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2021年11月27日

自殺

井嶋 悠

新型コロナ禍にあって、日本では自殺が、それも若い人の、増えているという。
日本の自殺は、ほんの数年前まで世界の、とりわけ先進国と言われる中にあって、上位一桁内にあった。様々な対策等が公・民で行われ減少し、ここ1,2年は世界10位外にまでなっていた中での増加である。コロナ禍がもたらす社会、個人への負の波及の大きさは、終息後すぐに解決するとは思えない。

そもそも「自殺」という言葉は、実におぞましく、忌々しい。どこにも救いがない。
私の知る、不登校[登校拒否]に陥った生徒を主体にした高校で、一人の生徒が自殺した。その時、その高校創設に尽力された或る教員が絞り出した言葉。「つくづく無力を実感した。」
その学校は、現在、この先の見えない社会にあって一層の必要性を痛感すると同時に、大きな壁を前に暗然としている旨聞いた。
私自身がかつて携わった学校も類似の課題の前にあり退職者が増えている。

「自分から積極的にそうすることを表わす」『新明解国語辞典』「自ら」、自身に刃を突き付ける行為。己への怨嗟(えんさ)。自殺。
或る人は生死一如として「自死」と言う。そこには静謐さが漂うが、私はそれを採らない。自殺の激情に怖れおののき、己の小人性の再認識を促す「殺」に得心性を持つ。理解ではない。
この発想には、自身の若い時代の苦悶、また近しい人の自殺からの、やはり体験が大きく影響していることは否めない。

因みに、英語では[suicide]で、この語根の[cide]は「殺し」を意味しているとのこと。最近見聞きする機会が多い「genocide」(民族大虐殺)ジェノサイドのcide《サイド》である。

こうしてみれば、殺の非人間性に導かれ、自殺と言うことへの躊躇は否定しがたいが、それでも私の中では、自死ではなく自殺である。

自殺は、しばしば倫理上の問題として採り上げられる。
欧米社会でのユダヤ教をも視野にしたキリスト教圏、アラブ圏のイスラム教にみる唯一絶対神の考え方からすれば、神から与えられた命を蔑(ないがし)ろにするとの意味合いにおいて当然非難の対象であり否定されるべき行為であろう。
慈悲と無の自覚の宗教、仏教にあっては、当然、死への洞察は多いが、自殺までに言及することはほとんどない。それが仏教慈愛の所以なのかもしれないが、その寄る辺なさが自殺への無抵抗感覚を増殖しているとも思える。信仰者が驚嘆する無宗教の脆さかもしれない。

そういった中にあって、19世紀のドイツの思想家、ショウペンハウエルは、冒頭「私の知っている限り、自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ教の宗教の信者達だけである。」にはじまる、その著『自殺について』の中で次のように述べる。

――キリスト教はその最内奥に、苦悩(十字架)が人生の本来の目的である、という真理を含んでいる。それ故にそれは自殺をこの目的に反抗するものとして排斥するのである。――

――深刻な精神的苦悩は肉体的苦悩に対して我々を無感覚にする、……我々は肉体的苦悩を軽蔑するのである。否、もしかして肉体的苦悩が優位をしめるようなことでもあるとしたら、それこそ我々にとっては一種心地良い気保養なのであり、精神的苦悩の一種の休止である。ほかならぬこういう事情が自殺を容易なものにしている。即ち並はずれて激烈な精神的苦悩に責めさいなまれている人の眼には、自殺と結びつけられている肉体的苦痛などは全くもののかずでもないのである。――

ショウペンハウエルは自説の肉付けに、古代ギリシャの思想家の言説を引用しているが、それらの中で2つ孫引きする。

「神は人間に対しては、かくも多くの苦難に充ちた人生における最上の賜物として、自殺の能力を賦与してくれた。」

「善人は不幸が度を超えたときに、悪人は幸福が度を超えたときに、人生に訣別すべきである。」

そして、今日も多くの!?人が逡巡し、中には決行の準備をしている……。

「自らの思想の立脚点を「ふつうの人」の立場におき、「自分」が生きていくことの意味を問い続ける」(著者紹介文より)、1947年生まれの文筆家勢(せ)古(こ)浩爾氏に『日本人の遺書』という著作がある。氏はその中で、様々な死を迎えた、あるいは追った80名ほどの人を採り上げ、その人たちの遺書に言及している。
遺書は死を前提にして書かれる、いわばその人の人生の集成が凝縮された文で、その背景を氏は以下の12に分類している。

〇煩悶  〇青春  〇辞世  〇戦争  〇敗北  〇反俗  
〇思想  〇疲労  〇憤怒  〇絶望  〇悔悟  〇愛情

ことさらにこの書を採り上げたのは、上記[疲労][絶望]に、このコロナ禍に生きる一人としてとりわけ心引き寄せられたからである。少なくとも私には、この二つの章で採り上げられた人々の言葉が、今に重なってあるように思えた。その中から3人引用する。

◇金子 みすゞ(童謡詩人)26歳で自殺
 死に際しての遺書が三通あり、その内母宛の遺書を引用する。

  「主人と私とは気性が合いませんでした。それで、主人を満足さ
  せるようなことはできませんでした。主人は、私と一緒になって
  も、ほかで浮気をしていました。浮気をしてもとがめたりはしま
  せん。そういうことをするのは、私にそれだけの価値がなかった
  からでしょう。(中略)今夜の月のように私の心も静かです。
  (後略)

その金子 みすゞを介して、勢古氏は次のように言う。
「人間評価の便宜として、強い人とか弱い人ということはある。けれど人間は、その意味をほんとうには知らない。なんのための強さであり、弱さであるかを、知らない。なぜ自殺をすることがよくないことなのかを、ほんとうにはいえない。」
私は「今夜の月のように私の心も静かです」に、みすゞの激情の沪過された清澄な心を思う。

◇太宰 治(作家)39歳で情死
妻への遺書は有名で、とりわけ「あなたを きらひになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです」の一節はしばしば引用される。
勢古氏はその一節について次のように書く。
「もしこれが本心ならば、それはほとんど、生きて行くのが嫌になったからです、という意味であろう。「小説を書く」ことはすなわち、生きること、だったはずだからである。」
太宰は、懶惰(らんだ)を自認していた。と同時に売れっ子作家でもあった。自殺を否定し、責める人はこの一事をもって、きっと太宰を非難し、嫌悪するであろう。いわんや妻がありながらの情死である。
しかし私は、太宰の心情に響くものを持ち、一方でマスコミの有名人への過干渉を批判的に思う。

◇秋元 秀太(大学生)19歳で自殺

彼の遺書は一篇の詩である。だからそのまま転用する。彼が死を意識したのは、当時いた合宿所での金銭問題での混乱からであって、彼の不祥事だったかどうかは誰も分からない。

   ――もうつかれた
     人にうたわれることにも/人をうたがうことにも
     もっと好きなことにのめりたかった/もっといろんなことが 
     やりたかった
     でも もうつかれた
     こんな弱い自分にいやけがさした/
     もっともっと強い人間になりたかった
     親を泣かせた自分がキライだ
     死ぬのはこわい
     罪はかんたんにつぐなえるものではない
     もっとおやじと楽しいさけをのみたかった
     みんなごめん
     みんな大好きだ/もっといっしょに居たかった
     強い心がほしかった――

私にも「青春」があり、「煩悶」があり、「憤怒」があり、いささかの「反俗」精神もあった。しかし、怠惰な私は決意することなく時を打っちゃり76歳を迎えた。その年齢から来る「疲労」を、時に「絶望」さえ交えながら思うことはある。
生きることを自身に問うにふさわしい新たな時機を迎えているのかもしれない。

2021年3月30日

禅師・一休 宗純さん

井嶋 悠

元首相の女性蔑視発言に様々な批判の矢が射られ、開催そのものが懸念される東京オリンピックに汚点を残すことになった。私は元々開催そのものに反対だったこともあり、中止すべきとの立場である。
「おしゃべり」は、本人は雄弁と信じてやまないからなおさらたちが悪く聞く人を苛立たせるのだが、男性にも多く、直ぐは女性蔑視まで考えもしなかった私だが、報道をきちんと読めば明らかに旧人類独特の男尊女卑にして女性蔑視は明らかである。

このような、いわんや高齢男性の多くは、なぜ女性蔑視になるのか恐らく理解できていなく、いずれどこかでまた繰り返すだろうと思っていたら、案の定、やらかしたようである。
なぜか。頭では知識として承知しているのだろうが、心に浸透及ばず血肉化していないからである。人と言葉の問題である。

「しゃーないね、あの人だもの」。彼の業績をあれこれ知らなくとも貌に出ていると直覚できる。ここで、最近の流行語?「昭和」の男を持ち出す人も無きにしも非ずか、と予想されるが、そこには大きな落とし穴があり、何の警鐘にもならない。百害あって一利なしとまでは言わないが。

昭和は1945年8月15日の前20年と後ろ60有余年で、社会は180度変容したはずなのだから。
そういう私は、その分岐点の8日後に社会の空気に触れた、言わば「戦争を知らない世代」戦後派、戦無派の第一期生である。更に付け加えれば、今は後期高齢者新人なのだが、私の世代や1955年から60年にかけての高度経済成長期に生を受けた人たちをひっくるめて、戦争の、被爆の風化を嘆く対象と扱われることには疑念を抱く世代でもある。閑話休題。

首相在任中「神の国日本」と発言した彼は、1937年[昭和12年]生まれの昭和前期の人間なのだ。明治維新から大正時代を経て達した昭和の帝国主義時代に幼少時を過ごした人間で、そのまま大人になったのである。女は男につき従うのが本道で、それが女らしさにつながり、夫唱婦随こそ社会は安定し調和するとの考えである。
そういう人たちは今も多くある。因みに或る介護施設に関わる男性から「最も対応が難しいのは、社会通念上高い意識が求められる職業に就き、長を経験して来た人たちで、ほとんどは男である」と聞いたことがある。私はさもありなんと思って聞いた。

人間が社会的動物であることを自覚し、生きることに真摯に向き合っていれば、性差も、年齢差も関係ない。男だから、女だから、若いから、老いだから、と社会は眼鏡を掛け過ぎだ。その人の人格を観ずに、数の帳尻合わせをしているように思える。
今もタテ社会は生き、パワハラ・セクハラ報道を日常的に見、世界の中での幸福度、男女協働度、教育度は今もって下位から脱出し得ていない。かてて加えて、コロナ禍から困窮する家族は増え、若者の自殺度が、ここ10年で、世界ワースト5から脱出し得たにもかかわらず、またしても増加しているという。
中でも女性の自殺が増加傾向にあることは相当懸念されなくてはならない。そしてあちらこちらで閉塞感との言葉に接する。それを逆利用して世界支配を目論む国が露わに見え始めたりする。
日本が、その潮流を善しとし、大国に直接間接に加担し、嗚呼勘違い国とならぬことを祈るばかりである。

と、元首相発言を自省の新たなきっかけにしていたところ、社会学領域の或る女性研究者の論説に新聞紙上で接した。(大変失礼ながらお名前を失念した・研究院大学学長?)
その趣旨は「10代から20代の青春期での世界、生き方が、その人の人生観、世界観の基礎を形作っている」というもので、私にとっては非常に衝撃的であった。
なぜなら、その時期は甚だ不安定で、激情的であった私がいたからである。1960年代後半から1970年代前半にかけてである。
当時、日本社会は日米安保条約拒否、ベトナム戦争反戦、公害問題と高度経済成長、また沖縄返還等々と日本未来論議が溢れ、世は巨大な変革期にあった。
日本は敗戦国だが独立国ではないのか、戦争を永久に放棄したにもかかわらず米ソ代理戦争になぜ加担するのか、水俣病の悲惨と企業倫理、沖縄の常に虐げられてきた哀しみの歴史、全共闘を論破した三島由紀夫の自決等々にあって、自身の考えを明確にすべきことは承知していたが、どれもこれも皮相浅薄で、感覚的領域にとどまり、腰据えて勉強することもなくあたふたしていた。

その時、アメリカでは、自由と愛と平和[反戦・ベトナム戦争忌避]また自然回帰を掲げるヒッピー文化が華を広げつつあった。
私は例えば『愛と平和と音楽の3日間 ウッドストック』に共感を持ったりしたが、それだけであった。そのヒッピー文化は当然日本にも入り込み、日本型ヒッピー文化[言うところのフーテン文化]として、映像、演劇、音楽等で東京・新宿辺りを中心に一つの存在感を持ち得はしたが、多くの若者がシンナーに毒されいつのまにか消えて行った。時折追憶される面影は、感傷の領域でしかない。

発祥地アメリカのヒッピー文化も、主に音楽や詩また映像で歴史を創ったが、例えば自由とセックスと出産或いは病から近代社会に戻らざるを得ず、且つ又マリファナ・ドラッグが身体を蝕み、運動から離れて行く若者も多くあった。政治的領域では、ベトナム戦争兵役拒否や中国文化大革命への共鳴もあったが、いつしか体制の大渦に巻き込まれ雲散霧消の感は免れ得なかった。しかし消えてはいなかった。その魂は今も渦巻いていた。アメリカは多様で広大であることを再確認する。

(注)フーテン:フーテンは何年か前までは辞書に登録されていなかったが、今では「瘋癲(ふうてん)」の項に入れてある。例えば『新明解国語辞典』第五版』。映画『男はつらいよ フーテンの寅次郎』のフーテンとは風来坊との表現から使われるようになったと聞いているが、どうか。

そんな時代をくぐって来た私の[人生観、世界観の基礎]とは一体何なのだろうか、と自問自答としての衝撃を与えられたのだ。
その一方で、やはり20代後半に、高校時代の恩師によって私立中高校教師に導かれたが、その後の35年ほどの教師人生を振り返るに、先の論説に得心行かざるを得ない私を見てしまうのである。

恩師の紹介で、明治時代に創設された某女子校に赴任した私は、18年間奉職し、その後、理想の学校像を求め?彷徨い紆余曲折を経、時に現実の強大な壁に遮られ涙し、更には家族に苦難を強い、そうかと思えばその都度誰かしらに恵まれ、三校の私学、インドシナ難民や留学生への日本語教育等、貴重な経験を重ね、10年ほど前に定年を1年残し、その時の校長を徹底的に許すことができず、教職に終止符を打ち、今の私がある。その間、父母と妹そして娘を天上に送った。

76年間に於いて心の上昇下降を幾度となく経験し、気障っぽく言えば、ハムレット的心境[To be or not to be.] にも襲われたこともある。すべては妻の受け入れと加護の賜物である。
私は幼少時の家庭環境も手伝って「マザコン」を自認しているが、どれほどに人格、能力に優れた女性に出会ったことだろう。だから私にとって男女協働は随分昔から自然常識である。
人格と能力に男女差などあろうはずがない。

最近、かつての体力は嘘事のようになり、病は気からを我がことのように思え、益々一休さんの歌が想い出されることが多くなっている。老いゆえの雑念の中にあって、なおのこと心に響く歌を幾首か挙げる。

世の中は 起きて箱して(糞して) 寝て食って 後は死ぬるを 待つばかりなり】

【門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし】

【釈迦といふ いたづらものが 世にいでて おほくの人を まよはするかな】

【南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ】

【生まれては 死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も 猫も杓子も】

【女をば  法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む】

後小松天皇の落としだねとの説もあり、頓智の一休さんでもあり、自由闊達な生き方に徹しながら京都大徳寺を再興した一休禅師。
西田 正好(1931年~1980年・仏教思想から日本文芸を探求した国文学者)の表現を、氏の著『一休 風狂の精神』(1977年刊)から借りれば
「女犯(にょぼん)・男色(なんしょく)・飲酒(おんじゅ)・肉食(にくじき)と並び立てれば、およそ一休がただならぬ破戒僧であった事実は、まことに歴然としている。(略)一休の途方もない反常識性が、なによりも「風狂」と呼ばれる一休の生きざまの最大の特徴であった。」

私たちは常に自由を求め、古今東西、究極の自由として、幼子と死を思う。一休は生にあってそれを追い求めた。それが彼の自然態であった。そして室町時代15世紀、1481年、88歳の天寿を全うした。死に際し、その時そばに仕えていた盲目の愛人(妻?)森女(しんにょ)に「死にとうない」と呟いたとか。

その一休は、真正の禅師には違いないが、親愛憧憬される「さん」が相応しい。

世は、地球はコロナ禍に覆われ、先が見えない混濁の中にある。だからなのだろうか、時代に逆行するかのように次から次へと管理が広がり、生き苦しさを直覚し、自由であることと倫理と正義が問われ、右往左往している人がどれほどに多いことか。
少しではあるが、孤独に向き合えるようになりつつある私は、社会は複雑である、社会を構成する人間はもっと複雑である。しかし[にんげん]は[じんかん]と大昔から読まれる。時間は平等に過ぎて行く。慌てることなど何もない。どこかで誰かが私を見ている。その誰かが何気なく私に一言を発する。私は心中狼狽(うろた)え、一瞬私の中ですべてが止まり、しばらくの空白が続く。それを何度か体験しここまで生きて来られた、と今では思っている。
今も舞台や映画で活躍する或る著名な俳優(日本人)が言っていた。「俳優とは待つ仕事だ」

1970年代の日米での事実をもう一度省みることは、事実と真実と歴史から現代を、そして明日を覗くことになるのではないか、と個人的体験から思いついたりするが、鬱(うつ)然(ぜん)とすることの方が多くなっている。
先の西田氏は、先の著作の中の[風狂の構造と本質]の章で次のように指摘している。

― 彼は古くてしかも一番新しい存在であった。まるで五百年間の歴史を先取りしたような一休である。いな、近代的といえるどころか、近代人にも及びがたい極限的な人間解放を率先垂範して見せたかれは、自由主義的な「近代」をさえはるかに踏み越えた、空前絶後の「自由人」であった。まるで「永遠の人間典型」のように、一休は真に解放された人間のあり方はこうだと、私たちに教えてくれる。

己が小人ぶりを思い知らされるが、苦しい時【世の中は 起きて箱して(糞して) 寝て食って 後は死ぬるを 待つばかりなり】を思い起こすと背伸びしたくなり、そして「死にとうない」との臨終の言葉が甚く気に入っている。

2021年2月13日

人権意識 ―中学校時代の私と教師時代の私の回顧― 最終章 

井嶋 悠

人権意識への定着

私が60年前の中学時代に受けた衝撃は、厳しい現実と暗記的概念的に陥りがちな歴史を私に突き付けた。それは成長とともに、多くの人と比べればかなり遅い速度だが、沈潜化し内実化して行った。歴史の重みを知ることになると言えるだろう。
は第四章で記した[修学旅行]の車中で行われた進路指導面接時に奨められた高校に進学した。

高校は、歴史の浅い公立(国立大学付属高校)のいわゆる進学校であった。私からすれば、大学(それも或るレベル以上の)に合格さえすればそれで善しとする無味乾燥の高校であった。
その2年次、国語の時間に担当の先生の休みで自由作文を書くことがあった。ほとんどの生徒は、思春期真っ只中の自身をかえりみ、生きて在る苦悶を書いていたらしいが、それに引き換え、私は将来SLの運転士になりたい、と小学生時代に何度か利用した信越線の車外風景を織り交ぜながら書いた。すべてに遅いというのか遅れてやって来る私だった。私の人生は、人の数倍の時間がかかるのである。しかし、当時私にとってはSL機関士になるとの言葉が、私の感性にその時最もふさわしかったのである。因みに、そのSL機関士作文は、担当の先生からクラスで読み上げられるとの名誉に浴した。

加齢とともに確実に住みついて来た生きることの「哀しみ」「愛(かな)しみ」は、高校や大学時代に思うことはなくはなかったが所詮それは瞬間的で、観念的で、知識的だったと思う。
自身で自身に涙するほどに実感できるにはまだまだ時間が必要だった。

私の母校の中学校は、今落ち着いていることは前章で記した。
その母校に、何度か会ったことのある教育研究者[大学教師]が、生徒対象の講演会講師として招かれたことがあった。教師になって、何かの研究会で会った際、その教師は、みんなお行儀よく素晴らしい生徒たちだった、と喜々としてほめたたえるのである。
私は、つい昔を思い起こし、場違いであることは言い出して直ぐに気づいたが、「さぞかし先生方が裏で苦労されたのであろう」的なことを言った。すると、その大学教師の表情に不快感があらわになった。その教師は生徒を絶賛することが、すべてであったのだろう。
これは、大学に限らず教師にしばしば見受けられる、子どもを絶対礼賛の存在と見る姿勢である。私はそう理解したが、その大学教師が同じN市出身であるにもかかわらず、歴史にあまりに無知であることに疑問を持ったのである。疑問以上に不信に近いものさえ抱いた。

私がその中学校の卒業生であること、私も知りその大学教師も知っている人物が、講演当時教頭であったことに触れると、その教師は一切無言となり、立ち去った。よほど気分を害したのであろう。
研究者にしばしば見受けられる観念性、概念性を思った。研究者と現場教師との決して少なくないあの乖離である。マスメディアでしばしば接する専門家と現場の乖離。

母校の環境がすっかり変わったことは事実である。すっかり変わるにはそこに多種多様な人為が尽されている。学校だけでは解決しない課題に社会が稼働し、導いたのである。
私は生徒礼賛を否定しているのではない。すべての児童、生徒、学生に、それぞれの可能性がある。当たり前のことである。ただ、それが学校でどれほどに為し得ているかは別のことである。
褒めることがその可能性に弾みをつけることも、教師経験から十分承知している。しかし机上的な礼賛には抵抗がある。偽善の眼差しすら覚える。

欧米の教育は褒める教育、と言われるが、私が帰国生徒入試で経験した、英語圏の現地校や、英語が第一言語であるインターナショナル・スクールからの受験生の内申書を見る限り、確かにはじめはほめているが、その後ほとんどの場合、「しかし、とか、けれども」といった逆説の言葉が出て来る。そして私たちは、書き手の主眼が逆説に続く後半にあることを知っている。日本も同じである。日本は何も貶す教育をしているわけではない。ただ、褒め方、褒めた後の導きに違いがあるように思える。これも人権先進国の為せることかもしれない。
こんな笑い話のような話を、アメリカの現地校の教師から聞いたことがある。「記号選択の問題で困ったら鉛筆を転がせ」と。

人権の回復、確立は、心ある人たちの献身と尽力の賜物である。かつて被差別地域であった場所には高層マンションが幾棟も建ち、商業施設が盛んに進出している。それらを見ることで差別はなくなった、と果たして言えるのだろうか。外観上のことで得心してやしまいか。そう自身に言い聞かせていないか。その地域の歴史と現在を知る或いは同市内で生まれ育ち、今も住む人々の多くは、完全に差別は解消したとは思っていない。
事実、これはN市以外だが、同じ差別の歴史を持つ地に住んだことの被差別地域の出自ではない知人から、生活する難しさを何度聞いたことだろう。それほどに深い。差別の根絶との言葉の重さに思い到る。

差別は決定的に悪である。断罪すべき人間の所業である。しかし、人の性、哀しい性と言ってしまえば、そこにあるのは人間の利己的ご都合であって、差別はいつまでも止まない。
知識としてではなく、また感情に溺れるのでもなく、心に直接入り込む活きた言葉が、差別を限りなくゼロに近づけて行くのだろう。それでもどれほどまでに解消されるのか心もとない。今もって自身の言葉になり得ていない寂しさを自身に見る。と同時に、その時々のマスコミの役割、責任に思い及ぶ。
例えば、こんなことである。
関西の或る市[A市・T市]は、高級で上品なイメージがマスコミによって全国に喧伝され、その地名が出るだけで、多くの人が讃嘆と羨望の言葉を発する。しかし、その場所は両市ともほんの一部の地域であり、被差別地域問題でN市同様の苦難の歩みがあったことを知る人は限られている。更にその問題は、底流で今も続いているのである。

マスコミは差別する側とされる側の分断に、決して意図的ではないと信じたいが、与(くみ)していることを自覚しているのだろうか。中でも影響力の強いテレビでの偏った発言に、然も知ったかのように追従することは、そこに生きる人たちに、愚劣にして非礼としか言いようがない。与える側の権威主義からの無責任、与えられる側の自己判断の放棄と追従。

インターネットの発展は途方もない。ネット社会の無名、匿名は、自身を絶対正義者と勘違いさせ、いずれ襲って来る表現への管理、統制も少し眼を広げればいくらでも例があるにもかかわらず、眼中にない。良心の一片もない冷酷な中傷、攻撃を繰り返し、する側は得々と自己満足に浸り続け、された側は塗炭の苦しみに陥っている。そういった人たちがいや増しに増えている。コロナ・ウイルス禍での大きな問題の一つである。自殺に追い込まれる人もある。それも女性の自殺が急増している。

人間の弱さを指摘し、乗り越える意思を言い、自己責任を持ち出し、諭す人が現われる。そんなカンタンなものなのだろうか。
そういう人たちにとって、私が身をもって知らされ、考えさせられた、人の人による人への差別の、中傷の歴史など、だからどうした、貴重な経験をしたねえ、で会話はそこで止まる。

人は、社会は、厳しい場面に向き合うと、本性が顕われると言う。コロナ・ウイルス禍は世界にそのことを示している。「新しい生活様式」を表明する国、地域が増えている。一大転換期である。否、そうしなければ、歴史は単なる知識で終わってしまうことを、私たちは体感的に知り始めている。
自粛は内省の時である。内省は人に忍耐と苦しみを要求する。人々の疲弊の色が際立ちつつある。限界に追い込まれ涙ぐむ人がいる。社会も多くの企業も同じ様相を呈しつつある。

こう言う私は、幸いにも「陽性」ではないが、その一人である。世界各国、地域では自省と対応が展開されている。にもかかわらず私たちはますますの不安に襲われている。なぜだろう。国の経済最優先[人があって経済と言う視点がそこにないとの意味で]指向に違和感があるからではないだろうか。指導者たちの言葉に、命の、生の息吹を直覚させないことが多い。
政治家たちは両輪を言う。ウイルスの回避、壊滅と経済再生の両輪。果たしてどれほどに日本は先行して為し得ているだろうか。人間が先か経済が先か。二兎追う者は一兎も得ずの危険。政府は経済を優先する。私は人間あって経済との考えに立ちたい。これ以上格差を広げるのではなく、「衣食足って栄辱・礼節を知る」との範囲内において。経済は時間がかかるが必ず復調する。日本人の勤勉さにおいても。

私たち一人一人は、一人の人である。そして日本は母性の国だと言う人も多い。それを肯定的にとらえることも大切ではないか、とも思う。母性はすべてを受け容れ、すべてに同一の愛を注ぐ。もちろん過ぎたるは、を知ってのこととして、である。
母性は女性だけの占有ではない。男性のそれでもない。男女性を離れて在るものとして言っている。父性も同じである。

確実に日本の明治時代以降の「大国主義(或いは大国指向)」のほころびが露わになりつつある。今こそ「小国主義」を俎上に載せ、再検討するべき時ではないかと思う。再と言ったのは、太平洋戦争での敗北で私たちは何を学んだのか、との思いからである。
ここで「小国主義」を確認しておきたい。
詳しくは岩波新書で刊行されている『小国主義』(田中 彰著)に委ねるが、小国主義とは大国主義の対照語である。現在のアメリカや中国、ロシアのような、経済、軍事等において世界を先導しようとするのではなく、一国の充足をもって善しとする考え方である。世界はその後について来る発想である。
それを目指した首相もかつていた。1957年、病のため短い期間だったが、戦前からそれを主張していた石橋 湛山(たんざん)である。

教育も然りである。国際化、グローバル化との用語を使って、あれもこれも遂行しようとする。しかし、それが現場を抑圧し、混乱させ、結果雲散霧消していることも多い。また、教育に携わる人々に、独善しかも感傷的独善が跋扈(ばっこ)していると言って、それを言下に否定できる人はどれほどあるだろうか。
教育は、他の領域と違ってすべての人が一切の例外なく関わる、日々の積み重ねの地道な世界である。華々しいアドバルーンなど不要な世界である。だからなおさら難しい。
一人と万人の相関関係の根底は人権であり、その確かな実現は、小国主義の方がより可能性が高い。中国古代の思想家老子が言う小国寡民の発想である。そして日本は少子化の只中にある。

60年前、私は中学校で、人が生きること、人権に係る大きな萌芽を得た。それも概念的知としてではなく身をもって得た。それは、高校、大学を経て社会人となることでいささかの成熟を持ち、やっと言葉が血肉化し私の中で定着しつつある。
だからコロナ禍での非人間的言動、ヒトよりカネ・モノ発想また為政者の無恥に触れるたびに憤り、日本人であることに思い及ぶ。災い転じて福と為す天が与えた機会を無駄にしたくないとの思いが強くなる。

2020年12月23日

人権意識 ―中学校時代の私と教師時代の私の回顧―

井嶋 悠

第四章 修学旅行

修学旅行は3年次に東京方面に行った。東海道新幹線の開業は1964年なので当時はなく、「きぼう号」という修学旅行用の夜行列車で行った。2人掛けの座席がそれぞれ向かい合いあってあり、中央の通路を挟んで配置され、1か所4人用、今でも一部同型の客車を見かける。日をまたぐころまで大変な賑わいである。先生が注意され続けていたとの記憶はない。“彼ら”も含め和気あいあいの深夜時間であった。
それぞれの理由で、一生で一番の思い出としている生徒もあったはずである。そんな時代であった。
学習塾は、いわんや進学熟は限られ、通塾するのはごく少数派であった。私は小学校時代も含め行ったことがなかった。良い時代であった。学校教育があった時代のようにさえ思う。

引率の先生方の疲労は相当なものだっただろうと、後に教師になった経験から想像できる。それほどに活気溢れる中で、私のクラス担任(3年次で2年次とは違う先生となっていた)の好々爺の先生が、行きの車内で進路に係る個別指導会を始めたのである。
4人座席の一隅に座り、順次生徒を呼び進路を確認し、時に助言を与えるのである。一人10分くらいだっただろうか。開かれた指導。教師と生徒の信頼関係。就職する生徒もごく自然にあった。学年で1割くらい(30人前後)が就職であったろうか。
私の場合、五分ほどで終わった。

「希望はあるのか。」
「いえ、特にありません。」(当然のように公立高校に行くつもりだったからである。
「そうか、×××を受けてみんか」と或る国立大学付属高校を挙げて勧められるのである。
「・・・・・・」(初めて知る学校名であったこともあり、どうとも答えられなかったのである)
「まあ、考えとけや。」

私立学校(とりわけ中高校一貫校)は多くは都市圏にあって、私立優先の保護者(どちらかと言うと母親にその傾向が強くあると経験上思うが)が多い。多さの理由の一つに、私立には学校区制がないこともあるが、主な理由に卒業後の進路が関わって来ることが多い。大半は、特に大都市圏では大学進学が前提となっている。大都市圏での私立校志向はより熾烈で、生徒の学校生活は大半が塾併用で、あたかも二校在籍の感である。
ただ、ここには「大学の大衆化」の負の側面、例えば大学格差の広がりと両極化、これまで以上の差別化、といった問題が顕在化しつつある。

私が知るこんな例がある。
或る小中高一貫校で、小学校の卒業生の多くは他の有名(この表現自体に違和感がある)中高一貫校に進学する。その入学試験は概ね2月から3月[小学校の三学期]にかけて行われる。受験は中学卒業後、高校卒業後の進路にも通じていて、頼りは学習塾[進学塾]であるのが多くの現実である。進路相談を塾でする家庭も多い。早い子どもは小学校低学年から通塾する。小学6年次の三学期は総仕上げ期で、学校を欠席する児童は多い。そのため学校活動が機能せず、私が知るその小学校は三学期を自由登校とした。一時、新聞等でも取り上げられた。そこまでに到っているのである。これは、この学校だけの問題ではない。必要悪である。

やはり私がよく知るこんな例もある。
伝統ある私立中高校及び四年制大学の十年一貫校で、近年、学内大学進学者は学業成績不良者との摩訶不思議なレッテルを校内外で貼られ、多くは他大学(それもかなり難易度が高い大学)に進学する。ここにも小学校時代の通塾が影を落としている。そして高校時代の予備校通学が当たり前となり(早い生徒は中学3年次から)、在籍の高校時間は友人との社交時間と化し、幾つかの授業は予備校予習時間と心得、その日の最後のホームルーム[連絡]時間は当然のように姿はなく、かてて加えてそれを当然の如く広言する生徒まで出て来る。
学校の伝統と理念を大切に考えている、とりわけ卒業生の教師の困惑が続き、同窓会を中心に改革の動きがある旨伝え聞いた。尚、この学校は、最近他大学進学状況を公開しないそうだが、塾[予備校]では十分に把握している。この情報社会のいたちごっこ?

これらを異常と見るのは時代錯誤で、正常の一様相として認知されているのだろうか。もしそうならば、一層のこと社会も文科省も公認したらと思うが、コロナ禍にあって文科省大臣からそんな発言は聞いたことがない。タテマエとホンネ社会日本・・・。
この教育現状への疑問と挑戦から創設された、やはり私立校の例を。

中学校入試で、独自の入試方法(学力優先ではない方法)を実施したところ、直ぐに塾から困惑と疑問の声が起きたとか。何を基準に合否を決めているのか分からない、と嘆くのである。
その学校入学希望の保護者は、学校の目指す理念に共感し自身の子どもに入学を薦めたのだが、入学後、やはり塾が必要との現実の壁に向き合わざるを得なくなった由。入試当日には塾関係者が校門まで在塾生の応援に来ていたとか。その学校の教師たちは、独自の入試方法を矜持していたが、或る時期から目指している教育が立ち行かなくなった。あまりの基礎学力の無さに、思い描く教育段階に到らないというのである。しかし、例えば入試方法の再検討は進んでいないようだ。自負心がそうさせているのだろうか。

超難関と言われる大学で、この二重在籍学生たちが卒業し、社会で活動することに不安と懸念を抱いた教授会のことが、もう10年以上昔に報道されたが、何らかの変革の方向に行ったのだろうか。
私が出会ったその超難関大学出身者で、私が想うその大学らしい出身者はほんの一握りでしかない。
ますます現状は過酷となり、入学での燃え尽き症候群や高額年収家庭ほど合格率が高いと言われている。文部科学省の上級官僚[キャリア組]の多くは塾出身者と言って間違ってはいないかと思うが、その人たちの人生と塾について、そして現在の仕事について聞いてみたいものだ。

私が教師になり10年ほど経った頃から携わった帰国子女教育領域は、帰国子女教育は学力観を改めさせ、学校教育の変革を促す起爆剤となる可能性を秘めている、と期待されていた。今はどうなのだろう。それにしても、海外に日本からの、また現地創設の塾が何と多いことか。
今もってまかり通る帰国子女=英語ペラペラの、非人間性さえ感ずる浅薄さは健在である。更には、保護者にくすぶる屈折と差別意識。アメリカからの高校帰国生徒(女子・現地校通学)自身が、困惑し疑問を持たざるを得なかったこととして語ってくれた、日本人母親同士の次の会話。
「アメリカまで来て、アジア人なんかと付き合いたくはないわねえ」

帰国子女と海外子女は表裏の関係である。その表裏の関係の中で、現地での保護者世界に、子ども世界に、また日本人学校に派遣された教員世界に、差別、理不尽な偏見が厳としてあることは心に留め置いて欲しいと切に思う。海外社会は日本社会を映し出す鏡である。
「隠れ帰国子女」とは帰国子女自身が、日本の世相に巻き込まれ、苦々しく言い出した言葉である。

経済的に富める家庭の子女子弟が、進路進学においてますます有利になる懸念は、コロナ・ウイルス禍終息後、より深刻な問題になるように思えてならない。休校中の3か月は学力観を考える千載一遇の機会になっているとの期待があるにもかかわらず。
[グローバル・スタンダード](もちろん欧米スタンダードの意味ではない)構想の一環として、「九月入学」が話題になってはいるが、どこか一学期の遅れを取り戻すための安易な思い付きに思え、教育研究者の学会が指摘するように唐突感は免れない。或る知事が、私は以前から九月入学派、と言っていたのには唖然とした。今言うべきことではない。自慢?したいのだろう。
私は帰国子女教育の経験から、九月入学はこの国際化、グローバル化の時代、好むと好まざるにかかわらず、現行の一学期[4月から8月]の空白への深謀遠慮と学力観ともつながる具体化内容の検討を経て、切り替え時期に来ているとは思っている。
桜の下での入学式がなくなるのが寂しいなあと、半ば本気で、半ば苦笑して言っていたかつての同僚の貌が浮かぶ。

尚、この数年『国際バカロレア』なる初等中等教育に係るヨーロッパに起源を置く教育制度が一部で話題になっているが、その制度での【日本語】を経験したことのある私としては、二つの点からも議論[話題]して欲しいと願っている。

一つは、日本語教育と国語(科目)教育の相互性の問題
一つは、何年か前実施され現在壊滅?した「横断的総合的学習」との共有性

2020年12月15日

人権意識 ―中学校時代の私と教師時代の私の回顧―

井嶋 悠

第二章 入学式

私は父親の勤務異動もあって、東京の叔父叔母宅に一時期預けられ、そこの小学校を卒業し、関西に戻った。私たち一族の菩提寺は京都市にある。数年ぶりの親子生活が始まった。中学校はN市の公立中学校である。N市は永い歴史を持ち、産業も盛んで、開発も進み、住宅地として当時からも発展途上にあり、現在も日に日に変貌している。

入学式を終え、私は一人ぽつねんとして指定された学級にあったが、ほとんどの生徒は小学校での旧交を温めるに忙しく楽しげであった。公立中学校ゆえの通学校区があり、多くの生徒にとっては小学校の延長上であった。
私が座った席は最前列で、隣にはやはり一人どこか寂しげで、孤独を漂わせた男子が座っていた。思いきって声を掛けた。何を言ったかは覚えていない。子犬同士がじゃれ合うようなそんな少しの時間だった。5分ぐらいであろうか。クラス担任の先生が来られ、一時間ほどの連絡等が終わり解散。私の母親はすでに帰宅していた。
私は帰宅すべくグランドを横切り、通用門の方に向かっていた。一人である。その時である。

4,5人の生徒に取り囲まれ、怒声と殴る蹴るの集中砲火を浴びることとなった。問答無用である。数分ほど続いただろうか、解放され、新しい学生服はグランドの土にまみれ、私は痛いといった感覚より、何があったのか皆目分からずただただ呆然と立ち上がり、一目散に家に向かった。
近くには通り過ぎる生徒もいたが、止める者はいなかった。後で分かるのだが、君子危うきに近寄らず?だったのかもしれない。彼らは意気揚々と引き上げて行った。彼らの満足げな笑い声がそれと分かった。

母はただただ驚き「どうしたの?」と聞くが、当事者の私が分からないのだから、それ以上会話は続かなかった。夕方、父が帰って来て、事情を知り、何かを直覚したようではあったが黙っていた。
父の帰宅と前後して、クラス担任ともう一人の先生二人が来宅された。
おそらくグランドにいた誰か(おそらく保護者であろう)が教師[学校]に伝えたことで訪問することになったのだろう。見舞い方々の様子伺いと事情説明の訪問である。
父は、この時、現実が抱える地域事情をはっきりと理解した。直覚通りであった。校区内にある被差別部落の問題である。
父は関西人としても、この地域事情は或る程度承知はしていたようだが、このような形で、それも入学式の日に知ることになるとは予想外のようであった。
父親は関西に戻るにあたって、幾つかの私立学校の情報を集めていて、(その情報の中に、地域の問題があったかどうかは定かではないが、おそらく父の頭の隅にはあったと考えられる。)入学相談にも出かけたとのことである。その一校(有名な進学校)で父は対応した教員への強い不快感、不信感から一喝して帰ったと言う武勇伝?を後になって母親から聞き、公立中学校が妥当ということになったらしい。

私を襲った彼らの言い分は、先に記した教室での隣席の生徒の尊厳を、彼らの積年の鬱積、怒りに思い及ぶことなく不用意に、しかも暴力的に踏みにじったことへの仲間として制裁である、というのである。隣席の生徒は、彼らの仲間だったのである。クラスが一か所にならないよう分けられていた。
子犬同士のじゃれ合いで、こともあろうに頭をこづいたことが思い出され、それが決定的に尊厳を傷つける暴力行為であったというわけである。当時私もこづかれたのだが、私の側については制裁の趣旨から当然の報いということである。

私にとってすべて初めてのこといささかの恐怖はあったが、両親と教師たちの話し合いで翌日から、不登校にもならず、心新たなに登校することになった。
そこには大人の配慮があったわけであるが、私自身の楽天性?がそうさせたのかもしれない。
学校内外で、彼らと眼が合った時の彼らの眼差しにたじろぐものがあったが、彼らにしてみれば私がごとき者に、いつまでもかかずらっている暇などないということか、視線は次第に彼方に去って行った。しかし全く消え去ったわけではなく、後々間欠泉のごとく襲い掛かって来ることになる。その総仕上げとも言うべきが、卒業式であった。そのことは後の章で記す。

入学式に始まり、卒業式で終わる3年間の日々は、今にして思えば、私に社会的目覚めを持ち始めさせ、濃密な学校時間となった。私の思春期前期の始まりである。


第三章 様々な彼ら彼女ら

東京にあったとき、被差別部落問題[同和問題]を学校で、また大人から知る機会はなかった。それは、私の居住地も関係していたのかもしれないが、何も知らず、知らせず、だった。
東京の近隣地域では、被差別部落に係る問題があったことを、大人になって知った。にもかかわらず何もないようにしていたのは、東京が全国から人が集まってくる雑居性がそうさせたのかもしれないし、首都東京との自負心また虚栄心が隠蔽していたのかもしれない。私にはよくわからない。

N市に移ることでなぜそのような地域が存在するのか、その歴史と現在について徐々に知ることとなる。それも授業や講演会といった形でなく、入学式の一事をはじめ日々の学校生活から知って行った。
私に手ひどい痛みを与えた彼らは4,5人で一つのグループを形成していた。クラスは一クラス一人といった形で分けられていたが(小学校からの情報、引継ぎであろう、と思うのだが、学校としては居住地の住所から自明のこととして承知していたとも考えられる)、日々出席していることは少なかった。彼らの溜まり場は校舎裏の外階段下か、体育館(兼講堂)裏であった。その使用例としてこんなことがあった。それもかなりの頻度で。
裕福な家庭の男の子に眼をつけ、(女の子にはしなかった。彼らのせめてもの礼儀だったのだろう)何かしら口実をつけ金銭を持って来させ、それを受け取る場所として使っていたのである。教師は眼中にない。なぜなら教師は見て見ぬふりであることが多く、彼らはそのことを承知していたからである。
それは他の生徒たちにも十分伝わっていたが、なぜ腫れ物に触れるようになっているのか、そこに到る様々な経緯が小学校時代にあったのだろう。教師に伝える生徒はほとんどいなかった。

私はこの災難からは免れていたが、或る親しくしていた生徒は、時に毎週のように言われるがまま校舎裏に連れて行かれていた。そして1回200円前後渡すのである。当時私の月の小遣いが500円だったから、彼の貢額は高額となり、彼の家庭で気づかないことはあり得ず、学校に何らかの相談、訴えがあって然るべきであったろう。
その連行度数が、或る時期から減ったように思えたが続いていた。その彼が諦めの表情で苦笑しながら私に話したことがあった。それを聞き、私は何もしなかったのも一方の事実である。
私たちへの彼らの「ちょっと貸してくれやっ」の「くれ」は「よこせ」を意味していた。例えば、ボールペンとかシャープペンシル(当時は貴重品であった)を学校に持って来る軽率さはなかった。私は一度軽率にもボールペンを持っていき、彼らに貸してくれを言われ、当然戻ってくることはなかった。これは学外でも同じであった。こんな経験をした。
同じクラスの男子の家の前でキャッチボールをしていた時のことである。キャッチボールの相手の子が、100メートルくらい先に彼らを認めるやいなや私に言った「隠せ!」そして彼の家の中に逃げ込んだ。

彼らの行為は、事情がどうであれ決して許されることではない。しかし、それがまかり通っていた。おそらく学校が、教師が、教育委員会が、問題のあまりの大きさのために機能不全に陥っていたのだろうと、後年、公私立の違いはあるが、学校組織に加わった一人として推察した。
教師になって何年かした或る時、母校のその中学校の管理職教師とたまたま会話することがあったが、「当時は荒れていましたからねえ」とまるで他人事のように言っていた。
あの時おられ、苦悶の中にあった教師がこれを聞き、どう思うだろう。私の余計なお節介だろうか。

彼らの行動は、時に体育館裏での血の騒動となり、他校生徒の“出入り”事件ともなった。
血の騒動とは、彼らのグループに属さない同期生の一人(一説には、彼らと違う地域で同様の歴史を背負った者とも、私たちの間では、ささやかれていたが)と、かのグループリーダーとの、いずれが頭領かを決める昼休みの決闘のことである。私や在校生は電線の雀の群れよろしく外通路の柵に並び、体育館裏で繰り広げられている顛末を想像し、いずれ出て来るであろう二人を待っていた。20分ほどであったか、血だらけになった同期生の肩を抱え、余裕の表情のリーダーが現われた。入学式で私を襲ったグループのリーダーである。

もう一つの、出入りとは、授業中に、自分たちが座る椅子と喧嘩道具持参で、無言で押し入ってくる他校の面々のことで、目的はその教室に居る敵対者を授業終了後、仲間への連絡をさせずに即確保するためである。
授業中の担当教師の、あきらめ、彼らの存在を見ないように授業を続ける表情は、今も私の中でありありと残っている。授業終了後、予定通り、或る一人を、その人物は入学式で私を襲った一人である、が連れられて行った。行き先は体育館裏である。
彼らがされたと同じように、彼らが他校へ出向いていたことは自ずと想像はつくが、事実は知らない。ただ、同じ問題を抱えていた幾つかの中学校名を耳にしていたので、想像はほぼ当たっていると思う。
各学校の教師間でどう対応するかの話し合いは、幾つもあったはずであるが、問題は解決することなく続いていた。

長く信念をもって取り組んで来た人々によって時間は、新しい歴史を創り出す。私の母校も同じである。今では地域の一層の開発も進み、落ち着き、平穏に学校生活送るにふさわしくなっているとのことである。
それでもこの問題が人々の心から完全に消え去ったとは思えない。これも歴史と言う厳粛な事実であろうか。

教師になって10数年後であったが、同じ市内でのこんな場面を聞いたことがある。
在日韓国人二世の中学校社会科教師が、授業で差別について熱弁をふるっていた時、或る生徒が、突然自身の机を叩き「うるさいっ!」と叫んだという。この抗議した生徒は、旧被差別部落が居住地であった。この生徒は、この教師が、自身が経験してきた差別の歴史を熱く語っていたのだろうが、言葉が上滑りしたのか、10代のその生徒は「活きた言葉」として直覚し得なかったのではないかと私は思っている。
この感覚は、教師になって数年後結婚し、二人の子どもを授かり、内一人が、中学時代の或る教師の他の生徒を巻き込んでのネグレクトや、高校時代の授業のいい加減さ、生徒への迎合から、中学校及び高校(いずれも公立校)教師への不信、葛藤が始まり、心身疲弊し、23歳で早逝したことにも通じている。一人の親としてまた、同じ教師として、これらの事実は私に自問自省を強(し)い、大きな影を落としている。

彼らはほんの一部であり、その被差別部落全体を表わしているわけではない。ただ、眼前でのそれらは私にとってあまりに衝撃的であった。
その衝撃の強さを、彼らと同じ地域から通学するそうでない他の生徒に、自主的に思い及ぼす余裕は、私にはなかった。しかし、無謀で挑戦的ともいえる彼らの行為に苦しむ、同じ地域の彼ら彼女らを同じクラスの身近な生徒から知ることになるのである。

10代前半に沸き上がる異性への憧れは美しい。ほのかな抒情を呼び起こす。私もそうだった。女子生徒と会話することはひどく恥ずかしいのだが、思い切ってすることで得意満面にさえなった。会話の内容はたかだかしれたことで、例えば、試験と言うトピックの後など、会話の場が作りやすかった。複数で話し掛けるのである。もちろん一人で敢行する勇気ある、男子生徒羨望の対象となる者もいたが、私には不可能な領域であった。

「試験どうだった?」
何という無邪気さ。これは彼女たちも同じで、やはり複数で応えるのである。「きゃっ、きゃっ、きゃっ・・・」としか表せないような、言葉であって言葉でない言葉が紡がれて還って来るのである。しかし至福のひとときであった。

男子生徒に限らず女子生徒からも、存在を認められる女子生徒がいた。
温和な美しさをたたえ、学業も優秀で物静かに光を放っていた。動じた彼女を見たことなどなかった。ましてや付和雷同など、彼女には無縁の言葉であった。少なくとも私は遠くから眺めるだけであった。彼女には孤高の輝きがあった。年上の生徒に思えた。卒業まで眺めるだけであった。彼女はいつも独りだったような印象が残っている。
彼女は、彼らの行為をどう思っていたのだろうか。嫌悪をもって無視し、じっと耐えていたのだろうか。それとも深い母性の心で見つめ、自身の内に閉じ込めていたのだろうか。彼女が表立って何かすることはなかった。
彼女が、彼らと同じ被差別部落の生徒であることを知ったのは、卒業して間もなくである。
家は貧しく到底進学は叶わず、就職が進路であったが、その地域の出身であることが彼女に就職先を選ぶ機会を与えなかった。なぜなら当時、全国のその地域名鑑なるものが、企業等に常備されていたのだから。そのため親、親戚の関係で就職することがほとんどであると伝え聞いていた。
時とともに彼女は遠い昔の一人となった。私がそのことに持ったことは、感傷的同情だけであった。
「彼女、どうしているんだろう?」
その名鑑、現在も秘かに、或いは公然と、存在するのだろうか。在るようにも聞いているが。

2年次のクラス担任の先生から思わぬ機会を与えられた。その地域から通学する一人の男子生徒に関して世話を頼まれたのである。
その先生が私を呼んでいるとの校内放送がかかった。私としては呼び出されるようなこともしていないつもりであったし、最近例の彼らとのもめごとはないがなあ等々、あれこれ思い巡らせながら、恐る恐る職員室に向かった。
当時は、今のように教師と生徒が友達同士のようなことはあり得ない。現在を善しとするかどうかは措いて。

「○○の世話を頼みたいんだが」○○とは、やはり同じ地域の一人(男子)である。
「はあ・・・・」
「勉強をやり直したいと言っているので、一学期間、教室での授業時、常に彼の横に座り、ノートの取り方など教えてやって欲しい」
「はあ・・・・」

承諾したはいいが、困ったことになったと思った。なぜなら他人に教える、いわんや導くなどという器量もなく、私が適任かどうか、なぜ私を選んだのか、自分のことでさえおぼつかないのに何で、と次々に疑問が沸き起こった。ただクラス生徒から、何でお前が、といった批判めいたことがなかったのは救いではあった。彼を取り巻く事情と彼の人柄を無言の中で了解していたのだろう。

授業での二人の時間が始まった。
予想したとおり私にとってそれは苦行だった。ちょっとした私の一言に、彼はあまりに従順に反応するので、なおさらであった。
今だから言える、他人に教えることほど自身の学びを強くする、などといったことは、私には単に美辞麗句に過ぎず、引き受けた後悔と自省の1学期間が過ぎた。彼はひたむきだった。私が教えられる時間であった。
彼は或る程度自身のリズムをつかんだようだった。相互学習は1学期間で終わった。安堵と同時に、少しの喜びもあった。
「彼、どうしているんだろう?」

二人の意志の強さに、ひたすらに大きさを思う、と同時に歴史の残酷さに思い到る。環境が人をつくるというならば、逆境ゆえの自身への厳しさだったのだろうか。
二人の人間性の高さに心打たれる。二人がその出自から持ち続け、更に深めた優しさは本物である。もし二人が教師になることができたら、仲間からも生徒からも愛され、慕われる素晴らしい教師になったことは間違いない。

私が二人と同じ立場に生まれ、思春期前期の日々を過ごしていたら、果たして二人のようにふるまえただろうか。何とも心もとない。

2020年9月28日

ハレ[晴]とケ[褻]の間で ~現代日本の危うさ感

                           井嶋 悠

先月、75歳以上後期高齢者[1848万人・総人口[1億2593万人]の14,7%]の一員となった。

この拙文は、「新型コロナ禍」で今まで以上に外出することもなく、する際はマスク厳守(何度、忘れて取りに戻ったことか。アベノマスクは嘲笑の対象であったが、日本人のマスク習慣は、どれほどに日本礼賛につながったことか)の異常ともいえる世は、これまで機に応じて私に関心が起こさせた[晴と褻]ではどちらなのだろうと漫然と思い巡らせたことを私的に整理したものである。


65歳以上は高齢者と言われ、それを世界で見ると、日本は、高齢者の総人口での比率(28,4%)で第1位であり、平均寿命は女性が87歳で世界第2位、男性は81歳で世界第3位である。
3人に一人が高齢者で、仮に15歳から64歳までを労働可能年齢としてそれを総人口比で表すと、女性57,2%、男性61,5%となり、「男女協働社会」が、全き平等性とそれを支える育児、教育、福祉が確かな余裕性をもって機能しているならば、3人の内二人が働き手となる。そして38万㎢弱の国土の5~6割が山岳、森林すなわち居住可能地域が4~5割で、人口密度は全国平均337人/1㎢である。因みに人口密度に関して言えば、北海道が64人、東京が6,263人である。
“東京問題“は日本問題である。

四囲は海で、気候帯は北海道・東北の亜寒帯から沖縄・西南諸島の亜熱帯に到る南北に長い温帯を中心とした列島国である。温暖化による日本及び世界の自然環境の変容、破壊の問題は今措くとして、当然日本の自然環境は他に類がないほどに秀でている。
それがために人と自然に係る重い問題が頻出する。そして沖縄のように日米間に及んでいる。
一方で、というか必然的に一部亜熱帯地域を除けば四季が判然とあり、豊かな植物に恵まれている。中でも春・秋は古代にあっては主に貴族たちによって“春秋論争”が繰り広げられているほどである。


各季節の移行期には二重三重奏微妙な自然美を奏で、その自然の動きが、人の心の変容を司っている。その豊潤な自然が、繊細で濃やかな日本人の感性を長い時間を得て育んで来た。
ただ、近代化、都市化、地球温暖化は、その美を破壊することは多く、大きな社会問題であることは周知のことである。
地球温暖化の抑止、改善に日本がより積極的に発信すべきであると期待する世界の眼差しは多い。

その自然と人の調和を土壌として、2000年余りの時間[歴史]の中で創り出された多領域にわたる文化は、それぞれの時代を映しながら今に引き継がれ、新たな創意工夫も生まれ、国全体が「世界遺産」といっても過言ではないように私などには思える。
補足すれば、食文化ではフランスが刊行している年間書『ミシュラン』掲載の有無で一喜一憂するなんて滑稽である。

しかし、欧米基準の近代化は明治時代以降、富国強兵・殖産興業政策の下、急速に進み、太平洋戦争(第2次世界大戦)での敗北、復興過程にあっての戦争特需も手伝って、その影響は、古代の朝鮮、中国のそれをしのぐ勢いで、アメリカなしの日などないほどである。追従と揶揄されている。
「アメリカ人がくしゃみをすると日本人は肺炎になる」。

アメリカは、国土、経済、軍事において大国・大国主義(幾つかの辞典によれば、その基本は国土の大小・経済の高低・軍事力の強弱で、更には小にして低そして弱の「小国」に圧力をかけるとの説明がある)であり、国内の貧困や差別の問題などは二の次でもあるかのようだ。その大国の限定縮小版が日本と言ってはあまりに非愛国的であろうか。

上記大国主義にあたる国はアメリカ以外では中国、ロシアであろう。圧力を直接的世界戦略とまでする国はないとは思うが、例えば日本に対して、3国は様々な圧力をかけているのは事実である。
その時、大国間競争を融和し、地球全体の平和の実現に向けて、アメリカ追従の日本は何を発信し得ているだろうか。大臣レベルの政治家の日頃の発言を知るたびに甚だ心もとなくなり、結局のところバランス・オブ・パワー[balance of power]に収斂され、日本はますます勘違いをする。
日本国憲法論議がいかに重要か、今更ながら思い知らされる。


国連は世界連帯による平和の中核機関として創設されたが、拒否権にみる自国優先、優越は度々合意と言う道筋を挫いている。その国連の現状に、加盟国は理念から実動に関してどれほどに熱情と信頼を寄せているだろうか。言葉の虚しさを感ずることは少なくない。
その時、日本の歴史《近代での帝国主義化への反省を含めた2000年》と文化はその風土と共に、再検討されて然るべきで、それが、自主、自立した日本の姿となり、世界への発信力となるのではないか。

そう思う私は、日本の美点と同時に危うさを感ずる一人であり、同様の人は私の周囲だけでも少なからずある。「軽薄短小」は、日本の技術力を評価した言葉だが、それは過去のこととなりつつあり、頭脳流出はおびただしく、誇るアニメ文化の下降も伝えられ、いずれにせよ世相そのものが、軽・薄・短・小となりつつあるように映る。
年齢がまた世代が、老人特有の愚痴、杞憂を言わせているならばそれでよいのだが、日々の報道から直覚するに、我田引水を承知で、愚痴杞憂とは言えないようにも思えるのである。時代の動き(スピード)ついて行けないだけなのかもしれないが。

そこに世界的な【新型コロナ禍】が覆いかぶさり、半年余りが経ち、今冬以降インフルエンザとの二重性まで要注意になって来ている。地球に与えられた途方もない試練。
日本はまた大国は、「コロナ阻止」「経済再興」の両立を言い、いろいろなアイデアが出され、実行に移されているが、その結果は、これからである。天命である。天命は中国由来である。

いささか危機意識が過ぎたが、ではこの状態はハレなのか、ケなのか。私はちょうど谷間にあってもがいているのではないか、先人の日本人が考えたケ[褻]の想像を超えたのではないかと思うようになっている。
そんな折、民俗学者柳田 國男(明治8年~昭和37年)の『明治・大正史 世相編 上』(昭和8年・1933年刊)で次の言説に出会った。晴と褻に係るその部分を引用して愚文を終わりたいと思う。5年後の平均寿命無事到達のためにも・・・・・・。

――褻と晴との混乱、すなわちまれに出現するところの興奮というものの意義を、だんだんに軽く見るようになったことである。実際現代人は少しずつ常に興奮している。そうしてやや疲れてくると、初めて以前の渋いという味わいを懐かしく思うのである。――

       《注:明治・大正と併せて60年間、戦後75年である》

2020年7月11日

不寛容な現代?

井嶋 悠

「新型コロナ・ウイルス禍」は人々に、人間について、社会について改めて考えさせる機会を与えていて、私もその一人である。

極限とも言える環境に置かれると。人間の本性が露わに見えて来る。自戒を込めて実感する。「自粛警察」との新語もそれを表わした一つである。
市民に求められている自粛を同じ市民が監視するとの意味。少なくとも私の感性を遥かに越えている。
私の中で警察と聞いて、感謝と敬意はあるが、一方で権力また権威を笠に着た恐怖が浮かぶ。だから自粛警察との表現に、甚だしいおぞましさを感じる。そこに正義感が加わるからなおさらである。
1945年生まれの私にとっては知識に過ぎないが、関東大震災や太平洋戦争時のことと重ねた指摘に接すると一層の激烈さが襲って来る。

コロナに感染した人を特定しネット等に曝け出し感染者を重罪人として排斥し、その人の行動経緯への誹謗中傷はもとより、「夜の××」に象徴される職業への平生は抑えていた差別感情の爆発とそこで生を紡ぐ地域住民への無配慮、そして人非人としか言いようのない、コロナ治療にあたる医療従事者たちとその家族を忌避し、例えば子息の入園を拒否する、等々。これが絶対正義であるとの恐るべき確信をもって、インターネットで、街中で、当然!匿名で広言し、市民分断を企み、ほくそ笑む人々、市民。

その実態を、例えば5月20日付け毎日新聞の社説では『コロナと不寛容さ 社会の強さが試されている』と題して記しているが、この不寛容との言葉に私は疑問を感ずる。人間はどれほどに寛容であろうか。人間は、多少の個人差はあっても、不寛容さを抱えているのが人間なのではないのか。だからこそ寛容な人への敬愛が生まれるのではないのか。
なぜ、寛容(寛大)の反対語である「苛酷」「偏狭」「狭量」を「厳格」に[東京堂版『反対語対照語辞典』より引用]使わないのか。不寛容(或いはそれよりやや強い語感の非寛容)を使うことにどのような配慮があるのだろうか。単に寛容を打ち消すことでの意味のやわらぎと明らかさを意図しているのだろうか。

言葉の力が怖ろしいことは何度も体感して来た。生涯の仕事が教師だったからなおさら実感し、思い起こせば冷や汗は今も噴き出る。生徒への言葉、生徒からの言葉、同僚同士の言葉。保護者の言葉。
一つの言葉が、人生を狂わせ、相手の喉を掻っ切る事実。だからこそ褒め、讃える言葉の生への力。
これらのことは今更言うまでもないことにもかかわらず、なぜこの無惨が起きるのか。

先の社説には「自粛生活のストレスと差別感情の助長」を言い、「社会の強さが試されている」と言う。
果たしてそれでこの恐るべき問題は解決するのだろうか。ストレスは人に限らず動物また時には植物でさえ、置かれた環境不適応から生ずる不安、恐怖、圧迫またそれらの複合としての心身の疲弊。苛立ち。それは老若問わず誰しもが、生ある限り持たざるを得ない。それがなぜ差別感情の助長になるのか、それとも人だけに特有の性(さが)なのか、私には今もってよく分からない。
そして筆者は社会の強さの必要を説くが、ここで言う社会の強さとは一体何なのか、個に帰して自問自答する己の強弱なのか、それとも社会の脆弱・強靭の意味なのか。そうだとすれば、それはどういう社会なのか、日本はまだまだ脆弱にして未熟と言うことなのか。そもそもそういう強い社会はこの現実世界に存在するのか、私の浅薄な頭はますます混乱するばかりである。

先日、社会学者西田 亮介氏(1983年~)の著書『不寛容の本質』を、その表題に魅かれて読んだが、昭和と言う時代と現在の乖離を説く氏の論説の中で、私が望む回答は見つけられなかった。ただ、次の一節に何かヒントが示唆されているように感じはした。

――過剰な楽観論と、やはり同じように過剰な悲観論が対立しているこの構図こそが現代日本の不寛容の本質ではないか。――

おぞましい流言飛語、更にはそれを内に留め過ぎて死を選ぶ人はなくなることはないだろう、と生の哀しみを思えばついそう言わざるを得ないが、量・質ともに減らすことはできるはずだ。それは幾つかの国が証明している。そこに導くのは大人の姿勢、大人が置かれている社会環境、そして大人としての教育観にかかっている。

先日、女子プロレスラーの木村 花さんが命を絶った。報道を読めば読むほど、テレビ局の、プロダクションの、そしてインターネットで誹謗中傷した大人が、彼女を殺めたとしか言いようがないではないか。よってたかっての惨殺である。そこに花さんはいても、花さんそのものは打ち消されている酷(むご)さ。テレビにはそこまで人権を蹂躙し、自己を正当化する権利が与えられているのだろうか。

先ず世の最前線にいる大人が意識を変えなくては、社会は変わらない。その時、教師の持つ意味は甚だ大きい。これも自戒を込めてのことである。
こんな教師がいた、と言うか教師にはその傾向が強く、多くは生徒愛を自認するのだが。

生徒(子ども)の思い、考えを聞いているようで聞いていない教師。結局は一方的に話し続ける教師。用意された結論へ限られた時間内で誘導する教師。中高校生の感性は瑞々しい。彼ら彼女らはとっくに帰着点を直覚している。言葉に出さない[或いは出せない]だけである。
聞き上手の教師は、本来の意味での話し上手である。能弁である必要はない。訥弁の話し上手。

そのためには時間が必要である。急いてはことを仕損じる、である。あれもこれもとあまりに忙しすぎる大人たち。それについて行かざるを得ない子どもたち。それが当たり前となっている社会。「快」を追い求め続ける社会とそれに振り回される大人。そして子ども。

今回の自粛はそれらにブレーキを、しかも強度なブレーキをかけた。自問自答の時間が増えた。自身の足りなさを他者に向けるのではなく、蛮勇をふるって自身に向けたいものだ。心の中の風通しのためにも。コロナ禍と言われるが、「禍福はあざなえる縄の如し」。それも一国レベルではなく世界レベルで。

寛容とは、元来「耐える」「我慢する」の意味だったとか。こらえ性のない大人は大人失格である。
日本は無宗教の国と言われるが、別の視点で言えば宗教に寛容な国民性と言うことではないか。

2020年6月4日

看護師・日本

井嶋 悠

現在、看護婦とは言わない。男性にも担う人が増えている。だから「婦」を使えば差別ともなり、男女平等、協働社会の現代にあっては時代錯誤である。ただ、その意味するところはもっと深いように思う。

看護師は、絶対の母性の仕事である。
これは医師にも言える。ことさら女医との言葉があるのは何の残滓だろうか。いずれ女医との言葉は消えるだろう。では医師も母性の仕事なのだろうか。母性の側面を持つことは否定できないが、(そもそも医療自体、教育世界同様、母性の行為とも言えるが、この感覚は日本人的なのかもしれない)父性を思う。

この母性と父性について、母性=女性、父性=男性の、しばしば見受ける形式的発想を疑問に思う機会が増えている。その等号に得心が行かないのである。今更ながら、母性を女性の占有のように言う私が、非現代的偏重人と思える。母性・父性に男女性は関係がないはずだ。ただ、母は女性がなり、父は男性がなるという、その生物的だけのことではないかと思う。
そこで、手元の国語辞典[新明解国語辞典 第五版]から確認してみる。

 [母性]:女性が、自分の生んだ子を守り育てようとする、母親としての本能的性質。

 [父性]:父親として持つ性質。

個性的と言われている国語辞典でさえ、そうなのかといささか愕然とする。分かって分からない。いわんや父親の説明など思わず?が起こる。
そこで、女性・女性的、男性・男性的を同じ辞典で確認してみる。

 [女性]:おとなになった、女の人の称   

 [女性的]:やさしさ・美しさ・包容力などを備えたりしていて、女性と呼ばれるにふさわしい様子。

 [男性]:おとこになった、男の人の称

 [男性的]:たくましさや行動力を備えた上、さっぱりした性格を持っている様子。

女性的、男性的は、この辞典らしくなかなか踏み込んだ語釈かとも思うが、旧来の女性・男性のイメージに立った上での苦心が偲ばれる。中でも、「美しさ」とはなかなか微妙だ。
それに、「おとなになった」「おとこになった」の意味するところは何であろうか。
上記の説明に基づいた、女性的な男性、男性的な女性は、決して珍しくはない。とすれば母性・父性の再定義が必要になるのではないか。ここで、「女」「男」の項を見てみるが、出発点の母性・父性から離れ、堂々巡りになるようなので省く。

臨床心理学者河合 隼雄(1928~2007)は、その著『母性社会 日本の病理』の中で、母性・父性に関して次のように述べる。

―母性の原理は「包含」する機能によって示される。それはすべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包み込んでしまい、そこではすべてのもが絶対的な平等性をもつ。「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いのであり、それは子どもの個性や能力とは関係ないことである。(中略)
これに対して、父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。それはすべてのものを切断し分割する。主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、母性がすべての子どもを平等に扱うのに対して、子どもをその能力や個性に応じて類別する。―

私には強い説得力がある。先の女性的な男性、男性的な女性も大いに納得できるではないか。

私はこれまでに何度も、多くの看護師に(ただ、すべて看護婦であった)世話になって来ているが、その看護師たちの仕事が私に激しく迫ったのは、わずか数分の、テレビニュースの中の一端として放映されたドキュメント映像である。
場所は、コロナ・ウイルス患者受け入れ病院の治療室である。防護服に身を包んだ何人かの看護師と何人かの医師。たまたまであろうがすべて看護師は女性で、医師は男性だった。看護師は常に患者に寄り添い、声を掛け、患者の声に耳を傾けながら、同時に医師の指示を受け、所狭しと務めに集中している。

看護師は、コロナ・ウイルス感染確率の最も高い立ち位置で、慈愛の眼差しを絶やすことなく、目まぐるしく動いているのである。その間、医師はデータを確認したり、指示を出したり、病院内部からと想像される電話に、「私たちは医療崩壊との言言葉は使いたくないんです」とやや声高に応えている。
騒然とした、しかし心を引き込まざるを得ない、何か聖なるものを直覚させる気が横溢している一室。
看護師が、出て来て防護服を脱ぎながら言った「ああっ、あついっ」の一言の重み。そして次の準備へ。

私は、無性にこみあげるものにうろたえ、ただひたすら敬愛の眼で看護師を見た。協働世界を思い、その現実、現場を重々承知しつつも、「医師あっての看護師」ではなく、「看護師あっての医師」との言葉を、思い起こした。
診察し、診断する医師の一言の影響力は途方もなく大きいが、看護師のあの自然な優しさ溢れる一言が、どれほどに生きる力を与えることか。
やはり看護師は母性の仕事であり、医師は父性の仕事であると思う。

今、医療に携わる人々またその家族に、中傷や拒絶の言葉を、人間崩壊とでも言おうか、己が正義で発している人のことが連日のように報道されている。看護師や医師の、怒りを越えた哀しみ、寂しさを、所詮他人の感傷的同情と言われようと、想像する。
ブルー・インパレスへの感謝も、見知らぬ人々からの手紙等への感謝も、確かな励みとなるであろう。また、国が待遇改善を提案することも従事する人の確かな励みとなるだろう。
その上で、看護師の、医師の、正に無償の愛と言っても過言ではない行為を改めて知ることで、世の多種多様な営み[職業]への慈しみの眼差しを忘れてはならないと、ドキュメントフィルムは語っているように私には思えてならない。

どれほどの人々が、会社・事業所が、困窮に、破産に、死の間際に、(否既にその一線を越えざるを得ない選択をした人もいる)追い込まれていることだろうか。その人たちにその責任を問うことなどあろうはずがない。その人たちに多くは、ほとんどは「弱者」「脆弱者」である。それに具体的な救いの手を差し伸べるのは、先ずその人々が所属する国家である。その国家は国民の税金の上に成り立っている。脆弱さを突き付けられた人々にその税金を使うことに誰が反対するだろうか。反対する人がいるほどに日本は腐ってはいないと信じたい。

4百数十億投じてのマスク配布を英断とし、愛犬との姿に癒しを誇示することで、国民の多くの顰蹙(ひんしゅく)をかった首相は言う。「日本ほど手厚い援助をしている国はない」と。もしそうならば多く聞かれる悲鳴、憤慨は一体何なのだろうか。切々とした声が届くには官邸は遠過ぎるのだろう。悲しいことだ。
政治家は常日頃「身を切る改革」との言葉を使う。どれほどに実行しているのか、ほとんど言っていいほどに、私たちは言葉の弄びと思っている。あの歴代首相断トツの外遊費(資料公開請求をした野党政治家があったが、国民はどれほどに周知しているだろうか)、国際化・グローバル化世界にあってリーダーシップを発揮するために或いは大国日本の責任を果たすために、との絶対正義かのような理由でどれほどの税金が使われているか、国民は心地良くそれらのことを承知しているだろうか。

「その国民が私たちを選んだのではないか」も政府の、政治家の常套句で、「嫌なら投票するな」とまで暴言を吐く人種もいる。そして議論はそこで終わる。
そんな日本の貧しさを、今回のコロナ・ウイルス禍は露わにした。

第二波、第三波も予想されている。今回について謙虚に反省[猛省]し、「あの時私は委員でなかった」といった無責任な専門家などに委託せず、看護師の、医師の献身を心に刻んでこそ彼ら彼女らへの心からのねぎらいになるのではないか。

弱者・脆弱者を一人でも出さないためには、結局は国民に借財を跳ね返す発想ではなく、何をどう削ればよいのか、その視点に向かわせる国の新たな出発点としてもらいたいものだ。新たな生活様式を考える時代としたい、と世界の良心は言っているではないか。
横に並んで食事し、食事に集中するといったことが新しい様式ではなかろう。ラッシュアワーの背景には何があるのか。オンラインで解決するのか。

弱者が切り捨てられる日本はもう十分だ。日本が母性の国と言われるその本領を、その是非或いは長所短所の観念的論議に陥ることなく、発揮してもらいたいものだ。

締めくくりとして、ナイチンゲール(1820年~1910年)の代表的著書『看護覚え書』から、看護婦の時代を経て、看護師の時代になった今日でも、真理と思われる幾つかの言葉を引用する。
尚、彼女は後半生の50年間、感染症の一つブルセラ病(マルタ熱)で病床生活を余儀なくされたが、その間、多くの著作を遺した。

「病気の行き末を決定づけるのに、注意深い看護が重大な役割を果たすということは広く経験されているところです。」

「患者は四六時中敵と顔を突き合わせ、内面でその敵と格闘し、頭の中で延々と言葉を交わしているのだということを肝に銘じてください。これは病気でないものにはわかりません。“速やかに敵から解放せよ”これが病人に対する第一原則です。」

「すべての看護婦は、頼りにされ得る、すなわち“信頼のおける”看護師であるべきだということを肝に銘じてほしいと思います。いつ何時、そのことが要求される立場に置かれるかしれないことを、看護婦は自覚できていないのです。」

「私は女性たちに、医師への絶対的な従順の必要はないと思わせようとしているわけではありません。ただ医師にも看護婦にも、知的従順ということの重視、すなわちただ従順なだけでは意味がないという認識が不十分だと言っているのです。」

優れた看護婦は厚遇すべきである。
ナイチンゲールは19世紀に既に言っている。

「構成員の自己犠牲のみに頼る援助の活動は決して長続きしない。」

「犠牲なき献身こそ真の奉仕である」

誰が優れていると判断するのか。医師であり、患者であり、病院経営者であり、それに応える国がある。
それは医師も全く同様である。それが協働だと思う。

2020年3月16日

多余的話(2020年3月)  『春なのに』

井上 邦久

仮住まいでの生活も一ヵ月になろうとしている。
スーパーマーケットやクリーニング屋の選定も終わり会員カードを利用している、というか巧く絡み取られる日常が始まっている。南茨木駅まで徒歩20分の道にも慣れてきた。桜通りの蕾も膨らみ、あと一週間という開花予想を裏付けている。神戸の研究会から報告要旨の文章化を求められ、大幅に手直しの指導を受けた最終稿を発信して二月を為し終えた。

それより前、2月20日から日経新聞朝刊の連載小説が中断した。伊集院静がクモ膜下出血で倒れたという報道が年の初めにあり、いずれピンチヒッターが出て来るものと想像していたが、ノンシャランなイメージとは異なり、書き溜めた原稿を一ヵ月以上分ほど残して闘病した様子。意外と言っては失礼ながらその精励ぶりに驚かされた。

夏目漱石をモデルにした『ミチクサ先生』の序章と云うべき段階までであるが、正岡子規との交流を核にした青春成長小説、自己形成小説(Bildungsroman)の趣を感じとっていた。二人を描く場合、どうしても正岡子規の個性が表に出てしまいがちなので難しい。同じ伊集院静が子規に光を当てた『ノボさん』(2013年・講談社)に重なり、また関川夏央作・谷口ジロー画『「坊ちゃん」の時代』(1987年~双葉社)のシリーズの世界も甦ってきた。
3月13日の報道では予後良好で自宅でのリハビリ段階に入った由。続きを読むのを愉しみにしているものの、ゆったりとしたペースでミチクサをして戻ってきて欲しいとも思う。

伊集院静は山口県防府市の生まれで野球にも秀でていた。義兄の高橋明(川上巨人軍時代の先発投手)の紹介で、長嶋茂雄に会い「神の声」に従って立教大学野球部に進むも故障のため挫折。

防府市に隣接する徳山市には一年年下の吉田光雄が町場の少年野球界で頭抜けた才能を見せていた。吉田光雄は岐陽中学時代に柔道二段、桜ケ丘高校ではレスリングで米国遠征、専修大学時代にミュンヘンオリンピック参加した後、プロレスのリングネームを本名から長州力とし、幕末志士風の束髪を靡かせながら強烈な「リキ・ラリアート」を炸裂し続けた。
中学生になったばかりの頃、徳山小学校から続いて同級生だった吉田光雄に「なんで野球を続けなかったん?」と訊ねたら、「バカだな~。優等生は何も分かっちょらんな。学校の柔道着はタダ、あとは俺の身体だけ。道具に金が掛かる野球は坊ちゃんの遊び」と言われた事を思い出す。

伊集院静と長州力とは同郷同世代でもあり改めて思いを綴りたい。

伊集院静にはリハビリの先輩でもある長嶋茂雄と篠ひろ子令夫人に従順であって欲しい。そしてゆっくりミチクサをしたあとで、人生論をベストセラーにするのもいいけど、できれば故郷・野球・女性のことをもっと綴って欲しい。

同郷同世代といえば三十歳前に営業部へ転属となった時のK元部長が逝去し、日を置かずして野村克也が冥界に去った。二人は京都北丹後の府立峰山高校の出身。学年が一年下の野村は野球の才には秀でていたが、幼くして父親を亡くし貧しい生活の中でグレ気味で、ペシャンコの帽子で虚勢を張っていたとのこと。一方、登校せずに割烹で昼間から酒を呑むこともあったというKさんも成績は良かったものの品行は決して褒められたものではなかったらしい。しかし、野村後輩には喝を入れ説教を垂れたと云う。点取り虫の優等生タイプではなかったKさんの言葉には後輩も素直に頷いたのであろうか。

同郷の二人は大阪南部の球場と大学で基礎を作り、南海ホークスのテスト生は三冠王を獲得して監督まで上り詰め、商社に就職し強面な外観と奔放な行動で畏怖されていたKさんも専務取締役にまで昇進した。
営業の呼吸法を色々と教わった以外に、「Aへ進めとの指示があったら、Aに到達できなくともaの方向には進め。間違ってもBやZには進むな。指示に対する理解力と洞察力とベクトルを揃える能力が試されているのだ」、「住んでいる地域も含めて豊かな人間関係を作る努力を早くから続けること。会社組織だけに拘っていたら豊かな人間性を育めない」といったことを大阪ナンバの呑み屋や銀座のクラブで語って貰った。

戦後の丹後縮緬ブームでガチャ万景気に湧いていた故郷のこと、その格差社会の底辺にいた野村少年のこと、十年後の帰郷の折に峰山駅でブラスバンドが歓迎演奏をしていて「まさか俺のためではないだろう、と訝る間もなく野村三冠王が現れた」といったエピソードを喋りながら、合間に語った人間洞察には社内での雰囲気とは随分離れた味わいがあったことを思い出す。 

二人とも歳上の女性と結婚し、先立たれて失意の時間を過ごしたことも共通している。Kさんが口癖にしていた「豊かな人間関係」を作るのは容易ではないという冷徹な事実を、身を以って知らしめてくれた気がしてならない。                   (了)

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
洗濯物がぬれるから 女はひきつった顔で わめきまわる ころびまわる
男はどうした事かと立ちつくすだけ 空の水が全部落ちてる 
(中略)
計画は全部中止だ 楽しみはみんな忘れろ 嘘じゃないぞ 夕立だぞ
家に居て黙っているんだ 夏が終わるまで 君の事もずっとおあずけ

                     井上陽水 『夕立』

2020年3月7日

父としての自覚 ―再び母性・父性について―

井嶋 悠

父親なるものなって40年が経つ。よくぞ私ごときが父として来られたもんだと慰め、褒める私がいる。一昨年、長男の結婚式で、長男が“感謝の言葉”セレモニーで言った「今日まで自由にさせてくれてありがとう」との言葉が妙に残っている。
これは親子の信頼関係での言葉なのか、それとも「親はなくとも子は育つ」の彼なりの柔和な棘的表現なのか。息子のあれこれを知る私たち両親としては、前者であることを素直に取らなくてはならない。

母の方はかなりの自覚をもって子どもに接していたが、私の場合、何か父としての自覚といったこともなく、自然な流れで三人の父となったように思える。
年齢順で言えば、妻が腹膜炎に罹り妊娠七か月で死を迎えた長女。その3年後の長男。そしてその4年後の次女。
ただ、次女は中学時代の担任教師の、何人かの女子生徒を自身側に取り入れての「ネグレクト」に会い、その後の高校での教師、学校不信甚だしく、紆余曲折の人生、23歳で早逝した。したがって現在、長男は一人っ子のようなものである。
その次女の一件では、憤怒すること、同業ゆえなおさらで、今も決定的に刻まれていて、そのことに於いては、自照自省そして自覚著しく、更には私自身の学校、教師への不信感また自己嫌悪が増幅している。これらについては、以前に投稿したのでこれ以上立ち入らないが、一言加える。

社会的告発は本人、母親の、私の気質を知ってのこともあり、しなかった。したとしても経験上、学校、教育委員会の反応は、ほぼ想像がつくのでなおのことしなかった。しかし断然教師に非があると思っている。このことは、後日、別の教師から娘に直接謝罪があったことからも、決して親のエゴではないと信じている。

このように子どもに関して曲折を経験し、ここ何年か死を考え始める年齢となり、父とは一体何者ぞ、と私の父をも思い起こし、考えることが増えて来ている。

私の父は医者であった。大正6年生まれの京都人である。50歳ごろまでは勤務医であったが、それ以降享年80歳まで開業医であった。尚、戦時中は長崎勤務の海軍軍医であった。
父を尊崇する声は聞いていたが、名医であったかどうかは分からない。ただ勉強家には違いなかった。或る時、こんなことを言っていた。「ワシのような医者は、ワシで終わりだ。」
その意味することは、患者に対して、挨拶ができていないとその場で叱正し、耳学問で自己診断する患者には診察前早々追い返す等我を通すのである。そういった医者が、今も世に成り立っている自身を自覚してのことだった。

父の医者としての道程は、晩年期を除いて安泰ではなかった。要領よく兵役を逃れた者や長崎被爆での軍上層部また医師等特権階級の権力行使による戦後に備えた功利的生き方への反発は、戦後の生き様に決してプラスには作用することはなかった。そのため出身大学内人事、更には権力にへつらう人たちのしがらみの中、孤軍奮闘せざるを得なかったようだ。

そういった生き様は、「子を持って知る親の恩」そのままの親不孝者であった私でさえ、心に深く刻まれ、私の今日までに或る影響を及ぼしていると思う。例えば、結婚後、どうしても許せないとの、結局は同じ穴のムジナにもかかわらず、家族への不安、迷惑をかえりみることなく突っ走ること幾度かあった。

父は家庭にあっても、漢字「父」の成り立ちから意味する統率者然とし、家父長意識そのままに君臨していた。家族はどこか腫れ物をさわるような立ち居振る舞いの様相を呈していた。この緊張感溢れる家族生活も、私が小学校4年時での離婚、中学からの継母を迎えての新生活、そして妹の誕生といった変化に、父の加齢も加わって徐々に変容して行ったが、それでも父たる存在感は大きかった。
ところがである。私の長男と長女の生は、父らしからぬ父と変貌させた。痛々しいほどに二人に愛を注ぐ父がいた。父は祖父になったのである。古来の父性の父から母性の人になった。
その父が亡くなって23年が経ち(だから長女の死は知らない)、今では私が祖父となるかもしれない心模様をあれこれ想像する立場になっている。
私は、風貌、体型また志向性格において、その相似を妻や親戚の者から指摘されるが、父のような父とは全く異にしているように思う。父とは自立するまでの30有余年があまりに違い過ぎるからもある。

やはり、ここにあって父性・母性を考えたくなる私がいる。再び整理してみる。
『新明解国語辞典 第五版』の説明は以下である。何ともそっけないと言うか、窮しているというか。
  父性:父親(として持つ性質)  
  母性:女性が、自分の生んだ子を守り育てようとする、母親とし
     ての本能的性質。

次に、中村 雄二郎著『述語集』の、「女性原理」の項を参考にする。引用は、著者の言葉をあくまでも尊重し、適宜私の方で要約して記す。

(西洋の心理学者E・ノイマンの考えに立ち)
  母性:元型としての太母(グレート・マザー)は、包み込むこと
     の意味する、相対立する二つの側面を同時に持っている。
一つは、生命と成長を司って、懐胎し、出産し、守り、養
い、解放する一面、つまり生命の与え手の面である。
もう一つは、独立と自由を切望する者たちにしがみつき、彼
らを解放せずに束縛し、捕獲し、呑み込む一面、つまり怖る
べき死の与え手の面である。
無意識・感情

父性:断ち切ること、分割すること。
意識・理性

現代は母性の時代とも言われ、だから一部の父親、男性が(女性も?)「父性の復権」を言う。
しかし、どれほどに男性性・女性性について私たちは共有しているだろうか。「らしさ」の曖昧性、或いは固定性、大人の一方的刷り込み。
男女協働社会を考えれば、男女のそれぞれの性(らしさ)に係る自照、自問、自覚がより求められ,その上で共有があって然るべきではないかと思う。常識の呪縛から離れなくてはならない。父権制、家父長制の中で培われた常識。この裏返しとしての女性の常識。

それは、男女共同・協働意識とその現実化にあって、先進国中最下位に近い位置にある日本の緊要の課題である。いわんや先進国の矜持があるからには。

では、私自身はどうなのか。何も言えない。言えることは、男に生まれ、男の子として育ち、男性として社会人となり、ご縁があって結婚し、父となり、死を迎え、居士を与えられ(多分・・)、無と無性の世界に彷徨う・・・だけである。ジェンダー問題への思慮など言わずもがなである。

確かな男女協働社会を構築するには、どのような「らしさ」が常識としてあるべきか、学校、社会で大いに話題にして欲しいものだ。私のような無自覚な男を、父をなくして行くためにも。