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2016年1月31日

香港と日本のアジア小学生交流  その2

日韓・アジア教育文化センター
小林聖心女子学院小学校 講師
森本 幸一

 初めての掃除に励む香港の小学生

コルベ講堂での祈り

SFA児童代表から記念の絵の贈呈―SFA劉校長(左)、仁川学院小児玉教頭(右)―

前日より急に寒くなった11月26日木曜日、同じフランシスコ会の香港SFAと日本仁川学院小学校の交流第一日目がいよいよ始まった。仁川学院中学高等学校グラウンドにバスが到着したという連絡を受けそこに向かった。

香港SFAの児童16名(男子10名、女子6名)、劉校長先生、黎主任、翁先生、マギー梁安玉先生を仁川学院の奥野先生とともに出迎えた。マギー先生がおられ、私は少し緊張の和らぐのを感じた。  健康チェックの検温で誰もが健康で全員が交流に参加。最初に仁川学院小学校の児玉教頭より素晴らしい英語での挨拶があり、全員が大きな拍手。香港からは劉校長から日本語での心温まる挨拶。互いが理解し合おうとする熱意が感じられた。そして、児童が描いた絵を児玉教頭に贈呈。この児童は、大の日本フアンだそうで、後で本人に日本の何が好きかと聞くと「どらえもん。」とのこと。ほほえましくなった。

おいしいカレー(お替りあり)とデザートをいただいた後、5年生児童と交流開始。通訳は日本語を英語に訳すのは仁川学院境先生、日本語を英語、広東語に訳すのはマギー先生だ。
香港の児童1人につき仁川学院の児童が4~5名で自己紹介。あまり話が進まないグループも少しずつ打ち解け、その後コルベ講堂(ナチスのアウシュビッツ収容所で身代わりになり餓死刑にされたフランシスコ会の聖人で、日本に布教活動のため2度来日したポーランド人コルベ神父に因んでつけられた)でお祈りと「ブラザーサン シスタームーン」の日本語と英語でのコーラス。 フランシスコ会ならではの重厚さだった。
(コルベ講堂から退出する際、劉校長がパイプオルガンに興味をしめされ演奏。その見事さに私は勿論、仁川学院の先生方はびっくり。実に見事な演奏だった。)

教室に戻りホームルームの後、さまざまなゲーム。楽しそう。その後お掃除(その場の責任者の前川先生から、仁川学院でのお掃除の意義、「心磨き、謙虚、気づき、感動、感謝」をうかがい、私も納得)。

仁川学院の児童が真剣にSFAの児童に教えようとしていた姿がほほえましく感じられた。
香港の子どもたちにはこのようなお掃除習慣がないそうだが、ある児童は「香港に帰ったらやってみよう。」と言ったそうだ。

こうして交流第一日目が終了した。

SFA児童、先生方の何事に対しても真摯かつ誠実に交流される姿勢と、仁川学院児童、先生方、事務の方などの丁寧に心を込めた対応が見事にとけ合うことによって、この交流が日本と香港のフランシスコ会児童、先生方の感動の場となっていった。

2016年1月31日

香港と日本のアジア小学生交流    その1

以下は、昨年11月に、私たち「日韓・アジア教育文化センター」がお手伝いし実施された、香港の小学校と日本の小学校間の小学生交流に係 る、本センター委員・森本 幸一先生の報告の第1回です。 尚、その簡単な紹介は、昨年12月14日のブログで、2015年の本センター報告として掲載しました。併せて読んでいただければ喜びです。 (井嶋)

小学校は以下です。

香港  St Francis of Assisi’s English Primary School http://www.sfaeps.edu.hk/ ]

日本  仁川学院小学校(兵庫県西宮市)[http://www.nigawa.ac.jp/elementary/

日韓・アジア教育文化センター
小林聖心女子学院小学校
講師 森本 幸一

    小鳥に話しかける聖フランシスコ(仁川学院小学校)

2007年第4回日韓アジア教育国際会議が香港で開かれてから8年。井嶋悠先生が、6月下旬に、「香港日本語教育研究会長」のマギー梁安玉先生から香港のアッシジの聖フランシスコ英文小学校(St.Francis of Assisi’s English Primary School、今後「SFA」と略称する)の小学生男女が日本に研修旅行に関西へ来るので、日本のカトリック私立小学校と交流できないかと打診があった。

私の勤務校である兵庫県宝塚市にある小林聖心女子学院は女子校なので引き受けることができず、どこか引き受けてくれる学校はないかと思案した。その時、すぐ頭に浮かんだのは、同じフランシスコ会の西宮市にある仁川学院小学校だ。
実は私は、本校で毎年行われるキリスト誕生を全校でお祝いするクリスマス会において5年生全体で聖フランシスコの劇をした。そしてその翌年、仁川カトリック教会主催の聖フランシスコの聖地アッシジ巡礼の旅に参加させていただいたことがあり、フランシスコ会の小学校ならきっと仁川学院が相応しいと思ったのである。
SFA研修旅行は11月下旬という、中学校受験を控える私立小学校にとって交流には大変難しい時期であるが、校長先生にお願いしてみた。 直接学校にうかがいお話しさせていただいた際、同席してくださった教務主任の平石先生から、この交流に対しての関心と同時に、アジアの国と交流する重要性をも話されたり、交流日程を一日と限らず二日でもよいことや、双方の学校とのやり取りを英語ですすめてはどうかという意向もうかがった。
この大変力強い提案に私は、これからのさまざまな交流プランにおける詰めが必要だが、この香港と日本の小学生交流が実現されるだろうという可能性が大きく広がると感じた。 そして、平石先生が7月中にSFAと連絡をとりながら交流プランの大筋を決め、9月からは奥野先生が窓口となって交流プランを詰めていただいた。

その11月26日(木)、27日(金)の交流プラン(原文が英文なのでそのまま表記)は以下の通りである。

[programmes for 26th/27th]

26th(11:30~15:20)
11:30~12:50 lunch(curry with rice);tour of school grounds (1F/2F,library,shrine, gymnasium,schoolyard etc.)
12:55~13:15 short interchange(between your students and us/3F)
13:20~13:55 Prayer and chorus”Brother Sun and Sister Moon”
14:00~14:30 Homeroom-period for 5th-grade/classroom cleaning
14:35~15:20 Public service of thanksgiving(schoolyard cleaning)

27th(09:20~11:55)
09:20~10:45 Experience of Japanese-style room(Japanese-teahouse)and fitting clothes of samurai,followed by a photograph;tour of high-school and junior high-school
10:50~11:30 Your performance(if you have one);course of Japanese-radio gymnasticsfor you
11:35~11:55 Presentation of commemorative large square cards to you

また、交流に際して奥野先生は、病気予防対策の交流前検温や、昼食のアレルギー調査、大型バスの駐車場等々細やかな対応をしていただき、いよいよ実現される運びとなった。

2016年1月19日

年 賀 状

井嶋 悠

年賀状、新年を寿(ことほ)ぐ挨拶、旧年をかえりみ、永く生き得ることを願い新しい年を迎える。身体をはじめ一切の「自然」に思いを馳せ、託し、自他互いの健やかさを願う、己在って他と言うよりは他在って己の、自他和(やわ)らぐ温もりの風習。“和(なごみ・わ)”の国らしさの一つ……。
韓国、中国、台湾にも似た風習はあっても、旧正月で、新暦の2月である。日本でも一部地域では今も旧正月に祝うところがあるようだが、多くは昔から新暦で寿いでいたかのように、新暦1月1日(3が日)である。こういった大らかな?日本事情にも日本らしさがうかがえるように思える。

その年賀状から私が私を思うに、どうもいけない、文言の直接に、行間に漂う、己の勝手さ、利己性(エゴ)。他への感謝は形式的で、私の旧年回顧と新年抱負。己在っての他。私は宗教心在っての信仰なしの典型的?日本人の一人らしく、キリスト教文化圏のMerry Christmas and A Happy New Yearの「and」に、先ずイエス降誕があって新年を寿ぐ心の動きに好意的納得をする。 表裏面すべてボタン一つの機械任せの味気なさ、怪訝(けげん)さが続いてはいたが、昨年、私の年賀状に終止符を打った。
そこには亡き娘への追憶が働いているのだが、要は私事情からの欠礼。しかし、孤独は羨望のままで留まっている、人間(じんかん)に他在ってかろうじて生き得る弱い一人で、それでも新年の祝辞は私からあまりに遠く思え、寒中見舞いにすることにした。娘は分かってくれているだろう、と。これまた利己の上塗りの我利我利亡者……。

年賀状の発行部数は、戦後1950年の1億8000万枚に始まり、2003年の44億5936万枚をピークに、2015年は32億0167万枚、と確実に減っている。情報手段や交通機関の高度発達の今日、形骸化した儀礼への疑問とあいまって必然とも言えるが、因みに、2015年の年賀状発行部数に52円を掛けると約1665億円。完売のための街頭販売、郵政社員の自己負担購入等の厳しさと富める国の偏った貧困思うと複雑な思いが走る。
だからと言って年賀状がなくなることはあり得ないだろう。コンピューター技術等による華やかなものが増えてはいるが、そういった技術に疎いゆえもあってか、年賀の挨拶を大切にしたい私は、再考からの年賀状再生の時を迎えているようにも思えたりする。

××主義(者)と言えるものもなくそのときどきに生きて来た人間の加齢と内省が、私の中の伝統とか風土のあいまいさを自覚させ、寂しさが募ることもしばしばである。 歳時記をひも解いてみた。[『日本大歳時記』講談社・1983年]
季語項目として「年始」「初便り」が掲げられ、その中で「年賀」「年賀状」「御慶(ぎょけい)」「年の礼」など22語が挙げてある。 新年を迎え慶(よろこ)び祝する心、親を思い、先祖の霊を祀(まつ)る心、そして古人の「不老長寿」「蓬莱・桃源郷」を希う心が流れている。現代の賑々しい情景ではなく、地下水のように大地に静かに滲(にじ)む心。
上記歳時記に採り上げられている句の中から、国語科教師であったとは言え怠惰浅学ゆえの私の勝手な解釈(【  】部分)であるが、眼を停め、琴線に触れ、心頭巡らせた句を幾つか引用する。

【ただただ慶事の年始め。それは畏怖の念に包まれた粛然とした慶事でもある。】

「蓬莱に 聞かばや伊勢の 初便」 芭蕉
(蓬莱は、東方海上に在るとされていた桃源郷。富士山の異称)、ここでは正月の飾り物の蓬莱飾りのこと。三方に松竹梅を立てて、新春にふさわしい品々〈白米・や昆布や橙やかちぐり、また伊勢海老等〉を飾る。新春の景物である。その蓬莱にそっと耳を寄せてみると、伊勢神宮の清浄な空気が伝わってくるようだの意〉

「廻り道して 富士を見る 年賀かな」 五所 平之助

「白々と 余白めでたし 年賀状」 中村 七三郎

「賀状の字 いと正しきを 畏れけり」 富安 風生

【慶事は日々の生活で硬化した心のひだを和らげ、微笑ましい時空を編み出す。】

「初便り 一子を語る つまびろか」 汀女

「をみならの 言葉を尽くす 御慶かな」 中村 若沙

「ねこに来る 賀状やねこの くすしより」 より江

【慶事が一色に染まるどこかで、それがゆえのさびしさ、かなしみを直覚している人が必ずある。】

「賀客なき 雪ふりつもる 山家(さんか)めき」 山口 青邨

「賀状うづたかしかのひとよりは来ず」 桂 信子

これらの句に静寂の大気を想う。そこに私を重ね、清澄な私であることを、直後に卑俗そのままになることは分かっているにもかかわらず、夢見る。そういった作品が美しいと思う。やっと私が好きな作品の物差しができたのかなと思ったりする。加齢の成果かもしれない。 これは、私の体内に、自然に帰一する指向、それは陰翳黒白の透明で静謐で、どこかおぼろげな映像としてあるのだが、を心底にする日本人性の証しなのか、とも思ったりする。

これまでのその年年(としどし)に私をとらえ、ファイルしている26通の年賀状を改めて見ている。ほとんどの人は故人である。 「医は仁術」を体現したと言うにふさわしい、私たち夫婦が、多くの人々が敬愛する産婦人科医。妊娠数か月、妻が腹膜炎となりその子の命か妻の命かいずれかしかないことを伝え、友人の外科医と連携し手術に立ち会ってくださった医師であり、その後に生まれた息子と娘を世に出してくださった医師。

氏の、6年前(東北大震災の3か月前、娘の死の1年前)の私たちの年賀状への、すべて手書きの返信・年賀状がある。それは私たちへの最後の年賀状であり、便りである。
右上初めに1㎝四方ほどの文字で「賀正」と書かれ、その下からすぐに言葉が続く。幾つか抜き出す。

「私は未だ生きてるだけ、もうろくして頭がオカシイです。」
「私は一人で暮らしてます。〈注:奥様は既に他界され、お子様は独立され、奈良県の或る都市に居住。〉何もせずたゞ栗の葉の掃除だけでバスに乗るのも大儀です。」
「私は咳があるので結核かと思います。井嶋先生〈注:私の父は内科医で、氏は大学時代の父の後輩〉がなくなってから受診していません(自然に任せています)」
ここで文章は終わり、後に住所と名前が書かれている。

妻と私は何度これを読み返したことだろう。父から聞いた話を思い起こし。 娘が生まれて(1988年)10年程経った頃であったか。「患者の氏への訴訟があり、彼は思うことあって、医院だけでなく医師も廃業した」と。父もそれ以上は言わなかった。それだけになおのこと、切なさと何か決定的に解せない気持ちが私たちに今もある。
これも年賀状である。

栄華きらめく……今の世の、子どもの、親の貧困のことは前回投稿した。
33年間の中高校教師の最後の2年間は、主に不登校の高校生を対象とした高校に非常勤講師で勤務した。そこで喧騒が苦痛であり、時に恐怖にさえ感ずる何人かの生徒に出会った。
事例を挙げる。
3年生の、或る生徒(男子)は私が教室に入るまで廊下で待っている。理由は「教室の中がうるさいから」。
また別の或る生徒(男子)は、授業で私が冗談等を言うと机に顔を伏せ、私が本筋に戻ると顔を上げる。
もちろん反抗心を露わに出す生徒もいるが、その時の静かな生徒の哀しげな表情。これらは、それまでの勤務校でも同様のことはあった。しかし、その高校には集約的にあったように思う。
10代ならではの、若者ならではの瑞々しい感性は、繊毛のように心身を駆け巡っている。

高速と喧騒音の中での気忙(せわ)しい刻一刻、日一日。光陰の矢は背後から追いかけ追い越そうとする。怖れと不安。大人も同じではないか。 そこまでしないと、或いはそれに打ち克ち乗り越えないと真っ当な学校生活、社会生活はできない、と事ある毎に言葉を変えての叱咤激励? 精神科医院の看板をあちらこちらで見かける時代。 日本の繁栄への疑問。何度も繰り返される「豊かさとは?」の問い。
立ち止まることの、遊びの大切さ。
教師や上司、大人たちの愛情?を自負する叱声。「そんなことで合格できるか!」「倒れるまで働け!」
その日本は、世界最高の長寿国であり、少子化顕著の国である。旧態然の視点、生き方で良いのかとの言葉が過ぎる。
樹々の葉は新芽に押し出され落葉し、大地に戻り、次の糧となる、その自然の息吹き。若者への老人の生きた言葉と老人への若者の生きた言葉。その相乗、相互啓発に必要な静謐と平安の時。
キリスト教文化圏の、第265代現教皇ベネディクト16世は、現代の消費社会と商業主義を批判し、貧困を克服する過程で導かれる共生世界を言っている。

私は私事情から年賀状をやめ、寒中見舞いに切り替えたが、1年の初めの心の行き交いに生きることでの大きさを思う。
一年の計は元旦にあり。
年賀状から、今の、これからの日本を描くことも、ささやかな経験から韓国らしさとも中国(と言っても広く、香港もあるが)らしさとも台湾らしさとも違う日本らしさを思うのだが。

 

2016年1月19日

中国たより(2016年1月)  『達人達』

井上 邦久

昨年末、欧米ではビジネスもクリスマス休戦に入る12月21・22日の両日、クリスマス商戦が佳境に入る上海にてグループの中国会議が開催されました。例年通り、末席を汚し、末尾の報告者として緊張を強いられました。100名近い参加者、40社余りの報告の一つ一つに的確なコメントと指示を続ける主宰の達人ぶりは健在でした。

同じ12月18日から21日、北京にて中央経済工作会議が開催。習近平ら指導者層が2016年度の経済政策を協議決定する会議で、過剰生産能力の解消・企業競争力向上への補助・不動産在庫の消化など五項目の方針が出されました。昨年の同会議で打ち出された構造改革・事業創新などの夢を語る方針とは異なって、一歩下がって二歩進めるような現実的な施策が多く、市場の反応は鈍いようです。現地の新聞各紙もおざなりの扱いであり、上海の『文匯報』に至っては一面に不要不急の記事を載せ、同会議関連は三面記事でした。
それに重なるように深圳にて廃棄土砂の崩落事故が発生しました。経済の拡大発展の陰で蓄積されていた問題(環境・負債・過剰在庫・税収減)が露呈している現状を象徴するような傷ましい人災です。それにしても天津での化学品爆発事故を持ち出すまでもなく、中央の重要会議に重なるように大事故が起こる奇妙な符合は無くしてほしいものです。

上海から移動して東京での年末最後の会議に出席しました。そしてその翌日のクリスマスの夕方、川上貿易そして蝶理OBの中島先輩が水先案内役を買って出てくれた御蔭で、更に大先輩の川村秀氏が品川の本社にお越し下さりました。25年ぶりの蝶理来訪に川村氏も感慨深げでした。前日にBS朝日「昭和偉人伝 杉原千畝」(1月20日21:00から放映。http://www.bs-asahi.co.jp/ijinden/)の取材を受けられたばかりとのことでした。

日ソ貿易業務に長年従事され、82歳の現在に至るまでロシアとの交流に貢献を続けられている川村氏は、モスクワ駐在時代にロシア女性との結婚にあたり、当時の上司であった杉原千畝に媒酌をしてもらった方でもあります。晩年の杉原千畝に身近で接した方として多方面での語り部役も務めて居られます。その語り口は明解、記憶も抜群であり、興味深い話の数々を聴かせていただき光栄でした。
鼎談の場所を旧東海道品川宿の蕎麦屋に移して、浅蜊の生姜煮や海苔の佃煮を肴にリラックスされた川村さんのお話は多岐に渡りました。ただ懐古調の事柄は少なく、現在の社会課題や今後のプランについての話題が多いことに気付きました。

杉原千畝関連で言えば、故郷の岐阜県八百津→敦賀→モスクワ→カナウス→ケーニスベルグ等のゆかりの地を巡るツアー計画に惹かれました。また、個人と組織の関係についての洞察とエスプリに満ちた発言に土俵年齢の重みを痛感させられました。
事ほど左様に、健康と好奇心そして健啖家の3Kを維持しながら、次なる目標に向かわれる姿勢はとても格好良く、加えて外貌も素敵な達人に刺激を受けた夜でした。

大阪で仕事納めをした翌朝の関西空港で大学時代の同級生と合流、上海へ飛びました。12月15日に東方書店から出版されたばかりの陳芳明『台湾新文学史(上・下)』を携えて訳出代表の下村作次郎教授が自ら、大戦直後の台湾文学運動の旗手であった朱實(筆名:瞿麦)先生を訪ねる私的な旅です。
これまで台湾文学史として二冊が先行して出版されており、日本語訳もなされています。しかし資料公開が限定的であった時代の制約を受けていました。2.28事件前後の解明探究が進み、2.28事件以降も粘り強い文学運動・政治的活動が為されていたこと、その一翼に「銀鈴社」結社があり、その中核の一人が朱實先生であったことが『台湾新文学史(上)』には盛り込まれています。

1949年4・6事件から続く国民党政府による白色テロの猛威の中、ブラックリストに挙げられた朱實先生は、偽造パスポートで基隆港から香港へ脱出、9月30日に天津に上陸しました。奇しくも誕生日に上陸したことで「我、新生を得たり」と叫んだとのことです。その翌日、隣の北京の天安門で毛沢東が「中華人民共和国、成立了!」と湖南省訛りで叫んだ、と朱實先生は笑いながら訛りを真似て語ってくれます。
この数年来、上海の静安区にある朱實先生のご自宅には何度もお訪ねし、色々と貴重なオーラルヒストリー(聞き書き。口誦記録・口承歴史?)の世界を開陳して頂き、その都度興奮しました。しかし、それはあくまでもアマチュアの領域での興奮であったことが、今回のプロフェッショナルによる周到な準備と聴き取りで知らされました。
秋に行われた卆寿のお祝いの品々が飾られた先生のお部屋から、日本料理屋に席を移しました。日本酒が進むほどに、70年に及ばんとする歴史の激流を明るく生き抜いた道のりを「呼吸をするように」(司馬遼太郎『街道をゆく 閩の道』冒頭の一節、朱先生との交流記述での形容)日本語で語られる達人の言葉は更に味わい深くなりました。

三が日は箱根駅伝と『フーテンの寅 寅次郎の休日』(山田洋次監督と昵懇とのことで、朱實先生がご自身曰く「チョイ役」で出演)そして吉例の茂山家一門の初狂言でした。申年にちなんだ『猿婿』は、猿の面だけでなくセリフも「キャキャキャ」という叫び声のみ、という前衛的な演目で笑いました。まさに猿楽でしょうか。

大阪能楽堂近くでの後藤センセとの会食も吉例で、邦楽界の内幕を少しだけ覗かせてもらいました。文楽の世界も人間国宝の皆さんの引退が続き、時計の針が回り続けているようです。ただ一部には、引退後も衰えぬ指導力を発揮し続けている達人も居るようです。

西牟田耕治さんの発案設営で、横浜在住の森田拳次さんとお会いできました。お二人とも敗戦後の旧満州からの脱出体験を共有されています。
福岡市在住の西牟田さんは早稲田ラグビー部、新聞社で活躍され、現在は能古博物館を拠点に、博多文化の継承や博多港への引揚げ実態の展示に尽力されています。とりわけ戦後70年記念展示(高倉健さんが8・15を語った最後の肉声記録が昨夏に話題になりました)に多大な集中努力を続けています。1945年、硫黄島戦のあと、次は上海が標的にされるという噂や分析により鉄道で朝鮮国境の通化へ「疎開」したことが裏目に出て、通化・梅河口・瀋陽そして葫蘆島へと父親抜きの辛酸な体験をされたとのことです。昨年の戦後70年記念行事に一区切りを付けた今、その逃避行の地を再び訪れることを企図されています。
森田さんは週刊少年サンデー、マガジンの勃興期の人気ギャグ漫画家として活躍されたのち、米国へ活動の場を移してユーモアとエスプリと風刺を感じさせる大人のヒトコマ漫画の「武者修行」。その後、「中国引揚げ漫画家の会」の中核として上田トシコ、ちばてつや、北見けんいち、赤塚不二夫、古谷三敏らの各氏とともに活動。昨年は能古博物館にも赴き、西牟田さんの企画展示に貢献をされたとのことです。署名を施して頂いた作品の内『遥かなる紅い夕陽』『JAPAN as SAMURAI』をその夜に味読し、笑読しました。

友好のこと、平和のことは面白半分では語れません。ただ自分は正しいことをしているのだと真っ向から言われた際に、肯定はするものの多少疲れを覚えることが時々あります。しかしこの日の長時間の会話は面白く格別でした。
お二人の実体験に基づくお話と、これまで継続してきた活動談義には、随所に型破りのギャグや笑いを誘う発想が散りばめられ、肩凝りをせずに聴かせて貰えました。ビジネス世界とは次元の異なるライフワークの大切さを感じさせる大人(オトナ・タイジン・達人)の会話に参加できたことを喜んでいます。

「面白半分」の英語表現を東京大学英文科中退の吉行淳之介が、HALF SERIOUSとしているのを読んだ時、膝を叩いて腹に納めた記憶があります。
その吉行淳之介には「モモヒザ三年、シリ八年」という達人らしい名言もあります。                                                                                          (了)

2016年1月8日

“豊かさ”について再考する最後の?機会 2016年? ~今こそエリートはエリートの自覚を~

井嶋 悠

昨年末、『日韓・アジア教育文化センター』を回顧し、極私的感慨を投稿した。
今回は、やはりセンターを回顧し、年始の極私的な感慨とそこからの願いを投稿する。

日本社会を動かしている中枢的人物はエリートである。
念のために国語辞典で語義を確認する。『日本国語大辞典』(小学館)より引用。

「ある社会において、将来その社会の知的指導者層の一人となりうるような優秀な資質、力があると認められた者。また、その結果として社会的に高い地位を与えられて、指導的な役割を果たしている人。選良。」

形容語(例:美しい)と抽象語(例:教育)は、使った人の価値観、人生観に関わるがゆえに、内容の吟味を明確にしておかないと他者と齟齬を来たし、苛立ち、対立が生じ、ほぞを噛むことになる。それは自身を生きることにあってとても寂しい。
国語科教師なら、授業で当然それらの内容吟味をしなくてはならないが、そんな物理的、精神的余裕はない。しきりに言われる教師の多忙もあるだろうが、その前に社会自体が高速化、大量知識=優秀化なのだから、そこで立ち止まろうものなら「優秀な」生徒から非難の矢が飛んでくる。「先生、それは生徒個人の中ですべきことなんですから、先に進んでください。試験も間近なんですから」と。周りの生徒も「あいつが言うんだから」と無表情に、何人かは表向き同意で聞き流す。だから、多くの教師は世の大勢を物差しに、多数決の合理、時間がない、と言い聞かせ先に進む。

上記引用で言えば、「知的」「指導者・指導的」「優秀な」「力」「高い」で、とりわけ今回の願いで言えば「知」「指導」「優秀」であり、私の慚愧(ざんき)の言葉で言えば、「教育・学校」であり「学力」であり「男女の文化相対社会」である。
ただ、中には「読解」(得心行く理解)と知識の多少の関係に、そこはかとない不安定を直覚している、非常に稀少な生徒もいる。そういう生徒は概ね日を置いて、か何か別のことで訪ねて来た時に、個別に質問する。教師の方も喜色派と鬱鬱派に分かれる。前者は少ない。その時のよくある対応の言葉は「今、忙しいから」。
私は、そういう質問をぶつける生徒に、静かな積極性の優秀さを思う。相手の話を、しかも眼を見据えてじっと聞いていながら、応えまた反論するとき、あの聴く姿勢は傍若無人的演技であったことが露呈する、そんな対話を生理的に忌避したい私だからなおさらである。
限られた出会いだが、高学歴と言うエリートにそれが多いのはなぜなのだろう。

国語科教育の本質を「国語科教育は畢竟言語の教育」との論説に立てば、それを泰然自若とでき、且つ生徒の眼の輝きを体感することができる学校環境は、非常に限られている。私が知る一例では、1学期に1冊、作品を決めての精読授業をしている高校がある。いわゆる教科書はない。教師は船頭[水先案内人]に徹する。
そこには、自由を標榜する少人数私学に異動した教師が、己が構想と理念からの修学旅行の実現に歓喜するという、“違った”独善はない。私は船頭教師にプロ教師を視る。

「国語科教育は畢竟言語の教育」には、「国語科教育」と「日本語教育」の、また「国内学校教育」と「海外・帰国子女教育」「外国人子女教育」との相互啓発があると思っている。だから、そういう子女の本質的な受け入れ校に、この啓発実践が多い。しかし、一方で、系列大学を持つ大学教師には不評も多い。理由は「基礎・基本」がない、知識がないである。その大学教師は、高校での「基礎・基本」をどう考え、どのような入学試験を作成し、入学後に自身はどのような教育(講義)をしようとしているのか。
要は「学力観」の問題である。同系列組織にあっても意思疎通はほとんどできない、とささやかな類似体験から思う。なぜか。

そんな気難しい?しかも専門研究性もなく、在職私学中高校数校、勤務合計33年間の内、数年間の惨烈極まりない期間を除けば、周囲の人々からすればただただお気楽な教師にしか映らなかったであろう私ではあるが、或いはだから? 現代日本社会のいびつさ、ゆがみの元凶は「優秀な知」をもって「社会の知的指導者層」であるエリートに、或いはエリートの語義の閉鎖化、矮小化、形骸化に、あるのではとの思いに到る。と言えば、エリートは私の開き直りと糾弾するだろうが。
私をこのように誘導する後ろには、そのエリートたち幾人かの出会いでの失望、不快また生まれ育ったエリート親族環境での劣等感(私は準“難関”私立大学出身)が、大いに働いているのだろう。これは、私を「屈折した人間」と直接間接に揶揄した人々の批評ともつながるのかもしれない。

【備考】
ところで「エリート」はフランス語である。以下は、フランス語(大学での第2外国語はドイツ語)も、フランスの社会も教育もほとんど知らない私の、ちょっとした体験からの思い付きの備考である。

インターナショナルスクールとの併設協働校で、そのインター校では、全人教育を掲げ、欧米学校文化圏では多く採用されている「国際バカロレア」(略称:英語化の頭文字からIB。尚「バカロレア」とはフランスの大学入試資格の意で同じくフランス語である)プログラム(幼稚園もしくは小学校から高校終了までの一貫プログラム)を実施していて、そこの「上級日本語」(高校2年3年生対象の2年間継続選択科目)を担当したことがある。
生徒一人一人が、様々なテーマに関心を向け、調べ、話し合い、表現(話す・書く)する。教師は船頭[水先案内人]である。
初めての経験で、西村俊一氏等による著『国際的学力の探求』(1989年・創友社)や『国際バカロレアの研究』(1998年・東京学芸大学)などでその概要や実践内容を学び、実践し、今では顧みられることもないあの「(横断的)総合的学習」と相通じているのではとの思いを持ったり、後には海外在留子女への通信教育での実践も経験した。
ここ10年程であろうか、日本の学校でのIBプログラム導入が言われている。私の場合文系しか理解できないが、「表現と読解と言語事項」の国語科教育の理念を考えれば導入は然りだと思う。しかし、これまで日本がたどって来た欧米偏愛指向=日本後進文化劣等感と、今日のカネ・モノ文化文明を上善とする限り、理念だけに終わるように思う。なぜか。学校組織(体制)と教師意識と、その背景であり土台である日本社会の変革、それもかなり根源(ラディカル)的(な)変革、があってこそ実現できると考えられるから。そこで求められることは、官僚的、権威的保守性に堕していない確かなエリートの度量と実行力である。

 

 

エリートと、とりわけ政財界で、言われる多くの出身大学は東大と京大で、その創立理念からも東大が多い。いわんや、対東大意識があるはずの昨今の京大では、今や入学者が複雑な?笑みを浮かべて「東大に行けなかったから京大に来た」と言う時代で、京大気質を大事にする教師たちを愕然、呆然とさせているそうだからなおさらであろう。
その東大在籍学生は、14,000人ほどで、全国の高校生総数(約356万人、因みに25年前は579万人)の約0,0039%。正に“選ばれた”若者で、先の辞書にある「選良」である。なお、おもしろいことに「選良」には代議士との意味もある。
だから、東大を一つの“頂点”とするピラミッド型大学構図では、頂点及びその周辺の大学在籍・出身者で、彼ら/彼女らの考える“正道”とは違う世界に向かう者に対して、マスコミは必ず大学名を出す。ましてや犯罪者となると一般の云十倍の勢いとなる。“裾野”の大学の場合、よほどでないと大学名は出さない。一つの親切心なのだろうか……。
エリートの宿命?とも言えなくもないが、そうではなくて、純粋に描くエリート像と現実の乖離、「知」と「優秀」の意味での齟齬、事ある毎に自身を「東大卒」と強調するような愚人性への苛立ち、更には親の年収1000万円以上が過半数、2000万円以上もあちこちに、の東大合格の歪(いびつ)さに苦笑するしかないほどの現実、そういったことへの複合的表われなのではないか。
「エリート意識」が、批判的に使われるゆえんだろう。

開き直りと言われても、真のエリートの自覚、自問自省こそが日本を立て直すとの考え方は、現実的にして真っ当であると思う。
ただ危惧されることがある。確かな内実を持ち得た者の自然と言えばそれまでなのだが、私が出会った東大・京大卒で人格的にも優秀な人物は、得てして私が言う混濁社会とは一線を画していることが多い。飄然と生きる姿が合うのだ。
それでも栄辱を知った賢人(エリート)として、時機を見極め、敢えて一線を越え「知」と「力」を一層提示して欲しいと望む私がいる。もう対症療法の限界を越えているのだから。その時、『センター』の過去と現在の事実と発信が少しでも重なることになるようになればどれほど幸いなことであろう。

私たち大人は、老人は、自然界の樹々の新芽が枯葉を押し出すように、若者、幼い子どもと入れ替わる。長寿化での高齢者社会福祉は私自身のこととしてあり、不安と恐怖は重くのしかかり、安寧な死を願う日々が増えているが、先ずは次代を担う子ども、若者である。私たち老いを迎えた大人が意図して2番手で有終を飾ろうとする、その制御的意思が私たちの安堵となる、その自然循環に思い馳せる私もいる。主役(シテ)と脇役(ワキ)の相乗の美。

最後に、私の総論の各論の一つとして『子どもの貧困』を、メモ的ではあるが採り上げる。
そこでは、いかに社会構造とその土壌にはびこっている大人の意識の変革が求められているか、そして『子どもの貧困』は『社会の貧困』であり『大人の貧困』であることが浮かび上がって来る。
この負の連鎖を断ち切ることなしに、日本が先進国、文明国と言うにはあまりにおこがましいし、未来は戦争の道、いつか来た道、に自縄自縛的に追い込んでしまうに思えてならない。
要領の良い!エリートはその時そこにいない……などと言うことを繰り返さないためにも。

子どもの貧困は、6人に1人。ここで言う貧困とは、子ども一人での母子或いは父子家庭で、年額170万円(月額14万円)が一つの基準とされている。仕事の選択肢は東京とか大都会に多い。しかし物価高である。ましてや女性の仕事は限られ、待遇も低く、再雇用の道も今もって険しい。更には、離婚等での慰謝料、養育費の実状は不払い、滞りなど実に貧弱で、男優位発想のままが多い現状。
幼い子どもにとって母の不在は、父のそれ以上に負の影響を与える。

衣食住もままならない上に心の拠り所もなく、学業に、将来に可能性を見い出すなど、言葉遊びに過ぎない。政府はその場しのぎの金銭補助を言い、拙劣なスピーチコンテストそのままに低次以下の論法で「一億総活躍社会」を言う。その下ごしらえをするのは、政治家であり、官僚であり、学識者の、エリートではないのか。人間が人間を愚弄する極(きわみ)であることに気づかないのだろうか。
その時、与党女性議員は何を考え、何をしているのだろう。

高校進学率98%強となり高校義務教育化も言われるが、家庭環境での進学率の違いに、また残る2%の意味するところに、私はどれほど心を使って来たかと自省する。しかし、これも私のお気楽教師の裏付けなのだろうか。
多額の国税を使っての外遊(本人、周囲はトップ外交と言う)、各国・地域への数十億数百億円単位での無償有償援助、福祉財源不足を御旗にしての増税、資産調査を意図した国民皆登録制度等々。しかも国の借金1000兆円(と言われても想像を越えて実感は湧かないが、とにかくあのギリシャなど足元にも及ばない借金大国らしい)を越えながらも、有識者(エリート)たちは「あれは借金ではない借金」と、わけの分からないことを言う。
末期症状からの奇跡的再生はあるのだろうか。それを担うのもエリートである。

日本を導く政治家をはじめ各界のエリートたちは、学力低下、非行の増加、先進国最悪の自殺大国(2011年以降の少中高生で言えば、将来を悲観しての自殺は5%となり、いじめの2%を越えている)、更にはアメリカを宗主国と崇める駐日本アメリカ大使ケネディ氏の「日本は、仕事をすることが貧困率を下げることにならない唯一の国」との発言はどう受け止めているのだろう。

国連の158ヶ国を対象とした2015年の『世界幸福度ランキング』で46位(アジア地域では、シンガポールが24位、タイが34位、台湾が38位、韓国が47位、香港が72位、中国が84位)、

同じく国連が行っている人間開発指数[平均寿命、教育、成人識字率、就学率、GPD等の指数]からの2015年ランキングでは17位(昨年は10位・アジア地域では9位シンガポール、15位香港、韓国)、
をどう見るのであろうか。

幸福度を数値化することのナンセンスを言い、一つの参考にはなりますが、とお茶を濁すのだろうか。
また、
やはり国連から発表された、経済成長率と言う旧来の発想ではなく、生産した資本、人的資本、天然資本、健康資本からの人の総合的豊かさ調査(2008年)では、日本の断然1位を(2位アメリカ、アジア地域では17位中国、19位インド)、内容、視点から離れて欣喜雀躍する愚行を犯すのだろうか。

遅過ぎるとの懸念もなくはないが、日本も学校教育の在り方(教育内容、期間、学力観、“あれもこれも”ではなく“あれとこれ”の余裕等)ついて、男女共存があっての社会であることについて、エリートはもちろん、すべての人間の共通課題として自省、自覚しなくてはならない時期に来ていると思う。長寿化と少子化の今だからこそ。
中でも日本の繁栄はオレタチワタシタチが創り上げて来たと自負する中年以上の男性の、と同時に女性も…、てらいのない謙虚な自省心で。

その2016年は申年(さるどし)である。(「申」を「猿」とした経緯等は不明とのこと)
私たち人類の親戚である猿にもいろいろな種類がある。
風格偉大で神経質なゴリラ、賢明なチンパンジー、個と集団の優等生ニホンザル。泰然と構え老子を彷彿とさせる森の哲人オランウータン……。
それぞれに実に愛苦しく上下などあろうはずもないが、私はオランウータンに魅かれ、憧れる。日本の指南役に、とも思ったりする。

ところで、「申」は稲妻の走る姿を表わした象形文字で、天の神の意志を表わすとのこと。(「神」は「示す偏+申す」)
なかなか意味深長な2016年のように思えるのだが………。