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2020年12月25日

多余的話(2020年12月)    『竹林の隠者』

井上 邦久

 10月から11月は内憂外患の出来事とオンラインセミナー発信が重なり心身ともに落ち着きませんでした。ただ小春日和が続いたのが大きな救いでした。       
その日も暖かな休日、自宅から2分で繋がる亀岡街道を北北東に針路を取り穂積・郡・福井といった集落を抜けていきました。
旧家と新建材住宅が混在する道が西国街道と交差、賤ケ岳七本槍の一人中川清秀の出生地とされる中河原には案内板と里程標がありました。
清秀嫡男の中川秀成が豊後国の岡潘開祖となったご縁で、茨木市と竹田市は姉妹都市関係が続いております。茨木図書館には「豊後国志」等の資料があり九州の香りを感じています。

中河原からほど近い宿久庄の川端康成が少年期に暮らした旧跡へ向かわず、亀岡街道から安威川に沿って安威集落に向かい、富士正晴が亡くなる1987年まで棲んでいた茨木市安威2丁目8番地4号の竹林を目指しました。
70年安保の直後に紙価を高めた『中国の隠者 乱世と知識人』(岩波新書)で富士正晴を知り、企業社会の軋轢の下で小説『帝国軍隊に於ける学習・序』に学びました。
富士正晴が編集責任者だった関西の同人誌「VIKING」からは久坂葉子、島尾敏雄、庄野潤三、高橋和巳、津本陽らを輩出しており、敗戦間もない頃から今も尚この同人誌は健在です。
司馬遼太郎も新聞記者時代からの富士正晴との交友を多くの文章に残しています。その一節を抜粋します。

漱石ふうにいえば「大将」はなにしろ、外出しない。年に一度ぐらいは近所にタバコを買いにゆくにしても、摂津の茨木の安威という村の竹やぶの中に金仏のように自分を置きすてて、どこへもゆかず、ただ、ひとり酒をのむ。その間、頭の中で宇宙を行脚するらしく、順次同行をもとめるために電話をかけつづけてゆくのである。
             「真如の人―富士正晴を悼む―」 (『竹林の隠者 富士正晴のあしあと』第1集    
「富士正晴と関西の作家」司馬遼太郎 52頁) 

大阪の商人は 北東、丑寅(艮) の方角に当たる千里方面を嫌ったとかで、手つかずの竹林が1970年の万博会場として切り開かれたと聞いています。
北摂の丘陵つたいに茨木の竹林に繋がります。国鉄茨木駅からエキスポロードが結ばれ、吹田市との境にモノレール宇野辺駅があり万博公園に繋がりました。その辺りまでが現在の徒歩か自転車による可動域の南西側境界線です。
桔梗が丘と呼ばれていた裏山は、俗称茨木弁天や笹川良一ワールドとなり、ラジオ体操のあとに裏山の反対側の獣道を下ると茨木カンツリー倶楽部にぶつかります。金網の向こう側のコースで白球を追いかけ右往左往したこともありましたが、今は「ボールに注意」という標識のこちら側を歩いています。

こちら側に自分を置き捨てて富士さんのような精神の可動域を持てたなら「自粛」も要らず、「感染」もしないなあ、と思う歳の暮れです。                         (了) 

2020年12月23日

人権意識 ―中学校時代の私と教師時代の私の回顧―

井嶋 悠

第四章 修学旅行

修学旅行は3年次に東京方面に行った。東海道新幹線の開業は1964年なので当時はなく、「きぼう号」という修学旅行用の夜行列車で行った。2人掛けの座席がそれぞれ向かい合いあってあり、中央の通路を挟んで配置され、1か所4人用、今でも一部同型の客車を見かける。日をまたぐころまで大変な賑わいである。先生が注意され続けていたとの記憶はない。“彼ら”も含め和気あいあいの深夜時間であった。
それぞれの理由で、一生で一番の思い出としている生徒もあったはずである。そんな時代であった。
学習塾は、いわんや進学熟は限られ、通塾するのはごく少数派であった。私は小学校時代も含め行ったことがなかった。良い時代であった。学校教育があった時代のようにさえ思う。

引率の先生方の疲労は相当なものだっただろうと、後に教師になった経験から想像できる。それほどに活気溢れる中で、私のクラス担任(3年次で2年次とは違う先生となっていた)の好々爺の先生が、行きの車内で進路に係る個別指導会を始めたのである。
4人座席の一隅に座り、順次生徒を呼び進路を確認し、時に助言を与えるのである。一人10分くらいだっただろうか。開かれた指導。教師と生徒の信頼関係。就職する生徒もごく自然にあった。学年で1割くらい(30人前後)が就職であったろうか。
私の場合、五分ほどで終わった。

「希望はあるのか。」
「いえ、特にありません。」(当然のように公立高校に行くつもりだったからである。
「そうか、×××を受けてみんか」と或る国立大学付属高校を挙げて勧められるのである。
「・・・・・・」(初めて知る学校名であったこともあり、どうとも答えられなかったのである)
「まあ、考えとけや。」

私立学校(とりわけ中高校一貫校)は多くは都市圏にあって、私立優先の保護者(どちらかと言うと母親にその傾向が強くあると経験上思うが)が多い。多さの理由の一つに、私立には学校区制がないこともあるが、主な理由に卒業後の進路が関わって来ることが多い。大半は、特に大都市圏では大学進学が前提となっている。大都市圏での私立校志向はより熾烈で、生徒の学校生活は大半が塾併用で、あたかも二校在籍の感である。
ただ、ここには「大学の大衆化」の負の側面、例えば大学格差の広がりと両極化、これまで以上の差別化、といった問題が顕在化しつつある。

私が知るこんな例がある。
或る小中高一貫校で、小学校の卒業生の多くは他の有名(この表現自体に違和感がある)中高一貫校に進学する。その入学試験は概ね2月から3月[小学校の三学期]にかけて行われる。受験は中学卒業後、高校卒業後の進路にも通じていて、頼りは学習塾[進学塾]であるのが多くの現実である。進路相談を塾でする家庭も多い。早い子どもは小学校低学年から通塾する。小学6年次の三学期は総仕上げ期で、学校を欠席する児童は多い。そのため学校活動が機能せず、私が知るその小学校は三学期を自由登校とした。一時、新聞等でも取り上げられた。そこまでに到っているのである。これは、この学校だけの問題ではない。必要悪である。

やはり私がよく知るこんな例もある。
伝統ある私立中高校及び四年制大学の十年一貫校で、近年、学内大学進学者は学業成績不良者との摩訶不思議なレッテルを校内外で貼られ、多くは他大学(それもかなり難易度が高い大学)に進学する。ここにも小学校時代の通塾が影を落としている。そして高校時代の予備校通学が当たり前となり(早い生徒は中学3年次から)、在籍の高校時間は友人との社交時間と化し、幾つかの授業は予備校予習時間と心得、その日の最後のホームルーム[連絡]時間は当然のように姿はなく、かてて加えてそれを当然の如く広言する生徒まで出て来る。
学校の伝統と理念を大切に考えている、とりわけ卒業生の教師の困惑が続き、同窓会を中心に改革の動きがある旨伝え聞いた。尚、この学校は、最近他大学進学状況を公開しないそうだが、塾[予備校]では十分に把握している。この情報社会のいたちごっこ?

これらを異常と見るのは時代錯誤で、正常の一様相として認知されているのだろうか。もしそうならば、一層のこと社会も文科省も公認したらと思うが、コロナ禍にあって文科省大臣からそんな発言は聞いたことがない。タテマエとホンネ社会日本・・・。
この教育現状への疑問と挑戦から創設された、やはり私立校の例を。

中学校入試で、独自の入試方法(学力優先ではない方法)を実施したところ、直ぐに塾から困惑と疑問の声が起きたとか。何を基準に合否を決めているのか分からない、と嘆くのである。
その学校入学希望の保護者は、学校の目指す理念に共感し自身の子どもに入学を薦めたのだが、入学後、やはり塾が必要との現実の壁に向き合わざるを得なくなった由。入試当日には塾関係者が校門まで在塾生の応援に来ていたとか。その学校の教師たちは、独自の入試方法を矜持していたが、或る時期から目指している教育が立ち行かなくなった。あまりの基礎学力の無さに、思い描く教育段階に到らないというのである。しかし、例えば入試方法の再検討は進んでいないようだ。自負心がそうさせているのだろうか。

超難関と言われる大学で、この二重在籍学生たちが卒業し、社会で活動することに不安と懸念を抱いた教授会のことが、もう10年以上昔に報道されたが、何らかの変革の方向に行ったのだろうか。
私が出会ったその超難関大学出身者で、私が想うその大学らしい出身者はほんの一握りでしかない。
ますます現状は過酷となり、入学での燃え尽き症候群や高額年収家庭ほど合格率が高いと言われている。文部科学省の上級官僚[キャリア組]の多くは塾出身者と言って間違ってはいないかと思うが、その人たちの人生と塾について、そして現在の仕事について聞いてみたいものだ。

私が教師になり10年ほど経った頃から携わった帰国子女教育領域は、帰国子女教育は学力観を改めさせ、学校教育の変革を促す起爆剤となる可能性を秘めている、と期待されていた。今はどうなのだろう。それにしても、海外に日本からの、また現地創設の塾が何と多いことか。
今もってまかり通る帰国子女=英語ペラペラの、非人間性さえ感ずる浅薄さは健在である。更には、保護者にくすぶる屈折と差別意識。アメリカからの高校帰国生徒(女子・現地校通学)自身が、困惑し疑問を持たざるを得なかったこととして語ってくれた、日本人母親同士の次の会話。
「アメリカまで来て、アジア人なんかと付き合いたくはないわねえ」

帰国子女と海外子女は表裏の関係である。その表裏の関係の中で、現地での保護者世界に、子ども世界に、また日本人学校に派遣された教員世界に、差別、理不尽な偏見が厳としてあることは心に留め置いて欲しいと切に思う。海外社会は日本社会を映し出す鏡である。
「隠れ帰国子女」とは帰国子女自身が、日本の世相に巻き込まれ、苦々しく言い出した言葉である。

経済的に富める家庭の子女子弟が、進路進学においてますます有利になる懸念は、コロナ・ウイルス禍終息後、より深刻な問題になるように思えてならない。休校中の3か月は学力観を考える千載一遇の機会になっているとの期待があるにもかかわらず。
[グローバル・スタンダード](もちろん欧米スタンダードの意味ではない)構想の一環として、「九月入学」が話題になってはいるが、どこか一学期の遅れを取り戻すための安易な思い付きに思え、教育研究者の学会が指摘するように唐突感は免れない。或る知事が、私は以前から九月入学派、と言っていたのには唖然とした。今言うべきことではない。自慢?したいのだろう。
私は帰国子女教育の経験から、九月入学はこの国際化、グローバル化の時代、好むと好まざるにかかわらず、現行の一学期[4月から8月]の空白への深謀遠慮と学力観ともつながる具体化内容の検討を経て、切り替え時期に来ているとは思っている。
桜の下での入学式がなくなるのが寂しいなあと、半ば本気で、半ば苦笑して言っていたかつての同僚の貌が浮かぶ。

尚、この数年『国際バカロレア』なる初等中等教育に係るヨーロッパに起源を置く教育制度が一部で話題になっているが、その制度での【日本語】を経験したことのある私としては、二つの点からも議論[話題]して欲しいと願っている。

一つは、日本語教育と国語(科目)教育の相互性の問題
一つは、何年か前実施され現在壊滅?した「横断的総合的学習」との共有性

2020年12月15日

人権意識 ―中学校時代の私と教師時代の私の回顧―

井嶋 悠

第二章 入学式

私は父親の勤務異動もあって、東京の叔父叔母宅に一時期預けられ、そこの小学校を卒業し、関西に戻った。私たち一族の菩提寺は京都市にある。数年ぶりの親子生活が始まった。中学校はN市の公立中学校である。N市は永い歴史を持ち、産業も盛んで、開発も進み、住宅地として当時からも発展途上にあり、現在も日に日に変貌している。

入学式を終え、私は一人ぽつねんとして指定された学級にあったが、ほとんどの生徒は小学校での旧交を温めるに忙しく楽しげであった。公立中学校ゆえの通学校区があり、多くの生徒にとっては小学校の延長上であった。
私が座った席は最前列で、隣にはやはり一人どこか寂しげで、孤独を漂わせた男子が座っていた。思いきって声を掛けた。何を言ったかは覚えていない。子犬同士がじゃれ合うようなそんな少しの時間だった。5分ぐらいであろうか。クラス担任の先生が来られ、一時間ほどの連絡等が終わり解散。私の母親はすでに帰宅していた。
私は帰宅すべくグランドを横切り、通用門の方に向かっていた。一人である。その時である。

4,5人の生徒に取り囲まれ、怒声と殴る蹴るの集中砲火を浴びることとなった。問答無用である。数分ほど続いただろうか、解放され、新しい学生服はグランドの土にまみれ、私は痛いといった感覚より、何があったのか皆目分からずただただ呆然と立ち上がり、一目散に家に向かった。
近くには通り過ぎる生徒もいたが、止める者はいなかった。後で分かるのだが、君子危うきに近寄らず?だったのかもしれない。彼らは意気揚々と引き上げて行った。彼らの満足げな笑い声がそれと分かった。

母はただただ驚き「どうしたの?」と聞くが、当事者の私が分からないのだから、それ以上会話は続かなかった。夕方、父が帰って来て、事情を知り、何かを直覚したようではあったが黙っていた。
父の帰宅と前後して、クラス担任ともう一人の先生二人が来宅された。
おそらくグランドにいた誰か(おそらく保護者であろう)が教師[学校]に伝えたことで訪問することになったのだろう。見舞い方々の様子伺いと事情説明の訪問である。
父は、この時、現実が抱える地域事情をはっきりと理解した。直覚通りであった。校区内にある被差別部落の問題である。
父は関西人としても、この地域事情は或る程度承知はしていたようだが、このような形で、それも入学式の日に知ることになるとは予想外のようであった。
父親は関西に戻るにあたって、幾つかの私立学校の情報を集めていて、(その情報の中に、地域の問題があったかどうかは定かではないが、おそらく父の頭の隅にはあったと考えられる。)入学相談にも出かけたとのことである。その一校(有名な進学校)で父は対応した教員への強い不快感、不信感から一喝して帰ったと言う武勇伝?を後になって母親から聞き、公立中学校が妥当ということになったらしい。

私を襲った彼らの言い分は、先に記した教室での隣席の生徒の尊厳を、彼らの積年の鬱積、怒りに思い及ぶことなく不用意に、しかも暴力的に踏みにじったことへの仲間として制裁である、というのである。隣席の生徒は、彼らの仲間だったのである。クラスが一か所にならないよう分けられていた。
子犬同士のじゃれ合いで、こともあろうに頭をこづいたことが思い出され、それが決定的に尊厳を傷つける暴力行為であったというわけである。当時私もこづかれたのだが、私の側については制裁の趣旨から当然の報いということである。

私にとってすべて初めてのこといささかの恐怖はあったが、両親と教師たちの話し合いで翌日から、不登校にもならず、心新たなに登校することになった。
そこには大人の配慮があったわけであるが、私自身の楽天性?がそうさせたのかもしれない。
学校内外で、彼らと眼が合った時の彼らの眼差しにたじろぐものがあったが、彼らにしてみれば私がごとき者に、いつまでもかかずらっている暇などないということか、視線は次第に彼方に去って行った。しかし全く消え去ったわけではなく、後々間欠泉のごとく襲い掛かって来ることになる。その総仕上げとも言うべきが、卒業式であった。そのことは後の章で記す。

入学式に始まり、卒業式で終わる3年間の日々は、今にして思えば、私に社会的目覚めを持ち始めさせ、濃密な学校時間となった。私の思春期前期の始まりである。


第三章 様々な彼ら彼女ら

東京にあったとき、被差別部落問題[同和問題]を学校で、また大人から知る機会はなかった。それは、私の居住地も関係していたのかもしれないが、何も知らず、知らせず、だった。
東京の近隣地域では、被差別部落に係る問題があったことを、大人になって知った。にもかかわらず何もないようにしていたのは、東京が全国から人が集まってくる雑居性がそうさせたのかもしれないし、首都東京との自負心また虚栄心が隠蔽していたのかもしれない。私にはよくわからない。

N市に移ることでなぜそのような地域が存在するのか、その歴史と現在について徐々に知ることとなる。それも授業や講演会といった形でなく、入学式の一事をはじめ日々の学校生活から知って行った。
私に手ひどい痛みを与えた彼らは4,5人で一つのグループを形成していた。クラスは一クラス一人といった形で分けられていたが(小学校からの情報、引継ぎであろう、と思うのだが、学校としては居住地の住所から自明のこととして承知していたとも考えられる)、日々出席していることは少なかった。彼らの溜まり場は校舎裏の外階段下か、体育館(兼講堂)裏であった。その使用例としてこんなことがあった。それもかなりの頻度で。
裕福な家庭の男の子に眼をつけ、(女の子にはしなかった。彼らのせめてもの礼儀だったのだろう)何かしら口実をつけ金銭を持って来させ、それを受け取る場所として使っていたのである。教師は眼中にない。なぜなら教師は見て見ぬふりであることが多く、彼らはそのことを承知していたからである。
それは他の生徒たちにも十分伝わっていたが、なぜ腫れ物に触れるようになっているのか、そこに到る様々な経緯が小学校時代にあったのだろう。教師に伝える生徒はほとんどいなかった。

私はこの災難からは免れていたが、或る親しくしていた生徒は、時に毎週のように言われるがまま校舎裏に連れて行かれていた。そして1回200円前後渡すのである。当時私の月の小遣いが500円だったから、彼の貢額は高額となり、彼の家庭で気づかないことはあり得ず、学校に何らかの相談、訴えがあって然るべきであったろう。
その連行度数が、或る時期から減ったように思えたが続いていた。その彼が諦めの表情で苦笑しながら私に話したことがあった。それを聞き、私は何もしなかったのも一方の事実である。
私たちへの彼らの「ちょっと貸してくれやっ」の「くれ」は「よこせ」を意味していた。例えば、ボールペンとかシャープペンシル(当時は貴重品であった)を学校に持って来る軽率さはなかった。私は一度軽率にもボールペンを持っていき、彼らに貸してくれを言われ、当然戻ってくることはなかった。これは学外でも同じであった。こんな経験をした。
同じクラスの男子の家の前でキャッチボールをしていた時のことである。キャッチボールの相手の子が、100メートルくらい先に彼らを認めるやいなや私に言った「隠せ!」そして彼の家の中に逃げ込んだ。

彼らの行為は、事情がどうであれ決して許されることではない。しかし、それがまかり通っていた。おそらく学校が、教師が、教育委員会が、問題のあまりの大きさのために機能不全に陥っていたのだろうと、後年、公私立の違いはあるが、学校組織に加わった一人として推察した。
教師になって何年かした或る時、母校のその中学校の管理職教師とたまたま会話することがあったが、「当時は荒れていましたからねえ」とまるで他人事のように言っていた。
あの時おられ、苦悶の中にあった教師がこれを聞き、どう思うだろう。私の余計なお節介だろうか。

彼らの行動は、時に体育館裏での血の騒動となり、他校生徒の“出入り”事件ともなった。
血の騒動とは、彼らのグループに属さない同期生の一人(一説には、彼らと違う地域で同様の歴史を背負った者とも、私たちの間では、ささやかれていたが)と、かのグループリーダーとの、いずれが頭領かを決める昼休みの決闘のことである。私や在校生は電線の雀の群れよろしく外通路の柵に並び、体育館裏で繰り広げられている顛末を想像し、いずれ出て来るであろう二人を待っていた。20分ほどであったか、血だらけになった同期生の肩を抱え、余裕の表情のリーダーが現われた。入学式で私を襲ったグループのリーダーである。

もう一つの、出入りとは、授業中に、自分たちが座る椅子と喧嘩道具持参で、無言で押し入ってくる他校の面々のことで、目的はその教室に居る敵対者を授業終了後、仲間への連絡をさせずに即確保するためである。
授業中の担当教師の、あきらめ、彼らの存在を見ないように授業を続ける表情は、今も私の中でありありと残っている。授業終了後、予定通り、或る一人を、その人物は入学式で私を襲った一人である、が連れられて行った。行き先は体育館裏である。
彼らがされたと同じように、彼らが他校へ出向いていたことは自ずと想像はつくが、事実は知らない。ただ、同じ問題を抱えていた幾つかの中学校名を耳にしていたので、想像はほぼ当たっていると思う。
各学校の教師間でどう対応するかの話し合いは、幾つもあったはずであるが、問題は解決することなく続いていた。

長く信念をもって取り組んで来た人々によって時間は、新しい歴史を創り出す。私の母校も同じである。今では地域の一層の開発も進み、落ち着き、平穏に学校生活送るにふさわしくなっているとのことである。
それでもこの問題が人々の心から完全に消え去ったとは思えない。これも歴史と言う厳粛な事実であろうか。

教師になって10数年後であったが、同じ市内でのこんな場面を聞いたことがある。
在日韓国人二世の中学校社会科教師が、授業で差別について熱弁をふるっていた時、或る生徒が、突然自身の机を叩き「うるさいっ!」と叫んだという。この抗議した生徒は、旧被差別部落が居住地であった。この生徒は、この教師が、自身が経験してきた差別の歴史を熱く語っていたのだろうが、言葉が上滑りしたのか、10代のその生徒は「活きた言葉」として直覚し得なかったのではないかと私は思っている。
この感覚は、教師になって数年後結婚し、二人の子どもを授かり、内一人が、中学時代の或る教師の他の生徒を巻き込んでのネグレクトや、高校時代の授業のいい加減さ、生徒への迎合から、中学校及び高校(いずれも公立校)教師への不信、葛藤が始まり、心身疲弊し、23歳で早逝したことにも通じている。一人の親としてまた、同じ教師として、これらの事実は私に自問自省を強(し)い、大きな影を落としている。

彼らはほんの一部であり、その被差別部落全体を表わしているわけではない。ただ、眼前でのそれらは私にとってあまりに衝撃的であった。
その衝撃の強さを、彼らと同じ地域から通学するそうでない他の生徒に、自主的に思い及ぼす余裕は、私にはなかった。しかし、無謀で挑戦的ともいえる彼らの行為に苦しむ、同じ地域の彼ら彼女らを同じクラスの身近な生徒から知ることになるのである。

10代前半に沸き上がる異性への憧れは美しい。ほのかな抒情を呼び起こす。私もそうだった。女子生徒と会話することはひどく恥ずかしいのだが、思い切ってすることで得意満面にさえなった。会話の内容はたかだかしれたことで、例えば、試験と言うトピックの後など、会話の場が作りやすかった。複数で話し掛けるのである。もちろん一人で敢行する勇気ある、男子生徒羨望の対象となる者もいたが、私には不可能な領域であった。

「試験どうだった?」
何という無邪気さ。これは彼女たちも同じで、やはり複数で応えるのである。「きゃっ、きゃっ、きゃっ・・・」としか表せないような、言葉であって言葉でない言葉が紡がれて還って来るのである。しかし至福のひとときであった。

男子生徒に限らず女子生徒からも、存在を認められる女子生徒がいた。
温和な美しさをたたえ、学業も優秀で物静かに光を放っていた。動じた彼女を見たことなどなかった。ましてや付和雷同など、彼女には無縁の言葉であった。少なくとも私は遠くから眺めるだけであった。彼女には孤高の輝きがあった。年上の生徒に思えた。卒業まで眺めるだけであった。彼女はいつも独りだったような印象が残っている。
彼女は、彼らの行為をどう思っていたのだろうか。嫌悪をもって無視し、じっと耐えていたのだろうか。それとも深い母性の心で見つめ、自身の内に閉じ込めていたのだろうか。彼女が表立って何かすることはなかった。
彼女が、彼らと同じ被差別部落の生徒であることを知ったのは、卒業して間もなくである。
家は貧しく到底進学は叶わず、就職が進路であったが、その地域の出身であることが彼女に就職先を選ぶ機会を与えなかった。なぜなら当時、全国のその地域名鑑なるものが、企業等に常備されていたのだから。そのため親、親戚の関係で就職することがほとんどであると伝え聞いていた。
時とともに彼女は遠い昔の一人となった。私がそのことに持ったことは、感傷的同情だけであった。
「彼女、どうしているんだろう?」
その名鑑、現在も秘かに、或いは公然と、存在するのだろうか。在るようにも聞いているが。

2年次のクラス担任の先生から思わぬ機会を与えられた。その地域から通学する一人の男子生徒に関して世話を頼まれたのである。
その先生が私を呼んでいるとの校内放送がかかった。私としては呼び出されるようなこともしていないつもりであったし、最近例の彼らとのもめごとはないがなあ等々、あれこれ思い巡らせながら、恐る恐る職員室に向かった。
当時は、今のように教師と生徒が友達同士のようなことはあり得ない。現在を善しとするかどうかは措いて。

「○○の世話を頼みたいんだが」○○とは、やはり同じ地域の一人(男子)である。
「はあ・・・・」
「勉強をやり直したいと言っているので、一学期間、教室での授業時、常に彼の横に座り、ノートの取り方など教えてやって欲しい」
「はあ・・・・」

承諾したはいいが、困ったことになったと思った。なぜなら他人に教える、いわんや導くなどという器量もなく、私が適任かどうか、なぜ私を選んだのか、自分のことでさえおぼつかないのに何で、と次々に疑問が沸き起こった。ただクラス生徒から、何でお前が、といった批判めいたことがなかったのは救いではあった。彼を取り巻く事情と彼の人柄を無言の中で了解していたのだろう。

授業での二人の時間が始まった。
予想したとおり私にとってそれは苦行だった。ちょっとした私の一言に、彼はあまりに従順に反応するので、なおさらであった。
今だから言える、他人に教えることほど自身の学びを強くする、などといったことは、私には単に美辞麗句に過ぎず、引き受けた後悔と自省の1学期間が過ぎた。彼はひたむきだった。私が教えられる時間であった。
彼は或る程度自身のリズムをつかんだようだった。相互学習は1学期間で終わった。安堵と同時に、少しの喜びもあった。
「彼、どうしているんだろう?」

二人の意志の強さに、ひたすらに大きさを思う、と同時に歴史の残酷さに思い到る。環境が人をつくるというならば、逆境ゆえの自身への厳しさだったのだろうか。
二人の人間性の高さに心打たれる。二人がその出自から持ち続け、更に深めた優しさは本物である。もし二人が教師になることができたら、仲間からも生徒からも愛され、慕われる素晴らしい教師になったことは間違いない。

私が二人と同じ立場に生まれ、思春期前期の日々を過ごしていたら、果たして二人のようにふるまえただろうか。何とも心もとない。