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2016年1月8日

“豊かさ”について再考する最後の?機会 2016年? ~今こそエリートはエリートの自覚を~

井嶋 悠

昨年末、『日韓・アジア教育文化センター』を回顧し、極私的感慨を投稿した。
今回は、やはりセンターを回顧し、年始の極私的な感慨とそこからの願いを投稿する。

日本社会を動かしている中枢的人物はエリートである。
念のために国語辞典で語義を確認する。『日本国語大辞典』(小学館)より引用。

「ある社会において、将来その社会の知的指導者層の一人となりうるような優秀な資質、力があると認められた者。また、その結果として社会的に高い地位を与えられて、指導的な役割を果たしている人。選良。」

形容語(例:美しい)と抽象語(例:教育)は、使った人の価値観、人生観に関わるがゆえに、内容の吟味を明確にしておかないと他者と齟齬を来たし、苛立ち、対立が生じ、ほぞを噛むことになる。それは自身を生きることにあってとても寂しい。
国語科教師なら、授業で当然それらの内容吟味をしなくてはならないが、そんな物理的、精神的余裕はない。しきりに言われる教師の多忙もあるだろうが、その前に社会自体が高速化、大量知識=優秀化なのだから、そこで立ち止まろうものなら「優秀な」生徒から非難の矢が飛んでくる。「先生、それは生徒個人の中ですべきことなんですから、先に進んでください。試験も間近なんですから」と。周りの生徒も「あいつが言うんだから」と無表情に、何人かは表向き同意で聞き流す。だから、多くの教師は世の大勢を物差しに、多数決の合理、時間がない、と言い聞かせ先に進む。

上記引用で言えば、「知的」「指導者・指導的」「優秀な」「力」「高い」で、とりわけ今回の願いで言えば「知」「指導」「優秀」であり、私の慚愧(ざんき)の言葉で言えば、「教育・学校」であり「学力」であり「男女の文化相対社会」である。
ただ、中には「読解」(得心行く理解)と知識の多少の関係に、そこはかとない不安定を直覚している、非常に稀少な生徒もいる。そういう生徒は概ね日を置いて、か何か別のことで訪ねて来た時に、個別に質問する。教師の方も喜色派と鬱鬱派に分かれる。前者は少ない。その時のよくある対応の言葉は「今、忙しいから」。
私は、そういう質問をぶつける生徒に、静かな積極性の優秀さを思う。相手の話を、しかも眼を見据えてじっと聞いていながら、応えまた反論するとき、あの聴く姿勢は傍若無人的演技であったことが露呈する、そんな対話を生理的に忌避したい私だからなおさらである。
限られた出会いだが、高学歴と言うエリートにそれが多いのはなぜなのだろう。

国語科教育の本質を「国語科教育は畢竟言語の教育」との論説に立てば、それを泰然自若とでき、且つ生徒の眼の輝きを体感することができる学校環境は、非常に限られている。私が知る一例では、1学期に1冊、作品を決めての精読授業をしている高校がある。いわゆる教科書はない。教師は船頭[水先案内人]に徹する。
そこには、自由を標榜する少人数私学に異動した教師が、己が構想と理念からの修学旅行の実現に歓喜するという、“違った”独善はない。私は船頭教師にプロ教師を視る。

「国語科教育は畢竟言語の教育」には、「国語科教育」と「日本語教育」の、また「国内学校教育」と「海外・帰国子女教育」「外国人子女教育」との相互啓発があると思っている。だから、そういう子女の本質的な受け入れ校に、この啓発実践が多い。しかし、一方で、系列大学を持つ大学教師には不評も多い。理由は「基礎・基本」がない、知識がないである。その大学教師は、高校での「基礎・基本」をどう考え、どのような入学試験を作成し、入学後に自身はどのような教育(講義)をしようとしているのか。
要は「学力観」の問題である。同系列組織にあっても意思疎通はほとんどできない、とささやかな類似体験から思う。なぜか。

そんな気難しい?しかも専門研究性もなく、在職私学中高校数校、勤務合計33年間の内、数年間の惨烈極まりない期間を除けば、周囲の人々からすればただただお気楽な教師にしか映らなかったであろう私ではあるが、或いはだから? 現代日本社会のいびつさ、ゆがみの元凶は「優秀な知」をもって「社会の知的指導者層」であるエリートに、或いはエリートの語義の閉鎖化、矮小化、形骸化に、あるのではとの思いに到る。と言えば、エリートは私の開き直りと糾弾するだろうが。
私をこのように誘導する後ろには、そのエリートたち幾人かの出会いでの失望、不快また生まれ育ったエリート親族環境での劣等感(私は準“難関”私立大学出身)が、大いに働いているのだろう。これは、私を「屈折した人間」と直接間接に揶揄した人々の批評ともつながるのかもしれない。

【備考】
ところで「エリート」はフランス語である。以下は、フランス語(大学での第2外国語はドイツ語)も、フランスの社会も教育もほとんど知らない私の、ちょっとした体験からの思い付きの備考である。

インターナショナルスクールとの併設協働校で、そのインター校では、全人教育を掲げ、欧米学校文化圏では多く採用されている「国際バカロレア」(略称:英語化の頭文字からIB。尚「バカロレア」とはフランスの大学入試資格の意で同じくフランス語である)プログラム(幼稚園もしくは小学校から高校終了までの一貫プログラム)を実施していて、そこの「上級日本語」(高校2年3年生対象の2年間継続選択科目)を担当したことがある。
生徒一人一人が、様々なテーマに関心を向け、調べ、話し合い、表現(話す・書く)する。教師は船頭[水先案内人]である。
初めての経験で、西村俊一氏等による著『国際的学力の探求』(1989年・創友社)や『国際バカロレアの研究』(1998年・東京学芸大学)などでその概要や実践内容を学び、実践し、今では顧みられることもないあの「(横断的)総合的学習」と相通じているのではとの思いを持ったり、後には海外在留子女への通信教育での実践も経験した。
ここ10年程であろうか、日本の学校でのIBプログラム導入が言われている。私の場合文系しか理解できないが、「表現と読解と言語事項」の国語科教育の理念を考えれば導入は然りだと思う。しかし、これまで日本がたどって来た欧米偏愛指向=日本後進文化劣等感と、今日のカネ・モノ文化文明を上善とする限り、理念だけに終わるように思う。なぜか。学校組織(体制)と教師意識と、その背景であり土台である日本社会の変革、それもかなり根源(ラディカル)的(な)変革、があってこそ実現できると考えられるから。そこで求められることは、官僚的、権威的保守性に堕していない確かなエリートの度量と実行力である。

 

 

エリートと、とりわけ政財界で、言われる多くの出身大学は東大と京大で、その創立理念からも東大が多い。いわんや、対東大意識があるはずの昨今の京大では、今や入学者が複雑な?笑みを浮かべて「東大に行けなかったから京大に来た」と言う時代で、京大気質を大事にする教師たちを愕然、呆然とさせているそうだからなおさらであろう。
その東大在籍学生は、14,000人ほどで、全国の高校生総数(約356万人、因みに25年前は579万人)の約0,0039%。正に“選ばれた”若者で、先の辞書にある「選良」である。なお、おもしろいことに「選良」には代議士との意味もある。
だから、東大を一つの“頂点”とするピラミッド型大学構図では、頂点及びその周辺の大学在籍・出身者で、彼ら/彼女らの考える“正道”とは違う世界に向かう者に対して、マスコミは必ず大学名を出す。ましてや犯罪者となると一般の云十倍の勢いとなる。“裾野”の大学の場合、よほどでないと大学名は出さない。一つの親切心なのだろうか……。
エリートの宿命?とも言えなくもないが、そうではなくて、純粋に描くエリート像と現実の乖離、「知」と「優秀」の意味での齟齬、事ある毎に自身を「東大卒」と強調するような愚人性への苛立ち、更には親の年収1000万円以上が過半数、2000万円以上もあちこちに、の東大合格の歪(いびつ)さに苦笑するしかないほどの現実、そういったことへの複合的表われなのではないか。
「エリート意識」が、批判的に使われるゆえんだろう。

開き直りと言われても、真のエリートの自覚、自問自省こそが日本を立て直すとの考え方は、現実的にして真っ当であると思う。
ただ危惧されることがある。確かな内実を持ち得た者の自然と言えばそれまでなのだが、私が出会った東大・京大卒で人格的にも優秀な人物は、得てして私が言う混濁社会とは一線を画していることが多い。飄然と生きる姿が合うのだ。
それでも栄辱を知った賢人(エリート)として、時機を見極め、敢えて一線を越え「知」と「力」を一層提示して欲しいと望む私がいる。もう対症療法の限界を越えているのだから。その時、『センター』の過去と現在の事実と発信が少しでも重なることになるようになればどれほど幸いなことであろう。

私たち大人は、老人は、自然界の樹々の新芽が枯葉を押し出すように、若者、幼い子どもと入れ替わる。長寿化での高齢者社会福祉は私自身のこととしてあり、不安と恐怖は重くのしかかり、安寧な死を願う日々が増えているが、先ずは次代を担う子ども、若者である。私たち老いを迎えた大人が意図して2番手で有終を飾ろうとする、その制御的意思が私たちの安堵となる、その自然循環に思い馳せる私もいる。主役(シテ)と脇役(ワキ)の相乗の美。

最後に、私の総論の各論の一つとして『子どもの貧困』を、メモ的ではあるが採り上げる。
そこでは、いかに社会構造とその土壌にはびこっている大人の意識の変革が求められているか、そして『子どもの貧困』は『社会の貧困』であり『大人の貧困』であることが浮かび上がって来る。
この負の連鎖を断ち切ることなしに、日本が先進国、文明国と言うにはあまりにおこがましいし、未来は戦争の道、いつか来た道、に自縄自縛的に追い込んでしまうに思えてならない。
要領の良い!エリートはその時そこにいない……などと言うことを繰り返さないためにも。

子どもの貧困は、6人に1人。ここで言う貧困とは、子ども一人での母子或いは父子家庭で、年額170万円(月額14万円)が一つの基準とされている。仕事の選択肢は東京とか大都会に多い。しかし物価高である。ましてや女性の仕事は限られ、待遇も低く、再雇用の道も今もって険しい。更には、離婚等での慰謝料、養育費の実状は不払い、滞りなど実に貧弱で、男優位発想のままが多い現状。
幼い子どもにとって母の不在は、父のそれ以上に負の影響を与える。

衣食住もままならない上に心の拠り所もなく、学業に、将来に可能性を見い出すなど、言葉遊びに過ぎない。政府はその場しのぎの金銭補助を言い、拙劣なスピーチコンテストそのままに低次以下の論法で「一億総活躍社会」を言う。その下ごしらえをするのは、政治家であり、官僚であり、学識者の、エリートではないのか。人間が人間を愚弄する極(きわみ)であることに気づかないのだろうか。
その時、与党女性議員は何を考え、何をしているのだろう。

高校進学率98%強となり高校義務教育化も言われるが、家庭環境での進学率の違いに、また残る2%の意味するところに、私はどれほど心を使って来たかと自省する。しかし、これも私のお気楽教師の裏付けなのだろうか。
多額の国税を使っての外遊(本人、周囲はトップ外交と言う)、各国・地域への数十億数百億円単位での無償有償援助、福祉財源不足を御旗にしての増税、資産調査を意図した国民皆登録制度等々。しかも国の借金1000兆円(と言われても想像を越えて実感は湧かないが、とにかくあのギリシャなど足元にも及ばない借金大国らしい)を越えながらも、有識者(エリート)たちは「あれは借金ではない借金」と、わけの分からないことを言う。
末期症状からの奇跡的再生はあるのだろうか。それを担うのもエリートである。

日本を導く政治家をはじめ各界のエリートたちは、学力低下、非行の増加、先進国最悪の自殺大国(2011年以降の少中高生で言えば、将来を悲観しての自殺は5%となり、いじめの2%を越えている)、更にはアメリカを宗主国と崇める駐日本アメリカ大使ケネディ氏の「日本は、仕事をすることが貧困率を下げることにならない唯一の国」との発言はどう受け止めているのだろう。

国連の158ヶ国を対象とした2015年の『世界幸福度ランキング』で46位(アジア地域では、シンガポールが24位、タイが34位、台湾が38位、韓国が47位、香港が72位、中国が84位)、

同じく国連が行っている人間開発指数[平均寿命、教育、成人識字率、就学率、GPD等の指数]からの2015年ランキングでは17位(昨年は10位・アジア地域では9位シンガポール、15位香港、韓国)、
をどう見るのであろうか。

幸福度を数値化することのナンセンスを言い、一つの参考にはなりますが、とお茶を濁すのだろうか。
また、
やはり国連から発表された、経済成長率と言う旧来の発想ではなく、生産した資本、人的資本、天然資本、健康資本からの人の総合的豊かさ調査(2008年)では、日本の断然1位を(2位アメリカ、アジア地域では17位中国、19位インド)、内容、視点から離れて欣喜雀躍する愚行を犯すのだろうか。

遅過ぎるとの懸念もなくはないが、日本も学校教育の在り方(教育内容、期間、学力観、“あれもこれも”ではなく“あれとこれ”の余裕等)ついて、男女共存があっての社会であることについて、エリートはもちろん、すべての人間の共通課題として自省、自覚しなくてはならない時期に来ていると思う。長寿化と少子化の今だからこそ。
中でも日本の繁栄はオレタチワタシタチが創り上げて来たと自負する中年以上の男性の、と同時に女性も…、てらいのない謙虚な自省心で。

その2016年は申年(さるどし)である。(「申」を「猿」とした経緯等は不明とのこと)
私たち人類の親戚である猿にもいろいろな種類がある。
風格偉大で神経質なゴリラ、賢明なチンパンジー、個と集団の優等生ニホンザル。泰然と構え老子を彷彿とさせる森の哲人オランウータン……。
それぞれに実に愛苦しく上下などあろうはずもないが、私はオランウータンに魅かれ、憧れる。日本の指南役に、とも思ったりする。

ところで、「申」は稲妻の走る姿を表わした象形文字で、天の神の意志を表わすとのこと。(「神」は「示す偏+申す」)
なかなか意味深長な2016年のように思えるのだが………。