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2015年7月24日

初めに心があって…… ―二人の詩人から老いを、日本を観る―

井嶋 悠

私は今、静けさをたたえる“作品”に、これまで以上に心打たれ、浄められ、そこから己をかえりみ、独り、自身に溜息をつく時間が多い。
その後ろ側に2015年の日本社会があって、私の歴史があって、高齢化社会の末席に私はいる。

“作品”のまずは、神の造化「ひと」であり、「自然」であり、そしてそのひとが創った「作物」である。
「作物」を、人々は芸術と言うかもしれないが、要はそのときどきに己が感・理・知性で真善美を直覚した「作物」である。
もう45年ほど前、当時新左翼の先鋭派に属していた高校時代の先輩の言葉が、ふと甦る。

「芸術の芸の字は藝の方が合うなあ」

その先輩は、20代後半に心臓の病で旅立った。

私は、“作物”の一つである詩(和歌、俳句を含め)に魅かれる一人だが、静かな情感の底に秘めた激しさ(激情)を、やさしい(易と優の両意があるが、芸樹にあって優は当然自明だから、ここでは易の方)言葉で紡いだ作物(難解との響きに近い難しい言葉は、私の感性、想像力では遠過ぎる)に出会うと、書いた人(詩人)をあれこれと想像する。
既に追体験した人ならば、再度、再再度……その人の生を振り返り再追想する。
作品(作物)からその人(詩人)の生を知った後、私の性向か、心の焦点はその生にもっぱらとなる。

そんな詩人が何人かいるが、ここではこのブログへの投稿契機・背景から近現代詩人二人を挙げる。
一人は、高村光太郎(1883~1956)
一人は、天野忠。(1909~1993)

二人に共通してある限りなく深い優しさ。葛藤、苦難を経、行雲流水がごとき濾過された優しさ。
私が、ここ2,3年執心している「悲・哀・愛[しみ]」につながる直覚である。

二人について、少し説明を加える。

 

高村 光太郎。

小中高校の国語教科書では必ずと言っていいほど採り上げられる詩人で、彼の人生のすべてでもあった妻(旧姓長沼)智恵子の心の病にひたすら寄り添い、最期をうたった詩『レモン哀歌』を引用する。

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白いあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光つレモンを今日も置かう

この詩の説明を、ここで繰り返す必要はないだろう。
「昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして  あなたの機関はそれなり止まつた」
この一節に込められた、愛の深さ、激しさ、哀しみ。

その高村光太郎、太平洋戦争時、「文学報国会詩部会長」として、戦意高揚、戦争協力の詩を創作したが、戦後、その悔悟から1945年に岩手県花巻で自炊独居生活に入り、7年の時間を過ごした。
その4年後の1956年、永遠の旅に立つ。その時の言葉。

――老人になって死でやっと解放され、これで楽になっていくという感じがする。まったく人間の生涯というものは苦しみの連続だ。――

彼の顔は、ことのほか安らかで、おだやかな美しさをたたえていた、とのこと。

優しさ、慈しみそして哀しみ溢れる彼の生からの魂の発露に、心揺さぶられない人はいないだろう。

以前、何かの本で読んだ、彼と交流のあった或る文学関係者(名前は忘れた)は、花巻の彼の元を訪ね、その田舎生活を目の当たりにし、直ぐに東京に戻るだろうと思った由書いていたが、研究にも創作にも縁のない私ながら、その人のさびしさを思い、そのような人が文学関係者で、彼と交流のあったことが不思議だった。

 

天野 忠。

彼は体質から酒が呑めなかったとのこと。そのことを書いた随想『酒の恨み』の一節。

――談論風発、天国の界隈を逍遥しているらしい風情の、清興悦楽の人士を、はたから健羨の眼で、ときには憎悪の眼で眺めやるしかない。こういう場面での、さらりとした分別を持ってもよい年齢に、とうになっているはずなのだが、情けないことにそれもない。
「酒のどこがいいか」問われたとき、孟嘉という人は「酒中に深味あり」と答えた由。――

彼は、京都のど真ん中の職人の家に生まれ、実に多様な職を転々とし、1932年に第1詩集を、1974年65歳の時『天野忠詩集』を出し、確かな反応を得た。
朴訥淡々と、夫婦愛と親子愛の日々を重ねながら、京都人の気概高く生きた人で、本人の受け止め方は知らないが、“天野忠翁”と親愛と敬意をもって呼ばれた人である。
三つの詩を引用する。

『伴侶』

いい気分で
いつもより一寸長湯をしていたら
ばあさんが覗きに来た。
――何や?
――いいえ、何んにも
まさかわしの裸を見に来たわけでもあるまい…。

アッと思い出した。
二三日前の新聞に一人暮らしの老人が
風呂場で死んでいるのが
五日後に発見されたという記事。
ふん
あれか。

『帰り道』

夕方
公園の橋の上を
五つぐらいの女の子と
二つぐらいの男の子が
ならんで歩いてきた。
すれちがうとき
私に聞こえるように
女の子が呟いた。
――ちっちゃい子を連れて帰るのは
しんどいな
振りかえって私はニッコリした。
むつかしい顔をして
女の子は
私を見返した。
ちっちゃい子の手をひきながら。

『叫び』

草の中に神経質な虫が一匹いた
世界中でいちばんちっぽけな奴で
うまれつき風が恐くてならない
風から逃げるために
彼は汗を流して勤労し
一年かかって穴を掘った

穴の中に楽しく縮かんでいたら
世界中でいちばんやさしい風が
そっと吹いて
穴の上のちっぽけな土を
落してしまった
虫は
世界中でいちばん小さな哀しい叫びをあげて
往生した

寡黙な優しさ。慈しみ。京都のおっとり風土。鷹揚とした時の流れ。愛(いと)しさ。漂う哀しみ。ユーモアの真骨頂。
正に「詩中に深味あり」だ。
(因みに、私の本籍は京都で、菩提寺は烏丸今出川の近くの曹洞宗寺である)

顔(貌)は創られる。高村光太郎と天野忠の老年の顔は一級品だ。

キリスト教文化圏の西洋人は、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」と言う。
日本人は初めに心があって、神(天)を想い、言霊という清澄な思いを編み出す。(私は偏向な神道信奉者でもなんでもない。)

『古今和歌集』の「仮名序」を、再び思い起こす。

「やまと歌は 人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける ……力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女のなかをもやはらげ 猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」

近代化は合理主義の裏付けなくして成り立たず、理に合うことが論理であり、言葉は論理として、時に神の論理として、知性の象徴となる。
日本は、明治「維新」との言葉が示すように、文明開化のためには脱亜細亜であらんとし、富国強兵、殖産興業に邁進した。邁進し過ぎて?1945年、歴史上初めての敗戦を経験した。しかし。好奇心と勤勉さとそのときどきの世界事情(朝鮮戦争であり、ベトナム戦争等)から、半世紀で「戦後は終わった」と言わしめ、世界一等国になった。

一等国? その前に独立国?

心と頭と身の三位不一致に悩まされる人が増えに増え、これも半世紀近くなる。
世界は、ボーダレスを言い、グローバル化を言う。聞けば聞くほど、我が身を振り返る。柄にも似合わず、そこにつきまとう広と狭のナショナリズムも併せて。
歴史の曲がり角には、己を、地域を、国を振り返る時と場が不可欠なのは古来実証済みのはずだ。
安息所[踊り場]のない螺旋(階段)発展は、人を、自然を破壊する。いわん猪突猛進そのままの直線的上昇志向は、である。

学校教育も然り。
知識の言葉から智恵の言葉への教育が、どれほど次の時代を創るか、と中高校のささやかな国語科教師体験から思う。
奈良時代からの日本が繰り返して来た「国際化」と「国風化」の歴史を顧みれば明らかだ。
そのために必要な、「あれもこれも」を善しとする偏向からの脱却と教師の意識改革。時間を人の手に。
1時間は、人類誕生以来同じ1時間だが、長寿化の現代にあっては、悠然たる1時間なのではないか。
少子化と長寿化と個の尊重を言うならばなおさらのこと。

文明と文化を問う材料がここにもあることを、私は思う。
しかし、このような考え方は、非現代人の、それも高齢者の、去って行く者の、感傷的(センチメンタル)な心に過ぎないのだろうか。
帰国子女教育・外国人子女教育に携わった教師体験と、娘の死に到る経緯からそうは思えないのだが。

高村光太郎の、天野忠の、老いの心映え・心模様は、過去の、文学世界だけでの、しかも私的なこととしてのみ輝いているのだろうか。

いつの時代でも人がある限り繰り返されることかとは思うが、現代の都市文明の醜悪さの一側面を象徴しているようにも思える、権力と権威と独善に陶酔し、自身の意に沿わない人物はサディスティックに排撃する、先の二人とは真逆の、しかし本人は詩人を自称し(何冊か詩集を出版し、サイン会もどきもしていた)、ヒューマニストにして博愛主義者を公言し、一部での絶対的尊敬を当然かのように振る舞い、しかし一方で、日々恐れ戦(おのの)き、事ある毎におどおどしていた心貧しい人・エゴイスト(職業は教育者)とも出会っているがゆえに、一層、言葉の前の心の在りように考えが及ぶ。

蛇足を重ねれば、この人物の詩を読もうとは全く思わない。幾つもの生の層を潜り抜け、研ぎ澄まされた言葉の集積である詩への冒涜を思うから。
もちろん他山の石のこととして。(もっとも、私は詩は書かないが。正しくは書けない?)

 

2015年7月17日

60でもなく、80でもなく、70の手習い ―いつ、どこから訪れるか分からない“境”―

井嶋 悠

 

怠け者の私が、人生数えるほどしかない自学自習から、日々を重ねる力を得ている。
来月古稀を迎える身としてはうれしいのだが、どこか複雑な思いも湧く、この2年余りである。
かの「十五にして学に志し」に始まる孔子の言葉(人生道)は七十歳で結ばれる。曰く、
「心の欲する所に従いて、矩(のり)〈きまり〉を踰(こ)えず」と。10年前の六十歳は「耳順う(耳順)」。
天下自由人の境地と言えようか。
まだまだ観念の中で蠢(うごめ)いている私に過ぎないが。

向学の源泉は、娘の7年間の苦闘の末の、2012年、23歳での死であることは、知る人ぞ知る、である。
その端緒が、33年間の私の生業と同じ中高校教師であるから、元々「先生」なる者に信を置かない妻は以来、ことのほか「学校」「教師」の2語を忌み言葉とし、口に出さない。

私と妻は恋愛結婚である。能天気と親不孝そのままに、28歳にして正職に、しかも何と教師に、就いて5年後である。それまでに妻を知る人々は驚いたそうだ。然もありなん。
量数で言えば、私を良き教師と評価する人は少数である。
だから、私がただただ事実に基づいて、思うままにこの【ブログ】に書く学校のこと、教師のことは、少数の読者での多数は非難、無視である。もっともなことである。
有り難くも読んで下さる多くの方は、私の公私を知る旧知の教育関係者なのだが、中には「こんな長いもの誰も読まない」と内容以前の発言もある。
しかし、読者は量より質よ、と居直っている。賛同する人は、私が知る限り多くは教師ではない。
「教師らしくない教師」との評語は教え子からも受けた。それは、私にとって心地よい響きであり、励みでもあった。娘は生前そんな私を聴き、見、優しく遠くを見るかのように微笑んでいた。
ただ、それも59歳が限界だった。

余哀と言う言葉に心揺さぶられるにもかかわらず、誤解と矛盾を承知で、私は娘に感謝している。
娘の怪訝な、しかしいつもよく分かってくれていたあの貌(かお)を思い浮かべながら。

作家・坂口安吾(1906~1955)が言っている。

――悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花咲かせ、たのしむことの発見、これをあるいは近代の発見と称してもよろしいかもしれぬ。――[『悪妻論』(1947年)]

さすが一時代を創る人は違う。孔子が言う「不惑」の歳での言葉である。

坂口安吾は、この8年後、49歳で、天上人となる。彼は“無頼派”と言われる。
私は、青年時代、この“無頼派”に憧憬を持った。遅くしての正職は、それがあるやもしれぬ。
妻は、アル中で死んだ高校時代の、私を教師に導いた恩師の影響だと言っている。憧れは背景があってのことだから、当たらずとも遠からずかもしれぬ。
しかし、単なる憧れで終わって、私は今も生き、恩師は私が結婚する少し前に孤独の中で旅立った。

自学自習と言葉紡ぎ始めたその途次に、次のような言葉にも出会った。

「境は線にしかすぎないが重い扉が立てられ、いつも閉ざされ、ただ一つだけ通れる道がある。それは橋であったり、峠であったりする。村と村との境を追分ともいうが、向こうの世界に行くためにはここを通らなければならない。そこを境というが、この境を越すためには危険がともなう。だからここには神が祀ってある。それが境の神である。」

「人間は人生をいくつかに区切って境を設けるが、時間の流れにもまた境がある。これを刻とか節という名で呼んでいる。そうして時の境を神秘化しようとする。」

[上記はいずれも『日本人物語 5 秘められた世界』(1962年)の編者・関敬吾(1899~1990)「はじめに―生活文化の秘密性―から」]

私の“境”への、娘の、娘による天からの啓示なのだろうか……。

余計なことだが、私が在職中の20年ほど関わり得た「(海外)帰国子女教育」について、更には「外国人子女教育」について、この「境」の視点から、出会った多くの生徒を思い起こしていずれまとめたいと思っている。

善悪ではなく、好悪の問題に過ぎないのだが(教師というのは、得てして好悪と善悪をほぼイーコールで話すことが多いと思う。もっとも、教師に限らないかもしれないが)、私自身不可解にして、時に苛立ち、時に有頂天にさえなる、69年間の人生と33年間の教師人生があったから、この2年ほどの時間に、或る新鮮さを直感するのかもしれない。
ひねり出す言葉は、稚拙にして、知識量の圧倒的少なさは致し方ないが、“私の言葉”との矜持はある。矜持と言う堅苦しい言葉を使ったのは、不遜・傲慢に陥らぬよう心掛けているからである。
しかしただの一小人(しょうじん)で、表現未熟者を自覚しているから、数多の言行不一致があるのは明らかである。

教師の世界は、教職免許取得者の世界である。

《ちょっと余談》
大学教師はそれとは違うはずだが、資格基準が甚だしい。「ドクター浪人」なる言葉が、高学歴貧困者の問題が生じて、20年以上なるのではないか。
以前、或る私立大学の知り合い教員から聞いた話。
准教授(当時は助教授)1名の公募に、そうそうたる高学歴者100人ほどが応募して来たとのこと。
今はどうなのだろう。大学の大衆化の一側面(その正負については今措くが、負の側面の方が強いように思う一人ではある)、大学院進学者の増加に伴い、学位取得者も多くなり、一層就職厳しいとも聞く。

因みに、ここ何年か「大学院教授」との肩書きをよく目にするが、あれも大衆化の中での教授側からの「差別化」の一つなのだろうか。学部教養課程教授と専門課程教授との差別化と同じ構造での。

閑話休題。

教員資格取得のためには、あれこれと必修講座を履修しなければならない。その時、経験から言えば、教師になって最も活きた力と思考、思案の土壌となるのは「教育実習」である。
私の実習校は、大阪の下町の公立中学校で、国語授業以前の問題にどう向き合い、取り組むかが求められる難しい学校だったからより強く思うのかもしれない。1968年、23歳の時である。
家庭の貧困と親の不在に向き合っている子どもたち、寂しがり屋の子どもたち、騒々しい教室で沈思黙考する数少ない子どもたち、休み時間にはじき豆そのままに生き返る子どもたち………。
どれほど私の心をとらえたことだろう。
幾つもの「武勇伝」を残した。
或る時、授業が始まっているにもかかわらず教室を走り回っている男子生徒の襟首を捕まえて尻を蹴とばしたことがあった。
クラス担任で、国語科の、指導教師の30代の女先生は言われた。微笑を浮かべて。

「毎年実習生を受け入れているが、あんなことしたのは、あなたが初めてよ。」

沈思黙考していた女子生徒から感謝され、蹴っ飛ばされた男子生徒はそれ以降、昼食時間、運動場での遊びにしばしば私を入れるため教員室に誘いに来た。
その時は、或る一事で過ぎ去ったが、時と共に私の糧となった。
その指導の先生は、市井の日本近代文学研究者(本業は公務員)の奥様で、実習が縁で、夫君が主宰する同人会にいつも誘ってくださった。私は同人の方々の迫力ある話を黙って聞き、ただ酒を呑んでいただけだったが。
15年ほど前、夫君は亡くなられ、指導の先生は、音楽家の娘さんに護られながら静かに余生を過ごされている。

そんな私は、人に恵まれ、以下の私学3校で専任教諭を経験し(非常勤講師を含めれば6校)、或る時から、先に触れた(海外)帰国子女教育、外国人子女教育に加えて日本語教育に携わり、実に多様な老若男女、人々と出会い、教師体験を積んだ。

・明治時代、アメリカ人女性宣教師によって創設されたキリスト教主義女子中高校。(大学も併設)
・国際都市での新たな国際教育を目指して創設された女子中高校
・インターナショナルスクールとの協働校という日本で初めての共学中高校

娘の在籍中高校は本人の意思から公立校で、高校1年次中退後卒業までは私立(単位制)である。

自身と娘から学んだことを、娘の死を境に、自省し、まとめる時間を続けている。まとめは、あくまでも体験から得た私の価値観、人生観からの、主観を基に客観を目指した言葉である。
こんな私だから教師聖職者的に礼賛したり、知識的(概念的)な教育言葉は少ない。
或る人が、私を屈折者と評したことがあった。私は正直なだけと思っていたのだが。
「正直は最良の策」(Honesty is the best policy.)世の東西、異文化はないようだが、私の場合、策略を用いる才がない、つまりバカ・アホウだけなのかもしれない。

それでも、これから、どこかで、私の学校論?教育論?を読んでもらえるなら、それも教職(とりわけ中高校の)を希望する若者に、中でもこのわがままを絵に描いたような私をオモロイと直感する若者に読んで欲しい、と傲岸にして、無恥そのままに願っている。
もっとも、この時間、いつまで続けられるかは、体力と気力、特に体力、次第としか言いようがないが。

栃木に移住しての10年の間に向き合った娘や生母の死、霊が最後の?お別れ?のためか、円形の透明なゲル状の形になって深夜、寝室の壁伝いに訪れることを経験しているとは言え、聞くわけにもいかず。

哀しみのどん底に突き落とされた親、子、大人、若者のことが、また障害を背負いながら懸命に生きる人々のことが、毎日のように伝えられる。
生活格差は広がり、それとつながる教育の、福祉の益々の歪(ゆが)み、そして平和に係る無責任極まる暴走が、露わに顕在化し、未来への不安と絶望の瀬にある人々が増え続ける寂しい日本社会そのままに。
その度毎に、私は、妻に気づかれないT・P・Oで、私の独り善がりと無為を責める。
そして、江戸っ子“おっかあ”の妻は、らしく外に感情を出すことを恥とし、淡々飄々と日々を重ねている。

亡き娘は、死の1年前の東北大震災の時、体力問題からボランティア活動に参加できない己の無為を、どれほど呪い、責めていたことだろう。

 

2015年7月10日

「女々しい」「雄々しい・男男しい」をニュートラルにして考えたい ――日本人の私の、母性の国?日本への一断想――

井嶋 悠

反・近代とか反・常識といった「知」とは全く関係なく、これまでの不勉強、懶惰(らんだ)が祟り、無知浅薄、非常識甚だしく、人生折り返し点も疾うに過ぎ、気力は老いが引き金になることで湧いたりもするが、如何せん体力の衰えは著しく、このままでは亡き娘に顔向けならず、あれこれ思案整理し、ときどきに思い浮かぶテーマを肉付けし、一文にまとめ、1983年を起点とする『日韓・アジア教育文化センター』の【ブログ】に、起点者をいいことに寄稿している。
だから、読む本も、好きな映画も、手当たり次第などあろうはずもなく、私なりの厳選?をしている。

書いた内容の優劣を言う器量は私にないが、連ねる言葉が“私の言葉”であるかどうかだけは自問自答、大切にしている。私の言葉かどうかは、70年とにもかくにも生きて来た事実と33年間の中高校国語教師体験からの直覚以外何ものもない。
そして、最近加齢相応?とみに日本のことが気に掛ったり、「悲・哀・愛;かなしみ」の美と人生に魅き入れられている。と言っても、その深度はたかだか知れてはいるのだが。

その一環で、「男らしい」「女らしい」といったことが、今もってこともなげに成り立つのか、自身を、出会った男女を思い返し、思い巡らせることがある。
そもそも、

「男らしさ(い)」:[性質、行動、体格、音声などがいかにも男であるように思える。]

「女らしさ(い)」:[しとやかである、やさしいなど、いかにも女だと思える様子である。]

との、本邦最大の国語辞典『日本国語大辞典』(小学館)の説明も、何とも分かりにくく、「男」と「女」の解字を漢和辞典で確認するも、そこから固定的或いは常識的?印象に流れてしまい、結局はその延長上の「おおしい:男男しい、雄々しい」、「めめしい:女々しい」に行き着いてしまう。

あれこれ下手な思案をしていて、以前日本文化論を拾い読みしていて知った江戸時代の偉大な思想家・本居宣長の、「人情の真実(まこと)」と「日本人」と「もののあはれ」と「女々しさ」の言説を思い出し、それを説く『石上私淑言(いそのかみの・ささめごと)』を読み始め、いたく感心、共感している最中、次の報道に接した。

一つは、岩手県で中学2年生の男子生徒が「いじめ」を受け続けていて、自殺。

一つは、無戸籍の子どもが全国の小中学校で少なくとも142人いるとの文科省の報告。

前者については、担任教師と校長の対応に、教員の自覚のかけらもない傲慢と独善と保身が、私の職場体験と重ねて過ぎり、
後者については、文科省の「未把握の子供もいるとみられ、よりきめ細かい支援と調査に努める」との言葉に、これまで何度も記した自殺問題、子どもの貧困問題と重なる、国の(官僚の、政治家の、また彼ら/彼女らを導き支える研究者の)繰り返される概念的対症療法発想を見た。

そして、後者の関連で、時期をほぼ同じくして、東京都足立区の貧困家庭が38%と報道され、一方で2020年の東京オリンピックでの新国立競技場建設費が、当初の1300億に倍近い2520億円で妥当!と決定された旨の報道があった。
かてて加えて、集団的自衛権と日米安全保障条約と日本国憲法に係る重要課題での首相の友人(それも名前を出すことでより明確になった権威主義発想とその裏側にある劣等感)と不良少年のたとえの軽薄、下品そして国民愚弄。

この報道は、私の職場体験と娘の無念を改めて呼び起こし、それは私自身の、娘の、各々内容的に違うが、相通ずる共通の形容語で言えば「哀しみ」「寂しさ」につながる。

「強い国日本へ」「美しい国日本へ」「世界のリーダーへ」「優秀な日本人」「世界平和に貢献する日本(人)」………。

形容語や抽象語はその具体的内容を確認しないと、初めは価値観を共有していたつもりが、後になって誤解である、ということは多々あることで、時にそれが基で決別などと言うこともある。
因みに、私は在職中、失敗と気づきから「表現と理解」の授業では、ことある毎にそれを伝えていた。

「強い」とは、「美しい」とは、「優秀な」とは、何がそうなのか、
「世界」とは、地球全体を指してのことか、「リーダー」とはどういうリーダー?等々、具体的確認を考えてしまう。

そして、最近の日本の物質・金銭文明を最優先とするかのような鼻息の荒さにほとほと辟易しているからであろうが、「強い」とは武力が強いであり、「美しい」とは人為を上位にした自然観であり、「優秀な」に大和民族優位性を感じ、「世界」とは西洋文化圏=国際世界が暗黙の了解で、「リーダー」とはそこでの政治的要素を、先ず考えたりしてしまう。

これは、社会がどうこう以前に、老人性頑なさでの一面的視野なのかもしれないが。
いずれにせよ、ボーダレス、移動の時代の現代、そこに在って“日本的、日本性”は、どういう存在感を持ち得るのだろうか、と大きな課題のかのアイデンティティと重ねて思ってしまう。
しかし、これも、悪しきナショナリズムと一笑され、非現代人とされるのかもしれないが。

「古典」とは、いつの世にあっても人々の心を揺り動かし、発見・再発見を促す作品であることが第1要件で、それは時代を超越する。
『石上私淑言(いそのかみの・ささめごと)』は、問答形式の和歌(うた)論で、母性の国日本の在りようにも通ずるものがある。
その中から、日本の生き方を考える一つの示唆となるように思える「女々しさ」論から少し引用する。

□「いかに賢しきも 心の奥を尋ぬれば、 女童べなどにも ことに異ならず、すべて物はかなく、女々しきところ多きものにて ……

[要旨]どんなに優れた人でも、心の奥は女子どもと変わらず、はかない気持ちに覆われ、女々しいものなのだ。

□《愛児に先立たれた父母について》「父のさすがに さまよう思ひしづめたるは、げに雄々しく いみじきことにはあめれど、そは人目をつつみ 世に恥づるゆゑに、悲しき情(こころ)をおさへて、つくろひたるうはべなり。母の 人目も思はで ひたぶるに泣きこがるさまは、まことに女々しく 人わろくはみゆれど、これぞ飾らぬ真の情にてはありける。

《要旨》父親は雄々しく振る舞うが、それは世間体のことで、母親がひたすら嘆き悲しむ姿こそ真(まこと)の心情である。

□《悲しみに襲われても賢く振る舞う人について》「……天地の外までも くまなく悟りきはめたる顔つきして、世にたかぶるよ。見る人も またそれをいみじきことに思ふは すべてわれも人も 偽れるうはべをのみ喜びて 、実(まこと)の心を忘れたるにはあらずや。悲しきことも悲しからず、憂きわざも 憂からぬは、岩木のたぐひにて、はかなき鳥虫にも劣れるわざなるを、……」

《要旨》いかにもすべて分かったようにしている人、またそれを立派な人物と思う人も、うわべだけで人を見ていて、真の心をどこかにやってしまっている。哀しみ、憂いをそのまま出してこそ人間だ。

宣長は、和歌(とりわけ『萬葉集』時代の)と漢詩を比べ、日本の素直さ、雅さを讃え、中国の論理的気難しさが日本に合わないことを言う。
そこには日本を神の国とする強い思いが背景にあるのだが、このへんについては浅学の私が安易に引用することでの誤解と、そこからの偏見に陥ることを避けたいので今回は触れない。
ただ、一言添えれば、この日中比較については、古今和歌集(平安時代前期10世紀初めに編まれた勅撰和歌集)の、「仮名序」と「真名序」の比較からも、宣長は日中の相違に厳しく言及している。

その『古今和歌集』の「仮名序」は、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」で始まる、日本文学史上画期的な日記文学『土佐日記』の著者、歌人で官僚である紀貫之が書いたもので、高校の国語・古典教材に必ずと言っていいほど採り上げられている。

その冒頭は、次である。

―――やまと歌は 人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける 世の中にある人 事 業(ことわざ)しげきものなれば 心に思ふことを見るもの聞くものにつけて 言ひいだせるなり 花に鳴くうぐひす 水に住むかはづの声を聞けば 生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女のなかをもやはらげ 猛きもののふの心をもなぐさむるは 歌なり―――

私は母方の先祖をさかのぼれば朝鮮半島系のようだが、日本人の一人で、この文章を読むと実に自然な息吹の律動から詩歌の本質に思い到ることができ、紀貫之の偉大さが伝わって来る。
このような自身の国の風土、文化に育まれた芸術美に係る一考は、私が知らないだけで外国にも必ずやあるであろう。
その上で、一日本人として、このような素晴らしい詩論があることは日本の誇りだと思う。

もっとも、私が直接、間接に知る少しばかりの日本の近現代の詩人(自称?も含め)の多くは、私とは別世界の“人種”に思えることもあって、私が引き寄せられる近現代詩は限られているが。

2015年7月7日

中国たより(2015年7月)   『断捨離活』

井上 邦久

株主総会やそれに伴う会議の日々、そして各種身体検査の日々を何とか終えて、上海へ帰任する6月22日。日本航空のカウンターでの会話。「1時間半後の中国国際航空便に変更して頂けないか?協力してもらえれば1万円を進呈します」「上海での用件もあり残念ながら協力できない。予約超過ということは超満席ですか?」「そうなんです」ということで、早めに搭乗して荷物を置くスペースを確保しました。
乗り込んでくる人たちの多くは、片手に幼児の手、もう一方には何個かの土産物満載の紙袋持参でした。

席の周りには上海語が飛び交い、日本語は皆無でした。
すぐ後ろの席の女児が少し興奮気味に「日本航空のお姉さんは、記念品をくれた。行きの時にももらったのに又もらえて嬉しい。今晩、お祖母さんに、日本で沢山のものを買った話をしよう。あれを買った、これも買った。新しい鞄も買った」と繰り返していました。

上海現地法人の上海人の従業員が「最近、家の子供は上海語が苦手で、普通語が先に出てくるけど、親として善いことか、悪いことか判断に迷います」と話していたことを思い出しました。
後ろの席の女児の語り口も、ちょうどよいスピードの正確な普通語の発音なので、外国人にはとても聴き取りやすかったです。降りる時、「何年生?」と聴いたら、「まだ幼稚園児です」「大きいし、しっかりしているから、9月から小学校?」「そうです。勉強が厳しくなる前の旅行です」「新しいスーツケース一杯に詰め込んだ『日本』を、お祖母さんに話してください」と言うと、少し照れくさそうに「明白了」と素直に応えてくれました。

「爆買い」というあまり上品とは言えない言葉が流行していますが、その資金源についての分析を野村證券(上海)顧問の卓子旋氏が試みています。
卓顧問によると、「官二代」「富二代」に続いて「坼二代」という言葉が生まれた、高級官僚や富裕層の二代目と異なり、都市の再開発にともない、住居の立ち退きや取り壊し(坼)に遭遇した人たちは、親しんだ町や隣人と別れる代わりに一声500万元(20円/元)の補償金を手に入れるとされています。多額の不労所得を手に入れた家族の子弟を「拆二代」と称しています。
それだけ多額の補償をしないと住民が納得しないのか?補償金をまかなっても遥かに超える利益が地域政府や土地開発業者には期待できるのか?そのメカニズムはいつまで持続できるのか?と素朴に思います。
それはともかく、「坼二代」たちが手に入れた巨額の補償金を株式や定期預金で運用すれば、利息収入だけでも、500万元×年利5%=25万元と仮定すると、平均的な従業員年収の2倍近くになります。

15年くらい前に国有企業の民営化や清算が進められた時期に、たまたま管理職として派遣されていた公務員のなかで、機を見るに敏な連中が破格の安値で社宅や工場を「購入」し、私有化、民営化あるいは転売しました。
その連中が「富一代」です。直言居士として人気のある郎咸平教授は「あまり上品でない言葉で喩えれば、雇われていた女中が母屋を乗っ取ったようなものだ」と分かりやすく表現しています。「富二代」にせよ「坼二代」にせよ、もとはと言えば国家の財産を掠めて私物化し、対価は税金でまかなわれたとも言えるので、同根の輩と言えるでしょう(だんだん言葉が上品でなくなりました)。

6月23日、五月晴れ(旧暦5月、梅雨の晴れ間)のなかを出社。机に緑色の袋がありました。端午節祝いの大きな粽が2個、送り主の顧問弁護士の添え書きとともに入っていました。長年節季の届け物を頂いて、季節の変化とともにご厚意を味わっています。顧問弁護士とは文化的交流が中心で、実務面でお世話になることは比較的少なかったのですが、昨年から、合弁会社の清算や債権回収など種々解決に難儀する課題が急速に増えました。中国社会全体からみてもこの傾向は顕著でして、独占禁止法問題・大型債権焦付き事件・三井商船の船舶差押事件なども起こりました。

2014年は、①高度成長の終わりの始まりの年、②弁護士事務所が大活躍した年と総括しています。
弁護士の皆さんとは文化的交流中心の関係に戻りたいのですが、当面は実務面での課題も多く、状況は甘くなさそうです。
その日の昼には、日本から到着されたばかりの化学メーカー社長が来訪され、医薬関連の新たな事業構想を聞かせて貰いました。夕方には、ウルムチで18年前から大型ショッピングモールの運営をされている大阪の繊維系会社の皆さんから色々と教えて貰いました。
ともに大状況の厳しさとは異なる、自らの世界の活路を目指している方々で大いに啓発されました。

6月24日、早朝から北京へ移動して所長業務の引継ぎと社宅の引き払いを始めました。
空気汚染の指標であるPM2.5という用語が初めて新聞に掲載された頃に居を構えました。APEC BLUEという居直りのきつい青空も体験しました。
1989年から足掛け三年ほど駐在した頃の牧歌的な雰囲気から見れば、ずいぶんと近代的な外観の都市になりました。実務以外にも日本語スピーチ大会の協賛をしたり、留学生の活動支援をしたりという経験もしました。

少ない体験ではありますが、今回の北京で感じた発想法やシステムには存外古いスタイルが残ったままのような気もしました。個人的には、休日の愉しみにしていた中江丑吉(兆民の長男。戦前の北京生活者)の足跡探しは、旧城内南東地区に住居跡を特定できたままで他の追体験は積み残しとなったことが心残りです。
元々上海の社宅以外に北京別宅を設けたときに、生活用品は必要最小限に控えてきました。それでも増殖を続ける調理用品や本などを今回思い切って整理しました。その過程で山下英子さんのベストセラー『断捨離』の中国訳本が出てきました。

政治的ストレスが高まった時期に王府井書店の日本コーナーが大幅に減らされ、人気の村上春樹作品も語学コーナーに押しやられたことがあります。
元々、東京や大阪の書店の中国・韓国コーナーには「嫌」「反」とかの文字が目立つのと対照的に、中国の書店の日本コーナーには、源氏物語から始まる古典から現代小説までの幅広い翻訳本や学術書が並んでいます。芥川賞直木賞作品は逸早く翻訳されて書棚に並びます。「反」や「嫌」で中国を捉えたつもりの日本人と、「源氏物語」や「村上春樹」で日本を知ろうとする中国人との姿勢の違いを憂慮してきました。その豊富な日本関連書籍が店頭から激減した時期に、一階の最も目立つ場所に平積みされた『断捨離』翻訳本に驚き、衝動買いしました。冷静になってから、中国で『断捨離』が売れる時代が到来したことに改めて驚きました。

『断捨離』を購入した当時、中国では非理性的な生産過剰が修正される前に、理性的な消費が始まったのではないか?という仮説を立てました。
それから3年、その仮説も含めた様々な理由で中国経済は減速から停滞の道を辿っています。
腐敗とインフレという蒋介石の国民党の失政を、共産党は再発させてはならないというトラウマが存在するのではないか?と思われるくらいの腐敗撲滅運動と保守的な経済運営が続くと思われます。1949年、国民党は大陸から「断捨離」されました。今は、共産党が国民から「断捨離」されないために懸命です。

しかし国家の動向とは関係なく、すでに大陸から離れることを決断できた人たちは「留学」「移民」といった形で故国を捨てることを選択しています。
もしかすると、現在は「爆買い」と揶揄されている人たちの中には、海外旅行を通じて将来の「子弟留学」「一家移民」の下見聞をしているという深読みは穿ち過ぎでしょうか。意識表現するかしないは別にして、現世での最大限の幸福をしっかり追求する、この一点は確かだと思います。しっかりした幼稚園児は二十年後、日本のどこかに根を下ろしているかも知れません。

そんな究極の「断捨離」とは異なるスケールの小さい北京脱出の朝、古い友人から「それでも少しの郷愁はあるでしょう」「引越は新たなスタート」というメールが届きました。
そして「断捨離」とは玉葱の皮を剝がしていくだけのことではなく、「断捨離」を通じて活性化することが本来の目的であると思い至りました。生活の場を潔く整理し、仕事から解脱しながら再生し活性化すること、「断捨離活」が大切だと思い至りました。

「北京から鞄一個の夏転居」                   (了)