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2015年7月10日

「女々しい」「雄々しい・男男しい」をニュートラルにして考えたい ――日本人の私の、母性の国?日本への一断想――

井嶋 悠

反・近代とか反・常識といった「知」とは全く関係なく、これまでの不勉強、懶惰(らんだ)が祟り、無知浅薄、非常識甚だしく、人生折り返し点も疾うに過ぎ、気力は老いが引き金になることで湧いたりもするが、如何せん体力の衰えは著しく、このままでは亡き娘に顔向けならず、あれこれ思案整理し、ときどきに思い浮かぶテーマを肉付けし、一文にまとめ、1983年を起点とする『日韓・アジア教育文化センター』の【ブログ】に、起点者をいいことに寄稿している。
だから、読む本も、好きな映画も、手当たり次第などあろうはずもなく、私なりの厳選?をしている。

書いた内容の優劣を言う器量は私にないが、連ねる言葉が“私の言葉”であるかどうかだけは自問自答、大切にしている。私の言葉かどうかは、70年とにもかくにも生きて来た事実と33年間の中高校国語教師体験からの直覚以外何ものもない。
そして、最近加齢相応?とみに日本のことが気に掛ったり、「悲・哀・愛;かなしみ」の美と人生に魅き入れられている。と言っても、その深度はたかだか知れてはいるのだが。

その一環で、「男らしい」「女らしい」といったことが、今もってこともなげに成り立つのか、自身を、出会った男女を思い返し、思い巡らせることがある。
そもそも、

「男らしさ(い)」:[性質、行動、体格、音声などがいかにも男であるように思える。]

「女らしさ(い)」:[しとやかである、やさしいなど、いかにも女だと思える様子である。]

との、本邦最大の国語辞典『日本国語大辞典』(小学館)の説明も、何とも分かりにくく、「男」と「女」の解字を漢和辞典で確認するも、そこから固定的或いは常識的?印象に流れてしまい、結局はその延長上の「おおしい:男男しい、雄々しい」、「めめしい:女々しい」に行き着いてしまう。

あれこれ下手な思案をしていて、以前日本文化論を拾い読みしていて知った江戸時代の偉大な思想家・本居宣長の、「人情の真実(まこと)」と「日本人」と「もののあはれ」と「女々しさ」の言説を思い出し、それを説く『石上私淑言(いそのかみの・ささめごと)』を読み始め、いたく感心、共感している最中、次の報道に接した。

一つは、岩手県で中学2年生の男子生徒が「いじめ」を受け続けていて、自殺。

一つは、無戸籍の子どもが全国の小中学校で少なくとも142人いるとの文科省の報告。

前者については、担任教師と校長の対応に、教員の自覚のかけらもない傲慢と独善と保身が、私の職場体験と重ねて過ぎり、
後者については、文科省の「未把握の子供もいるとみられ、よりきめ細かい支援と調査に努める」との言葉に、これまで何度も記した自殺問題、子どもの貧困問題と重なる、国の(官僚の、政治家の、また彼ら/彼女らを導き支える研究者の)繰り返される概念的対症療法発想を見た。

そして、後者の関連で、時期をほぼ同じくして、東京都足立区の貧困家庭が38%と報道され、一方で2020年の東京オリンピックでの新国立競技場建設費が、当初の1300億に倍近い2520億円で妥当!と決定された旨の報道があった。
かてて加えて、集団的自衛権と日米安全保障条約と日本国憲法に係る重要課題での首相の友人(それも名前を出すことでより明確になった権威主義発想とその裏側にある劣等感)と不良少年のたとえの軽薄、下品そして国民愚弄。

この報道は、私の職場体験と娘の無念を改めて呼び起こし、それは私自身の、娘の、各々内容的に違うが、相通ずる共通の形容語で言えば「哀しみ」「寂しさ」につながる。

「強い国日本へ」「美しい国日本へ」「世界のリーダーへ」「優秀な日本人」「世界平和に貢献する日本(人)」………。

形容語や抽象語はその具体的内容を確認しないと、初めは価値観を共有していたつもりが、後になって誤解である、ということは多々あることで、時にそれが基で決別などと言うこともある。
因みに、私は在職中、失敗と気づきから「表現と理解」の授業では、ことある毎にそれを伝えていた。

「強い」とは、「美しい」とは、「優秀な」とは、何がそうなのか、
「世界」とは、地球全体を指してのことか、「リーダー」とはどういうリーダー?等々、具体的確認を考えてしまう。

そして、最近の日本の物質・金銭文明を最優先とするかのような鼻息の荒さにほとほと辟易しているからであろうが、「強い」とは武力が強いであり、「美しい」とは人為を上位にした自然観であり、「優秀な」に大和民族優位性を感じ、「世界」とは西洋文化圏=国際世界が暗黙の了解で、「リーダー」とはそこでの政治的要素を、先ず考えたりしてしまう。

これは、社会がどうこう以前に、老人性頑なさでの一面的視野なのかもしれないが。
いずれにせよ、ボーダレス、移動の時代の現代、そこに在って“日本的、日本性”は、どういう存在感を持ち得るのだろうか、と大きな課題のかのアイデンティティと重ねて思ってしまう。
しかし、これも、悪しきナショナリズムと一笑され、非現代人とされるのかもしれないが。

「古典」とは、いつの世にあっても人々の心を揺り動かし、発見・再発見を促す作品であることが第1要件で、それは時代を超越する。
『石上私淑言(いそのかみの・ささめごと)』は、問答形式の和歌(うた)論で、母性の国日本の在りようにも通ずるものがある。
その中から、日本の生き方を考える一つの示唆となるように思える「女々しさ」論から少し引用する。

□「いかに賢しきも 心の奥を尋ぬれば、 女童べなどにも ことに異ならず、すべて物はかなく、女々しきところ多きものにて ……

[要旨]どんなに優れた人でも、心の奥は女子どもと変わらず、はかない気持ちに覆われ、女々しいものなのだ。

□《愛児に先立たれた父母について》「父のさすがに さまよう思ひしづめたるは、げに雄々しく いみじきことにはあめれど、そは人目をつつみ 世に恥づるゆゑに、悲しき情(こころ)をおさへて、つくろひたるうはべなり。母の 人目も思はで ひたぶるに泣きこがるさまは、まことに女々しく 人わろくはみゆれど、これぞ飾らぬ真の情にてはありける。

《要旨》父親は雄々しく振る舞うが、それは世間体のことで、母親がひたすら嘆き悲しむ姿こそ真(まこと)の心情である。

□《悲しみに襲われても賢く振る舞う人について》「……天地の外までも くまなく悟りきはめたる顔つきして、世にたかぶるよ。見る人も またそれをいみじきことに思ふは すべてわれも人も 偽れるうはべをのみ喜びて 、実(まこと)の心を忘れたるにはあらずや。悲しきことも悲しからず、憂きわざも 憂からぬは、岩木のたぐひにて、はかなき鳥虫にも劣れるわざなるを、……」

《要旨》いかにもすべて分かったようにしている人、またそれを立派な人物と思う人も、うわべだけで人を見ていて、真の心をどこかにやってしまっている。哀しみ、憂いをそのまま出してこそ人間だ。

宣長は、和歌(とりわけ『萬葉集』時代の)と漢詩を比べ、日本の素直さ、雅さを讃え、中国の論理的気難しさが日本に合わないことを言う。
そこには日本を神の国とする強い思いが背景にあるのだが、このへんについては浅学の私が安易に引用することでの誤解と、そこからの偏見に陥ることを避けたいので今回は触れない。
ただ、一言添えれば、この日中比較については、古今和歌集(平安時代前期10世紀初めに編まれた勅撰和歌集)の、「仮名序」と「真名序」の比較からも、宣長は日中の相違に厳しく言及している。

その『古今和歌集』の「仮名序」は、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」で始まる、日本文学史上画期的な日記文学『土佐日記』の著者、歌人で官僚である紀貫之が書いたもので、高校の国語・古典教材に必ずと言っていいほど採り上げられている。

その冒頭は、次である。

―――やまと歌は 人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける 世の中にある人 事 業(ことわざ)しげきものなれば 心に思ふことを見るもの聞くものにつけて 言ひいだせるなり 花に鳴くうぐひす 水に住むかはづの声を聞けば 生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女のなかをもやはらげ 猛きもののふの心をもなぐさむるは 歌なり―――

私は母方の先祖をさかのぼれば朝鮮半島系のようだが、日本人の一人で、この文章を読むと実に自然な息吹の律動から詩歌の本質に思い到ることができ、紀貫之の偉大さが伝わって来る。
このような自身の国の風土、文化に育まれた芸術美に係る一考は、私が知らないだけで外国にも必ずやあるであろう。
その上で、一日本人として、このような素晴らしい詩論があることは日本の誇りだと思う。

もっとも、私が直接、間接に知る少しばかりの日本の近現代の詩人(自称?も含め)の多くは、私とは別世界の“人種”に思えることもあって、私が引き寄せられる近現代詩は限られているが。