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2021年11月30日

多余的話(2021年11月)   「小春おばさん」

井上 邦久

10月後半からひと月近く穏やかな日和が続きました。小春日和。初冬の季語。中国語では陰暦10月を小春(xiao chun)と呼び、小春日和は小陽春(xiao yang chun)。
勤め人になった年、井上陽水のLP『氷の世界』を買いB面の「小春おばさん」を繰り返し聴いたことを思い出します。
感染が拡大した一年半前。基礎体力を維持し、免疫力を強化するのみと覚悟を決めた頃には夢の中でも、同じ井上陽水の「夕立」の歌詞~計画は全部中止だ~家に居て黙っているんだ、夏が終わるまで~のリフレインでした。
二度目の夏にも終熄せず、中国で躺平族(tang ping/寝そべり族)と呼ばれる若者のように黙って寝ていました。ところがNobody knowsのまま感染減少の小春がやってきて、時ならぬ「啓蟄」の虫のように蠢いています。

勤め人を止して上海・横浜から大阪に戻り、西区川口の居留地址を何度も歩いています。居留地研究の先生方や港湾関係の皆さんから、キリスト教布教活動や川口華商の活動について教わっています。
居留地址の隣の九条新道で繁盛している「吉林菜館」の女傑からは、国共内戦以降の大阪中華学校の創設経緯について縺れた糸を解きほぐしてもらっています。大阪へ越す前に住んだ横浜中華街福建路でも開港・居留地・華僑文化そして孫文に関する旧跡に触れました。その中華街を舞台にした映画『華のスミカ』を九条商店街の映画館で見ました。
横浜の中華学校を核として、中国革命・文化大革命、そして関帝廟焼失の渦中で華僑や華人が経験した対立と和解の歴史を政治から一歩引いた華僑4世が追いかけたドキュメンタリーでした。中華街の紅衛兵だった父親。家のルーツを知った十代半ばから「中国というもの」を避けてきた息子。父と子が対話するラストシーンが印象に残りました。https://www.hananosumika.com

子供の頃に町内の豪商の三男坊が東京で洋画家になったと聞かされていた、糸園和三郎の生誕110周年展を大分県立美術館で見たあと、中津に帰郷して、菩提寺で二年ぶりの墓参り。
村上医家史料館では1850年の牛痘接種記録と高野長英を匿ったという土蔵を見せてもらいました。
いつも立ち寄る木村記美術館で中山忠彦の作品を独占鑑賞してから、南部小学校の楠の大木に再会しました。100年前に難病治療のため小学校を去った糸園和三郎が心の道標とし、最晩年に描いた楠の大木。60年前に同じ小学校に心を残して去った小生も共鳴しました。
茨木山間部にキリシタンの里があったことを時々耳にしていました。現在は神戸市立博物館の所蔵となっている着色ザビエル像が千提寺の東家で秘蔵された信仰の対象であったことまでは聞いていました。

小春日和のドライブに誘われて朝採りの野菜の即売場で地産地消の定食に満足したあと、ローギアでしか登れないキリシタン遺物資料館に連れて行ってもらいました。
駐車場からの坂道の脇の石碑に「北摂キリシタン遺物発見最初の家」とあり、東さんのお宅でした。整理された資料群と内容の濃い解説書(2018年初版)で啓発されたことは、稿を改めます。
当日の発見は下り坂の路傍にありました。奇妙な縄張りをしている一角があり、片隅にマリア像が囲われていました。説明書を読むと、最初の遺物発見から間もない1923年に大阪川口教会のビロー主任司祭が信者を訪ね、1928年までに千提寺教会を建てた跡地とありました。ローマ教会と大阪川口居留地と茨木人キリシタンが繋がった厳粛な一瞬でした。
啓示、啓発を多く受けた小春の「啓蟄」でした。

映画、医学史、美術そして信仰の足跡という精神生活の刺激もさることながら、何にも増して大分の叔母が病を克服して迎えてくれたことが大きな慶びでした。煎茶の家元として卒寿には見えない背筋を真っ直ぐにした一人暮らしを続けています。昔話をしながら、幾度も美味(甘)い煎茶を淹れて貰いました。
戦時下に、大阪から疎開転校したもう一人の叔母や母親の女学校時代の話も聴かせて貰える大切な「小春おばさん」との再会でした。(了)

2021年11月27日

自殺

井嶋 悠

新型コロナ禍にあって、日本では自殺が、それも若い人の、増えているという。
日本の自殺は、ほんの数年前まで世界の、とりわけ先進国と言われる中にあって、上位一桁内にあった。様々な対策等が公・民で行われ減少し、ここ1,2年は世界10位外にまでなっていた中での増加である。コロナ禍がもたらす社会、個人への負の波及の大きさは、終息後すぐに解決するとは思えない。

そもそも「自殺」という言葉は、実におぞましく、忌々しい。どこにも救いがない。
私の知る、不登校[登校拒否]に陥った生徒を主体にした高校で、一人の生徒が自殺した。その時、その高校創設に尽力された或る教員が絞り出した言葉。「つくづく無力を実感した。」
その学校は、現在、この先の見えない社会にあって一層の必要性を痛感すると同時に、大きな壁を前に暗然としている旨聞いた。
私自身がかつて携わった学校も類似の課題の前にあり退職者が増えている。

「自分から積極的にそうすることを表わす」『新明解国語辞典』「自ら」、自身に刃を突き付ける行為。己への怨嗟(えんさ)。自殺。
或る人は生死一如として「自死」と言う。そこには静謐さが漂うが、私はそれを採らない。自殺の激情に怖れおののき、己の小人性の再認識を促す「殺」に得心性を持つ。理解ではない。
この発想には、自身の若い時代の苦悶、また近しい人の自殺からの、やはり体験が大きく影響していることは否めない。

因みに、英語では[suicide]で、この語根の[cide]は「殺し」を意味しているとのこと。最近見聞きする機会が多い「genocide」(民族大虐殺)ジェノサイドのcide《サイド》である。

こうしてみれば、殺の非人間性に導かれ、自殺と言うことへの躊躇は否定しがたいが、それでも私の中では、自死ではなく自殺である。

自殺は、しばしば倫理上の問題として採り上げられる。
欧米社会でのユダヤ教をも視野にしたキリスト教圏、アラブ圏のイスラム教にみる唯一絶対神の考え方からすれば、神から与えられた命を蔑(ないがし)ろにするとの意味合いにおいて当然非難の対象であり否定されるべき行為であろう。
慈悲と無の自覚の宗教、仏教にあっては、当然、死への洞察は多いが、自殺までに言及することはほとんどない。それが仏教慈愛の所以なのかもしれないが、その寄る辺なさが自殺への無抵抗感覚を増殖しているとも思える。信仰者が驚嘆する無宗教の脆さかもしれない。

そういった中にあって、19世紀のドイツの思想家、ショウペンハウエルは、冒頭「私の知っている限り、自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ教の宗教の信者達だけである。」にはじまる、その著『自殺について』の中で次のように述べる。

――キリスト教はその最内奥に、苦悩(十字架)が人生の本来の目的である、という真理を含んでいる。それ故にそれは自殺をこの目的に反抗するものとして排斥するのである。――

――深刻な精神的苦悩は肉体的苦悩に対して我々を無感覚にする、……我々は肉体的苦悩を軽蔑するのである。否、もしかして肉体的苦悩が優位をしめるようなことでもあるとしたら、それこそ我々にとっては一種心地良い気保養なのであり、精神的苦悩の一種の休止である。ほかならぬこういう事情が自殺を容易なものにしている。即ち並はずれて激烈な精神的苦悩に責めさいなまれている人の眼には、自殺と結びつけられている肉体的苦痛などは全くもののかずでもないのである。――

ショウペンハウエルは自説の肉付けに、古代ギリシャの思想家の言説を引用しているが、それらの中で2つ孫引きする。

「神は人間に対しては、かくも多くの苦難に充ちた人生における最上の賜物として、自殺の能力を賦与してくれた。」

「善人は不幸が度を超えたときに、悪人は幸福が度を超えたときに、人生に訣別すべきである。」

そして、今日も多くの!?人が逡巡し、中には決行の準備をしている……。

「自らの思想の立脚点を「ふつうの人」の立場におき、「自分」が生きていくことの意味を問い続ける」(著者紹介文より)、1947年生まれの文筆家勢(せ)古(こ)浩爾氏に『日本人の遺書』という著作がある。氏はその中で、様々な死を迎えた、あるいは追った80名ほどの人を採り上げ、その人たちの遺書に言及している。
遺書は死を前提にして書かれる、いわばその人の人生の集成が凝縮された文で、その背景を氏は以下の12に分類している。

〇煩悶  〇青春  〇辞世  〇戦争  〇敗北  〇反俗  
〇思想  〇疲労  〇憤怒  〇絶望  〇悔悟  〇愛情

ことさらにこの書を採り上げたのは、上記[疲労][絶望]に、このコロナ禍に生きる一人としてとりわけ心引き寄せられたからである。少なくとも私には、この二つの章で採り上げられた人々の言葉が、今に重なってあるように思えた。その中から3人引用する。

◇金子 みすゞ(童謡詩人)26歳で自殺
 死に際しての遺書が三通あり、その内母宛の遺書を引用する。

  「主人と私とは気性が合いませんでした。それで、主人を満足さ
  せるようなことはできませんでした。主人は、私と一緒になって
  も、ほかで浮気をしていました。浮気をしてもとがめたりはしま
  せん。そういうことをするのは、私にそれだけの価値がなかった
  からでしょう。(中略)今夜の月のように私の心も静かです。
  (後略)

その金子 みすゞを介して、勢古氏は次のように言う。
「人間評価の便宜として、強い人とか弱い人ということはある。けれど人間は、その意味をほんとうには知らない。なんのための強さであり、弱さであるかを、知らない。なぜ自殺をすることがよくないことなのかを、ほんとうにはいえない。」
私は「今夜の月のように私の心も静かです」に、みすゞの激情の沪過された清澄な心を思う。

◇太宰 治(作家)39歳で情死
妻への遺書は有名で、とりわけ「あなたを きらひになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです」の一節はしばしば引用される。
勢古氏はその一節について次のように書く。
「もしこれが本心ならば、それはほとんど、生きて行くのが嫌になったからです、という意味であろう。「小説を書く」ことはすなわち、生きること、だったはずだからである。」
太宰は、懶惰(らんだ)を自認していた。と同時に売れっ子作家でもあった。自殺を否定し、責める人はこの一事をもって、きっと太宰を非難し、嫌悪するであろう。いわんや妻がありながらの情死である。
しかし私は、太宰の心情に響くものを持ち、一方でマスコミの有名人への過干渉を批判的に思う。

◇秋元 秀太(大学生)19歳で自殺

彼の遺書は一篇の詩である。だからそのまま転用する。彼が死を意識したのは、当時いた合宿所での金銭問題での混乱からであって、彼の不祥事だったかどうかは誰も分からない。

   ――もうつかれた
     人にうたわれることにも/人をうたがうことにも
     もっと好きなことにのめりたかった/もっといろんなことが 
     やりたかった
     でも もうつかれた
     こんな弱い自分にいやけがさした/
     もっともっと強い人間になりたかった
     親を泣かせた自分がキライだ
     死ぬのはこわい
     罪はかんたんにつぐなえるものではない
     もっとおやじと楽しいさけをのみたかった
     みんなごめん
     みんな大好きだ/もっといっしょに居たかった
     強い心がほしかった――

私にも「青春」があり、「煩悶」があり、「憤怒」があり、いささかの「反俗」精神もあった。しかし、怠惰な私は決意することなく時を打っちゃり76歳を迎えた。その年齢から来る「疲労」を、時に「絶望」さえ交えながら思うことはある。
生きることを自身に問うにふさわしい新たな時機を迎えているのかもしれない。