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2014年5月24日

「私」の、自然な老い大願成就・・・・―最後?の「私」を求めて―  [2]老いの中で甦る二人の面影の  もう一人

井嶋 悠

私を教師人生に導いた高校時代の「恩師」に見る「かなしみ」

その先生を「恩師」と自覚したのは、その先生が、深夜、自宅から遠く離れた路上に倒れ、某宗教団体が運営する救済病院で、独り最期を迎えられたその夜、お母上から連絡を受け、自宅に伺った時かもしれない。

先生は、閑静な住宅地の、旧家の家柄と言われるに相応しい古いお宅の和室で、その和室こそ先生と私の摩訶不思議な“師弟”の対話の場所であったのだが、50年間の人生に別れを告げた寂滅の静けさの中に在った。薄っすらと眼を開けて。まるでまどろんでおられるように。

老母は(お父上は、私が先生と出会った時にはすでに故人であった)、一人息子である先生とのそれまでの、とりわけ後半生での憂悶(先生の、破天荒な教師時代、結婚そして離婚、小学生の娘との惜別、アルコール依存と家庭内騒動……)を凝縮させ濾過させたかのような、静かな涙声で私に言われた。

「見てください。生きているようでしょう。」

死は明らかに憂苦を洗い出し、先生を絶対平安に昇らせていた。

その時、高校時代の出会いに始まる15年ほどの時間が、前後脈絡なく通り過ぎ、「ああ、先生は、やはり恩師なんだ」と。
私は中高校教師になって数年の30代半ば、その教師に、そして59歳までの33年間の、自他誰も考えなかった教師人生に私を導いたのが、その先生だった。

私が、放縦な、しかし人々の不思議な出会いと別れを経た東京生活に終止符を打った顛末は、前回記した。28歳の時、40年前のことである。

天意は何をもって私を教師に向かわせたのか、それが確認できるのは娘との再会の時なのだが、ただただ吃驚(びっくり)仰天、“先生”(中高校国語科教師)就任への号令を下したのがその先生だった。


今、思う、何という皮肉、残酷。

14歳の娘に酷い(むご)仕打ちを、
(その事実を私たちに話したのは、死を迎える1年前であり、それも私の性格[激情、短気]を知っているため、先ず母親に、でその後である)、
娘自身が良かれと選んだ高校で失望と裏切りを、
(その高校は1年の途中で退学、他校に転校。因みに退学届を出す際には、理由は「進路変更のため」と書くように学校から指示を受ける)、
独善とそこからの権威をもって一切の非を娘と家庭の問題に収斂し、娘が7年間の心身の葛藤の末、哀しみと疲れに打ちのめされ23歳の2012年昇天する、そのきっかけを作った教師たちと、私は33年間同業であったのだ。

言うまでもない蛇足ながら、すべの教師がそうであろうはずもない。
しかし、娘を“正義派”よろしく、或いは権威的「自己愛」で、他生徒を、同僚を引き込み、切って捨てたような教師が存在することは、私の直接間接の学校世界での経験上(私の場合私立であるが、公立も大同小異である)から明らかである。

そのことの抉(えぐ)り出しなしに学校教育を、社会と学校を論ずることの虚しさと愚かさを、己が死あってこその自省であることを承知しながらも思う。

これらについては、昨年も記したので繰り返さないことが礼儀かと思うが、これが「ブログ」という、社会に発信すること、そしてひょっとして共感者を見出し得ることへの期待を、意図しているので、敢えて二つ記す。

先ず、天上天下、一切、教師という1人間にそのような分限を与えていないということ。
そして、
広島・長崎で被爆された方々への無礼を承知で、
私の父が生まれ育った郷土・京都から海軍軍医として長崎に赴任し爆者の治療にあたったこと、私が、8月9日の2週間後、1945年(昭和20年)8月23日、その長崎市郊外で出生した、という事実に免じて許容くださることを願い、
広島で被爆し、その6年後1951年、鉄路を枕に孤独と無口の一生を自死で終えた、原 民喜の言葉を、娘への私の思いと重ねて引用する。

「…僕は弱い、僕は弱い、僕は弱いという声がするようだ。今も僕のなかで、その声が……。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためだけに生きよ。僕のなかでまたもう一つの声が聞こえてくる。」(『鎮魂歌』1949年)

その私は、もっと弱く、脆く(もろく)、軽薄短小の駄弁屋で、今年69歳を迎える。
東京から帰宅して2か月ほど経った8月の或る夜の電話。
「何をしてる?」「特に・・・・・。」「何っ!履歴書を用意し、○○(女子)中高校の国語科主任に電話し、行け。」「はい。」

翌日、会ったことのない教科主任に連絡し、その翌日、行ったことのないその学校に行ったのは、夏の陽射しがさんさんと降り注ぐ8月末だった。

裏門(学校関係者間の呼称は北門)から、200メートル程、樹々に包まれきらびやかな木洩れ陽を浴びて小道を上って行くと、突然、自然をひたすらに慈しむ人によって手入れされたことが見て取れる、艶やかな芝生のグランドが飛び込んできた。
そのグランドを取り囲むように、石造りの歴史漂う校舎、くすんだ柿色を基調とした体育館、テニスコート数面、そして10畳ほどの煉瓦敷きを覆う藤棚とその後景の講堂と礼拝堂・・・。地名は「岡田山」。
途方もない世界。

その世界に、9月から翌年の3月までの半年間の非常勤講師として勤務することに。
それが、1年延び、また1年延び、その年、教科内の予期せぬ事態から何と専任教員に。
17年在職し、冒険?と浪漫?から新たな職場へ。その後の波瀾万丈?顛末はここでは割愛する。

先生が、初登壇の私に与えた教師心得が二つあった。
この二つは、教師生活を終えるまで折々に心に蘇り、時に私を叱咤激励することとなる。

一つは、授業の終わりに3分の1がお前を観ていたら大正解と思え。

一つは、授業は廊下側の席を見て始めよ、終わりごろには自然に眼は窓側に行き、全体を万遍なく観たこととなる。逆はない。人は太陽あっての昼行性の動物だ。

前者の、為し得た実感は33年間で数えるほどしかなく、それも大半は教師生活晩年で、同様に後者も時間配分と併せて意図的に且つ自然態でできるようになったのは教師生活最晩年のことである。
先生は、ただただ私たち生徒にとって怖い先生であった。
教科は国語。それもほとんど古典(古文・漢文)。
剣道4段とかで、常に剣を構える、そんな姿勢で、左手に教科書と出席簿、右手には30センチほどの細い竹棒(指示棒兼仕置き棒?!)を持ち、能楽で鍛えた響き渡る声調で講義する。
威厳? そうとも言えるが、とにかく近づきたくない怖さ、と同時に軽々に近づくなっ的風(ふう)を漂わせている。
そこは、今風の教師は生徒への、生徒は教師への、あたかも土足で心に入り込むことを親愛とするかのようなそれではない、それぞれは別世界に在るとの“一線”が生きていた時代の、某国立大学附属高校である。
私は劣等生。
いわんや先生の授業ともなれば、うつむき、黙し、指名されればしどろもどろに応え……。
先生は、1か月に一回くらい、ほとんど唐突に「太宰の墓の前で田中英光はこうやって割腹自殺をしたんじゃ」としぐさする。
当時、太宰治の『晩年』の中の作品『魚服記』に打ちのめされていた私は、その時だけは先生に視線を注いでいたが。

以心伝心!!??
いつしか先生の私への視線が、指名が、増え始め、夏の補習時などでは「井嶋っ!ここに座れ」と最前列の中央に座らされる。

こんなことがあった。
先生が欠勤した時のこと。わら半紙が渡され、要は自由作文の時間。
私以外すべて!?は青春の苦悩を書くのだが、私にそんな高尚さはなく、書いたことは「私はSLの機関士になりたい」。
そして次の時間、先生は私の作文を読み上げることとなる。
私が教師になって思うに、これがその後の、ことある毎に発せられる好意的な「井嶋っ!」のきっかけとなったのではないか、と思えてならない。
更には卒業後に別の先生から聞いた話。
理由がよく分からないのだが(生理的に嫌いということだったのか?)、私に叱声と退室命令を繰り返していた教師(男性)があり、その教師が職員会議で行なった井嶋強制退学提案を阻止したのは、その先生であった、と。
かくして卒業。一浪後、大学へ。
先生は、公立高校に異動。
私個人の葛藤期もあって、2年余りを経て、ご自宅を訪問し、交流が再開される。あの和室で。
先生は万年床に坐し、横に一升瓶を置き、人生の、文学の、といった訪問主目的の話の前に、私は先ずコップ酒をあおらなければならない。断ると会話を始めてもらえないのだ。
話しの合間でのトランプでの「おいちょかぶ」合戦。はたまた競馬論議の拝聴。やがて話題はそちらを駆け巡る。

2か月に1回ほどの例会?
縁あって結婚され、お子さん(女子)が生まれる。しかし安穏な生活も数年。先生の酒量は、ますます増え、痩せ、青ざめた顔、家庭内騒動の日々。老母の苦悶と哀しみ。そして離婚。
先生は、春・夏・冬の長期休みでの入院生活を繰り返し、その都度、買い出しも含め、私が身の回りを世話することになる。時には無理難題を言われ、難渋することも。
病名は聞かなかったが、アルコール依存等からの内臓疾患であろう。
休みが終われば帰宅し、職に復されるのだが、言行が不安定になって行くのが明らかで、とは言え聞く耳持たれず。
或る時、あの和室で、こんなことを言われた。
「高校に、おさげを二つに分け、後ろを輪ゴムで止めている子(女子生徒)がいるんだ。可愛いなあ。」
その時の、先生の、にこやかな自然態での、さびしげな口調、虚ろな眼差しが、今も輪ゴムと言う言葉とともに私の心に突き刺さっていて、生涯忘れ得ない言葉の一つである。
大学3年次での古事記のゼミ発表で、配布用プリントのために先生の勤務校の輪転機を使わせてもらったり、とか私たちの例会は続いた。
やがて、私はほとんど通学実績がないにもかかわらず、大学院進み、何と、その夏には、先生の勤務校の夏休み補習に非常勤講師に呼んでくださった。

しかし、時は、大学闘争(一般用語では紛争)の最中の1969年。
大学は学生たちによって封鎖され、学内外でのデモが繰り返され、教授たちは学生への支持、不支持に分かれ、学内での右翼学生と左翼学生の対立や左翼間の争いは日常化し、時に機動隊が常駐的に居、険悪な、にもかかわらずどこか活気さも感じさせ、“ノンポリ”また無関心派を含め学生たちは、己が人生を思い考え、一日一日を過ごしていた。
共感者との意味でのノンポリの私も。
1年で中退。上京。その東京生活が前回の寄稿である。

そして先生との再会が、先に書いた先生の電話である。

私の身勝手、薄情を苛み(さいなみ)、自身を叱責するが、いつしか時に流されて行く……。
そんな私ながらも、間欠泉のように生の哀しみ、儚さ(はかなさ)、また生死一如が噴き上がる。

東京で出会った彼、恩師、娘、また妹(37歳、癌で死去)、父母、すべては天上に在る。

私は、紆余曲折(と言っても、私が独りよがりで曲折を作っただけで、窮地その時々に、家族をはじめ実に多くの人々が、直接に間接に道の修正と誘導をしてくださっての現在で)を経て、妻の英断で、7年前に、関西から700キロ離れた、この自然の彩りと営みが当たり前にあり、農業と牧畜と温泉が主産業の豊饒な高原地に、家族共々移住して今日在る。
一言追記すると、都市と地方の格差、価値観、意識の差別的画一化に実感させられている。
娘たちの遺骨が納められている井嶋の菩提寺は京都。妻の故郷であり、私の卒業小学校があり、何人かの友人の居る東京まで150キロ。日々の会話は妻と愛犬と自然以外ほとんどない。(長男は私たちの移住とほぼ同時期に社会人となり独立)

豊潤な生・日々への感謝、心身一体で自覚する孤独の喜悦と憂愁そして自覚、昇華。

先生の分、娘の分、妹の分も併せて、もう少し生きたいと新たな勝手を重ねて思う。
天意はどうなのだろう?

2011の、日本が自然災害国であることを再認識させた東日本大震災も、日本と文明を激しく再考させた福島原発事故も、2012の娘の死も、その間のことである。
日本の古典から「かなし」は「愛し」であることを学んだ。
私は、東西を超えて、三つの「かなし(み)《哀・悲・愛》」こそが、生の憂楽の真髄(エッセンス)ではないか、と2,3年前から強く思うようになっている。

そんな私は、日本の風土と歴史から、その文化・文明また美の根っ子に在る感性は、この三つの心なのではないか現代日本からそれらが確実に消え去りつつあるのではないか、と思うに到っている。

何となれば、その眼差しで現代日本を、例えば著名な有識者(知識人)の「反文明的な発言が知的であるような風潮」を切って捨てた言葉とは逆の価値観、で観てみると、私の中で現代日本が整理され、更には次代日本の在りようが構想されて来るのだが。

 

 

2014年5月14日

韓国(ソウル)中高校韓国人日本語教師へのアンケート結果・第1次報告  [その2] 日本への関心対象

井嶋 悠

 

2、日本への関心対象 [回答は、1人3項目以内]

 

[項目]

□ 思想  □ 宗教  □ 歴史  □ 自然  □ 政治  □ 経済  □ 教育

□ 医学  □ 工業  □ 農業  □ 漁業  □ 商業(ビジネス)  □ 技術

□ 音楽  □ 文学  □ 演劇(含む、古典芸能)  □ 映画(含む、アニメ)

□ 美術・デザイン  □ スポーツ  □ 言葉(日本語)  □ 茶道  □ 華道  □ 食べ物 □ ファッション  □ アニメ・漫画  □ その他

[回答数]

  1. 言葉(日本語)15
  2. 映画(含む、アニメ)13 〈別項の「アニメ・漫画」との合計〉
  3. 食べ物 8
  4. 音楽 6
  5. 歴史 5
  6. 教育 / 美術・デザイン 各4
  7. 経済 3
  8. 思想 / 自然 / 政治 / 技術/ 文学/ スポーツ  各1
  9. [その他]
    ・日本人 2
    ・社会と文化 1

 

 ・選ばれた項目とそれぞれの内容(理由)から、具体的記載等抄出

 

音楽

◆人を励ます歌の多さ(例:「世界に一つだけの花」「未来へ」など)

◆かわいくて面白い歌(例:「団子3兄弟」「トトロ」「崖の上のポニョ」など)

アニメ

◆独特の素材と音楽

◆多様なストーリー

美術・デザイン

◆シンプルで無駄のないデザイン

食べ物

◆おいしい

教育

◆日本の国語教育と社会教育

◆日本の日本語教育と英語教育、英語以外の外国語教育

思想

◆日韓交流に影響を及ぼす日本人の考え方

歴史

◆3 5年間、祖先を支配した日本への関心、また独島と歴史

◆過去の非をはっきりと認めることでの真の大国日本

政治

◆政治家の歴史否定に見る国粋主義的発言(例:独島、従軍慰安婦、歴史教科書問題など)

経済

◆戦後日本の経済復興と発展

社会と文化

◆日本人の生活方式の理解と韓国社会との比較

 

 

私 感 [上記項目の、「歴史」以下は、上記[日本語教師への動機]の「私感」と重なることが多いので、以下では触れない。]

音楽

「音楽は、古来神に最も近い芸術」と言われるように、私たちの心に平安と力を与える。

ソウル市郊外にある「独立記念館」で聞き、後に韓国人の仲間からいただいた、韓国の英雄たちを讃える荘厳で叙情性豊かなクラシック調の歌の数々が、忘れ
られない。

アニメ

海外での影響力は以前ほどではないそうだが、世界に通ずる作品として、「鉄腕アトム」「火の鳥」等々膨大な作品を描いた手塚治虫や、「どらえもん」「ドラゴ
ンボール」「セーラームーン」等々、限られた作品しか知らない私でもあり、ここでは、私の中で共感することが多い、現代日本を代表する(昨年、引退を宣言し
たが)人として、宮崎(みやざき)駿(はやお)(1941年生まれ)について、次の書からアンケートの趣旨、背景にも通ずる氏の言葉を幾つかだけ引用するに留め
る。
尚、これらの言葉は、三者の共有の言葉でもある。

  『時代の風音(かぜおと)』(1997年刊) [この書は、氏と作家の司馬遼太郎〈1996年死去〉及び堀田(ほった)善(よし)衛(え)〈1998年死去〉による対話集
  で、
 「20世紀とは」「国家はどこへ行く」「イスラムの姿」「アニメーションの世界」「宗教の幹」「日本人のありよう」「食べ物の文化」「地球人への処
方箋」の八章を立て、和気あいあい鼎談(ていだん)を展開している。]

心情的左翼だった自分が、経済繁栄と社会主義国の没落で自動的に転向し、続出する理想のない現実主義者の仲間にだけはなりたくありませんでした。」

日本は四等国でじつにおろかな国だったという話ばっかり聞きました。……ほんとうにダメな国に生まれたと感じ
ていたので村の風景を見ますと、農家のかやぶきの下は、……ありとあらゆる非人間的な行為が行われる暗闇の世界だというふうに思いました。
(略)
『アルプスの少女ハイジ』というテレビシリーズを作るために、スイスに行って帰ってきましたら、日本の景色のほうが自分が好きだったことに気づいた
 んですね。ずいぶんまわり道をせざるを得ませんでした。」

成金になるとしばらくの間、熱が冷めるまではしょうがないでしょうね。なんでも買いあさった挙げ句、もうどうでもいいやと思うようになるまでは。
イギリス人だってここへくるまでものすごく傲(ごう)岸(がん)な時代があったでしょう。」

「日本の経済活動の方向は、東アジア全体の現在を考えて取り組まないと、始まったばかりの流民の時代に、取り返しのつかないことになりそうでね。」

森と闇が強い時代には、光は光明そのものだったのでしょうね。でも、人間のほうが強くなって光ばかりになると、闇もたいせつなんだと気がつくわけ
です。私は闇のほうにちょっと味方をしたくなっているのですが。」

《参考》

・当時、アニメーション制作の7割、現場の感覚では9割が、韓国や中国制作、と氏は指摘している。

・刊行時前後の氏の作品

1988年 「となりのトトロ」    1989年 「魔女の宅急便」

1997年 「もののけ姫」      2001年 「千と千尋の神隠し」

 

以上の宮崎氏の言葉から、優れた創造(創作)者は、時代の予見者、先見者であることが、改めてよく分かるのではないだろうか。

美術・デザイン

ソウルの高校の韓国人日本語教師(女性)から、「今、日本では、柳(やなぎ)宗悦(むねよし)はどのように評価されていますか」と、質問されたことがある。

食べ物

私のひがみを承知してのこととして、とりわけ都市圏文化では「グルメ」と「セレブ」が、一対のような使われ方のように思えるが、そのような高級のものだけで
なく、市井の食べ物屋や一般家庭の味を知って、自身の「おいしさ」感について、「食べ物は人間生活で最も保守的」との言葉と併せて、してもらえれば、と私の
韓国食体験からも思う。

また日本の「B級グルメ」のあまりにも短期間での画一化傾向についてもどう思うのか。

教育

日韓の、国語教育・社会教育・外国語教育について、中高校の現場教員が意見交換することで、両国の学校教育の目標と現在、そして国家の関わり方が、浮かび
上がって来るように思える。
その負の一面としてある、自殺者数に関して、両国がいわゆる先進国中上位10位以内に入っていること、またいじめ問題について、問題点、改善策等で共有できる
のではないかとも思ったりする。

思想

日本と言うよりは、東アジアの思想になるかとは思うが、主に中国で使われた「家を出れば儒教、帰れば道教」との言葉が、私は非常に気に入っている。
それも一つの「ウチとソト」とも言えるのではないか。
日本で、七五三は神社、結婚式はキリスト教、葬式は仏教などと皮肉っぽく言われるが、仏教の中庸と無宗教という無尽性は、日本人が本来持っているはず?の、
人為の壁を超えた自然融合という理想の極致(エクスタシー)ともつながっているように思う。

 

日韓・アジア教育文化センターへの要望等

   以下の希望と励みとなる言葉の実現は、これまで日韓(また日韓中台)交流・会議に尽力して来たセンター関係者の脳裏には、資金調達の有無次第であるとの思い
が、直ぐに浮かぶのだが、同時に至難にも近い課題として紆余曲折、ここ数年を送っている。

○日韓関係が悪化している現在こそセンターの働きの大切さがあるのではないか。

○発展的韓日関係を望む日本語教師として、政治的な問題で葛藤が高まる悲しみの克服のために、センターがこれまで実施して来た交流と会議の再開への期待。

2014年5月6日

デアイ人縁

 河野 祐子

 デアイ

いつも△ばかり見て、感じて、継続しているけど、

その周りにはいつもデアイ、縁。

深く感じるトキ。

 

[注:河野さんの再紹介]〈井嶋〉
彼女は、香港生まれ、東京・神戸・シンガポール育ち、現若きOLで、お父さんのタイ勤務(現在は日本に帰国)から、タイの虜になった人で、そのタイついて
は、昨年(2013年10月14日)、「自然」の項に投稿してくれています。

2014年5月1日

韓国(ソウル)中高校韓国人日本語教師へのアンケート結果・第1次報告 [その1]

井嶋 悠

まえがき

今年2月、韓国の年度末、3月新年度の前の多忙な時期に、私たち『日韓・アジア教育文化センター』の共同創設者であるソウル市内の高校日本語教師に、以下の趣旨で先生方へのアンケートを依頼した。

 

【調査依頼文より抄出】

日本は大きな転換期にあるように思っています。それは、とりわけ2011年3月11日の大震災と福島原発事故以降、非常に切実な問題としてあります。ただ、時の流れは、震災も原発事故も、私たちにどこか「過去」のこととして見るような、そんな心を芽生えさせていることも一方の事実としてあり、そして現内閣は再稼働を明記しました。

《私の現代日本に対する思い、考えは、本センターホームページの『ブログ』、今月4日に、

『快い生のために「仁」をもう一度考えたい―韓国・検定日本語教科書映像版制作に携わって日本を考える―』と題して公開しています。》

私は、本センターの一員として、またセンター創設者の一人として、更には日本語を母語とする国語教師(中高校)の経験からも、[日本語教育]を通して、日本を考えることの意義を思って来ました。

その時、日本語学習者が世界一の友邦の隣国・韓国の、日本語の先生方の思いを聴くことは、日本人が日本を考える有益な参考となり、それが日韓友愛につながるのではないかと考えています。

それが、この調査の趣旨です。

これは、本センターによると言うよりは、井嶋個人の思いからと言ってよいものであるにもかかわらず、以下の3人の方々の理解と協力を得て実施することができた。

ここに深い感謝をもって記す。(敬称略)

 朴(パク) 且煥(チャファン)(高校日本語教師・元ソウル日本語教育研究会長)

 李(イ) 瑛鍰(ヨンワン)(高校日本語教師・現ソウル日本語教育研究会長) 

 朴(パク) 允(ユン)原(ウヲン)(高校日本語教師)

国際交流・国際理解(「国際」の意義そのものを含め)とは、また日本語教育・国語教育とは、といった定義、共有すべき基本事項、更には「日本語の国際化」については、例えば『国際理解教育事典』(1993年・創友社)や『日本語百科大事典』(1998年・大修館書店)、『国語教育研究大辞典』(1988年・明治図書)等で整理、確認できるので、ここで改めて繰り返さない。

ただ、今、私が自身の心に銘記したいことは、自照自省からの、しかし未だ自身為し得ていない「汝、自身を知れ」或いは「他者は自身を映し出す鏡」である。
これは、1972年から2004年59歳までの間、中高校元国語(科)教師だった私が、時に外国人留学生や帰国生徒に、そして1992年にソウルで韓国人日本語教師に、1998年には中国、台湾の日本語教師に出会ったことからの、更には68年間の私事禍福の積み重ねからの実感で、「理解」と言うよりは「直覚」に近いものである。

今回、幸いなことにも韓国人日本語教師28人を通して、一日本人として日本を再確認する機会を得た。
これは、若干の私感、自問を付したその報告である。

回答くださった28人の先生方、ありがとうございました。

表題を「第1次」としたのは、今回の結果から本センターの新たな取り組みの契機となることへの期待と同時に、私自身一日本人として、できるだけ近い未来に考えを深めたいとの気持ちからである。

 

調 査 回 答 結果

 

調査項目は、以下の三つである。

◇日本語教師を目指した理由

    ◇日本への関心事とその理由・内容

   ◇日韓・アジア教育文化センター」への要望

 

報告は、回答結果とその後の私感で構成しています。

           文章回答については、回答者の用語を大切に要約整理しています。

 

 回答者数(下記項目によって無記入者もあり数の不一致あり)

性別   □ 男(10人)  □ 女(18人)

年齢   □ 20代  □ 30代(13人)  □ 40代(6人)  □ 50代(8人)  □ 60代(1人)  □ 70代

教師歴  □ 5年以内5人)  □ 5年~10年(7人)  □ 10年~20年(6人)  □ 20年~30年(6人)  □ 30年以上(1人)

勤務校  □ 中学校(7人)  □ 高等学校(20人)  □ その他(1人)

 

 質問項目

日本語教師を目指した理由

 

・漢字への興味(30代・女)

・生徒との共感と喜び(20代・女)

・海外生活での有用(30代・女)

・日本語のおもしろさ(30代・女)

・教師への夢(30代・女)

・日本語が好き(40代・女)(30代・女)(30代・女)

・日本語への関心[文字、発音のかわいさ:文法の簡単さ]/ J-ポップ、アイドルに見る韓国にない新しい世界への興味(40代・女)

・教えることが好き(40代・女)

 

・日本文化への関心 / 日本への正しい理解(30代・男)

・日本の植民地支配に対する韓国人の感情的傾向を克服し、円満な関係を築くための日本理解とそのための子どもへの教育(50代・男)

・先進国としての日本への学習。/ 歴史的にも政治的にも関わり深い隣国への理解と教育(50代・男)

・隣国としての韓日友好の発展モデルの形成(50代・男)

・隣国の言葉を通しての文化理解と国際交流(50代・男)

・高校時代の学習(50代・男)

・1970年代開発途上国韓国にあって、先進国日本の文化、経済、科学、技術などを子どもたちに学習させるために。
/ 在日韓国人への韓国語、文化の教育(60代・男)

 

 

私 感

【女性・男性】

たまたまなのか、女性と男性の項を一瞥して、その漢字使用の量と用語から、女性と男性の感性の違いについて思いが行く。
それは、私の中に在る、現代の都市化、情報化時代ゆえになおさら思う、韓国の大家族社会を生きる女性(女性として、妻として、母として、嫁として)の存在感儒教社会を色濃く残す社会での男性の存在、更には韓国文化恨(はん)」の“結ぶ”と“解く”の抒情とも重なる。
現代日本(それも世代別に、都市と地方に分けて)女性の意見が聞きたい。

【漢字・日本語表記】

漢字については、かつて外国人高校留学生の日本語指導で出会った、漢字を見る彼女たち(当時、勤務校が女子校)の眼差しが思い出される。それは、筆順の煩雑さから離れ、描かれた、描いた作品を鑑賞するかのような眼差しである。
そして、日本語母語者は、その漢字と仮名と、時にアルファベットを、無意識下で直感的に視覚の美さえ意識し、統合して書く。
これは、「文字のかわいさ」を言っている人の心に通ずるかもしれない。

尚、表記のことに導かれて付け加える。
和語・漢語・外来語の使用について、長年視覚、聴覚両面から是非が言われ続け、今日一層強くなっているが、私自身、和語へのこだわりをもっと持つべきではないか、と思う。それが、外来語多用の疑義、批判への自身の回答にもなると思える。

・【「日本語のおもしろさ」】とオノマトペと日韓

例えば、日本語のオノマトペ(擬声語・擬態語)の豊かさから、自然と人間と言葉に思い巡らすことで、日本人、日本文化と現代を考える縁(よすが)となる、とかつての日本語研鑽からも思う。
韓国語もオノマトペが豊かと聞く。言葉と人と自然の日韓親和比較はどうだろう?そこから、先進国、文明国と人間についても考えが広がるように思えたりする。
日本では“近代主義者”は、オノマトペを軽んじると言われているが、詩人草野心平の用法などに触れると想像力が心地よく刺激される、

・【日韓近現代史】

日韓間の近現代史での諸問題は、日本では私も含め多くの日本人に困惑と苦しみ与えている。
そして1993年以来の交流・会議での主題決定に際して、日本側委員での共通した思いは、歴史について、古代史及び江戸時代の朝鮮通信使以外には踏み込まない、である。
なぜか。

例えば、従軍慰安婦問題。(「従軍」「慰安婦」との用語自体への問題指摘については今措く。)
そこには「公娼制」と「強制・暴力」の二つの問題があるが、ここでは後者を意識して記す。
1965の「日韓基本条約」、1993の「河野談話」、1995の「アジア助成基金」設立と2007年の事業終了による解散、
そして現首相第1次内閣時代の、その2007の「閣議決定」での強制性の否定、それらから繰り広げられる全国紙「産経新聞」や同じ視点の識者たちの「河野談話」の否定、それと併行しての自虐史観糾弾からの憂国
か、と思えば、先日のオバマ大統領アジア歴訪での韓国での発言を受けての第2次内閣首相の追従した、しかし2007年を意識してのことかあいまいな表現、と同時に首相周辺から発せられる首相の本音との違い。

私たちは何を拠りどころにすれば良いのか。

(因みに、現首相はオバマ大統領をファーストネームの“バラク”と呼び、トップ外交とかで、原発売り込みも含め、諸外国に一回数千万の国税を使って行くその軽佻浮薄、無恥、国内問題への非情、自己過信の薄っぺらな口達者の、彼の如き、また同系の人々の言葉は、ほとんど信用できない。そして、その首相はこのゴールデンウイーク中にはヨーロッパ歴訪中で、併せて他の多くの閣僚も大義を立てて国税外遊中である。
私の周囲で、そんな日本に先の人たちとは全く違った視点で憂国を言う人は多い。)

これらを「政治言語」と言う人さえあるが、その言葉観とはどういったものなのだろう。
歴史が必ず証明する、とも言われるが、歴史自体が人為の集積とすれば、はたしてそう言えるのだろうか。

そもそも専門家とは一体どういう存在なのか、1960年代から70年代にかけて、学生たちによって提起された「研究と教育」のことを思い起こし、思う。
マスメディアには、俗にいう「御用学者」の登場率が圧倒的である。

世界共同体構想にあって、富国強兵型政治の限界が顕在化する現代、それを厳しく指摘する専門家がマスメディアに登場することはほとんどない。政経関係の研究所の著名な代表者が、「反文明的な発言が知的であるような風潮」を切って捨てたテレビ場面に接したが、非常に違和感を覚えた。

また、これは同じく著名な韓国文化韓国語研究者から直接聞いた話だが、某テレビ局から、「竹島(独島)」問題について自由に語ってほしいとの要請で、収録時、持論を30分余り語ったところ、放映されたのは1分ほどであったとのこと。編集者は、テレビ局のディレクターであり、プロデューサーであり、その後ろにいる人たちである。

これは、原発問題でも同じであり、今なお続く「水俣病」問題でもそうである。

それらの現状にあって、私たちはどう自身の意見を持てばよいのか。

一人一人の学習、経験からの信念の形成、としか言いようがないのだろうが、先の全国紙間にあってもそこに在るのは対立と並行である。
この時、学校教育の重要性が指摘されるが、学校、厳密に言えば教師集団社会(更に言えば人の域を超えた権威性さえ持つ教師が多い集団社会)としての学校が、どのように機能しているか、どれほど検証されているだろうか、と私的経験から痛切に思う。

2005年か06年、韓国・慶州を訪ねた際、公道に、「朝鮮通信使」回顧の大きな横断幕が日本語で書かれているのを見て、韓国人の進取性に感銘したことが、懐かしく思い出される。
そして、私たち日本人は、日本の朝鮮統治で中学校長として派遣された父の関係で、韓国中部の都市・大邱(てぐ)で生まれ、戦後、韓国の母(オモニ)たちの慈愛を背に、福岡の筑豊に住み、日本を厳しく、優しく見つめている、森崎和江さん(1927年生まれ)という素晴らしい女性を持っている。

また、2006年に訪問した「慶州ナザレ園」の日本人老女たちを、その彼女たちに付き添い、養護する韓国人たちを知っている。

・【独島(竹島)問題余話】

私たちの仲間の韓国人が、家族共々日本に留学中でのこと。
お子さんが在学した公立小学校(外国人子女受け入れ校)の公開発表授業で、お子さんが、「独島(竹島)」問題を採り上げ、日韓の私たちの手で近い将来に平和的解決を目指したい旨、訴える姿に接した氏の、こみ上げるものを抑えることができなかったとの言葉が、今も私の心に強く刻み込まれている。
そのお子さんは、今、日本の大学で東アジア史を研鑽している。

・【在日韓国人】

二人の在日韓国人の大学教員(男性)がいる。二人とも在日韓国人関係の著書もあり、日本でよく知られた人である。
しかし二人の立脚点(視点)は違う。
一人は、2世3世の時代になり、かつての時代の抑圧、差別、貧困だけではない、との視点。
一人は、現状は同じ理解ながら、問題の本質は変わっていない、との視点。

最近、「ヘイトクライム」と言う言葉を見聞きすることが増えていて、インターネット情報には、その実際の動画も多い。例えば、東京(新大久保)や大阪での韓国人・朝鮮人への攻撃である。
対欧米人(主にその白人)に対してはなく、対韓国・朝鮮また中国に対して噴出することに観る、抜き難い人間の差別意識。日本に限らず古今東西常に在る、自身のアイデンティティ確保と安堵のための他者攻撃心と行動と正当化。扇動するメディア。そのメディアを操る人々。

それも教育の成果なのか。

旧知の在日韓国人から聞いた話で、その数の多少は分からないが、在日韓国人が祖国韓国に行った際、祖国でも侮蔑、差別を受けるという、日本と祖国での二重の差別
尚、この延長上に入ることとして、日本人と白人との「国際結婚」での子息子女への、日本ともう一方の、両国での差別についても、在職校の経験から幾つか接したが、ここではその指摘だけに留める。

ところで、日本での「左翼」と「右翼」の用語については、今、改めて確認すべきではないか、と思う。それぞれあまりにも一面的固定的に思えてならない。

こんな経験もした。
勤務高校で、ソウルの仲間と高校希望者対象の「韓国研修」を企画した。
希望者に[北朝鮮]籍の生徒がいた。韓国領事館の理解が得られその生徒の参加が実現した。
保護者の事前の心配、不安は大きく(その内容を聞き、現実の怖しさを思い知らされたのだが)、ソウルでは他の生徒何人かと(日本国籍日本人)と協力してその生徒と常に行動を共にした。そして何事もなく帰国した。
行きたくとも行けないソウル生まれの保護者の喜び、感謝は尽くせないほどのものであった。