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2016年2月22日

中国たより(2016年2月)   『陸羯南』

井上 邦久

申年の賀状に三つのことを書きました。北京別宅から家財を鞄一つだけにして引き払ったこと。大相撲九州場所を見物したあとの佐賀山中で見つけた、郭沫若記念碑の碑文訳者として恩師桑山龍平先生の名が刻まれていたこと。そして、横浜関内の日本新聞博物館で〈孤高の新聞「日本」-羯南、子規らの格闘〉の企画展に啓発されたこと。最後の一つがきっかけとなり、秋から横浜に拠点を決め、北京や上海の荷物を少しずつ運んでいます。

北京には県人会や同窓会から始まり、趣味の同好会や学習会など様々な会合があります。以前に上海で暮らした経験のある人の会「老上海会」もその一つで、その会で初めて高木宏治さんと知り合いました。名刺交換をした翌日にオフィスを訪ねて来られ、かつて蝶理に在籍し、滑落事故で江南佳人の昆劇のプリマドンナを未亡人にしてしまった山男のKと上海時代に昵懇であった話をされました。Kは奇しくも同じ部の後輩であり、同じ社宅で過ごしていたこともあって、彼を偲ぶ酒盃を高木さんと重ねることになりました。

昨年の夏の初めに高木さんから実に控えめに企画展の紹介がありました。その後新聞に比較的大きな企画展の広告が載り、8月に特別講演があることが分かりました。そしてその講師として高木さんの名前が書かれていました。大企業の中国代表としてではなく、陸羯南研究会主筆・筑波大学客員講師としての高木さんに気付かされました。

7月の帰国の際に、横浜関内の重厚な洋館にある日本新聞博物館へ赴きました。充実した企画展示を見て、気合を感じる解説書を求め、更には「司馬遼太郎・青木彰の陸羯南研究」と題する高木さんの文章を拝読して、孤高の新聞「日本」とその主筆であった陸羯南の事跡を「発掘」し、理念を研究して紹介しようとする人々の熱と力に圧倒されました。

新聞「日本」――。陸羯南(くが かつなん)が明治22年2月11日、大日本帝国憲法発令の日に誕生させたこの新聞は、度重なる発行停止処分にも屈せず、皮相な欧化主義を批判するなど、この国の進むべき方向を示し続けました。また、羯南の厚情を支えに、正岡子規は阿鼻叫喚の病苦の中で俳句や短歌などの文学革新を成し遂げました。

――――日本経済新聞(夕刊)2015年6月20日 広告

政府や政党など特定の勢力の宣伝機関や、営利目的の新聞ではなく、自らの理念にのみ立脚した言論報道機関たる「独立新聞」を目指しました。(中略)羯南、子規亡き後、俊英たちは内外の主要新聞に散り、こんにちの新聞の基礎づくりに貢献しました。

――――展示会解説書 巻頭言「開催にあたって」

独立記者 陸 羯南。陸羯南は現在の青森県弘前市出身。格調高い政論で明治期の言論界をリードしたが、評論家でも、政治学者でもなく、どこまでも「新聞記者」であった。
「国民主義」を掲げ、日本独自の国民精神の発揚と国民団結を訴えるなど、「日本の近代化の方向に対する本質的に正しい見透し」(丸山眞男「陸羯南‐人と思想」)を示し続けた。いま一つは、羯南自身が「新聞記者の『職分』を作りだそうとした」(有山輝雄「陸羯南」)。

――――松田修一『道理と真情の新聞人 陸羯南』(東奥日報社)

青木先生が亡くなったあとの形見分けの席で不肖の弟子の私たちは、司馬さん、青木先生からの宿題〈陸羯南と新聞「日本」の研究〉を前にして、正直、途方にくれた。

――――高木宏治〈宿題「陸羯南研究」に答えていく〉   『遼』 司馬遼太郎記念館会誌 2015年秋季号

産経新聞の京都・大阪にいた司馬遼太郎と、同じ産経新聞東京の青木彰部長は、『竜馬がゆく』の執筆準備の過程で意気投合し、その後『坂の上の雲』『菜の花の沖』をコンビで完成させています。青木彰氏が筑波大学に転じて情報学の指導をなさったことは、『街道をゆく42 三浦半島記』に記されています。陸羯南については、同じく『街道をゆく 41 北のまほろば』でも触れています。
(「週刊朝日」は子供の頃からずっと家にありました。中国への出張の折には常に朝日文庫版の『街道をゆく』を携帯していました。しかし、陸羯南については昨年までは白髪ぼかしのような記憶しか残っていませんでした)

また正岡子規の死後に、妹の律の養子となった忠三郎さんを軸に正岡一族や関係者を訪ねて綴った『ひとびとの跫音』(司馬遼太郎・中公文庫)で陸羯南ゆかりのエピソードを知ることができます。忠三郎さんは、正岡子規の叔父の加藤拓川の三男。加藤拓川は陸羯南とフランス語を学んだ親友であり、欧州への渡航を前にして、伊予松山から上京したばかりの正岡子規の後見を陸羯南に託しました。

司馬遼太郎は週刊朝日に『街道をゆく43 濃尾参州記』の連載途中に亡くなっています。陸羯南について関心を深め、津軽などの関係先に赴いて準備をしていたのでしょうが、小説化する前に時間切れとなりました。青木教授も研究論文の目次まで準備しながら継続できず、高木さんたち弟子に宿題を残すことになりました。

2月7日の弘前は朝から乾いた雪が降りました。お城近くのスターバックスコーヒー店で雪見珈琲をしながら時を待ちました。旧軍の師団長官舎で敗戦後は進駐軍に徴用された歴史的建造物も、その日は受験生支援の場所になっていました。
11時に弘前市立博物館での企画展〈陸羯南とその時代〉の会場で高木さんと合流し、地元の陸羯南会の館田会長や三上学芸員の懇切なご案内や説明のお蔭で2時間があっという間でした。高木さんたちが「発掘」した資料もありましたが、横浜での展示会とは異なり陸羯南の出身地ならではの独自性を感じました。三上学芸員には様々な質問に応えてもらい、素人意見も聴いてもらったにもかかわらず、御礼の準備がなく、読みかけの伊集院静『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』(講談社文庫)を受け取ってもらいました。この本は親しみの湧く文体で子規とその仲間の青春を描いているような気がします。陸羯南も子規の指導者そして庇護者として描かれています。

館田会長のご厚意で、年に一度の陸羯南会の総会に飛び入り参加させていただきました。2時からの総会の前に、青森市の東奥日報本社からマイカーを飛ばして駆け付けた松田修一さんと会えました。横浜での気合いの籠った展示会解説書を編集された方で、展示会終了後に、解説書を10冊だけ特別手配して貰った経緯もありました。解説書は上海のメディア関係者を囲んでの会合(蛻変の会)で記者の皆さんへの参考資料として差し上げています。

松田さんとは当日朝刊の一面コラムのことや俳句季語のことなど、高木さんを挟んでざっくばらんな話が弾みました。新聞社ではインフルエンザ罹患者が多く、てんてこ舞いしているとのことから、若い頃に読んだ石橋湛山の戦前の評論に「黴菌のせいではなく、黴菌に冒される身体が問題だ」と云う意味の文章についてうろ覚えのことを喋りました。

後日、松田さんから『石橋湛山評論集』から「黴菌が病気ではない。繁殖を許す体が病気だと知るべきだ」というくだりがすぐに見つかりました、という連絡を貰いました。
松田さんは2月13日に〈陸羯南とその時代〉展の記念講座でお話しをされます。多くの聴衆が上述の『道理と真情の新聞人 陸羯南』(東奥日報社)や解説書を購入されることを期待しています。

総会後の懇親会、そしてその後の反省会にも同席させてもらい、多くの方から色んな貴重なお話を聴かせてもらいました。まさにオーラルヒストリーの宝庫のようでした。
学生時代の夏の宿題、新任講師の中井英基先生の指導の下、幕末からの国権と民権の流れについて素朴なレポートに試みました。中江兆民と頭山満、幸徳秋水と内田良平などの対比を試みました。その折に福沢諭吉と陸羯南も採り上げようとしましたが果たせなかったことも思い出しました。その後、中井先生は北大から筑波大学に転じて、先日お会いした時には筑波大学名誉教授としての名刺を頂戴しました。

翌日横浜に戻ると、街は鉦や太鼓で獅子が舞い、爆竹を鳴らして春節を祝っていました。馴染になった景珍楼のマダムもご祝儀の紅包を門口に貼り付けて獅子舞を待ち受けながら、忙しいのに従業員は帰国帰郷した、なかなか風邪が治らないと大きなマスク越しにぼやいていました。「黴菌は病気ではない」などと難しいことは言わず「新年快楽!保重健康!!」とだけ声をかけました。           (了)