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2015年2月25日

改めて言葉と正義のこと、一寸 ―自己愛と相対の間(はざま)に浮遊する私―

井嶋 悠

 

内戦という戦争[それぞれが正義を掲げて行う公認の殺戮]が続くウクライナのかなり高齢と思われる老女が、破壊された家の前で、心の許容を遥かに越えた悲・哀しみからだろうか、矜持としての抑制を越えて、「平和以外なにもいらない」とかすかに流れる涙を拭うことなく呻(うめ)き出す姿を、報道で見た。
その老女の全身全霊を込めた言葉に対して、政府側は、親ロシア派は、欧米は、ロシアは、「そのために戦っている」とのそれぞれの「正義」を声高な言葉で発するのだろう。
残された敗者の悲/哀しみ。

それを繰り返して来た古今東西あらゆる地域の人類。私たち。もちろん日本も。
そしてマスコミは、“識者”を黄門の印籠よろしく後ろ盾に動員し、正義の解説(言葉)を重ねる。
何という虚しさ。人であることの避けられない!?おぞましさ。
それでも正義による殺戮は、これからも繰り返されるだろう。
ふと気づけば、そこに一方の正義に加担する私が居るかもしれない。

言葉は人を殺す。
それは時に銃や刃以上の残酷さを露(あら)わにする。と同時に、言葉は理性の象徴でもある。
この言葉の諸刃の剣を免れたいとする人は寡黙になり、また或る人は意図的に現世から遁(のが)れようとする。その言葉を、日本では「言霊」と言い、禅は「以心伝心」「不立文字」を唱え、西洋でも「沈黙は金、雄弁は銀」とする。
かく言う私は70年生き、ここ2,3年やっと“自身の言葉”で、それが少しは言えるようになったかな、と思っている。

私はその言葉が、生業(なりわい)のすべてで、33年間勤めた教員であった。しかも、思春期前期から後期にかけての10代前半から後半の6年間の国語科教員であった。
何人、私は“殺し”たことだろう……。
自覚し、悔やみ、猛省している事例は幾つもある。しかし、私が善かれと思って発した言葉(例えば、心苦しんでいる生徒への、「頑張れ」や教師絶対観からの正義派そのままに対話を強いる無神経、無責任の自己満足も含め)気づかないままの事例は私の天文学的数字だろう。空恐ろしい。

私自身、大人意識を持ち始めた中学生時代から、ひょんなことから28歳にして中高校教員になってから、尊敬と敬愛をもった教師は何人かあるが、その共通項は、学生に向かって自身を「先生」とは決して言わない人々であった。

そんな私が、全く別視点から気づかされた1年ほど前の衝撃。。
精神分析研究者として大学教員をしている40年ほど前の卒業生と40年ぶりに会った時に言われた言葉。

『苦悶していた中学3年のとき、先生に相談に行ったら、先生は「今、自分のことで精いっぱいでそれどころじゃない」と言われた。覚えてます?あの一言で、何か吹っ切れて、今の私があるように思っています。』と。

私の頭と心を駆け廻った言葉の数々。そして今も。

娘を、7年間の苦悶に追い込み、3年前の2012年春、23歳で死に到らしめた、その一因(娘の親への、周囲への配慮から、すべては後で分かることだが)は中学校の教員で、それは意識的、意図的な暴虐であり言葉だった。
その教員は、今、どこで、何をしているのだろう。母である妻が確信をもって言う「必ずや天罰が下る」もどこ吹く風に、己が絶対善で、教師生活を続けているのだろうか。
このことに真情から共感同意する人はごく少数で、あってもほとんどは社交辞令的タテマエである。
昭和10年代、癩病(現ハンセン氏病)作家、北條民雄の痛切な叫び「同情ほど愛情より遠いものはない」に50年近く前に衝撃を受け、今も未解決な私だが、この言葉の重さを思う。
その重さを直覚している人の私への言葉は少なくなり、しかしある時、静かな行間をたたえふと届く。

言葉は人と人の根っ子で、そこには人それぞれの正義があり、正義と正義の戦いが繰り返され、人々は、自然は、時に自身から命を途絶えさせる。それは、人類が絶え果てるまで続く。
だからこそ紀元前の東西文明の偉人たちは、「正義」を、「(仁)義」を、人の根源的徳目[倫理]として思索し、言葉を紡ぎ、私たちに遺している。
また唯一絶対神を信仰する人々は「神の言葉」に己を託し、捧げる。
情報社会、国際社会等々複雑多様化する現代にもかかわらず、その根底にあって人類誕生以来同じ苦悶と痛苦にまみれる私たちだからこそ、古人の思索が一層の重みをもってのしかかってきている。

「大道廃れて仁義あり、慧(けい)智(ち)出でて大偽(たいぎ)あり」との老子の言葉が過(よぎ)る。

《では、日本は、日本人は、この現代世界に在ってどうするのか。アメリカの属国的追従の「国際」ではなく、日本としてのどういう正義を発信するのか。「温故知新」の、日本の「故」とは何で、日本の「新」とは何なのか。》
これは、『日韓・アジア教育文化センター』の趣旨でもあるのだが、それは限りなく非現実的で、観念的なのだろう。

そして、結局は冒頭に戻っての堂々巡り……。

「寄らば大樹の陰」「長いものに巻かれろ」はたまた「見ざる、言わざる、聞かざる」が、子々孫々家内安全、己が安心立命への賭け率高い途(みち)ということなのか……。(超)難関有名大学やエスカレーター保証の有名大学への、入ることがすべてのようななりふり構わぬ進学狂騒。
それを御旗に掲げる或いはそこに生き残りをかけた中高校。そのレールを外れた生徒たちの心情、心意気に、私たち大人はまた教員は、どれほど耳を傾けているだろうか。学校によっては、卒業生(同窓生)の追跡は、有名大学進学と時々の“有名人”だけとも聞く。

「だからお前が如き小人はかかわるな」と、私にささやく声が聞こえる。
それでも、娘の、身内の、敬愛する人々の死に会い、その私が生より死への時間が身近になりつつある今、自省と言う懺悔を経て終焉に向かいたい、と拙いがしかし“私の言葉”を綴る私が居る。

「言葉は道具である」と言われる。
人は、人と、動物と、植物と、森羅万象と対話し、生の縁(えにし)を育む。言葉は、そのつなげる(時には断ち切る…)道具。
重・厚・長・大から軽・薄・短・小へ、は日本の技術の讃辞としてある。その具体の一つに道具がある。
そして現代は合理と効率そして高速が優先される。しかし(否、だからこそ)今、日本は混迷している、と私は思っている。
社会が、人が持つ非合理、感性を置き忘れさせた、と思っている。

若者の間でもテレビ離れが進んでいるとはいえ、今もって影響力を持つテレビ。(因みに、私は、離れる若者たちに大きな可能性と期待を寄せている。)
そのテレビに見る言葉の、先の(・)を外した「軽薄短小」の無惨。現代の一つの象徴。
例えば、
いつからか「キャスター」と呼ばれる不可解な人物の、
自明にして当然の美辞麗句を得意気に言う「コメンテーター」という有識者!文化人!の、
正統派女優史に列せられる或る女優(つまり“大女優”)が爽やかに喝破した「今、女優はいない。いるのはタレントだけ」[蛇足の私注:タレントとは才能、技量の意]が象徴する芸力貧相な芸(能)人の、
「アーティスト」の自称・他称に見る新しい?和製英語用法の厚顔無恥の、
言葉、言葉、言葉。

その彼ら彼女らの出演料(それも市民感覚では想像を超える高額報酬の由)が、スポンサー企業製品価格に、受信料(なぜ、視聴した分だけ支払う方法を導入しないのだろう?)に入っているという理不尽。
貧困家庭の子どもが7人に1人、世界の経済大国!日本の首都!東京での貧困問題の顕在化等々。
かてて加えて、率先してこの陰惨を克服すべき政治家の痛覚が麻痺し、玩具化した言葉。

やはり言葉は人を殺せる道具である。
だから細心の配慮が必要で、いつの世でも人が驕り高ぶって来るともう一つの人間の側面、良心が頭をもたげ、言葉についての書物が著される。(もっとも、真逆の日本礼賛、強い日本叱咤の類も増えるが)
日本は世界に冠たる職人(匠)の国、と讃えられる。
その職人たちに共通して見られる寡黙で、積年の修業が創り上げた淡々飄々の涼やかな眼差し、姿。羨望し、憧憬する非職人の私、私たち。

求められる大人の、言葉への執心と修練。子どもたちの言葉への想像力の練磨。とりわけ教師。
私が言うことの滑稽を嘲笑する人々を重々承知していても、懺悔と言う自省にあるからこそ痛切に思う。

中学校の国語教科書に、染織家の志村ふくみさんから聞いたことを基に書いたエッセーがあった。
それは、桜の妙(たえ)の色は、大地の養分を糧に凛と立ち、厳しい冬を経た、あの黒くごつごつした樹皮から咲き出る、との志村さんの話から言葉と人のことを書いたものだった。そう言えば、春咲きの球根は、地中で厳しい冬を越してこそ花弁の輝きが増すとのこと。
春の空色に映し出される桜をほのかに思い描き、筆者の意図を自身のことに近づける生徒も多い。
そのとき、日ごろ、言葉に執心し修練していない教師が、対話と「間」への配慮もなく、教師用虎の巻(公称は指導書)そのままにあれこれ言葉(知識の言葉)を弄して説明(時に説諭!さえ)すればどうだろう。
権威と閉鎖の教室でのとげとげしい時間と空間。か、と思えば迎合(おもねり)横溢の時間と空間。
合理と効率と高速を真・善とする「正義」からの『ゆとり教育』の導入と、数年後の同じ「正義」からの撤退。「(横断的)総合学習」も然り。

言葉の概念的官僚的遊戯。「できない奴は黙ってろ、謙虚(!)になれ」的競争社会。
それらを主導する、世を導く自負を高く掲げる学者、教育者、官僚そして政治家。更にはマスコミ。
ここにある二つの「正義」。そのせめぎ合い。時間と民主主義と多数決。

「諦めは心の養生」ということわざ《人生智》を思い出した。
しかし、孔子は70歳にして「自由人」と唱えた。

もう少し時間があるようだから、「自己愛」について、幼少期、青年期、壮年期、老年期に分けての具体から抽象への、韓国や中国の友人とも(失礼ながら日本語で)、対話できればと思っている。

2015年2月21日

北京たより(2015年2月)   『年末年始』

井上 邦久

♪東京の空 灰色の空 本当の空を見たいと言う すねて甘えた

智恵子 智恵子の声が ああ安達太良の山に 今日も聞こえる♪

 

高村光太郎の『智恵子抄』を題材にして二代目コロンビア・ローズが唄った1964年のヒット曲です。ご存知の通り、初代コロンビア・ローズにはヒット曲も多く、なかでも『東京のバスガール』は小学生でも♪発車オーライ 明るく~明るく~走るのよ♪と唄い、映画でのサージの制服に感動した思い出があります。今は三代目がたまに「BS日本のうた」などで唄っています。さて、詩集『智恵子抄』は戦前の作品、その頃の東京の空は灰色だった。そして唄がヒットした頃の東京は光化学スモッグ前夜の時代でした。
この唄を思い出したのは、APEC BLUEから1ヶ月余り過ぎた年末の北京の空を見ながら・・・ではなくて、大倉明著『舟木一夫の青春賛歌』(産経新聞出版。2012年)の中に同じレコード会社の仲間として、二代目コロンビア・ローズの名を見つけたからです。

年末に研修の一環として「危機対応」の模擬記者会見の訓練がありました。現役記者から厳しい突っ込みや答えに窮する質問を浴びせられ、事後講評や心得伝授をしてもらいました。その場を設営し指導を頂いたのが大倉明氏の会社でした。
事前に配られた略歴には、「・・・夕刊フジ代表などを歴任。著書に『舟木一夫の青春賛歌』」と書かれていました。
研修後にご挨拶をして、本題の舟木一夫関連の突っ込み「一番お好みの曲は何ですか?」と質問をしたところ、大倉氏は淀みなく「『哀愁の夜』です」。当方からは「『水色の人』が好きです」とお伝えしました。

前者は舟木一夫自身が最も好きな曲だとされ、コンサートでは最後までお預けされて、観客はヤキモキ。フィナーレに前奏の口笛が流れると最高潮に。さらに原曲にはなく加筆された4番まで聴けた時は幸運に思う曲です。後者はデビュー曲『高校三年生』のB面の曲です。ともにバラード系で、舟木一夫の声質と解釈力と表現力が三位一体となった名曲だと思います。
大倉氏とは短い遣り取りでしたが、ピッタリの呼吸で切っ先が接した感動がありました。日を置かず「青春賛歌 大倉 明」と達筆で書かれた著者署名付きの本が届きました。年末年始の枕頭の書として昧読し、精神的な「危機対応」をさせて頂きました。

戦前の北京市井での生活者、中江丑吉の足跡を少しずつ辿っています。

秋には長富宮ホテルからも遠くない所に住居跡を見つけました。ただ、父親の中江兆民との関係を知らなくてはと、「咽頭癌のため余命一年半の宣告を受けた自由民権運動の指導者兆民(1847~1901)の遺書」と岩波文庫の表表紙に書かれた『一年有半』を探しましたが、本棚にも書店にもありません。
探し物は、探すことを止めた時に見つかることも良くある話という井上陽水(彼のルーツは兆民の忠実な弟子の幸徳秋水に繋がるらしい?)の教えにも随い、「困った時の後藤センセ」にお尋ねしたら、正月二日の初狂言の会場でヒョイと手渡してくれました。

自由党の変節や伊藤博文への批判などの社会批評とともに、文楽(津大夫、大隅大夫の語り、吉田玉造、桐竹紋十郎の人形、そして広助の三絃を神品と評価)に通い続けての批評、梅ヶ谷,大砲、常陸山の三横綱へのご意見・注文など、幅広い世界について談論風発。泰然冷静な本人以上に気丈な夫人にもさりげなく謝意をしたためています。
ただ兆民の病重篤なるを知らぬ子供達からの手紙に心動かされることもあり、時に丑吉十一歳。幸徳秋水が浄書、編集、巻頭に引(=はしがき)を記した「生前の遺稿」初版1万部は3日で売り切れ、23版20万部を売り尽くす世紀のベストセラーになったと解説に書いています。

この文庫本を携えて、文楽劇場での正月興行・国技館での初場所に参りました。
文楽の切符も後藤センセのご好意で、贔屓の富助の三味線を目(耳)の当りで聴きました。
人間国宝であった師匠の吉田玉男が逝って数年、春の興業でその名跡を襲う吉田玉女も白髪が目立つようになりました。師匠の代役などを忠実に務めてきた玉女さんもようやく男になり、吉田の立ち役の伝統を立派に継承してくれることを祈ります。

高校の同級生、金井良輔さんは毎年年始に神戸で個展を開きます。以前に頒けてもらっていた絵画も好きでしたが、最近は石と木の造形作品の展開に闊達な印象があります。「最近は創作が愉しくて仕方がない」と言う金井君の表情は高校時代に戻った気がします。「これも家内のお蔭」と昔はあまり聴かなかった同級生の雅子さまへの感謝を口にします。
雅子さまは芸術家のマネージャーとしてのしっかり者の顔と、文化祭でフォークグループのボーカルとして参加してくれた頃の表情を交互に見せてくれます。

お二人が拠点である四条畷から離れた神戸で、この時期に個展を続けるのは聴くだけ野暮の「鎮魂」に違いありません。そのお蔭で、今年も一日遅れでしたが、鎮魂の文字が刻まれた東公園の慰霊碑に赴きました。知り合いの名前を読み、多くの無辜の人たちに頭を垂れました。

新神戸駅で最近ごひいきの「味の幕の内」(淡路屋製。小豆ご飯、蛸めし、牛肉すき焼きなどどれも美味しくて、しかもお茶と一緒に買ってもお札のおつりがあるのが嬉しいです)弁当を買って、一路東京へ。

秋葉原で乗り換えて、両国駅は二駅目。駅の構内に飾られた大きな優勝写真額(今は三重の海、二代目若乃花、白鵬)の前を速足で過ぎ、枝豆・煎餅・清酒瓶を鞄に潜めて堂々の入場・・・切符モギリ担当の北陣親方(元麒麟児)から「今日は荷物検査を丁寧にしています。ご諒解ください」と小声の助言。確かに安全検査はありましたが、こちらは北京やウルムチでの安全検査に鍛えられているので、難なくパス。入り口が妙にガランとしているな? もしかして! 松戸大相撲同好会の皆さんに暖かく迎えられて、すぐに今日は4年ぶりの天覧相撲のようだと知りました。

そういえば私服SPが視界を遮り、座布団を投げないようにとの場内放送が頻繁に流れていました。下克上の番狂あわせのない順当な相撲が続きました。特に幕内後半から貴賓席に北の湖理事長がご案内してからは、いつもより仕切り時間が短く、力士も心なしかよそ行き顔でした。
確かに横綱が負けて、座布団が乱舞するとSPも理事長も慌てるだろうなあと思いました。百歩譲って蒸留水相撲でも可とした上での注文として、先代天皇のように土俵入りから立ち会って、横綱の四股踏みによる地鎮の祈りをともにして頂きたいと思いました。

前日は神戸での追悼慰霊の儀式で祈り、翌日は東京で大相撲が犯した八百長・賭博の禊が済んだお墨付きを与えるというお二人の日程もタフなものと思いますが。
好角家(相撲=角力)だったといわれ、植物学者としても「雑草と言う名の草はない」という言葉を残されたという先帝の時代のような緩やかな空気が少なくなっているのかも知れません。また競馬やサッカーに天皇賞・天皇杯があっても、天覧庭球試合は知りません。

同じく好角家の兆民先生なら、どのようなご意見を残したでしょうか?

青春の舟木一夫は奇跡の復活で死地窮地から甦り、現役歌手として古稀を迎えています。
白秋の中江兆民は堀内博士の見立て通りの『一年有半』でこの世を留守にしました。
鎮魂の形はさまざまであって良いと思います。
生き方は更にさまざまであって良いのだと思います。

日本の年末年始のあと、ウルムチ、大連、天津を巡り、北京や上海でも農暦の年末気分の中で過ごしながら、さまざまな想念が浮かびました。

昨夜の天津駅前広場からの月と星は切れ味のよい輝きでした。北京は快晴。空気汚染はなく、米国大使館発表も「GOOD」が続いています。高い煙突からの煙は直角に南へ向けて流れています。強い北風まかせの空気模様だと思います。本当の空とは思っていません。                             (了)

 

ps;
『KANO 海のむこうの甲子園』が1月末からロードショー。
台湾での大ヒットから1年待たされましたが、好球必打でお見逃しなく。

 

2015年2月11日

あいまいさ或いはグレイゾーンに光を ―コワイ日本からやさしい日本へ―

井嶋 悠

「男女共同参画基本法」が、施行されて15年が経つ。
その間、世界の男女格差報告では、日本は2006年、115か国中79位、2012年は135か国中101位。
惨憺たる“先進国”だ。そして私はその国民の一人。しかし海外脱出など考えたこともない。理由は二つ。一つは脱出先の国・人々への無礼、一つは日本は私の母国で、その日本が好きだから。

日本のこの遅滞ぶりの大半の責任は男性にある、と男女共同社会が当然の教員社会で、33年間禄を食み、優れた(これは知力・人柄兼ねての意味で、例えば知識を誇る衒学人とか己が学歴を誇示する人などは対極にある)女性教師と多く出会い、それが教育の豊かさになることを知った一人として痛切に思う。
しかし、教育世界も含め現実のあまりに父権的、父系的、父性原理をほとんど無意識化下で前提とする歪(いびつ)さを思うのは私だけではない。もしそれが一部なら先の報告は虚偽となるはずだ。
男女形成も、生活形成も、はたまた歴史形成も、女性があってこそ、と欧米人でもアラブ人でもない、“母性の国”日本の一員として直覚的に思う。
こんなところにも明治以降の近代化=欧米父性原理について行けなくなった私が在るのかもしれないが、しかし、年金生活者の加齢(今夏、古稀を迎える)者だけではないと思えてしかたがない。否ひょっとするとだからこそ?とさえ。

選定が日本人男性であろうと思える「世界三大美人」について。非難囂々(ごうごう)を思いつつ。
三大美人は、クレオパトラ・楊貴妃・小野小町とされている。
「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに」と、来し方を顧み、その思いを切々と和歌に託した小野小町は生没年不詳、貌(かお)の画が残っていない、9世紀の伝説的人物で、墓所は全国各地に散在する由。
その彼女について、同じ平安朝、10世紀初めにまとめられた『古今和歌集』の、秀逸な詩論でもある序で、次のように評されている。 「あはれなるやうにてつよからず、いはばよき女のなやめるところあるににたり」と。
楊貴妃は、唐の玄宗皇帝に国を傾けるほどの寵愛を受け、最期は悲惨な死を迎えたことは唐時代の詩人白居易の『長恨歌』に詳しい。
クレオパトラは古代エジプトの王(ファラオ)で、その最期はコブラに己が体を噛ませての自殺といわれている。

私は三人に、女性の心身一如としての生の「美」と「悲・哀」そして「愛(かな)(しみ)」を直感し、それは男性の深奥にある母性とつながっていると思うのだが、これは私の特異さかもしれない。
ただ、クレオパトラについては、ついついエリザベス・テーラーと重なってしまい、他の二人とはどこか違う心模様はあるが。

そして、私にはこの延長上に「世界三大微笑」がある。 尚、「微笑」は、響きを含め「びしょう」もしくは「ほほえみ」でなくてはならず、「笑い」と言っては空しく台無しになる。
一説では「モナリザの微笑」と「不思議の国のアリスのチェシャ猫」と「日本人の微笑」とのことであるが、私としては、チェシャ猫ではなく、別の一説に採り上げられている「弥勒菩薩」と組み替えたい。
何となれば、そこには東アジアの心の根幹仏教と、古代朝鮮半島との交流につながる「日本人の微笑」があって、それがモナリザの微笑と重合する恍惚を思うから。
私のその根底に流れるものが母性である。

この日本人の微笑を日本人である私に心強く響かせてくれたのは、明治時代半ばに来日した西洋人ラフカディオ・ハーン(父がアイルランド人、母がギリシャ人)日本名:小泉八雲である。 彼はその著『日本人の微笑』で、松江で出会った妻節子の愛情、周りの人々の温もりを力に、日本人の、他者への慮り、やさしさの道徳律が滲み出た民族性を、西洋との対比を通して讃える。

その日本人の微笑を、今、不可解な微笑、更には笑いとして、この国際化・グローバル化世界に不相応と批判し、排斥する日本人も多い。 果たしてそうだろうか。 そこにある批判者の伝統観と文化観・文明観とそして人間観とはどういうものだろうか、と国粋主義者でもなんでもない私は思う。

「イスラム国」によって二人の日本人が殺害され、世界の日本への眼差しの今を知らされた。
テロリズムを容認するほど私たち人類は堕落していない。しかしどれほど繰り返されて来たことだろう。
アメリカは民主主義の国として自負し、教育にあってもディベート等、議論が重視される。しかし大統領暗殺が多いことも一方の事実である。
そう言う日本はどうなのか。例えば近代以降にあっても清廉潔白を言えるほど厚顔無恥ではないはずだ。にもかかわらず……。
なぜなのか。 それが人の業、と言ってしまえばあまりに寂しい。

日本の現首相は、世界に向けて「罪を償わせる」と極言した。
「償わせる」の主語は、首相の日ごろの発言からすれば日本国民の50パーセントの支持を盾としての「私」であろう。 しかし支持者も含めそのような復讐姿勢を全的に容認しているとは、首相非支持者である私ではあるが、到底思えないし、思いたくもない。
その最中、アメリカのマスコミが、その(日本の)強硬姿勢に日本の文化変貌を言い、驚きの反応を示した。 首相が頼みとして言う「国際社会」が、欧米とりわけアメリカ価値社会が暗黙化しているような現代、この反応は、首相にまた首相を「強い日本」のリーダーと見ている周辺の人々に、どういう思考を促すのだろう。

インターナショナルとナショナルの模索と指向が複雑に絡み合い、「理解」との言葉が、「分析」の意と重なることで持つ“断ち切る”発想では到底処理できない時代、自由と責任と権利と義務について、あまりにもあまりにも“人間的”な時代にあるからこそ、母性原理と父性原理の新たな吟味と調和への過程で必ず突きつけられるだろう「グレイゾーン」「あいまいさ」を考える意義を、日本人の私は思う。

「四周が海」ゆえ云々との時代はとうに過ぎ、グローバル化と自国・地域の関わりをどうするのかが、緊要の課題の今だからこそ。 その時、アジアの、東アジアの、日本の精神文化の伝統が、光明を、示唆を与えるように思える。
それは、例えば先の小泉八雲が、「日本的霊性」を唱えた鈴木大拙が、母性原理に係る論文『阿闍(あじゃ)世(せ)コンプレックス』を師・フロイトに提出した古沢(こさわ)平作(父性原理に立つフロイトの理解は得られなかったそうだが)が、またその古沢を日本に広めた精神分析医であり研究者の小此木(おこのぎ)啓吾といった人々が、明治以降の日本の近代化の諸相を視野に入れて説いていることである。
(尚、用語コンプレックスについては、単なる劣等感の意ではなく、心の統合状態としての意である、  と小此木は述べている。)

古典とはいつの時代にあっても人の根源に係ることを提示している作品であり、上記の人々もその古典作者であるはずだが、何かの事情で現代では単に過去の人なのだろうか。

この私の思いは、度々指摘している日本の自殺者(数)にも通ずることである。
1998年から2011年まで3万人を越え,2012年に3万人を下回ったとは言え、昨年2014年は27,283人で、それでも毎日75人!(毎時間3人強)の人々が自ら命を絶っている。
そこに未遂者を含めればその数は絶望的に跳ね上がる。更には、家族、親族、友人の痛み、哀・悲しみは計り知れない。
その日本は世界に冠たる経済大国で、和を尊しとする、伝統豊かな文化国家で、勤勉な先進国と言われ、日本(人)もそう自負している……。
もう対症療法の限界を超えているといっても過言ではない。
にもかかわらず、世の多くの老若人々は、自身が非合理としての人であることを棚に上げ、己を唯一絶対神化したかのような合理で、平然冷徹に突き放して言う。

―日本の(潔い、しかし悪しき)文化・伝統。心の弱さ。自業自得。無宗教の因果応報。………―

あいまいさ、グレーゾーンを見据えることはもどかしい。しかし、人に、自然に、心寄せられる人は、そこで葛藤し、悶々とし、自身の言葉を紡ごうとする。 高速時代の間(ま)では《間に合う》はずもない。
語彙(知識)がまだ不十分な子どもたちは、その分より直覚的にその人を見抜き、敬愛の情を、たとえその時に遅れても後の時間の中で、寄せる。
これも、結論を急ぐ、結果を直ぐに求める性急な私の自省である。 謙虚さの喪失を嘆く大人は多い。速いことを善しとする限り、その嘆きは身勝手である。

何度か言及する学校教育も然り。
平均年齢が80歳の時代にもかかわらず、今もって「18歳〈人生決定〉」を権威的“一線”に置く不可解。二線、三線……がない硬直性。やり直したいとの意思が、空虚に、時には絶望に近く響く柔軟性、許容性のない社会。 かと思えば、東北大震災復興にみる急ぐべきことへの遅鈍、鈍重。

私は共産主義信奉者ではないが、世の中(資本主義社会?)ってそういうもの、今更何を、と嘲弄されるだけなのだろうか。
日本の「グレイゾーン」或いは「あいまいさ」と現代について、[日韓・アジア教育文化センター]のソウルと香港の仲間(日本語教師)が持つ複眼と併せて吟味したいとも思ったりする。
しかし、「韓国人の微笑」は一見共通点もあるようにも思えるが違うし、香港の“香港人にして中国人”意識にある人々を思えば、やはりあくまでも日本だけのテーマであろう。

ところで。
近代の哲学者九鬼周造は、1979年、江戸時代の美を基に「いき」を考察し『「いき」の構造』なる書を著している。
それによると「いき」とは、男女の愛・情が醸し出す美「媚態」を土台に、「意気地」と「諦念」が統合された心で、色彩としては「灰色」であるとのこと。
なぜ灰色なのか。次のように言っている。

―灰色は白から黒に推移する無色感覚の段階である。そうして、色彩感覚のすべての色調が飽和の度 を減じた究極の灰色になってしまう。灰色は……色の淡さそのものを表わしている光覚である。―

孔子と併せて、東アジアの雄、老子の「玄」を思い起こさせる。

野暮(いきの反対)よりいき。いきな日本で在ってほしい。

もっとも私は、いきなどほとんど無縁、皆無の人生で、だからといって古稀にしてそれに向かうのは、いくら孔子が自由人を言おうと、噴飯もの以外何ものでもない。 ただ、輪廻とあらば、娘の死とその経緯と背景、そこから先鋭的に自覚された33年間の中高校教師人生、そして70年間の己が人生等々、多事悲喜こもごもと自省を糧に、残る現世、この豊かな自然下の日々との遭遇を縁に、妻との最後の二人三脚、“新生”に備えた「いき」のDNA素地創り時間にできれば、と思ったりする。

 
【備考】「はんなり・じんわり・まったり」

明治までは上京とは京都に上ることだった。しかし、東京遷都があって今は東京に行くことに使われる。にもかかわらず「上方」との言葉は共通語として私たちは当然のように使っている。 歴史の重さ。
大阪生まれの上方文化研究者が言うには、上方の魅力は「はんなり・じんわり・まったり」とか。 むろん京都人や奈良人などからすれば抗議、異論もあろうが、これらの言葉の音感が「グレイゾーン」「あいまいさ」に通ずるように思えるので、以下に牧村史陽編の『大阪ことば辞典』から語義を引用する。

「はんなり」:(気質や色彩について)はなやか、はればれ、明朗、陽気、くすんでいないの意。 諸説あるが「花なり」「ほんのり」の訛りではないかと。

「じんわり」:ゆっくり

「まったり」:食物の辛くない落ち着いた味をいう。

どうでしょうか。

2015年2月3日

「北京たより」  2015年新春インタビュー (上海)

今年最初の「北京たより」は、筆者井上邦久さんへの、大城昭仁さんのインタビューです。
大城さんは、「英必諾企業管理諮詢(上海)[INVENIO CHINA]総経理CEOで、
国際公認投資アナリストとして活躍されています。 (井嶋記)

「人には添うてみよ、馬には乗ってみよ」

                                                                        井上 邦久

(大城)本日は、井上さんの行動原理や意思決定の「本(もと)」に迫って、読者の方の「本立道生」のヒントにできればと思います。井上さんが大事にされている価値観、哲学を教えていただけますでしょうか。

(井上)哲学ではありませんが、『人』を基本に考えています。だから「適材適所」という言葉が苦手です。なんとなく、恣意的で、人をコマのように考えていませんか?人間の尊厳を軽く捉えてはいけない。

(大城)なるほど、確かにそうですね。それに、今の効率だけを重視した、極めて短期視点にも感じられますね。

(井上)人には、それぞれにさまざまな可能性があるし、他人が思った通りにできるような存在ではないのでは。だから、リーダーとして重要なのは、適材適所に人を配置することではなくて、個々の潜在力を開花する土壌を準備することではないでしょうか。

(大城)どうやって開花させるのですか?

(井上)リーダーは、「点火型」でなくてはいけません。それから、「可燃型」である必要もあります。みんなに点火して、自らも燃える。そして、みんなが点火した火に反応するのがリーダーの役割だと思います。

(大城)実際には、全く正反対の方も多くいますね。

(井上)一概には言えないでしょうが、中には何かやろうと言うといつも火を消す「消火型」、全く燃えない「不燃型」の人は居ますね。冷静にリスクを見つめるのは結構ですが、そういう人ばかりがリーダーだと、人の可能性が開花しにくく、組織が衰退していく惧れがあります。やはりリーダーは燃えてないとね。

(大城)全ての人に火を点けることはできますか?

(井上)点けようとしなければなりません。雑草という名前の草がないのと同じで、人には一人一人に個性がある。いろんな人に、いろんな良いところがある。その可能性を見つけて開花の準備をするのがリーダーの仕事です。「愉しい、嬉しい」というのを中国語で「開心」と言いますね。心を開いて、相手に寄り添い、馬に乗ってみるのが始まりだと思います。朝からできるだけ多くの同僚に対して、「你好+1」を心がけています。その為に、早寝早起きと深い眠りを得る工夫をします。

 

ウルムチへの挑戦

(大城)ウルムチへの拠点開設を決められましたね。テロの問題などもあり、2000年以降の開設は、ほとんど例がないと聞いています。

(井上)確かに、民族紛争の火がくすぶっている地域で、敬遠されていますね。でも、高度成長していく地域の一つだと分析していますし、中央アジア・ロシアそしてヨーロッパに繋がる大きな可能性を秘めた地域でもあります。だから、自分たちの目で地下のマグマの状態を常に“定点観測”して、中国ビジネスのリスクと可能性に対して、自信を持ってお客さまにお話したいと思って進出を決めました。

(大城)自らの目で見ることが目的ですか。

(井上)当然、短期・長期の事業上の収益は初歩的に考えています。しかし、本質的には、中国に寄り添いつつも、中国との距離感覚を磨く試練の場所の一つだと考えています。

(大城)中国のほとんどの歴史書は、人物別の列伝の形で書かれていますね。人に寄り添って記録しようとしているように思います。中国の歴史は「人の歴史」で、人間研究なのだなぁっていつも思います。

(井上)個人的には、すぐに便利に使えるけど価値が下がるばかりの工業製品よりも、使い込む程に価値と親しみが増す民藝品を集めています。寄り添って、関係を深めていかなければ味わいのあるものにならない。適材適所は、工業製品に似ている話ですね。

 

中国に寄り添う

(大城)寄り添うといえば、中国に“寄り添って”何年ですか?

(井上)中国に初めて来たのは71年です。80年から出張でべたっと年間に150日以上は中国にいました。

(大城)71年というと、日中共同声明による国交正常化より前じゃないですか!それは、すごいですね。

(井上)実は、その折に幸運にも周恩来さんと面談して、食事もご馳走になりました。政治的に大変な時期にもかかわらず、細やかなお持て成しを頂いて、本当に懐の大きい方でした。

(大城)それは、どれほどすごいことなのか、私には想像がつきません。周恩来さんは、私にとっては、まだ生まれる前の、歴史上の人物ですよ。

(井上)その後、ヨーロッパにも頻繁に行き、南米にも足を伸ばしました。中国の地図を土産とプレゼンの為に持っていくと取り合いなんですよ。中国は、見たこともない未知の世界。みんな、興味津々でした。

(大城)そういった世界を飛び回る生活をしていると、世界はどんな風に見えるのですか?

(井上)『複眼』が身についたかも知れません。一方から見た世界は、他方から見ると全く違う見え方をする。人間についての見方も同じ、民族や国に対する見方も同じ。壁を低く、心を開いて、寄り添っていくという考えは、そういうところから生まれてきたのかもしれませんね。ウルムチ進出も原点はそこかもしれません。

(大城)最後に、読者のみなさんに“元気が出る”一言をお願いします。

(井上)有名なクラーク博士の言葉、“Boys, be ambitious!”には続きがあるっていうのはご存じですか? 北大教授の友人に確認したのですが、“Boys, be ambitious like this old man!”が正しくて、60歳を過ぎた友人も授業で繰り返し口にしているそうです。同年輩の僕も次はカンボジアに燃えています。