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2017年12月22日

「母性」「父性」の私的再考 ―分かって分からない母性・父性―

井嶋 悠

現代日本(私の場合、他国・地域を賞揚することはあるが、浅薄な知識や体験で批判することは無礼と思う一人で、あくまでも母国日本を意識してのことである)で、母性(原理)と父性(原理)について、再び?父性優先が加速され、離反しているように思えてしかたがない。そんな私の母性と父性を確かめ、そもそも母性とか父性とは一体何なのかを再確認したく、小さくまとめてみることにした。
『父性の復権』『母性の復権』『日本女性が世界を変える』(いずれも既刊の書名)といった意気込みではなく、当然の前提としてあるかのような母性=女性、父性=男性に疑問を持っている一人としてである。

先の前2書から母性と父性の条件を確認してみる。筆者は共に深層心理学者の林 道義氏(1937~)。尚、引用に際しては筆者の表現を基に私の方で要約している。

まず母性。
あくまでも子どもの母(主に実母)を前提に「母性の条件」として以下を挙げている。

○子どもを可愛いと感ずる心
○母性のより良い発揮のための心の余裕
○安定した心
○盲目的な愛ではなく、自発的に判断し、臨機応変に判断する理性、賢さ

次に父性。
家族の長としての父を前提に「父性の条件」を以下のように言う。

○家族を統合する力・構成力
○自身の内面及び外の世界にあっても自分なりの中心を持ち、それを基準に家
族を組み立てて行く力
○自然との融和的な付き合いもあって形成された日本人特有の繊細で美しい感
覚を伝える役割
○その感覚で創られた日本文化への愛着とその継承者としての自覚と伝える力
○公平でかつ正義の立場に立って、全体的、客観的に視ることができる力

この拙稿は書評が目的ではないが、どこか腑に落ちない私がいて、氏の言う諸条件を自身に重ねてみるとほぼ「父性失格者」に思い到る。
では母性についてはどうか。
出産と言う生理的身体的な決定的違いから心理的違いもあると思うので、自身のこととして言えないが、上記を母性に限定することにどこか疑問が湧く。

ただ、一つ目の「可愛い」については、私の見聞に限って言えば「可愛い」の質的違いは確実にあると思う。しかし、それが「本能的」(この表現には、いろいろと議論があるようだが)なそれなのかどうかは分からない。
それ以外の諸項については、父性においても同じく思うことで、極限的に言えば、要は「人」としての問題で、林氏説くところは、外側に表われること[例えば、態度、表情、言葉遣い、響き等]の違いと受け手の年齢、気質等に係ることではないのかと思えてしまう。
「母性幻想」「父性幻想」との指摘に私が得心するように。このことは「女らしい」「男らしい」とは、につながることでもある。男女平等の本質を考え、自覚する意味でも。

ちなみに、今、パンダ「シャンシャン」は、どんな偏屈頑固爺も眼に微笑みを生じさせるほどの国民のアイドルになっている。私ももちろん笑みこぼれる一人だが、母親(シンシン)の表情、しぐさに私は典型的な「母性」(語感的に言えば「おかあさん」)を感じている。それも「本能」との表現で括られるのだろうか。

こういった見方は、私の生い立ち[個人史]での母(生母と継母)との関係、父との関係、10歳前後での伯父伯母宅に預けられた生活時間が為せることなのかもしれないが、しかしそういった私的なことを越えて、取り巻く社会からの情報、教育の結果からいつしか或る概念に染まり切っているのではないか、画一的に判断しているのではないか、と。

このことは、儒教色のはるかに強かった明治時代、今もって光彩を放つ二人の女性・平塚 らいてう(1886~1971)、与謝野 晶子(1878~1942)の次の文章にもそれが読み取れるように思える。私の読み方の恣意性、牽強付会を承知しつつも。
二人は〔母性保護論争〕の当事者で、現在もこの問題は引き継がれて来ているが、妊娠、出産[できる・できない・する・しない]のことは措いて、母となる性を受けて在る女、との前提での「保護」に係る論争なので、ここでは立ち入らない。

初めに平塚 らいてうが、仲間と立ち上げた雑誌『青鞜』(1911年刊)の冒頭を飾る「元始女性は太陽だった」から。

――元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。

【この表現は、中程近くの「久しく家事に従事すべく極めつけられていた女性はかくてその精神の集注力を全く鈍らしてしまった。」との文の少し前と、終わりの方で繰り返される。】

(中略)

思うに自由といい、解放という意味が甚だしく誤解されてはいはしなかったろうか。(略)しかし外界の圧力や、拘束から脱せしめ、いわゆる高等教育を授け、広く一般の職業に就かせ、参政権をも与え、家庭という小天地から、親といい、夫という保護者の手から離れていわゆる独立の生活をさせたからとてそれが何で私ども女性の自由解放であろう。なるほどそれも真の自由解放の域に達せしめるによき境遇と機会とを与えるものかも知れない。しかし到底、方便である。手段である。目的ではない。理想ではない。

(中略)

女性よ、芥の山を心に築かんよりも空虚に充実することによって自然のいかに全きかを知れ。――
日本神話では、イザナギの命・イザナミの命の愛憎劇の末、イザナギの命の禊によって、左眼(平安朝頃まで左右は左が上位)から女性神天照大神が、右目から男性神月読の命が、鼻からスサノオの命が生まれた。しかし、西洋思想・歴史にあっては、母権制では愛と秩序がもたらされ、夜・月・左・大地・物質・死・集団などが重視され、次の父権制になって、母権制は「根こそぎ破壊され、完全に抑圧されたため、昼・太陽・右・天上・精神・生・個人が重視されることになった」と哲学者中村 雄二郎(1925~2017)は、『術語集』(岩波新書)の「女性原理」の項で記している。

これらを思い巡らせてみると、出発点は男性隷属(父権制)からの女性解放へのトキの声であった彼女の言葉は、日本文化を前提に、父権制の価値観を逆手(とは変な言い方だが)にとって、女性に限定せず男性の覚醒をも願って「真正の人」との表現を使ったのでは、と考えられるのではないだろうか。

次に、与謝野 晶子のエッセイ『「女らしさ」とは何か』から。

――論者はまた、「女らしさ」とは愛と、優雅と、つつましやかさとを備えていることをいうのである。

(中略)

しかし愛と、優雅と、つつましやかさとは男子にも必要な性情であると私は思います。それは特に女子にのみ期待すべきものでなくて、人間全体に共通して欠くことの出来ない人間性そのものです。それを備えていることは「女らしさ」でもなければ「男らしさ」でもなく「人間らしさ」というべきものであると思います。

(中略)

人間性の内容は愛と、優雅と、つつましやかさとに限らず、創造力と、鑑賞力と、なおその他の重要な文化能力をも含んでいます。そうしてこの人間性は何人(なんびと)にも備わっているのですが、これを出来るだけ円満に引き出すものは教育と労働です。

(中略)

「女らしさ」という言葉から解放されることは、女子が機械性から人間性に目覚めることです。人形から人間に帰ることです。もしこれを論者が「女子の中性化」と呼ぶなら、私たちはむしろそれを名誉として甘受しても好いと思います。――

「中性化」とは母性と父性の調和に通ずることであると思うし、だからこそ現代という時代にあって、母性とは、父性とは、を母性=女性、父性=男性を払拭した上で、再吟味する必要があるのではないか。
母は父であり、父は母であり、女性の中の男性性、男性の中の女性性を自己確認することで、旧来からの「母性」「父性」に何か新しい光が当てられることを、今の私には未だ言い得ることはないが、願う。

母性・父性からそれるが、その基となる男女平等・男女同権性について、「世界経済フォーラム」なる機関が、世界145か国を対象に「経済活動への参加と機会」「教育達成」「健康と生存率」「政治的発言力」の4項目からジェンダーギャップ(男女の差)を数値化し、差が小さい国から順にランキングした2016年版によると、日本は111位とか。 また、大学以上の学位を持つ男性の92%が就業しているのに対し、同等の教育を修了した女性の就業は69%にとどまっており、OECD平均の80%を大きく下回っている。 日本は、教育読み書き能力、初等教育、中等教育(中学校・高校)、平均寿命(余命)の分野では、男女間に不平等は見られないという評価で世界1位だが、労働賃金、政治家・経営管理職、教授・専門職、高等教育(大学・大学院)、国会議員数では、男女間に差が大きくいずれも100位以下との由。 元中高校教員として、男女不平等は確かにないと思うが、その教育内容、環境と将来性での成果はどうなのだろうか、とつい本題から更にそれて危惧してしまう。

「母性」「父性」と、家庭教育、社会・地域教育、そして幼児教育、中等教育、高等教育、共学教育、女子校教育、男子校教育、知識教育、知恵(叡知)教育、はたまた宗教教育……。どれほどに私たちは、明確に自身のことばを持っているだろうか。それぞれの学校の主体性と、国の方向性ともつなげながら。 そうは言っても、私の中では整理の試みは容易ではなく、もつれた糸のままだが、先の『術語集』の同じく「女性原理」の項に記されている「包み込む(氏が指摘する束縛し、捕獲し、呑み込むの側面も含めた)という母性原理」「断ち切ること、分割することとしての父性原理」との言葉は、ボーダレス、国際化世界とは言え、極東アジアの列島国日本から欧米・アラブ・アフリカ・南米・オセアニアそして日本以外のアジアの諸情勢を視ていて、或る説得力を持って響いて来る。そして日本の役割について。

男女平等、男女同権といった言葉が死語になるほどの自然な男女共同参画社会の実現のためにも「母性」「父性」の再検討、再認識は一つのきっかけになるはずだと思う。と同時に両者の調和とその実現への自覚した社会の方向性の明確な確立。
このような眼で今日の日本を、現実の諸問題を見て行くと日本は今、重要な転換期にあるように思える。

2017年12月8日

若者の保守化 ―その賛否を言う前に―

井嶋 悠

「革新」はその目標が達成された瞬間「保守」になる、との言葉に以前接し、甚(いた)く得心したことがある。いわんや精進とはほど遠いナマケモノの私だからなおのこと。と併せて加齢(72歳)の為せることかもしれない。
ただ、『智恵子抄』の詩人にして彫刻家の(当人からすれば彫刻家にして詩人と言うべきだろう)激情と波乱の人生を歩んだ高村光太郎(1883~1956)の辞世の言葉と言われている「老人になって死でやっと解放され、これで楽になっていくという感じがする。」と言えるほどには達し得てはいないが。それでもほんのりと伝わって来るものがある。
私が居た教師世界(中高校)には、文系理系問わず、中でも男性教員に、理想(夢)を熱く子どもたちに語りながら、自身は保守的な人は意外と多い。
そもそも、保守=後衛的マイナスイメージ、革新=前衛的プラスイメージがあるのはなぜだろう。
二つの辞書で意味を確認してみる。

『日本語国語大辞典』

「保守」:①正常な状態などを保ち、それが損じないようにすること。
②旧来の習慣、制度、組織、方法などを重んじ、それを保存し
ようとすること。

「革新」:習慣、制度、組織、方法などを改めて、新しくすること。

『新明解国語辞典』

「保守」:①(機械などの)正常な状態が保てるように絶えず注意するこ
と。
②伝統を守り、物事を急に変えようとはしないこと(態度)

「革新」:(因習的な)古い体制をやめて、新しいものに変えること。

日本の国語辞典は個性に乏しいが『新明解』は例外的、とのことだがなるほどとも思う。具体的には「保守」の「急に」と、「革新」の「(因習的な)」の形容語。形容語には価値観が表われる。尚、念のために「因習」を同じ『新明解』で確認すると「昔からの習慣のうち、今は弊害を与える以外の何物でもないもの。」とある。
どうだろう?
自民党の正統王道保守政党との矜持とそれへの嫌悪の輿論をなるほどと思う人は多いのではないか。

批判は、言葉の巧拙、多少、深浅はあるが、容易(たやす)い。現に私の投稿は批判(愚痴?)が随所に現われる。革新には途方もないエネルギーが求められるが、肝心要は批判、実現のその後である。

若者のテレビ離れ、新聞離れが顕著なことはつとに知られたことである。インターネットの方が容易に且つ表裏広く情報が得られる。ただ、そこでは醜悪なサイトや個(プライバシー)への傍若無人な侵害等、発信する側の、受け取る側の自由と倫理が並行線をたどりうやむやとなり繰り返される。しかし、私のこの物言い自体そのものが保守的なのかもしれない。
日々是好日、大過なく過ごすこと、人生快不快ゼロで終えることこそ全うの道、と現代の若者は覚醒しているのかもしれない。大人の老いは「刹那的」と説諭するが、若者の感性は刹那=その瞬間なくして過去も未来も更には現在もない、と釈迦の教えを無言実行して異論を唱えているようにも思える。一日生涯。一日一生。大志を抱くことへの一歩退(ひ)いた心根。平凡であることが非凡なのではないかとの直覚。

高校現代文教科書に必ずやといっていいほどに採録される中島 敦(1909~1942)の、内容と文体いずれも秀逸な作品『山月記』や『名人伝』を現代の多くの高校生は、そうとらえているのではとも思ったりする。
公私一線をはっきり画する指向。「ああはなりたくない」との、大人や社会を反面教師として視る視線。それらができず呻吟する若者は弱い者なのだろうか。人間(じんかん)の渦中での孤独。現代への無言の疑問。
だから大人たちの批評句「三無はたまた五無主義」でも、浅薄な虚無でもない、敢えて言えば「空」感。

尚、私が中高校生と言う際は、例えば既に志をもってそれに向かっている者や天賦の才を与えられた者といった生徒ではなく、学校教育理解度表現で使われる[七五三]の数的に最も多い生徒を描いている。補習塾やそれに類する私設教育機関の存在意義を思う一人だが、進学塾・予備校については、生徒在籍学校教育内容と進学先入試内容に教師から視た疑問を持っている一人である。もっとも、根本的変革はほとんどゼロに近い不可能の現状は承知しているが。

【参考】『山月記』から、この拙文で是非引用したいと思った表現を二つ記
す。

「この気持ちは誰にも分からない。誰にも分からない。おれと同じ身の
上に成った者でなければ。」

「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」

 

『働き方改革』によって多様な若者はどう変わるのだろうか。呻吟する彼ら彼女らは救いを見い出しているのだろうか。日本経済の、社会の行く末について、その主導者たちは具体的に何を語り、「財界」はどう導こうとしているのか。一方で起る[時短ハラスメント]問題は、かの“痛みなくして改革なし”の単なる一過性に過ぎないと考えているのか、その主体である若者と、どこで、どのようなう和を持ち得ようとしているのか。個我と国の関係の日本的なあなあ性の怖ろしさ。「いつか来た道」とここで言うのはあまりに早計に過ぎるか……。
以前の投稿でも挙げた、私の出会いでの貴重な事例を2例再び出す。

或る大手企業(この企業は学歴志向が強く、限られた私立大学以外、主流は国立T大と国立K大)の一部署での新人歓迎会の逸話。部署長が歓迎会企画をしたところ、主人公は欠席。曰く「どうしてアフター5まで行動を共にしなくてはいけないのですか。」

もう一つ。

やはり大手企業での製品開発に係る責任者の体験談。尚、この事例は、個としての受身性及び自由さと偏差値教育の視点から出している。
「某国立高名大学出の社員の指示に対する遵守と仕事の緻密さ、と某高偏差値でもない私立大学出身のユニークな発想、この二つの組み合わせが生み出す企業成果。」

上記の事例に、個我としてのエネルギーの強さは想うが、社会変革へのエネルギーとは結びついていない。あくまでも今自身が置かれている個の問題としてあって、それを善しとすれば、社会変革?は自然な心で、刹那の本来的釈迦の戒めとは全く異質なそれでしかない。
しかし、次の刹那[近い未来]で、私が(と同時に、職業としての有無から離れればすべての人が)係わった、係わっている教育から視て、はたして変革は不要だろうか。

例えば、少子化と高齢化(長寿化)時代にあっての、
制度と内容両方からの構造改革の時機にもかかわらず緩慢な保守改革でしかない教育課題。(具体的私案は既に投稿したので省略)
また「教育の無償化」が、どれほどに富裕階級をほくそ笑ますか承知してのことなのかどうか。
老人介護と介護士等待遇に係る国家としての敬愛心のない施策。
施策実現のための財源不足を理由に増税を正論とする安易な政治。
超借金大国日本の不可解。
西洋⇔欧米観ではないアメリカ追従(ついしょう)の被嘲笑外交と、日本の風土と歴史を水に流すかのような国際観。

これらは己が生時間内で解決解消することができるのだろうか。

人は多く利己にして功利それがあっての利他、を笑殺するほどの“智”など無い私だが、これらは負の遺産以外何ものでもないのではないか。
保守とか革新を超えた必然、普遍と思うのも、老いの大人の鬱陶しいお説教なのだろうか。
私の周囲に上記の幾つかの理由を挙げて「日本は終わった。一旦原点(ゼロ)に戻してやり直すべきだ」と呟く母親は何人も居て、それに同感する私が居る。

 

現代は情報社会で、玉石混淆そのままに片時も休むことなく押し寄せ、氾濫し、青息吐息で、いつ窒息しても、主客顚倒してもおかしくない。
電車内でひたすらスマホを降車ギリギリまで見入る青/中年は(ゲームも情報の一つと考えても)、そうでない人を数えるほうがよほど早い。
知識人[インテリ?]は世を善導する人として期待されたのは昔のことと思えるほどの〔一億総知識人〕社会の現代日本。或いは世界の趨勢。
だからこそ知識の内容が問われ、マスコミに繁く登場する「専門家」「知識人」「有識者」の発言は、時にそのお粗末さ(誰でも言える内容)で、何であの人が?と、若者、中高年の嘲りの対象となる。知識の言葉と智慧の言葉は10代の若者も直感的に聞き分けている。私自身、教育関係で何であの人が?と思うこと多である。

国語科教師に就いたときの、恩師の初めの注意「授業の終了時に三分の一が、お前から眼を離さず、傾聴していたら稀有の大成功と思え」が思い出される。そして33年間の教師生活で恩師の墓前で報告できるのは一桁数でしか記憶がない。
では、そう言う私は何者で、何者像に向かっているのだろうか。
【日本の保守主義―『心』グループ】(『戦後日本の思想』久野収・鶴見俊輔・藤田省三著〈1995年刊・岩波書店・「同時代ライブラリー236」に出会った。その時、かつて高偏差値国立大学出身・岩波書店・朝日新聞はインテリ三要件だったそうだが、今やその神話は崩れているとはいえ、古世代の私は少なくともインテリでないことが確認できた。と言うか客観的?に立証ができた安堵。
本題に戻す。

雑誌『心』に1948年、参集した知識人は42人で、国語・社会・美術の中高校教科書に少なからず登場する人は、内26人。その中には、先の高村 光太郎や韓国でも信頼度の高い民芸論者・柳 宗悦(むねよし)もいる。(尚、この雑誌は1981年に終刊する。)

教科書には新旧の時代の知性が映し出されるとすれば、42人中6割強の先人から生徒時代、教師時代に人格陶冶の時間を持ったと言える。いわんや教師時代は予習と複数回の授業(生徒との対話による復習)。その驚愕と影響力。
改めて視えて来る或る同意共感と異議申し立て。私の限界、矛盾。幾つか引用する。

「反俗的エリート主義」

「本物か贋物かを見分け、大衆を代表して何かものを言う連中を嫌う、自分た
ちを最高の文化層と考えるインテリ主義、一流主義、指導者意識」

「人間の文化が経済や政治を動かすという文化主義」

「国民の中にある超政治主義や秩序感覚」

「個人主体を認めた上で、その相互の具体的な結びつきの仕方、体験の結びつ
きの理解を深める方法が伝統」

「伝統を有として所有しないという特色が、日本の伝統で、逆に伝統は絶対無
としては、一切の外来物を消化しつくし、自分のものをそれから生み出す」

「理論を軽視する思想=教養主義」

「分裂や対立は悪で、超対立、超葛藤が善で常態とする共同体的民主主義」
では私はどういう自身像を理想としているのだろう?

―山路を登りながら、こう考えた。  智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。  住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生  れて、画が出来る。  人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。―

「高踏派」と称された夏目漱石『草枕』冒頭部分  (下線は引用者)

 

1970年、比叡山延暦寺千日回峰行(ほうぎょう)を成し遂げた大阿闍梨で、2005年70歳で逝去した、光永 澄(ちょう)道(どう)が著した書の標題は『ただの人となれ』である。(ただ、今回、この書が在住市の図書館になく未読)
(下線は引用者)

「ただの人」とはどんな人だろう? 改めて老子に心が向く。

日本の若者は、感性鋭く絶対無を直覚し、超政治的社会的生=保守に在ることが伝統的自然態なのかもしれないが、ボーダレス化し、同時に求められている「国際(化)」=「西洋・欧米(化)」の偏在的視座を正す中で、日本形成者の一人としての個我の刹那とその積み重ねへの次代を考えるべきだと思う。
その私の願いも含め一端を表わす詩を一部分現代仮名遣いにして引用して終える。

引用元は高村 光太郎の詩集『典型』(1950年・死の6年前)所収の『暗愚小伝』(戦後、岩手県花巻で疎開独居生活を送る中で作られた自照自省の詩。尚、この詩編は当時強い非難の対象となった由)

                  山  林

私はいま山林にいる。
生来の離群性はなおりそうもないが、
生活はかえって解放された。
村落社会に根をおろして
世界と村落とをやがて結びつける気だ。

(中略)

美は天然にみちみちて
人を養い人をすくう。
こんなに心平らかな日のあることを
私はかつて思わなかった。
おのれの暗愚をいやほど見たので、

(中略)

決して他の国でない日本の骨格が
山林には厳として在る。
世界に於ける我らの国の存在理由も
この骨格に基ずくだろう。

(中略)

過去も遠く未来も遠い。

2017年12月8日

中華街たより(2017年12月) 『KAITEN』

井上 邦久

毎年11月半ばに九州、山口へ巡業しています。今年は初夏の渡米直前に、父祖の地の豊前で「掃墓(墓参り)」を済ませたので、秋は北九州の大学院への出講を軸にして、徳山で原田茂さんらと出版に関する面談と「探親(里帰り)」をしました。

「はや顔にうつろひにけり初紅葉」のラベルを貼った一升瓶は父親の晩酌用地酒として小学生時代から見慣れていました。周防徳山の地で文政年間から200年近く続く銘酒醸造元が「(株)はつもみぢ」であり、その社業をご長男に譲られた相談役が原田茂さんです。大阪へ転校するまで暫く通った徳山高校の同窓生と新宿の郷土料理店「はつもみぢ」で会食したこともあり、勤め帰りには日本橋堀留の「福の花」人形町店で長州の味を愉しんできました。酒は『原田』と決めていました。博多湾に浮かぶ能古博物館の「城代家老」の友人と会食した時に、日本酒談義となり「中国大陸では中谷酒造(天津)の『朝香』、国内なら『原田』を嗜みます」と話したことがきっかけになり、別の御縁も加わって、二人で徳山の原田茂さんをお訪ねすることになりました。

2月12日、徳山高校OGの伊東敏恵NHKアナウンサー(当時は「日曜美術館」担当。徳山の名医のお嬢さん)の講演会会場で合流。社長の案内で醸造現場の見学後、早い時間から『原田』を前にして、「無言館」(窪島誠一郎館長が野見山暁治画伯と全国を回って収集した戦没画学生の遺作を展示する目的で信州上田に設立。「北京たより」2014年11月『秋休』の旅で訪問)への20年以上に及ぶ原田家の静かなる情熱について伺いました。長兄の原田新氏は東京芸術大学を繰上げ卒業して中国戦線から南太平洋ソロモン諸島へ転戦し、1943年8月に輸送船が米軍機の攻撃により沈没し戦死されています。

その翌朝、中学校の同級生で、防衛大学に進み、イージス艦の艦長まで務めた自衛官OBも加わり、徳山湾内の大津島に渡りました。回天顕彰会会長も務める原田茂さんと同級生の案内で回天基地跡、記念館を巡りました。これ以上は望めない水先案内のお二人のお蔭で、半世紀ぶりの戦跡・戦史の見学が中身の濃いものになりました。

大津島回天基地に春の波

島を発ち七十幾年未還の春

春名のみ島に百余の墓標あり

その後、原田茂さんが7月17日に投函された懇切なお便りと多くの資料を拝読したのはボストンからの帰国後でした。「無言館」開館20周年関連取材、東京芸大「奏楽堂」での戦没画学生作品展で原田新氏の自画像と初対面、地元の俳人である兼崎地橙孫の顕彰などの近況報告とともに、米国人が著した回天関連著作の翻訳出版について以下のことを熱く綴られ、交信のコピーが添えられていました。
原著『KAITEN』(マイケル・メア、ジョイ・ウォルドロン共著)2014年5月の初版。マイケル・メア氏の父君は米軍艦「ミシシネワ」乗組員。1944年11月9日、特別攻撃隊菊水隊を搭載した潜水艦は大津島の回天基地を出撃。11月20日、カロリン諸島ウルシ―環礁に停泊中の「ミシシネワ」は回天の攻撃で撃沈。米海軍67名が戦死。仁科関夫海軍中尉戦死。戦死を免れたジョン・メアは、亡くなる前に子息マイケルに「ミシシネワ」と「回天」について記録出版することを約束させ、マイケルはそれを実現した。しかし著者二人は、日本語への翻訳と出版をしてこそ意義があるとして、伝手をたどって回天顕彰会会長の原田茂さんに出版依頼した。翻訳業務は公益財団法人水交社の協力を得て進行している。しかし印刷出版についてはどこにも引き受けてくれる会社はない・・・という内容でした。

すぐに徳山と福岡に連絡を取り、11月14日に2月と同じ三人で面談することが決まりました。徳山駅到着直後の昼食の席、挨拶もそこそこに原田茂さんは11月8日に発行されたばかりの『KAITEN』翻訳本を渡してくれました。どこの出版社が引き受けたのかと奧付を見ると、「定価 2,700円 発行:回天顕彰会 山口県周南市飯島町1丁目40番地 はつもみぢビル3F」とありました。
原田茂さんの「やる時にはやる」という信条の真骨頂を改めて見せて貰いました。「家には1000冊以上届いている。これから売っていかにゃ。お宅らからも代金を貰いますよ」と呵々大笑されました。
瀬戸内の魚と『原田』を愛でながら、酔後のぼんやりした頭でNHK夜9時ニュース番組の有馬嘉男キャスターも徳山の名刹禅寺の出身、国際的なボランティア僧侶として著名であった父親の跡を継いで、国際記者としてのキャリアを積んだ人だと教わったことを思い出し、有馬キャスターに日米合作の『回天』を読んでもらってはどうであろうかと愚考しました。

遺志を継ぐ意志勁き人汗光る

控えめに岐山彩る初もみぢ

無言でもやる時はやる新走り

先の大戦の最終段階においては、後の感覚や常識では到底ついていけない発想や行動が生まれ、それを不条理なことと切り捨てるか、或いは不合理ゆえに純化して賛美するか、乖離の幅は広く、単純ではありません。11月26日付の朝刊投書欄に奈良県在住の86歳の男性が14歳の春(1945年)に、死を覚悟して海軍予科練習生に志願したことを振り返り「親不孝の馬鹿者」であったと綴っています。豊前の旧家「姫路屋」では、秀才の長男は理系進学をして「安全地帯」で火炎放射器の研究をしながら終戦を待ち、熱気溢れる次男は予科練を志願して母姉を嘆かせた、と聞いています。               (了)