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2016年5月31日

  上海の街角から(2016年5月) 『上海の街角で』

井上 邦久

JR環状線の大阪駅から一駅下ると福島駅があり、最近は個性的な趣向や料金の店ができて、客足も増えているようです。この数年、古いスタイルの商店からの模様替え,商売替えも進んでいます。その古いスタイルの典型のような小さな店が、福島駅から20メートルくらいの場所にあり、店名の「ミヤコ楽器店」に惹かれて何回か通ったことがあります。

大阪府北河内郡四条畷町の高校生だった頃(大阪万博の前でした)、片町線という単線電車に揺られて繁華街に出ることは滅多になくて、たまに思い立って大阪駅前の旭屋書店でペーパーバックの英文小説を買うか、心斎橋筋でレコードジャケットを眺めるか、という精一杯気取った動機づけで交通費を捻出していました。
当時の心斎橋筋は大丸・そごう百貨店を筆頭に老舗が並ぶ風格のある商店街でした。音楽関係では、YAMAHA音楽教室を別にすれば、大月楽器店とミヤコ楽器店が突出した二強でした。当時のレコード歌手は販売促進のために、大手のレコード販売店を訪ね、場合によれば仮設のステージ(ビールのカートンボックスなど)で新曲を歌うことがありました。
大阪では心斎橋筋の二強の店にサービスをして、多く売ってもらうことはレコード会社にとって大切なことだったでしょう。過剰なサービス精神とバランス感覚で、新人歌手の芸名を「大月みやこ」としたことも、当時としては話題性があったのでしょう。

今世紀の初め、心斎橋筋の変貌は凄まじく、イタリアからの客人は街並みが乱雑になるのは嘆かわしいと憤慨していました。この友人は「曽根崎心中」の切り場で涙を流すようなイタリア人ですから、老舗の衰退や安直な今様の店つくりを許せなかったのかも知れません。ミヤコ楽器店も2002年に心斎橋筋から店仕舞いをして何年も過ぎているのに、同じ店名のCD販売店が福島にあることに驚いたわけです。
新曲のCDも置いていたのでしょうが、かつての大阪郡部の高校生が好んだ青春歌謡CDが多くありました。吉永小百合と三田明のデュエット曲集の発見などは特筆ものでした。レジの若い店主に、「失礼ながらこちらのミヤコさんは、あの心斎橋筋のミヤコさんと関係があるのでしょうか?」と聴くと「お祖父ちゃんの代までは心斎橋筋で大きな店をやっていました」とのこと。「そうでしたか・・・」という返答しかできませんでした。

拙文の連載を始めるに当たって、テーマと題名をどうしようかと考えました。基本となるテーマは上海の街にちなむことを、できれば1930年前後の事と今の上海に結び付けて書かせて貰おうと思いました。
時は国民党の隆盛期、官僚・金融資本主導の経済も二桁成長。東西南北の中山路で租界を封じ込める道路建設は、海外列強からの蚕食を喰い止める象徴的な工事だったでしょう。国父孫中山先生の名前を冠したのも、道路の目的や企図からして共感できます。そして、五角場での新都心建設に着手します。ペンタゴン状に道を配し、政府系機関の建設が始動していました。
立派なスタジアム、水泳場の名残は現在もあり、そのアーチや窓の数が3個であるのは三民主義の象徴でしょうか?また、その近辺を歩くと小さな寂れた路地に「民権路」「政府路」などと大仰な名前が「保存」されていることに感動を覚えます。
そんな1930年代の名残を残す上海の街をスケッチしようと決めました。ちょうどその頃、戦前の上海を題材にした曲に詳しい大先輩から『上海ブルース』と並んで『上海の街角で』という歌謡曲があるよ、と教えて貰いました。さればと、連載の題名を「上海の街角から」に決めて、拙文を綴り始めました。

そうなると、その歌謡曲を丁寧に聴いておきたいという実証主義?と行動派の血が騒ぎ、福島駅のミヤコ楽器店(たしか楽器は置いていませんでしたが)へ赴きました。さすがの古い歌謡曲に強い店でも、目指す曲を探し出すにはかなりの時間と粘りが必要でしたが、『昭和の流浪歌』(テイチクレコード=帝国蓄音)というCDがあり、『カスバの女』『星の流れに』とともに、佐藤惣之助作詞、山田栄一作曲、東海林太郎が歌う『上海の街角で』を発見できました。

♪リラの花咲くキャバレーで逢うて 今宵別れる街の角

紅の月さえ瞼ににじむ 夢の四馬路が懐かしや♪

上海航路の船乗りと日本から上海に出稼ぎに来ているダンサーが、一年を経て別れ話になった。船賃の足しくらいの少しのお金を渡して女性を日本に返し、自分が華北の新天地で一旗揚げるまで待っていろ、という男にとっては都合の良い内容です。タンゴ風の曲調は、戦後の『上海帰りのリル』に通じる気もしますし、ストーリー的にも繋がらないこともない?しかし、それはどちらでも良いことです。

問題は歌詞の間に挟まれたセリフです。

「・・・あれから一年、激しい戦火をあびたが、今は日本軍の手で愉しい平和がやって来た・・・」という能天気なことを復刻版のCDでは渡哲也が語っています。1938年に出されたオリジナル版のセリフの主は誰か?上述の先輩にお尋ねしたら、「それは佐野周二」と即答してくれました。
上原謙、佐分利信と三羽カラスと称された二枚目銀幕スター、という説明より、「サンデーモーニング」の関口宏のお父さん、「アカシアの雨のやむとき」の西田佐知子のお舅さんが佐野周二です、という方が分かりやすいかも知れません。

このセリフにある1937年の「激しい戦火」によって、国民党の短い春は終わり、五角場の新都建設計画は霧消しました。今年、その国民党候補に圧勝した民主進歩党の蔡英文総統は「小英」と親しまれ、具体性に欠ける経済政策を「空心菜(蔡)」と揶揄されています。

大月みやこはベテラン歌手として活躍を続けていますが、福島駅近くのミヤコ楽器店はすでに無くなっています。闇市跡の建物だった旭屋書店で買った『ドクトル・ジバゴ』は冒頭のみ辞書を引きながら読んだと思われる赤鉛筆の跡がありますが、残りの多くの頁は半世紀に渡り、きれいなままで本棚の隅に保存されています。                                       (了)

2016年5月27日

水、その天恵と現代日本私感 ~自然と日本人の感性と教育~

井嶋 悠

「ブログ」への投稿には、繰り返しになるが、二つの理由がある。
一つは、娘への鎮魂であり、遺志の共有であり、他者との共感への期待である。
一つは、遺志とも重なる、私の独り在ることへの糧とすること、そしてこの私を今日まで生かせてくださった、妻をはじめ多くの方々への贖(あがな)いでもある。

前回、五月にちなんで〔皐月の鯉の吹き流し〕と日本(人)について、私の中の小さな整理を試みた。
今回、「水無月」(旧暦6月)にちなんで、水と日本(人)について、新たに小さな整理を試みる。
二つの投稿理由とつながることを、小さなが私にとって大きくなることを願いつつ。

「日本人は水と安全はただだと思っている。」これは、イザヤ・ペンダサン(筆名)(山本 七平氏)が、1970年に刊行し大きな話題となった『日本人とユダヤ人』の中の一節である。
私の場合、海外旅行や出張の体験から「なるほど」と思ったが、ここでは「水」の方にだけに関してで、今では毎日当たり前のように飲んでいるミネラルウオーター(有料)との出会いもそうである。
私が初めて行った外国は35年ほど前、外国旅行を生きる力にしていた父親の、ネパール旅行の付き添いで、そこでの体験は鮮烈な爽やかさと日本を考えるに満ちていて、今の私の心の底にその体験から得た智恵は確実に息づいている。ただ、今回の趣旨とは外れるのでここでは立ち入らない。

私は、海外・帰国子女教育や外国人子女教育に、国語科教師であったがゆえになおのこと、私の日本語・日本文化への無知蒙昧さ、そしてそれを端緒とした日本理解の浅薄さを自覚させられた一人である。
その海外・帰国子女教育や外国人子女教育との出会いは、最初の勤務校私立神戸女学院で、最後は日本で最初のインターナショナルスクールとの協働校・私立千里国際学園で、その関係から海外に出張する機会があり、とりわけ後者での校務「入学センター[アドミッション・オフィス]」上、非常に多かった。
(この出張、特に後者の場合、内容と経費そして成果に、当然厳しいものが求められ、それまでの実施やその都度の批判等に応えるべく、事前事後に学内全教職員に内容を学内メールで配信するよう努めたが、ここでも教師(間)の意識のズレの問題を具体的に思い知らされた。)

日本の水道は、安全性また味覚性からも世界的に優れていると言われている。それがあって、大都市圏では「水道水の安全性」について約70%の人が安心と感じていて、「水道水」以外の水(ミネラルウオーター等)を飲んでいる人は25%前後、また「水道水」をおいしいと感じている人は約55%とのこと。
阪神間に住んでいた時は、日々の生活でのミネラルウオーター使用頻度はそんなに高くはなかったが、ここ栃木県北部に移住し、水道水が以前より舌に心地良いにもかかわらず、当初あったミネラルウオーターへの「何という贅沢」との気持ちも麻痺し、水道水を飲まなくなっている。 味覚は感覚の中で保守性が強いとは言われているが、調理は以前と変わらずほとんど水道水なのだから、子ども時代の水道水=不味いがこびり付いて離れていないのかもしれない。それとも加齢も加わっての自然への回帰が強くなっているのかもしれない……。

水道水は、主に河川の水や地下水を厳しい基準に基づいて殺菌消毒して各家庭等に配水される。日本の自然水(天然水)は、ほとんどがカルシウム・マグネシウム含有の少ない軟水で、当然国産のミネラルウオーターは軟水で、農業国の多くはそうとの由。因みに、欧米は含有量の多い硬水とのこと。
軟水の特性として、日本料理向き、石鹸の泡立ちが良いとかで、インターネットで「水道水」を検索するとそこで見た情報の一つには、両者の特性から人間特性まで言及していてなかなかおもしろい。

日本の国土は、森林山岳 : 66.4%  農用地 : 13.2%  宅地: 4.7%  道路: 3.3%  水面・河川・水路 : 3.5% その他 : 8.9%で、日本がいかに豊潤な水の国であり、その水が私たちの文化、心を育み、沁み入っているかにやはり思い及ぶ。

「水は与え、水は奪う」。水田が瑞穂の国を創る一方で、水害は多くの命を呑み込む。
5年前の東北大震災、今も続いている熊本・大分地震、また毎年必ずある自然災害からも明らかなように、日本は、その位置,地形,地質,気象などの自然的条件から,台風,豪雨,豪雪,洪水,土砂災害,地震,津波,火山噴火などによる災害多発国で、生命、生活を繁く「奪う」。だから春夏秋冬と人生、命を重ね、自然からの賜物に心研ぎ澄ますことが自然体でできるのだろう。
にもかかわらず、私たちは、国を主導する人々は、自然災害への深謀遠慮があまりに無さ過ぎるように思えるし、ここでも対症療法でのその場しのぎ的対応で政治家等は善政と大見得を切っている。
例えば自然災害からの事前整備、また事後救済支援の「国土防衛費」の最優先による、国の方向性への本質的見直しが、どれほど行われているのだろうか。 平和理念と実践の己が正義のイタチごっこが今も続く現在、軍事防衛費不要との観念論は持ち合わせていないが、この私見は非現実的観念論の域を出ないのだろうか。 ただ、昨今、政治家だけでなく、日本経済のためにとか、人々の安心生活のためにといった抽象的大義名分の下、様々な領域での自己特別・独善意識からのカネにまつわる醜態が、多過ぎやしないか。
主点の「与える」(天恵)に話を戻す。

山紫水明。その美しい響き、心休まる想像への誘い。
この美称は、まず京都への表現として生まれ、後に広く流布するに到ったのは、江戸時代の儒教思想家で幕末の尊王攘夷者たちに影響を与えた頼山陽が、自身の居宅(京都・丸太町)の書斎を「山紫水明処」と名づけたことによるとのこと。
京都・四条大橋の下を流れる鴨川(賀茂川)のほとりにたたずめば、北山・東山・西山(もっとも今日西山は望めないが)の京都三山に囲まれた京都の風情を感じ、これほどに近代化としての都市化が進んでいても山紫水明はそこにある。
現職時代の教室、清少納言が書き留めた「春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて」を授業するとき、彼女の目線に沿って拙い説明をしたことを、また鴨長明の人生観「行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」を、ほろ苦い懐かしさで想い起こす。
それは私の心底に川、水に、澄明な美しさと人生を直覚する日本人の感性があってのことと思う。

生徒たちにほとんど教科書『を』教える域ながら(だったからこそ?)私自身が学んだ、例えば以下の歌は、私に名歌と思わしめるに十分だった。

『萬葉集』「東歌」の一つ

(この歌には、母音子音や「さ」行音の組み合わせによる音感の美しさがより醸し出す、多摩川で布をさらしている若い女性の澄明な輝きに心奪われ、それを「愛(かなし)」と見ている男性(やはり男性だと思う)に強く共感する私がいる。)

多摩川に さらすたづくり さらさらに 何ぞこの児(こ)の ここだ愛(かな)しき

『百人一首』の一つ  在原業平の歌

千早ぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは (在平 業平)

ただ、この場合、つい古今亭志ん生の貌が浮かぶ私もいるが……。

これまた或る因縁なのだろうか、今住む地の近くに日本で一番長い伏流水の川と言われている、蛇尾川(さびがわ)と言う川がある。伏流の後、下流地のあちこちで湧水として貌を出すことを聞くとき、心をときめかしながら想像を広げる私がいる。
私が想う川は、せいぜいで鴨川ほどの大きさ(川幅)で、例えば上海で観た揚子江下流のような巨大な川ではない。その中国で言えば、日本人が心の糧を得て来た一つ、山水画に多く描かれている川、或いは川に到る前の渓谷の流れである。

これも古典教科書常連の、中国4世紀の田園詩人・陶淵明(陶潜)の『桃花源記』(桃源郷を詠う詩)で、その地に行くに、主人公は渓谷の川(谷川)に沿って進んで行き、水源の地に到る。
人びとは上流山岳地に滝を想い、見、滝のある所を聖地として崇め、そこは命の源(母)であり、同時に常世(永遠の生)の国「蓬莱」は東海の東に在るとの信心となり、死(仏教信仰では「渡海」は死を意味する)の絶対平安の世界に下って行く姿にまで思いを馳せる。その水は、天と地(海・河川・湖沼)を循環し、私たちはその恵みと怒りに与(あず)かる。
人間の体の約60%は水で構成され、この世に現われる前、未だ神の元のままに生命(いのち)に終止符を打たざるを得なかった幼子を私たちは水子と呼ぶ。

そんな想像の回遊の先に、現代への啓蒙者であり警鐘者である、紀元前6世紀前後の中国、孔子(『論語』)への批判者でもあった思想家老子の貌、姿を視る。
老子が「最上の善」を説くにあたって「水」を比喩として使う箇所を引用する。

【書き下し文】 上善(じょうぜん)は水の若(ごと)し水は善(よ)く万物を利して而(しか)も争わず衆人(しゅうじん)の悪(にく)む所に処(お)る。故(ゆえ)に道に幾(ちか)し。居(きょ)には地が善く、心には淵(えん)が善く、与(まじわり)には仁が善く、言には信が善く、正(政)には治が善く、事には能が善く、動には時が善し。それ唯(た)だ争わず、故に尤(とが)め無し。

【現代語訳】 最上の善とはたとえば水の様なものである水は万物に恵みを与えながら万物と争わず、自然と低い場所に集まる。その有り様は「道」に近いものだ。住居は地面の上が善く、心は奥深いのが善く、人付き合いは情け深いのが善く、言葉には信義があるのが善く、政治は治まるのが善く、事業は能率が高いのが善く、行動は時節に適っているのが善い。水の様に争わないでおれば、間違いなど起こらないものだ。

老子の天意、自然への謙虚な同一化を想い、現代文明社会人への啓蒙にして警鐘に同意共感する。併せて、古(いにしえ)の中国人の「外では孔孟、家に帰れば老荘」に同じ人間としての膚(はだ)の温もりにほっとする。 老子は、母であり、母性の人である、とやはり思う。

「聖水」の日本的、東洋的?心象の広がり。 にもかかわらず在るおぞましい現実。その一つを身近なことから挙げる。
私の家から車で南に40分ほどに、塩谷(しおや)町と言う地がある。環境庁(現環境省)が1985年に選出した『日本名水100選』の一つ、尚仁沢湧水(しょうじんざわゆうすい)の地で、日光国立公園の一角でもある。(因みに栃木県では名水地はもう一か所ある) そこの国有地を、福島第一原発災害の放射性廃棄物の最終処分場候補地にしたい、と国が言明し、町が拒否し1年半が経つ。国は執行官を使って強制調査に入ろうと試みたり、現地の理解を得るべく真摯に話をして行きたいと言う。いずれ強制執行の可能性もある。沖縄同様に。
私は塩谷町の一事に、この国の意識、姿勢に、政治(家)の傲慢、独善の象徴を、そして 言葉の嘲弄を見る。そこにある意識こそ官僚的そのものではないか。文明の繁栄とは、この理不尽を絵に描いたようなデタラメをも呑み込まなくてはもたらされないということなのだろうか。これも現代の信条、合理と効率なのだろうか。 西洋の言語観には、人々の精神的支柱のキリスト教『聖書』にある「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」(新約聖書『ヨハネによる福音書』の冒頭)があると言われているが、日本では「言霊信仰」である。両者は表現の違いだけであって、言葉の力の背にあること、根底に在ることは同じではないかと思う。どちらも言葉に唾(つば)するなと言うことにおいて。
言葉は、人間が自身の利己的正義に使う道具のために創り出したものではない。

韓国では「八方美人」は多才としての褒め言葉だそうだが、日本では軽薄の誹りは免れ得ない、と私は思っている。もっとも時代の高速的変容からこの私の考え方は旧時代的かもしれない。『転がる石に苔むさず』の日・英解釈と米解釈の違いと現代の変容のように。前者は人間観で後者は人生観ゆえ、同列でみるのは無理があると思うが。
日本は自他公認の経済大国であるが、瑞穂の国がゆえのそれではなく、明治時代の殖産興業・富国強兵施策による工業振興があってのそれである。そこに《農魂工才》があるかどうかは分からないが。日清、日露両戦争勝利が、一部良識ある人々の不安と危惧を排斥し、“大日本”推進施策は加速され、太平洋戦争敗戦にもかかわらず、謹厳実直、勤勉な国民性に、1960年代から70年代の朝鮮戦争、ベトナム戦争特需が追い風となって高度経済成長を遂げた。しかし、それは水俣病をはじめとする人と自然の命の人為としての収奪、公害で犠牲になった人々、今も苦しんでいる人々の上にあることを、ついつい忘れてしまう私がそこにいるのだが、しっかりと心に銘じておく責任を思う。
その現在の産業別割合は、第1次産業 5,1%、第2次産業 25,9%、第3次産業 67,9%である。

日本人の国民性?としてしばしば採り上げられる「水に流す」は、時に痛烈な批判対象となる。 日本の侵略、植民地支配の正統性を昂然と主張する然るべき立場の人々がいるが、公害問題でも同様の主張があるのだろうか。福島原発爆発による自然と人間への災害は明らかな公害だが、政府財界協働しての原発稼働推進が行われているのはなぜなのか。文明の進歩のためには犠牲はやむを得ないとの恐るべき論理が正義ということなのだろう。水を汚す権利は誰にもないはずにもかかわらず。

一方で、国民一人当たり800万円の超借金大国でもある。専門家は「借金だが借金ではない。」と専門家や教師にまま見られる上から目線で、総額約1049兆円の借金を慰める。
学校世界で「(あの生徒は)優秀だが優秀ではない」と言えば、学力観視点からその意味は承知できるのだが、この「借金」論法については、他にもまして勉強不足ゆえここで留める。
もっとも、政治学者から政治家に転身した、今話題の人物[知事]の「表現と理解」力があれだから、凡夫の私などは「触らぬ神に祟り無し」「生兵法は大怪我の基」こそ生きる知恵とすべきなのだろう。
尚、上記「表現と理解」は、文科省が提示している『学習指導要領』の国語科教育目標の要諦で、その本文は「国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力及び言語感覚を養い,国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる。」である。

現代日本は長寿化、少子化で、国際化と言われ始めて随分経ち、今ではその「化」が取れ、ごく自然に国際と言われているように、いずれ長寿・少子と言われることが自然になるだろう。そのことを危機ととらえている(のかどうか)政治家たちは、カネ・モノそのままに対症療法を重ねている。そして同朋の約半数がその政府施策を支持するのが現実だが、私は今こそ日本再建の絶好の機会ではないかと頑なに思っている。 私の公私体験的言葉として言える一つであり、冒頭に書いた投稿理由でもある、学校教育(私の場合は(私学)中高校教育)について、これまでに具体的提案も含め何度も投稿して来たので簡約して記し、今回の「水」を入口としての駄文を終える。

学校は人間で構成される。教職員、生徒、保護者。私は元教員で、劣等生がひょんなことでなった“偶々教師”からか、そこに娘のことが重なって、尊敬・敬愛する先生方(小中高大)があるにもかかわらず、自照自省、教師(学校ではない)印象はすこぶる悪い。娘の心に寄り添えば憎しみにも近い。その私を、或る人は偏屈と言い、或る人は屈折と言い、痛罵する。 但し、私と違って寛容さを持ち得ていた彼女は、天上から哀しげに見てくいると、生前の彼女の私への言葉から思っているが。
戦後、日本は民主主義になった。しかし、民主主義の難しさは、例えば教室での多数決は、確かに討議を経てのことではあるが、それは限られた時間内でのことで、はたして実質、内容においてこれが民主主義なのかどうか、生徒そして教師は思い巡らせることも多い。
では、その学校社会そのものは民主主義社会か、と聞かれ、私は胸張って「そうだ」とは言い切れない。対生徒に、対保護者に、対職員に、そして対教師に、事が先に進まないとの現実があるとは言え、民主主義の持つ「専制性」は否めないのではないか。

学校社会の、教師世界の、閉鎖的で権威的との批評は、戦前の目に見える姿ではない中で確実に聖域観が生きていているからなおのこと、一層深刻とも思えなくもない。
学歴社会が大方理屈だけのことで(このことは学歴批判するマスコミの報道姿勢を見れば明らかである)、しかも、長寿化にもかかわらず「18歳人生決定観」は脈々と生き、その学歴獲得に塾産業(「進学塾」と「補習塾」が考えられるが、ここで私がとらえているのは前者である)が必要不可欠で、そこに知育・徳育・体育三位一体教育論が声高に覆いかぶさり、文武両道とは違う八方美人的「ひなたの人生」論が主流となれば、閉鎖的権威的学校社会は当然の帰結かと思う。
教育費は途方もない比率となり、一方で「子どもの貧困」が年毎に増え続けている現代日本。民主主義の「民主」の「民」とは、どういう人々を言うのだろう。富者の、強者のそれであり、それに疑義を呈するのは、競争社会の敗者ということなのだろうか。 教育議論で学校・生徒学生を言うとき、その具体像がそれぞれ違うにもかかわらず議論が一見収斂するかのように。

日本が「山紫水明の国」であったのは過去のことで、「文明の発展と幸福」のためには「水に流」したと言うことなのだろうか。近代化の範として来た欧米諸国が疾うに自省し、日本の伝統に学ぼうとしているにもかかわらず。このことは政府等の「外国人観光客誘致」施策の視点とも関わる。
『G7首脳会議』が日本で開催され、それに先立ち先日教育相会議が開かれ、日本の文科相は「教育は未来への先行投資。あらゆる子どもが社会から排除されない機会をつくることが重要だ」と述べたとのこと。
他国の教育相がこれをどう聞いたのか、日本はどういう先行投資を考えているのか、その前提としての日本の未来像はどう描かれているのか、あらゆる子どもが排除されない機会を日本はどのように設けるのか。一つ一つ、具体的に聞きたいことばかりだが、【形容語】はその人の価値観の表出につながることを怖れてか、いつものように抽象的美辞麗句でしか返って来ないだろう。

旧知の人物も含め「企業人養成が教育の主たる目的」と断ずる人は少なくない。そう考えた時の教師像ひどくさびしい。少なくとも私には。
学校教育にあっては、各個が自由に、広汎に自身を探索し、人生設計を試み、挑戦する場であり、教師はその補助者であり、助言者であると言う意味での指導者で、だからこそ教え育む「教育者」である。
しかし、中学校教師は小学校教師を、高校教師は中学校教師を、大学教師は高校教師を、「何を教育しているのか」と批判し、時に絶望の響きさえ発し、進学塾教育を無意識下に前提として(或いは絶対必要との信念に立って)入試問題を作成し、その上に入学者の学力不足に(だから一層?)絶望の響きさえ漂わせ嘆く。
管見では、それはとりわけ高校教師、大学教師に多い。 一長一短。大学の大衆化の短所なのは明らかだが、では、大衆化の長所として政府は、何を期待し認可したのだろうと素朴な疑問がある。これも「対症療法」なのだろうか。

大学教師は小中高教師と違って学歴不問である。のはずである。しかし現実はこれも周知のことである。
くどくど言うまい。私の体験、知見から二つの事実を挙げる。これらは、決して稀有な事例ではない。

○2003年初刊の、日本古典文学啓蒙書の執筆者・首都圏の私学教授(1947年生)の序のことば。  「日本古典文学への関心低下を危機的壊滅的、と嘆きこの書の意図を述べる中、次のように断ずる。

―日本文学・国文学の基礎を教える中等教育、中学・高校の国語教師の読書離れと古典文学オンチ    が目を覆うほどであるからにちがいない―」と。

私はこの発言に大学教員の特権階層意識の象徴を見る。教育をどう考えているのだろうか。数年前まではなかったと思うが、とみに増えている「大学院教授」との呼称はそのことと関連があるのだろうか。

○或る私学中高校。この学校は今日の塾教育を鋭く批判し、新しい(学内の問題意識高い教員の言葉では、本来の)教育を旗印にしていたが、教員間で出された苦悶の発言。「本校生徒の学力では望む教育ができない。」

これに対して入試方法の変更意見もあった由だが黙殺されたとのこと。理想と現実の一例ということで処理されるのだろうか。 その学校教員の学歴は、いわゆる高学歴で校長をはじめそのことを矜持自得する人は多い。
因みに、新興私学は高学歴教員を多く採用し、それを広報しているが、中途退職者も多い旨、知人の某私学生徒だったお子さんの体験として聞いたことがある。

世の光を受け20年前後に到る10数年間、言葉(論理)より先ず心(感性)がほとばしり、それに理知を懸命につなげようとする人生の基礎時間。
「個を育てる教育」。
この標語が言われて何(十)年経つだろう。私の小さなそして無責任な経験では、“その他大勢”の生徒にとっては有名無実、と言っても極端ではないと思う。
(これまた管見にして、経験のない無責任ながら、世に言う「底辺校」に教科学習と言った狭隘さから  離れた確かな学習への、教師の、その教師・学校に誘発された生徒の確かな成果があるように思える  ことも少なからずあった。)

日々の生活に、将来の生に、心平安に自と他に広く思い及ぼしながら自問する時間こそ教育であろう。その時、一部?の中高各科教師、大学教師やマスコミ人が、それぞれに言う基礎基本の独善を洗い直し、生徒の自主自発からの「自由選択」の大幅導入や、「主要(5)科目」の「主要」表現使用への異議申し立てにつながる、多知識=優秀の一面的等式から脱する意義を、老若学外者が生の言葉でもっと厳しく指摘し、中高校大学の在籍期間も含め根本的見直しのその時を迎えているのではないか、と思う。
70年前の決定的敗戦と悔悟を再出発に、経済大国となり、今では世界に冠たる長寿化にして少子化の、水と自然が育んだ歴史と伝統を自然体で持つ日本だからこそ、なおのこと私は思う。

【追記】 今日、オバマアメリカ大統領が、広島平和公園で予想をはるかに越えて17分間の平和への願いを語った。 その中で、韓国朝鮮の人々の犠牲に触れたことに、氏の国際への自覚と豊饒な人格と、そこに到る幼少からの道程(みちのり)を思うと同時に、ノーベル平和賞を受けてからの現在への、アメリカの大統領であるがゆえの途方もない苦悶を見た。

2016年5月9日

中国たより(2015年5月)  『松村翁』

井上 邦久

 

毎年、花の頃。ほぼ十歳ずつ離れた三人が再会し、その一年間の物忘れ話や病気自慢をしながら昼の食事をして別れることを続けて来ました。この数年は、箕面から東京から、そして上海から集まり、大阪城近くにある太閣園で桜の庭が見える窓寄りの席を確保してきました。昨年春に店の人から、改装工事が始まるので来年は使えないと聴かされました。ちょっと残念な気分になっていると、最年長の松村昇さんは「たまには趣向を変えて、串カツでも自由軒カレーでもよろしいがな」と、いつものこだわりのない口調で言ってくれました。
梅田スカイビル地下にある昔の大阪の町を模した食堂街で、串カツかカレーを食べたら昭和一桁生まれの松村さんにも喜んで貰えるかな、と段取りを始めようとした矢先に訃報が届きました。内輪だけの葬儀にすると聞きましたが、すぐに十歳年上の今井常世さんに連絡をして、翌朝箕面に向かうことを決めました。

北摂の箕面は寒い冬日でしたが、とても和やかで温かいお見送りができたのは、ご家族ご親族のお人柄のお蔭と「何を深刻ぶってるねん」と遺影が語り掛けてくれたからでしょう。斎場の隣は、いつも松村さんにご馳走になっていたインド料理店。そこでも今井さんとの話は尽きず、箕面から立ち去りがたい気持ちで、駅前のイタリア風の店で長い時間を過ごしました。やはり今年も花の頃に再会しよう、できたら松村さんの子供さん達とご一緒しようという決め事を一片の慰めにして、二人は東上する新幹線の自由席に乗りました。

1980年夏、中国広西壮族自治区龍勝県の滑石鉱山への出張には、松村産業から松村楠敏社長、松村昇常務が、蝶理からは石原・山﨑両先輩と「未出走未勝利」の新馬が末尾に連なりました。復活復権した鄧小平が1978年から主導した経済制度改革と対外市場開放政策の柱の一つに地方分権化の動きがありました。それまでは広州交易会と北京商談のみであった国際貿易の機会が、上海も含めた地方へ分権分散されようとしていました。その変化への対応として、社内でも各営業部による中国要員の「争奪戦」があったと後に聞かされました。中国貿易室や中国プラント室での見習い業務から、合成樹脂の国内物流の仕事を5年続けた後に、採算最優先の営業部へ移ったばかりの新馬新米でした。

従来は、北京の五金鉱産総公司が一元管理(牛耳っていた)滑石貿易も、戦前からの老舗産地の遼寧・山東は独自の輸出を始めており、松村産業を含む日本市場は他の商社が窓口を寡占していました。積出港から遠く、実績のない新興後発の広西は「秘密の花園」のような未知数の存在でした。先ず、北京二里溝の五金鉱産総公司を表敬訪問して、広西出張の挨拶と土産の品を渡し(親分に仁義を切るような感じがしました)、併せて国内旅行証の発行を依頼しました。当時はパスポート以外に開放されたばかりの都市へ移動するにも旅行証明が必要で、その保証は主に北京の大手機関に依頼することが多かったです。

北京で無事に国内旅行証を確保して、広州経由で桂林へ。
桂林空港で五金鉱産広西分公司の谷課長らに迎えられ、翌日、マイクロバスで6時間の鉱区へ向かいました。「滑路」(スリップ注意)という標識が続く山路を、後部座席の鶏や亀や野菜とともにあえぎながら走りました。バスの中での話題の中心は松村昇さんでした。

滑石は英語でタルク(TALC)と言い、米国モンタナ州や北朝鮮、インド、パキスタンにも産するが日本は中国東北地域のタルクに頼ってきた。国交正常化前は政経不分離の原則の下で長崎国旗事件などによる交流断絶が原料杜絶に繋がっていた。モース硬度「1」の最も軟らかい鉱物。爪で線を刻むことができるくらい軟らかい。原石を粉砕したものがタルカムパウダーであり、天花粉(ベビーパウダー)として昔から使われている。安全な鉱物なので、薬品や食品の成形剤に使われている。関西の伝統産業である製薬業、食品業の基本となる粉砕機械は細川ミクロン、日本ニューマティックなど大阪のメーカーが先行している。数量的に多い用途は製紙や樹脂の増量強化剤(フィラー)向けである。子供の時にセメント地面に絵を書いた蝋石もタルクであり、工業用石筆として造船溶接の下書きにも使われる、一定の長さが必要な石筆用途には大きなタルクの塊が必要となる。但しタルクの地層にはアスベストが並存するケースがある、水質土質の細菌管理とともに非常に大切なチェックポイントである・・・松村教授の車内講義は今も鮮明な記憶として残っています。

「これは素晴らしい処女鉱区!露天ベンチカット(階段式採掘)でこんな大きな規模の山は見たことがない」と云う呟きを耳にした後の商談では、長期独占契約への流れが理解できたとともに、関西のオーナー企業の即断即決の威力を目の当たりにした思いがしました。
鉱区からの帰りの道中、誰もがそれぞれの理由で機嫌がよく、後部座席の鶏たちも居なくなり、随行した料理人も御役御免で熟睡していました。そんな緊張が緩んだ車中で道路標識の「滑路」は近い将来に「滑石路(TALC ROAD)」になるでしょうね、と軽口を叩いたら松村昇さんから「商売はそんな甘いもんやないで」とたしなめられました。
その後、業務担当者となり多くの日本製トラックや粉砕機を鉱区に届け、生産量と輸送量と品種を増やしました。松村産業の理解と協力により、タルクで代金回収する補償貿易の形式を繰り返しました。そして、次のステージにジョンソン&ジョンソン社が登場します。その日本法人の新将命社長、今井常世須賀川工場長、米国本社のアシュトン博士らとの鉱区訪問でした。NASAの航空写真による分析も含めて龍勝地区にはアスベスト層は見つからないこと、鉱石の水洗い後の分析管理手法などの確認を経て、世界屈指のタルカムパウダーブランドへの納入の道が見えてきました。今井常世さん(拙稿の北京たより(2014年11月)『秋休』に詳述)と松村昇さんとの三人の個人的交流が続くことになった端緒でした。

中国要員としての業務の充実を図っているという自負が生まれた頃に、松村昇さんから、
「井上はん、米国に出張してくれへんか?アシュトン博士との業務も委託するし、ついでに色々と他の仕事もして来ればいい」と言われました。すでに上司には話を通していたようでした。後で聴いたところ、「中国関係に専念しているのは良い事。松村産業にとっても有難い。しかし、最近の井上はんの発想や弁明が中国スタイルになっているのが一寸気にかかる。今井はんのように米国留学のキャリアのある人のようには成れなくても、米国や欧州など他の文化を知ることで、中国を相対化する視点を持てたら好いと思うたんや」との事でした。

30歳そこそこの当時では浅い理解しかできませんでしたが、その後に韓国や東南アジア、そして米国やイタリアを中心とした欧州を巡るようになって、松村さんの助言を得心することができました。
中国業務に何とか慣れてきたのは良いけれど、仕事に馴れや人間関係に狎れが生まれていた事、中国一辺倒の「中国通」や「中国屋」に陥りそうであった事、そして中国語ができれば良しとする姿勢になっていた事を軌道修正する機会になりました。
その後、松村昇さんは社長を務めてから相談役になり、今井さんは別の大手外資企業の宮崎工場建設を機縁に宮崎県の起業コーディネーターを続けています。ベビーパウダー事業は先走った販売方策がジョンソン&ジョンソン米国本社の逆鱗に触れて消滅。発展自立した広西タルクは独自に東南アジアへ販路を拡大という動きを生み、その都度、まさに「商売はそんな甘いもんやないで」を実感させられました。更に時が流れて、風のたよりで広西の露天鉱区は掘り尽くされ、かつて無尽蔵にあると思われていたタルク大塊を出荷する際に廃棄していた小粒を拾いなおして細々と出荷を続けている噂を聞きました。

数年前に京都西陣の町屋を購入した今井さんの別宅に泊めて貰いました。翌朝いつものように近くの浄福寺を訪ねて、蝶理株式会社の前身である大橋商店の創業者一族のお墓と昭和18年に中興の祖である大橋理一郎社長が建てた戦没社員(店員?)の忠魂碑をお参りしました。そこから御所近くにある松本明慶佛像彫刻美術館まで歩きました。松村昇さんの長女の松本華明館長の好意により特別に開いて貰った館内で、箕面から駆けつけてくれた松村昇さんの長男さんと四人で色々な話ができました。その後、岡崎での仏像展覧会会場で松本明慶大仏師に再会して、松村昇さんに繋がる縁者の団円となりました。

「仏師に向いている人とは、器用とか才能とかが適している人のことを言うのではない。日々の事柄すべてを仏師として志向している人のこと。喩えれば帰宅して赤ちゃんを抱いていても、その指の動きに注目して翌日の仏像彫刻に活かそうとする人」と明慶さんの弁。

晩年「相談されない相談役」と自嘲しながらも、パキスタンタルク開発に情熱を燃やしていた松村昇さん、松村翁に通じるものを婿殿の言葉から感じた次第です。

瀬をはやみ筏は組めず花は去る (拙)

(了)

2016年5月1日

皐月(さつき)の鯉の吹き流し ―言葉に二心無しまた時代閉塞風穴私感―

井嶋 悠

 

熊本・大分地震災害者救済で、それまでの被災地と同じく、救済する側、される側から「プライバシー」との言葉がよく出る。聞いている私も特段抵抗があるわけでもない。しかし、ではその内容を簡潔に表わす日本語となると思い当たらない。かのアイデンティティと同様。因みに、手元の英和辞典『研究社版 ライトハウス英和辞典』には、「他人から干渉されないこと。個人の自由な生活。プライバシー。」とある。語義最後の一語がどこか微笑ましい…。紙一枚の居住文化を当たり前に過ごして来た日本人の“察し”の伝統文化感覚には、「プライバシー」との言葉(理知)はあるようなないような、そんな存在だったのかもしれない。
それがために2005年に施行された【個人情報保護法】の運営で、例えば「学級連絡網・卒業アルバムが作れない」、「医療機関への個人情報の提供を拒む」等々、施行側とされる側の意識のズレが生じている。と言っても、私自身、どこまでが正常反応でどこからが異常反応なのか、正直分かって分からない。
もちろんここで言う「察し」とは、対している他者が、今何を想い、何を考えているかを慮(おもんばか)る、思い遣る心の働き、心の美のことを言っているのであって、政治家の誤魔化しあいまい語法とか熾烈な国際競争下でのビジネス対話での誤解といった領域での察しについてではない。

元国語科教師で、日本語教育にもいささか携わった私ながら、スピーチとかディベートといった「話す」自己主張が私の皮膚感覚には甚だしい人為と反応する、平成の世にあっては教師になれない旧時代人である。しかしその私が、教職最後の10年、日本で初めてのインターナショナルスクールと私学中高校の協働校で、インター校の教職員や保護者の多くとかなり心地よい時間を過ごした。それは、30年以上前の公立中高校英語教育だけの私のカタコト英語への、英語を第1言語とする、また日本語を第2第3言語とする人々の「察し」があってこそで、そこに東西異文化はないと思うが、それでも「察し」は日本の伝統的文化であると思う私がいる。
ただ、日本語を第1言語とする者(ほとんどは日本人)同士での察しは、あまりかんばしくなかった。おそらく日本人同士であることの「甘え」の悪しき面なのだろう、と知より情の私は思っている。

何年か前から江戸時代回顧が起こっている。時代の閉塞感を強く直覚する人が増えて来ると歴史を顧みることは人類の歴史で、これもその一つだろう。或る人は明治維新を見、或る人は古代を見、或る人は江戸時代を見る。と言う私は、江戸時代の江戸の町衆、庶民の生き方に生きる力を教えられ、「江戸っ子」との言葉に痛快な爽やかさを直感している。そして、その江戸っ子の心意気・生き様を見直すことが、現代の閉塞状況に風穴を開ける端緒になるのではと期待を込めて直覚している。

その私は「京都人(京都っ子とは言い難い)」で、妻[カミさん]は「江戸っ子」である。『東男と京女』の逆版である。ただ、その『東男と京女』の語義には疑問がある。例えば、『故事・ことわざの辞典』(小学館)では、「男は、たくましく、きっぷのいい江戸の男がよく、女は、美しくてやさしい京都の女がよい。」とある。
「たくましく、きっぷのいい」と言われると、私など、江戸モテ男代表3人衆(火消し、与力。力士)を思い浮かべるし、「美しくてやさしい」と言われると真(まこと)の芸妓を思い浮かべ、どうもしっくりこない。現に、私の6歳年上の見た目も併せ生粋の京女と思う従姉妹はしたたかに強い。正に柳の迫力美である。
このことは、中高校学習で出会った、平安時代に「哀しみと愛(かな)しみ」を一身に受け止め、絢爛と在った女性歌人、作家を思い起こせば明らかだろう。

そんな私の描く「江戸っ子」は、男女問わず、底抜けに善良で表裏なく、曲がったことが大嫌い、利他あっての利己の心に溢れ、深謀遠慮など遠くの世界、と言っても苦しみ、哀しみは世の常人の常と同じに抱えながら一日一生涯の心意気で、当時の平均寿命50年を意図しない“自由人”として駆け抜ける。そして断然母系(母権)社会の清々(すがすが)しい「かかあ天下」である。

そう私に定着させたのは文学作品体験と言いたいところだが、積極的に心形成に与かったのは以下の、幾つかの直接体験の混淆である。

それは、小学校時代東京転校での3年余りに遭ったかの“東京(江戸ではない)一番”意識にさらされた苦い思いであり、20代での2年間の東京放浪であり、それらが負に絡みついた根(デ)なし(ラシ)草(ネ)的憧れであり、銀座4丁目の小学校にアメリカ駐留軍兵士や日本人騎馬警官の横を通学していた3代続く新橋の生まれ育ちのカミさんであり、そのカミさんに教えられた漫画家にして江戸時代文化研究者で無類のそば好きの杉浦日向子(1958~2005)が絵(漫画や挿絵)と文で描く江戸庶民の、男女の愛らしさ溢れる叙情であり、3代目古今亭志ん朝(1938~2001)演ずる江戸落語の世界である。

ところで、私は亡き父親が酔うと「我がご先祖様は片足だけ殿上していた殿上人」とうれしげに言っていた一族の末裔ではあるのだろう(家系を見たこともないので)が、流布している京都人特有の自負、特権意識に、またそこからの閉鎖性とかに過敏に反応することもない。
ただ、インターネット上で知った文筆業を生業としていると思われる男性の無記名の随筆『京男と伊勢女』の、雅に寄りかかったただの色狂い京男との嘲笑、蔑(さげす)みに触れ、それが結構世にまかり通っていることと、東京人(江戸っ子ではない)にしばしば見掛ける軽薄極まる独善と権威を振りかざす姿と合わさって年甲斐もなく無性に腹は立つ。因みに、その執筆者は、天照大神を祀る伊勢神宮の地の女性「伊勢女」を「《超》田舎娘」と罵倒している。その人が東京人かどうかは知らないが、寂しい人だ。

江戸は、1800年代以降、160万人が住んだ大都市だが、内江戸っ子たる庶民は100万人で、江戸市中(東は浅草、亀戸近辺、西は四谷、新宿近辺、南は品川近辺、北は板橋、日暮里近辺)の2割ほどの地(約10㎢)に住み、約7割は「九尺(くしゃく)二間(にけん)」(間口九尺〈約2、7m〉・奥行二間〈約3,6m〉)の【棟割長屋】に生活していたと言う。
察しと連帯こそが生き、暮らす基本であったと言える。或る調査で江戸時代に魅かれる理由として「人と人の心のつながり」「日本人らしい生き方」を挙げていたが、その人の心底には、「言葉の前の察しと間(ま)の人と人のつながり」「天意(自然)に委ねた生き方」への回帰と憧憬があるように思える。。
子ども部屋や洋間が各家庭の一般とさえなっているプライバシー保護意識の現代生活にあっては、察しは化石文化の道をたどるとの相関があるならば、それこそ文明の問題であろう。有形と無形の不即不離。

江戸っ子は“粋(いき)”を身上とする。(「粋」は、「いき」「すい」両方の読みについては、以下で触れる九鬼周造と多田道太郎の考えに従って、江戸の「いき」、上方の「すい」とする。尚、九鬼の著書名は「いき」である。)
その粋。ここでは粋について拙文を重ねるのが本意ではないので、風穴私感との関連から少し触れる。

粋を考えたくば、九鬼 周造(1988~1941:東京出身。東大卒業後、ドイツ・フランスに8年間留学した哲学者で、京大教授)の『「いき」の構造』が、白眉とする人が多く、杉浦日向子もその一人である。
私も以前読んだことはあるが難解との印象しかなく、昨年再読したが未だ十全ではない。能力の無さと言ってしまえば楽なのだが、その理由が書の内容云々の前提?或いは根柢?にある、男女の恋情の綾、それも「緊張感」に詰まされた綾、が私に決定的に欠けていることに気付いた。
吉田兼好言うところの「色[恋愛の情趣]好まざらん男はいとさうざうしく[もの足りなく]、玉の盃の底なきここちぞすべき。」の、その男の私だからではないか。

もちろん実際に多く経験を積むことが豊かな智慧者・求道者となるかとは思うが、量の問題ではなく、質(想像力?)の問題であろう。それは、九鬼が引用する永井荷風などを思えばそうだし、何かで読んで我が意を得たりと思った夏目漱石の女性描写でもそうだ、と“色街”(この言葉に強い関心を持つ一人だが、どうしても「苦界」との言葉が襲う)を知らない“野暮”な私は我田引水している。

それでも以前よりは得心できるようになった。そこには、文庫版『「いき」の構造』巻末の多田道太郎(1924~2007:京都出身のフランス文学研究者で日本文化研究者)の歯切れの良い解説に助けられているかとも思う。因みに、47歳で逝去した日向子さん(お江戸日本橋生まれの江戸っ子)は、晩年に少しは理解できるようになったと書いていた。天賦の才と生後の自力後天力の決定的違い……。閑話休題。
九鬼曰く、「いき」の定義(九鬼の言葉では「徴表」)は、「媚態」「意気」「諦め」。以下、それぞれについての九鬼の言葉を引用する。

媚態:「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」
《参考》この言葉の前後の九鬼の表現を引用する。(私が、少しは分かるようになった一部でもある)
――媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。そうして「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。いわゆる「上品」はこの二元性の欠乏を示している。――

意気:「意気地」「宵越しの銭を持たぬ」誇り。「反抗(心)」

諦め:「あっさり、すっきり、瀟洒たる心持ち」「垢抜け」「運命に対して静観を教える」「仏教の世界観」

男と女の愛、情が象徴する人生の華、理想と現実の七転八倒。浮き世にして憂き世或いは憂き世にして浮き世。「張り」と「意気」。生き甲斐を極致的に表わしたかのような抽出。
先に記した私の「江戸っ子」像はここに重なって行く。その江戸っ子たちは散り散りの現代東京。物質と情報にまみれあえぐ虚栄の世界の大都市東京。物心格差の止めどもない広がり。魔性的魅惑。心の闇……。苛立ち。
文明の進歩が、モノ・カネを前提とした前進に非ずを痛覚し始めた私たち。

「江戸っ子は皐月の鯉の吹き流し、口先ばかり腸(はらわた)はなし」
情報化と複雑化に邁進する社会にあって、幼い時からひたすらに己が選択(アイデンティティ)を求められ、「合理」こそ最善、の一方で、人類誕生以来本質的に変わらぬ魂の苦悶を抱えている私たちにとって、江戸っ子の気風(きっぷ)の一つ、「江戸っ子は皐月の鯉の吹き流し、口先ばかり腸(はらわた)はなし」を、五月晴れの天に泳ぐ鯉、五月雨に身を委ねる鯉、を思い浮かべ、「一言がのどを掻っ切る」その言葉の重さをかえりみればなおのこと、安易に、冷ややかに打ち棄てられるとは到底思えない。

このことは、江戸っ子を研究者として極めたと言われている西山松之助(1912~2012)と文化史研究者小木新造(1924~2007)編の『江戸三百年③ 江戸から東京へ』で知った、「江戸っ子の心意気が近代市民社会にも、必要不可欠な精神であること」(左記書からの引用)を支柱にして1889年(明治22年)創刊の『江戸新聞』やその10年後に創刊された『江戸っ子』新聞からも、単なる私感とは言えないのではないか、とこれまた我田引水している。