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2014年12月30日

2014年の終わりに 改めて『日韓・アジア教育文化センター』について思う

韓国中高校韓国人日本語教師へのアンケート(2014年2月実施)を糧にして

井嶋 悠

[嫌 / 反/ 侮/ 蔑……韓・中]
雑誌等の特集で、マスコミやインターネットで、この言葉群が激増して久しく、且つ継続中である。
私の身近でも、韓国(人)、中国(人)への嫌悪を言う日本人はうなぎ登りだ。

私と韓国との出会いは1993年、「ソウル日本語教育研究会」(高校韓国人日本語教師を中心に、中学・大学の日韓日本語教師の公的研究会)の当時会長と役員3人の韓国人である。それが『日韓・アジア教育文化センター』の源流で、5年後、中国・台湾と出会う。
(以後20年間の活動内容は、このブログを掲載している[http://jk-asia.net/]を参照ください。)

私自身、幾つかの映画から韓国映画の制作力に驚嘆すると同時に、『シュリ』や『JSA』また『ホワイト・バッジ』といった作品から韓国が抱える南北問題、ベトナム戦争従軍問題といった日本にはない社会性にリアルな響きで覚醒された一人ではあるが、“韓流”に傾倒したわけでもない。
しかし「親韓」ではある。但し、韓国で言う「親日」ではなく「知日」の意味に近い。だから得意絶頂的激増には、甚だ複雑な思いが過っている。
ましてや、2年前の2012年に23歳で天上に“戻った”娘に愛情を注いでくださり、死の報せにわざわざ来日くださった韓国人日本語の先生方、更には娘と親近感を共有した同世代の韓国の若者があるだけになおさらである。

それがあるからか、この激増は、一部?の、政治家、有識者、マスコミ更には書店の、悪意ある(する側からすれば善意)策略・扇動ではないのか、と相互にどういう「益」(国益?)があるのか皆目分からないにもかかわらず、あらぬ勘繰りをすることさえある。自分が酷(むご)く情けない話だ。
あたかも「攻撃は最大の防御」とでも言わんとするかのような趣だが、スポーツ用語で十分だ。
中国についても同じである。
ただ、香港(信頼する「香港人」日本語教師がいる)と親日の情の強い台湾は違うように思うが、まだ明確な私の言葉で言えない。

どこの国・地域にも、傍若無人、非礼の、自己・自文化絶対の独善人はいる。
私の69年間の人生でも、そんな日本人に数多く会っている。
この私もその一人であろうから、自照自省自戒そして娘への鎮魂で、昨年2013年夏からこの「ブログ」に醜悪文承知で投稿している。それは、私にとっては、確実に心の整理になっているが。
そして今、自国(人)批判はするが、他国・地域(人)批判はしないと心に決めている。

「従軍慰安婦」問題での「河野談話」「村山談話」。

非政治的志向の私ではあるが、今回のアンケートとそれを可能にした1994年からの日韓、1998年からの日韓中台の交流があるからこそ、この二つの事実を私たち日本人はどれほど共有しているのだろうか、と改めて思う。
一方で、世の動向に直接関わる政治家と彼らを支え導く有識者、そしてマスコミの、それぞれが根拠をもって正当とする主張の多様とその土壌・背景の民主主義からすれば、共有など言うのは矛盾にして感傷に過ぎないのだろうか、とも思ったりする。
それでも、現首相のホンネとタテマエ的発言の真偽が流布し、その都度欧米での批判が同じく激増していることの元凶はどこにあるのかと考えてしまう。

「自」を忘れ、打っ棄った「他」批判は、時と共に自己陶酔の虚しさ、哀しみとして残るだけである。
グローバル化が謳われる現代、弱者救済の言葉が、美辞麗句の政治言語化と堕し始めた《自殺率は世界先進国で1,2位を競い、「子どもの貧困」が7人に1人、「2011・3・11」問題は解決済みかのような、等々》虚飾日本、「日本人の繊細さ」とは真逆に、太平洋戦争をきれいさっぱり水に流し、敗戦後の半世紀に、すべて自力で経済超大国になったかのような神経。
この、新たな「富国強兵」欲望と「弱肉強食・優勝劣敗」を正義とする政治と世情の現代日本は、東アジアは言うに及ばず、世界でどれほどの信頼を得ているだろうか。
現首相の歴代首相最多の国費(税金)を使っての外国訪問(外遊!!)、そして貸与、融資とは一体何なのだろうか。

時間は立ち止まることなく進む。無限。そして人の命も才も有限。
先送りにすることは次代、子孫への罪悪である。
二人の著名な、日本の韓国に精通するジャーナリストと韓国の作家が対談で、「日本では竹島、韓国では独島ということです」と共感的に語り合うのも、
中国の今は亡き高官が、同じく今は亡き日本の高官に「解決は次の世代に委ねましょう」旨言ったのも、
中庸の善意から解せば、人間の有限性を謙虚に言っているとも取れる。

そこで「落としどころ」との政治的言語が動き出すのかもしれない。
歴史は戻せない。しかし意図的ゼロへの透明な切磋琢磨は、人間ならではの可能な所為である。その時、純真な謙虚さが、信頼の加速になる、とこれも69年間の人生自照自省から思う。限られた経験ながら、そこに東西異文化はないと思う。

内閣府が、2014年度に、日本・韓国・アメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・スエーデンの13歳~29歳の男女若者各1000人を対象に行った『我が国と諸外国の若者の意識に関する調査』では、日本の若者の政治への関心は、「どちらかと言えば関心あり」を含めれば他国と大差はない。
しかし、積極的関心で言えば低い、との結果が出ている。それに比し、韓国はドイツと同程度に高い。
この結果に思案、憂慮する人が世代を越えてある時、「従軍慰安婦」問題について、先ず日本人老世代の謙虚な発露として、次のようなことについて中高年世代も併せて共有できたらと思う。

○1910年の併合に始まる36年間の植民地支配と日本の過酷な抑圧・支配や残虐行為の事実、また明治時代に醸成された韓国・朝鮮人差別について、私たちに明確な共有があるのかどうか。

○「強制連行」を示す資料はないとのことについて、疑問を持つ有識者が在ると聞く。その事実と根拠の真偽はどうなのか。

○「いわゆる従軍慰安婦」の「いわゆる」の用語について。また、英語のComfort Woman との違いについて、どのような語感と自覚を持っているのか。

○「性」と人間、また男と女の性意識に関して、幾つかの論説、また戦地での男兵士の性は自然として不可決、不可避が当然の前提として語られることについて、その認識に客観的共有があるのかどうか。

ここには[嫌 / 反/ 侮/ 蔑……韓・中]に十全に感得できないでいる私がいる。
だからこそもう一度、アンケート結果の『第1次報告』[本ブログ、2014年5月に掲載]から、加筆、整理し、抄出する。
私の、私たちの直覚、指向の、再考、再確認の縁となることを願って。

来月2015年1月、アンケート実現への尽力者であり、私たちセンター委員である「ソウル日本語教育研究会」元会長で、中高校日本語教科書執筆を重ねている朴(パク) 且煥(チャファン)先生が、更には同じく1月に、
東京で制作した韓国の別の高校日本語教科書映像版の教科書執筆主幹朴(パク) 允(ユン)原(ウオン)先生が来日し、会う。

これらの拙い発言が、改めての意見交換資料になれば、と思う。

 

 

【アンケート報告:抄出】

〔Ⅰ〕 「日本語教師を目指した理由」から(抄)

以下の回答者は、ほとんどが1994年来交流のある旧知の先生方である。

・日本文化への関心 / 日本への正しい理解(30代・男)

・日本の植民地支配に対する韓国人の感情的傾向を克服し、円満な関係を築くための日本理

解とそのための子どもへの教育(50代・男)

・先進国としての日本への学習。

/ 歴史的にも政治的にも関わり深い隣国への理解と教育(50代・男)

・隣国としての韓日友好の発展モデルの形成(50代・男)

・隣国の言葉を通しての文化理解と国際交流(50代・男)

・高校時代の学習(50代・男)

・1970年代開発途上国韓国にあって、先進国日本の文化、経済、科学、技術などを子どもたちに学習させるために。/ 在日韓国人への韓国語、文化の教育(60代・男)
参考:対話のための井嶋の私感から(抄)

1、日本語への興味・関心の回答に対して(抄)

□和語・漢語・外来語の使用について、視覚、聴覚両面からの是非が言われ続け、今一層強くなっているように、私自身も和語について再確認する時機にあるのではと思う。そのことで、外来語多用の疑義、批判への自身の回答にもなると思える。

□日本語のオノマトペ(擬声語・擬態語)の豊かさから、自然と人間と言葉に思い巡らすことで、日本人、日本文化と現代を考える縁(よすが)となる、と私の日本語研鑽からも思う。韓国語もオノマトペが豊かである。言葉と人と自然の日韓親和比較は興味あるテーマだ。そこから、先進国、文明国と人間についても考えが広がるように思えたりする。日本では“近代主義者”は、オノマトペを軽んじると言われているが、詩人草野心平の用法などに触れると想像力が心地よく刺激される。

 

2、日韓近現代史に関わることについて(抄)

□……世界共同体構想にあって、富国強兵型政治の限界が顕在化する現代、それを厳しく指摘する専門家がマスメディアに登場することはほとんどない。
政経関係の研究所の著名な代表者が、私が共感するような社会言動を「反文明的な発言が知的であるような風潮」と切って捨てたテレビ場面に接したが、非常に違和感を覚えた。
また、これは同じく著名な韓国文化韓国語研究者から直接聞いた話で、某テレビ局から「竹島(独島)」問題について自由に語ってほしいとの要請で、収録時、持論を30分余り語ったところ、放映されたのは1分ほどであったとのこと。
編集者は、テレビ局のディレクターであり、プロデューサーであり、その後ろにいる人たちである。(蛇足ながら、その人達のほとんどは高学歴人である。)
これは、原発問題でも同じであり、今なお続く「水俣病」問題でもそうである。

それらの現状にあって、私たちはどう自身の意見を持てばよいのか。
この時、学校教育の重要性が指摘されるが、学校、厳密に言えば教師集団社会(更に言えば人の域を超えた権威性さえ持つ教師が多い集団社会)としての学校が、どのように機能しているか、どれほど検証されているだろうか、と私的経験から痛切に思う。

2005年か06年、韓国・慶州を訪ねた際、公道に、「朝鮮通信使」回顧の大きな横断幕が日本語で書かれているのを見て、韓国人の進取性に感銘したことが、懐かしく思い出される。

私たち日本人は、日本の朝鮮統治で中学校長として派遣された父の関係で、韓国中部の都市・大邱(てぐ)で生まれ、戦後、韓国の母(オモニ)たちの慈愛を背に、福岡の筑豊に住み、日本を厳しく、優しく見つめている、森崎和江さん(1927年生まれ・作家)という素晴らしい女性を持っている。

また、2006年に訪問した「慶州ナザレ園」の日本人老女たちを、その彼女たちに寄り添い、養護する韓国人たちを知っている。

これらの思いは、どのように汲み取られるのだろうか。

□独島(竹島)問題のことで

私たちの仲間の韓国人が、家族共々日本に留学中でのこと。
お子さんが在学した公立小学校(外国人子女受け入れ校)の公開発表授業で、お子さんが、「独島(竹島)」問題を採り上げ、日韓の私たちの手で近い将来に平和的解決を目指したい旨、訴える姿に接した氏の、こみ上げるものを抑えることができなかったとの言葉が、今も私の心に強く刻み込まれている。
そのお子さんは、今、東京の大学で東アジア史を学習している。

□在日韓国人

二人の在日韓国人の大学教員(男性)がいる。二人とも在日韓国人関係の著書もあり、日本でよく知られた人である。
しかし二人の立脚点(視点)は違う。
一人は、2世3世の時代になり、かつての時代の抑圧、差別、貧困だけではない、との視点。
一人は、現状認識は同じ理解ながら、問題の本質は変わっていない、との視点。

最近、「ヘイトクライム」と言う言葉を見聞きすることが増えていて、インターネット情報には、その実際の動画も多い。例えば、東京(新大久保)や大阪(鶴橋)での韓国人・朝鮮人への攻撃である。
対欧米人(主にその白人)に対してはなく、対韓国・朝鮮また中国に対して噴出することに観る、抜き難い人間の差別意識。
日本に限らず古今東西常に在る、自身のアイデンティティ確保と安堵のための他者攻撃心と行動と正当化。扇動するメディア。そのメディアを操る人々。
これも教育の成果なのか。

旧知の在日韓国人から聞いた話で、その数の多少は分からないが、在日韓国人が祖国韓国に行った際、祖国でも侮蔑、差別を受けるという、日本と祖国での二重の差別。
尚、この延長上に入ることとして、日本人と白人との「国際結婚」での子息子女への、日本ともう一方の、両国での差別についても、在職校の経験から幾つか接した。
ところで、日本での「左翼」と「右翼」の用語については、今、改めて確認すべきではないか、と思う。それぞれあまりにも一面的固定的に思えてならない。
左翼=希望、右翼=恐怖との摩訶不思議な図式の検証の必要。

15年ほど前、こんな経験もした。
勤務高校で、ソウルの仲間と高校希望者対象の「韓国研修」を企画した。
希望者に[北朝鮮]籍の生徒がいた。韓国領事館の理解が得られその生徒の参加が実現した。
保護者の事前の心配、不安は大きく(その内容を聞き、現実の怖しさを思い知らされたのだが)、ソウルでは他の生徒(日本国籍日本人)と協力しその生徒と常に行動を共にした。そして何事もなく帰国した。
行きたくとも行けないソウル生まれの保護者の喜び、感謝は尽くせないほどのものであった。

この現実をどう受け止めれば良いのだろうか。

〔Ⅱ〕 「日本への関心対象について」から(抄)

[回答](数字は回答数)

  1. 言葉(日本語)15
  2. 映画(含む、アニメ)13 〈別項の「アニメ・漫画」との合計〉
  3. 食べ物 8
  4. 音楽 6
  5. 歴史 5
  6. 教育 / 美術・デザイン 各4
  7. 経済 3
  8. 思想 / 自然 / 政治 / 技術/ 文学/ スポーツ  各1
  9. [その他]

 

参考:対話のための井嶋の私感から(抄)

 音楽

ソウル市郊外にある「独立記念館」で、独り夏の碧空の飛行機雲を追いながら聞き感銘し、後にそれを伝えた韓国人の仲間からいただいた、韓国の英雄たちを讃える
荘厳で叙情性豊かなクラシック調の歌の数々[CD]は、今も愛聴している。

アニメ

世界に浸透する日本の作品として、「鉄腕アトム」「火の鳥」等々膨大な作品を描いた手塚治虫や、「どらえもん」「ドラゴンボール」「セーラームーン」等々、限ら
れた作品しか知らない私でもあり、

ここでは、私の中で共感することが多い、現代日本を代表する(昨年、引退を宣言)人として、宮崎(みやざき)駿(はやお)氏(1941年生まれ)について、次の書からアン
ケートの趣旨、背景にも通ずる氏の言葉を幾つかだけ引用する。

『時代の風音(かぜおと)』(1997年刊) [この書は、氏と作家の司馬遼太郎〈1996年死去〉及び堀田(ほった)善(よし)衛(え)〈1998年死去〉による対話集で、
「二十世紀とは」「国家はどこへ行く」「イスラムの姿」「アニメーションの世界」「宗教の幹」「日本人のありよう」
「食べ物の文化」「地球人への処方箋」の八章を立て、和気あいあい鼎談(ていだん)を展開している。]

尚、これらの宮崎氏の言葉は、三者の共有の言葉でもある。

「心情的左翼だった自分が、経済繁栄と社会主義国の没落で自動的に転向し、続出する理想のない現実主義者の仲間にだけはなりたくありませんでした。」

「私は敗戦後、学校とNHKのラジオで、日本は四等国で実におろかな国だったという話ばっかり聞きました。……ほんとうにダメな国に生まれたと感じていたので、農村の風景を見ますと、農家のかやぶきの下は、……ありとあらゆる非人間的な行為が行われる暗闇の世界だというふうに思いました。 ……『アルプスの少女ハイジ』というテレビシリーズを作るために、スイスに行って帰ってきましたら、日本の景色のほうが自分は好きだったことに気づいたんですね。ずいぶんまわり道をせざるを得ませんでした。」

「成金になるとしばらくの間、熱が冷めるまではしょうがないでしょうね。なんでも買いあさった挙げ句、もうどうでもいいやと思うようになるまでは。イギリス人だってここへくるまでものすごく傲(ごう)岸(がん)な時代があったでしょう。」

「日本の経済活動の方向は、東アジア全体の現在を考えて取り組まないと、始まったばかりの流民の時代に、取り返しのつかないことになりそうですね。」

「森と闇が強い時代には、光は光明そのものだったのでしょうね。でも、人間のほうが強くなって光ばかりになると、闇もたいせつなんだと気がつくわけです。私は闇のほうにちょっと味方をしたくなっているのですが。」
《参考》

・当時、アニメーション制作の7割(現場の感覚では9割)が、韓国や中国制作、と宮崎氏は指摘している。

・刊行時前後の宮崎氏の作品

1988年 「となりのトトロ」    1989年 「魔女の宅急便」

1997年 「もののけ姫」      2001年 「千と千尋の神隠し」

 

術・デザイン

ソウルの高校の韓国人日本語教師(女性)から、「今、日本では、柳(やなぎ)宗悦(むねよし)はどのように評価されていますか」と質問され、柳 宗悦の評論『雑器
の美』(1925年)を渡したことがある。

食べ物

都市圏文化では「グルメ」と「セレブ」が、一対のような使われ方のように思えるが、そのような高級のものだけでなく、市井の食べ物屋や一般家庭の味を知って
自身の「おいしさ」感について、「食べ物は人間生活で最も保守的」との言葉と併せ、思案してもらえれば、と私の韓国食体験からも思う。

 

教育

以前の交流・会議でも取り上げた主題で、日韓の、国語教育・社会教育・外国語教育についての中高校の現場教員の意見交換から、両国の学校教育の目標と現在そし
て国家の関わり方が、浮かび上がって来るように思える。
それは、負の一面としてある、自殺者数に関して、両国が世界上位10位以内(先進国との意味合いで言えば1,2位)になっていること、
またそのこととも重なる「いじめ」「体罰」問題と併せて、共有できること大ではないかと思う。

思想

これは、東アジアの思想にもなるかとは思うが、源流の中国で昔使われた「家を出れば儒教、帰れば道教」との言葉が、私は非常に気に入っている。
それも一つの「ウチとソト」とも言えるのではないか。

日本で、七五三は神社、結婚式はキリスト教、葬式は仏教などと皮肉っぽく言われるが、仏教の中庸、と無宗教という無尽性は、日本人が本来持っているはず?の、
人為の壁を超えた自然融合という理想の極致(エクスタシー)ともつながっているように思える。

 

 

 

2014年12月12日

私の60代最後の、娘の三回忌の、2014年の有終に ―妻の勇断が英断へと紡ぐ10年間と2015年へ―

井嶋 悠

時は瞬く過ぎ去り、宝塚(兵庫県)から栃木県に移住して10年が経つ。「10年一昔」。
この感慨は、奈良時代8世紀に、私が憧憬する60歳最後半からの数年間の中、『萬葉集』に秀歌を遺した、筑前(福岡県)守にして歌人・山上憶良について、或る著名な文学研究者が記している「七十余年の生を空しく過ぎたという、ほぞを噛むような悔恨」を、言おうとしているのではない。
むしろ逆である。
我がまま勝手な人生を経て、妻、娘、息子そして私を好しと思ってくださった方々の直接間接の愛情(愛(かな)しみ)があっての、この十年の中で得た“智恵”を、60代の最後に書き留めたいとの思いである。

【参考】以下は、教科書にしばしば掲載される、父母、妻子への、庶民への愛の歌 [例えば、「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」や「貧窮問答歌」] もさることながら、私がここ数年に魅かれることになった山上憶良の、晩年ならではの歌である。

○「世間(よのなか)は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり」(巻第五 793)

この歌は、妻や妹の重なる死にみまわれた僚友で歌人大伴旅人の心を思っての挽歌で、その背景には、彼自身が詠む老醜に懸る「・・・人に厭(いと)はえ かく行けば 人に憎まえ 老よし男(お)は かくのみならし・・・」(巻第五 804)との思いも重なっている旨言う人もある。
更には、憶良の辞世歌「士(おのこ)やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立たずして」(巻五 978)から、憶良の心の苦しさ、屈折をも重ねて想像する人もある。

尚、秋の七草を詠んだ「萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなえし また藤袴 朝顔の花」(巻五 1538)は、憶良の作と言われている。

 

移住は私が59歳、33年間の生業・中高校教師生活を退く半年前。すべては東京人の妻の勇断である。
先ず妻と私の実母(父母は私が小学生時に離婚し、以後独り生活の天涯孤独で、妻が引き取ってくれる。移住3年後に死去。享年85歳。父は私が55歳の時に死去。享年83歳)と愛犬2匹が移り、私と、心身の闘いを始めていた娘は、3年間の往来を経て定住する。娘、19歳の時。

大都会で青少年期を過ごし、兵庫(西宮・神戸)・大阪(箕面)で、私学教職を経たがゆえに体感し自覚させられる、自然と人間に係る、また都市と地方に係る、私の頭理解、知識の皮相。そこからの感得へ。

自然が在って人・心の安寧、おおらかさ。はにかみ屋(シャイ)気質の県民性、寡黙な言葉の端々からこぼれる優しさ。
(私が、これを言うとき、田舎人=善人とのあの図式ではない。ただ、首都圏等からの移住者家族の小学生が、地元の小学生を「臭い・汚い」とさげすみ、疎んじ、それに親が注意しない実態については、以前、このブログに書いた。)

一方、

公私立小中高校生、「塾」通学が、摩訶不思議とは言え必然、当然の時代にあっての教育環境での、
若者の雇用環境の限定性での、
車なくして生きて行けないとの意味での車社会と過疎化と高齢化での、

本人の意志とは一切無関係の格差の実態。

しかしそれらは、娘の心身戦いの末の死という恐るべき事実も含めて、妻の勇断が、無知な私を鞭打つかのように英断へと感じさせる日々でもある。
ただそこには、金銭管理能力皆無に近い私にもかかわらず、妻の結婚30年間に及ぶ蓄えへの深謀遠慮とやり繰り上手と、最低限度の生活保障を得た年金生活者からの、無責任発言であることの後ろめたさがあるのだが。
その一方で、主に都市圏在住のマスコミ人の、知識人の、はたまた文化人?の、一部?の人々の傲慢と虚飾を、自省を込めて糾弾したい私もある。

先の負の格差は、「大国」の、「近代化」の宿命として甘受しなければいけないということなのだろうか。

(補遺:「大国」の意味として地理的環境と経済を考えたとき、前者の国土面積は、2013年時点、世界244か国中62番目で、朝鮮(韓)半島より約150㎢大きい。
ただ、山林地域が約60%を考えれば94位前後で、地理的には小国であると私は思う。)

教育は社会を映し出す鏡そのままに、「国際」から「グローバル」との表現に、自然に?移行しつつある今にあって、世界の貧困地域での子どもたちの惨状が伝えられ、それに涙し、何もできない(しない)私に歯がゆく、苛立つことはあっても、結局はやむを得ないとして受け入れてしまっているように。
「愛情ほど同情より遠いものはない」1935年(昭和10年)代に駆け抜けた、ハンセン氏病〈当時は癩病〉作家、北條民雄の憤怒の言葉が今も突き刺さる。
また、古(いにしえ)の東西の思想家が、「小国」を前提にしてこそ「理想郷・桃源郷」が構想できたことが教えるように。

それでも、日本の歴史と蓄積された伝統からの、信念を持った“日本的”発言はあり得ないのだろうか、と思う。いわんや“小国”日本として、と。

これは、大国小国関係なく、要は「弱肉強食」が絶対前提ということに帰着し、形容語は使用者の価値観を表わしていて、日本での「弱い」と「強い」の今昔に思い及ぼすことは、心と頭と時間の無意味な浪費、時代錯誤なのだろう。
国の在りようを根元から考え直す荒唐無稽、一笑に付されることとして。

しかし、今から110年ほど前、文明開化、富国強兵、殖産興業と猛進していた明治時代後半、日本の将来に、一人は拝金主義から、一人は精神の在りようから、不安と懸念を表明していた、それぞれに確かな足跡を残した政治家・尾崎行雄と作家・夏目漱石を、私たちは持っていることを思い起こしても良いのではないか、とも思う。

この感覚は、青年時から私の中に在ったのではない。この10年の時間が顕在化させたものである。
そこに導いたのは、自然の息吹に日々24時間包まれた世界での自照自省であり、娘の死であり、更には次々に甦って来た私の身辺の人々の死である。

娘は言う。「生まれてからの19年間の、関西でのすべてを断ち切って来た」と。
死の間際に知った、中学時代の教師との軋轢、教師からの露骨な排斥[いじめ]、高校時代の教師不信を思えば、その痛苦、懊悩の断ち切りを誰が説諭できよう。
死後に、「なぜ、その時に訴えなかったのですか」との、然もありなん言葉に接したが、それらは私からすれば、娘の教師不信、と親への配慮を共有できない人の発言である。
全的に娘を正当化し、教師を糾弾し、更には幾つかの教師事例から教師全体に広げる偏狭さに堕しないよう心掛けてはいるが、娘の非、教師の是を、それぞれの表現で言う人の方が多い。
なぜだろうか。
私33年間の生業は、その教師だった。

再生への決意はままならず、妻の、己を棄てた母としてのひたすらの献身も奏することなく、移住して3年余りの一層激しくなる闘病の後、2012年4月、天上に昇る。
その時に信仰者から受けた「還浄」「神は慰労をもって引き戻された」との言葉は、信仰心の薄い私たちにもかかわらずどんなにか慰めとなったことだろう。

今、2014年を終えようとしている。
自然が教える孤独の愉悦と、併行する未熟さ露わに夜毎にも近い病と死へ不安と怖れ。
そして、生きることの三つのかなしみ[悲・哀・愛]の、その後ろに在る心象「空・無・玄ゆえの有限への目覚め、自覚」の、遅遅にして幽かながらも沈潜して行く実感。

明後日、衆議院の選挙がある。
首相を筆頭に与党の、更には多くの野党の、人であることをないがしろにした独善的で、「かなしみ」の対極にある傲慢さを思い知らせる選挙との期待は、感傷の木端微塵の選挙前予想。
「弱肉強食」?「優勝劣敗」?「適者生存」?「自然淘汰」の自然とは?

先に書いた作家・夏目漱石は、1911年(明治44年)、『現代日本の開化』と題する講演の最後の方で、次のように言っている。

――現代日本が置かれたる特殊の状況に因(よ)って吾々の開化が・・・ただ上皮(うわかわ)を滑って行き、また滑るまいと思って踏ん張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります。・・・・・・
・・・私には名案も何もない。ただできるだけ神経衰弱に罹(かか)らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。・・・。――

それから100年余りの現在。
1945年、第2?の開国?を経て、文明国にして先進国そして経済超!大国の現代日本の今。
夏目漱石の言葉は死語なのだろうか。

選挙の10日後はクリスマス。
私はクリスチャンではないが、クリスマスの音楽に魅かれる一人で、中でも16世紀のイギリスの古謡『The First Noel』(「Noel」とは詩語で、クリスマス祝歌の意)は、最も好きな曲で、聞くたびに心洗われる。
(ただ、「Born is in the king of Israel」といった詞のある歌詞については、今は触れない。)

その「Noel」が、タイトルになった2004年・アメリカ映画(群像劇)を観た。
そこでは、クリスマス・イブのニューヨークを舞台に、華やかさとはほど遠い5人(それぞれの3人と婚約している2人)の主人公たちの「哀しみ」が、「愛(かな)しみ」に移り行く姿が、主人公の一人への「奇跡」を契機とともに描かれる。

その情調・構成・間・編集(街の光の明暗の巧みな挿入等)・名優たちの演技(とりわけ主人公の一人、痴呆症で10年来入院する母親を労わりながら仕事に専念する、結婚と離婚そして生まれて間もない子どもの死を経験した質朴純真な中年女性を演じた、スーザン・サランドンの秀逸)等々、総合芸術に相応しいスタッフ・キャストの素晴らしい調和。
その要の監督(チャズ・パルミンテリ〈俳優で、これが初監督とか〉の力と感性。

国内外での「異文化(体験・理解)」は、よく聞かれることである。
私自身、国内の移動、移住で、また私たち『NPO法人日韓・アジア教育文化センター』の活動や最後の奉職校であったインターナショナル・スクールとの協働校でも度々実感しているが、同時に民族、人種、風土等々からの異文化を越えた、人の根源・魂の共感、共振も度々経験した。
芸術美、スポーツ美の感動は、その一つの極であろう。映画『ノエル』のように。
5人の群像に籠められた、西洋人からの、しかし西洋人を越えての人間への眼差しと創造への熱意。
そこに集う名優たち[スーザン・サランドン、アラン・アーキン、ロビン ウイリアムスなど]の良心。

生きることで誰しもが経験する哀しみ。その憂えの時、或る人は他の或る人との出会いで、或る人は宗教を知り、或る人は自然との対話で、また或る人は・・・で、「愛しみ」を知り、新たな生へと進む。
『萬葉集』や『竹取物語』等々、日本の古代人(こだいびと)が「愛」を「かなし」ととらえるその優しさ溢れる感性に讃嘆する。
にもかかわらず、現代日本の自殺率は、文明国・先進国と言われる諸国・地域で世界1,2位に、それも10年以上も続いているという怖ろしさ。
その無神経さの真因は、一体どこにあるのだろう。

多くの識者たちは“合理”から《弱さ》を、優しく諭すように指摘し続けるが、私は、自身の無知浅薄を知ってはいるが、それに合理で応ずることができない。
そして自殺高率は今も続いている。
対症療法ではない根治療法を考えることが、日本・日本人の現代を、人の生と社会と時代の私の価値観を確認し、それが私の子子孫孫次代を考えることになる、との思いが益々強くなる。

クリスマスの1週間後に迎える2015年。正月。新年。
「七十にして心の欲するところに従いて矩(のり)をこえず」(孔子)の自然(自ずから然り)へ、私流「天上天下唯我独尊」(釈迦)の味覚へ、修行、行者を倣う不自然な私ではなく、どこまでも私的な方法で少しでも近づける時間を、そのために父母・妹・娘・友人・師・愛犬との再会と謝罪を先送りにしてもらえれば、と相も変らぬ得手勝手そのままに、冬のこの地ゆえの静寂の中で年の暮れを迎えようとしている。

 

 

 

 

2014年12月6日

北京たより(2014年12月)  『高倉』

井上 邦久

北京オフィスの最寄り駅から地下鉄で三つ目の建国門駅に近くに長富宮ホテルがあります。先般のAPECでも、安倍首相が宿泊し、日本の報道機関の拠点が置かれました。中国を代表する長城の「長」と日本を代表する富士山の「富」を並べた御殿のようなホテルというネーミングです。
日中国交正常化のシンボルの一つとして建設され、日中経済協会・日本商会などの機関も長年入居されています。

ホテル前の長安大通りを北に渡り、二環路(環状2号線。故宮を中心に放射線状に6号線まで拡がった環状道路の老舗。往年の北京城壁の跡地で地下鉄2号線がその下を巡っています)をくぐると長安大戯院が見えてきます。上海の街歩きと異なり、北京では近くに見えても歩くと遠いので時間を要します。眼と鼻の先の距離が長い天狗のような街です。

5月4日、青年節記念京劇オールスター大会が長安大戯院で催され、いつもより割安料金での特別興行でした。全国から集った京劇名優が十八番のサワリを演じ、ミエを切っては拍手を受けるという趣向でした。
周りにはいつもより年配の観客が多く、膝で節を取ったり、口ずさんだりと和やかな雰囲気でした。ただ、サワリが分からず、ミエにも飽きてウトウトとしていた時に、「次は、大連から来演のGAO CANG JIANが登場」という司会の声に眼が覚めました。
続いて観客席から「オー!ガオ ザン ジエン!」という、どよめきが流れました。パンフレットには「高蒼健(大連)」と書かれていました。草カンムリが倉の字に付いていても、発音は同じで誰もが「高倉健」をイメージした瞬間でした。

九州の小学生の頃、三人の高倉さんを知っていました。先ず、西鉄ライオンズの一番センターの高倉照幸選手。続いて東宝映画で嵐寛十郎扮する明治天皇の傍らに侍る皇后役の高倉みゆき。そして東映の駆け出し二枚目の高倉健。野球少年には切り込み隊長の異名をとる高倉選手はスターでも、美空ひばりの『べらんめい芸者』シリーズなどの相手役という存在の高倉健には特別な思い入れはありませんでした。

それが或る年の大晦日、紅白歌合戦での大スター江利チエミの出番。伴奏のドラマー席に飛び入りした高倉健にライトが当たり「婚約者として紅組応援に駆けつけてくれました」と司会の宮田輝が紹介しました。
ひばり主演映画ではニヤケタ印象だったのが、江利チエミの婚約者としてハニカム姿にテレビ桟敷の口うるさい大人たちも好意的でした。太田昌一『紅白歌合戦と日本人』(筑摩選書)64ページには1958年大晦日のことと記録されています。

高倉、豊田、中西、大下、関口、河野、日比野と続くライオンズの黄金期の八番セカンドは「自衛隊」という仇名を付けられていた仰木彬でした。当時の自衛隊は専守防衛に徹するのが存在意義でしたから、堅守貧打の仰木選手は地味な評価でした。後年、1989年10月19日の近鉄バッファーローズの優勝やガンバロウ神戸を合言葉にオリックス球団の日本一を導き、名匠・知将と呼ばれるのですから、大きな毀誉褒貶の波であります。その仰木彬は福岡県立東筑高校で高倉健の後輩にあたります。
小倉高校と並んで北九州の名門校として有名な東筑高校。同僚のY監査役も東筑出身で長年のお付き合いです。
このお三方はいずれも二枚目、時に含羞の表情を浮かべ、渋さでモテルタイプ、そして少々ノンシャラントな風情もあってガリ勉じゃないのに成績が宜しいようです。

他のお二人は別にして、高倉健の男前については、田辺聖子が『姥ざかり 花の旅笠―-小田宅子の東路日記』に・・・宅子さんのご子孫に、俳優の高倉健さんがいらっしゃるではないか、墓誌に「ワカクシテ容姿端麗ニシテ和歌ヲ能クス、後、仏乗ニ帰シ善光寺ニ詣ヅ」とあるように美男美女の家系なのであろう・・・と書かれています。
高倉健さんは、何かに導かれるように節分の深夜に善光寺詣でを重ねていたとのことです。
後日、五代前の先祖の宅子さんの旅日記(江戸天保の頃、筑前の商家のお内儀達、五十代の仲良し四人がお伊勢詣りに出立。家業を子に譲ってから、和歌を学び、古典の教養溢れる女達の旅はエネルギッシュで、伊勢神宮から、信濃の善光寺、ここまでくれば日光参りもと突き進み。生気躍動する女旅の豊かな愉しさが甦る知的冒険お買い物紀行・・・集英社文庫より)を読んで、善光寺が結びつけてくれた縁を感じたとのことです。

訃報が公表された直後から中国のメディアは高倉健に関する記事で溢れかえったことは日本でも報道されたと思います。
いつも棒を呑んだ様な厳しいコメントをする外交部スポークスマンの浩磊副報道局長が、感情を籠めて高倉健の果たした功績を語り、『南方周報』は一面に張芸謀監督の高倉健へのオマージュ作品『単騎千里を走る』撮影時のエキストラ農民たちとの昼ごはん光景を掲げて「中国人の高倉健」とタイトルを打ちました。その他の紙面にも「高倉健与中日関係的‘蜜月期‘」「高倉健`硬漢人生‘戞然落幕」「中国媒体哀悼高倉健『很罕見』」などなど多くの追悼文が掲載されました。
それらの高倉健関連記事を集約して中国各拠点へ回覧発信をしました。いつもの無機質な業績記事や開発記事には無反応な各地から、すぐに熱いメッセージが多く寄せられました。

数日後の営業会議の席上、ある部長が「先ず高倉健の冥福を祈ります。彼の映画『追捕(君よ憤怒の河を渡れ)』は改革開放後に初めて射した光のようでした。若い頃の我々が日本に憧れを持ち、日本文化を学び、今も日本企業に何十年も働く契機になりました。あの輝いていた時代の空気を取り戻したいと思います」と訥々と述べてから、「それでは先月の業績ですが、計画未達でした・・・」と続きました。

〈前回の〉「戸隠」余聞、APEC報告そしてカンボジア出張についても綴るつもりでしたが、安倍・習近平の仏頂面握手のことなども含めて割愛します。
一人の笑顔と口数の少ない人間がどれだけ多くの中国人に大切に思われていたかを再認識し、まさに中国大陸で『千里走単騎』だった高倉健さんへのささやかな追悼文を綴りました。                                                                     (了)