ブログ

2014年1月27日

北京たより 『骨格』 その2   清華大学中日友好協会 日本語スピーチコンテストに観る「骨格」

井上 邦久

 

昨年の12月21日、北京の社宅最寄りの地下鉄「大望路」から天安門広場の地下を西へ、「西単」そして「西直門」と2回乗換えて北へ小一時間(北京では、どこまで乗っても2元=30円。昨今さすがに値上げ話が出ています)。中国の都の西北も学生街です。地下鉄「五道口」から徒歩10分の清華大学を訪れました。

師走に入って、北京日本商会経由で北京日本人会からの案内と協力要請の回覧メールが届きました。途絶えていた日本語スピーチコンテスト再開への支援を募る内容でした。
清華大学中日友好交流会の李会長ら(会長といっても東北出身の純朴な2年生)が来所して語るには、何もかも手さぐりの様子。なかなか支援をしてくれる企業が見つからない、また伝手をたどる要領も分からない様子。
覚束ない日本語を必死に探しながら、訥々と語る姿に共感を覚えましたそして、面談を終える頃には四川省成都への出張前日の土曜日を大学のキャンパスで学生の話を聴いて過ごすことに決めていました。

開催日の二日前になって、事務方から会場に来てもらえるか?審査員をやってくれないか?との問い合わせがあり、当日はネクタイを締めて行くことにしました。
李会長以外は全員が初対面の方ばかり、ステージ最前列の席に座らされ、進行表や表彰次第そして肝心の審査用紙を眺めました。一等賞を渡す役に自分の名前を発見して驚くといった状態でした。徐々に雰囲気に慣れて、日本人会事務局長や司会進行役に御礼を言い、日本の大手三紙の記者の皆さんや企業代表の方々と御挨拶をした段階で一息つきました。
そこへ、日本人留学生が立派な名刺を持って次々とやって来たのには驚きました。隣の毎日新聞の方と「学生が名刺を持つのが普通になったのでしょうか、我々の頃には考えも及ばなかったですね」という会話とともに、まあこれは一種の就職活動なのですね、と教えてもらいました。
中国に来ることは就職を忘れる(採用対象から外される)時代を過ごした自分の学生時代には考えも及ばなかったなあ、と慨嘆しつつ当世学生気質と世相の変化に気付かされました。

コンテストは、1年生女子、男子の朗読から始まり、続いて2年生の女子、男子による時事弁論。ここまでが各6名。3年生は、ステージに上がってから出されるテーマに即応したスピーチ。これは男女各5名。都合34名は、全国からの予選を経て、当日午前の準決勝を勝ち抜いた学生なのでそれなりの日本語水準でした。

1年生は9月に入学したばかりとは思えない正確さでした。2年生のテーマは青島石油管爆発事故、新聞報道改善要求、大気汚染、マンホール生活者事件など、まさに時事問題でした。中には毒マスクを装着して登壇した学生もいました。3年生は硬軟織り交ぜた質問にしっかり対応していました。

総じて、女子の発言は率直明瞭、男子のそれは柔軟曖昧の印象があり。日本語そのものの優劣より発言姿勢と主旨骨格は女子が勝っていました。

男子の中には確かに素晴らしい日本語の遣い手がいましたが、アニメや村上春樹の世界に入り込んで核心を明かさない傾向が見えました。先に挙げた2年生の時事テーマはどれも女子学生によるものです。「報道に奇術やマジックは不要。事実を報せて貰いたい」「事実をしっかり確認しない書き込みでネットが一気に炎上することは危険だ」「マンホール生活者を新聞が取り上げたことで、立ち退かされた生活困窮者は、その後は何処で寝起きしているのだろう?報道は興味本位ではなく矛盾の本質を抉るべきだ」といった鋭いものでした。

男子学生では毒マスクを外した男子学生が流暢とは言い難い日本語で、「大気汚染を語るのではなく、身近なところから実践すべきだ。審査員席の皆さん、今日くらいは高級社用車ではなく歩いて帰ってください」と訴えたことにインパクトを感じました。

しかし多勢に無勢で女子学生の迫力に対して孤軍奮闘という印象でした。男女別に組分けしていることで余計その印象が強かったのかも知れないな、などとエラそうなことを考えながら、ふと20歳前後で朝日新聞主催の中国語弁論大会に出場した時のことを思い出していました。

『同班的曹同学』という題目を挙げ、在日華僑なのに(故に?)中国学科で学ぶ同級生の精神的葛藤について棒暗記で何とか話しました。しかし質疑応答では。頭が真っ白になり、まったく質問の内容が分かりませんでした。いつも授業で接している高維先先生がとりわけゆっくり話してくれているなあ、と詰まらんことを感じるのみで、聞き取ることはできず面目なかったホロ苦い思い出です。弁論のテーマに快く同意してくれた曹正幸君は昨夏あっという間にこの世を留守にしてしまいました。

最終選考で最高賞に選ばれたのは、「貴女は子供の時から成績優秀者だったでしょうが、そのことをどのように考えていますか?」という質問に、
「小学生では特に勉強しなくても良い成績でした。中学生でも一通りの復習でトップでした。高校ではどこを押さえれば良いかが見えて良い結果が出ました。しかしそんな過程で知らず知らずに傲慢になり、他人の傷みを理解しないために、いつの間にか大切な友人が離れてしまったことを後になって気付かされました。成績優秀だけでは豊かな人間関係を築けないことを今は分かりました」と応えた女子学生でした。全く異議なしの結果でした。
表彰式の最後に特別賞にも同じ女子学生が選ばれました。ただ、手違いが重なり日本企業からの表彰授与は、口頭で奨学金3000元(約5万円相当)を渡すことがドタバタの中で伝えられました。

そこで挨拶を求められた彼女は「感謝します。学生にはとても大きなお金です。これを是非とも先ほどコンテストの幕間に、自作ビデオを上映した渡辺航平さんのグループ活動資金として全額寄付したいと思います」と一刀両断の切れ味で、場の空気を引き締めた女子学生の精神の骨格の見事さに感動の声が上がりました。

清華大学キャンパスの料理屋での慰労会にも参加して、学科副主任の先生から何故元々理工系の清華大学で日本語学科を育てようとしているか?日本語を学ぶ学生の社会環境の厳しさと日本志向を続ける意志の強さなどについて、色々と教えて貰いました。

お酒も入って和んだ中で、決勝に残った中に北京第2外国語学院の学生が多かったことについて訊ねました。「北京第1外語学院は確かにアカデミックな名門です。第2外国学院は実務重視が昂じて『観光大学』などと改名する話が出たほど。しかし現在は実力的に第2外語学院の日本語水準が上と見做されていて、改名の話は立切れしました。
また外交部長(外務大臣)の王毅さんが第2の出身だから『観光大学』や『旅遊大学』などという名称にはさせないという実しやかな話もあります」と当意即妙の解説を、江戸っ子のような気風の良い日本語で応えて頂きました。駐日本大使時代にお会いすることができた王毅さんの日本語も見事であったこと、日本についても詳しくご存知で、中堅商社の事情にも明るかったことに驚いたことを思い出します。非常に難しい時期に外交窓口職に据えられたものだと思いながら、清朝貴族邸宅跡の「水清木華」のキャンパスを酔い覚ましも兼ねて地下鉄駅まで延々と歩いて帰りました。 (了)

 

追記補足;                

渡辺航平さんは早稲田大学の学生で北京大学に留学中。中国に対して違和感の漂う日本社会に危機感を募らせた。日中友好を標榜する各種の催しや会合に出かけたものの、そこでの分かる者同士の調和的な雰囲気にも違和感を覚えた。
ならばと自らの行動や言葉で日中友好を表現しようと考えた由。

上海随一の繁華街である南京東路の歩行者天国で手書きの「日中友好」の紙をかざして、やってくる老若男女にハグを求め、戸惑う人・厭わしい顔をする人、一緒にカメラに収まる人など各人各様のリアルな反応をビデオ撮影して、オリジナルのメッセージと音楽を画像に重ねていました。

司会者からビデオへのコメントを求められたので、「調和的な雰囲気に違和感、という発言に共感。それにしても不特定の人たちへのハグ活動は怖かったでしょう?」と訊ねたら、「正直なところ、とても怖かったです」とケレン味を感じさせない率直な反応でした。
日本の男子学生にこのようなシナヤカナ人がいる、まさに「後生可畏」を感じました。

詳しくは渡辺航平さんが当日深夜に届けてくれた以下の資料をご覧ください。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「僕らの日中友好@上海」(本日流しましたハグ活動)に関しての情報になります。

こちらも是非ご参照ください。

・「僕らの日中友好@上海」《我的中日友好@上海》

优酷:http://v.youku.com/v_show/id_XNjI4NDE2ODEy.html

YouTube:http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=jWOfNwIAzJc

 

 ・Next Vision Asia

facebook: https://www.facebook.com/NextVisionAsia

Twitter: https://twitter.com/NextVisionAsia

 

【私感】(井嶋 悠)

私感よろしく我が中に引き込んで恐縮ですが、氏がスピーチの内容と表彰で実感した「女子の骨格」から、今年初めのブログに書きました「母性」と「父性」を、しかしいかに父性が私の中に欠けているか、に思い至りました。
最高賞の女子学生が示すものは、中日を越えて、絶対的平等性の中での「内と外」すべてを包み込むグレートマザー性ではないでしょうか。
と同時に、もう一つ我が田に引き込みますと、68歳を過ぎる頃からやっと父性が芽生えつつあるかな?との心境にあって、私の生大半を占有していたものは、母性でも父性でもないなんとも“曖昧な”或いは不可解な感傷で、33年間、よくぞまあ教師が務まったものだ、との妙な感慨です。

このことは、紹介されている北京大学に留学中の渡辺さんをはじめとする早稲田大学生たちの「シナヤカサ」への敬意と羨望にもつながっています。

私たち「日韓・アジア教育文化センター」の活動は、日韓の出会いからアジア、とりわけ東アジアを、また東アジアから世界を観たい、との思いで始めたものですが、最近、私個人の中では、日本を考えることが、韓国、中国を考えることになる、との気持ちが非常に強くなりつつあります。
これは、やはり独善としかとらえられない危険な兆しでしょうか。
そして、私たちの活動の共通言語が日本語であることの限界なのでしょうか。それとも言語の問題ではなく、私個人の限界なのでしょうか。
このことは、井上氏が学生時代に発表された「在日華僑の精神的葛藤」について、氏の発表された内容、視点は分かりませんが、私の在日韓国(朝鮮)問題での、現在ゆえの?曖昧さにもつながっているように思えます。

ところで、YouTube「僕らの日中友好@上海《我的中日友好@上海》。

彼らが言う、「調和的な雰囲気への違和感」。彼らの「骨格」。
私たちへの警鐘でもあります。正にその通りです。世代を越えて実感します。そして、これは私の体験から言えば、多くの学校〈体験知で言えば中高校)社会(敢えて言えば、私立校)に漂っているものでもあるように思えますが、どうでしょうか。
私自身、違和感を持ったがゆえに転校、退学した幾人かとの出会いがありました。その時、通信制高校という選択肢もありましたが、通信制高校への期待の社会性ももう一つで、そのうちに今では通信制高校の使命は終わった、という通信制高校経営者もいる旨、聞きました。
これは、帰国子女受け入れ校という言葉が、未だ死語になっていないようで、それともつながって来ますが……。

それそれとして、彼らの活動映像必見です。
ハグに応えた中国人老若男女の優しい眼、眼、眼!「目は心の窓」。
思わず「家の門を出れば儒教〈孔孟〉、家の門に入れば道教〈老荘〉」との言葉を思い起こしました。日中、否世界中?、異文化なし・・・・・・!
しかし、・・・・・・タテマエとホンネと生きる術・・・・・? 小国寡民であっての理想、桃源郷・・・・・・?

人の温もり。それは、言葉の合理だけでは通じないことは古来自明です。井上氏が、「日本語を必死に探しながら、訥々と語る姿に共感を覚え」、このコンテストが実現したように。

私たちが、しばしば使っているヒューマニズムという言葉、発する時、心はどこに在るのか自問し、知識だけに溺れないように気を付けたいものです。
最高賞の彼女が、自身を糾弾した「他人の痛みに気づかない傲慢さに陥ってし」わないために。

 

 

 

 

 

 

2014年1月22日

北京たより 『骨格』 その1   映画『ハンナ・アーレント』に観る「骨格」

井上 邦久

 

[お 断 り]

井上邦久氏の中国からの定期的「上海たより」の転載[「国際」の項に掲載)許可をいただき、3か月余りが経ちます。その間、「たより」に関心を寄せて下さる方々が増えつつあることを伝え聞いています。
当然でしょう。
そこには、概念知ではなく体験知、学生時代からの中国への関心と行動、社会人(商社マン)としての30有余年の体験知、と文武広範な好奇心と見識の統合があるのですから。
ただ、昨年後半から、拠点地を上海から北京に移行されつつあるとのことで、表題が「上海たより」から「北京たより」に変わっています。
今後は、主に「北京たより」、時々「上海たより」になるかもしれませんが、『骨格』は同じです。

ところで、今回の転載については、私個人的に映画に興味があり、教職時代に日本語教育にも首を突っ込んだこともあって、氏の了解を得て、前半・後半の2回に分けて転載し、更にはそれぞれの転載末尾に私感を入れるという無謀をしています。

氏の寛容さにただただ感謝するばかりです。 (井嶋 悠)

 

 

新年の映画は『ハンナ・アーレント』(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)からでした。ユダヤ系ドイツ人のハンナ・アーレント(岩波書店の訳者は、HannahArendtをハンナ・アレントとしています)は、第二次大戦中にドイツを逃れ、ビシー傀儡政府下のフランスのユダヤ人居留区に拘束されながらも、きわどく脱出して米国へ。18年に及ぶパスポートを持たない無国籍者状態を脱して、米国市民権を得たのは1951年。その年に著書『全体主義の起源』が大きな反響を呼んだとされています。同じ年に独立直後の日本の国籍を当然の様に取得した人間とは精神の骨格の違いを感じました。

1960年.アルゼンチンでイスラエル諜報部(モサド)が元ナチス高官のアドルフ・アイヒマンを捕捉、エルサレムに移送して公開裁判が行われ、翌1962年に絞首刑に処されました。当時、日本でも新聞や雑誌で大きく報じられて、小学生にも強い衝撃を与えました。「アイヒマン」という名前の響きには、人間離れした極悪非道のイメージが生まれ、前頭部の禿げ上がった眼鏡顔の一種怪異な容姿とともに印象に残りました。

その裁判にハンナ・アーレントは自ら望んで、雑誌「NEW YORKER」特派員としてアイヒマン裁判を傍聴報告するところから映画は動きます。ニクソンとケネディの品定めの会話が時代背景として流れていました。昨年末、着任国に失望することになった米国大使が、父の暗殺に耐える健気な少女として週刊『マーガレット』や『少女フレンド』を飾ったのは数年先のことでした。

裁判を通じて、自身で見て聴いたアイヒマンの「普通の人」ぶりに驚き、そこから考察した「悪の凡庸さ」→どこにでも居る、何の特異性も無い人間が組織命令を忠実に履行する過程で犯してしまう悪について、率直に報告。併せてナチス統治下にはナチスに協力的なユダヤ人幹部グループが存在し、同胞を追い詰めた事実もまた率直に報告。それらの報告への反響は凄まじく、大学の職場からも追放されかかり、多くの旧友も離れて行く中で、出版自粛を迫るイスラエル政府の脅迫や友人の助言にも屈せず、1963年『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』として世に残されました。

映画の中では、女性の独創性・高潔性が強調されて、男性の通俗的・微温的な側面を鋭く反射していました。

とりわけ学生時代のハンナ・アーレントとスター教授であったハイデガーとの恋愛模様はどこか戯画的でありました。ハイデガーが1933年にフライブルグ大学長に就任し、ナチスに入党したことを、戦後になってハンナ・アーレントが問った時、自らの幼児性を哲学的な言辞で説明するハイデガーは少々情けなかったです。

新年早々の初場所前に、女性監督と名女優による骨格のしっかりした作品とぶつかり稽古をした印象です。

映画○○を作る会として企業連合が支援する安定調和的な日本映画や国際映画賞獲得やハリウッドでの受けを意識し過ぎたアザトイ中国映画を見る回数が減ることと、今は感じています。
同様に良くできた小説や面白すぎる新書からも今年は少し遠ざかるような予感がします。

 

【私感】

田舎(地方都市)に住む私が、都会を羨む一つに「岩波ホール」のような施設があることです。もっとも、在東京の友人に言わせると、整理券を手に入れるにも朝9時から並ばなくてはならないそうで、私が如き怠け者には、結局は無縁なのかもしれませんが。
閑話休題。

骨格の違い。激烈な表現です。氏に一刀両断される人物、例えば「当然のように日本国籍を取得した人間」のような人物に、自身を棚に上げてなんですが、何人も出会って来ましたので、共感しきりです。
ただ、最近、老子・荘子のもののとらえ方に、自然体で実感しつつある私としては、或る懐かしさ?的なものに包まれてのそれでもあるのですが。

今回、氏の文章を読み、なぜか「分析」という言葉、その鮮烈ささえ迫り来る言葉、が「(あらき)」を鋭利な「斧」で一刀両断する心象にも似たものとして、私の脳裏にこびりついています。
甚だしい矛盾を承知しつつも、これも老子・荘子への近づきの影響なのか、とも思ったりしています。

無為自然、和光同塵、万物斉同、無用の用…に魅かれながらも現実の狭間に彷徨い、母性と父性の調和的統合の問い直しが、喫緊に必要ではないか、と中高校のささやかな教師経験から直覚する一人として。
これは、「着任国に失望した大使」の骨格を、彼女が持つ文化と私(たち)が持つ文化の優劣、善悪、好悪、是非等々に陥ることなく考えることが、日本の、日本人の今を考えることに有効なのではないか、と思うことに私の中では重なっています。

ところで、日本で一人の女性を採り上げて映画化するとしたら誰だろう、と考えました。

浅学でのことですが、私の答えは「私たちは『女性』から解放されるのではなく真の『女性』として解放されねばならぬ」と言った、愛と性を「母性主義」の根っ子に置いた『平塚 らいてう((はる))』です。
その出自と学校教育への反発、抵抗、自由への邁進、完遂、森田草平との情死未遂、「若いツバメ」奥村博史との同棲と二人の子ども、また孫、「原始女性は太陽であった。真正の人であった」と謳い上げた『青鞜』の発刊……。

そして、そこに登場する、夏目漱石(森田草平の師)、森鴎外(『青鞜』発刊に集まった一人が鴎外夫人)、高村光太郎(彼の人生に決定的な愛を与えた長沼千恵子は、らいてうの大学一期下で、『青鞜』第1号の表紙を描いた)、『青鞜』を引き継いだ伊藤野枝、孤高の婦人運動研究者高群逸枝……たち、百花繚乱、多士済々の人々。
舞台は、明治末から大正にかけての混乱と不安定な時代。

平塚 らいてうと言う類まれな女性を通して、現代日本の深浅、明治以降の過程と近代化を考えるに、かっこうなイメージが広がるのですが。

氏が言う、「安定調和的な日本映画や国際映画賞獲得やハリウッドでの受けを意識し過ぎたアザトイ中国映画」と同類なのかどうか、私の好きな中国映画についてと併せて、氏にいつか意見を聞けることを楽しみにしています。

ただ、少なくとも「カネ本位政治」からの女性雇用促進を、例えば先ず地方・国家公務員の半分を女性にするといった発想ではなく、民間企業に〝支援“を言って要請する、自分の言葉に酔い、私たちに押し付け、私たちの税金で、震災などなかったように外国廻りを繰り返し大盤ふるまいの首相、内閣、それを支える官僚、学識者、マスコミに、痛撃を与えるようにも思うのですが、どうでしょうか。

首相夫人(ファーストレディ)昭恵さん、いかがでしょうか。

2014年1月17日

小人(しょうじん)と大人(たいじん)、そして生と死 ―私の読書体験に見る「必要は発明の母」―

井嶋 悠

 

学校教師の傲慢独善が一つの入口となって、7年間の心身葛藤の末、2012年4月、23歳で絶対平安界の住人となった娘のことは、このブログで何度か触れている。

その娘が、死に到る2年ほど前、敬愛する大人(おとな)大人(おとな)の定義とは何か。」と問うたところ、その人物は、しばらくの沈思黙考の末「死を受け入れる覚悟ができている人」と答えた、と遠くを静かに見つめる眼差しで私に言ったことがある。

時に憤り、時に絶望の深淵に彷徨(さまよ)い、時に無心に笑みをこぼし、悪戦苦闘している中、言葉[論理]ではなく、直覚的に生と死を思い巡らせていたからこそ、自然にそのような問いが湧いて来たのであろうし、その人物の答えに素直に入って行く自身がいたのだろう。

その私は、中高校国語科元教師であり、私が43歳で得た彼女の父親で、その人生からも、また教師のほとんどが言う読書と教養と人格形成との視点からも、甚だ低いランクの教師で、要は「小人(しょうじん)」である。そして、天は66歳の私に娘の死と言う途方もない悲哀(罰?)を与えた。

自責、悔悟、またその教師たちへの憤怒、と同時に同じ教師ゆえの自他への不信、更には妻や長男への感情移入と、今もその試練と戦っている。

そんな中で、娘が身をもって、私に、生と死、「おとな」であること、「たいじん」であることについて考えさせるべく導いているかのようにも思えること多く、2014年を迎え、早半月が過ぎ去った。

何度も私は、娘とその人物との問答を想像し、私自身が、己が過去の一切合財受け容れることからの新たな過去創り、その少しの前方の死を受け入れる覚悟創りに向かわせていて、その時、読書の力、働きが、一人の私的な体験知の抽出に有効作用していることに実感から気づかされている。

そこでは、何を、今さら、今ごろ、との(さげす)み、憐れみの(とが)めの微笑みの一斉射撃を思い浮かべながらも、同業間で九牛の一毛の共感のあることも願っている私がいる。

更には、この気づきは、60年有余の生活が、自身の言葉で集約できるのではないか、また
読書と教養と人格形成の不実践者にもかかわらず、ただ教養については「教養」そのものに未だあいまいなので今は措く、読書への持ち得た自然な首肯を失わず、概念的道徳に陥らなければ、ひょっとして私も「死を受け入れる覚悟ができている人」「“おとな”にして“たいじん”」に到達できるのではないか、とのささやかな期待にさえなっている。
尚、上記教養云々については、末尾「追記」で触れている。

しかし、これは私の感性指向への白旗揚げにも似た限界の顕在なのかもしれない……。

最近の私の愛読書の一つは、日本の古代から現代に到る約500人の有名人の「辞世のことば」(これが同時に書名)を集め、そこに要を得た解説を加えたもので、その副題にある通り、それは「生きかたの結晶」で、その言葉群は、言葉の究極のように思える。

私の敬愛する人物から一人挙げる。

青年期のデカダン、智恵子との出会い、愛そして智恵子の発狂と死、更には太平洋戦争時の文学報国会詩部会長への慚愧(ざんき)を経た詩人であり彫刻家であった高村 光太郎の辞世のことば。

「老人になって死でやっと解放され、これで楽になっていくという感じがする。」

その死に顔は、ことのほか安らかで、おだやかな美しさをたたえていた、とのこと。
私に彼ほどの深さはないので、解放される、楽になる、との実感は思い及べないが、しかし心共振する何かがこのことばにある。
死へのその人の臨み方から、人生を想像するダイナミズムにも似た感触である。

来し方を整理し、来たる方を思い描き、その最中での娘の死。その過程での読書への気づき。
「必要は発明の母」とのことわざが浮かぶ。
「発明」を、「自覚」とか「発展」に代えれば、そこには日々の生活者としての生の在りようへの、具体と説得力に思い到る。
ことわざの持つ、先人の生活からの知恵の存在感。
英語にも、ことわざではないが同意の表現があるとのことだが、日本語でのことわざの後ろには、日本の風土、そこに生きる日本人の生き様があると思う。
読書も然り……。英語学習も然り……。

10年ほど前に校務でシンガポールへ行ったときの、現地の人の言葉が甦る。
「その人の生き方によっては、日本人は日本語だけで一生を終えることができて羨ましい。シンガポール人は、マレー語と広東語と英語ができないと人生設計は立てられないのだから。」
これは、返還前の香港人も同じかもしれない。
その点、英(米)語第1言語・母語人はどうなのだろう?

「国際」の吟味もそこそこに、国際語=英語であり、それを操る国際人こそ優れて魅惑的な人間の一生であるかのような画一的価値観を背景とした
日本の、幼少時からの、書道を含めた国語教育や音楽・美術・家庭・体育教育を削ってまでの英語教育の時に強迫的な喧伝、
英語母語者も或る評価をしているにもかかわらず、中高校での旧来の英語教育への総批判と会話教育の安易さ。

(因みに、娘は書道、音楽、美術、(技術)家庭の増時間と充実の(体育は自身の運動神経の無さから言わなかった)願いをよく言っていた。)

「必要」の心身実感、緊迫感もなしに英語学習に奔走する姿は、文明国の知的な貪欲さの現われとして自負され、賞讃されるということなのだろうか。
しかし、そこに覆いかぶさる都市圏と地方の、都市圏の精神構造を善しとした格差の現実。

その現代日本とは、一体なんだろう、とやはり思う。

追記
読書と教養と人格形成に関して

私の3歳年長の1942年生まれの教育学者竹内 洋氏が、教養と教養主義について、大正時代の旧制高校を発祥とし、新旧教育制度の変換を経て、大きな変容期である1970年前後とそれ以降を述べた書『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化―』で、「教養からキョウヨウ」との表現を使っている。

これは、私が係わった帰国子女教育での「帰国子女とキコクシジョ」の表現とも相通ずるものでもあるように思えるが、私の3歳年長にして学識者もあってか、そこにはカタカナ化することでの慨嘆のようなものを感じる。

何も私に腹案妙案があるわけではないが、「教養からキョウヨウへ、そして新・教養へ」の時を迎えているようにも思える。
なぜなら、竹内氏が言う、1970年前後までの一時代を画した一大教養月刊誌『中央公論』『世界』の内、特集テーマに魅かれて『世界』の最近を読んでみると、いくら憂き世とは言え、この私でさえ益々心暗雲たちこめ憂鬱とさせ、政治不信、マスコミ不信になるばかりなのである。
その『世界』もマスコミの一翼である。統制化されない自由な出版の良さを思いつつも。
要は自己選択の責任? 自我での客観性、主観性とは? その自我確立の要件の一つが読書? 体験?……。

過去に通用した「教養」の引き戻し的再生でもなく、ライト感覚?の「キョウヨウ」でもなく、「教養」の伝統を土台とした現代性の感覚としての「新」教養……。

『世界』での私の、最近の実感例を一つ挙げる。
福島の原発事故の今に係る論説(執筆者は環境エネルギー政策研究者)を読んでいると、知らされていない、隠されていることを知ると同時に、筆者の問題点提示に共感する私がいるのだが、或る世論調査では、原発再稼働推進も含め、現内閣の施策支持率は、60%前後に及んでいるとのこと。

その現代日本とは、一体なんだろう、と行動あっての教養と智恵への後ろめたさと少数派の独善嘆き節で、もう一度思い、それに併行して「死を受け入れる覚悟」はまだまだ遥か彼方!と直覚し、茫然自失し、娘のくっくっくっという幽かな無心の笑い声を聞いた心持ちになっている。

 

2014年1月7日

2014年の初めに [海から母を取り戻そう] ―母性と父性の調和から日本を見たい その1―

井嶋 悠

         母性原理:包み込む、絶対的な平等性

                                                     [「太母〈グレート・マザー〉」生命の与え手と死の与え手]

父性原理:断ち切る、分割する

                                                                                                中村 雄二郎『術語集―気になることば―』の中の「女性原理」より

 

正月恒例の「箱根駅伝」で、今年2区の一人の選手が棄権した。原因は右足の疲労骨折とのこと。最近、スポーツ選手の疲労骨折の報が多いように思う。理由のほとんどは、勝つための過剰練習ではないのか。責任の大半は、指導者に、また勝利を最優先するかのような周囲の私たちに(とりわけマスコミやそれを当然の前提で話す大人社会に)ある。
20代を中心とするその選手たちの心に過ること、そしてその後の人生は、一体どのようであろう。

国際化は欧米化(戦後は米化)に見る近現代日本。先進文明国日本。世界の一等国日本。

その西洋文明の土壌にある、ギリシャ文化とキリスト教文化。その両方に共通する男性中心、またその男性による論理(ロゴス)中心の世界。

日本はその土壌を共有しているだろうか。背伸びがあるように思えてならない。
日本神話の祖・天照大神。平安朝の才知。仮名世界。戦場の武士の支え。江戸庶民のバイタリティの源泉。それらがあるがこその近現代での哀しみと憤り。等々。
そこに輝く女性の存在。「手弱女」に書かれる「弱」は弱いではない、その柳のようなしなやかさ。
仏教と自然神道からの、自然とのぬくもりの共生。母の、父ではない、母のぬくもり。

その日本に来た多くの西洋人の日本人評「優しさ」。
にもかかわらず戦時下の大陸での兵士の残虐。求められる父性への、また母性観への厳しい反省。
知るべき第1次世界大戦前後からのヨーロッパ社会を中心とした文明への西洋人の自問と自省。

しかし、今日本はどうなのだろう? そして越境、干渉を承知しながらも世界は?
論理武装の自我とそこから是非、NO/YES明確の二者択一[分割]を秀とし、実益優先の指向。
馬車馬に、多忙に生きることが美徳。企業戦士=カッコ良いとの美意識。
観光客誘致、はたまた世界遺産登録での商魂からの発想。失望する外国人観光客。

ふと過る自身の中での違和感。襲う敗者意識。対人恐怖。

そして思う。日本って? 世界の人達が日本に求め、日本がそう仕向けているものは、相も変わらぬカネ・モノ?

先進文明国にあって10年来最上位を保持する自殺大国日本。(これについては、以前このブログで書いたように私の用語では「自死」であるが、社会による死への追い込みとすれば、犠牲者としての「自殺」?)

日本の疲労骨折危機。
何という無惨。矛盾。歪み。

原発再稼働と海外商談に、特定秘密保護法に、集団的自衛権改訂に意欲を燃やし、発言が端的に示す独善の極みで靖国神社を参拝する我が国の宰相が、得意気に言う、女性の存在と働きの社会に見る旧来の男性優先の軽薄さ。それに付和雷同、賞讃さえする国民の支持率50%前後という数字。
少子化、高齢化の事実の受け止め方と対応に見る、金銭本位、それでの勝利至上主義発想。
何という危うさ、恐ろしさ。

と言っても、私は日本を棄てたい、離れたいとは一度も思ったことはない。

老人の骨折は死に到ること大、で言えば、やはり老いの、周回遅れの戯言なのかとしぼんでしまうが、それでも独り静かに憤り、三好達治の詩「郷愁」の一節を思い浮かべる。

    ―海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。

     そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。

        注(井嶋):母の旧漢字は 現在の新漢字では、一画減って  旧漢字から新漢字は戦後の施策
フランス語では、母は[mereメール]、海は[merメール]
尚、「毎」には、広く深く暗いの意があるとのこと。
私たちは、母の胎内から出でて光を得たことを思うと、一層、古の人の叡智に思い到る。
それに、ビーナスは海の泡から生まれ、あこや貝に乗って陸に着いたというではないか。

人と言う動物は、或る壁にぶつかり不安を直覚すると後ろを振り返るという。
立ち止まり、省みる勇気。

夜[女性原理・母性原理としての月]の静謐な心の時間。
必ず訪れる朝(昼)[男性原理・父性原理としての太陽]の躍動する身の時間。

両者の調和が奏でる一日、一月、一年・・・・。そこから生まれる品格、重み。

根底に脈々と流れる日本の、先人の心、風土、歴史、伝統、そしてその自覚があっての革新。

その時、私たちの周りには、老子・荘子の「道、玄(牝)、妙、無為」や、インド人が考えた「ゼロ、無にして永遠」や、仏教の「中庸、敬和」や、禅宗の「不立文字・以心伝心」や、日本の「自然信仰、八百万の神信仰からの無神観」、と【両原理の調和】を探るテキスト、それも東洋発のテキストが、溢れんばかりにある。

折々に、それらから直覚的に響いたことと私の人生また教師人生からの体感、実感を、私の或るまとめとして書けたらと思う、2014年正月です。