2014年3月26日
[Ⅱ]―②
中高校国語科教育から
(付:或る中学校の英語教育、帰国子女教育)
井嶋 悠
○国語科教育
なぜ、私は国語科なのか。
在籍学科が国文学科で、教職課程を履修するに際しての自然な流れで、敢えて外国語(文学)を視野に入れることもなかった、との甚だ消極的理由である。
それがためか、27歳時に思わぬ縁で教員になったこともあり、悪戦苦闘の日々であった。
ましてや最初の勤務校が、かの〝偏差値“で言う、トップクラスの女子生徒集団であったから尚更である。
しかし今振り返れば、それが幸いして「授業予習」への真剣度は大きく、「生徒が教師を育てる」真理を体得したとも言える。
10年後、大きな転機を迎える。
高校への外国人留学生(1年在籍で、毎年ほぼ2,3人が留学)への、自身から希望しての日本語指導であり、勤務校が「帰国子女受け入れ校」に名乗り出たことである。
そこで痛感させられた『日本人にして日本語知らずの国語科教師』。
そして、当時学内制度としてあった国内外留学研修制度を利用し、大阪外国語大学大学院日本語科に半年間留学した。
日本語教育につながる様々な講座と演習、個性溢れる教員たち、日本語教員・研究者を目指す俊英たち(ほぼ全員女性で、なぜそうなのかは後々分かるのだが。)との出会い。
ここを原点としての、「聞く・話す・読む・書く」の4技能習得のための、「読解・表現・言語事項」指導を目的とした国語科教育体験の、私的実践・私見を幾つか挙げる。
体験したクラス生徒数は、以下で、事例として挙げる科目は必修科目である。
① の学校 40人前後×3クラス(6年に一回、4クラス)
② の学校 25人前後×3クラス
③ の学校 25人前後×3クラス
これを見て、先の勤務校の特性と重ね合わせ、或る“特別”感を持つ人があるかもしれない。
学力等々の理由から、クラスとして授業が成立していない学校、授業について来ない生徒は無視、切り捨てられている(そうせざるを得ない?)学校は、現にあるのだから。
私自身、非常勤講師と言う立場とは言え、そのような高校にも勤務し、或る程度ながら克服した経験もある。
そういった眼も含め、私の勤務校の事実を見ていただければうれしい。
私が授業に際し心掛けていたことは、現代文であれ、古典であれ、“目立つ子”に偏重することのない、生徒との応答、対話授業である。
しかし、これは、例えば小学校で、良きにつけ悪しきにつけ多くみられる「擬似家族的」関係からのものではなく、私が求めたのは、親愛の情を置きながらも、あくまでも他人である関係(他者関係)を尊重したい、との思いである。
これも、生徒からのさまざまな痛みを経た、その体験からである。
とは言え、余裕をもってできるようになったのは、教師人生後半になってからではあるが。
結論を先に記す。
【国語科教育(教員)と日本語教育(教員)の意識的意図的協働の導入を。
~指導目標を明確に、教師相互の啓発と謙譲に立って~】
◇言語教育と文学教育
造詣の深浅は別にして生徒学生時代から私は文学嗜好で、それは中高校教師にあってその限界は明らかで、その時に接した、或る日本語教育研究者の「国語(科)教育は、畢竟言葉の教育である」が、すべてを言い表していると思う。
社会性の視点ではなく、「ことばの教育」の視点から、「国語教育」より「日本語教育」の呼称の方が、より明確であると思う。
文学教育(授業)は、自由(必修ではなく)選択講座としてあれば良いと考える。
◇現代文学習と古典(古文・漢文)教育
○現代文
読解[聞く・読む]
散文、韻文、またその中での、それぞれの特性によるいささかの差異はあるが、「言葉と構成(組み立て)」を常に根底に置き、筆者の意図を読み取る工夫であ
り、その上での鑑賞である。
(本センター委員でもある小学校教師の実践事例)
5年生の公開授業で、小説(物語)指導に際して、生徒と共に副詞(この用語は使わずに)を順に採り出し、主人公の心の動きを確認していた。
教科時間数や教科内容とその目標については、それぞれ正論があり、あれもこれも、は生徒の時間、心への過重であり、更には功、奏すること何も無きで、やはりそれは学校理念で的を絞らざるを得ないであろう。そこに私学の特性がある。
私の場合、幸いにも!勤務3校の内2校が「進学校」を校是・標榜している学校でなかったので、私の今があると思っている。
尚、生徒たち何人かで《虎の巻(教科書準拠ガイドブック)》を共有することを(高価なので何人かで1冊共有し、後輩に引き継ぐ形で)、教師の学習効果、指導工夫にも有益で、薦めたいと考える一人である。
○表現[話す・書く]
添削指導の方法や物理的時間に加えて、教師の言葉観や表現観もあって、読解指導以上に難題である。
当初、全体・部分で細かく添削し、返却していたが、生徒自身煩雑に思うことやそれを基にしての再提出の時間的余裕みもなく、各生徒の表現に個別の全体批評をした上で、2,3人の生徒の表現をテキストに、「言葉と構成」を核にクラス全体で応答する方法に変えた。
この方法は、生徒の相互啓発を刺激した教室内対話も増え、実り多い時間となった。
○古典学習
古典授業の一つの型に[①10分:音読、②20分:文法事項を含めた語彙確認、③10分:口語訳、④10分:鑑賞]がある。
実際はその間に生徒⇔教師間の質疑応答等々があり、この型は机上の空論、理想?で、時に学習が数行、などと言うこともあって、プリント配布や板書による“一気呵成授業”も決して珍しくはない。
辞書(それも古語辞典・漢和辞典)を引くことの効用を否定するはずもないが、現実に実践している生徒は、学校差個人差があるとはいえ、少数であろう。
ここにあっても、否一層、《虎の巻(教科書準拠ガイドブック)》の有効使用を思う。
この《虎の巻》提案は、国語科教育の正道、本道から外れた邪道との指摘は当然あろう。
しかし、ほぼ100%高校進学にして、50%強大学進学の時代で、しかも学校教育環境の落ち着きのなさ、慌ただしさへの悲鳴も多い中、その指摘ははたしてどうなのか、とさえ思う。
ここに、教材と授業での「精選」議論のテーマの一つが、あるのではないだろうか。
それに関連しての、①の中学校での英語教育の事例を紹介する。
前述したようにこの学校は、明治時代にアメリカから来日した女性宣教師によって創設され、アメリカからの女性英語教師(兼宣教師)が、数年毎に交代する。
その英語教育(特に中学部での)は、高い特性と伝統があり、高い評価を得ている。
その主な内容・方法は、以下である。
・これまでに積み重ねてきた教育実践に基づいて独自に作成された3年間の教材
・アメリカ人教師・日本人教師それぞれの個別授業と両者の合同授業
その際、日本人教師は、その独自性の身をもっての体験者である卒業生教師である。
・週5日制の、1日6時間時間割にあって、週に6時間ないしは7時間の授業
この教育について、卒業生は、大学、社会人になっての得難い有用性を、異口同音に言っている。
ここには、担当教師は同じにもかかわらず、高校が欠落しているのだが、理由は、付設の大学(女子単科大学)があり、そもそもは進学校ではないにもかかわらず30年ほど前から高度?有名大学進学校評価に変わり(理由等については措く)、そのための大学「受験英語」との関係からである。
従って、彼女たちは、高校から(早い生徒は中学3年生から)ほぼ全員、予備校併学で、それは「五教科」に共通している。
進学校の方が、学習観、学習課程に明快さがあるとの言説は、ことの是非は別に、的を射ているのかもしれない。
○言語事項
内容としては「文法」「漢字・熟語」「故事成句ことわざ等」が、考えられる。
私自身、週1回の「口語文法」(中学校)と、「現代文」(中学校・高校)時間での「漢字」学習と小テスト実施経験を持つ。
しかし、今日、時間を割いての「口語文法」学習をしている学校はないのではないか。「漢字小テスト」については、『漢字検定』への昨今のこだわりもあって、時間を割いての取り組みに接するが、例えば「現代文」の時間に、教科1時間の半分近く割くことはどうなのだろうか。
進路によっては、これらは採点の客観性から入試、入社試験に多いようだが、文学史同様、試験前の1か月ほどの集中対応で完答はなくとも、可能ではないかと思う。
「国語」学力の低下に関して、何をもってそう言い得るのか、研究者ですら疑問視しているにもかかわらず、一部識者やマスコミは嘆き、危惧し、それに同調する人は多い。その時、懸念されるのは、漢字や語彙等の弱さをもって、学力低下に結び付ける単眼性の怖しさである。
そもそも、学力低下を糾弾する人に理系が多いことに、私たちはどれだけ自覚しているだろうか。
「ゆとり教育」総懺悔的世間にあって、「ゆとり」導入時の意味内容・方法に係る反省がどれほど行われているのだろうか。
国語(科)教育にとって、時間と先述の「精選」につながる内容のゆとりこそ、最も重要なことと思うのだが。
【補遺的備考】
「帰国子女・キコクシジョ」での偏狭、狭小からの解放を
―なぜ今もって「帰国子女教育」との領域、名称が、言われ続けるのか―
「帰国子女教育」が、日本社会の大きな課題として顕在化し、半世紀ほどになる。
そこに20有余年携わった一人で、先に書いたように帰国子女との出会いから自覚、自省を得た一人にもかかわらず、なぜ今もって「帰国子女教育」との領域、名称が、言われ続けるのか、との思いがある。
西欧社会には、「帰国子女」に相当する言葉がないと言う。
これは、何も西欧(また西洋)を善しとする例の発想ではなく、日本的なものを表わしているように思う。
最後の在職高校(③)でのエピソードを紹介する。
インターナショナルスクールの方に在籍していた、父:日本人、母:英国人の男子生徒との、夏休みを前にした時の会話。
(因みに私は、その生徒が高校2・3年生時に履修した「国際バカロレア」の『日本語higher(上級)レベル』を担当し、彼は秀逸な卒業論文(エッセー)を書き、アメリカの大学で映画を専攻後、現在は日本でその才能をいかんなく発揮している。その彼は、幼少時からの過程で、イギリスの現地校で、また日本の現地校(公立中学校)で、いじめを経験している。)
(尚、「国際バカロレア」については、ここ数年、教育関心事として話題になっているようだが、その経験とその後の通信教育での経験から、その話題の取り上げ方に疑問もあり、別の機会に私見をまとめたいとは思っている。)
「休み中は、日本にいるの?」と、ごく自然に、当たり前に、私が聞いた時の彼の反応。
「その自然さが、ここなんだよねえ。」
帰国子女と言っても、その海外在留中の学校背景は様々で、大まかに言えば以下の3形態であろう。
(尚、「子女」の用語については、辞書的には問題ないのだが、文字上で疑問視されていて、「児童・生徒」と言い換えることが多いが、ここでは「子女」そのままにする。)
・日本人学校出身者(基本的には小中学校)
・現地校出身者(ほとんどは英語圏であるが、英語以外の場合も)
・英語が共通言語であるインターナショナルスクール出身者
帰国子女との出会いは、日本(人)の世界での在りようや学校教育、また広く文化について、彼ら/彼女ら、保護者、教員から、具体的な発見と再考の、そして自省の、例えば「井の中の」自身など、機会を与えられた。
ただ、ここでは「学校社会は社会全体の鏡・縮図である」との視点で一つの事例を挙げるに留める。
された「隠れ帰国子女」なる表現について。
学校段階であれ、就職段階であれ、自身が帰国子女であることを隠す、というのである。
なぜか。
一つに、帰国子女=英語ペラペラが、社会に公然とまかり通っているからである。
先の背景からも、英語堪能者は確かにいる。しかし、在留期間や在籍校環境(外国人への英語教育対応等)等々から、その中身は聞く・話すだけの段階から4技能熟達まで千差万別で、そこに本人の性向、保護者の指向(家庭教育方針)が加わることで、「公然」への意思表示も様々である。
ましてや日本人学校出身者の、それも日ごろほとんど英語を使う機会のない地域での、心は推して知るべし、である。
その社会風潮から生まれた「キコクシジョ」との揶揄的表現。
帰国子女との出会い初期のころ出会った、4技能全体で非常に高いレベルながら英語カタカナ語を極力使わず日本語で通していた他校男子生徒のことが思い出される。
英語(米語?)=国際語は現状で、世界を視野に生き、仕事を目指すならば必修であろう。しかし、日本と言う環境にあって、「必要は発明の母」も含めて、その英語絶対指向に疑問を抱くのは私だけなのだろうか。
先ず母語をとは別に、私の狭量、偏狭はたまた劣等性ひがみなのだろうか。
そして、英語以外での、例えば受験での、対応の狭さの現実。
在籍校種での区別なく、海外在留での異文化体験生活の、子どもたちの心への影響について、国内の私たちは、もっと想像力を広げなくてはならないと思う。
国内での転校でさえ大きな影響を与えるのだから。
(もっとも、最近は、都会の子どもの地方転校の場合、その転校生が在の生徒を排除、いじめるとのことであるが。)
往々にして“陽の当たる”(正逆含め)子どもたちに目が行ってしまう私の自戒と、広く大人、とりわけ教師への自問自答の期待を込めて、そう思う。
[これに関して?の恩師の言葉を一つ]
私が教師になるきっかけを作ってくださった、高校時代の恩師の、就職に際しての忠告の一つ。
「授業を始めたら、先ず廊下側(陽の当たらない側)に眼を向けよ。人は動物。自ずと窓側に眼は移動する。逆はない。」
私たち日本人は、日に日に心の余裕・ゆとりを失くしつつあるように思えてならない。
その根本を凝視し、変革せずして、自殺者がここ2年3万人を切ったとは言え、今も先進国で上位にある事実、また大人子ども双方の世界で頻出するいじめは、無くならないだろう。
文明・先進・一等とは何だろう?
原 民喜の「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためだけに生きよ」が、命を絶った、絶たされた、とりわけ近現代の若い人たちの面影と共に過って行く。
2014年3月19日
[Ⅱ]―①
中高校(中等)教育全体から
井嶋 悠
[Ⅰ]の最後にも記したが、私の言葉の具体的背景として重要なので転載する。
専任教員として体験した勤務校は以下である。
その折々で、それぞれの働きの場に導いてくださった方々に感謝し、記す。
① 明治時代にアメリカ人女性宣教師によって創設された女子校。(18年間勤務)
② 国際派を標榜しつつ、塾との提携での生徒獲得、有名大学進学校を目指す女子校。(2年間勤務)
③ インターナショナルスクールと日本私学「一条校」との協働・共学校。(10年間勤務)
[備考]紆余曲折の人生、以下の機関に非常勤講師で勤務した。
・上記以外の私立校 3校(内1校は、不登校生徒を主対象とした高校)
・塾
・インドシナ難民定住促進センター(姫路)《日本語教師》
学校社会はすべての人が、各人各様体験する世界で、だからこそ国社会・地域社会を映し出す鏡であり、同時に国・地域社会を創り出す基盤で、それを今思い返すと、畏れ戦き怖じ気だって来る。
この感覚は在職中にもあったとは思うが、退職後の今、継続性を持った強さで迫って来て、日本を考えるテーマがいかに身近にあったかを、距離を置くことでより冷静に思い知らされている。
その幾つかを[私学中学校高等学校国語科教員]に拠って挙げ、今後の奮闘努力?のための整理に資したいと思う。
○私学(私立)
キリスト教系、仏教系が多い。
私が知ったキリスト教系、仏教系には、有名大学指向の進学校が多い。
進学校との名称については、学校としては標榜していないが、結果としてそうなっている学校もありまた、「有名大学」の基準も多様で、使い方には注意がいる。
ただ、今はとにかく有名大学進学者が多いとの意味で使う。
尚、私が勤務した3校の内、2校は、少なくとも「進学校」を校是、絶対目標としていない。
学校によっては、世に公表する進学実績は、在籍生徒の半数くらいについてで、それ以外は「その他」的扱いのこともある。言ってみれば、3~4割は忘れられ存在と うことなのかもしれない。
私の経験で一例を挙げれば、同窓生動向の周知度からも、そのことは否定できないと思う。それは、教師間だけでなく、生徒間でさえあり、自省を込めて、生徒はも ちろん教師の、時にほとんど無意識に動いている、心の問題は看過できないのではないか。
このことにつながることとして、キリスト教の「愛神愛隣」、仏教の「中庸・敬和」との脈絡、整合性、更には学校教育での競争(原理)について、今もって不明な私がいる。幼児的にして、文系(国語)だからなおのこと?
進学校云々とは別に、キリスト教主義校で、カソリック系とプロテスタント系では、在籍中の受洗者は圧倒的に前者が多く、具体と抽象への若者の心理と直観性に、なるほどと得心する私がいる。
【進学校での、私を引き付けた或る実例】
・大学付設校の場合での、二つの事例
一つは、多くがそのまま進学する学校での、良きにつけ悪しきにつけ「大らかな」、例えば歴史学習での“うねり”学習や古典を含めた国語味読学習。
「悪しきにつけ」と言ったのは、歴史での“うねり”学習を実践していた入学生に、付設大学教員が「知識不足」を憤った事例からで、私自身は憤慨教師に疑問が
ある。これについては、国語科教育でも言えることだが、後述の「国語科教育」のところで少し触れる。
一つは、多くが付設大学以上の有名大学進学の学校での、予備校優先・至上の学習。従って在籍校教科学習では、“内職”或いは“休息”時間。
・大学付設でない場合での、二つの事例
一つは、新興高校での、超高学歴者優先採用と、その教師の葛藤と退職の少なからずの事例
一つは、(これを知ったのは30年ほど前)校是とする大学合格者数の多いクラス担任に体育教師が多いという事例
・「AO入試」「推薦入試」制度での、知識優先「小論文」の驚愕事例
これについては、以前にも不可解な学校教育現在の関連で書いたが、生徒自身の言葉とは真逆と言ってもいい言葉での受験戦線勝利?!を象徴するかのような
一つの現状についてである。
私も指導したが、例えばカリスマ的人気の博覧強記的教師(文系)の指導は、私からすれば、
教育愛に借りた「強制」であり、教師の或いは知識の「雛形づくり」では、と思っている。
これと同型は予備校指導実例でも出会ったことがある。
その教師たちからすれば、私は教師にして教師にあらず、ノンプロと言うことであって、合格実績に裏付けされた親子からの絶大な信頼を自負に、限られた時間 で結果を出すにやむを得ないのではないか、との反論がある。
一部大学教員の間では、「小論文」制度の見直しがあるようだが、はたして大学の大衆化による学力低下を悲憤慷慨する多くの大学教師間で合意は成立するので あろうか。
蛇足の閑話ながら、教師間での私への非難事例をもう一つ。
運動系のクラブ指導に邁進していた時代での、複数の教師からの批評表現の一つ「ヘボ教師」。その教師たちに共通していたのは、専門研究に自負を持って、得々と授業を展開していた人々である。他にも確かな勉強、研鑽を積んでいる人があったにもかかわらず。もっとも、私を揶揄した教師の多くは、大学教員指向が強かったが。
因みに、娘は公立指向で、進学より先ず高校生活か進学指向(その大きな背景には、地域の保護者からの要求がある)のいずれかを選択する立場にあった時、前者の高校を選択した。
しかし……。
保護者がそれぞれの価値基準でしばしば言う、教科・クラス担任係る「運・不運」?
○中学校・高等学校年齢、及び女子校、男子校、共学校
私が勤務したのは中高一貫校で、中学校2年生後半から中学校3年生の多くは「谷間」を迎える。理由として、思春期成長過程の心身バランスと中高一貫での慣れ、惰性化による心の中だるみを言う人は多い。
生徒教師相互の是非双方での「甘え」ということなのだろうか。
そういった中、或る男子校では、中高校は同一敷地内にあるが(因みに、その学園は同敷地内に大学もある)、中学校は制服で校則も厳しく、高校では自己責任の 自由に徹し、教員も中高校別である。
女子校・女子教育:男子校・男子校教育について、また共学校での女子・男子教育、と現代社会との関わりで興味あるテーマが幾つもあるが、 女性(原理)・男性(原理)について未だ既成概念から十分に解放されていない私ながらも、母性原理と父性原理と学校については、日本社会の未来を構想し、実 践して行く上で、重要なテーマではないか、と思う。
ところで、少子化と学校経営もあって、10数年前後前から女子校、男子校が、共学校にする傾向があるが、教員側で見た場合、前者は後者に比して学習、生活の導き(教育)に難しさが多いと言う。なるほどと思う自分がいるが、そのことが前述の私の「未成熟・限界」なのかもしれない。
2014年3月16日
井上 邦久
(2)「みんなそのようにしているから」ではなかった日本人
上海人なら泣く子も黙る虹口区「提籃橋監獄」の近くの舟山路・長陽路の地域には、1940年前後にナチスの迫害やソ連の圧迫から逃れてきたユダヤ人が居住していました。約2万五千人が生活していたと言われています。
その中には、リトアニアのカウナス領事館の杉原千畝領事代理が署名したビザを頼りにシベリア・日本経由で上海に逃れてきたユダヤ人も含まれます(6000人?説。残存するリストでは2139人?)
昨年末に地下鉄13号線が部分延長されて「提籃橋」駅がオープンしましたので監獄行きも便利になりました。駅を出ると道を挟んで、ユダヤ教会跡の「上海ユダヤ難民記念館」があります。周囲には欧州風の建築物も残り、日本軍が上海を占領してからは、隔離区として管理された記念碑も公園内にあります。これまでに記念館には折にふれて足を運んでいます。
記念館には杉原千畝の写真が掲げられて、多くのユダヤ人を救った恩人として顕彰されています。2年前、駐在仲間から「記念館のボランティアの学生が、政府の方針に背いた杉原は帰国後処刑された、と説明をしていたので修正しておいた」という連絡がありました。
これは見過ごせないとすぐに記念館へ行き、「蝶理創立60周年記念誌」を渡して、そこに、1969年12月25日付けで蝶理株式会社モスクワ事務所長に任命する命課通報が掲載されているのを見てもらいました。それを証拠に、杉原千畝が戦後は商社マンとして活躍したことを知ってもらいました。
翌日、記念館の責任者からも御礼とともに事実を再教育するとの電話を貰いました。
そして今年の春節、改めて記念館を訪ねました。
東京では大雪、上海でも小雪が舞う寒い日で、見学者も少ない日でした。
責任者の高智慧さんとお話できました。
「昨今の日本との間にはストレスが大きいので、杉原さんの写真も外されていないか心配して、念の為に確認に来ました」と率直に伝えたところ、「とんでもない、我々は人の生命を至上としている。勇気を持って多くの生命を守った杉原さんを尊敬しています。日本との関係がどうであろうと関係なく守ります」と明解で応えてくれました。
そして「私の母方の祖母も日本軍による被害を受けたと教えられている。どこまで事実かは不明だが、その事と杉原さん達の業績を尊重する仕事とは別の問題です」との言葉を添えられました。
ナチス・ソ連・日本の外務省の圧力の狭間で「みんながそのようにしている」ことと別の行動を選んだ杉原さんと、反日キャンペーンが増す現在の中国で杉原さんを守る高さんの姿勢には相通じるものを感じました。
インテリジェンスの先達として、会社の先輩として、杉原千畝そして記念館を微力ながら守り立てて行きたいと思います。
日本から伝わる図書館や書店での書籍への「傷害事件」の報せ。
秦始皇帝の「焚書坑儒」から『はだしのゲン』までの事象に繋がると思います。書籍を傷つける人間には、その行為が人を傷つけている事とともに、自らをも傷つけている事に気づいて貰いたいです。
(3)中国での人間関係
○ロマンティックになり過ぎないこと、冷笑的否定的にならないことが大切。
○認めるか認めないかに関係なく、歴史的な背景はできるだけ多く知っておく。
○厳しい言葉に過剰反応しない。毅然とした態度や「衆口難調」(全員の口に美味しい料理は作れない)でいなす。
厳しく言ってみて相手の反応を見るのが中国の伝統技?
○正論を言っても大丈夫な場合とそうでない場合
→オーナーの権限が鋭角的に強く、ボスの容認範囲では、「何でも言える」
→一党独裁は民間企業も含めて基本的な構造
○「AWAY」であることを常に意識する(「日本だったら○○なのに」はナンセンス)
→「中国に住んでいるからこそ○○ができる」
→日本を知ることができるという肯定的な発想。
(4)結び
自作の「通訳」についてのコメントです。
「相手の国の言葉で、自分の国の歴史を語る努力がグローバルの出発点」
以上、お喋りを続けてきましたが、
お喋りの「喋」と蝶理の「蝶」は旁(ツクリ)が同じです。草カンムリを付ければ「葉」、魚ヘンは「鰈」、牙ヘンなら「牒」、木ヘンなら「ゆずりは」ということで共通するのは「薄い」という概念です。
当方の話は、子供が玩具箱を引っくり返した様な「薄い」お喋りでしたが、皆様にとって、何らかの考えるヒントになれたら幸いです。
ご清聴、ありがとうございました。
(参考書物)
リービ英雄 『星条旗が聞こえない部屋』『我的日本語
カズオ・イシグロ 『わたしたちが孤児だった頃』
楊 逸 『時が滲む朝』
(以上三名は米英中のバイリンガル作家、中国現代史を背景にした作品)
道上尚史 『外交官が見た「中国人の対日観」』→前駐中国公使・現駐韓国公使
村上春樹 『中国行きのスロウボート』『ねじまき鳥クロニクル』
→春樹ワールドの背後にある中国近代史。神戸とノモンハン事件。
中島 一 『中国人とはいかに思考し、どう動く人たちか』
→過激な装丁に惑わされずに読めば、帯文とは異なる冷静さと緻密さ。
榎本泰子『上海』 → 専門は音楽史研究。上海オタクの臭みもない。
堀田善衛『上海にて』 → 1945年から1946年の青春の上海
[ブログ編集者より]
一昨日、井上さんが言われる「自傷」者が、逮捕されました。
言動に問題があり、刑事罰を問えるかどうか調査中とのことですが、そのことで問題をうやむやにするなどということにならない、ならないとは思いますが、それぞ
れが自身の問題として考えるよう思います。[井嶋]
2014年3月12日
井上 邦久
3月5日、雑誌社主催の交流会でお喋りをさせていただく機会がありました。
当初、ある意味で当たり障りのないお喋り、『日本だったら○○なのに・・・とボヤかない為のヒント』という題目にしていました。ところが、その後に日本から伝わる報道(「アンネの日記」切り裂き事件)を知って、眼目を急遽切り替えました。
その為、構成や繋がりがバラバラとなり、日本中国双方の方にどこまで思いが伝わったか不明です。
ご紹介頂いた、井上邦久です。
井岡山の「井」、上海の「上」、いつも「帮」と間違えられる「邦」、同じJIUという発音の「酒」ではない「久」です。「帮酒」(お酒の手助け)ではない「邦久」ですよ、と5年前の着任時の会で社員に伝えたのですが、その数日後の書類に活字で「帮酒」と書いてきた中国人スタッフがいました。
これまで引越しを25回経験しています。25回目が25年ぶりの北京です。
2009年から税金を払っている上海と北京を軸に、香港台湾も含めた中国圏と日本を蝶々のように飛来飛去しています。
朝の連続ドラマ「ごちそうさん」の西門悠太郎のように、理念を硬い表現で伝えがちで、大人になりきれない人間ではあります。中国に縁ができてから約40年の足取りとその間に経験し、感じたことをお喋りします。
皆さんにとって、それぞれ何らかのヒントになるところがありましたら幸いです。
資料(略)に個人的な経歴を記載しました。日中貿易の簡略な歴史に重なる部分があるかも知れません。
・ほぼ5年単位で別の業務に異動(追放?)させられています。後付で格好をつければ、「五カ年計画」にほぼ従っています。3年では短い、8~10年では長すぎて
ダレル。目標と仕組みを創って、集中力を絶やさないためには5年が適切ではないでしょうか。
・その点、商社は色々な部署があり、敗者復活戦も可能。努力をすれば、一定の領域において社内では「鶏口」に成る可能性もあります。
牛の尻尾になるのは不本意。まして尾を振って媚を売るのは苦手な会社生活でした。
→ もともとは、「寧為鶏口無為牛後」(寧ろ鶏口と為るも牛後と為る無かれ)からの表現です。
出典は「史記-蘇秦伝」です。
昔々、中国の戦国時代、秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙の7つの強国が覇を争っていた時代、最強国の秦王に他の六国と同盟を結ぶ連衡策を説いて採用されなかった 蘇秦が、燕へ行き、燕王らに今度は連衡策とは反対の合従策(六国が連合して秦と対決する策)を説いたときの言葉です。ですから「鶏口牛後」が本家です。
ここで鶏口は、小国の君主(燕王など)、牛後は大国(秦)の属国となることのたとえです
→「竜頭蛇尾」⇔「鶏頭牛尾」 寧為驢頭不為馬尾;寧為狗頭不為獅尾。
といった言葉は古くからの誤用ですが、今では定着しています。
(1) 0001年の連鎖
前置きの続きに現代史の流れを大雑把に掴み出す自己流の解釈をご紹介します。
末尾が「1」の年をこの150年に絞って、恣意的に纏めたのが(2)のリスト(略)です。
1861年 米国 南北戦争勃発
→ 一般的にはCIVIL WARと称されていますが、今でも南部の人たちはNORTHERN AGGRESION(侵略)と言い換えを要求するようです。
北軍による12年間の占領を意識した、FAMILY STORYとしての記憶や怨念が今も南部には残っている。北部人はそれを余り意識していない?
(米国文化に詳しい方によれば、これは南部の古い支配者層の意識ではないか?一般庶民、特にアフリカ系市民には皆無の意識ではないか?)
→ 日本では幕末の京都、新撰組が壬生の屯所を開設する2年前。
蝶理の創業(文久元年、西陣)生糸問屋の屋号を「蝶」屋、理助・理一郎と代々「理」の名前を継ぐ。1975年に創業家は退陣。
近藤勇や沖田総司と蝶理の創業者が路ですれ違った可能性は高いのでは?
1871年 ドイツ・イタリア統一完成
1881年 魯迅生誕(9.25.紹興)
1891年 バスケットボール開始(12.21.米国)
1901年 第1回 ノーベル賞
→ 高行健(フランス在住)が中国人として第1号。1990年文学賞受賞
→ 2012年 莫言氏の文学賞は中国人として三人目
1911年 辛亥革命(10.10. 武昌)
→ 孫文を起点とすれば、国民党と共産党の接点が求められる馬英九の国民党の三通政策により、直行便が増加。上海虹橋空港⇔台北松山空港が僅か1時間半。重慶、
武漢、青島などと直結し電子工業などの航空輸送も。
1921年 中国共産党第1回大会(7月 上海)
→ 大会会場(個人の住宅)は上海屈指の繁華街の新天地に記念館として保存。
13人のメンバーに日本留学組が多数。毛沢東も湖南省代表として末席に。
毛氏があたかも会議をリードするかの様な絵画やモニュメントの奇妙さ
1931年 9.18事変(満州事変・柳条湖事件)
1941年 太平洋戦争(12.8.)
1951年 サンフランシスコ講話会議
→ MADE IN OCCUPIED JAPANがMADE IN JAPANへ
1961年 日中友好商社認定(日綿、蝶理など)
1971年 中国国連復帰
1981年 蝶理上海、北京オフィス開設。 魯迅生誕100周年
1991年 ソ連崩壊
2001年 9.11
2011年 3.11
2021年 ? → 呉軍華『静かなる革命』の方向? 胡春華広東省書記がトップに?
・150年のスパンで、現代史を振り返ることで、現在に繋がる縦糸が見えてくるかも?
・○○○1年には、なぜか歴史や精神史の結節点となった事件が発生している印象があります。
・その中で本日は1911年の辛亥革命に注目します。
中国では、北方の満州族の清朝から漢族が政権を取り戻し、しかも王朝制から民国制度へ転換した辛亥革命を重視しています。
漢族政権;漢・宋・明・中華民国ほか; 異民族政権;金、元、清ほか
混血政権 ;五代十国、唐 ・・・ここらの歴史の詳細は『WHENEVER』
大城先生の領域です。中山公園の「過門香」で連続歴史講義をされている伝説のカリスマ予備校教師であった氏のユニークなお話に譲ります。
そこで、今夜はタイタニック号事件について触れます。
辛亥革命の翌年の1912年4月中旬のことです。映画でも描かれたとおり、救命ボートへ子供・女性を優先させています。数年前、最後の乗客が逝去されました。
その女性は幼児であったのでボートに移され助かったのだと思います。
その折の船長の各国旅客団への説得文句が、半ば冗句としてよく知られています。
英国メンバーには「紳士たれ」、
米国チームには「ヒーローになりたければ」
ドイツ乗客団には「これはルールだ」、そして
日本人ご一行には「みんなそのようにしているから」・・・
それでは中国班には何と言ったか? ちょっとお考えください。
→実際には、清朝瓦解、辛亥革命の混乱期で、豪華客船で外遊していた中国人は居なかったのでは?欧米で資金調達をしていた孫文も1911年に帰国しています。
→ただ、皆さんの心の中に浮かんだ回答は、もしかするとご自分の中国人に対するイメージを映し出しているかも知れません。
[(2)に続く]
2014年3月11日
井嶋 悠
―「学校」教育を論ずることについて、私の生と教員体験から、今思うこと―
[Ⅰ]
今回は、前回(2月27日)、「ソチオリンピックとテレビと言葉の美しさ・酷さ(むごさ)と」と題して寄稿した「言葉・ことば・・・・・」の[その2]である。
要は、あれこれ言う自分の言葉はどうなのか、行き着くところは「無」「以心伝心」世界との直観を伴っての自戒と自問自答である。
私は、昨年68歳を迎えた33年間の私立中高校平教員生活で積み立てた年金生活者である。
人品・品性貴からず、功績小さき身にもかかわらずなぜか、60年間の大都会生活から北関東の自然溢れ心浄められる地に住む幸いを得て、「外なる自然」「内なる自然」など開眼すること多く、今、妻と愛犬の二人と一匹で暮らしている。
もっとも、一昨年春、長女が7年間の心身の闘いに力尽き23歳で死を迎えるまでは、三人であった。
この一事は、私に決定的に親として、教師として、またすべての前提たる人として、自省に向かわせ、沸々と自身を整理する私として今ある。
と同時に、「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためだけに生きよ」(原 民喜)の思いも、原ほどの迫力には程遠いが、ある。
「(死者)のために」が時に陥る偽善に注意して。
私は昭和20年(1945年)8月23日長崎市郊外生まれとは言え、戦争を知らない一人であり、原の意思表示の背景とは違うが、しかし、親として、教師として、さまざまな人たち、出来事の出会いから、原が言う「嘆き」に強く共振同意する私がいる。
(なお、彼女の死への要因の一つであった、中学時代の彼女への教師のいじめ、また高校時代の教師への彼女の憤り、不信からの、私が同業であったがゆえにより強く迫る、自省、自責については、昨年2013年9月30日、10月2日に分けて、『先生方、自身の驕(おご)りに気づいてください!―教師の、生徒へのいじめ(パワハラ)』と題し、このブログに寄稿している。)
一人一人の人生は、一つの芸術作品であると言われ、そこにはそれぞれの真善美・哲学がある。
長短関係なく、人生を経た言葉は、海の深さ、天の高さをもって聞き手の心に沁み入る。発せられる言葉には、抽象や知識の言葉にない、生の実感、具体があるからであろう。以心伝心の一つの形である。
因みに、その多少深浅は、話し手の人品にも左右されるが、先ずは聞き手の問題ではないか、と思うし、とりわけ教員の場合、児童生徒学生との関係において日々刻々がその場で、「教師の饒舌」の痛切な反省から、「聞き上手は話し上手」があっての「話し上手は聞き上手」であると思う。
そして、私が学校教育に係る言葉を発するときの土壌は、33年間の[私学中学校高等学校国語科教員]生活である。
ただ、教師生活晩年から退職後の今に到る過程で刻印された自身を含めての教師不信については、恐らく現世に別れを告げるまでには払拭されないとは思っている、そんなことも背負っての私ではあるが。
専任教員として体験した勤務校は以下である。
その折々で、それぞれの働きの場に導いてくださった方々に感謝し、記す。
① 明治時代にアメリカ人女性宣教師によって創設された女子校。(18年間勤務)
② 国際派を標榜しつつ、塾との提携での生徒獲得、有名大学進学校を目指す女子校。(2年間勤務)
③ インターナショナルスクールと日本私学「一条校」との協働・共学校。(10年間勤務)
[備考]紆余曲折の人生、以下の機関に非常勤講師でも勤務した。
・上記以外の私立校 2校
・塾
・インドシナ難民定住促進センター(姫路)《日本語教師》