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2019年4月19日

桜・観桜

井嶋 悠

我が家にはソメイヨシノとヤマザクラとシダレザクラがある。どれも心ほのぼのする樹で、愛(いと)しい情愛を寄せている。贅沢なことである。
一週間ほど前、ソメイヨシノは7分咲きほどで、後二種は未だ蕾状態であった。ところが三寒四温の一方の極みとでも言おうか、先週10日、昼頃から夕方まで雪が降った。積雪は1㎝ほどだが、桜の花弁と枝に重ね合った。
厚い雲を通して射す薄光を背に、淡い桜色と枝の黒茶色と静かに注ぐ雪。

「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」(紀 友則)の陽射しを、桜の叙情と美と思っていたからなおのこと、初めての感銘を知った。
およそ風流とか風雅とは縁遠い私だが、その打ちひしがれたようにも思え、しかしじっとたたずむ姿に、かな(悲・哀・愛)しみの美が過ぎった。加齢(来月高齢者運転表示のための講習)の為せる美感なのかもしれない。もっとも、この感銘が風流風雅とつながるのかどうか分からないが。

桜は菊と併せて日本の国花で、その桜は今では、中国や韓国、また欧米の世界に広がっている。これも日本発の国際化であろう。そこに関わった自然をこよなく愛おしむ多くの日本人たち。
因みに、他国の国花について、中国は現在検討中で牡丹・梅・菊・蓮・蘭が候補だそうで、台湾は梅、韓国は木(むく)槿(げ)である。
両「中国」で梅が選ばれているのは、古代国際化の奈良時代[青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり(小野 老(おゆ))]の花と言えば梅であったことを思い起こすと歴史の感慨を持つ。

日本は南北約3000㎞の長い列島国で、“桜前線”の北上は1月の沖縄に始まり、5月から6月の北海道へ、と約6か月にもわたって移動する。桜=入学式と言う固定観念の勝手を思う。
遠い昔に何かの機会・時期があって長い歴史を持っていたり、観光施策等で知名度が広がったりして、名所は全国到る所にあり、そのような場所は人の群れでごった返し、観桜繁華街と化す。中でも、高齢化時代を迎え、老人の出掛け率は相当な数に昇る。
近来の特徴と思うのだが、重厚なカメラや三脚を携えた老人[主に男性]が、列を為してと言わんほどに並び、機械音痴の私など、その人たちは、自身の眼で味わうより、レンズを通して美的考察?をしている時間の方がよほど長いのでは、と思ったりする。事後の制作?も含め、趣味を持つことの素晴らしさは思うが、あまり増えて来ると、偏屈な私など意地でも撮るまいと思ったりする。

蛇足ながら、この老人と言う表現、具体的には今日やはり70歳以上かと思う。従って65歳から69歳までは或る種空白のような微妙さを思ったりする。先日「お年寄り夫婦の火災死」との文言報道に接し、私たちと同年齢であることを知り、複雑な思いだった。

そして樹下宴席。これなど、有名地では早朝から席取りで競い、これはこれで他人無用のちょっとした呑み屋街と化す。

【余談】ブルーシートがござ替わりはいただけないと思うのだがどうだろう?江戸時代の版画(浮世絵)にあるような紅い毛氈で、とまでは言わないが。レッドシートなどどうだろう?

今では、桜を味わいたいなら、敢えて知られていない場所、つまり近所の公園等無名の場所、に出かけたり、花屋で満開の枝を買って来て家庭内で雰囲気を醸し出したりするようだ。また、最近「エア花見」飲食店なるものも盛んになっているとのこと。自然を前にしての人為(人工)の時代、現代。

私の観桜“繁華街”体験を2つ記す。
「清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢ふ人 みなうつくしき」は、与謝野 晶子の代表的な歌の一つで、私自身、この“艶”なる漂いに魅かれる一人である。
もうずいぶん昔のことだが、八坂神社から清水への道を歩んだところ、そんな情緒を味わうどころか、人と土産物店や露店等に圧倒された。
同様に、私が小学校前半時代にあっては(後半は東京に転校)、葵祭も祇園祭も時代祭も、時空に余裕があったように思うし、20代になって父親(京都人)の影響から正月料理のために年末に出かけた錦市場も、当時はまだ地域の台所であったように、私の記憶にはある。
これは単に郷愁なのか、現状は国際的観光地の避けて通れない宿命なのか。また、先の歌は与謝野晶子のあくまでも創作[虚構]なのか、或いは時代が進むということはこういうことなのか。
いずれにせよ、何かそこにひっかかるものがある。昔は良かった、ではなく。

福島県三春町の国の天然記念物「三春の滝桜」は、一本のシダレザクラの大樹で有名で、昨年夫婦で訪ねた。自宅から車で2時間ほどのところにある。
桜の大きさはチラシによると、高さ13,5m  幹回り8,1m  枝張り 東へ11m 西へ14m 南へ14、5m 北へ5,5m、の滝の名にふさわしい雄大さで、樹齢1000年以上とされている。
当然、ここも人、人、人で、駐車場からその桜に辿り着くまでに左右に飲食、土産、植木の店が並ぶ。
確かにその誇り高い桜に感動するが、どこか落ち着かない私たちがいて、行った見た帰るといった滞在。
ただ、帰路、近くの人もまばらな公園の横を通った時に見掛けた桜空間が、心に染み入ることに、思わず夫婦で笑みがこぼれた。この笑みは一体なんなのだろう?

私は、吉田兼好が『徒然草』の有名な「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」で始まる137段の、以下の言葉に、私なりの人生、日々の生活から心に過ぎることと重なる。私自身が、兼好の言う「よき人(身分教養のある人)」ぶって「片田舎の人」を蔑(さげす)むのではなく。

[以下、研究者の口語訳を転写する]

――身分教養のある人は、いちずに風流人ぶった態度もなく、またおもしろがる様子も淡泊である。片田舎の人に限って、何事もしつこくもてはやすものなのだ。花見のときは、花のもとに人を押し分け身体をねじるようにして割り込み、よそ見一つせず見守って酒を飲み、連歌をして、そのあげくには大きな枝を考えもなく折り取ってしまう。――

《私注》ここで言う連歌は当時流行していたとのことで、今で言えば「カラオケ」だろうか。
次のような説明に出会った。

――明治に入ると、桜が植えられていた江戸の庭園や大名屋敷は次々と取り壊されて桜も焚き木とされ、江戸時代に改良された多くの品種も絶滅の危機に瀕した。東京・駒込の植木職人・高木孫右衛門はこれを集めて自宅の庭に移植して84の品種を守り、1886年には荒川堤の桜並木造成に協力し、1910年には花見の新名所として定着。(以下略)――

それが一つの起点となって国内国外に広がり今があるとのこと。破壊から新たな創造へ……。
明治の初め、近代化の始動期にあって、桜は焚き木にされたということである。富国強兵、殖産興業を国是として、滅私奉公的愛国による自然を忘れた施策の一つとしてとらえるのは間違いだろうか。
このことは、幕末維新で権力を掌握した新政治家たち、その後の膨張主義志向、そして太平洋戦争での敗北、戦後の諸外国からの援助や朝鮮動乱特需、ベトナム戦争特需等があっての復興にもかかわらず、不遜な自意識過剰の私たちの先人にさえ思い及ぶ。
昭和の二つの大きな転機、1945年と1960年~70年にかけて、に私たちはどれほどに先人の叡智を知り、自省し、先見の明を持ち得ていただろうか。

桜は100~200種もあると言われるが、ソメイヨシノが代表格であろう。そのソメイヨシノ、寿命が60年~100年とのこと。東京・駒込の植木職人・高木孫右衛門の尽力については、先に引用したが、今年は2019年、その新名所定着から109年。東京オリンピック・パラリンピックの来年、110年の節目を迎える。
何かと節目をつける世相、政治に倣うわけではないが、桜の寿命と併行して、日本の寿命を過去と現在と未来から再考すべき時が来ているのではないか。
既に「反近代(化)」の潮流は、近代化の源流であるヨーロッパにあっては、とりわけ第1次世界大戦(1914年~1918年)後、深まりつつあると言うではないか。西洋偏重、尊崇を言うのではない。「対岸の火事」を花火でも見るような自身の無知、無恥、軽薄さを思うのである。

最近、成熟は爛熟となりいずれ腐食する旨の、日本の或る政治家の発言を何かで知った。
「一億総活躍社会」「男女協働社会」の実態と自画自賛の能天気、教育無償化の負の側面への放置、個の教育の実態と嘘。10代から20代の自殺増加への対症療法で良しとする自己満足、賃金格差の偏リ、高齢者福祉での“ビジネス”との用語が平然と使われる非先進性、若者への将来不安を煽り「自己責任」で片づける責任転嫁、毎年繰り返される災害での自然への畏敬を忘れた同情的その場しのぎ、自由を言葉巧みに標榜しながら管理化への拍車、外国の脅威を盾に組まれる膨大な軍備費等々。
にもかかわらず先進国の、経済大国?の、矜持による外交成果の膨大な費用[税金]を使っての、摩訶不思議な誇示そこに見て取れる国民への愚弄、国税の私物化。
確実に腐食に差し掛かっているとしか思えない。近代化は、社会に、人々に幸いをもたらすと信じられて来た。今、果たしてそう言えるだろうか。
やはり「日本の近代化は、西洋社会、中でもイギリス、フランス、ドイツと違って、上からの近代化」との指摘が響いて来る。
「上からの」の途方もない重み、「上」の人々の独善的で偽善的権力性。
もう100年も前に夏目漱石が喝破した「内発的」ではない「外発的」の限界。要は日本の底が、確実に見え始めている。

政治世界での、オレがオレがの、与党の「○○一強」とか、暴言、妄言、はたまた野党の同じ穴の貉(むじな)。その滑稽さがゆえにますます募る虚しさ。この感性で次代を担う若者に何を託そうと言うのだろうか。
このことは、外国人労働者、外国人観光客誘致での、人を人として見ていないとも思える、拝金主義=資本主義の害毒、にも明らかに見出せると言っては過言であろうか。
尚、甚だの蛇足ながら、私は共産主義国家を善しとするほどの安直さはない。

桜の、冬を耐え、あの黒い幹、枝から、可憐な桜色を生みだしている姿をあらためて静かに見つめたい。
個も、国も、そしてその基盤となる教育も、実利を求める効率と「上からの」に身を委ねた画一指向の安心感から、本質的(ラディカル)な自省、脱却が求められているように思えてならない。
それとも、漱石が言ったように「できるだけ神経衰弱に罹(かか)らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。」と感知、認識するのが生きる事の真髄なのだろうか。

 

2019年3月5日

2019年2月・沖縄県民投票 ―今、「インテリ」って何だろう?―

井嶋 悠

沖縄の米軍基地の普天間から辺野古への移転に関する県民投票が行われた。
統計の数字は、それを見る人の立場、信条等によってとらえ方は変わり意見も変わるが、同じ国の一員として、基地問題の根源にあることも含め己が考えを明確にすべき時であろう。
投票率、賛否率等から、沖縄県民の「反対」意志表示は明確な事実である、と私は思う。
また、『日韓・アジア教育文化センター』で培われた人とのつながりに於いても、それぞれの意思表示は必要なことであると個人的には考えている。

「結果に法的規制はない」との一見!合理的説明を突きつけられる虚しさは推して知るべしである。否、民意を示し得ただけで十分で、後は国民一人一人の良心である、と沖縄県人から言われれば、私はどう応えれば良いのか、狼狽える私が浮かぶ。
今回の選択肢「どちらでもない」の投じた人々の心情にあるもどかしさ、そして寂しさ。
江戸期の、近現代の沖縄の歴史と現在を知れば知るほど、私たち日本人としての良心が問われているのではないか。

「同情ほど愛情より遠いものはない」との表現は、昭和10年代に、小説『いのちの初夜』で、川端康成が世に知らしめた“癩病(戦後の表現はハンセン病)”作家北條民雄の言葉で、私が20代の頃に、心に突き刺さった棘の一つとして今もある。
この同情と愛情、相手・対象への気持ち時間の長短と、そのことで自身は何をし得たか、に違いがあるように現時点では思っているが、これで言えば今回の県民投票についても私は自己矛盾を犯している。同情すれど愛情なしとしか言い得ない、との意味で。「同情するなら金をくれ」と、どう違うのか。

投票結果に関して、全国紙A紙とM紙の論説を痛烈に批判している、著名人の文章に触れることがあった。
私はその方の考え方、対話方法或いは話し方に、以前から違和感を持つ一人だが、それはそれとして、その人は持論を展開するにあたって「インテリ」との言葉を何度か使っていた。その時、私に過ぎったことは、この人はひょっとして、現代日本人にとってインテリとは何ぞや、と問うているのではないか、と。そして、漠然と流されるままに使って来た、私の言葉で説明できない私を見た。

今日の情報社会にあって、知識は到る処で溢れかえっているから、辞書で時に見掛けるインテリ=知識人などあてにならない。例えば、学歴不要観(論)がある一方で、今もってT大を頂点とする大学進学優先社会[それも多くは塾産業の力を借りての]で、そのT大進学を競う高校数校の生徒(インテリの卵?扱いの)を集めた「クイズ大会」といったテレビ番組がある馬鹿げた世相にあってはなおのこと、知識人の図式など傲慢ささえ臭ってくる。大事なのは知識より智恵である。だから高学歴者がインテリとは限らない。

その前に、そもそもインテリなる言葉自体死語であるとの考えを持つ人もあろうかとも思う。しかし私の中でインテリと言う言葉はまだ生きているし、インテリの良し悪しで社会は変わるとも思っている。
そこで、大概のことは分かるパソコン(ネット)社会、その中でも小中高大レポート・小論文での、また私自身恩恵大で、或る漫才師はそのフレーズを使うことで受けていたから世に定着しているのだろう【ウキペディア】を引いてみると、幾つか問題ありとの前提付で以下のように書いてあった。
元の表現を基に整理して引用する。

因みに、そういう安易性を嘆いている大学教師(インテリ?)の言葉に接したことがあるが、鵜呑みは何事でも危険で、自分で考える一つのきっかけとして十分に存在価値を持っている、と私は思っている。

――知識階級とも表現されるこの社会的な階層を指し、以下のような働きをする。
学問を修め、多くの現象を広い見識をもって理解して、様々な問題を解決する知恵を提供する。
その知識によって発見・発明された成果物を提供することによって、社会から対価を得て生活する。
具体的には、
社会や経済を知識によって先導する政治家や経営者、
文化的な創作活動によって、社会に新しい価値観を育む芸術家やクリエイター、
学者として各々の分野を深く探求した学者、
教育の場で他を指導する立場を担う教師、
道徳やモラルに関する警告を発して社会を律したりする報道関係者や評論家、たちである。
その一方で、単に高学歴であるというだけの意味にも使われるケースもある。――

これを読んでどれほどの人が納得するのだろうか。少なくとも私には、現代日本、要はほとんどの人がインテリにあたるのではないかと思える。更には上記説明者に従えば、私は正しくインテリなのである。であった。ウキペディア監修者の注文はもっともである。元教師の自身から離れてもどこか偏り、狭小を感じ、可能な限り事典[エンサイクロペディア]に近づくには疑問が残る。そして全国紙を排斥した人もインテリなのである。
日本の?近現代政治家の好きな標語発信、例えば『一億一心』『一億総中流』、最近では『一億総活躍時代』『オールジャパン』になぞらえれば、『一億総インテリ時代』としての現代ということになるのではないか。だから先に記したインテリと言う言葉自体を否定、黙殺している人の先見と叡智を思う。

死語でないなら一体どういう人たちを指すのか。私は人格者であることの有無が、すべてであると思う。人格に学歴も職域も、そして対価も関係がない。信をもって或る人がその人を信ずる直覚を持つか否かがすべてである。
人は一人の人格を持つが不完全である。だから結局のところ世人はすべてインテリなのである。ただ、その多少度の高低でより真に存在感を持った人格者となる、それがつまりインテリなのではないか。
そう考えれば、教師でも作家でも他の職域でも、インテリもいれば全く埒外の人もいる。
政治家に、私の知る限りとの限定ながら、今インテリはいないと思う。
昔はいたかどうか。石橋 湛山(1884~1973:第55代首相)の幾つかの論説を読んだ経験では、彼はインテリであったように思う。しかし病を得て、わずか在位2か月の短命であった。

首相は誰でもいいのである。周囲が御しやすい、扱いやすい党派人で権力指向の強い人を選べばいいのである。そもそも人格者は政治家を、観念的には目指しても現実的には目指さない。現政治家にも人格者はいるはずであろうが、私が知らないだけであろう。しかし、そういう人は表に出られないのが日本の政治世界のようにも思える。
現我が国首相はどうか。その内政と外交のあまりのほころびの酷さにもかかわらず在位期間が長いことが、上記を立証しているのではないか。そうさせたのは「あなたがた国民だ」との応えを想像して思う。
全国紙を批判した氏も、この表現を愛用している。

そのような人格者は、幼少時からその雰囲気を醸し出しているかどうかは、私の体験では「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」ほどには分からないが、あるように思う。
最初の勤務中高校はキリスト教主義の自由な校風を大切にする女子校で、とりわけ関西では、学校側の期待と理想とは別に大学進学校として名高く、毎朝、パイプオルガンの設けられた講堂で礼拝が持たれ、10分ほどの講話では卒業生も話者として招かれる。
私が奉職してさほど経っていないころ、世に言う或る有名(名門)大学に入学した卒業生が招かれた。
彼女の話の主点は「入試に関係のない科目の授業であれ、すべての授業、先生方の言葉(話)は、入試に際してどれほど有効であったかを実感した。」というものであり、それは“内職”に励み、予備校に頼り、進学がすべてのような考えの後輩が増えつつあることへの警鐘であった。
どれほどの在校生が、そのことに気づかされたかどうかは聞いていないが、私の中で今も鮮やかに残っている。その彼女の、授業中の凛然とした着席の姿勢とともに。その彼女はもう何年かで還暦を迎えるはずだ。

「名門校」と言う表現もよく使われるが、何をもって名門なのか、これまた多様と言うか曖昧である。しかし、先のような彼女が輩出する学校こそ名門校であろう。人格者を育むと言う意味において。
因みに、先の批判者は私が思う名門高校出身者である。「例外のない規則はない」。例外中の例外卒業生…。

政治は、社会を、教育を動かし、揺らす。
人格豊かな政治家が、大人が、つまり「インテリ」が、世に溢れることで、この非常にきわどい時期を迎え、疑問と不安ばかり山積しつつある日本を導き、次代を担う若者を叱咤して欲しいと思う。
その時、沖縄県人の大きな声は、時の経過とともに、いつものように上辺の声だけで消え去ることなく、日本の問題として、熱しやすく冷めやすい国民性の負の側面から離れて、確かな力になるはずである。

2019年1月24日

雪 螢―俳句再発見・再学習―Ⅱ 与謝 蕪村

井嶋 悠

雪螢」との出会いが、教師時代の昔を顧み、幾つかの俳句“授業”の、今の齢での私的再学習を試みることで、明日の私につなげられたらと思い、Ⅰで、松尾 芭蕉を採り上げた。
続いて、与謝 蕪村、小林 一茶、更には自由律俳句を採り上げて行くことにする。

専門家からすれば、芭蕉・蕪村・一茶と並べるなど呆然唖然苦笑失笑以外何ものでもないだろうが、そこは素人(中高校国語科教師とは言え、主は現代文で、古典〔古文・漢文〕は従であった)の、怖れを知らない暴挙。かてて加えて、それぞれ限られた俳句の中からの採り出し。
そのような限りなき不節制にあってのことながら、蕪村の俳句は私にとって難しく、直感的に飛び込んで来る句は非常に限られている。芭蕉の『石山の石より白し秋の風』のように、初めて蕪村を知った際、直覚的に心に入ったのは、『春の海 終日のたり のたり哉』くらいである。

どうしてなのだろうか。単に鑑賞力不足で片づけるのはいささか口惜しい。そこで『徒然草』曰く、「少しの事にも先達はあらまほしき事なり」で、先人の鑑賞を芭蕉の時とは少し違う形で参考にして、蕪村の句を鑑賞し直すことにした。

早々に釘付けにされた、或る専門家の論考『芭蕉・蕪村・一茶』の中の次の表現。

――(三者の作品を)各一字によって暗示するとすれば、芭蕉は「道」、蕪村は「芸」、一茶は「生」であろうか。――

求道者としての芭蕉、生活者としての一茶に比べ、「芸」の意味の多様性。技芸の芸、芸術の芸。蕪村が難しいはずだ、と勝手に納得する。

創作者は、見たり、聞いたり、触れたり等で得た直感を研ぎ澄まし、想像力でその直感を広げ、深め、それぞれの技術を駆使し作品を編み出すわけだが、蕪村の場合、他の俳人とは違うことに気づかされる。
蕪村が人を、自然を見るとき、先ず画人(美術)の彼があって、その次に俳人(文学)の彼がいるのではないか、或いは時に両者が同時に機能しているのではないか、と。
そう考えて、5・7・5の凝縮されたそれぞれを一枚の絵として思い描き、それを統合することで情感を読み取れるのではないか、と思い、幾つかの俳句を再鑑賞すると見えて来るものがある。

そこには明らかに、それまでとは或いは古今一般的印象(イメージ)として私たちの中に焼き付けられている、“わび”や“さび”、はたまた“枯淡の境(きょう)”と違ったものがある。
それは何か。何に起因するのか。やはり先ず画人としての蕪村の眼があるからではないか。
その蕪村の絵心は、江戸時代、池(いけの) 大雅(たいが)と共に完成させた老荘や禅を背景とする水墨画につながるが、しかし墨の濃淡だけでなく、淡彩画的要素をも持つ『南(宋)画』である。

そのあたりのことを、近代の詩人・萩原 朔太郎は、その論考『郷愁の詩人与謝蕪村』の中で、次のように記している。

――蕪村の句の特異性は、色彩の調子が明るく、絵具が生生(なまなま)して居り、光が強烈であることである。(中略)特殊な俳句心境を全く理解しない人、そして単に、近代の抒情詩や美術しか知らない若い人たちでも、かうした蕪村の俳句だけは、思ふに容易に理解することができるだろう。(中略)一言にして言へば、蕪村の俳句は「若い」のである。丁度萬葉集の和歌が、古来日本人の詩歌の中でも最も「若い」情操の表現であったやうに、蕪村の俳句がまた、近世の日本に於ける最も若い、一の例外的なポエジイだった。そしてこの場合に「若い」と言ふのは、人間の詩情に本質してゐる。一の本然的な、浪漫的な、自由主義的な情感的青春性を指してゐるのである。――

我が意を得たり、とにんまりする私がいると同時に、いつしか固定観念に染め込まれた老いの固陋(ころう)性に寄り掛かっていることに気づかされる。

萩原 朔太郎は、上記論説に際し六句挙げているが、内二句と私が絵画性を想った幾つかの句を挙げ、私的鑑賞を記す。

【萩原 朔太郎の引用句から】

○陽炎や 名も知らぬ虫の 白き飛ぶ

私の俳句再学習のきっかけとなった雪螢とは季節が違うが[陽炎・春の季語]、春の或いは新暦夏の光を受けてゆるやかに立ち上る陽炎と白い虫の飛行の組み合わせは、淡彩画の叙情を思い起こさせる。私は勝手に白い虫をモンシロチョウの純白の輝きとして、あの和紙が持つ純白さを活かした線と余白の美を思い描いている。

○愁ひつつ 岡に登れば 花茨

蕪村には「花いばら 故郷の路に 似たる哉」との句があり、解説では中国の陶淵明の詩を心に留めての句作旨書かれてあり、この季語「花茨・夏」は俳人に多く取り上げられた由。
晴れた夏の碧空の下、白い花をいっぱいにつけた花茨の横にたたずむ人。郷愁が滲み出ている後ろ姿を描いた自然の中の花と人の油彩画の雰囲気が浮かぶ。

【私が絵画的と直覚した幾つかの句】

○柳ちり 清水かれ石 ところどころ (季語「柳ちる」・秋)

私の美術鑑賞経験は甚だ狭小で、しかも多くは画集体験であり、絵画的と言うこと自体に蔑(ないがしろ)さがあるのだが続ける。
20代の折、イタリア人現代画家ジョルジュ・デ・キリコ(1888~1978)20代中頃の、幾つかの作品に衝撃を受けたことがある。作品『出発の苦悩』『イタリア広場』『占い師の報酬』の、ギリシャかイタリアの古代?建築をモチーフに、真夏の午後の沈黙、静寂(しじま)を感じさせる、光と影の形而上的絵画で、その乾いた画面に妙に惹きこまれた。
この句は、秋の寂寥を、それも感傷でなく詠っているように思える。散った柳、かれた清水、そこに露わに石が幾つかある、この組み合わせが、秋の清澄な大気の中での寂寥を生み出している。その感覚がキリコの絵を浮かばせた。静謐な孤独の描写。

ところで、この句と同様の感慨を得たものに次の句がある。

○水にちりて 花なくなりぬ 岸の梅』

この句には、梅の樹下の落花が散り敷いた光景から、春の気配の名残りの情の深さが漂う中、この一木のような梅があるとの前書きがあり、専門家は、この句は失敗作であり画家の眼ではなく、詩人の眼がとらえたものである旨、記されてあった。
個人的には、先の句と同趣を感じた私は、落花した幾本かの梅の樹々、その中にあって河岸の一本だけは、落花は川の流れに運び去られ、樹下にはない。その花の有と無と川の流れの組み合わせを思い描くとき、失敗作かどうかは分からないが、文学的なのだろうか。

○物焚いて 花火に遠き かゝり舟

この句では、三つの光が描かれている。かがり火を焚いている小舟と夕食の準備であろうか、何か焚き物している人(影)、そして遠方の花火。近景と遠景の17音の中での光の調和(ハーモニー)。
江戸期に一つの時代を創った安藤広重の『東海道五十三次』や幾つかの浮世絵の世界が浮かび上がって来る。

○不二ひとつ 埋みのこして 若葉哉

○菜の花や 月は東に 日は西に

○水仙に 狐あそぶや 宵月夜

この三句には濃厚な油彩画の輝き、幻想性を感ずる。

一句目の、不二の(斜め)上から眺めたかのような、瑞々しい自然の息吹きの壮大な光景。

二句目の、一面に広がる菜の花畑の鮮やかな黄色を包むように、東から淡い金色の月が貌を出し、西には茜色の太陽が沈まんとしている、満月のころ、東と西の空で繰り広げられるこの絢爛な大自然の交響美。

三句目では、ロシア出身の画家マルク・シャガールの豊潤な色彩美と幻想美を思い起こさせる。尚、この句の前書きにある「古丘」。これは故郷の丘を表わすとのこと。蕪村の郷愁。

一方で、次のような非常に現代(モダン)性豊かなデザイン的絵画を彷彿とさせる句がある。名月に映し出される露に濡れた樹々、枝葉、草花、石、土、時に虫の類をも映し出す一滴の露を、その露の眼からとらえた一瞬。

○名月や 露にぬれぬは 露斗(ばかり)

 

蕪村は画人[南(宋)画家]であり、俳人[詩人]であった。その蕪村の俗[世俗]との距離は、或いは眼差しはどうであったのか。専門家の一節を引用する。

――「俳諧は俗語を用いて俗を離るるを尚(たっと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗の法最もかたし」《蕪村の言葉》という、矛盾する雅と俗の概念を止揚するのが詩であり、広くは読書による教養から得られた美意識である。(中略)これはまさに「高く心を悟りて俗に帰るべし」(『三冊子』芭蕉の俳論をまとめたもの)の、新しい文人的解釈であろう。――

そもそも水墨画や南(宋)画を観れば、俗に生きながらも己が意志的修養を通して俗を離れて[脱俗・超俗]生きる作者の姿を想いうかべる。だからこそ描かれた主題の、また線の。濃淡の、そして南画の静かな淡彩は、俗に在って俗に苦悶する私たちを魅きつける。
ユーモアを、ウイットを自在に、飄然と操れる人は、人を、社会をしかと観ている。心に余裕がある。
蕪村は、画人の眼と俳人の二つの眼で観る志向と修養を積み、自然な洒脱さを醸し出す。
と同時に、深い情愛に包んだ生の、力、孤愁、瞑想を詠う句がある。「愛し(かなし)」の感情である。
私も次のような句にそれらを見る。私的な寸評(【  】の部分)を加えて挙げる。

○青梅に 眉あつめたる 美人かな

【あつめ、が絶妙だ】

○夏川を 越すうれしさよ 手の草履

【専門家は、蕪村の少年時への郷愁、清純な少年詩性の天真流露を言うが、浴衣姿の若い女性を思い描く私は、汚れちまった俗な大人の発想なのだろうか。】

○さくら花 美人の腹や 滅却す

【美人と滅却、このおかしみは、さすがである】

○大鼾(おおいびき) そしれば動く なまこかな

【上の句と同様、心にゆとりなくしては創り出せない世界】

○学問は 尻からぬける ほたる哉

【世の学識者の方々、どう受け止めますか】

 

○飛かはす やたけ心や 親すずめ [やたけ心:勇猛果敢な心]

【動物の親、とりわけ母親の姿・眼差しの慈愛の美しさ】

○葱(ねぎ)買うて 枯木の中を 帰りけり

【昔、或る禅僧が敬慕する禅僧に会いに行ったとき、その寺の方から葱一片が流れて来るのを見て引き返した旨の話を想い出した】

○凩(こがらし)や 何に世わたる 家五軒

【ひっそりと、懸命に生きる人々への慈しみの眼差し】

○月天心 貧しき町を 通りけり

【貧しい町と大自然。凄み漂う美の描画】

○凧(いかのぼり) きのふの空の 有りどころ

【哲学とは、の定義に使えそうな一句】

 

私にとって難解な蕪村の諸俳句だったからか、思いもかけず駄文が一層冗長になってしまったが、最後に原点に戻って『春の海 終日のたり のたり哉』を確認したい。
擬声語と擬態語は違うので、最近ではまとめて「オノマトペ」と言われている。英語の[onomatopoeia]が源である。
以前、この英語に含まれる「poem・詩」を指摘した言葉に接し、ひどく感動したことがある。擬声語は言ってみれば自然太初的とも言えるが、擬態語は人為性を持った自然性がある。そして他言語と違って日本語は擬態語が豊富だと聞き、誇らしく思った。
この「のたりのたり」はその一つだ。「ゆっくり・ゆったり」の意味の「のたり」を重ねた言葉。畳語(じょうご)。

春の海―終日〔ひねもす〕―のたりのたり―かな。

この言葉群の音の響きと季節・情景の絶妙なハーモニー。これは画人と俳人の完璧なまでの融合と思う。やはり蕪村は偉大な術家である。
ひょっとしたら、現代日本人、老いも若きも、欠けているもの、忘れ去ったものが、蕪村にあるのかもしれない、とも思ったりする。
「軽薄短小」は、日本(人)の技術への讃辞であるが、これらの漢字それぞれを心・精神にあてはめたような現代日本。老いであることの幸い?雪螢との昨年秋の新たな出会いへの感謝。

2019年1月10日

ふるさと―江戸っ子カミさんと無故郷の私―

井嶋 悠

 

後1年半で、自動車運転に際して老人マークをつけなくてはならない年齢ともなる中で新年を迎えると、我が故郷(ふるさと)・原郷はどこなのだろう、とつい思い及ぼしてしまう。
妻は自身の故郷(ふるさと)をはっきりと内に持っている。それは同時に原郷でもある。夫たる私は、その故郷に係る言葉を、それも些細な断片でさえ、聞くたびに羨ましく思う。

こんな表現に出遭った。或る女流作家の言葉である。

「生れた土地を夜更けに出て来て、その後は古里に古里らしいつながりを失ってしまったものが、せめて、生活の情緒の最初の場所に、その故郷を感じようとしているのである。」

今40代以上の人で、童謡(唱歌)『ふるさと』を想い出す人も多いかと思う。(若い世代の人は、小学校時代に唱歌といった歌は習わない、と聞いたことがあるので。今もそうなら残念に思う。)

その『ふるさと』の歌詞は以下である。

兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて、

忘れがたき 故郷(ふるさと)
如何(いか)に在(い)ます
父母 恙(つつが)なしや
友がき 雨に風に つけても 思い出(い)ずる 故郷

志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷

この歌詞と先の作家の「生活の情緒の最初の場所」を重ねれば、故郷は10代前後から20歳前後までに心に沈潜するのではないだろうか。幼少期を経て、思春期前後半期が終わるころまでの時間と空間。
因みに、出だしの「兎追いし」、妻は長らくの間「兎は美味しいんだ」と思い込んでいたとのこと。

 

私の思春期前期。
私たち井嶋家の菩提寺は、京都市今出川近くにある。私の出生地は長崎市郊外のK町である。父が海軍軍医として京都から長崎に赴任していたためで、母は長崎人である。生年月日は1945年(昭和20年)8月23日。とんでもない日に凄い場所で生まれている。
生後1年も経たないうちに松江市に移り、その2,3年後に、京都市内に戻って来た。そのまま京都で、子ども時代を全うしていれば、私の人生も今とは違っていたものなっていたかもしれないが、変転は世の常。
小学校入学前後から、父がN県に単身赴任となり、小学校3年の後期から、大人の事情で在東京の伯父・伯母宅に預けられる。
預けられるまでの母子家庭生活で、母は私への音楽(音感?)教育には熱心だったが、外向的人間だったようで、学校から帰っても不在が多く、近所に居た父の兄夫婦にお世話になることが多かった。
今から思えばさびしい話だが、私の鈍感さからか、独り家の壁を相手にキャッチボールをしていたことや、独り星空を眺めていたことが、さびしさとは関係なく鮮明に記憶されている。
以前も何かに触れて書いたが、向かいの家に父子家庭の中学生くらいの男の子が居て、その少年を英雄視していた。老いを思わせる白髪まじりの父親にいつも怒鳴られ、勉強は全く埒外の少年だったが、虫採り、魚採り等々遊びの天才で、ついて回ったことが度々あった。また、銭湯は私や近所の子ども(ガキ)たちのプールで、何度、銭湯主からどやされたことか。

小学校卒業後、父は私を引き取り、西宮市に連れて行った。そこで待っていたのは新しく母となる人であった。小学校前半期の独りぼっちの多かった時間と併行して、離婚話が進んでいたわけである。
中学校は地元の公立中学校へ。入学式当日に体験した数名の生徒による運動場での“袋叩き”の驚愕、恐怖そして不可解。その日の担任教師の来宅で知る地域問題。
袋叩きとなった理由と背景を知らされ続ける3年間の、また継母との葛藤、齟齬の始まり。

私の思春期後期。
高校は世に言う進学校で、1学年3クラス、男女比3:1。課外活動はほとんどなく、教師たちの多くは、それぞれに自己を主張し、大学格差そのままの発言をする教師も。生徒もばらばら。そこで私がしたことと言えば、何人かの教師への悪だくみと反感。かと思えば、“個性的”教師の極的存在で生徒から怖れられていた男性国語教師からの庇護と情愛。

一年間の、ただ浪人していると言う日々。大学進学後の引きこもり的生活と酒と音楽といささかの美術と文学の、己が不明生活。心のデラシネ?父親と大学の或る教師の薦めもあって大学院受験をし、合格。
「全共闘」運動の高揚期。院生1年次、大学封鎖。中退し、東京での彷徨生活2年余り。人間の孤独と己の傲慢さの痛覚。そして帰宅。26歳ごろ。

子を持って知る親の愛。その実母実父は今はなく、継母は数年前、介護施設に。父死後、妹(義妹)の若くしての癌と死、また新たに起こる、今度は私も含めての大人の事情。
東京での時間は非常に濃密で、帰宅後、先の個性派教師の高配で教師への道へ進み、以後33年間の教師生活にあって確かな糧の一つとなる。

いくら晩稲(おくて)とは言え、私の「生活の情緒の最初の場所」とは、どこなのだろうか。
唱歌を踏まえれば、あの遊びの天才との時空かとも思うが、あまりにも短期間過ぎるし、父母との記憶が断片的過ぎる。そうかと言って小学校後半時はいびつだ。その後も……。
考えようによっては、住んだ場所すべてが故郷とも言える。全有は無?それとも無は全有?
これが、今も自己確認[personal identity]に揺れ動いている一因のようにも思ったりする。

故郷と言える場所が在る人は幸いである。孤独で弱い人間の最後の救い場所になると思うから。
随分昔のことだが、テレビ報道で、ホームレスが何かで取り調べられ、「お前の故郷はどこだ?」と聞かれ「ないです」とぽつりと言ったとき、問うたベテラン男性刑事が一瞬の間をおいて嗚咽する姿が思い出された。

妻は、生まれ育ち、大学を出るまで、東京・新橋のままである。しかも三代続く根生いの“江戸っ子”である。
寿司はつまむもの、そばは飲みもの。こはだ・さば・あじや赤貝をはじめ貝類を愛し、まぐろは赤身が王道でとろは猫もまたぐものと心得ている。今の時代、旬の時季はあってないようではあるが、鰹等々、初物にはどこかこだわりがある。なお、主に関西ものである松茸にはこだわりはない。
着る物も無地を好み、濃い茶や紺系の色を、また黒系を好む。
「一日一生」(一日生涯との表現もあるが、宗教を言う意図はないので、ここでは「日々是好日」に重なるものとしての一日一生を使う。)を人生訓とし、金への執着はなく「何とかなるさ」で、かの「江戸っ子は宵越しの金は持たぬ」を地で行っている。

当然、好奇心は旺盛で、テレビ等々の広告で食品や日用品の新製品情報を得ると早々に購入する、と言うより購入しないと落ち着かないようだ。だから、それが不味いものであったり、直ぐに壊れたりした時の、妻の落胆度は大きく、横で見ていて、広告の大げさ、結果詐術(ペテン)紛(まが)い、またテレビの脅威に憤怒すること多々ある。
ただ、新発売の購入も速いが、失望させられたり、気に入らないと冷め、忘れ去るのも速い。
妻の味覚に関して一つ加える。
彼女の関西時間が、新橋時間の2倍有余となったこと、それに加齢そして大病が加わったことで、今では京風の薄味をこよなく好み、郷愁以外東京風の濃い味を避けるようになっている。

歩く速度と比例し、話し聞くも速く、京風?におっとり話したり、話者が心遣いで丁寧に話せば、先々を見越し言葉を発し、それは失礼ではと言えば、だって言いたいことが疾(と)うに分かっているのに、話し続けられればまどろっこしくって、それこそ慇懃無礼よっ、と返す。しかしそこに他意、悪意はなく、要は「五月の鯉の吹き流し、口先ばかり はらわたは無し」と、本人も自覚しているのだが、時にその慮(おもんばか)りが外れることも少なくはない。結論が最後に来る日本語の難しさ?韓国語も?
結婚して40年、やっとそのことが分かって来た次第。
衣食異文化の理解は或る程度容易だが、精神異文化の理解はやはり時間がかかる……。

新橋は下町。100万人都市江戸にあって、武家はその半数近く。その住居はいわゆる山手(やまのて)にあって、独立心の強い下町人、つまるところ多くの江戸っ子連は反骨心も旺盛で、反権威精神を受け継いだのか、妻は政治家を非常に忌み嫌っている。とりわけ現首相には痛烈でテレビにその顔が出ると直ぐにチャンネルを替える。
また、妻の母校でもある銀座の小学校でのブランド制服、
(そもそも銀座は下町だがどれほどの人が承知しているのだろうか。それとも、たちまちに変貌の時間を過ごすのが日本の、日本人の国民性なのだろうか。明治・大正・昭和を生きた作家永井荷風は、明治44年に、エッセイ『銀座』で、次のように書いている。
これは明治と言う時代がそうさせたとも考えられるが、昨今の都市の変容を見ていてそうとも思えないが、どうだろうか。

――現代の日本ほど時間の早く経過する国が世界中にあろうか。(中略)再びいう日本の十年間は西洋の一世紀にも相当する――)

や、
寺の鐘の音(ね)を騒音とし寺の移転を求めたり、保育所設置への子どもたち喧騒懸念からの設置反対、はたまた幼少者の相談センター開設に際しての「××(都区内山の手の2,3の地名)ブランド」が下がるとの理由からの反対運動等に、甚だしい不快感と痛憤、疑問を抱いている。
「何様のつもり!?」と断罪の一言。
これは、江戸っ子気質と東京人気質の違いとも言え、全国(今では世界)各地からの多種多様な人々の集合都市の東京を思えば、一応京都人の私も共感同意する。一極集中施策の負の側面としても。

現首相への痛烈さは、大坂、神戸の「ママ友」も同じで、江戸っ子ゆえだけではない、女性、とりわけ主婦や母親層、の直感力、動物的勘の為せる業、と私は喝采している。
もっとも、人情の機微には異文化はないと思うが、日本の場合、下町人の方が長けているようにも思える。だから、たとえ同じ東京・下町人でもそれを直覚し得ない人物は直ぐに忘れ去られる。
妻曰く「下町の人間は怖いぞ」。
その怖い一人である妻は、娘23歳時6年前に、その娘を死出の旅に送っている。妻は、原因をすべて呑み込み、己が身を棄て娘の介護に奔走奮闘した。一切の弱音も愚痴もなく、五月の緋鯉のように。少なくとも私の前では涙も見せず。これぞ江戸っ子の神髄、と言うのは、江戸っ子ではない私の贔屓の引き倒しだろうか。

私たちは今、首都圏の人々が憧憬する地の一つでもあり、リゾート地とも呼称される所に住んでいる。ということもあり、首都圏からのリタイア組も多い。場所によっては[東京村]なるものさえある。
「上から目線」の諸例はしばしば知らされ、気づかされる。私たちも気づかぬうちに犯しているかもしれない。そんな中で、別荘として家を構えている東京下町育ちの70代の男性が、その上からの横暴を批判するのだが、その人物自体がその一人であることに気づいていない。
妻も私もひょんなことから何度か話したことがあるが、自身がすべての人で、私は不愉快さをいささか引きずり、懲りもせず会えば話しをする。妻はその人物を論外の一人として見、とうに記憶から消し去っている。

先に記した自己確認[personal identity]のアイデンティティは、ここ数年繁く使われる外来語だが、日本語で言えば「主体的個性」だろうか。
それは思春期前期から後期にかけての、学校、家庭、社会教育が非常に大きな意味を持つ。現実はどうだろうか。この少子化時代にあって、意識化された取り組みが為されているのかどうか。
「考える力」「表現する力」の、とりわけこの国際化社会での重要性が言われ、入試内容と方法の改革が実際化されつつあるが、入学志望者を受け止める側[学校教師集団]の【研究観ではなく教育観】【優秀の意味、内容に係る学力観】が大同小異で、結局は塾産業に拠りかかっているのではないか。これは、極端に言えば、進学であれ補習であれ、塾(産業)全廃止を仮定すれば明白に想像できるはずだ。

これら日々の切々と苦々しい現実を超えたところに故郷がある。生きる心の拠点として。だから「ないです」と答えたホームレスに接した刑事は胸を締め付けられたのだろう。
そう言う私もあるようでない“無故郷”だが、20代後半時まで住んだ場所を、それぞれに、私の故郷・原郷だ、と勝手な自己確認として思うようにしている。
そう思えば、これからもどこに居ても、行っても、いつまでも老け込まずおられる……。そう思いたい。

2018年12月26日

イギリスとアメリカと、そして日本 【一】

井嶋 悠

やはり政治と経済と、その延長上の軍事が、国際社会に在って「生き抜く」根本の力なのだろうか。日本の今の政治、経済を、私なりの視点で視る限り、不信と疑問は多く、謙譲を美徳とする(はずの)日本と相反し、ふと帝国主義との言葉さえ過ぎったりする。
こんな見方は、若い人たちからすれば杞憂のお笑い草なのだろうか。官僚でも大企業社員でもない若い人たちを何人も知っているが、彼ら彼女らの日々の生活を知れば、そうとは思えない、と同時にもっと“怒りを!”との老いの、しかし「歴史は繰り返す」を切々に思う、私がいる。

パクス・アメリカーナによる世界平和?どう表現するのかは分からないが、アメリカーナの箇所をそうはさせじと志向するロシア、中国と、アメリカーナの忠実な下僕日本。
そのアメリカの基礎の一端を担った、かつて「太陽の沈まない国」とさえ言われたイギリスは、EUからの離脱問題で今も揺れている。否、欧米自体が混迷の最中にあるようにも思える。
グローバリズムと「船頭多くて船山に登る」。船頭の根幹、根柢は文化、文明ではないのか。多文化主義、文化相対主義との言葉の重み。

今から120年余り前、日清戦争、日露戦争に勝利し帝国主義列強国家となった日本。
1910年、韓国を併合して朝鮮と改称し、朝鮮総督府を設置したその翌年の明治44年、夏目漱石は『現代日本の開化』と題して、和歌山で講演をしている。その核心(と私は思う)部分を引用する。

――西洋の開化は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。(中略)西洋の開化は行雲流水のごとく自然に働いているが、御維新後外国との交渉をつけた以後の日本の開化は(略)、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応なしにその云う通りにしなければ立ち行かないという有様になった。(中略)
こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐(いだ)かなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのは宜しくない。それはよほどハイカラです。宜しくない。虚偽でもある。軽薄でもある。(中略)
大学の教授を十年間一生懸命にやったら、たいていの者は神経衰弱に罹(かか)りがちじゃないでしょうか。ピンピンしているのは、皆嘘の学者だと申しては語弊があるが、まあどちらかと云えば神経衰弱に罹る方が当たり前のように思われます。学者を例に引いたのは単に分かりやすいためで、理屈(りくつ)は開化のどの方面へも応用ができるつもりです。――

太平洋戦争で英米を含む連合国に対し無条件降伏し、内的外的要因重なる中で、戦後半世紀も経たない内に、世界の経済大国となった日本。その日本と漱石の時代の日本を同次元でとらえ、なんでもかんでも今の日本に当てはめる気持ちはないが、
例えば私の職業であった中等教育学校教師体験で言えば、「横断的総合的学習」の体系、現場組織背景に触れず、その悪しき面のみをとらえ廃止し、一方で、その学習に通ずる(と体験上思う)部分がある、西洋(欧米)の「国際バカロレア」に、なぜ時に一方的に傾くのか、また日本型?インターナショナルスクール(主に初等部)が今なぜ乱立するのか、が分からない。漱石の言う「ハイカラ」化なのだろう。

その漱石は、1900年(33歳)、文部省よりイギリス留学を命ぜられる。
留学は、大学卒業後、東京高等師範(現筑波大学)英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに疑問を抱き、2年で辞し、1895年、『坊っちゃん』(1906年刊)の舞台である四国・松山の中学校英語教師になったが、1年で第五高等学校(現熊本大学)に異動した時代のことである。尚、漱石は、その異動した年に見合い結婚をしている。
国費留学生とは言え非常に限られた支給のためイギリスでの生活は欠乏状態であった。
そもそも厭世的で、神経衰弱な気質であった上に、留学課題が英文学研究ではなく英語教育法であったこと、また留学時の窮乏生活も手伝って精神衰弱度は強くなるばかりであった。そして予定を早め、2年で帰国している。

この間の生活については、盟友であった正岡 子規(漱石留学中に逝去)宛の手紙『倫敦消息』(1901年)及び彼の心の状態を心配した下宿の女主人に薦められて始めた自転車挑戦の日々を書いた『自転車日記』(1903年)でうかがい知れる。
そこでの表現は『吾輩は猫である』(1905年刊)、『坊っちゃん』につながる、武骨にして洒脱、繊細な“江戸っ子”ぶりの漱石像を彷彿とさせ、思わず笑みがこぼれる。
例えば、こんな具合だ。

「…シルクハットにフロックで出かけたら、向こうから来た二人の職工みたような者がa handsome Jap.といった。ありがたいんだか失敬なんだか分からない。」[倫敦消息より]

もちろん日本のことも気にかけている。『倫敦消息』の(一)の初めの方で、

「日本の紳士が徳育、体育、美育の点において非常に欠乏しているという事が気にかかる。その紳士がいかに平気な顔をして得意であるか、彼らがいかに浮華であるか、彼らがいかに空虚であるか、彼らがいかに現在の日本に満足して己らが一般の国民を堕落の淵に誘いつつあるかを知らざるほど近視眼であるかなどというようないろいろな不平が持ち上がってくる。」と。

これらは明治の遠い昔の話として片づけられるだろうか。少なくとも私にはそうは思えない。

昨年2017年ノーベル文学賞を受賞した、英国籍の日本人カズオ イシグロ(石黒 一雄)氏は、受賞記念講演の終わりの方で以下のように述べている。(幼少時に父親の仕事の関係で渡英し、第1言語が英語ゆえ英語の講演であるが、私にはそのような英語力はないので土屋 政雄氏の翻訳を引用する。)

「科学技術や医療の分野で従来の壁を破る発見が相次ぎ、そこから派生する脅威の数々が、すぐそこまでやって来ています。(略)新しい遺伝子編集技術が編み出され、人工知能やロボット技術にも大きな進歩があります。それは人命救助というすばらしい利益をもたらしてくれますが、同時に、アパルトヘイトにも似た野蛮な能力主義社会を実現させ、いまはまだエリートとみなされている専門職の人々を巻き込む、大量失業時代を招くかもしれません。」

「知的に疲弊した世代の疲弊した作家である私は、この未知の世界をじっと見据えるのに必要なエネルギーを見つけられるでしょうか。」

「亀裂が危険なほど拡大している時代だからこそ、耳を澄ませる必要があります。」

この講演の表題は『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー』(原題:MY TWENTIETHCENURY EVENING  AND  OTHER  SMALL  BREAKTHROUGHS)で、「ブレークスルー」の意味を辞書で確認すると[①敵陣突破 ②(難関などの)突破、解決 ③(科学、技術上の)画期的躍進]とあり、表題と内容に得心し、同時に氏の優しさに満ちた謙虚さ、鋭く広い想像力が、氏の小説家としての自覚とともに想像された。作品『日の名残り』『わたしを離さないで』に通ずることとして。

一方は、日本語を第1言語とし、明治時代に官命でイギリス留学をした日本人作家、一方は、幼少時にイギリスにわたり、英語を第1言語とする現代日本人作家。
時代を越えて通底する社会への眼。その指摘が現実とならないためにも、とりわけ若い人たちが“飼い馴らされた羊”となり、権力者に利用されないよう確(しか)と心掛けて欲しい。ここでも10代の、学校、家庭、社会の教育の重要性と怖れに思い到る。
因みに、イシグロ氏は現在64歳で、私のような老いではない。
明治時代の日本からの留学は、英・独・仏の西欧が中心だったが、その中にあって、現在の津田塾大学を創設した津田梅子は、女子教育の伸展施策を受けて、明治4年(1871年)岩倉使節団(使節・随員・留学生の総勢107名)の5人の女性の1人として6歳でアメリカに赴き、在米11年間、研鑽を積み帰国している。

現在、日本の海外留学状況はどうか。
短期語学留学等々での形態、年齢、留学地での環境等、多様な留学時代にあって、2017年の留学生状況は以下である。[出典:『一般社団法人海外留学協議会(JAOS)による日本人留学生数調査2017』
①アメリカ  19,024人  ②オーストラリア  17,411人  ③カナダ  12,194人  ④ イギリス    6,561人   ⑤フィリピン  6,238人

以下、フランスは⑩位で1,374人  ドイツは⑯位で432人、6位以下は中国、韓国、シンガポール、台湾等、アジア圏が多く占めている。

なぜその国なのか。どんな研鑽をしたのか。その成果はどうなのか。日本に、自身にどんな還元ができたと考えているか、幾つか聞きたいとは思うが到底できないことであり、それに近い内容を改めて検索し、現代日本と海外留学について学べられたらとは思う。
ただ、数字から見れば、アメリカの影響の強さが想像され、なおのことその内容に関心が向く。

私が中高校生時代学んだ英語が、アメリカ英語なのかイギリス英語なのか分からないが(何となくイギリス英語だったのかとは思うが)、教師に外国人はいなく、英語圏外国人と会話したことは皆無であった。
初めて英語圏外国人と会話したのは、最初の勤務校(アメリカ人女性宣教師二人によって、明治時代に創設された女学校)である。
その学校では、当時「サバティカル」制度(海外1年、国内半年)があり、幾つか考えた結果、国内の大阪外国語大学大学院(当時)日本語科に留学した。理由は「日本語知らずの日本人で国語科教師」を痛感していたからである。痛感させたのは、勤務校への高校留学生(1年間)であり、帰国生徒であった。その後の人生を想えば、この選択は間違っていなかったと思っている。

次回(二)では、教師になって以降出会った英語圏教師、保護者、高校留学生また帰国子女等々のエピソードの幾つかを発端にして、イギリスとアメリカについて思い巡らせることで、私的に現在と次代の日本の在りように思い到ってみたい。

【日韓・アジア教育文化センター】http://jk-asia.net/『ブログ』への、これまでの投稿内容の空疎さは、冗長さ共々重々承知している。それでも娘の死を契機として、甚だ分不相応な言葉を使えば啓示を得、自照自省を恥じらいひとつなく続けて来たが、来たる年も心変わりせずに、と言い聞かせている。
その空疎さについて補足する。
例えば平均寿命50~55歳前後の昭和初期頃の文人、と限定しなくとも、「昔は大人(おとな)が多くいた」と言うその大人たちの死生観、社会観と比すと、その表現、内容が平均寿命80歳時代にもかかわらずあまりに空疎であるとの意味である。
つくづく人の進歩について思い知らされ、その眼差しは即自身を照射し、そこから次の世界?に赴ければとの奇妙な心意気ともなったりする。
約5000字の『老子』を著した老子(老聃(たん))は、執筆後に消息を絶った、とか。

 

2018年11月18日

自由[FREE]であるということ~安田さん解放報道に接して~

井嶋 悠

私たち『日韓・アジア教育文化センター』が、NPO(非営利活動)法人の申請をし、内閣府から承認されたのは2004年9月17日のことである。当時は、事務所が2県〈私たちの場合、大阪府と兵庫県〉にまたがるときは、都道府県でなく内閣府であった。
後に、すべて主たる事務所の在る都道府県の管轄となり、10年前、代表(理事長)の私が栃木県に転居したため栃木県(庁)内となり、毎年度末の報告書類は、それまでの内閣府から栃木県となった。他に税務署(国税局)も関係するが、私たちの場合、従事者すべて無償であったので特に問題はなかった。ただ、法人県民税納付で免除申請制度があり、幸いにも認められ、税務関係での年度末手続は派生しなかった。

今、全国でNPO法人は52,000余りあるとのこと。それらの法人が、毎年所属都道府県に報告書を提出しているわけである。
年に一回とは言えこの煩雑さは、事務能力の無い私ゆえなおさらのこと、光陰矢のごとしは益々実感せられ、常にその憂鬱さに追われている心持ちであった。

にもかかわらず申請したのはなぜか。
法人が持つ公共性の説得力と公益性といった、信頼感への期待であった。いわんや、日本だけでなく、韓国、中国[香港・北京]・台湾の人々で構成されているのだから。
活動は、主催企画への助成金獲得も数年続き、また若い映像作家やデザイナーたちとの出会いにも恵まれ順調に進んだ。[詳細はhttp://jk-asia.net/を参照ください。]
しかし、私の勤務校退職(一応定年退職)や栃木県への転居から数年経ち、組織の維持、継続に難題が立ちはだかることになる。

理由は二つ。
一つは、「非営利」とは言え、収益事業が定期的にあっての運営、継続であることの痛感。
一つは、栃木県が目指す県と企業や法人等との協働推進と私たちの目指すことの方向性の違い。
だからなおのこと、全国の52,000余りの法人の浮沈に実体験から正負いろいろなことに思い及ぶ。

私たちは今年2018年9月2日,NPO法人から撤退を決議した。法務局登記上は「解散」であるが、私たちは、これまでの活動実態の継続を願い、あくまでもNPO法人からの撤退であり、実質は全く変容していない。
ただ、この手続きも、何度も栃木県県庁所在地・宇都宮法務局(往復約3時間)を訪ね、幾つかの書類の書き方等教示を受け、書類を整理提出し、数日後登記に解散が明記されても「清算結了登記」を別に申請しなくてはならない。かてて加えて県庁担当課にも提出しなくてはならない。

認可後間もなく経ったとき、韓国の或る人曰く。「それだけ拘束(しばり)があっても助成金はなし?!」
形式と内容(実質)に係る違和感。
しかし、解散登記が受理されることでの、安堵と実感する開放感。自由感。と同時にふと過る不安感。

そして改めて考えさせられる「NPOって何?」
メリットは?先に記した公共性、公益性という名目での庇護。 デメリットは?諸規定による煩わしさ。否、これは、私の運営資金のための日常事業活動の意志と発想収集と実践力不足の証しだったのだろう。10人以上の「社員」が申請条件の一つだったのだから、なおさらのこと私の責任…。「自己責任」…。
この経験からの顧みは、先述した栃木県の「協働」指向の背景ともつながる。

このことを国或いは地方自治体側からすれば、国或いは地方自治体に自身たちの責任で申請し、それに対し、承知したということは、公的“お墨付き”すなわち「権威?」を与えたのだから、報告義務は、その形式がどうであれ、派生して然るべきことであり、撤退するならどうぞ、ということになる。但し、「立つ鳥跡を濁さず」、規定に従い円滑にされたし、と。
とは言え、そのお墨付きが、今52,000余りあるということには、どうしても合点行かない私がいる。
この経験が、改めて自由について考えることになったのだが、それに大きな拍車を掛けたのが、フリー・ジャーナリストの安田 純平さんの解放、帰国であった。そこで、私がこだわった言葉が、「フリー」と「自己責任」である。

安田さん自身、2004年の新潟での講演で、以下のような発言をしている。
――フリーのジャーナリストというものは、紛争地域であっても事態の真相を見極めるためにリスクを負って取材に行くものだ」とし、「常に『死』という自己責任を負う覚悟はできている」と。――
また、 ――冬山の遭難者やキノコ採りのお年寄りも、自己責任ということか。政府に従わない奴はどうなってもいいという風潮が、国民の側から起こり始めている」として、「政府を無条件に信用する国民が増えてしまい「民主主義の危機」を痛切に感じている」。――

他にも、政府に対して、
「日本政府を『自己責任なのだから口や手を出すな』と徹底批判しないといかん。」
「日本は世界でもまれにみるチキン国家。」
「現場取材を排除しつつ国民をビビらせたうえで行使するのが集団自衛権だろうからな。」
などと、痛撃を加えている。

日本国憲法での、「公共の福祉に反しない限り」との制御を共有―この共有が、例えば道徳上云々同様、時に難しい課題にはなるのだが―した上で、[基本的人権の尊重][思想、表現等の自由]を出すまでもなく、上記安田さんの発言をとやかく言うつもりはない。ただ非常に過激ではあり、だからより考えることになった。
しかし、行政や政治家の第一の義務であり責任である、国民各人の幸福を追求する権利を守り、実現に導くとの視点に立ったとき、フリーであることと自己責任のことが私の中で混乱し始めたのである。
簡単なもの言いをすれば「フリーなんだから放っておいてくれ」と言われ、国(国家)は、「はいそうですか。お好きにどうぞ」と言えるのかどうか、これは国としての責務[義務]の放棄ではないのか。
それともすべてに対応は不可能なのだから、犠牲は或る程度やむを得ない、との別の表現なのだろうか。

私の知人にフリー(本人はフリーランスと表現している)で仕事をしている人がいて、彼の場合、半分はフリーで、半分は一つの組織に所属している。なぜか。生活としての、より多彩な仕事成就としての、生きるためである。
また、日頃こんなことを言っている知人もいる。事実かどうかは制度上を含め確認していないのだが、「無国籍であることの自由さを大事にしたい」と。

「自由人」という言葉の響きは心地良い。しかしフリーランスで生を築く人との意味では、厳しい現実を思い知る。
私は今、年金生活者である。(尚、年金生活者と言っても多様であり、その現在と将来に問題が指摘され、年金等、先進国を矜持する日本の福祉と施策の惨状は周知のことである。ただ、ここではこれ以上立ち入らず、概括的な意味で使う。)
死は解放(死が解放?)との考え方に立てば、より自由人に近づいたと言えるのかもしれないが、要は自身の意思、意識の問題なのだろう。

父は、人生の前半は勤務医であったが、後半は開業医であった。後半期、例えば、患者さんが父を前に「風邪のようで…」とでも言おうものなら、「それは私が判断することだっ!」」と叱責するほどで、時には患者さんに向かって「もう帰れっ!」とまで言うほどの個性(あく)の強い医師であった。その父が晩年、「俺のような医者は俺で最後だと思う」と、何処か寂寥感の響きでぽつりと私に言ったことがある。 そんな激しさを持った父は、一方でしばしば泥酔していた。

自由人は、人間の孤独を身をもって直覚し、それを克服し、真に孤独を自覚してこそ為し得るのだろう、と私は思う。生易しいものではない。私には遠い人ではあるが、先に言ったように距離は近まっているようにも直感する。
ただ、これらは大人の世界のことで、その大人に向かう途次のことではない。一部の若くして死を迎えざるを得なかった人々を除き、多くの人はその途次を経る。

私学の中高校教師時代、様々な公私立の中高校教師と会話する機会を得た。 と同時に、私もその中高校時代を経て来た一人であり、自由と学校に係る多種多様な経験をし、生徒(同世代)を知った。

私が、
中学生で知った、生徒の校内外での、更には教師への暴力事件と教師の無力と社会背景の自覚。
高校生で知った、学習と進学と大学名の問題。
大学生で知った、己の無気力と引きこもり。
大学院生で知った、学生運動と傍観することの自責。
東京放浪時代に知った、己が人間的限界。
教師時代に知った、教師であることと大人であることの揺れ。
これらの体験から10代の生徒たちに思うこと。 それは、複雑微妙な10代で「自由」について思案し、試行錯誤し、生きることと己が自由観の入り口をつかんで欲しい。

英文学者であった池田 潔(1903~1990)の『自由と規律』(1949年刊)は、青春時代の必読書的一冊として今も引き継がれている。
しかし、これは上層(上流)家庭に生まれ、17歳で渡英し、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学につながる、非常に限られたエリート集団であるパブリックスクールでの筆者の体験書で、昏迷混濁する現代日本に今も有効性を持つとは思う。
ただ、その底流にあるものを考えなくては、「自由の前提としての規律」といった単なる、それも特別な階級(階層)環境の、特別な学校での経験を通した道徳本に堕してしまう。

では底流に在るもの・こととは何か。
自身の存在が誰かによって認められ、自己確認の情を直感し、それぞれに自尊への思いを抱くことではないか。
生徒は生徒の年代での、教師は教師の年代、人生経験での、大人としての、そして育む愛の、もたらし手としての。
そのそれぞれの自覚から生まれる教師と生徒の信頼関係、相互敬愛心。 当たり前過ぎることであるが、現実はどうか。
あまりに各々相互の、生徒教師間の懐疑、軋轢、不信がギスギスし過ぎていないか。
もっともこれは、どんな中学高校を思い描くかによって変わることで、私が直接間接に知った例を挙げる。
3校の女子校と1校の男女共学校(すべて私立)の例。
ここでの共通主題は「自由」で、内3校は服装自由、1校は制服校。尚、1校は高校のみで、3校は中高一貫校である。

A校:創立以来、服装規定なし。特に問題となる服装はなし。但し、一時期、高校卒業式での華美さが問題となったが、生徒同士の批評も影響したようで、後落ち着く。

B校:創立以来、基本は私服で、行事等によっては制服使用(「標準服」制度)。服装の自由が拡大し、授業中に机上に飲み物を置き始め、教員間で問題となるも、時の校長の断で自由となる。

C校:創立以来、服装規定なし。ピアスを某生徒がつけたところ問題となり、その生徒と、禁止を言う校長の「自由」に係る議論の末、生徒は自主的に退学、転校。

D校:以上の例を知り、制服規定のある学校教師が発した言葉。「ウチでそれやったらメチャクチャなことになる」

【備考】某私立男子中高(大学)一貫校の例と限られた公立校の例

○中学高校は同一敷地内にあるものの、校舎も教員も校則(学校方針)も全く別。 中学:制服があり、徹底的に管理指導する。 高校:全く校則なしで、すべて生徒の自主性に委ねられる。

○公立高校によっては、自身で時間割を編成し、それに合わせて登校する私服校もある。

これらの差が生ずる要因の一つ、或いは決定的とも思えるそれは、自身の所属する学校への、及び自身 への「自尊」に係る意識、感情の高低ではないか、と。 その感情起因は学力差或いは偏差値差。入試問題の難易度。そして進路進学結果の社会的評価が大きく彼ら彼女らの心を覆っている。
生れてわずか十数年での被格差感情。 これらはやむを得ない現実として受け止めるべきで、ことさら俎上に上げること自体が、やはり無意味なことなのだろうか。 しかし、それでも次のことに思い及ぶ。

☆入試と塾・予備校在籍と中学高校在籍校学習との問題。
⇒塾・予備校を廃止したら、各学校段階でどのようなことになるのか。
【補遺】
○高い志をもって創設された或る私立校での場合
塾教育批判を掲げていたが、後に学校[各教師]が描く教育実践が、
学力不足でできないとの不満に変わって行った例がある。この問題の
背景に在ることとは何だろうか。
○新聞全国紙の塾・予備校教育論と毎年の大学合格状況、偏差値情報の
矛盾

☆家庭の経済力と学力の問題と教育の機会均等の問題。
⇒教育の無償化がもたらすことは、結局経済的余裕のある家庭への恩恵になるのではないか。そうならば、ではなぜそうなるのか。

☆各個を活かし育む教育の問題。
⇒多様な価値観、人間観があっての社会、との意識と学習内容の多様性は為されているのかどうか。

☆「不易流行」と教育の問題
⇒世界の中の日本の在りよう像に関して、国民間で共有できているのかどうか?  なぜ今、日本型?「インターナショナルスクール」が乱立的に開設されているのか。

これらの事例から、限られた選択の自由、結果としてある自己責任について、子どもや家庭(保護者)にその原因を帰することができるのであろうか。
各学校段階の入試方法として「考える力」「表現する力」云々と改革が言われているが、そもそも可能な限り客観的評価をどうするのか、また入学後どのような指導を行い、次にどう備え、送り出すのか、各学校段階でどのように検討され、実践されているのだろうか。

今、少子化にして高齢化だからこその千載一遇の時機と考え、学校と教育、教育と学力について、背景にある社会観と併せて再考する視座は、大学の大衆化による負の側面が顕在化し、高校卒業後の、また大学学部卒業後の進路に多様化が進む現在、必要なことではないのか。
人生のごく初期段階で、しかもあまりにも限られた時間内(数年間)で、人格さえとまで思えるほどに優劣意識を持たせ、持たされることが、果たして日本にどれほどの有効性を持ち得るのか、甚だ疑問である。

安田純平さんは、大学までの過程とフリー・ジャーナリストへの高く、強い自尊の人だと思う。氏は私には遠く及ばない人のように思えるが、解放以後の報道に関して、少なくとも氏を英雄視することには抵抗がある。しかし、帰国後の氏の幾つかの発言から、氏の繊細な人間性のようなものも同時に感じている。それが私の感傷からの思いなのか、理知からのそれなのかは未だ整理できていないが。

2018年9月20日

君死にたまふことなかれ

井嶋 悠

生あるものはすべて死を迎える。その死を自ら手繰り寄せる人も少なからずいる。数年前まで先進国の中で非常に高い自殺率であった日本は、年々減少傾向にあるが、それでも世界で第6位(2016年段階)で、中でも女性の自殺は第3位とのこと。
一衣帯水の国・韓国が第3位となり深刻度が増して来ているが、ここでは、風土や社会背景等の国比較或いは、減少傾向での施策の成果を言うのではなく、日本の現状を量の問題ではなく、質の問題としてとらえられるかどうか自身を整理してみたい。

政治家が国民のために働くのは自明過ぎる自明だが、その「国民」解釈が違って来て(多様化して来て?)、言葉では「社会的弱者」を言うが、実態は「社会的強者」のための政治に堕しつつあるように思えてならない。心ある人は何を今更、と冷ややかに言うだろう。
だからと言って私は、野党を支持しようとは思わない。同じ穴の貉(むじな)(狐)。自己[自党]主張・正当化更には絶対化と相手への誹謗による集散の繰り返し。人間世界の縮図そのままの。
そもそも政治家に期待することが致命的に間違っている、心平和に、美味い食と酒を味わいたいなら、政治家の登場する報道を見ないこと、話題にしないこと、と言われるのが常態化しつつある現代日本。

なぜか“脂ぎった”=政治家のイメージ。議論の大切さを言いながら問答無用の高慢。言葉の弄(もてあそ)び。よほどのテーマでもない限り、無党派の、選挙に行かない選挙民が、数年前からほぼ半数。私も含め。ただ、ここ数年は意識して投票に行っている。覆う虚しさ。そこまで自身を貶(おとし)めたくないとの自己防衛本能の顕れ?選挙民の権利放棄と十分承知しつつも。
そして政治家に「いただいた国民の皆様の支持云々」と言わしめ、形容語(大小とか強弱とか美醜とか…)が、その人の価値観を表出するとの見方に立てば、戦前の不安様相を映し出すかのような言葉の数々。
学校教育、社会教育の緊要の課題。

 

先日、衝撃のニュースに会った。哀し過ぎる!
「2016年までの2年間で、産後1年までに自殺した妊産婦は全国で少なくとも102人いたと、厚労省研究班が5日発表した。この期間の妊産婦の死因では、がんや心疾患などを上回り、自殺が最も多かった。」全国規模のこうした調査は初めてとか。そして続ける。
「妊産婦は子育てへの不安や生活環境の変化から、精神的に不安定になりやすいとされる。研究班は「産後うつ」なのメンタルヘルスの悪化で自殺に至るケースも多いとみて、産科施設や行政の連携といった支援の重要性を指摘している。」
やはり政治無関心は無責任にして醜態で、いつしか「暴力」への呼び水加担者へ……。

キリスト者が人の死に際して言う。「神が、あなたは十分つとめを果たしたのだから戻っていらっしゃいと言われたのです」と。私も娘の死に際して、或るキリスト者からこう言われ、どこか心の落ち着きを得たように思えた。私はキリスト者ではない。が、キリスト教を批判、否定する者ではない。
この母たちにも神はそう言ったのだろうか。そうは思えない。あまりに哀し過ぎる。
キリスト教や仏教また儒教でも、その自殺観は分かれているようだが、私は自殺を悪とは思っていない。いわんや罪とは思わない。本人の哀しみ、激情そして葛藤、厳粛な意志決定を想像すればするほど。
しかし、周囲の哀しみを知ればなおのこと、積極的に肯定もできないし否定もできない私がいる。

日本の、物質文明社会が当然とするかのような現実での、貧困化という矛盾。過疎化と過密化の両極的動きの中での核家族化の功罪。華美な一面的情報の氾濫の、とりわけ青少年の心の揺れ。仕事と家事の両立に係る主に都市圏での政治の貧困、政治家の空疎な言葉。無記名の誹謗中傷を含めた膨大な発信、情報。それを直ぐに手元で確認できることの負の側面。
抱えきれないが抱えようとする生真面目さ。襲い来る将来の不安、孤独、寂寥との狭間での自問自答。常よりもより鋭敏に震える神経で生命(いのち)に、死生に思い及ぼす、と同時にそれらを否定しようとする葛藤。

支援が広がりつつある。そのことで思い留まった母もあるだろう。しかし、その支援を拒否する(拒否と言う響きが強過ぎるならば避ける)心も、不安定な時にある心の動きではないのか。鬱(うつ)、うつ病症。医師や専門職としてのカウンセラー、相談員のもとに行くことの、或いは来られることの、する側とされる側の相性感も含めた煩わしさ。「自分が弱いからだ、自分だけなのだ」といった自責感情。
知人友人親族等々様々な人々の貌が浮かんでは消える中、不安と寂しさに思い巡らせ、独りであることで、何とか心落ち着かせ自身に戻ろうとする自我の葛藤。これらも鬱の症状なのではないだろうか。
支援は大事なことだが、どこまでも人間と人間の問題として机上の空論にしないことの難しさを、私なりのこれまでの直接間接経験から思う。

自殺は、いつの時代も、いかなる国・地域にあってもなくなることはないという冷厳な現実をどう受け止めれば良いのか。あの戦争のように。問い続ける、人間が、人間とは?と、永遠に……。
いわんや、自身の分身である幼児(おさなご)を置いて命を絶つ、そのあまりの哀しみにおいてをや。
それでも自問したい。自殺を断罪するのではない答えの端緒を見い出したい。「自殺者が少なくなる、否、限りなくゼロに近くなる国・地域は、どうあればできるのだろう?」と。宗教に委ねることなく、自身の実感の言葉として。
やはり、もっと政治に厳しく関心を持つべきなのかもしれない。と同時に、日本の構成員の一人として、自身の代だけではない「私の想う社会の、日本の在るべき姿」を考えなくてはならないのではないか。
その時、学校教育の時空がいかに重いものかが、視えて来る。観念[知識]の言葉で留まるのではなく。

「君死にたまふことなかれ」とは、与謝野 晶子が、日露戦争(1904年~05年)に従軍する弟のことを切々と詠った詩の有名な一節だ。その詩を転写する。
この機会に、この歌が、一部で言われる反戦歌かどうかも併せて、改めて確認したい気持ちも込めて。

あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる
暖簾のかげに伏して泣く

あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ

その弟は、第2連にあるように、大阪・堺の由緒ある和菓子屋の跡取りで、戦争から無事帰還したとのこと。因みにこの戦争で死んだ日本人は11万5600人、ロシア人は4万2600人。そしてこの戦争後、日本は帝国主義列強国の一国として太平洋戦争に向かって行く。累積され続ける死者と歴史と現在。
今日本はどうなのか。私は浮き世を憂き世と思う質(たち)からか、ごく限られた国以外、日本を含め多くの国々が、己が一番、己が正義で、帝国主義国家を今も目指しているように思える。だから、先の報道はより哀し過ぎる。

私はこの歌を、反戦といった社会的な歌とは思はない。
平塚らいてう(1886~1971)との「母性保護論争」からすれば対社会意識の強さや、晩年の「ありし日に 覚えたる無と 今日の無と さらに似ぬこそ あわれなりけれ」との歌から、旧家の跡取りの弟を通して社会[国家]に物申す思いは取れなくもないかもしれないが、やはりこの詩は純粋に弟を想い、同時にかつての自身が実家から与謝野 鉄幹のもとに走ったことを重ねた、切々とした情の歌だと思う。

2018年9月12日

『日韓・アジア教育文化センター』のNPO法人撤退に寄せて

井嶋 悠

『日韓・アジア教育文化センター』との名称でNPO法人に認証され14年、それまでの活動を入れれば25年になる。(現在、NPOとして認証されている法人数は、約52,000法人)
その間、妻の唱導で、京都人の私が関西から北関東の未知の地に、娘と愛犬共々来て10年が過ぎ、その娘を死出の旅に送って6年が経つ。また本センターの淵源とも言える尽力をいただいた河野 申之先生(学校法人睦学園元理事長)が逝去されて2年になる。

私は今年73歳、妻は71歳。世界トップレベルの平均寿命国日本の一員とは言え、残す時間は少なくともこれまで生きて来た時間の7分の1あるかないかである。
そんな私を、とりわけここ数年、ふと過(よぎ)る詩がある。

中原 中也(1907~1937)の、多くの人が、己が人生を顧み哀愁に浸る有名な一節「思えば遠く来たもんだ」で始まる詩『頑是ない歌』[詩集『在りし日の歌』所収]。その後半部分を転写する。

生きてゆくのであろうけど
遠く経て来た日や夜(よる)の
あんまりこんなにこいしゅては
なんだか自信が持てないよ

さりとて生きてゆく限り
結局我(が)ン張(ば)る僕の性質(さが)
と思えばなんだか我ながら
いたわしいよなものですよ

考えてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり
そして どうにかやってはゆくのでしょう

考えてみれば簡単だ
畢竟(ひっきょう)意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさえすればよいのだと

「人生は一行のボードレールにも及ばない」(芥川 龍之介)。これは折に触れしばしば引用される言葉である。

とは言え、高校の現代国語の時間でこれを言ったとしたら、限られた生徒以外、それも多くの生徒が、先ず思うことは「ボードレール、って?(名前と思うだけでも良しとするのではないか)」だろう。
そこで教師は説明しなくてはならないのだが、私の場合、文学史の知識程度……。(ボードレールは19世紀のフランスの詩人で、世界の詩人に大きな影響を与えた。)とか。
そもそも、詩とはこういうものとの説明すら、国語科教育の一領域である中国古典詩[漢詩]やビートルズの私の好きな曲『Let it be』を使って「押韻」という形式や伝統、日本語の場合、谷川 俊太郎さん(1931~)の詩集『ことばあそびうた』での詩人の悪戦苦闘を言って、更なる靄(もや)の中に追い込むことが関の山。
萩原 朔太郎(1886~1941)の詩集『月に吠える』の序の「詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。」は是非伝えたいとも思うが、これとて彼ら彼女らに茫々感を与えるだけとなって、ますます袋小路に。

「およそ健康な人間は誰しも二日間は食べずにすませられが、詩なしでは決してそうはゆかない」(ボードレールの言葉)などとは金輪際縁がない。
詩は“難しく”しかしどこか魅き寄せられる不思議なものだ。芸術で最も神(天)に近いのは音楽で、視、触れることのできる芸術で、最も音楽に近いのは詩だと言われる由縁かもしれない。【韻文】の美。

そんな皮相な私だが、西洋と日本では、詩の内容、指向また発表方法[朗誦]が、基本的に違うのではないか、と思ったりする。「神」への、ギリシャ文化[ヘレニズム文化]・キリスト教文化[ヘブライズム文化]を基層とした唯一絶対神的視座と自然神道を基層とした八百万神的視座、また両者の対自然観と言葉観において。中国の敬天思想は前者に近いように思う。

人生の在りようは各人各様。地球上の現人口数(約66億7000万人)だけの人生があり、過去にさかのぼれば無数としか言いようのない人生がそこに在る。無数の各人の生の歴史、意識した或いは無意識下での生の「創作」。虚構(フィクション)としての人生。己が一人一人の創作。
先ずそれがあっての真善美、芸術、と考えると、私にとっての美醜とか、善悪とか、快不快また好悪とかが、一体何なのか、分からなくなる。

私が『日韓・アジア教育文化センター』ホームページの【ブログ】に投稿するのは、虚構としての私の人生、とりわけ33年間の中高校国語科教師としての、加えて娘の死が厳しく突きつけた自照自省が根底にあってのことで、それが稀薄、曖昧となれば、先人の言葉の借用、引用は単なる自己弁護の衒(てら)いに過ぎなくなる。

芥川 龍之介は、彼が想い考える美を文学で追及し、夏目 漱石に愛され、幾つものすぐれた作品を世に問い、人生はボードレールの1行にも及ばないと言い、35歳で、愛妻と二人の子どもを置いて、己が手で、人生と創作の二つの虚構に、終止符(句点)を打った。それにとやかく言える人は誰もいないし、いわんや私が、である。

私は映画が好きで、20代(1960年代~70年代)には、やれフランスの、イタリアの、日本の××監督はどうのこうのとか、作品○○はどうだとかいった御多分にもれずの人類だった。
しかし、池袋の『文芸座』の深夜(オール)興行(ナイト)で、煙草の煙でかすむほどのスクリーンに向かって拍手し歓声を挙げている人たちと軌を一にできなかった私にとって、その光景は、今ますますもって遥か遠い昔物語となっている。
この何年かで言えば、当時若者に絶対的に支持された幾つかの邦・洋の作品を観直したが、単なる郷愁の一観客に過ぎないことを思い知らされた。しかしそれもまがう方なき私であって、それをとやかく言うつもりは当然ながらない。ただ、作品と言う虚構と人生と言う虚構を想い、生きる方途の改めての時機としたいとの私はいる。
これは江戸時代の浄瑠璃作家近松 門左衛門が唱えた芸術論[虚実皮膜]に通ずると勝手に思っている。

かの孔子は、最晩年(70代)「未だ生を知らず、焉(いずくん)んぞ(どうしての意)死を知らん」と言ったとか。紀元前の人物の70代と言えば、現在では100歳に相応するだろう。しかも思想、思索また行動の100歳。この一節、専門家の言説によれば、天をあまり問題にしなかった孔子が、天[運命]を語り出したことを示唆しているそうだが、私は前半部分に心が向く。
「人間(じんかん)到る処 青山有り」とはよく使われる言葉であるが、その前に、到るところで「時機」に出会うのが人生だ。或る時は自然態で自身の糧とし、或る時は人工態の露わさから時機は離れて行き、或る時は全く気付かず通り過ごし……。
NPO法人であることの公共性、効用性よりも、本センターの実績、歴史を基にした新たな継続を模索することを思い、本センター発起者である私は、委員(理事)の方々に撤退を申し出、了解を得ることができた。

 

これまでの多くの方々のご支援に感謝しますと同時に、今後「NPO」であることの“縛り”から離れ、私たちの事実[実績]を基に何ができるか、焦らず急がず模索し続けたく思っています。
『日韓・アジア教育文化センター』の名称はそのまま継続しますので、これからも心に留め置いていただければ喜びです。

 

2018年8月31日

八月・「戦争」への想像力を ~死者・孤児・政府設置慰安所を通して~

井嶋 悠

今日、2018年8月が終わる。「平成」最後の8月である。

戦争は人が人である限り避けられないのだろうか。
最近の輿論調査によれば、「やや」を含め生活に満足しているとの回答が70%を超え、これまでで最高値だったとか。この基因の一つに「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」の戦争特需があるとの視点はどのように受け止められているのだろうか。

1945年8月15日の敗戦(終戦)前、3月から7月にかけて沖縄で、6日広島で、9日長崎で、アメリカ軍による殲滅(せんめつ)と言っていいほどの攻撃にさらされた。(本来ならば、東京をはじめとする都市への空襲も採り上げなくてはならないが、ここでは沖縄、広島、長崎に留める。)
と言う私は、長崎原爆投下の2週間後、敗戦の8日後、8月23日に長崎市郊外の小村で生まれた。戦争を知らない世代のはしりである。京都人の父が、海軍軍医として赴任していた関係である。

「終戦」と「敗戦」との言葉遣い。当時の人々の安堵の情で言えば先ず終戦ではないか。しかし、日本国憲法に第9条の「永久」との言葉を省察すれば「敗戦」である、と私は思う。
戦争は、勝者であれ敗者であれ、多くの死者を意図的に作る最大の暴力である。それぞれがそれぞれの正義の旗の下、その正義のため大小を問わず権力者は、国民を、市民を有無言わさず戦場に駆り出し、殺戮を奨励し、そして弔う。何という傲慢、矛盾。

現代日本にあって、その戦争に不安、更には危機感を持つ人は身辺にも多い。ここまで猥雑に米国追従をしていれば、然もありなんと思う。暴力に麻痺し始めているようにも思える。憤怒憤激日毎にいや増すとは言え、私にとって日本がすべてだ。日本が好きだ。当たり前のことだが。
あまりにも「内向き」との非難を受けるだろうが、今の私には[国際(教育)]も[異文化間(教育)]も遠い思い出にある。とは言え、ここでナショナリズムとか国粋とかを持ち出す気持ちはさらさらない。
「輪廻転生」が事実で、次の生も人ならば(私自身、そうありたくないが、天が選択肢を与えてくれるのであれば海の一粒の小石になりたいと最近思い始めている)、日本以外に他など考えられない。そもそも他国・地域の人々には迷惑なことだ。未来永劫のご縁……。

私たちは、あの太平洋戦争で、沖縄戦で、広島と長崎で死んだ人の数を大枠でも承知しているだろうか。更には「戦争孤児」のことを。「防波堤」になった女性たちの、その国家施策のことを。
知らないのは私や限られた人だけかもしれない。しかし「風化」が一層危惧されている。風化はいつしか、悪しき権力者やそれを取り巻く人たちに翻弄される途に向かわせる。気づいたときは『いつか来た道』となる。杞憂ならいい。
しかし、少しでもその可能性があるならば、その責任は戦争を知らない世代の私たちにある。ここには世代差はない。否、若ければ若いほど責任は重い。次代を担う命なのだから。

感傷(センチメンタル)は安らぎと危うさの表裏である。これは自戒でもある。
因みに、北原 白秋の詩『この道』の歌詞は以下である。

この道はいつかきた道 ああ そうだよ あかしやの花が咲いてる
あの丘はいつか見た丘 ああ そうだよ ほら 白い時計台だよ
この道はいつかきた道 ああ そうだよ お母さまと馬車で行ったよ
あの雲もいつか見た雲 ああ そうだよ 山査子の枝も垂れてる

「人の命は地球より重い」。これは、先日、2歳の男の児を救出した、その人生、行動、言動、表情が証する純粋で高潔な人柄の“スーパーヒーロー”尾畠 春夫さん(78歳)の言葉である。
この言葉、旧来使われている。1970年代時の首相が、ハイジャックによる人質と服役中の犯人たちの同志との交換解放で使った言葉でもある。この首相の場合、いろいろと批評もあるようだが、尾畠さんの場合は注釈なしに重く深く響く。これを日本のそして世界の政治家はどう受け止めるのだろうか。虚しさについ襲われる。
だから、今回、私の欠如を補い、あらためて心に銘じたく、このような表題をつけた。


【戦死者】
 以下《  》は、私見或いは私的体験である。

 沖縄戦死者(1945年3月26日~1945年7月2日)

  日本 188,136人(沖縄県出身者122,228人(一般人94,000人、軍人・軍属28,228人) (他都道府県出身兵 65,908人)内、集団自決 約1000人・日本軍による住民殺害 約1000人

《高校時代の授業(だったと思う)で、沖縄の海岸の断崖から主に女性が次から次から飛び込む(中には幼児を抱え)映像が今も鮮烈に残っている。沖縄の歴史を知れば知るほど、私たちは沖縄の人たちに甘え過ぎてはいないか。カネと犠牲は常に言われることだが、私もとどのつまり内地の“富者”の身勝手な言になるのだろう。》

Ⅱ 広島被爆死者 (被爆後間もなくの死者で以後の死者は含まれていない)

約14万人(強制徴用の朝鮮人、中国人等。外国人留学生、米軍捕虜を含む)

《最初に(約45年前)勤務し18年間在職した神戸女学院は、主にプロテスタント系のキリスト教学校教育同盟校の一つで、広島女学院も同盟校であった。その時、被爆と朝鮮人をはじめとする外国人犠牲者の取り組みに大きな敬意の関心を持った。ただ持っただけだったが…。
また、原爆資料館を父大江 健三郎さんの子息光さんが、見学後ロビーで、父に「すべてだめです」(後に「です」と言ったか「でした」と言ったかで話題になったが、私は「です」と思っている。)の一言は衝撃だった。
昨年だったか、式典に登壇した首相に対して「帰れ!」との怒号が飛んだが、首相は一切意に介さず被爆国としての役割、責任を、「核兵器禁止条約」に未だ署名することなく、ここでもアメリカ追従そのままに述べた。尚、このことについては、最後に視点を変えて触れる。》

Ⅲ 長崎被爆死者 (被爆後間もなくの死者で以後の死者は含まれていない)

約7,4000人

《父は海軍軍医として被爆者の治療にも携わり、私が中高校生時代、その時の様子を聞いた。各家庭に油を供出させ、雑巾に浸して当てるだけが治療であったとか。原爆投下に限らず敗戦濃厚の情報は、当時砂糖をあまるほど所有していた軍人上層部、町の有力者、医師等特権?階層の一部の人たちは把握し、戦後に備えて部下等を動かし準備を始めていたとか。その人たちの戦後とは一体どうだったのだろう?と思う。京都に戻った父は大学内権力闘争?の煽りを食らって、何かと苦難の道を歩まざるを得なかった。》

Ⅳ 太平洋戦争死者 (以下の数字は概数)

日本人は軍人 330万人、一般人 80万人
朝鮮人は軍人 22万人、一般人 2万人死亡
台湾人は軍人 18万人、一般人 3万人死亡

[その他の国]
中国 1000万人  インド 350万人  ベトナム 200万人  インドネシア 400万人  フィリピン 111万人  ビルマ 5万人  シンガポール 5千人 モルジブ 3千人  ニュージーランド Ⅰ万人  アメリカ人41万人  オーストラリア2万5千人

《太平洋戦争の主導者は東条英機であったが、辞世の歌の一つに「今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ」があり、最後「天皇陛下万歳」とA級戦犯者の何人かと乾杯し、絞首台に上がった旨知り、無性に腹が立った。戦争責任問題は今も議論になっているが、天皇に関しては、当時の現人神としての存在、また幾つかの言動から、私は責任の一端はあるがそれ以上はないと思っている。
開戦の12月6日のニュースを聞いた多くの文人たちの言葉、それも讃嘆の、を見ればますます己が不勉強、怠惰を思い知らされ、戦後第1期生としてそのまま生きて来ている。》

【戦争孤児】

123、511人

[注]孤児とは両親がいないこと。 片親でもいれば「遺児」
・父が戦死、母が病死、または戦災死。
・両親ともに戦災死。
・母か父の片方が戦災死、片方の親が病死して、両親ともにいない子ども

《野坂 昭如原作のアニメ『火垂るの墓』は、心揺さぶる作品には違いないが、「毎年見せられてもういい」と、小学校時代の息子が言っていたのには思わず笑えた。元同じ教師として、学校側の企画の繰り返しは分からなくもないが、やはり“過ぎたるは及ばざるがごとし”ということか。
戦後の闇市を、生まれ持った?才知を発揮して駆け抜けた少年少女たち、将来への希望を見出せず哀しみと失意に生きた少年少女たち。澤田 美喜(1901~1980)の「エリザベス・サンダース・ホーム」を拠点に、生きることを得た少年少女たち。更には悪事に身を沈めた少年少女たち。……。
戦後の復興の基礎にその少年少女たちがあって今、他界した人も多い。》

【慰安婦】

1945年8月 連合国軍兵士による強姦等性暴力を防ぐために、連合国軍占領下の日本政府によって設けられた慰安所『特殊慰安施設協会』(国営国立慰安所!)。東京・横浜をはじめ、江の島・熱海・箱根などの保養地、大阪、愛知、広島、静岡、兵庫、山形、秋田、岩手等日本各地で5万3000~5000人を募集。翌年3月連合軍の指示で廃止。しかし、多くの彼女たちが街娼等に。

《今もって「慰安婦問題」の十全な整理、解決しない現状にあって、日本は敗戦直後に、連合軍による性犯罪防止を目的に、『特殊慰安施設協会』なるものを政府が率先して創設した。このような例は、世界にはないという。翌年廃止されたとはいえ、創設目的とは裏腹に開設中にも連合軍による性犯罪は多発した。日韓合意・日朝合意は解決済みと言うが、上記のようなことにどれほど真摯に向き合って、戦後処理をしたのだろうか、同じ日本人として疑問は残る。

「男女共同参画」とか言葉は多く語られ、何と時には数値まで示されるが(そもそも数値を示すこと自体、男優位の「してやる」発想を感ずる)、戦後、謙虚に欧米の歴史と実状を学び、在るべき男女平等を、憲法第14条を持ち出すまでもなく、実施していれば、世界での女性の社会的役割度は最低レベルと指摘される醜態もなかったことだろう。にもかかわらず、やれ世界の、アジアのリーダー等々かまびすしく言っているが、大人として恥ずかしくないのだろうか。
これまでに公私で出会った女性(中でも30代以上)からその存在感、生きる性(さが)の自然態での強さを痛感する一人(男)としてひどく滑稽に思え、さびしくなる。言葉をそこまでないがしろにしていいものだろうか。
尚、戦争性犯罪に関して「引揚者、とりわけロシアからの」の残虐な被害実状も改めて心に刻まなくてはならないが。》

私のまとめと一つの書の紹介

戦争を知らない私は、これらの酷(むご)い事実をどれほど承知し心及ぼしているだろうか、とこの年齢、環境[年金生活者]の今、遅れ馳せながら自省、自責する。
結局は、経済が人生・生活のすべてとの考えに無感覚で来たのではないか。
1956年(私が11歳)の経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言され、1954年~1973年の「高度経済成長期」に、一方で公害問題、都市への人口集中による都鄙の格差拡大等、現在につながる問題が顕在化する中で少年期青年期を過ごし、40歳前後から50歳前後に「バブル時代」を、そしてその崩壊の時代を生きて来た一人として、己が意識の低さに汗顔恥じ入る。いわんや元教師の、二人の子の親として。言い訳に過ぎないが、だからこそ現在の日本に敏感になっているとも言える。

この心の無惨を若い人、とりわけ学校年齢の青少年、に繰り返して欲しくない。
想像力を培うことの意義。人が人の心に思い遣る力。ゆったりと、時間に追われるのではなく、自身の時間を持つこと。これが源泉、人生の礎だと思う。ではどうすれば良いのか。

学校学習でのあれもこれもの各教科教師の意識の見直し。塾(進学塾)の廃止。受け入れ側教師と送り出す側教師の教科内容に沿った意思疎通。“みんなしている”発想やマスコミの無責任に振り回されたかのような「おけいこ事」の整理。それらに伴っての入試改革。学力観、学校制度の根本的改革。
本来の「ゆとり・心の余裕」。新版“そんな急いでどこへ行く”のだろう?
少子化、高齢化社会だからこそ、千載一遇の機会ととらえ、制度の、意識の変革の好機にできないだろうか。

先日、こんな本に出会った。2000年に翻訳、刊行された『ヒトはなぜ戦争をするのか?』アインシュタインとフロイトの往復書簡を収めた書である。

これは、第一次世界大戦(日本も英米仏等23カ国の連合国として参戦した1914年~1918年の戦争)後、アインシュタインが国際連盟から、1932年「人間にとって最も大事だと思われる問題をとりあげ、一番意見を交換したい相手と書簡を交わしてください」との依頼を受け、精神医学者のフロイに送り、往復書簡が実現したものである。

[備考:
アインシュタイン/上記書の刊行後1年、ナチスが政権をとり、その年、アメリカに亡命。1939年アメリカ大統領ルーズベルトに核兵器開発を進言。1945年、広島と長崎の惨禍を知り後悔。1946年以降、核兵器反対を唱え続け、併せて国際連合に世界政府結成を促す。

フロイト/1938年、イギリスに亡命

〔参考〕1930年前後の日本
ファシズムの台頭・治安維持法の確立・満州事変・朝鮮侵略・国際連盟脱退

以下、二人の言葉から、今回の私の意図と重なるところを幾つか引用する。

【アインシュタイン】

「国際的な平和を実現しようとすれば、各国が主権の一部を完全に放棄し、自らの活動に一定の枠をはめなければならない。」

「国民の多くが学校やマスコミの手で煽り立てられ、自分の身を犠牲にしていく―このようなことがどうして起こりうるのだろうか。答えは一つしか考えられません。人間には本能的な欲求が潜んでいる。憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が!」

「「教養のない人」よりも「知識人」と言われる人たちのほうが、暗示にかかりやすいと言えます。「知識人」こそ、大衆操作による暗示にかかり、致命的な行動に走りやすいのです。なぜでしょうか?彼らは現実を、生の現実を自分の目と自分の耳で捉えないからです。紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとするのです。」

【フロイト】

「権利(法)と暴力、この二つは正反対のもの、対立するものと見なすのではないでしょうか。けれども、権力と暴力は密接に結びついているのです。権力からはすぐに暴力が出てきて、暴力からはすぐに権力が出てくるのです。」

「人と人の間の利害対立、これは基本的に暴力によって解決されるものです。動物たちはみなそうやって決着をつけています。人間も動物なのですから、やはり暴力で決着をつけています。ただ、人間の場合、(中略)きわめて抽象的なレベルで意見が衝突することさえあります。ですから、暴力とは異なる新たな解決策が求められてきます。とはいっても、それは文明が発達してからの話です。」

「人間の衝動は二種類ある。一つは、保持し統一しようとする衝動。(中略)これをエロス的衝動と呼ぶことができる。(中略)もう一方の衝動は、破壊し殺害しようとする衝動。(中略)エロス的衝動が「生への衝動」をあらわすのなら、破壊への衝動は「死への衝動」と呼ぶことができます。(中略)異質なものを外へ排除し、破壊することで自分を守っていくのです。しかし、破壊への衝動の一部は生命体へ内面化されます。(中略)精神分析学者の目から見れば、人間の良心すら攻撃性の内面化ということから生れているはずなのです。」

85年前の二人の懸念、指摘は、“解決済み”だろうか。
万物の霊長は人間?先進国は文明国?国家愛と郷土愛と世界愛はたまた地球愛…。人間とは何かの問いの答えは、人類があるかぎり永遠に不可能?上昇のない螺旋階段?人間と自然と神(天)。
そして戦争が絶えることはない……。
そのとき、日本が日本らしさを自問し、できることはあるのだろうか……。

小独裁者?が時折頭をもたげる現代日本また世界。その浅薄な饒舌と巧みな暗示に惑わされないよう、己がゆとりを意識し、想像力を培いたいものだ。
重ねてそれは学校年齢段階の最重要課題でもある。

2018年8月21日

『民藝運動』の心を、今、再び・・・ ―柳 宗悦への私感―


内容
その一

井嶋 悠

『日本民藝館』は、和風2階家建築で、建物そのものが柳の言う「民藝」理念と合致しているのか私には分からないが、石造りの見事な門構えとともに泰然とそこに在り、私たち訪問者を迎え入れる。
館内は、8つの部屋に分かれている。[陶磁室][外邦工芸室][染織室][大展示室][朝鮮工芸室][工芸作家室][絵画室][木漆工室]で、私が訪ねた時は、染織家柚木 沙弥郎(ゆのき さみろう/1922~ )氏の特別展示が行なわれていた。

現在、日本には1192品種の伝統工芸品があるとかで、日本工芸会なる機関では、【陶芸・染織・漆芸・金工・木竹工・人形・諸工芸】に分類している由。因みに、国の伝統的工芸品指定は、【染織品、陶磁器、漆器、木工・竹工芸、金工品、文具・和紙、その他】に区分されているそうだ。

今回、私の主眼は陶芸(陶磁器)である。以下、陶器と磁器では味わいが違うこともあり、合せて大まかに「焼きもの」との表現を使う。

さて、その焼きものを主眼とした理由は、私の日常生活で最も身近にあり、“土”の香り・触感に魅かれるからで、それに加えて、私の中の三つの光景、言葉があってのことである。そしてこれらが、私の中で柳の心と或る部分と重なっている。その三つとは以下である。

一つは、「百均(店)」で出会った、新婚カップルとおぼしき二人が楽しそうに食器類の品定めをしている微笑ましい光景が強く印象に残っていること。

一つは、某大学の陶芸科出身である妻の「陶芸の作品は値段があってないようなもの」との言葉が、染織、漆器や諸工芸世界に於いてはどうなのか知らないが、常日頃その作品群の高価さが気になっていたので心に残っていること、

一つは、テレビ番組『なんでも鑑定団』で、その筋の専門家が、茶器や壺等で云十万時には百万単位で値付けしていることに不可解、疑問を感じていたこと。尚、そのテレビ番組は、私にとって日本語感覚で言う[バブリイ](英語世界では、「bubbly」とは、「泡立つ・女性、人格などが活発な、陽気な」とある)とのマイナスイメージが強く、今では全く見ていない。

柳宗悦は、美学、宗教また芸術に限らず広く哲学の研究者である。彼は民藝(品)鑑賞及び自身の蒐集での「直観」或いは「直観の美」を繰り返し説き、老荘思想を言い、禅を語る。
その禅思想を端的に表わす表現に「不立文字」「以心伝心」がある。
柳は実に多くの著作を遺し、死後《全集22巻》が刊行されるほどである。この一事からも柳が研究者たる所以(ゆえん)と言えるだろう。
そして、私は中学高校国語科の、視点によっては反面とさえ言える、研究者でもなく、更にはその志向性もない一介の教師だったに過ぎず、「私感」とは言え、一文を表わすのは不遜を免れ得ない立場であることは重々承知している。

このことは、『日韓・アジア教育文化センター』の底流に在る禅(思想)研究者鈴木 大拙(1870~1966)からの示唆と相似でもある。とりわけ2006年上海に於ける本センター主催・第3回『日韓・アジア教育国際会議』での、韓国の近代思想研究者・池(ち) 明観(みょんがん)先生の特別講演、更には私たちの仲間でもある若手日本人映像作家・デザイナーたちによる、会議のドキュメンタリー映画『東アジアからの青い漣』制作は、その具体的展開との思いがあった。
尚、鈴木大拙全集は立派な装丁の全40巻が刊行されていて、大拙は柳の高校時代の教師の一人でもあり、柳自身生涯の師として仰いでいた。

余談ながら、或る時、神田の古本屋街で、その全集がばらにして1冊100円で売られていた。旧知の文学を生きがいとし、同人も運営されていた今は亡き方が、「昨今、漱石や鴎外の全集を売却しようとしても数千円くらいになればいいほう」と驚きと残念な表情で言われていたことが思い出される。

柳の美の直観。それが1924年(35歳)『朝鮮民族美術館』開設での、また1936年(47歳)『日本民藝館』開設の、更には30代での「木喰(もくじき)上人」の発見や「大津絵」の再認識の根幹にある。
その直観と探求と行動に、焼きもので言えば、陶芸家の河井 寛次郎(1890~1966)、濱田 庄司(1894~1978)そしてイギリス人画家バーナード・リーチ(1887~1979)らが共鳴し、作陶している。

では、そもそも美とは何ぞや、と誰しも思うのではないか。理知を越えて心揺さぶられるもの。主観であって同時に客観としての対象、存在……。
因みに、『美学事典』(1969年8版 弘文堂)の「美的直観」の項をひもといてみると次のように書かれている。

――一般に直観(もしくは直覚)は対象の直接的な(概念によって媒介されない)観察ないし認識の作用を意味し、したがって本来直接体験たる美意識に関してはその重要な本質的契機をなすものである。(中略)美的直観は直観一般の区別に応じて種々の段階あるいは形式にわかたれる。これを大別すれば、1)直覚的直観と2)知的直観とあり、1)はさらにa)知覚によって直接に外的対象に関係づけられるばあい(知覚直観)とb)想像によって対象の内的感覚像を現前せしめるばあい(想像直観)にわかたれる。云々――と。

「美学」が「芸術哲学」と言われることを得心させる説明で、私の伯父(父の兄)が美学者だったから?かろうじて!分かる説明ではある。この説明に拠れば、柳の美的直観は「知的直観」と言えば、氏から叱責を受けるだろうが。

天与の才と学習と己が関心への開眼、そして絶え間ない研鑽があっての「表現」であり、私が言えば身も蓋もない以前のこととなると思いつつも、柳の言葉に響くものがあって、浅薄にもかかわらず私なりの整理として表題のようなことをしている。だから『日本民藝館』に行った際にも「己が直観(感)」を試したいとの思いもあった。
柳自身、『木喰上人発見の縁起』(1925年36歳時)の中で次のように言っている。

――私は長い間の教養によって、真の美を認識する力を得ようと努めてきました。私は漸く私の直覚を信じていいようになったのです。(直観が美の認識の本質的な要素だという見解は、もはや私にとっては動かすことの出来ない事実となって来ました)それに私は美の世界から一日でも生活を離したことが無いのです。幸いにも美に対して私の心は早く速やかに動くようになりました。かくしてこれまでこの世に隠れた幾つかの美を、多少なりとも発見して来ました。――

[Ⅰ その外形]で、彼自身所属していた「白樺派」に関して、その出自なくしては為し得ないような批判をする人のことを記したが、彼は当時大学講師等を勤めていたこともあり、やはりその批判にどうしても与し得ない私がいる。

柳は、培った美への直観力を活かして、彼が言う「民藝」を、日本だけでなく朝鮮[李氏朝鮮]を巡り、蒐集し、民藝館での展示は言うまでもなく広く展示会を開き、世に問い、併行して彼の能弁さ、雄弁さを彷彿とさせる文章で人々に伝えた。
ただ、民藝館での展示では、柳の配慮と意図から作品に添えてある説明は最小限に止めてある。例えば、私が魅かれた一つ、平安時代の大きな壺には[灰釉(はいゆ)蓮(れん)弁(べん)文(もん)壺(つぼ)・渥美・平安時代・12世紀]とあるだけの知の侵入と直観へのこだわり。
そのような環境での鑑賞と自問自答の時間。部屋と部屋をつなぐ幅広い廊下に、心身に蓄積された疲れを包み取る大地のような、4,5人は座れる木製の重厚な長椅子が置かれていた。これも柳の蒐集なのか確認を忘れたが、そこにしばし座り、展示作品群を思い起こしながら、今回の訪問主眼や先述の三つのことに自問自答し、幾つかの自己発見を得た。次のようなことである。

一つは、「民藝」と言いながら、それは柳が蒐集している時のことで、今では彼の意図とは違って「美術工芸品」として在るように思えたこと。
それは、やむを得ない対応とは言え、ガラス張りの中に陳列されていることで、柳が言う「雑器の美」「用の美」また「無想(無心)の美」から離れ、やはり柳が言う茶道史での初期の茶器観と後代の退歩堕落のようにも思え、しかしそれは時の流れの必然なのか、私の想像力の欠如なのか、との自問。
美術家・岡本 太郎(1911~1996)が、驚愕讃美した縄文土器と現代での存在性をも思い浮かべながら。

ここで、彼が言う「雑器の美」「用の美」「無想(無心)の美」について、前回1[外形]で引用したので、要点の部分のみ引用し確認しておきたい。その出典は柳の著『民藝とは何か』(1941年〈昭和16年〉52歳)からである。

■雑器とは、
珍しいものではなく、たくさん作られるもの、誰もの目に触れるもの、安く買えるもの、何処にでもあるもの。

■用とは、
不断使いにするもの、誰でも日々用いるもの、毎日の衣食住に直接必要な品々。

■無想(無心)とは、
「手廻り物」とか「勝手道具」とか呼ばれるものが多く、自然姿も質素であり頑丈であり、形も模様もしたがって単純になります。作る折の心の状態も極めて無心なのです。

それらの美というわけである。

因みに、この書の刊行は6月で、6か月後、日本は太平洋戦争に突入した。
その太平洋戦争に対して、柳はどのような反応を示したか関心はある。と言うのは、次回[その二]で触れる朝鮮[李氏朝鮮]との交流から、複雑微妙な心が動いたのかどうか。白樺派の中心人物であった武者小路 実篤や多くの文人たちのように、昭和天皇の詔(みことのり)を聴き、胸打ち震え感動したのだろうか。居住市の図書館に柳の全集がないため、いつか上京することがあれば確認したいと思っている。

ところで、「美」の漢字での成り立ちは、羊の体を表わす象形文字で、神に生贄として捧げる立派な雌羊を表わしているとのこと。神への人の無心の祈り、その場全体を覆う神的世界、神々しさに思い到ると、日常と非日常、聖と俗の接点としての美を考えた古代中国人の心が感じ取られ、柳の民藝主張の根幹「用」「無想(無心)」と重なるようにも思える。

自問[自己確認]を続ける。

一つは、直接に手にするができないので、「土の香り」を味わう体感性が持ち得ず、あくまでも「作品」として観ている自身。これも、私の想像力の欠如が為せることと思いつつも、私にはとどのつまり焼きもの(陶芸)は賞味し得ない領域なのだろうとの思い。それは、妻の言う「値段があってない世界」や「テレビ番組への違和感」に私の中ではつながって行った。
この線上に、新婚とおぼしきカップルの光景は、××焼○○焼でなくてはとの、或いは「百均」であることでの抵抗感も含め、こだわり、固執がないならば、生活に逼迫していない一老人の勝手な視線ではあるが、やはり微笑ましく思う感情は拭い去れない。
柳自身、時代の推移[近代化]と機械化での量産について、或る揺れを感じさせる文章を遺しているが、そのカップルの光景をどう見ただろうか。

そんな焼きものへの心に乏しい一人だが、兵庫県の出石(いずし)焼に感銘した記憶はある。
因みに、『日本陶磁器産地一覧』によれば、全国で××焼○○焼と称されている産地数は、163焼あるとのこと。また、柳たちによって世に広められた焼きものの幾つかの産地は大勢の人・観光客でにぎわい、これも必然なのだろうか、非常に高価な焼きものとなり、現地に赴いても予約済み等々で入手できないこともあるとのこと。

一つは、バーナード・リーチの幾つかの陶芸作品を観て、彼の紙に描かれた絵と焼きものに焼き付けられた絵の印象の違い。バーナード・リーチの『日本絵日記』(1955年)で、前者に画家であることの高い専門性に感嘆していたので、陶芸の製作過程や技術に疎い私だからだろう、絵に魅かれる私を確認した。

更に加えると特別展示をしていた染織家柚木 沙弥郎氏の作品群を見ることで、「現代(作品)」という言葉が過ぎった。「モダン」ということ。伝統と革新ということ……。革新はさほど遠くない中で伝統となる……。保守と革新のように?

次回、[その2]では、その深浅、多少は措き、先ず言葉ありき(観念ありき?)的私だが、表題の現代日本を再考するに直截的に響く柳の言説を断片的に採り上げたい。
それは『日韓・アジア教育文化センター』にとっても有効であることを願いつつ。