2014年3月12日
北京たより(2014年3月) 『自傷』 (1) [○○○1年の連鎖]
井上 邦久
3月5日、雑誌社主催の交流会でお喋りをさせていただく機会がありました。
当初、ある意味で当たり障りのないお喋り、『日本だったら○○なのに・・・とボヤかない為のヒント』という題目にしていました。ところが、その後に日本から伝わる報道(「アンネの日記」切り裂き事件)を知って、眼目を急遽切り替えました。
その為、構成や繋がりがバラバラとなり、日本中国双方の方にどこまで思いが伝わったか不明です。
ご紹介頂いた、井上邦久です。
井岡山の「井」、上海の「上」、いつも「帮」と間違えられる「邦」、同じJIUという発音の「酒」ではない「久」です。「帮酒」(お酒の手助け)ではない「邦久」ですよ、と5年前の着任時の会で社員に伝えたのですが、その数日後の書類に活字で「帮酒」と書いてきた中国人スタッフがいました。
これまで引越しを25回経験しています。25回目が25年ぶりの北京です。
2009年から税金を払っている上海と北京を軸に、香港台湾も含めた中国圏と日本を蝶々のように飛来飛去しています。
朝の連続ドラマ「ごちそうさん」の西門悠太郎のように、理念を硬い表現で伝えがちで、大人になりきれない人間ではあります。中国に縁ができてから約40年の足取りとその間に経験し、感じたことをお喋りします。
皆さんにとって、それぞれ何らかのヒントになるところがありましたら幸いです。
資料(略)に個人的な経歴を記載しました。日中貿易の簡略な歴史に重なる部分があるかも知れません。
・ほぼ5年単位で別の業務に異動(追放?)させられています。後付で格好をつければ、「五カ年計画」にほぼ従っています。3年では短い、8~10年では長すぎて
ダレル。目標と仕組みを創って、集中力を絶やさないためには5年が適切ではないでしょうか。
・その点、商社は色々な部署があり、敗者復活戦も可能。努力をすれば、一定の領域において社内では「鶏口」に成る可能性もあります。
牛の尻尾になるのは不本意。まして尾を振って媚を売るのは苦手な会社生活でした。
→ もともとは、「寧為鶏口無為牛後」(寧ろ鶏口と為るも牛後と為る無かれ)からの表現です。
出典は「史記-蘇秦伝」です。
昔々、中国の戦国時代、秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙の7つの強国が覇を争っていた時代、最強国の秦王に他の六国と同盟を結ぶ連衡策を説いて採用されなかった 蘇秦が、燕へ行き、燕王らに今度は連衡策とは反対の合従策(六国が連合して秦と対決する策)を説いたときの言葉です。ですから「鶏口牛後」が本家です。
ここで鶏口は、小国の君主(燕王など)、牛後は大国(秦)の属国となることのたとえです
→「竜頭蛇尾」⇔「鶏頭牛尾」 寧為驢頭不為馬尾;寧為狗頭不為獅尾。
といった言葉は古くからの誤用ですが、今では定着しています。
(1) 0001年の連鎖
前置きの続きに現代史の流れを大雑把に掴み出す自己流の解釈をご紹介します。
末尾が「1」の年をこの150年に絞って、恣意的に纏めたのが(2)のリスト(略)です。
1861年 米国 南北戦争勃発
→ 一般的にはCIVIL WARと称されていますが、今でも南部の人たちはNORTHERN AGGRESION(侵略)と言い換えを要求するようです。
北軍による12年間の占領を意識した、FAMILY STORYとしての記憶や怨念が今も南部には残っている。北部人はそれを余り意識していない?
(米国文化に詳しい方によれば、これは南部の古い支配者層の意識ではないか?一般庶民、特にアフリカ系市民には皆無の意識ではないか?)
→ 日本では幕末の京都、新撰組が壬生の屯所を開設する2年前。
蝶理の創業(文久元年、西陣)生糸問屋の屋号を「蝶」屋、理助・理一郎と代々「理」の名前を継ぐ。1975年に創業家は退陣。
近藤勇や沖田総司と蝶理の創業者が路ですれ違った可能性は高いのでは?
1871年 ドイツ・イタリア統一完成
1881年 魯迅生誕(9.25.紹興)
1891年 バスケットボール開始(12.21.米国)
1901年 第1回 ノーベル賞
→ 高行健(フランス在住)が中国人として第1号。1990年文学賞受賞
→ 2012年 莫言氏の文学賞は中国人として三人目
1911年 辛亥革命(10.10. 武昌)
→ 孫文を起点とすれば、国民党と共産党の接点が求められる馬英九の国民党の三通政策により、直行便が増加。上海虹橋空港⇔台北松山空港が僅か1時間半。重慶、
武漢、青島などと直結し電子工業などの航空輸送も。
1921年 中国共産党第1回大会(7月 上海)
→ 大会会場(個人の住宅)は上海屈指の繁華街の新天地に記念館として保存。
13人のメンバーに日本留学組が多数。毛沢東も湖南省代表として末席に。
毛氏があたかも会議をリードするかの様な絵画やモニュメントの奇妙さ
1931年 9.18事変(満州事変・柳条湖事件)
1941年 太平洋戦争(12.8.)
1951年 サンフランシスコ講話会議
→ MADE IN OCCUPIED JAPANがMADE IN JAPANへ
1961年 日中友好商社認定(日綿、蝶理など)
1971年 中国国連復帰
1981年 蝶理上海、北京オフィス開設。 魯迅生誕100周年
1991年 ソ連崩壊
2001年 9.11
2011年 3.11
2021年 ? → 呉軍華『静かなる革命』の方向? 胡春華広東省書記がトップに?
・150年のスパンで、現代史を振り返ることで、現在に繋がる縦糸が見えてくるかも?
・○○○1年には、なぜか歴史や精神史の結節点となった事件が発生している印象があります。
・その中で本日は1911年の辛亥革命に注目します。
中国では、北方の満州族の清朝から漢族が政権を取り戻し、しかも王朝制から民国制度へ転換した辛亥革命を重視しています。
漢族政権;漢・宋・明・中華民国ほか; 異民族政権;金、元、清ほか
混血政権 ;五代十国、唐 ・・・ここらの歴史の詳細は『WHENEVER』
大城先生の領域です。中山公園の「過門香」で連続歴史講義をされている伝説のカリスマ予備校教師であった氏のユニークなお話に譲ります。
そこで、今夜はタイタニック号事件について触れます。
辛亥革命の翌年の1912年4月中旬のことです。映画でも描かれたとおり、救命ボートへ子供・女性を優先させています。数年前、最後の乗客が逝去されました。
その女性は幼児であったのでボートに移され助かったのだと思います。
その折の船長の各国旅客団への説得文句が、半ば冗句としてよく知られています。
英国メンバーには「紳士たれ」、
米国チームには「ヒーローになりたければ」
ドイツ乗客団には「これはルールだ」、そして
日本人ご一行には「みんなそのようにしているから」・・・
それでは中国班には何と言ったか? ちょっとお考えください。
→実際には、清朝瓦解、辛亥革命の混乱期で、豪華客船で外遊していた中国人は居なかったのでは?欧米で資金調達をしていた孫文も1911年に帰国しています。
→ただ、皆さんの心の中に浮かんだ回答は、もしかするとご自分の中国人に対するイメージを映し出しているかも知れません。
[(2)に続く]
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