り下る毎日でした。

昼間の「借りてきた猫」は夕方からは鯨のように飲み虎になりました。小伝馬町・人形町・神田がホームグラウンド。この先どうしたものか、色々な人の話を聴いて考えました。螺旋進化論や花田清輝の楕円の思想にかぶれ、今の仕事はjobなのか、businessなのか、はたまたworkなのか? 結論の出るはずもない二十代半ばの迷走迷妄でした。
その頃、中国では文化大革命が終息、鄧小平が再登場し1978年に「経済改革・対外開放」政策を打ち出しました。地方分権・外資導入に対応すべく社内の中国シフトも再燃しました。
その流れで大阪の貿易営業部に釣り揚げられ、上司から「猫の手」ではなく「自家用車(自前の通訳)」と呼ばれ、着任時にはすでに広西壮族自治区の鉱山開発地域への出張、次は杭州小交易会、更には秋の広州交易会参加と続くスケジュールが自分の与り知らぬところで決まっていました。
それからは目を白黒させる暇もなく、北京・青島駐在まで10年間をノンブレスで走り続けました。春・秋の広州交易会に20回連続で参加して、広州の市場経済の萌芽、深圳特区の開発、それを先導して稼ぎまくる香港を定点観測できたことは貴重な体験でした。 

小伝馬町の隣の通油町に生まれた長谷川時雨の『旧聞日本橋』には幕末から明治の伝馬町牢屋の名残、大丸呉服店の賑わいや黒塀が連なる小伝馬町の問屋などが丁寧に定点記録されています。
50年前にこの本を手にしていたら小伝馬町での徘徊にも潤いが添えられたことでしょう。末妹の長谷川春子は戦時下の女流画家を束ねて時局に迎合、戦後は画壇から距離を置かれたようです。時雨自身も海軍委嘱の活動で奔走し、文芸慰問団として台湾・海南島まで赴いています。
『旧聞日本橋』は長谷川時雨より一世代若い沢村貞子の『私の浅草』とともに東京下町の風情や生業などが、炊き立ての飯に茄子の古漬けが添えられた朝餉のように、飾り気なく味わい深く描かれた貴重な庶民の記録だと思います。
この二人は関東大震災の体験もしています。

大震災から100年目の今年、森達也監督と地方史研究の辻野弥生氏がほぼ並行して調査準備を重ねて映画と書籍に表現した『福田村事件』を観てから読みました。大震災直後の9月6日午前10時頃、千葉県福田村(現野田市)で起こった惨劇を森監督はいつものドキュメンタリースタイルではなく、実に見事な劇映画に仕上げています。
9月1日の公開前から多くのメディアによって「今こそ伝えるべき」「よくぞ作品にしてくれた」と激賞され、上映期間や映画館が今も増えているようです。称賛することに異存はない作品ですが、自らも含めて、自発的に言挙げできず、森監督の作品や辻野氏の著作に追従している印象が残ります。そんな中、『福田村事件』は釜山映画祭で高い評価を得たと知り、彼我の懐の深さの違いを感じました。
森監督はオウム真理教をドキュメンタリーにしていますが、何故小伝馬町駅が地下鉄サリン事件に巻き込まれたか不詳です。