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2020年8月31日

多余的話(2020年8月) 『あの本』

井上 邦久

8月7日、立秋。豊川悦司が愛読するという立原正秋の清冷な文章を読むには暑すぎました。
日々、今年一番の気温を更新する中、仮住まいのアパートから元の住所に戻りました。二年前の直下型地震や猛烈台風で傷み、隣近所に多く見られたブルーシートも無くなった時期の工事でした。
部品が届かない、作業員も集まらないという理由には事欠かず、工期は大幅に遅れ、アパート代は着実に嵩みました。
ようやく段ボール函が視界から消え、パソコンも何とか復旧しました。テレビは繋がらず無音の箱ですが、特段の支障はありません。

 大分県中津市からの夜逃げに始まって、山口県徳山市で3回、関西圏で6回の転居のあと就職先の独身寮へ。そこからは転勤・海外駐在の繰り返し、この十年だけでも上海・北京・上海・横浜への移動があり、方違えでボストンに寄り道をして3年前に大阪に戻りました。
上書き編集のできない手書きの住所録時代の知人からは「またか・」と苦情が寄せられていました。
森まゆみさんは労作『子規の音』で、終の棲家となる根岸の里に落ち着くまでの正岡子規が寄宿舎や下宿を転々とした跡を粘り強く追いかけています。

 落ち着かない時間の中で、ボリス・パステルナークの名前を何度か目にしました。
巣篭り生活に合わせた長編スペクタクル大作映画が繰り返し放映されました。『戦争と平和』『アラビアのロレンス』といった定番や、『遥か群衆を離れて』など視聴率を気にしなくてよい時期にしか選ばれない大作に挟まれて、『ドクトル・ジバゴ』も放映されました。
原作者のパステルナークや主人公ジバゴよりもヒロインのラーラの印象が残る映画です。
山口県の高校入学直後に映画館へ通い、大阪に転校してからペーパーバック版の小説を買いました。そして原作者がパステルナークであり、何故かイタリアで初出版されてから世界へ広まりノーベル文学賞に選ばれたことを知りました。
続いて映画化され、劇中に何度も流れる「ラーラのテーマ」のバラライカの調べに惹かれてレコードを買い、小樽でオルゴールを入手しました。この曲が1980年代初めの中国の長距離列車で、一方的に聞かされる車内放送で繰り返し流れていたことを思い出します。
スターリン治下の閉鎖世界を描き、雪解けと言われたフルフショフ時代でも「反革命作品」としてロシア語での出版は許されず、秘密裡に持ち出された原稿がイタリアから世界に流れていった。
作者はノーベル賞授与式に参加することが許されなかった。
「ラーラのテーマ」が西側で制作された反ソ映画の劇中曲であることを当時の中国人車掌も乗客も事情を知る由もなく無頓着でした。
「反革命楽曲」だとは知らずに聴き入る中国人を複雑な気持ちで眺めたことを憶えています。ある意味では牧歌的な時代でした。

 ところが秘密裡にイタリアへ原稿流出、迅速なロシア語や英語での出版という背景には米国CIAなどの秘密諜報機関が絡んでいたとする小説Lara Prescot :The secret we kept;吉澤康子訳『あの本は読まれているか』が4月に発売され、読了後には高校時代から抱いていた心の中の牧歌的な水彩画をかなり鋭いタッチの油絵に塗り替えられた感じがしました。
「あの本」とは言うまでもなく、パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』であります。小説のなかのパステルナークは大詩人のイメージを保ちつつ、政治の世界にかなり無頓着で、生活感にも乏しい等身大の男として描かれ、周囲の女性たちに物心ともども被害を与えています。米国人の著者のLaraは本名で、母親が『ドクトル・ジバゴ』の大ファンであったので命名されたとのこと。

 雑誌『東亜』8月号チャイナ・ラビリンス195回に許章潤氏が逮捕(後に保釈)、清華大学を解雇された理由とされる論評が掲載されています。
その冒頭に、「二月、筆は嘆きを描くのに充分だ、悲しみの叫びで二月を描こう、泥濘が轟き、黒い春が燃え上がるまで」という詩文を揚げて、武漢疫禍についての鋭い論評を綴っています。それは、パステルナークの詩から引用と明記されています。
同じ中国人でも40年前の長距離列車の無頓着な人たちとは異なる、知識人の確信と勇気に満ちた文章でした。

20数回の転居にもめげず持ち続けた「あの本」が今回の家移りの間に逃亡して見つかりません。未だ日本では「あの本」の所持がご法度ではないでしょうが、不思議な気分です。

  敵といふもの今は無し秋の月  (虚子。1945年8月)

2020年8月17日

夏萩[宮城野萩] ―日本の美意識再学習 ①―

井嶋 悠

田舎(と言っても市であり、首都圏の大人たちにとっては憧憬の場所でもあるようだが)に転居して13年が経つ。年々、妻と愛犬以外の会話は限られ一層静かな生活を過ごしている。そんな中でのコロナ禍、自問することがこれまで以上に増えている。加齢の為せることとは言え、あの「自粛」或いは禍の中の騒々しさが加速させているのかもしれない。と言っても多くはその時々の断片に過ぎず、自答など到底及ばない。若い時とは意味の違う貴重な時間を無駄にしている。しかし思いがけない発見もする。

庭の夏萩の花弁に、ただただ単に大愚としか言いようのない政治家の厚顔無恥に辟易し、記録的長期の梅雨下の豪雨被害に自然と人の壮絶な関係に思い及ぼし、それでも日本が母国であることに感謝するという何ともアンビバレントな日々にあって、先日一瞬無我の境に導かれた思いをした。
何年か前、背丈50センチほどの苗を植えた夏萩。宮城野萩。今では枝垂れを上に伸ばせば2メートル余りの広がりに成長し、何本もの細い枝に1センチほどの純白の花弁を背に、数ミリの紅がかった紫の花弁が連なっている。その姿の圧倒的存在感。私と萩が占める1メートル四方の絶対静寂空間。可憐との言葉が私を覆う。

可憐:ひ弱そうな感じがして、無事でいられるよう、暖かい目で見守ってやりたくなる様子。[『新明解国語辞典 第五版』]

高校教師時代に毎年必ずと言っていいほどに講読していた、『枕草子』の「うつくしきもの」の段が甦る。清少納言がここで言う「うつくしきもの」「をかしげなる」「らうたし」「うつくしむ」といった形容語は、私の中で可憐に通ずる。昔、「愛し」を[かなし]と読んだように。

「うつくしきもの 瓜に描きたるちごの顔。雀の子の、ねず鳴きするに、踊り来る。二つ三つばかりなるちごの、急ぎて這ひ来る道に、いと小さき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。頭は尼そぎなるちごの、目に髪のおほへるを、かきはやらで、うち傾きて、ものなど見たるも、うつくし。大きにはあらぬ殿上童の、装束きたてられてありくも、うつくし。をかしげなるちごの、あからさまに抱きてあからさまに抱きて遊ばしうつくしむほどに、かいつきて寝たる、いとらうたし。雛の調度。蓮の浮葉のいと小さきを、池より取り上げたる。葵のいと小さき。なにもなにも、小さきものは、皆うつくし。
(以下、略)」

やはり教師時代の思い出、アメリカの現地校に在籍していた帰国女子生徒が、日本に一時帰国し、アメリカの友人に、小さな文房具のあれこれお土産に持ち帰ったときの驚愕的喜びの話が甦る。

萩の花尾花葛花撫子の女郎花また藤袴朝顔の花

萩は「秋の七草」の一つである。先に記した夏萩とはやや趣・様態の違う山萩と思われるが、やはり赤みがかった紫の小さな花弁が群れて咲く。
その七草を決定したのは、奈良時代前期8世紀前半の『萬葉集』の歌人、山上憶良である。

『萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花(おみなえし)また 藤(ふじ)袴(ばかま)朝顔の花』
     [注:尾花;すすきの穂花  朝顔の花;今言う桔梗]

これらは研究者に言わせるに、当時の民衆及び山上憶良の好みの花々で、貴族階級は梅・橘といった外来の花樹だったそうで、そのことが貴族階級の一人であった憶良らしさを表わしていると説明する。
だからこそ『銀(しろがね)も 金(くがね)も 何せむに 勝れる宝 子に及(し)かめもや』《歌意:銀も金もまた玉とても子に勝るものが他にあろうぞ》が、憶良を代表する一首であることに私たちは得心するのだろう。
そして萩の花が最初に挙げられている。七つの花に共通する淡彩。
ここで「女郎花」の文字に眼を留めたい。女郎=売春婦・遊女との理解。
ところが、古代にあっては、「女郎」は「上臈(じょうろう)(身分の高い人の孫娘、身分の高い婦人)」から転じた言葉で、時に宗教性を有する女性の意であることが、『日本語国語大辞典』から教えられる。
これに関して、近世/近代文学・文化研究者である佐伯 順子氏(1961年~)が、自身博士課程在籍中に著し、多くの人々に賞賛された『遊女の文化史』(1987年刊)で、彼女は次のように書く。

「性」と(とりわけ10代の)コロナ禍の問題を重ねる人もあり、今、改めて人と性を再考する時機ともなり得るのではとの思いもあって、少々長くなるが引用する。

――遊女、彼女たちこそは、今や俗なるものの領域におとしめられてしまったかにみえる「性」を「聖なるもの」として生き、神々と共に遊んだ女たちであった。その舞い、歌う姿の中に、今日、音楽と言われ。あるいは演劇、文学と言われる「文化」の営みの多くが、まだ「文化」とは自覚されぬままに、若々しい姿をあらわしていたのである。しかし、自ら遊ぶ女として、聖なる力を宿していた遊女たちは、やがて遊郭の中に囲い込まれ、さげすみと憧憬というアンビバレントな社会感情を身に受けつつ、ついに遊芸と売淫との分離によって、もっぱら前者を担う「文化」人と、後者に専念する娼婦へと二極分解してゆく……この変貌の過程はそのまま、人々が「神遊び」の背後に認めていた「聖なるもの」を見失い、快楽のみを独立して求めたゆえに、「遊び」の意味内容から「聖」が脱落して、低俗な性と高尚な文化、という価値観として正反対の概念が生ずる様相を呈しているのである。――

一つ家に遊女もねたり萩と月

(注・「一つ家」は、研究者によっては字余りを承知で芭蕉の他の用例から「ひとついえ」と読んでいるようだが、もう一方の読み方「ひとつや」の方が、素人の私ながら落ち着く。)

この句は『奥の細道』に収められ、新潟県と富山県の境にある難所・親不知の宿での作とされている。しかし、随行者の曾良の日記にも、また芭蕉の他の書にもなく、旅を終えての編纂時に、芭蕉が虚構として加えたと言われている。要は創作であり、それがゆえに旅の途次とは違った芭蕉の心が想像される。

この句の背景に係る地の文の一部分を引用する。

――今日は親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなどいふ北国一の難所を越えて疲れ侍れば、枕引き寄せて寝たるに、一間隔てて面(おもて)の方に、若き女の声二人ばかりと聞こゆ。年老いたる男(お)の子の声も交じりて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、此の関まで男(おのこ)の送りて、あすは故郷にかへす文したためて、はかなき言伝(ことづて)などしやるなり。白浪の寄する汀に身をはふらかし《さまよわせ》、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り《夜ごとに違う客と契りを交わす》、日々の業因《前世の所業》いかにつたなしと、物言ふをきくきく寝入りて、(中略)【朝を迎え、その女性から道案内を涙ながらに請われるが、「神明の加護かならずつつがなるべし」断り、旅を続ける。しかし芭蕉の心は「哀(あわ)れさしばらく止まざりけらし。」であった。そして『一つ家に 遊女もねたり 萩と月』と曾良に書きとどめさせる。――

芭蕉は、1644年伊賀の上野に武士の子として生まれ、28歳時に江戸に移り住み、1694年大坂で亡くなっている。そして奥の細道は芭蕉の死後1702年に刊行されている。
一方で、1584年に大坂、1589年に京都、そして1612年に江戸で遊郭が公設されている。

芭蕉にとって、山上憶良の秋の七草の歌も、聖と俗の世界・遊郭も承知のことであり、そこで彼の心を覆うものは「哀れさしばらく止まざり」である。そこには「いき」も「通」もない。
芭蕉が描いた、遊女、萩の花、月光はすべて女性性の心象として浮かび上がって来る。その世界を思い描くとき、私は「が」でも「は」でも「と」でもなく、「も」を持って来た芭蕉の感慨に魅かれる。一夜明ければそれぞれがそれぞれに次の時間を持ち、おそらく再び相まみえることはないであろう。今宵だけの5人の共有の時間。一層募る彼女たちへの哀しみ。生の重みをかみしめる芭蕉。

心的時間がいかに限られているかを実感する中、身辺の小さなものに日本の美しさを見直していけたらと、日本に生を得た一人として思う。

2020年8月9日

多余的話(2020年7月)   『養命酒』

井上 邦久

新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開け 大空あおげ
ラジオの声に 健やかな胸を この香る風に開けよ 
それ 一、二、三

 新しい朝のもと 輝く緑 さわやかに手足伸ばせ 土踏みしめよ
ラジオとともに 健やかな手足 この広い土に伸ばせよ 
それ一、二、三

              作詞:藤浦 洸 作曲:藤山一郎 (さすがに古関裕而の作曲ではありませんでした)

 ほぼ毎朝この曲が流れる時間に少年野球グランドに到着します。

健康的で前向きな姿勢の単語が並ぶので、命令形もあまり気にならないのかなとか、「香る風」「輝く緑」は夏の季語で「さわやか」は秋だったなとか徒然に思いながら、バラ公園を覗いてから気の向くまま、脚の向くままに歩きます。
7月になって、草刈正雄が朝起き抜けに分厚い本を広げて、詩を朗読しているCMを知り、それが「ラジオ体操のうた」の歌詞であることにも気付きました。
同世代であり、同じ豊前の生まれの草刈正雄には共感を持ち続けてきました。

小倉生れで玄海育ちの気性を甘いマスクで包んでいる草刈正雄が資生堂男性化粧品の「MG5」に起用された時期、ちょうど丸坊主から長髪になったばかりで意識過剰の高校生は、バイタリス派にならず「MG5」ブランドの男性化粧品をなけなしの小遣いで買って大切に使いました。
その後、俳優として主役から脇役へ浮き沈みの大きい中でも着実に幅を広げ、「真田丸」では真田昌幸役、「なつぞら」の祖父役では北海道の開拓魂を滲ませ好演していました。
クレージーキャッツOB谷啓から引き継いだEテレの長寿番組「美の壺」でもコミカルに美の水先案内人を務めています。

玄界灘の対岸での朝鮮戦争で米軍兵士だった父親を亡くし,極貧の少年時代を小倉で過ごしたことは薄々知っていました。
彼が生まれ、米国人の父親が戦死した頃の小倉の雰囲気は、親の世代が競って読んでいた松本清張の小説にも描かれていました。今に続く朝鮮戦争の休戦直前に彼の父親は戦死したものと推測されます。亡父の写真も残っていないという草刈正雄の「ファミリーヒストリー」は番組の題材にはなりにくいのではないかと思います。

これも夏の季語の「草刈」正雄が本を読む傍らにさりげなく置かれた古風な瓶、それが「養命酒」でした。大声で連呼するCMに辟易としている人間には一見何の宣伝か分かりにくい、ひたすら静かな朝の清浄感が心地よく思われます。
「養命酒」は丁子、芍薬,人参など漢字で書くのが相応しい漢方生薬を抽出した医薬品であり、冬場に祖母が大切に服していたのを記憶しています。
新しいCMと同時に発表された養命酒製造㈱の第102期有価証券報告書には「ポジティブエイジングケアカンパニーとして、健やかに、美しく、歳を重ねることに貢献する・・・」という事業理念がありました。とても長い片仮名表記の「Positive Aging Care Company」の意気込みに好感が湧きますが、それ以上に「健やかに、美しく、歳を重ねる」と続く素直な日本語がより「養命酒」という四百年以上続く商品を、そして企業を自然に表現しているように思えます。

「ラジオ体操のうた」のメロディと歌声を除き、歌詞だけを抽出して読むと、まさに「養命酒」のために詩人は作ったのではないかと錯覚をしてしまいます。
3月からラジオ体操に集まる人が減り続け、4月には10名前後となりました。その後徐々に増えてきて6月には60名を超える盛況となり、深めのセンターの定位置確保も難しくなっていました。ただ7月半ば以降は増加に歯止めが掛かり反転気味です。

一方、もともと少なかった交通費と交際費の支出がさらに減少しています。
会社勤めの頃、この二つの経費項目は管理可能経費であるとして、厳しく制限が掛かり、各人の努力次第で十分コントロールできるはずだとされていました。まして業績が悪化すれば削減対象として真っ先に叩かれた記憶が残っています。
ところが今年に入って早々に「家に居て黙っているんだ、夏が終わるまで」状態となったので、乗りたい電車にも乗れず、居酒屋でチョイ呑みもご法度となり、思うに任せられないことばかり。言わば管理不能経費項目になっています。
ブレーキとアクセルを一緒に踏み続けて、クラッチ操作が思うに任せられぬ事象は今どき珍しくもありません。

そんな環境下、大学は全面的に遠隔授業となったのでアドリブ講座から一転して最新資料やテキストの作成に励むことになりました。古典講読会の新しい課題を「三国志演義」に決めて頂き、老師の指示で時代背景や人間関係を整理しています。NHKラジオ木曜日のカルチャーラジオ「曹操・関羽没後1800年 三国志の世界」を大いに活用させて貰っています。京都壬生寺脇のNPO作業場は二回目の閉鎖となりました。9月10日に上海・大阪を結んだ公開セミナーを企画中。
上海の畏友であるパートナー弁護士に講演をお願いし、その前座を務める予定です。一方、華人研は開催延期を繰り返しています。

事ほど左様に個人的にも、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるような思いをしています。ただ、この機会に初心に立ち返り、辞書を愚直に引くことが増えています。

「MG5」から「養命酒」まで変化し進化した草刈正雄は少年時代の初心を忘れず、世の中の不易と流行をしっかり見極めているのでしょう。                          (了)