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2013年12月31日

日韓・アジア教育文化センターの祖・河野(こうの) 申之(のぶゆき)先生が、11月に還浄(げんじょう)される ―2013年の終わりに―

井嶋 悠

河野先生は、学校法人の理事長であり、仏教者(浄土真宗)にして教育者として学内外広く敬愛されていた。それは、先生の人品、そこから醸し出される風貌が、証しとして輝いていた。そのことから法人葬の案内では、逝去と言わず還浄(浄土に還る)と表わされている。90歳だった。

昨年、娘が旅立ったとき、或るキリスト教思想研究者が私に言われた言葉が甦る。

「お嬢さんは、お嬢さんをこの世に遣わした神が、もう帰って来ていいよ、と戻されたのです。」

それを聞いたとき、私はキリスト教受洗者でも仏教帰依者でもないが、一条の光明を見た。

仏教とキリスト教の通底を思う。

もっとも、娘のそれはあまりにも早過ぎないか、ましてや親より先に、とのこの世の世俗人らしい恨みはあったし、今もあることはあるが・・・。
しかし、そこに天の道理・天意を思ったりするのも、私の宗教への自然な近づきなのかもしれない。

私は、27歳で、先のブログに書いた高校時代の“怪人”国語科教師の配慮で正業[中高校国語科教師]に就き、59歳で退職するまで、3度学校現場を変えた。すべて私立中高校である。
1度目は17年間勤め自身の限界と浪漫からの冒険心で。
2度目は2年して、3度目(最後)は10年して、いずれも、狭小にして自己絶対、己が意に沿わぬ者はあの手この手で排斥する権威主義者で権勢慾者にもかかわらず自由と革新と教育への情熱を標榜する、私の価値観からすれば許容しがたい校長との軋轢、不信から、言わば〝敵前逃亡“? 先方にすれば我が意を得たり? での退職である。

妻と二人の子どもの狼狽、唖然、しかし合意と共感と献身があって、今私はここに在る。
その一人が、7年間の自身の労苦を彼方に置いて本センターを支えた娘であった。
私の中を駆け巡る感謝と自責と不遜と寂寥と空虚と永遠と・・・。

その2度目の時の理事長が河野先生だった。

先生に近しい人から当時聞いた先生評「なかなかしたたかな狸親爺」
幾つかの場面から、狐ではないそれに納得する私はいたが、私の直感は最後まで冒頭に記した信頼であった。

現実の体制・機構内にあって徒労であることを承知しながらの何度かの理事長直訴は、予想通り功を奏せず退職したが、なぜか、理事長の配慮から学園内での二つの非常勤勤務を与えられ、と併行して状況を理解くださった方々の労により三つの非常勤職務で、家族の糊口をしのいだ。

ただ、この2年間と、その後のあり得ない幸いで得た、日本で初めてのインターナショナルスクールとの協働校での最後の10年間の、12年間に実践した国語教育と日本語教育は、それまでの20年間を土台にした発展として、私への活きた財産となり、今日の私の言葉、価値観の骨格を形作っている。
河野先生はなぜ私にそのような場を与えたのか。

二つの先生評は、それぞれに私の中で説明はつくのだが、晩年のご自宅での闘病時代に私だけ許されて伺うことができたこと、また直接に、行間に発せられた私への謝意からも、そして帰宅後の私の訪問記を聞いていた直感力の鋭い娘の感想からも、やはり冒頭の評として先生は私にあり、その以心伝心からだ、と懲りない不遜を承知で思う。

その浪人時代の2年目。古い木造校舎の狭い理事長室での一事、それが、すべての始まりとなった。

当時、日韓で国際理解教育の合同研究会が開催される旨聞きつけ、自費で参加した。
私の初めての韓国訪問である。
もとよりその領域に造詣があるわけでもなく、要は単に好奇心からで、しかしだからこそ研究会だけの参加はもったいなく、或る旧知の日本語教育研究者に依頼し、ソウルで出会ったのが、ソウル日本語教育研究会の会長と役員2人であった。

帰国後、そのときの酒席と意気投合の顛末と日韓交流の提案を理事長に話した。
無言で聞いていた理事長は、衝立の後ろに行き、2,3分何かごそごそされ、「これを使いなさい」と言って差し出されたのが100万円だった。

そして実現したのが、翌1994年、神戸での第1回日韓韓日教育国際会議である。
その時の、理事長の、少年時代を過ごした戦時下の広島での、在日韓国人少年との出会いと別れの話は、そこに参加した日韓の人々の心に、どれほど静かに深く染み入ったことであろう。

その後、中国・台湾の参加も得て、誤解や行き違い、思わぬ疑問、不信等々紆余曲折があったとは言え、幾つの機関、さまざまな人々の支援を得て、現在の活動に到っている。
いろいろと批判する人々は世の常ながら、今、少ないながらも共鳴者、賞讃者を持つ幸いにある。

詳しくは、ホームページを見て下さることで、それぞれの批評をいただけることを願っています。
すべては結果からの話、と合理的に断ずる人は多いと思う。
しかし、私はそこに不可思議な、人との出会い、人智を越えたその後の生、そこに天の導き、采配、天意を思わずにはおれない。
その時、娘の死はどういう天の導きなのか、死への経緯から或る一端を自身に言い聞かせながらも、まだまだ整理できていない私がそこにあるが。

それでも、天意の中でこその、人為の素晴らしさを讃美し、時に絶望し、しかし同時に、謙虚さを自覚する人としての存在を改めて思う。
人々との、生物との、それら一切合財含めた自然との、自然での共生。

この恐るべき速度で進む「文明」化と言葉(論理)化を善しとし先行させる現代にあって、感性の再自覚、再練磨の必要を、ささやかな私的経験から“直感”する。
その時、旧世代?の、それも50年60年またそれ以上の人生時間を経て来た人々が意図的に使う「直覚」という言葉の重さに思い到る。

幼い子や動物は、優しさを直感し、直覚するではないか。
競争はそれがあってのことではないか。

日本は、欲望を手中にしてこそ欲望に()てる、勝つことがすべてであり勝てばいい、の競争にますます堕しつつあるように思えてならない、
との直覚は、多数の?日本人老若からすれば、人生時間はまあまあ足りながら人品足らず、ということなのだろうか。
或いは、どの過去を良いとするかの、良い過去などない・なかった、とのいずれの定見もなく、加齢による感傷に溺れる初老の懐古趣味に過ぎないのだろうか。

ただ、経験上言えることは、そして歴史が証明しているように、学校社会は現実社会を映し出す鏡であり、縮図であり、その逆はまずなく、学校への期待、批判は、社会への期待、批判であって、学校社会だけに是非を言うのは、空疎で、あまりに概念的で、学校社会をますます遊離した世界と化してしまう恐れがある。
学校に注文を付けるなら、そこにつながる社会構造を変革しない限り、世に言う対症療法に過ぎない。しないよりはましで、何年か経てばほぼ同様のことが繰り返される。その学校社会は公私立関係なく、多くは閉鎖的で権威的である。

上記私の日本社会への非生産的で消極的感慨は、この体験からの実感で、同時に私の社会観が、現代日本の現実と乖離した私の限界の証しなのかもしれない・・・。

河野先生

本来の菩薩に還られ、今度は天上から、あの慈愛溢れる眼差しで、私たち日韓・アジア教育文化センターをお導きください。

ありがとうございました。

2013年12月25日

オルフェーブル!

井嶋 悠

先日、「有馬記念」で彼を見た。テレビで。

私は競馬場に行ったことはないし、馬券も、高校時代、後に恩師となる高校の“怪人”国語教師から言われて場外馬券売り場に1,2度買いに行かされただけで、何も知らない。しかし、テレビを通してでさえ、彼ら彼女らの立ち姿と躍動の美しさ、そしてすべてを承知しているかのような神仏のごとき眼に魅入られている。

オルフェーブルの最後の舞台・ラストランとのこと。

(私は、外国語の過剰な日本語化には首をかしげる守旧派?の一人かとは思うが、「ラストラン」の響きは、栗毛の彼が冬の陽射しを受けて疾走するに相応しい響きがあるように思える。オルフェーブルとはフランス語で「金細工師」の意味とか。名は体を表わす・・・。)

彼の競馬史上7頭目の三冠馬をはじめ勇者としての戦績と、或る時は後方に沈み、或る時は勝利後人馬一体の騎手を振り落し、或る時は走るのを止めたかと思うと走り出し2着になったりで、我執にして無我の怪馬の軌跡が紹介され、ラストランは8馬身の差をつけた問答無用の圧勝だった。

ゴールに入るときのあの飄々(ひょうひょう)として清々(すがすが)しい風そのままの眼。彼にとってすべては通過点、との諦観大悟をも思わせる眼

解説の調教師が言っていた「彼はやはり賢いです。今日がラストランであることが分かっていますね。」

ただ強いのではない。
強いと同時に自由奔放で、つい我が身の過去現在と羨望重ねてしまう親近感の存在で、そして私たちが忘れ、今の時代の欠落、喫緊の心を無言で教示される、そんな感動感銘がそこにある。

人の世に溢れる、自身を道徳的とするような似非(えせ)がない。

マスメディアが振りかざし、私たち一部?の大人が、何かことあれば規則、条例、法律を作り、抑え、はめ込もうとする時代にあって、それに従うなどという発想がない。しかし人道を逸脱することもない。そして競走馬として燦然とした結果を残す。正しく破天荒なのだ。

野球で言えば巨人ではなく、その真逆ともいえるチームの渇望を気づかせる。かつて三原監督の下に集まった、稲尾・中西・豊田をはじめとする猛者たちの西鉄ライオンズの再来再生への期待だ。「サムライ ジャパン」の規格内優等生のサムライではない。志村喬や三船敏郎たちのサムライだ。

因みに、あの清原和博氏の解説は、高ぶることなく、おもねることもなく、体験から編み出された味のある言葉にもかかわらず出番が少ないのはなぜなのだろう? 高校同期の桑田真澄氏との好対照。

「オルフェーブル」は人間の所為ではない。天意である。

天意は神聖な宇宙調和にあると信ずれば、人間の越境、傲慢の証しとも言える。だからこそ様々な領域、世界の「オルフェーブル」を抑圧し、破壊していることを直覚する人々に、彼オルフェーブルは言葉ではなく身体を賭して示すからなおのこと熱狂を引き出す。

話題に事欠かない[高級]官僚の登竜門試験への、その前提とも言われ年収2000万円以上の家庭の子
どもが50%を超えると言われる東京大学主に[主に文Ⅰ:()学部]への、合格技術(マニュアル)化の弊害の指摘が出され、久しい時間が経つにもかかわらず、体制内権威の権化化の昨今。そしてそれへの高い貢献を善しとする学校教育世界、それに充足を感ずる教師群、また日々の論調では「受験」批判を展開しながら、そのマスコミが東京大学を頂点とした高校に始まる進学・進路評価、その生きる姿勢の欺瞞とおぞましさ。

文句があるならそこに入って言え、で言えば、私は何も言えないが、内部者の告発や良心ゆえの葛藤発言が、どれほどの正統性をもって世に知らされているだろうか。否、それをすればその人の人生はそこで終わるとさえ言われる現実。

何も官僚や東大生を一律に批判しているのではない。

東京放浪時代出会い、親交を結んだ長崎離島出身の夭折した数学者や小学校で出会いその後全く違う人生を歩みながらも親交が続く中国人など、身辺に親族以外にも東大卒業生はいる。もっとも、或る時に職場を共にした私の価値観からすれば唾棄すべき輩もいるが。

医療の高度化と長寿化での人が生きることの問題は今おくとして、とにかく平均寿命80歳の時代にもかかわらず、時に12歳、遅くとも!?18歳で勝利者となったような途方もない錯覚を、そう思わないことを非・現代人としてせせら笑う不思議な人間、非・人間が、いかに増えているかを言っているのだ。

私には残念ながら(否、幸いにも!?)、天は微塵も「オルフェーブル」を授けなかったが、ますます閉塞化し、悪しき保守政治家統制下に入りつつある教育世界に居た一人として、「オルフェーブル」の発掘と育成は急務ではないか、と学校も塾も「個性伸長」の(のぼり)、錦の御旗という画一化!よろしくはためかす白々しい今、なおのこと思う。
もっとも、そのためには池江調教師や池添騎手のような気概と資質、そして試行錯誤切磋琢磨する謙虚さを持った教師との出会いが必要だが。

すべてが「オルフェーブル」に、を言っているのではない。イチローと同じ努力をすれば、第2第3のイチローになれるとの言葉が、いかに荒唐無稽であるかのように。

そこが人道と違う天意の厳しさだ。

だからこそ、末の末の現場で献身する人が在ってこその成果と言う、例えば企業に係る正当な社会評価にヒューマニズム(ここで言う、ヒューマニズム・人間主義とは、人間がゆえの利己、独善ではなく、あたたかさぬくもりの意味である)が活かされるのではないか。

それであってこそ、真っ当な学校教育世界があり、競争世界があり、「生きる力」を持っての人生への期待と不安があるのではないかと思う。

2013年12月19日

ドキュメンタリー映画 「福島に生きる:除染と復興の物語」を観て

井嶋 悠

「福島に生きる:除染と復興の物語」

http://youtu.be/ME9dIRuMkuY[英語版]

http://youtu.be/8NXtnzSZVaY[日本語版]

この40分のドキュメンタリー映画は、環境省からの依頼で、国連大学が制作した作品である。

私がこの作品に接し得たのは、本センター制作の、韓国の高校用検定日本語教科書映像教材での、スタッフの一人である、今福 薫(いまふく かおる)氏が、監督・編集として携わり、紹介、案内を受けたからである。

その今福氏は、東京にある私立明星(みょうじょう)学園高校を卒業後、ニューヨークで映像制作を学び、現在東京を拠点に、映像制作を展開している、30代の若手「Filmmaker」(この呼称は、本人の表現による)である。

[注:韓国の高校用検定日本語教科書映像教材については、本センターホームページの[活動報告]を参照

私立明星学園は、大正時代の自由主義構想から誕生した小中高12年一貫校で、国語教育と日本語教育に係る教材制作等、大きな実績と伝統を持っている。]

 

以下、それを観ての私の感想である。

2011年3月11日の「東北地方太平洋沖大地震」によって引き起こされた「福島原発事故」は、日本の、また世界の一人一人に、途方もなく多様な問題を提示し、今日に到っている。

その中にあって、原発のある福島県の人々の復興に向けた、除染と生活再建への誠心誠意が、その人々の、激することなく、時に『日本人の微笑』(ラフカディオ ハーン〔小泉 八雲〕)を映し出しながら、淡々と復興の現在を追い、描かれているのがこの作品である。

そこには、監督と編集を担った私の知る今福氏の温厚さと篤実さが滲み出ている。

しかし、観ながら、私は、自身の中で持ち得た2年9か月前の意識が風化し始めていることに、そして確かに地震発生地は「東北」であり、原発基地は「福島」であるが、そこにだけ眼を遣る自身に後退してしまっていることに気づかされる。因みに私事を言えば、それは亡き娘が最も忌避したく思っていたことでもある。

復興に、再建に、廃棄物処理場確保に、私たちの税金が投入されることに、また国内外からの多大な支援金が活かされることに、異論を唱える人はいないと思うが、今、はたしてどうだろうか。

自身政治家や官僚、公務員更にはそれを支える学者、はたまた財界大企業の人達は、私たちと同じ国民であることを忘れたかのように、概念的言葉を弄して福祉の、また復興財源のために増税を言い、公共事業投資が全国津々浦々で始まり(私の居住地では、なぜこの道路補修が必要なのか分からないところも多く)、あれもこれもの予算取り合戦が行われ、世界各地への無償投与等も大国矜持そのままの大盤ふるまい、そして首相直々外交とやらで、世界各地に原発建設請負行脚が税金で行われているここ1年の日本の政治に、どれほどの国民が納得しているというのだろうか。
にもかかわらず内閣高支持率の報道は、一体なぜなのだろうか。調査の恣意性を疑ってしまう。

東京電力社長が、県知事を前に、しかもテレビニュース取材の場で言い放った「私も経営者ですから(利益追求を考えなくてはいけません)」のおぞましい感覚が、すべてを象徴していると思うのは、私の偏った意固地に過ぎないのだろうか。

福島の、また宮城、岩手をはじめとする東北の、北関東の、千葉や神奈川の関東圏の人々の思いを共有する「想像力」を、日本に住む一人一人全員が、もう一度喚起させなくてはと自問する。
と同時に、除染と復興を最優先する政治が当然とする姿勢を明確にし、同時に、「文明」を再考することが求められている、そんな危機感を持つことの大切さ、必要不可欠を思う。

そもそも、これって、日本が模倣も含め憧憬し、その影響大の西洋世界が一世紀前に自省したことではないか。

今秋、たまたま見たテレビニュースで、カメラに向かって女子高校生が言った「同情の眼で見るのはやめてほしい。」の毅然とした爽やかさが忘れられない。
「同情ほど愛情より遠いものはない」と言われるではないか。

2013年12月17日

極私・的・教育小史 ①[まえがき・ 帰国子女教育或いは国際(理解)教育 その1]

井嶋 悠

まえがき

東京から北へ160キロほど行った、自然と温泉溢れる深閑のこの地に来て6年が経つ。

主産業は農業、酪農業、牧畜業、林業そして観光業で、車なしの生活は不可能な田園地、(ひな)の地であるが、商業施設、医療施設等々生活環境豊富な地方都市である。

本籍地京都の私が、1945年(昭和20年)長崎原爆の2週間後、敗戦後8日、長崎で生まれ、その後、松江・京都・東京・西宮・宝塚と転々として来たとは言え、思えば遠くへ来たもんだの感慨はある。

なぜここに? すべては、江戸っ子カアチャンの迅速な決断力と行動力の賜物である。

私が、小人、公に窮す、にあって定年1年前59歳にして中高校教師職を、さすが江戸っ子!?奥方も潔く同意し、辞した前後である。

もっとも、娘の苦闘時初期もあって、その後、私は関西に3年ほど居続けはしたが。

そして今、花壇と菜園に傾注しながら、[日韓・アジア教育文化センター]に腐心する日々。

棄てる人あれば救い出す人あり、心優しい日韓中の人々との出会いと支え。

量より質の体感。

天の過分な心遣い、厚遇。

同世代会えば病談義の咲き始め、の今日この頃、来し方、とりわけ自照自省の核心・学校世界を顧みる体験からの言葉[抽出]は、学者やマスコミ人の言葉とはまた違った説得力を持つのでは、と幽かに期してのこのブログである。いわんや沈思黙考に適地のこの地にあって。
不定期ながら極・私的に書き連らねる、直接体験から私の心に、良きにつけ悪しきにつけ、深く刻み込まれた教育テーマは、次の項目である。

国語教育と日本語教育・(海外)帰国子女教育・外国人子女教育・国際(理解)教育(順不同)

帰国子女教育或いは国際(理解)教育と私

その1

「きたない・くさい」

この地に来て4年目、10年来の腰痛治癒で手術を受けた。傷病名は重度「脊椎管狭窄症」。

当医師の手術後の言葉を援用すれば「神経がぐじゃぐじゃに絡まっていたので、下に流れるようにした。」
因みに、この医師は、言葉から明らかに東京人で、或る入院患者によれば、若いとき音楽の道か医学の道か迷ったとのことで、今はジャズピアノに陶酔している男性で、土地人・非土地人関係なく異口同音に言うように人格豊かな心技名医であると思う。人生史を聞きたくなる刺激を誘う一人であった。

その入院中に、土地の男性から聞いた言葉。

それが「きたない・くさい」。

発するのは首都圏から移住してきた家庭の小学生、発せられるのは同じ小学校に通う土地っ子。

まえがきに書いたようにこの地の魅力は、首都圏リタイア組の憧憬地でもあるのだが、最近は小学生の子を持つ保護者の移住も増えているそうだ。(尚、この地の職種現状から、その保護者の職種の多くは、自営業、自由業か、とも思うが、どうなのだろう?)

「きたない・くさい」

そして、先生も、言っている子どもの保護者もそれをとがめないとのこと。

なぜ?

あきらめ?

地方と都市の格差。

その都市での、12歳人生進路決定観を当然とし、そこにまつわる不可解なほどまでの私学指向、そして入学者の半数以上が、ここ10年来常に年収2000万円以上家庭と言われる“天下の”T大学、それらについて疑問を挟むことを疑問とする現代の常識。
否、首都圏内、東京都内ですらある貧困家庭と子どもたち。
そして併行してあるモノ世界に溺死寸前の日本と私たち。
それらを土壌に生み出され、文化人!?知識人!?気取りの、軽薄そのままのマスコミ人や芸(能)人、それも若い男女が増殖する、罪悪感なき差別意識

土門 拳がとらえた、昭和初期の冬の東北の子どもたちの貧しさと哀しみの一枚の写真を、貧困地に生まれた青年将校たちの怒りを思い起こすのは、あまりに非現代的なのだろうか。

帰国子女教育は、日本を映し出す鏡と言われ、半世紀近くになる。

海外在留の背景、期間等々の多様化で、私が初めて帰国子女教育に出会い、啓発教化された1970年代後半とは大きく様変わりしているように思うこともある今、どうなのだろうか。

「きたない・くさい」と、根っこは同じ心を発していることはないのだろうか。日本国内動向、世相に照準を合わせた塾産業の隆盛と過酷な塾間競争は激化の一途とも言われている中。

良識と良心を備えていた帰国生徒の中で、二人の帰国生徒の話を思い出し引用する。

一つは、1980年代にアメリカに滞留し、現地校に在籍した女子高校生の話。

「母親たちの、アメリカまで来て、アジア人とは付き合いたくはないわねえ、との会話を聞いた時の私の動揺。」

もう一つは、1990年代、アジア南部に滞留し、インターナショナルスクールに在籍した男子高校生の話。

「貧しい人々の居住地を車で通りかかったときの居心地の悪さ。哀しみを共有できない自身の苛立ち。」

※思えば二人とも、人の話を物静かに聞く、日本の教科学力は恐らく全国平均中くらい前後だったように、だからこそ私の心に深く刻み込まれ、懐かしく思い起こされ
ている生徒なのかもしれない。

国際理解という言葉の持つ、理[理屈・言葉]で解する、に留まらざるを得ないことの苦み、痛み・・・。

それとも、これは極私的私の限界であって、もう20年以上も前に聞いた、若い日本人シスターが、アフリカの奥地を、窓ガラスのない4輪駆動車で駆けずりまわっている姿は、心は、今も脈々と受け継がれているのだろうか。

2013年12月10日

祖母直伝の我が家のクリスマス ―ドイツの伝統を京都で受け継いで―

翡翠

私たちのクリスマスは、11月の第4日曜日(アドヴェント)から家族四世代全員で手分けして準備を始めます。

ドレスデン出身の祖母のやり方をしっかり受け継ぎ、ツリーは銀色に統一された幾つものオーナメントで飾ります。
一見地味なようですが、落ち着きのあるしっとりとした趣があり、私たちはそれを大切にしています。

台所では孫娘も交えてお菓子作りを一日掛けてします。
「やっと活躍の時が来た!」とオーブンがお菓子を香ばしく焼き上げてゆき、家中に香ばしいスパイスの香が漂い、まさにクリスマスは五感全てが心地良い感動に目ざめる時だと実感します。

イブまで毎日子ども達は、アドヴェントカレンダーの窓を一つずつ開け、中のチョコレートを味わってクリスマスを心待ちにします。
日曜日毎に、夜は明かりを落とし、幾つものローソクを部屋に置き、心静かにドイツの伝統的なクリスマスソングを聴きます。

クリスマス当日は、皆様がされているようにローストチキンを味わい、四世代全員で一年に感謝し、来る年の幸いを祈ります。
子ども達はプレゼントに眼を輝かせます。

今、ドイツではまさにクリスマス・マーケットが出て、夜の寒さにはグリューワイン〈ホットワイン〉で暖を取り、楽しい語らいが繰り広げられていることでしょう。

     皆様も良いクリスマスを、そして幸い深い新しい年をお迎えください。

 

 [注・参考](井嶋)
ドイツの宗教 [「Wikipedia」より]
 REMID(ドイツ)の2006年の統計によると、キリスト教徒 (68%) のうち、プロテスタント (32.7%) 、
カトリック (31.4%) で、イスラム教 (4.0%) 、ユダヤ教 (0.25%) 、無宗教もしくは無神論 (29.6%) 等
となっている。
2007年現在、ドイツの全人口の30,2%、24,832千人がドイツ福音主義教会(EKD)の教会員である。
ドイツ福音主義教会には22の州教会が加盟しており、常議員会議長がドイツ福音主義教会(EKD)を代
表する。

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[一言、井嶋からの蛇足]

キリスト教信仰者でなくとも、クリスマス:イエス・キリスト生誕を祝い、讃える音楽クリスマスキャロルに心魅かれる人は多いです。

そのとき、アメリカ発の、例えばジングルベルとか赤鼻のトナカイといった曲は、どうもねえ、と思っている人も多いのではないでしょうか。もっとも、ビング・
クロスビーのホワイトクリスマスは別だけど、と言う人も。
伝統の長短の違いでしょうか。

私もその一人なのですが、例外はマヘリア・ジャクソンが歌う聖歌です。これはアメリカならでは伝統でしょうか。

やはり、ヨーロッパの、それもクラシック系のそれは、正に聖夜に包み込まれ、にもかかわらず何で戦争は絶えない、などと思ったりする時間を与えてくれます。

中でも私の場合、イギリスの古いクリスマスキャロルで讃美歌でもある、「The First Noel」は、東京を彷徨っていた20代の時に新宿の雑踏の中で聞いた衝撃は今も体に残っています。ただ、あの衝撃を忘れずに、と思いつつも、ついつい日々に流されて自堕落な40年余りを過ごして来ていますが。

南半球では夏ですが、心揺さぶられる根っこは同じです。

ドイツ系京女[翡翠]さんの文章に接し、ヨーロッパの誇りが醸し出す静謐な世界を感じています。少々ヨーロッパを買いかぶりでしょうか・・・。

益々喧騒、言ったものが勝ちの喧々囂々(けんけんごうごう)日本に、うとましさを思う私の偏った感想でした。

 

2013年12月8日

亡き娘が敬愛した三人の日本人男性―元中高校教師であり父親である私が教えられたこと― [Ⅱ] 彼女が語る響きと人と言葉と知識と現代

井嶋 悠

親馬鹿と何と言われようと、彼女が語るとき、そこに邪気、衒い(てら)がないのだ。
それは、父と娘の会話だからとは言い切れない彼女の、幼少時の他人を一切疑わない心根を10代20代とそのまま持ち続けていた透明さが、当然のこととして自然にそうさせているように思える。
因みに、彼女のその心性が、心身労苦の7年間[10年間]につながった背景のようにも思えてならない。

彼女が語るその表現には、例えば大学入試でのAO入試突破に係る「小論文」にある、皮相な似非感覚だけの知識(用語)のひけらかしに陶酔し、あたかも自身が書いたように振る舞う高校生とその指導を勲章とする教師群への、更には「知識人」への、
そして現代日本社会の、結果がすべて指向や効率主義への、痛烈な批判が込められている、と私は、彼女の生前でのやり取りから思っている。

しかし、“優秀な”高校生は、そんな彼女を、その若者に共感する私をせせら笑うのであろう。
長寿化の今にあっても、なぜか18歳が(否、12歳が!)人生の決着時かのごとき世相の敗残者として。

私は「知識人」「有識者」という言葉の響きに、衒い、衒学嗜好そして優越意識を直覚する。

人々・読者に広く受け入れられている高名な作家や研究者の随筆(エッセー)で何度も接した、他者の引用なしに自身の、社会への憤怒を、関心を語ると言いながら、その実、古今東西の歴史上人物からの数限りない引用。それを読んだ時の後悔と自己へと併せての嫌悪。
否、これは私のひねくれ、狭小さで、そういう人たちは古今東西の書に造詣深いがゆえに、自身の言葉が言えない歯がゆさ、苛立ちからやむを得ず引用している良心の顕われなのか、と思いつつも。

とすれば、私など言える場はない・・・。怖いもの知らず、無知の開き直り・・・。ごまめの歯ぎしり。

研究者(多くは大学教師)を中心に、しばしば発せられる若者の無知への懸念。教養の無さへの悲憤。
無知を、無教養を是認しているのではない。
そこにある、知識観に、言葉観に、自己絶対観に、また現代をあたかも戦前の旧制高校時代と同じ感覚でとらえ、不遜に学力低下を慨嘆し、超人的なほどに生徒・学生にあれもこれも要求する狭小で権威的姿勢を教育者の正義かのように信じ、自省など及びもしない、そんな人間性が、私の想像枠ではあまりに彼方過ぎて、理解[合理]以前のことで、皮膚と生理が拒否してしまっているのである。

そんな私は、だからビートルズの名曲Let it beでは、聖母マリアの言葉は、知識ではなく智恵[wisdom]と歌われているのではないか、更にはジョン レノンはだから「Imagine」を作詞作曲したのではないか、と独り口ごもっている。
しかし、かの知識人たちにとっては、私は理知が欠如した大人(非・合理の人間⇒非・現代人)であり、それが教師であることが信じられない、若者はそういった無知な大人の被害者である、と先の慨嘆は、憐憫と同情に変わるのだろう。

娘は、天上からこの私的悲憤慷慨をどう見ているだろうか。

きっとあの人懐っこい笑みを湛え、そばに降り立ち、「おとん」(彼女は私をいつもそう呼んでいた)と優しく語り掛けてくれていると信じているが。

再会での確認事項が更に一つ増えた。楽しみだ。
【補足】

「知識人」の違和感と関連して、流布している「教養人」「文化人」が良いとも思えない。
「教養」の音が持つ柔らかな響きに、ふと好ましさを感じたりもするが、内実の持つ“上流意識”感は、鼻持ちならないし、「文化」は語義的に好ましいようにも思うが、
あまりに到るところで使われ過ぎて、語義も多様な上、疲弊感も漂い、且つまた「ブ・ン・カ」の響きが、妙に軽やか過ぎて・・・。

一層のこと、「趣味人」なんて良いのではないかと、先日、戦後の偉大な政治思想家と言われている、丸山真男の『「である」ことと「する」こと』を再読していて、氏が言う「to be」(to doではなく)こそ、江戸時代を溺愛し、江戸時代の「若」と会えることを夢に創作を続けた、漫画家であり、時代考証家であり、エッセイストであった私が敬愛する杉浦日向子の魅力ではないかと思え、今のところそれで得心している。

因みに、杉浦日向子は、2005年、46歳で、下咽頭癌で逝去した。彼女の書の略歴に次のように書かれてある。

[最後まで前向きで明るく、人生を愉しむ姿勢は変わらなかった。]と。

偉大な「Let it be」の実践者。

私もまだ間に合う・・・。

2013年12月4日

ホームページ更新で心新たに過ること―更新作業を担ったデザイナーからの思い―

山田 健三
(デザイナー・写真家)

はじめに山田 健三さんの紹介】(井嶋)

人と人の出会いの不思議さは、古今東西すべての人が経験し、ある人はそこに天上の神の操り糸を思い描いたりします。そんなとき、不謹慎な私は、神一人では負担         過剰ゆえ効率良くするためには、合理的抽出(抽象)が必要になるだろうが、八百万の神の国日本の場合、八百万集団体制なので具体的対応が可能となり、だから日本人は西洋人とは違って、具体的思考型と言われるようになったのでは、と思ったりします。
閑話休題。

現在30代前半の彼との出会いは、本文にもありますように7年ほど前です。
導きは、私が千里国際学園(大阪)という日本で初めてのインターナショナルスクールとの協働私立学校に勤務していた時、そのインター校に在籍していた日英ダブルの男子生徒です。
この彼は卒業後、ニューヨークの大学で映画を学ぶのですが、そこにいた日本人の一人が、現在「日韓・アジア教育文化センター」の映像責任者を担ってくれている、北海道出身の映像作家逢坂 芳郎さんで、山田さんはその逢坂さんと帯広の高校の同窓生にして同じバスケットボール部だった、という大阪―ニューヨーク―北海道―東京を結ぶ糸のつながりです。

そして、山田さんはアメリカではなくイギリスで研鑽し、東京を拠点に日々精励しています。

 

【本文】
デザイナーとして働きはじめて早十年以上、様々な仕事をしてきて思った事は『物事を大切にする』ということです。
小さい頃から父や母、先生等から言われたそれと同じことではありますが、例えば自分がデザインしたチラシ・CDジャケット・ポスター等作り終った時点で、それに取り組む過程や結果、売れようが売れなかろうがその全体を物事ととらえ、必然性や偶発性等の事も含め大切にしなくてはいけないと言う事です。
たとえそれが人一人の会話であっても『その会話があった』という物事が、その後どのように発展していくかもしれないからです。
『人との出会い』『故人への尊敬』『自分の考え方』『人からのアドバイス』等も『物事』というアプローチであり、それをどのようにしていくかで様々なカタチに変化・拡大・膨張していくので、それを大切にしていきたいと思っています。
七年程前に友人(この人が先の逢坂さん―井嶋、注―)のデザインの手伝い〈ヘルプ〉をしたのがきっかけで、『日韓アジア教育文化センター』と関わりを持ちました。
日本と韓国の教育と言う分野において私のようなデザイナーがなんら接点もないのですが、映像による教育の再発見などもあり今現在も関わっていて、今回も更新作業を担いました。
このように関わるのは、デザインという仕事以外において、自分の必要性があるのからかもれません。
自分の意見が、自分の年の倍以上もある人達と出会い、共感や驚きをいただき、仕事としても頼られるということはデザイナーという職業においても、一人間としても、冥利に尽きます。
これからも『物事を大切にする』こと、そのことを心に銘じ、人々との出会いや仕事において取り組んで生きたいと思っています。
この改訂と言う新たな機会に、『日韓アジア教育文化センター』での私の『物事』からのデザインを紹介させていただきます。
そして、私が大切にしている『物事』が、どのように反映しているか、お便りをいただければ途方もない喜びです。

●日韓アジア教育文化センターホームページ
[URL]http://www.jk-asia.net/

●ドキュメンタリー映画『東アジアからの青い漣』チラシ

●2009年フォーラム『東アジアの若者たちからメッセージ』プログラム

●2009年フォーラム『東アジアの若者たちからメッセージ』チラシ

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2013年12月3日

亡き娘が敬愛した三人の日本人男性―元中高校教師であり父親である私が教えられたこと― [Ⅰ]敬愛した三人と私への感化

井嶋 悠

私の娘が、2012年(昨年)4月、7年間(源流までさかのぼれば中学2年からの10年間)の心身悪戦苦闘の末、23歳で「憂き世」を去ったことは、このブログに少し前、教師の傲慢と娘の死の経緯を書いたので省略するが、

根なし草人生を歩んでいながらも、高校時代の恩師やその後の幾人かの人々の厚情に恵まれ、20代後半になって正職(それもあろうことか教職!しかも名門女子中高校!)に就いた私。

そんな引け目もあって、奇妙な屁理屈による感覚的肉体派(要は女子サッカー部顧問等)国語科教師を、一部知性派!?同僚からの蔑みを感じつつも、自認居直り?し職務に励んではいた。

そこには、私を認めてくれる教職員、生徒、保護者があってのことなのだが、やはり負い目は払拭しがたく、一時期専門書購入に励み“積ん読”に勤しんでいた。

その後も、言葉、体よく言えば波瀾万丈の私だったから、心留めてくださる人々の言葉は、より染み入ることが多く(にもかかわらず、その時々で感謝の言葉が言えない自分がいて)、中でも44歳の時に授かった長女、彼女が17歳(さかのぼれば14歳)からの苦闘時代に入ってからはなおのこと、実に多くのことを教えられた。

と、娘亡き後2年目の12月、経過が時に感傷を誘引することもあるが、その時間を振り返っている。

その一つが、彼女が敬愛した三人の日本人男性、昭和天皇・石原 莞爾・三島 由紀夫についてであり、それを介しての私の自照自省である。

そこには、三人を通しての現代日本への彼女の警世の念が強くあってのことで、
太平洋戦争を経た昭和天皇の実在が、象徴としての天皇についてこの混濁した現代日本にいかに重い意味を持つか、とか、

石原莞爾の『世界最終戦論』に見る彼の慧眼とか、

三島由紀夫の1970年の自決を今考える意義とかである。

彼女は自身の勉強未だ途上の恥じらいから、それらについて私にぼそぼそと断続的に語るのである。

それを、例えばプレゼンテーションでのアメリカ式が全盛にして最善とされる現代日本にあって、心身ついて行けない私は、心静かに聞き、含羞という美しい言葉をふと思い出したりする。

古来、表現について、数学用語を使って「帰納型」と「演繹型」が国語科教育で教えられ、今日圧倒的に演繹型が賞讃喧伝される傾向にある。

しかし、何事も一長一短、相対的、使う個人の性向に合わせてこそ表現は生きて伝わる、と思うのは、現代日本周回遅れの生き方(=非・現代人)なのだろうか。

(私が触れた専門家の言説によれば、演繹型はアメリカ系で、帰納型は日本系、イギリス系とのこと。私の職場経験からは、この指摘に得心している。)

その私を娘が相手にしたのは、心身悪戦苦闘から、外との交流を時に恐怖し、時に偏執的になっていたこともあり、直接に語り合える同世代、同志がいなかったからなのだが、
無知がゆえに興味深く聴く私の反応が、母親の無関心無反応と違って、伝え教えることで知的好奇心を一層刺激したのかもしれない。

生徒あっての教師であり、生徒が教師を育てる、である。

 

このへん、先の彼女の父母への対応と合わせて、学校教育(それも12歳前後から18歳前後までの中等学校教育)での、父性と母性の、その両性についてはとりあえず西洋のそれに準じている、在りようともつながっているように思えるが、どうであろうか。

このことは、私の経験から言えば、日本の中等教育段階では母性と男性教員の母性化が、その善悪は今措いて、主流のように思えるし、高校卒業後での彼ら/彼女らの違和感に、そのことも関係しているのでは、と思ったりする。
と言うのも、少なくとも高校卒業後は、どのような進路であれ父性重視が世間で、衆知一致しているのが現実ではないかと思うからである。

余生の時間はあまりない(と思う)が、確認したいとも思う。

彼女が、三人を語るとき、そこには日本文化独善発想はない
語り方同様、謙虚なのだ。「日韓・アジア教育文化センター」の良き理解者であり協働者だから当然とはいえ、旧態然とした右翼、左翼の概念的区分けなどないのだ。白紙から出発している。
そこにも教師の独善、思い込み、概念性への憤り、経験からの彼女の警鐘があるように思える。

それが言える一つとして、彼女の死に際して韓国の、中国の、彼女を知る大人(日本語教師)が自然体で示された濃やかな情の発露、更にはわざわざ日本に弔いに来られたという事実がある。

私は彼女に導かれて、

『畏るべき昭和天皇』という松本健一氏(氏と娘は、私の小学校時代からの友人の仲介で、一度、都内で面会した。その時の、彼女の極度の緊張と松本氏の柔和な微笑みと口調の時空は、春の陽光そのものであった。)の著書に感動し、

東京裁判関連での石原莞爾の毅然とした態度や、辞世の歌で、己が責任を語ることなく、西方浄土に行ける喜びを歌う権力志向権威主義者を象徴するかのような独善、無責任者東条英機への侮蔑に、男気とでも言える爽快さを思い、

当時市ヶ谷駐屯地で、三島由紀夫の檄を聞いていた若い自衛官が定年を迎え、彼の言葉に一筋の真実を直覚する言説に触れ、

元ノンポリ全共闘共感者(シンパ)の一人であったボウフラ的私を思い起こし、その後の、或いは現在の人生をなぞったりするのである。

ところで、強い後悔で心に沈んでいることがある。

東京裁判で東条英機らと同じA級戦犯となった、広田弘毅と松井岩根の二人について彼女が話した時、彼女は遠くを見つめ、静かに「凄い人だった」と言っただけであった。
何が、どうしてなど聞けない空気がそこにあった。しかし、それは生徒としては言い訳に過ぎない。

彼女は、人と言葉のことに思い及ぼしていたのかもしれない。後に、唐木順三の『自殺について』を読み、確信的にそう思う。

再会で聞きたい重要事項の一つである。

それらの時間と併行し、私たち夫婦が暗黙のうちに最悪を意識し始めるほどに、彼女の心身は摩滅していたのであるが、彼女の語りに、翳りとか暗さがあったわけではない。

例えば、映画『太陽』(アレクサンドル ソクーロフ監督・2005年の、ロシア、イタリア、フランス、スイス合作。アメリカと日本の名前がないことに邪推を働かせてしまう。昭和天皇を演じたのはイッセー尾形氏である。)の、1シーン、昭和天皇とハーシーチョコレートの場面を、

石原莞爾がドイツ研鑽中、ライカカメラで美女を中心に写真撮影に陶酔していたことや指揮者小沢征爾氏の名・征爾の由来を、

に異常な恐怖的反応をしていた三島由紀のことを、映画『憂国』(1965年三島由紀夫制作、監督、脚本、主演)を私が以前見ていて自分が未だ見ていない残念さを、

彼女は、実に活き活きと心の躍動そのままの愉快な響きで語るのだった。