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2016年2月29日

シンガポール2016 ―香港生まれ、シンガポールからの元帰国生、新たな旅立ちー

河野 祐子

旧正月の始まり、そして再びスコールの始まり。

過去の記憶と私を照らし合わせて…

Start again

2016年2月22日

中国たより(2016年2月)   『陸羯南』

井上 邦久

申年の賀状に三つのことを書きました。北京別宅から家財を鞄一つだけにして引き払ったこと。大相撲九州場所を見物したあとの佐賀山中で見つけた、郭沫若記念碑の碑文訳者として恩師桑山龍平先生の名が刻まれていたこと。そして、横浜関内の日本新聞博物館で〈孤高の新聞「日本」-羯南、子規らの格闘〉の企画展に啓発されたこと。最後の一つがきっかけとなり、秋から横浜に拠点を決め、北京や上海の荷物を少しずつ運んでいます。

北京には県人会や同窓会から始まり、趣味の同好会や学習会など様々な会合があります。以前に上海で暮らした経験のある人の会「老上海会」もその一つで、その会で初めて高木宏治さんと知り合いました。名刺交換をした翌日にオフィスを訪ねて来られ、かつて蝶理に在籍し、滑落事故で江南佳人の昆劇のプリマドンナを未亡人にしてしまった山男のKと上海時代に昵懇であった話をされました。Kは奇しくも同じ部の後輩であり、同じ社宅で過ごしていたこともあって、彼を偲ぶ酒盃を高木さんと重ねることになりました。

昨年の夏の初めに高木さんから実に控えめに企画展の紹介がありました。その後新聞に比較的大きな企画展の広告が載り、8月に特別講演があることが分かりました。そしてその講師として高木さんの名前が書かれていました。大企業の中国代表としてではなく、陸羯南研究会主筆・筑波大学客員講師としての高木さんに気付かされました。

7月の帰国の際に、横浜関内の重厚な洋館にある日本新聞博物館へ赴きました。充実した企画展示を見て、気合を感じる解説書を求め、更には「司馬遼太郎・青木彰の陸羯南研究」と題する高木さんの文章を拝読して、孤高の新聞「日本」とその主筆であった陸羯南の事跡を「発掘」し、理念を研究して紹介しようとする人々の熱と力に圧倒されました。

新聞「日本」――。陸羯南(くが かつなん)が明治22年2月11日、大日本帝国憲法発令の日に誕生させたこの新聞は、度重なる発行停止処分にも屈せず、皮相な欧化主義を批判するなど、この国の進むべき方向を示し続けました。また、羯南の厚情を支えに、正岡子規は阿鼻叫喚の病苦の中で俳句や短歌などの文学革新を成し遂げました。

――――日本経済新聞(夕刊)2015年6月20日 広告

政府や政党など特定の勢力の宣伝機関や、営利目的の新聞ではなく、自らの理念にのみ立脚した言論報道機関たる「独立新聞」を目指しました。(中略)羯南、子規亡き後、俊英たちは内外の主要新聞に散り、こんにちの新聞の基礎づくりに貢献しました。

――――展示会解説書 巻頭言「開催にあたって」

独立記者 陸 羯南。陸羯南は現在の青森県弘前市出身。格調高い政論で明治期の言論界をリードしたが、評論家でも、政治学者でもなく、どこまでも「新聞記者」であった。
「国民主義」を掲げ、日本独自の国民精神の発揚と国民団結を訴えるなど、「日本の近代化の方向に対する本質的に正しい見透し」(丸山眞男「陸羯南‐人と思想」)を示し続けた。いま一つは、羯南自身が「新聞記者の『職分』を作りだそうとした」(有山輝雄「陸羯南」)。

――――松田修一『道理と真情の新聞人 陸羯南』(東奥日報社)

青木先生が亡くなったあとの形見分けの席で不肖の弟子の私たちは、司馬さん、青木先生からの宿題〈陸羯南と新聞「日本」の研究〉を前にして、正直、途方にくれた。

――――高木宏治〈宿題「陸羯南研究」に答えていく〉   『遼』 司馬遼太郎記念館会誌 2015年秋季号

産経新聞の京都・大阪にいた司馬遼太郎と、同じ産経新聞東京の青木彰部長は、『竜馬がゆく』の執筆準備の過程で意気投合し、その後『坂の上の雲』『菜の花の沖』をコンビで完成させています。青木彰氏が筑波大学に転じて情報学の指導をなさったことは、『街道をゆく42 三浦半島記』に記されています。陸羯南については、同じく『街道をゆく 41 北のまほろば』でも触れています。
(「週刊朝日」は子供の頃からずっと家にありました。中国への出張の折には常に朝日文庫版の『街道をゆく』を携帯していました。しかし、陸羯南については昨年までは白髪ぼかしのような記憶しか残っていませんでした)

また正岡子規の死後に、妹の律の養子となった忠三郎さんを軸に正岡一族や関係者を訪ねて綴った『ひとびとの跫音』(司馬遼太郎・中公文庫)で陸羯南ゆかりのエピソードを知ることができます。忠三郎さんは、正岡子規の叔父の加藤拓川の三男。加藤拓川は陸羯南とフランス語を学んだ親友であり、欧州への渡航を前にして、伊予松山から上京したばかりの正岡子規の後見を陸羯南に託しました。

司馬遼太郎は週刊朝日に『街道をゆく43 濃尾参州記』の連載途中に亡くなっています。陸羯南について関心を深め、津軽などの関係先に赴いて準備をしていたのでしょうが、小説化する前に時間切れとなりました。青木教授も研究論文の目次まで準備しながら継続できず、高木さんたち弟子に宿題を残すことになりました。

2月7日の弘前は朝から乾いた雪が降りました。お城近くのスターバックスコーヒー店で雪見珈琲をしながら時を待ちました。旧軍の師団長官舎で敗戦後は進駐軍に徴用された歴史的建造物も、その日は受験生支援の場所になっていました。
11時に弘前市立博物館での企画展〈陸羯南とその時代〉の会場で高木さんと合流し、地元の陸羯南会の館田会長や三上学芸員の懇切なご案内や説明のお蔭で2時間があっという間でした。高木さんたちが「発掘」した資料もありましたが、横浜での展示会とは異なり陸羯南の出身地ならではの独自性を感じました。三上学芸員には様々な質問に応えてもらい、素人意見も聴いてもらったにもかかわらず、御礼の準備がなく、読みかけの伊集院静『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』(講談社文庫)を受け取ってもらいました。この本は親しみの湧く文体で子規とその仲間の青春を描いているような気がします。陸羯南も子規の指導者そして庇護者として描かれています。

館田会長のご厚意で、年に一度の陸羯南会の総会に飛び入り参加させていただきました。2時からの総会の前に、青森市の東奥日報本社からマイカーを飛ばして駆け付けた松田修一さんと会えました。横浜での気合いの籠った展示会解説書を編集された方で、展示会終了後に、解説書を10冊だけ特別手配して貰った経緯もありました。解説書は上海のメディア関係者を囲んでの会合(蛻変の会)で記者の皆さんへの参考資料として差し上げています。

松田さんとは当日朝刊の一面コラムのことや俳句季語のことなど、高木さんを挟んでざっくばらんな話が弾みました。新聞社ではインフルエンザ罹患者が多く、てんてこ舞いしているとのことから、若い頃に読んだ石橋湛山の戦前の評論に「黴菌のせいではなく、黴菌に冒される身体が問題だ」と云う意味の文章についてうろ覚えのことを喋りました。

後日、松田さんから『石橋湛山評論集』から「黴菌が病気ではない。繁殖を許す体が病気だと知るべきだ」というくだりがすぐに見つかりました、という連絡を貰いました。
松田さんは2月13日に〈陸羯南とその時代〉展の記念講座でお話しをされます。多くの聴衆が上述の『道理と真情の新聞人 陸羯南』(東奥日報社)や解説書を購入されることを期待しています。

総会後の懇親会、そしてその後の反省会にも同席させてもらい、多くの方から色んな貴重なお話を聴かせてもらいました。まさにオーラルヒストリーの宝庫のようでした。
学生時代の夏の宿題、新任講師の中井英基先生の指導の下、幕末からの国権と民権の流れについて素朴なレポートに試みました。中江兆民と頭山満、幸徳秋水と内田良平などの対比を試みました。その折に福沢諭吉と陸羯南も採り上げようとしましたが果たせなかったことも思い出しました。その後、中井先生は北大から筑波大学に転じて、先日お会いした時には筑波大学名誉教授としての名刺を頂戴しました。

翌日横浜に戻ると、街は鉦や太鼓で獅子が舞い、爆竹を鳴らして春節を祝っていました。馴染になった景珍楼のマダムもご祝儀の紅包を門口に貼り付けて獅子舞を待ち受けながら、忙しいのに従業員は帰国帰郷した、なかなか風邪が治らないと大きなマスク越しにぼやいていました。「黴菌は病気ではない」などと難しいことは言わず「新年快楽!保重健康!!」とだけ声をかけました。           (了)

 

 

2016年2月19日

故 郷・望 郷 [Ⅲ] 日本と言う故郷

井嶋 悠

私は私の母国日本という故郷(ふるさと)に心が向かう。
そこには、老いを迎えた自然もあるのだろうが、娘の死、それに係る学校・教師、またそこに33年間係わって来た私への意識的働き掛け、強い人為がある。だから教師に高い自負を持っている人々は、私を疑問に思い、屈折を思い非難的に言うのだろう。しかし、私は屈折を人間的営為、ととらえている。

私は日本を美しいと想う。その自然、街、和装、和食、和建築、そして人々の心……。
と言っても唯我独尊的に日本を唱える国粋主義者でもなく復古主義者でもない。韓国の、中国の、東南アジアの、欧米のそれらも美しいと思う。(中南米、西アジア、アフリカ…は行ったことがないので分からないが、映像等からやはりそれぞれに美しいと思う。当たり前のことだが。)その上で、日本が故郷の私は、日本が(「は」ではなく)美しいと思う。遥か原始古代から黙々とひたすら続いて来たその結果の一人としての私の、自然に受け継いで来た心性、ふと脳裏を過(よ)ぎる幾つかの心象。
だからこそ、人生内省の時機を得た今、晩稲(おくて)甚だしいながら、日本に、いぶかしく、苛立つことが多い。古今東西繰り返される老いの癇癪(かんしゃく)?繰り言?そうなのだろう。それでも、些少とは言えこれまでに蓄えた「知識」が、「智慧」としての感性と言葉に近づいたかと思う私に素直でありたいと思う。
それが、折々に見掛ける、「老い」と言う“印籠”を突き出しての傲慢、独り善がりと同じ穴のムジナとの後ろ指を指されないように。中高校「教師」の33年間が染みついているからなおさらである。

私の生後10日目、1945年9月2日、降伏文書署名。太平洋戦争の敗北(無条件降伏)による終戦。それから71年経つ。1世紀100年まで後29年。まだ29年?もう29年?或いはやっと29年?………
日本は世界の先進国で、世界のリーダーを自負し自任する。先人の偉大さと勤勉さ。しかしその先人が目指した近代日本とはこれなのだろうか、と併せて思う私もいる。癇癪の、繰り言の源泉である。
その具体的事象のことは、これまでに幾つも投稿して来たので繰り返さないが、今回は昨年から今年にかけての私にとっての幾つかの「!?!?」事象を並べる。
『故郷・望郷[Ⅰ]』で引用した、二宮尊徳の「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」の、政治と経済を合せた私なりの「道徳」確認のためにも。

「!?!?」とするのは、そこに私の複雑な思いが絡み合っていてうまく表現できないからだが、敢えて言葉にすれば「何で!?」で、根柢に在るのは拒絶的な私の心である。もちろんそれは自省があってのことである。
この「何で」、『新明解国語辞典』(2003年 三省堂)のには次のように記されている。
共感できるので引用する。
因みに、『大阪ことば事典』(講談社学術文庫)には「なぜ。何ゆえ。」とあるだけである。

――どんな理由が有ってそうする(である)かを確かめたり、疑問に思ったりすることを表わす。

【沖縄からの「!?!?」】

日本は、以前「アメリカが風邪をひけば日本もひく」くらいの冷笑ですんでいたが、昨今では「結核で死ぬ」までと痛罵されるほどのアメリカ隷属の独立国家である。
それは、太平洋戦争アメリカ軍本土上陸の防波堤を、戦後27年も経ってのアメリカから返還を、在日米軍基地面積の7割を、「思いやり予算」年間約1900億円を、強いられている沖縄に集約的に顕在する。
私は、これまでの出会い、中でも教職最後の10年間のインターナショナルスクールとの協働校での奉職で善きアメリカ、アメリカ人を知る幸いを得たからなおのこと、政府の、アメリカと言う虎の威を借りた「国際社会」の平和貢献発言に、どれほどの信頼があるというのだろうか、と思う。そもそも政府が言う「国際社会」の吟味が必要だが省略する。
アメリカが招いた有事に在日米軍基地は当然攻撃対象になるはずで、それらの決意なくしては国際社会の一員ではないとの意思表示と言うことなのだろうか。
沖縄経済は、米軍あっての経済と言われて来たが、今はそこから脱却しているとも言われる。もしそうならば、脱却への道筋を創った沖縄の人々の心身の労を私(たち)はどれほどに承知しているだろうか、と自責する。そして今、普天間基地の辺野古移設での沖縄県と政府の対立は激しさを増している。
昨年の沖縄返還記念日で、挨拶を終えて下がる首相に、参加者の一部から「帰れっ!」が浴びせられた。そこに沖縄人の真情を見るのは、政治経済を理解できていない、或いは他県居住者の寝言なのだろうか。
それとも沖縄は日本の大国進化に貢献しているのだから名誉と思い忍従せよということなのだろうか。沖縄の哀しみは私たち日本人すべての哀しみなのではないか。

【中学入試の変化報道からの「!?!?」】

これは、私の経験からの国語教科に関してである。尚、ここでは一応大学進学を前提にしている。
2016年度入学試験で、思考力重視の傾向になったとのテレビ報道を観た。それは首都圏私立中学校管理職とその変化について解説する首都圏大手塾の管理職人物の談話で構成されていた。そこでは、各段階学校の心ある教師が以前から指摘していた思考力、表現力に係ることなどに触れる良心もなく登場した管理職者たちは、時代の反映として至極当然のように言っていた。

「教育は私学から」とのフレーズは、私学関係組織等でよく見掛けるからなおのこと、非常な違和感を覚え、同時に、学校教育の現状が象徴的に表れているように、元私学教員の私には思える。
これは、中学校教師が小学校国語教育を、高校教師が中学校国語教育を、大学教師が高校国語教育を、どのような基準で、どれほど具体的に把握し、検討し、それぞれの学校が掲げる国語教育目標と課程に立ち、その結果導き出されたどのような国語学力を前提に入試問題を作成しているのだろう、との自照自省からの違和感である。
多くは、積年の経験からの“勘”に近い、言ってみれば職人的(本来のあの魅惑的な職人の方々に何とも失礼な表現であるが)な、主観的なそれではないか。そして、ここにも教師の傲慢があるように思えるのは、やはり私の独善傲慢なのだろう。
塾には補習塾と進学塾がある。基本的に、後者は学校授業に差し支えない、或いは物足りなさを思っている学力所持者が対象で、先の報道に登場したのは、その方で、学校は「有名」私学である。

作成された入試問題を塾通学なしに解答できる生徒はどれほどいるだろうか。塾教育あってこその入試の現実、事実。それは国内だけに留まらない。海外子女教育の現状を国内に生活し帰国子女教育に対面する大人子どもたちそして教師たちは、どれほどに承知し、どのようなホンネを持っているか。これは評論しているのではない。その教師の一人であったのが私の自問自答、自責である。
この塾現実を当然にして必然の自明として語られる現代日本の学校教育。
或る“難関”大学進学実績を誇る地域的、全国的有名中学・高校の生徒のほとんど(例えばかのT大に進学した人を知っている私としては、ほとんどとの使い方は決して大げさではないと思う)は、教科学習は塾にあり、学校授業は塾学習の予習と復習の、他教科の“内職”に充てられていることを、観念的に否定批判するのは易いが、それでいいのだろうか。

私と同世代の数学教育を真摯に考え実践している、或る中高大一貫の伝統私学の数学教師が、もう20年以上前に嘆いていた内職現状が思い出され、最初の奉職校で優秀な生徒が、某有名大学に入学し、後輩たちに語り掛けた「入試とは関係のない教科の授業も、先生の話も、入試に役立っていた」との話は、今、どのように受け止められるのだろうか。

塾在りてこその進学、教育に疑問を投げ掛ける或る私立中学・高校は、授業方法・内容に新たな取り組みを重ねているが、その担い手の現場教員の「基礎学力」の無さの嘆きは、どう受け止めれば良いのだろうか。教師力の不足で片付くことなのだろうか。

思考と表現を問う「小論文」で、大学教育とは何かを問われるかのような多くの知識が要求され、それを良しとする一方で、型式化の弊害が指摘され、何年経つのだろう?

大学入学後の学生に、大学教員はどのような「表現と理解と言語事項」(国語(科)教育の本質)教育を実施し、社会に送り出そうとしているのだろう?
その大学教員世界での階層化、峻別化はしばしば耳にするが、“一体”の取り組みはあるのだろうか。

関西の世間的に言えば偏差値の低い或る私立大学で、日本語教育の視点、方法を採り入れた国語母語者向けの表現と読解教材を開発し、必修講座として実施していたが、他にそのような取り組みをしている大学はどれほどあるだろうか。

公立校学費の低額が徐々に崩れる中、塾に掛かる教育費と諸物価高騰、そして都市圏と地方の塾の質量での格差、「子どもの貧困」の激増。そのことで「母子家庭・父子家庭」が背景に挙げられ、中には倫理問題さえ言う人もあるが、私からすれば「木に竹を接ぐ」感がある。
これも、やはり私の寝言なのだろう。

今年、18歳選挙権時代の最初の選挙がある。高校生が政治を、政治家を考える千載一遇の機会だ。
もちろん政治家に限ったことではないが、ここでは国を左右するほどの権力を持つ政治家に限定する。当然政治家すべてを指しているわけではないが、与野党共々、権力に麻痺した或いは権力を濫用するかのような、功績を自身のことだけで得々と語る政治家、自身の考え方と合わないと抑圧、切り捨てようと法令等立案に腐心する政治家、国・地域の代表であることを選民権威意識と取り違えた不勉強の浅薄な政治家、自省もなく批判することで自身に陶酔する政治家、大義名分を言い国内外で税金を濫用する政治家等が、非常に増えていると思わざるを得ない現在、若い人が自身の敬愛する人々と学習し、瑞々しい感性を大いに発信して欲しい。
更にはその学習過程で、発言を撤回すれば事足れりとの言葉への軽視の厚顔無恥と日本の伝統に色濃く残る「言霊」観と国際社会また現代についても自問自答して欲しいと思う。
そうすることで、20歳以上の若者たちに先輩の意地、自然な自省が生まれ、それがいずれ確かな世代交代、更には老人退却の好循環につながるように思える。

先日、北朝鮮がミサイルを発射した。北朝鮮が非難されて然るべきだが、アメリカやロシアや中国等の核保有国に非難する資格(もっと強い言葉で言えば権利?)があるのだろうか、今もって私の中で解決していない。そして被爆国の母国日本が、そのアメリカに絶対的隷属する現実。
こんな私の感覚も「経済なき道徳」の「寝言」なのだろうか。

「一将功成りて万骨枯る」は、教育・教師世界にもある。人の性(さが)、業では済まされない。
或る人格陶冶にして確かな人生を築いている60代の知人が言っていた。「わしが、わしが、のワシ族。能もないのに爪隠す?タカ族、との会話は疲れる」と。私もそういう族とは何人も出会って来た。今、やっとそういう人たちが寂しい人たちであると明確に言えるようになった。
時間の積み重ね(加齢)に無駄はない。亀の甲より年の功。他山の石。

南北に長い列島国日本。国土の6割が山岳山林の居住面積では小さな日本。長寿化と少子化。小国寡民が持つ可能性、心安らかな郷(さと)の国。足るを知る、その心の重さは歴史が何度も証(あか)している。
何が前進で、何が後退なのか、日本の考えはどうなのか。その時、様々な人々の「望郷」に改めて思い及ぼすことは、確かな人間的営為ではないかと思う。もっと言えば、今私たちが立っている地は、数限りない人々の望郷の「悲・哀・愛(かなしみ)」の涙があってこそなのではないか。

日本が真の先進国、文明国として世界の誘導役(リーダー)と公認される名誉が実感できる日があることを、「戦後」は未だ終わっていないと思う一人の私は想い巡らせている。

 

2016年2月16日

故 郷・望 郷 [Ⅱ] さまざまの望郷

井嶋 悠

いかんせん牛歩の進行中で、全うできるかどうかは甚だ心もとないが、老いと孤独を(老いの孤独ではなく)知情意で直覚できるようになりつつある。と言ってもまだまだ知が勝っている情けない段階だが。
父の私への小言の一つは「安易に楽しいと言う言葉を使うな」で、その父は、19年前の夜、自室で独り天上に旅立った。救急車で運んだ時の医師の言葉は「死後硬直が始まっています」だった。
「私は独り在ることを怖れない。しかし絶対の孤独は怖い。」と言っていた娘は、4年前、私たち父母と兄に見守られながら旅立った。改めて非常な緊迫感で生きていたがゆえの彼女の直覚と洞察を思う。
動物は死を直覚するとどこかに去ると言われる。高等動物の人間、その「高等」を考えさせられる。

私は1945年、長崎被爆2週間後の8月23日、その長崎市郊外で、次男として生を享けた。長兄は生後間もなく死んだ、と聞いている。京都人父の大村海軍軍医派遣とその地での母との出会いである。本籍は祖父当時から今も京都府舞鶴市。祖父の京都市内移住後、菩提寺は京都市中京区。
生後間もなく、父の異動で、松江を経て、3歳時に、京都に、父から言わせれば戻った。その5年後、父は新潟県の地方都市に病院長として単身赴任。やがて父母は離婚し、私は独り東京の伯父伯母宅へ預けられ、小学校卒業と同時に父が西宮に。継母との生活の始まり。以後、一時の東京での個人生活以外、還暦まで西宮、宝塚での生活。そして10年前、ここ栃木県北部に移住し、昨年古稀を迎えた。
父も生母も、伯父伯母もとうに天上に昇った。継母は存命だが、過去の軋轢、不信で、10有余年会っていない。おそらく会うことはないだろう。心通じ合える姉妹かのように、亡き娘の良き理解者で、娘も姉のように慕っていた義妹(継母の娘)は、1959年(昭和34年)、癌で早逝した。39歳だった。

今、私には帰る故郷はない。しかし、望郷はある。故郷(ふるさと)は魂(たましい)、無垢な魂、私の3歳から8歳の5年間に思い到る。ひょっとするとそこが私の原郷ではないか、と。

こんな体験をした。

10年余り前のこと。東京に行くまでの5年間の、上賀茂神社近く、賀茂川沿いの生活地を独り訪ねた。すっかり様変わりして全く別世界だった。歩いて15分ほどに私の庇護者従姉妹が住んでいた家があるのだが、家だけが残っている。
私は賀茂川に出た。どじょう刺し、ごり釣り、昆虫採集の拠点で、葵祭の行列を見る場所でもあった地に立った。川辺に降りて川底を見つめたが、あの玉虫色のどじょうはもちろんのこと、当時採っては放していたありきたりのどじょうは姿さえもなかった。中州近くで、小学校高学年か中学生くらいの男の子が、膝下まで川に浸り独り黙々と魚採りに打ち込んでいた。
それを見た時、私の中を啓示に近い衝撃が走った。私の“英雄”が甦ったのだ。私の英雄は、魚採り・虫採りの達人だった。息をひそめ、心ときめかせ、何度彼の後ろをついて行ったことだろう。彼は当時中学生くらいだった。知能が少し遅れていた。常にその英雄を怒鳴っている怖い父親がいた。バラック建ての貧しい家に暮らす父子家庭だった。それらの光景が、フラッシュバックされた時、眼前の少年が大きな鯉ほどの魚を浅瀬に追い込み、両の手で採り上げた。既に得た魚を放している自分で作った生け簀に入れる時の、誇らしげな、しかし静かな笑みを湛えた彼の表情。60年前の英雄の再生。私は話し掛けることなど思いもつかず、じっと彼の一部始終を見ていたそのとき、私の故郷・魂はここだと直覚した。私のこれまでの60有余年を瞬き回顧した。と同時に遅過ぎた発見と思えた。
形としての故郷は私にはないが、その少年との出会いで確かな望郷を持った。

或る不動産情報会社の調査によると、東京出身者の約4割は「故郷と呼べる場所はない」と思っているとか。
1947年(昭和22年)生まれの私の妻は、その東京人である。ただ、三代続く新橋の生まれ育ちである彼女は、東京人ではなく江戸っ子の矜持を大切にしている。菩提寺は築地市場の真ん中にある。新橋の実家は20年近く前に、両親が横浜に転居し今はない。その両親は10年ほど前に相次いで亡くなった。家系は近々途絶えると言っている。これは私の家系にも言い得るところでもある。
彼女は、またその兄は、そのことに未練等一切言わない。宿命(さだめ)と享け止めている。彼女は私の方の墓に入ることを厭(いと)ってはいないが、樹木葬、散骨葬に心惹かれている。
人も街並みも一切変わり彼女にとって地名だけの新橋だが、故郷(ふるさと)と思う心は生きている。ただ、あまりのビル化の変容、幼馴染の不在は、故郷(ふるさと)の心象風景とはかけ離れすぎていると言う。

先の調査では、「子どもにとって故郷は必要か」との問いもあり、東京出身者の約7割が「はい」答えたとある。そのとき質問者と回答者には、先ず自然があって、それを背にした父母、祖父母、親戚…また近隣の人たち、幼なじみとの心の紐帯が描き出されていたのではないか。故郷(ふるさと)。

1914年(大正3年)、高野辰之・作詞、岡野貞一・作曲の唱歌(童謡)の『故郷(ふるさと)』の、「兎追いしかの山 / 小鮒釣りしかの川 / 夢は今もめぐりて / 忘れがたき故郷」である。

歌詞全体を記す。

兎(うさぎ)追いし かの山 / 小鮒(こぶな)釣りし かの川 / 夢は今も めぐりて  / 忘れがたき 故郷(ふるさと)
如何(いか)に在(い)ます 父母 / 恙(つつが)なしや 友がき / 雨に風に つけても  /  思い出(い)ずる 故郷
志(こころざし)を はたして / いつの日にか 帰らん / 山は青き 故郷 / 水は清き 故郷

「山は清き」「水は清き」「忘れがたき」「思い出ずる」故郷。

高村光太郎(1883~1956)の詩集『智恵子抄』(智恵子〈1886~1938〉は、高村光太郎を高村光太郎為さしめた唯一無比とも言える光太郎夫人)の中の、広く愛誦されている、智恵子の故郷の阿多多羅山への想いを詠った詩「あどけない話」に思い及ぶ人も多いと思う。
あどけない、そこに響く純粋無垢な心。

「あどけない話」

智恵子は東京に空が無いといふ、 / ほんとの空が見たいといふ。 / 私は驚いて空を見る。 桜若葉の間に在るのは、/ 切つても切れない / むかしなじみのきれいな空だ。 どんよりけむる地平のぼかしは/ うすもも色の朝のしめりだ。 / 智恵子は遠くを見ながら言ふ。阿多多羅山の山の上に / 毎日出てゐる青い空が / 智恵子のほんとの空だといふ。 あどけない空の話である。

「山紫水明の国」「やまとは くにのまほろば たたなずく あおがき やまごもれる やまとし うるわし」(日本武尊(やまとたけるのみこと))と言う。
川端康成(1899~1972)は、ノーベル文学賞受賞講演で、道元禅師の「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」等を引用して、日本人の自然融合、回帰を言う。
それが日本唯一かどうか、ソウル郊外の農村道に沿って繚乱するコスモス、ニューヨーク郊外の住宅地の紅葉林に魅入った私には確信的に言えるものは未だない。ただ、日本は先ず自然神道があっての渡来宗教仏教との神仏習合との説明は、何のためらいもなくごくごく自然に沁み入って来る。

亜熱帯から亜寒帯の南北に長く、山岳・山林が6割を占める日本がゆえの、多様で豊かな自然とそれに育まれた魂。故郷(ふるさと)。原郷。切々と湧き起る望郷。
国を信じ献身し、にもかかわらず抑留生活を強いられた人々、異郷で塗炭の時間を経て引き揚げて来た人々、異郷で土に還ったからゆきさんたち、また移民の人々……の望郷。

詩人・作家の石原吉郎(1915~1977)は、シベリア抑留生活での心の推移を、「望郷」→「怨郷(祖国の人々から私たちが忘れられて行くことでの恐怖と不安)」→「忘郷(極限の疲弊から自身が祖国を忘れて行く)」と言い、

満州で生まれ、家族共々生死の境を越え引き揚げて来た或る人は、私には故郷がない、と言う。

また、「今日の価値基準だけで、ただその一本の柱だけで、からゆきさんをみるとするなら、わたしたちは「密航婦」(引用者注:当時、ふるさと以外の人々は、「密航婦」以外に「海外醜業婦」「日本娘子軍」「国家の恥辱」等と呼んでいた)と名づけた新聞記者のあやまちをくりかえすことになるかもしれない」と、細心の注意と優しさをもって太平洋戦争時の悲惨と哀しみにあったからゆきさんに寄り添い、追う、自身が韓国(当時、朝鮮)で生まれ、韓国の幼友達や母(オモニ)の愛に育まれ、18歳時に帰国した(引き揚げた)詩人・作家の森崎和江さん(1927年生)。

[上記の密航婦以外の呼称も含めて、引用は森崎さん著の『からゆきさん』(1976年刊)]

際立つ若い女性たちや芸人の受賞で一層の話題となっている「芥川賞」。その第1回受賞作(1935年)は、石川 達三(1905~1985)の、ブラジル移民を描いた『蒼氓(そうぼう)』(第1部)で、神戸を舞台に移住する若い女性の哀しみを描いた重厚な文体が印象的な作品である。

私たち『日韓・アジア教育文化センター』の中核的存在、韓国の中等教育での日本語教育で重責を担う、ソウルの高校日本語教師朴(パク) 且煥(チャファン)氏が、愛読する韓国の詩人・尹(ユン) 東柱(ドンジュ)。
彼は、日本による韓国併合の7年後、1917年に、当時満州で生まれた。祖父はキリスト教開拓団の長老、父は教員。2歳の時に朝鮮「3・1独立運動」が起こる。1942年から日本〈東京・京都〉留学し、1945年、治安維持法により京都で検挙され、懲役2年の刑で福岡刑務所に拘留中、「朝鮮語で何かを叫び」(日本人看守の言葉)死去した。叫んだ内容は永遠に誰にも分からないが、私は故郷を想っての叫びではないか、と勝手に想像している。

彼の故郷に関わる詩の二つを引用する。

1936年(19歳)の作
故郷(くに)の家
―満州でうたう

古い藁靴を引きずり / ここへはなぜ来たか / 豆(トウ)満江(マンガン)を渡り / さびしいこの地に
南の空のあのしたに / ぬくい ふるさと / 母のいるところ / なつかしい故郷(くに)の家

1941年(24歳)の作
もうひとつの故郷

ふるさとへ帰ってきた夜 / おれの白骨がついて来て 同じ部屋に寝転んだ。
暗い部屋は宇宙へ通じ / 天空からか 音のように風が吹いてくる。闇の中で きれいに風化する / 白骨を覗きながら /
涙ぐむのは おれなのか / 白骨なのか / 美しい魂なのか / 志操高い犬は / 夜を徹して闇に吠えたてる。
闇に吠える犬は / おれを逐(お)いるのだろう。
ゆこう ゆこう / 逐(お)われる人のようにゆこう / 白骨にこっそり / 美しいもうひとつのふるさとへゆこう。

故郷。一人一人の魂の郷(さと)。生の源泉。生きる心の拠りどころ。形として在る人の幸い、哀しみ。心だけに在る人の幸い、哀しみ。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの / そして悲しくうたふもの」。望郷。生き、死(し)去ること。

2016年2月9日

故 郷・望 郷 [Ⅰ] 故郷・魂・故郷を去る

井嶋 悠

故郷は魂(たましい)、と考えると、私の故郷はどこだろう?私には故郷はない?との思いが、以前にも増して来た昨今、合点が行く。
魂はすべての人それぞれの“私”のすべてである。宇宙、自然から生まれた一人の人の生の根源であり、集成。私は母から、その母は母から……。玄のまた玄の世界。時空一切を超えた久遠の世界。小宇宙。
不滅にして無形、玄の究極無色透明の生きた証しとしての魂。色即是空。無窮の昼夜和光溢れる宇宙を飛び交う姿を思い描く。
死後の世界、そうあったら愉快と思い、そうあって欲しいと願う。そうでないと、愛し、敬した人々のあの死が永遠の別れでは、あまりに寂しく、言い得なかったこと、詫びたいことを伝えられない永遠の悔いでは酷(むご)くつら過ぎる。もっとも、霊、永遠の世界に、善悪、美醜、貧富、賢愚……、否、生死そのものがあろうはずもないのだからこれは杞憂以外何ものでもないのかもしれない。
そもそもこんな思い巡らせは、生者の憂苦からの勝手に過ぎないのだろう。

魂と書くよりひらかなで書く方が、私には心地よくなじむ。故郷もそうだ。ふるさとと書く方が、より慈愛に包まれた私を感ずる。きっと、女性=母性、男性=父性との図式を離れた母性に心傾く昨今の私だからかもしれない。もっとも、その心持ちは感傷(センチ)的(メンタル)なそれで、理知作用としていずれかに統一することなどできようがない。だからいつも私の心向くままに使い分けている。

恐(おそれ)山と日本海と太平洋を抱く青森県出身の奇才・寺山修司(1935~1983)は、虚構的?自伝『誰か故郷を想はざる』(1969年刊)に次のように書いている。
尚、私には彼ほどの感性や想像力、また意志力など微塵もないからか、魅かれ羨む一人で、次のような短歌に出会ってドキッとさせられた一人である。しかし、今も多い彼の前衛(カリスマ)性信奉者とは無縁である。

「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」

「わが撃ちし鳥は拾わで帰るなりもはや飛ばざるものは妬まぬ」

「煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし」

「うしろ手に墜ちし雲雀をにぎりしめ君のピアノを窓より覗く」

「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」

[初期詩編より]

寺山の「故郷」に戻る。

――……魂の故郷をさがし出さない限り、私は「青森県の家なき子」のままで大人になって行ってしまうのではなかろうか。(略)私にとっての故郷とは、すでにまぬがれないものとして、在った。それは私の生のうちに根拠をもっていて、たった一篇の私の詩とさえ、不離の内的関係を目撃されていた。――

誰か故郷を想はざる。
寺山は、1940年に発表された、西條八十・作詞、古賀政男・作曲、霧島昇・歌の、戦地のすべての兵士が嗚咽し、ひたすら涙したと言う『誰か故郷を想はざる』を愛唱していたと書いている。その歌詞は以下である。

花摘む野辺に 日は落ちて みんなで肩を 組みながら  唄をうたった 帰りみち  幼馴染みの あの友この友
あゝ誰か故郷を想わざる
ひとりの姉が 嫁ぐ夜に     小川の岸で さみしさに   泣いた涙の なつかしさ     幼馴染みの あの山この川
あゝ誰か故郷を想わざる
都に雨の 降る夜は         涙に胸も しめりがち   遠く呼ぶのは 誰の声       幼馴染みの あの夢この夢
あゝ誰か故郷を想わざる

故郷を持たない者はない。故郷はすべての人に等しくある。それも私が私として在る無垢な姿として。幼なじみ。神に最も近い幼子(おさなご)の世界。
私には、意図的に棄てるほどの強靭さはないし、国に、歴史に、棄てさせられた経験もない。しかし、その哀しみを持った、持たされた人は多い。奈良時代の防人をはじめ、抑留者、引揚者、からゆきさん……に到るまで。

詩に命を賭そうとし、故郷を去った二人。石川啄木(1886~1912)と室生犀星(1889~1962)。

父(住職)の罷免問題からの一家離散で故郷を去った啄木。

「石をもて 追はれるるごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし」と詠い、

「病のごと 思のこころ 湧く日なり 目にあをぞらの 煙かなしも」と哀しみを負い、

帰郷することなく、「ふるさとの 山に向かひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな」と詠った啄木。(『一握の砂』所収)

生後間もなく近所の寺に預けられ、10歳の時、実母が行方不明となった犀星。

ふるさとは遠きにありて思ふもの / そして悲しくうたふもの / よしや うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても / 帰るところにあるまじや / ひとり都のゆふぐれに / ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて / 遠きみやこにかへらばや / 遠きみやこにかへらばや (「小景異情」)
と詠いながらも、何度も故郷と東京を往復し、再生し、創作の源泉を得て、

うつくしき川は流れたり / そのほとりに我は住みぬ / 春は春、なつはなつの / 花つける堤に座りて / こまやけき本のなさけと愛とを知りぬ / いまもその川ながれ / 美しき微風ととも / 蒼き波たたへたり (「犀川」』注;犀星の故郷、金沢を流れる川)と詠った犀星。                                     [ともに、詩集『抒情小曲集』所収]

私は、啄木の哀しみに、より切迫した哀しみの叫びを他人事の不料簡で聴く。長寿化、少子化にあって富国、殖産そして強兵!のためには“弱者”は捨て石となれ、それが愛国であり、日本に生まれた報恩であるかのような、そしてそれを支持する国民が過半数と言う現代日本社会への疑念、違和感が日毎に強くなる私は、1910年、「大逆事件」の直後に啄木が記した『時代閉塞の現状』の先見に感嘆する。

尚、この『時代閉塞の現状』、啄木が閉塞と断じた根拠が何なのか、100年後の今、何が変わって、何が変わっていないのか、社会と歴史と人間を改めて問い直すに最適な、学術性云々といったことから離れ、しかも短く取っつきやすい、資料の一つだと思う。
18歳選挙権取者になった高校生に、「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」(二宮尊徳の言葉)は、私たち現代日本人に今どう響くのかと併せて、是非読んで欲しい。もっとも、文語文であることも含め分かりやすくするために本文を整理、再構成し準備している、否、すでに実施している心ある高校の社会科或いは国語科の教師が、きっとあることだろう。もちろん上意下達の教授法でなく。

西宮の産婦人科医院(私たち夫婦が、多くの人々が敬愛する人格的にも秀でたこの医師のことは、前回『年賀状』との表題で投稿した)で出生し、宝塚で小中高校を育み、23歳で早逝した娘の、或る時私に、鬼気迫る感もって言った言葉が甦る。

「私は、すべてを整理して、ここ(栃木県)に来た。」
「私は独り在ることを怖れない。しかし絶対の孤独は怖い。」

そう彼女に言わしめた[事、人]の具体を、私たち親は彼女の言葉から知っている。もちろん、自責に立ってのこととして。とりわけ、その事、人の一つである教師であった私は。彼女は少数派かもしれない。しかし、私たちにとって絶対である彼女は故郷を棄てた。
やはり!?私たち親が棄てさせたのだろうか。