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2019年4月26日

日韓の“溝”を考える―日本語教師・韓国語教師の声が持つ意味―

井嶋 悠

どんな領域にあっても研究と現場があり、そこに身を置く人がいるが、時に両領域に関わりを持つ人も少なからずいる。
例えば、私が身を置いた中等教育私立学校国語科教育でもそうである。研究に軸足を置く人、教育に軸足を置く人。と言う私は態よく言えば後者、と言うか後者しか考えられなかった一人で、だから(と言うことにしておく)前者の教師たちからは蔑まれることも多々あった。しかし、私はその人たちを疑問視していた。端的な例を挙げる。

「教育原理」とか「国語科教育法」といった大学での講義は、教職資格(免許)への必修科目であるが、実際教師になって、そこで講義をしていた人たちがどれだけ実践し得るか、甚だ疑問であることを何度思ったことだろう。いわんや、学校と一口に言っても多種多様である。公立もあり私立もあり、且つ、授業前に生徒が教師におしぼりを用意する学校もあれば、授業をする教師など在って無きがごとき学校もあるのだから。

 

日韓[韓日]の溝を報ずる記事が日常化している。中には、国交断絶を物申す活字もある。それも「有識者」と言われる人たちの手になるものである。日韓双方において。
別に今に始まったことではないのだから、その内“知恵者”が落としどころに収め、次代に委ねようということになるのだろうが、それを受け取る方こそとんだ迷惑な話である。日本で言えば、自身の生活保障、老後等々福祉での不安材料いっぱいでそこまで考えられん!と苛立つ若者が多くてもおかしくない。
ましてや、最近政治離れは加速し、“優しい”青年たちが増え、権力者たちはほくそ笑んでいるのだから怖ろしい話である。

2千数百年にわたる交友、そして軋轢も経て来た一衣帯水の隣国同士なのだから、他にない人間的叡智があって然るべきではないか。否、隣人を愛することは遠地の人を愛することより難しい、ということの具体例なのだろうか。

この問題、当時の中国やロシアの南下侵略政策、また欧米列強と日本の世界情勢を教えられて来たが、しかし私の中で、私の母国が、1910年の日韓併合から36年間、韓国[朝鮮半島]を植民地支配(言い方を換えれば、韓国・朝鮮文化の破壊と自文化の強制)したという事実(とげ)がどうしても離れない。
植民地支配の事実を認めても、善政もあったとの発言は何度も発せられているが、発した・ている人たちはどれほどに自身の事として引き入れているのだろうか。
このことは、私の最初の勤務校がプロテスタントのミッションスクールで、校是の「愛神愛隣」が常に説かれ、その「愛隣」は「愛神」と同じく聖書の一節「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」で、それを自覚させられることが多かったからなおのこと、自省度が強まる。

 

私たち『日韓・アジア教育文化センター』主催での国際会議実施に際して、この近現代史の問題は常にあり、日韓相互でセンターの主点が「日本語教育・国語教育」であることを理由に、避けて通って来たことは否めない。例えば、こんなことがあった。

日本側の或る委員から、「近世通信使」をテーマにできないかとの提案があった。賛意は得られたのだが、韓国・慶州で既にそれをテーマにした横断幕が公道に掲げられていた。
韓国は、少なくとも私たちより先に深謀遠慮を働かせていたのである。

1945年から20年後の1965年、『日韓基本条約[日韓条約]』が、両国によって調印された。
今、日韓で溝が、広がり深まって来ている最大の課題が、この条約へのとらえ方で、日本は「完全かつ最終的にして、不可逆的な両国間の取り決めである」とし、韓国側は、慰安婦問題、徴用工問題等で、具体的に疑義を唱えて、相互に非難合戦を展開していることは周知である。
しかし、その間でも、日本への、韓国への観光客は多く、韓国での日本語学習者数は約55万人で、内60%強が中等教育の生徒である。
因みに、全体数で言えば、中国が約95万人、インドネシアが約75万人で、韓国は第3位である。

政治が恣意的であってはならないのは自明で、歴史の事実が重要であることは言をまたない。この条約も歴史の事実である。では、一体何が、この問題をこじらせているのか。
その条約の概要を、「高橋 進氏・政治学者・2007年」[『知恵蔵』所収]のまとめを転写する。

――1965年6月に、日本と韓国との間で調印された条約。これにより日本は韓国を朝鮮半島の唯一の合法政府と認め、韓国との間に国交を樹立した。韓国併合条約など、戦前の諸条約の無効も確認した。同条約は15年にわたる交渉の末に調印されたが、調印と批准には両国で反対運動が起きた。両国間交渉の問題点は賠償金であったが、交渉の末、総額8億ドル(無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル)の援助資金と引き換えに、韓国側は請求権を放棄した。――

なぜこの人のまとめを、との異論を唱える人もあるかとは思うが、有識者ではない私にとって、例えば、『朝鮮を知る事典』(平凡社・1986年)「日韓条約」の項での梶村 秀樹氏の説明が、より広角的な説明で視野の広がりを思うが、長くなることもあり上記を引用した。

ただ、傍線をした箇所についての内容、影響等確認はどうしても避けられぬところであろうが、ここではこの条約そのものを論ずるのが目的ではなく、条約成立経緯での両語の背景、根底に在ること、要は「ことばと人」に係ることであり、今日社会で多く報ぜられていることには立ち入らない。

人が文化であり、同時にその文化に生きる。それは永代の人々の中で培われる。このことは国際(グローバル)化に伴っての、日本人の国際結婚とその子どもの誕生等から、日本に新たな試練を与えている。なぜなら彼ら彼女らは二つの文化保持者で、いずれどちらかの国籍を選択するのだから。

その文化は、自国内においても多種多様で、当然人々も多種多様である。そして、人は不図した折に、日頃無意識下に在る自文化について思い入ろうとすることがある。自照自省。
他(異)国・地域の文化・人と接していればなおさらである。入ってみれば自己確認の一つ。
私たち『日韓・アジア教育文化センター』の歴史からすれば、日韓異文化を肌で思うことが多々ある。例えば、Japanese smile と Korean smile の違い。

ここでは、日本の「水明」の文化と韓国の「怨(オン)・恨(ハン)」の文化を確認することで、日韓条約と“溝”に思い及ぼし、私の内を整理してみたい。

私はここ数年来、神社仏閣を訪ねることを愉しみにしている。先月末、上京の機会があり、品川・荏原地域の七福神を4時間余りかけて巡った。現居住地を歩くのと違って視覚変化の人為性がそうさせるのか、4時間余りの歩行はそう苦痛ではなく踏破できた。
(これを日頃都会に生活している人に言うと、自然豊かな中での散策こそではないか、といぶかしがられる。まだまだ人間成熟に達し得ていないのかとも思ったりするが、はてさてどうなのか。)
この参詣は今流行(はやり)の「ご朱印」集めが目的ではない。目的があるようでなく、しかし参ると何か心落ち着き、静態時間わずかながら、自身の事より近親者の貌を浮かべた祈願の心が湧いてくる。これまでにはなかったことである。
行けば先ず手水舎(ちょうずや)で手・口を浄める。(もっとも、人影と併せてそれすらない場所もあるが)その瞬時、身も心も一切が浄められたように思える。己が穢れを、世俗に浸かる己が悪を、一瞬浄める感慨。

この水は、今では水道水が多いのだろうが、本来は石清水、湧水を引いたものであろう。またそうでなければ、霊験さが下がる。そこに直感する自然との一体感。瞬時の永遠の刻(とき)への想い。

かのイザナギの命は、黄泉の国に最愛のイザナミの命を探し求め、女神との約束に逆らい、穢れを見、追われ、地上に出、中洲で禊(みそ)ぎを行い、左目を洗い(そそぎ)生まれたのが天照大命であり、右目から月読の命、鼻から素戔嗚(すさのお)の命であったことは、日本の神話『古事記』に詳しい。
「水に流す」ことで、穢れを、悪を浄めたのである。

しかし、いつの頃からか「水に流す」は、利己的にしか使われなくなった。
天然水が人工水になったからなのか(もっとも、今では飲用は天然水がほとんどとなりつつあるが)。それともあまりにも水に恵まれた日々にあるがために何かに麻痺したからなのだろうか。近代化、或いはあれかこれかではなくあれもこれもの多忙な、気忙しい日々刻々は、自己確認、自省の余裕を持てなくしたからなのだろうか。……。

そんな時、おそらく小学校教諭の言葉ではないかと推察される、「水に流す」に関して、次のような文章に出会った。最近の子どもたちの様子を三つに整理し指摘している。
(1)ずいぶん前にあったトラブルや、集団の中の「力関係」をずっとひきずっている子が多い。
(2)「あの子はああいう子で、自分はこういう子」と決めつけてしまっている子が多い。
(3)なかなか仲間とわかり合おうとしないし、「課題」とも正面から向き合おうとしない。

この筆者は、ではどうすれば良いか、教師自身の課題として三項目[対話・討論の保障、批判的学び・共同学習の指導、教師自身の親や同僚への発信による自己更新の必要]を挙げている。ここでは詳細は措くが、この文中の「子」を「国」(或いは国民)に代えるとどうであろうか。

 

日韓条約締結への過程で、またその後の手紙等での謝罪で、禊ぎの心が相手[韓国]の人々に伝わっていたのだろうか。事実を認め、それを言葉にし、金銭解決ですべては終わるとの合理[実務]が、時に双方で、優先されたのではないか。しかも政治的言語として。
日本は言霊を伝統とする国であり、「以心伝心」「不立文字」の禅思想が、浸透した国である。その上で、相手にどれほどに心を尽くし、言葉[条約事項]を伝え合おうとしたか、私は不安を思わざるを得ない。
かてて加えて、「関東大震災」(1923年)での朝鮮人虐殺が象徴する、日本人の朝鮮人蔑視が、無意識下に潜んでいたのではとの推察は、あまりにも無茶な暴言として一蹴されるのだろうか。

それらが重なり合うことで、気づかぬままにボタンの掛け違い[異文化衝突]があったのではないか。

 

韓国は、被支配側であった。その韓国は「怨(オン)・恨(ハン)」の文化と言われる。私たちはその文化をどれほどに承知しているだろうか。先にも記した「完全かつ最終的にして、不可逆的な両国間の取り決めである」との日本側の言葉に、私だけなのかもしれないが、自信が持てない。
それは、「怨」と「恨」の微妙にして複雑な感性を見るからなのだが、それは言い訳に過ぎないのだろうか。それでもそこに【人とことば】の至難さを思わざるを得ない。
今、漢和辞典[『漢語新辞典』大修館]で両語の字義を確認してみる。

「怨」:①うらむ ②そしる ③わかれる

「恨」:うらむ(不平に思う。怒りにくむ。悲しむ。くやむ。)

この字義が韓国の基本文化である、と言われ韓国人は得心するだろうか。そうだとすれば余りにも一面的に他国・地域文化を捉え過ぎているのではないか。至難さはここにある。文字化された字義と人の心。
先も引用に使用した『朝鮮を知る事典』では、次のように説明されている。

――朝鮮語で、発散できず、内にこもってしこりをなす情緒の状態をさす語。怨恨、痛恨、悔恨などの意味も含まれるが、日常的な言葉としては悲哀とも重なる。挫折した感受性、社会的抑圧により閉ざされ沈殿した情緒がつづくかぎり、恨は持続する。(以下、略)――

上記、1行目から2行目にかけての一文にある「含まれるが」の「が」、「悲哀とも」の「とも」に、得心への至難さが滲み出ている。
高校時代の恩師の導きで、中高校国語科教師に33年間身を置く中で得た、「かなしみ」の三重性「悲しみ」「哀しみ」「愛しみ」の日本語性に通ずることとして。

韓国人が、長い歴史の中で、常に抑圧、支配されて来たことについては、親しい韓国人日本語教師から静かに指摘されたことがある。彼ら彼女らの抵抗意識の源泉でもあるのだろう。韓国でのキリスト教徒の多さをここに求める論調もある。
『韓国文化のルーツ―韓国人の精神世界を語る―』〔国際文化財団(韓国)編 1987年 サイマル出版〕は、韓国の大学で国文学、社会学、歴史学等を専門とする韓国人研究者が、9つの項目で、鼎談(ていだん)形式で語り合っている書である。
その中の第4章「怨」と「恨」には「文化創造のエネルギー」との副題がついていて、3人の国文学者が語り合っている。抵抗意識と同時に、創造のエネルギーを言うのである。
別の親しい韓国人日本語教師から「怨・恨を説明するのは難しい」と聞いたことがあるが、先の専門家の鼎談を読めば韓国人は自ずと得心するのであろう。
しかし、日本人の私には、自身の言葉として消化するにはまだまだ未熟で、概念的理解に留まる危惧を持つ。(もちろんこれは翻訳の問題ではなく、私個人の問題として言っている。)

その上で、鼎談者の発言から考えさせられた幾つかを引用し、それらを通して私自身の中の棘(とげ)が少しでも抜けて行くことを願っている。
以前、大韓民国民団の某民団長から「あなたはいい韓国人に恵まれた」と言われた、その韓国人日本語教師の方々にあらためての深い感謝をもって。

先ず二つの語の特性を次のように言う。[下記《  》部分が引用部分、尚、書は、“です・ます調”であるが、引用に際し“である調”に換えてある。]、

《「恨」は内面化された感情であり、「怨」は外向性の感情である。》
そして、《その「恨」の理解のために、「結ぶ」と「解く」両面から考えなくてはならない。》
尚、この「結ぶ」と「解く」については、《春が解くであり、冬が結ぶ》と具体例を挙げている。
そして、その両極の形として、
《結ぶが感情と情緒の両面においてとりわけ悪化したものが怨恨で、逆に感情と情緒を解いたものが「神明(シンミョン)」または「神風(シンパラム)」である。》この伝統的考え方に立って、現代文学の主流は、
《恨の結ぶと解くは「喪失」と「回復」に置き換えることができ、植民地化での母親喪失意識や祖国喪失意識、南北分断を素材とする作品に現われた故郷喪失意識などである。》
この《絶望的状況に陥った原因が相手にあると信じて恨みを抱く》のだが、
《同時に自分にも責任があるのだと、自己省察に戻る。これは相手を愛するがゆえの感情である。相手を恨みながら、同時に自分を恨むと言う愛と憎悪の感情。恨の感情が複合的なのは、絶望と未練、恨みと愛、この二対の感情が互いに矛盾しながら混在している。》

 

“溝”を埋める方法は、様々な切り口が考えられるが、私の場合、『日韓・アジア教育文化センター』に到る事実とそれ以降の事実から、言葉(日本語)から考えてみた。
その時、研究者の声と併行して、日々、韓国の中等教育・高等教育で生徒学生の声と、また大人として社会と向かい合っている中・高・大韓国人日本語教師の、(とりわけ「知日派」の―この用語は他の用語、親日・克日・嫌日・反日と同様、慎重な使い方が必要であるが、ここでは知日とする)声の重みに思い到る。

このことは、同時に、日本で日本人として韓国語教育と向かい合っている知韓派教師たちにも同じ事が言えるのではないか、と中等教育での第二外国語履修方法、内容、制度また教師資格等日本とは大きく違う上に、日本での中・高・大韓国語教育現状の一端しか知らない私だが、思うのである。

2019年4月19日

桜・観桜

井嶋 悠

我が家にはソメイヨシノとヤマザクラとシダレザクラがある。どれも心ほのぼのする樹で、愛(いと)しい情愛を寄せている。贅沢なことである。
一週間ほど前、ソメイヨシノは7分咲きほどで、後二種は未だ蕾状態であった。ところが三寒四温の一方の極みとでも言おうか、先週10日、昼頃から夕方まで雪が降った。積雪は1㎝ほどだが、桜の花弁と枝に重ね合った。
厚い雲を通して射す薄光を背に、淡い桜色と枝の黒茶色と静かに注ぐ雪。

「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」(紀 友則)の陽射しを、桜の叙情と美と思っていたからなおのこと、初めての感銘を知った。
およそ風流とか風雅とは縁遠い私だが、その打ちひしがれたようにも思え、しかしじっとたたずむ姿に、かな(悲・哀・愛)しみの美が過ぎった。加齢(来月高齢者運転表示のための講習)の為せる美感なのかもしれない。もっとも、この感銘が風流風雅とつながるのかどうか分からないが。

桜は菊と併せて日本の国花で、その桜は今では、中国や韓国、また欧米の世界に広がっている。これも日本発の国際化であろう。そこに関わった自然をこよなく愛おしむ多くの日本人たち。
因みに、他国の国花について、中国は現在検討中で牡丹・梅・菊・蓮・蘭が候補だそうで、台湾は梅、韓国は木(むく)槿(げ)である。
両「中国」で梅が選ばれているのは、古代国際化の奈良時代[青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり(小野 老(おゆ))]の花と言えば梅であったことを思い起こすと歴史の感慨を持つ。

日本は南北約3000㎞の長い列島国で、“桜前線”の北上は1月の沖縄に始まり、5月から6月の北海道へ、と約6か月にもわたって移動する。桜=入学式と言う固定観念の勝手を思う。
遠い昔に何かの機会・時期があって長い歴史を持っていたり、観光施策等で知名度が広がったりして、名所は全国到る所にあり、そのような場所は人の群れでごった返し、観桜繁華街と化す。中でも、高齢化時代を迎え、老人の出掛け率は相当な数に昇る。
近来の特徴と思うのだが、重厚なカメラや三脚を携えた老人[主に男性]が、列を為してと言わんほどに並び、機械音痴の私など、その人たちは、自身の眼で味わうより、レンズを通して美的考察?をしている時間の方がよほど長いのでは、と思ったりする。事後の制作?も含め、趣味を持つことの素晴らしさは思うが、あまり増えて来ると、偏屈な私など意地でも撮るまいと思ったりする。

蛇足ながら、この老人と言う表現、具体的には今日やはり70歳以上かと思う。従って65歳から69歳までは或る種空白のような微妙さを思ったりする。先日「お年寄り夫婦の火災死」との文言報道に接し、私たちと同年齢であることを知り、複雑な思いだった。

そして樹下宴席。これなど、有名地では早朝から席取りで競い、これはこれで他人無用のちょっとした呑み屋街と化す。

【余談】ブルーシートがござ替わりはいただけないと思うのだがどうだろう?江戸時代の版画(浮世絵)にあるような紅い毛氈で、とまでは言わないが。レッドシートなどどうだろう?

今では、桜を味わいたいなら、敢えて知られていない場所、つまり近所の公園等無名の場所、に出かけたり、花屋で満開の枝を買って来て家庭内で雰囲気を醸し出したりするようだ。また、最近「エア花見」飲食店なるものも盛んになっているとのこと。自然を前にしての人為(人工)の時代、現代。

私の観桜“繁華街”体験を2つ記す。
「清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢ふ人 みなうつくしき」は、与謝野 晶子の代表的な歌の一つで、私自身、この“艶”なる漂いに魅かれる一人である。
もうずいぶん昔のことだが、八坂神社から清水への道を歩んだところ、そんな情緒を味わうどころか、人と土産物店や露店等に圧倒された。
同様に、私が小学校前半時代にあっては(後半は東京に転校)、葵祭も祇園祭も時代祭も、時空に余裕があったように思うし、20代になって父親(京都人)の影響から正月料理のために年末に出かけた錦市場も、当時はまだ地域の台所であったように、私の記憶にはある。
これは単に郷愁なのか、現状は国際的観光地の避けて通れない宿命なのか。また、先の歌は与謝野晶子のあくまでも創作[虚構]なのか、或いは時代が進むということはこういうことなのか。
いずれにせよ、何かそこにひっかかるものがある。昔は良かった、ではなく。

福島県三春町の国の天然記念物「三春の滝桜」は、一本のシダレザクラの大樹で有名で、昨年夫婦で訪ねた。自宅から車で2時間ほどのところにある。
桜の大きさはチラシによると、高さ13,5m  幹回り8,1m  枝張り 東へ11m 西へ14m 南へ14、5m 北へ5,5m、の滝の名にふさわしい雄大さで、樹齢1000年以上とされている。
当然、ここも人、人、人で、駐車場からその桜に辿り着くまでに左右に飲食、土産、植木の店が並ぶ。
確かにその誇り高い桜に感動するが、どこか落ち着かない私たちがいて、行った見た帰るといった滞在。
ただ、帰路、近くの人もまばらな公園の横を通った時に見掛けた桜空間が、心に染み入ることに、思わず夫婦で笑みがこぼれた。この笑みは一体なんなのだろう?

私は、吉田兼好が『徒然草』の有名な「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」で始まる137段の、以下の言葉に、私なりの人生、日々の生活から心に過ぎることと重なる。私自身が、兼好の言う「よき人(身分教養のある人)」ぶって「片田舎の人」を蔑(さげす)むのではなく。

[以下、研究者の口語訳を転写する]

――身分教養のある人は、いちずに風流人ぶった態度もなく、またおもしろがる様子も淡泊である。片田舎の人に限って、何事もしつこくもてはやすものなのだ。花見のときは、花のもとに人を押し分け身体をねじるようにして割り込み、よそ見一つせず見守って酒を飲み、連歌をして、そのあげくには大きな枝を考えもなく折り取ってしまう。――

《私注》ここで言う連歌は当時流行していたとのことで、今で言えば「カラオケ」だろうか。
次のような説明に出会った。

――明治に入ると、桜が植えられていた江戸の庭園や大名屋敷は次々と取り壊されて桜も焚き木とされ、江戸時代に改良された多くの品種も絶滅の危機に瀕した。東京・駒込の植木職人・高木孫右衛門はこれを集めて自宅の庭に移植して84の品種を守り、1886年には荒川堤の桜並木造成に協力し、1910年には花見の新名所として定着。(以下略)――

それが一つの起点となって国内国外に広がり今があるとのこと。破壊から新たな創造へ……。
明治の初め、近代化の始動期にあって、桜は焚き木にされたということである。富国強兵、殖産興業を国是として、滅私奉公的愛国による自然を忘れた施策の一つとしてとらえるのは間違いだろうか。
このことは、幕末維新で権力を掌握した新政治家たち、その後の膨張主義志向、そして太平洋戦争での敗北、戦後の諸外国からの援助や朝鮮動乱特需、ベトナム戦争特需等があっての復興にもかかわらず、不遜な自意識過剰の私たちの先人にさえ思い及ぶ。
昭和の二つの大きな転機、1945年と1960年~70年にかけて、に私たちはどれほどに先人の叡智を知り、自省し、先見の明を持ち得ていただろうか。

桜は100~200種もあると言われるが、ソメイヨシノが代表格であろう。そのソメイヨシノ、寿命が60年~100年とのこと。東京・駒込の植木職人・高木孫右衛門の尽力については、先に引用したが、今年は2019年、その新名所定着から109年。東京オリンピック・パラリンピックの来年、110年の節目を迎える。
何かと節目をつける世相、政治に倣うわけではないが、桜の寿命と併行して、日本の寿命を過去と現在と未来から再考すべき時が来ているのではないか。
既に「反近代(化)」の潮流は、近代化の源流であるヨーロッパにあっては、とりわけ第1次世界大戦(1914年~1918年)後、深まりつつあると言うではないか。西洋偏重、尊崇を言うのではない。「対岸の火事」を花火でも見るような自身の無知、無恥、軽薄さを思うのである。

最近、成熟は爛熟となりいずれ腐食する旨の、日本の或る政治家の発言を何かで知った。
「一億総活躍社会」「男女協働社会」の実態と自画自賛の能天気、教育無償化の負の側面への放置、個の教育の実態と嘘。10代から20代の自殺増加への対症療法で良しとする自己満足、賃金格差の偏リ、高齢者福祉での“ビジネス”との用語が平然と使われる非先進性、若者への将来不安を煽り「自己責任」で片づける責任転嫁、毎年繰り返される災害での自然への畏敬を忘れた同情的その場しのぎ、自由を言葉巧みに標榜しながら管理化への拍車、外国の脅威を盾に組まれる膨大な軍備費等々。
にもかかわらず先進国の、経済大国?の、矜持による外交成果の膨大な費用[税金]を使っての、摩訶不思議な誇示そこに見て取れる国民への愚弄、国税の私物化。
確実に腐食に差し掛かっているとしか思えない。近代化は、社会に、人々に幸いをもたらすと信じられて来た。今、果たしてそう言えるだろうか。
やはり「日本の近代化は、西洋社会、中でもイギリス、フランス、ドイツと違って、上からの近代化」との指摘が響いて来る。
「上からの」の途方もない重み、「上」の人々の独善的で偽善的権力性。
もう100年も前に夏目漱石が喝破した「内発的」ではない「外発的」の限界。要は日本の底が、確実に見え始めている。

政治世界での、オレがオレがの、与党の「○○一強」とか、暴言、妄言、はたまた野党の同じ穴の貉(むじな)。その滑稽さがゆえにますます募る虚しさ。この感性で次代を担う若者に何を託そうと言うのだろうか。
このことは、外国人労働者、外国人観光客誘致での、人を人として見ていないとも思える、拝金主義=資本主義の害毒、にも明らかに見出せると言っては過言であろうか。
尚、甚だの蛇足ながら、私は共産主義国家を善しとするほどの安直さはない。

桜の、冬を耐え、あの黒い幹、枝から、可憐な桜色を生みだしている姿をあらためて静かに見つめたい。
個も、国も、そしてその基盤となる教育も、実利を求める効率と「上からの」に身を委ねた画一指向の安心感から、本質的(ラディカル)な自省、脱却が求められているように思えてならない。
それとも、漱石が言ったように「できるだけ神経衰弱に罹(かか)らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。」と感知、認識するのが生きる事の真髄なのだろうか。

 

2019年4月5日

多余的話(2019年3月) 『修学旅行』

井上 邦久

 

言わずと知れた舟木一夫が『高校三年生』に続いて詰襟姿で唄った第二弾です。この曲のヒット・映画化で学園ソング路線が定着しました。ところがそれぞれのB面は『水色の人』『淋しい町』というタイトルからも分かるバラード曲であり、舟木一夫の哀愁を帯びた声の質に合っています。A面とB面では、「光」と「影」、「陽」と「陰」、「青春賛歌」と「青春挽歌」の違いがあります。

このA/B面4曲全ての作詞は丘灯至夫、作曲は遠藤実のコンビです。よく聴くと、A面にも「残り少ない日数を胸に」とか、「二度と帰らぬ思い出乗せて」といった挽歌凬の歌詞を忍び込ませています。

遠藤実は日経新聞「私の履歴書」で、疎開先の新潟での極めて貧しく実に無残な十代の生活を綴っています。また丘灯至夫の長男の西山謹司氏(救心製薬役員)が福島県出身の父親について「幼いころから極めて体が弱く、学校も休みがちで遠足や修学旅行にもほとんど行けなかった。唯一の楽しみが詩作」だったという『作詞家・丘灯至夫の素顔』と題する文章を残しています(日経新聞2017年2月6日朝刊文化欄)蛇足ながら中国関係以外にもスクラップを残しています。
明るい、学園ソングを連発した二人は、貧困と病弱のため自分では実現できなかった青春の疑似体験を凝縮させた歌曲に仕上げ、それを決して幸福とは言い難い(興行師の父、母とされた人は五指に余る)舟木一夫を通して世に出したのではないかと勝手に解釈しています。清らかで明るい歌詞や曲調の学園ソングの中に、どこか淋しい諦念や哀愁を感じてきました。

彼岸時の紹興酒の故郷へ諦念とも哀愁とも無縁な修学旅行に出かけました。長年続く講読会で熱心なご指導を頂いている北基行老師を団長とする、十指に余る学友との旅でした。大阪駅前第2ビル5階の部屋で『燕山夜話』と『史記』を講読している仲間たちの修学旅行でした。

『燕山夜話』は文化大革命の前夜、1961年から「北京晩報」に馬南邨の筆名で連載された随筆です。作者の本名は鄧拓。人民日報社長。文革で四人組からの指弾目標となり死亡。大毒草とされた『燕山夜話』は鄧拓が名誉回復した1979年になってようやく再出版されました。
受講者も増え、1960年代の用語や文体にも慣れてきてからは段落ごとに分担して試訳を報告する講読会スタイルが定着してきました。もう一つのテキストは司馬遷『史記』の「酷吏列伝」、こちらは北老師の中国語発音・解釈を聴き取る古典的な寺子屋式です。
発音や文法のご指導は、北老師の恩師であった坂本一郎教授を通じて旧上海東亜同文書院仕込みの中国の生活に密着したものです。北老師自身の中国体験に基づく社会や人間への洞察を聴かせてもらう贅沢な時間でもあります。

北老師のご縁の深い紹興では、大禹廟・蘭亭・魯迅故居といった歴史的巨人の遺跡巡り。そして郷鎮企業のトラクター修理工場を母体とし、日本との合弁経営を梃子により自動車部品業界の一方の雄となった経営者から三日間に渡り修学する機会がありました。地元密着型の足腰と国際市場への視覚、そして紹興酒は客に飲ませるもので自分はお茶だけという静かな姿勢。敬虔な仏教徒として二十年余り前から寄進を続けているという大寺院で素食(精進料理)を一族の方々とご一緒させてもらいました。時あたかも彼岸の頃、今年の清明節4月5日もまもなくということで上海ナンバーの墓参りの車が大渋滞していました。

紹興で個人的に印象に残った三点を箇条書きします。

①魯迅記念館に展示されていた朱安夫人の写真。文豪魯迅の本妻は文盲・纏足という旧時代の象徴を背負っています。その後に北京時代の教え子の許廣平と長男の紹介。そして魯迅に「人生には只一人だけの知己が居ればそれで良い」と言わしめた瞿秋白も掲示されています。朱安夫人や瞿秋白は上海魯迅記念館も含め、この十年来ようやく展示スペースが増えた人たちです。

②自動車部品工場では整理整頓の行き届いた見学コースを10人乗りカートを連ねて過ぎるので詳しくは分かりませんが、人が少なくゴミも少なかったです。写真撮影禁止マークの付いた建屋には新しい自動工作機が置かれていたような気がします。仰々しいスローガンなどの掲示も少なく、掛け声よりも実践を重視という印象でした。

③「黄酒冰淇淋」。紹興酒(黄酒は総称)のフレーバーを効かせた地元ならではの美味しいアイスクリームでした。とは言え大禹廟の売店での売値の8元は余りにも高いので4個30元でどうか?と持ち掛けたら、店員は笑いながら「お客さんは中国人か?」と軽くいなされました。別の場所では5元で売っていたので遠慮せず指値を20元にすれば良かったと反省。

関西空港に戻る一行を杭州空港で見送ってから杭州市内へのシャトルバス
(時刻表はなく満席になると発車する「滾動」方式。20元)で小一時間移動。戦前の映画王の長崎人梅屋庄吉が贈った孫文銅像前のバス停で下車。徒歩で西湖の目の前にある華僑飯店にチェックインしました。翌朝、西湖の眺めがよく、湖水からの風も心地よい部屋に移りました。ロビーで製茶農家の出張販売員が明前茶(清明節前採製的茶葉。色翠香幽。味醇形美)を過熱して、手もみをするパーフォーマンスを眺めながら香りを楽しみました。

西湖畔から白居易(白楽天)由来の「白堤」を通るショートカットの道を「西泠印社」に向かいました。篆刻の聖地として世界的に有名な場所とのことで、珍しく日本人の修学旅行凬の団体とすれ違いました。
「西泠印社」は清末民初に江南の篆刻家が集まり、制作と古印書画の収蔵研究を続けた活動が母体となり、1913年に結社として成立し呉昌碩が推されて初代の社長に就任。日本も含めた内外の篆刻家が社員となっています。文房三宝販売や書籍出版活動も含めて現在に繋がっています。上海駐在時代に愛好家から特に「西泠印社」の品を念押しされて細筆や朱肉などの購入依頼が届いていました。「冷」ではなくサンズイの「泠」であることも含めて今回初めて学んだ事柄ばかりでした。
杭州の美術学院の大学院留学後も篆刻の修行を続けている友人による案内という贅沢な修学旅行でした。付設の博物館は月曜休館でした。
玄関の説明板だけでもと近づいたら、カタカナで「アザラシ博物館」と書かれてあり一瞬怪訝に思いました。中文・英語・日本語で、「印」「SEAL」「アザラシ」と並記されているのを見て、中国語の意味を無視して英語の動物の名詞をそのままカタカナに訳したのかと笑いました。
この種の「異訳」は日本を含めて各国で見かけますが、文化の香り高い「西泠印社」で力が入っていた肩をほぐしてくれる効果がありました。

地元の麵屋で軽い食事をした後、南宋の風情を模した下町の本屋を何軒か覗いて見ました。今回は「中国地図」と金宇澄の小説『繁花』が目的物でしたが芸術書や古書専門店の老舗を除くと、今どきのしゃれた本屋には書物は少なく、読書スペースや喫茶スペースがたっぷり確保されていました。
東野圭吾を筆頭に日本の小説もたっぷり並んでいましたが、中国地図と第9回茅盾文学賞を獲得した『繁花』は見当たらず、新華書店でようやく入手できました。
「中国地図(地勢地図+行政地図が裏表に印刷されたハンディな最新版)」は、毎年大学の受講生に渡して一年間かけて馴染んで貰います。新たな鉄道や建造物が完成するので地図の賞味期限が大切です。上海と浙江を結ぶ「杭州湾大橋」は当然ながら、昨年架けられたばかりで香港と珠海とマカオを1時間移動圏内に変化させ注目されている「港珠澳大橋」も載っている2019年1月新版です。

『繁花』については、神戸でのシンポジウムに参加された陳祖恩先生から詳細な解題をしてもらいました。上海語や文化大革命時代の用語などが多用されていること、暗喩や隠喩が多く「その日、一機の飛行機が墜ちた」という短文だけで林彪事件を洞察する必要があるといったご指導や示唆を受けました。
日本の無残な青春の多くは貧困・病気・複雑な家庭によるものですが、中国の場合は加えて政治という大きな要素があります。手強い小説ですがロバの歩みで読み進めています。たぶん「アザラシ的異訳」をしながらでしょう。(了)

2019年4月2日

国技にして伝統文化大相撲への私的な思い~ONがあって、OFFがあって、の生~

井嶋 悠

 

私は相撲ファンの一人である。正しく言えば「大相撲」ファンである。と言っても、通でも何でもなくただ観るのが好きなだけである。だからテレビ観賞で、大相撲“道”を出したり、己が通ぶりをひけらかし、薀蓄(うんちく)をこれみよがしに垂れ流す、要はしゃべり過ぎの、「野暮」な解説者やアナウンサー、またテレビ局[NHK]が招いたゲストが出て来ると、うんざりし、失望し、苛立つ。もっともこれは相撲に限ったことではないが。

先日、大関昇進伝達式で貴景勝関が述べた「武士道と相撲道」をとやかく言うつもりはない。それは競う側の一人の力士の意思であり、ここで言っているのは、あくまでも観客の一人である私の、個人的な思いである。

大相撲には日本の、神話、宗教、芸能、更には芸術が織り成す印象(イメージ)がある。だからスポーツ・運動競技の一つのように言われることに違和感がある。いわんや格闘競技と言われればなおさらである。
掃き清められた土俵、天上から吊るされた伊勢神宮を模した屋根(木材は伊勢神宮の御神木が使われている)、鍛えられ光彩を放つ力士の肉体、床山の職人技大銀杏(いちょう)の髷(まげ)姿に華やかな化粧まわし、横綱だけがしめることのできる注連縄(しめなわ)、彼ら力士の凛(りん)とした立ち姿、浄めと更には土を程よい状態に保つとも言われる純白の塩、行司の能装束を彷彿とさせる衣装、呼び出しの醜名(しこな)を導く声、響く拍子木の透明音。
それらが見事なまでに一体化した時空。その静と動の日本の統合美。

モンゴル相撲(ブフ)や韓国相撲(シルム)との類似点、例えば競技内容とか仏教との関係、も言われるが、別物だと思う。法令等に定められているわけではないが、大相撲を「国技」と表現することの相応しさ。日本の神代からの伝統文化の一つである。
尚、モンゴルの国技は『ブフ』であり、韓国は『テコンドー』とのことで、ブフの全体像を知ればやはり似て非なるもので、大相撲は大相撲である。
因みに、アメリカの国技は、同様に法令等で定められているわけではないが、アメリカン・フットボール、バスケット・ボールそして野球とのこと。この日米異文化を思い浮かべるだけでも興味は尽きない。

 

大相撲の神話的要素、宗教的要素を知ると、大相撲の奥深さを実感し、日本人として一層身近に感ぜられる。と言う、私自身それらについて知らないことは多く、是非この機会に確認し、大相撲を私の内にもっと引き寄せたい。
だからと言って、最初に記した人々の仲間になる気は毛頭なく、最近その大相撲に危うさを思うことがあり、そのことにつながる「芸能性」(或いは娯楽性)のことに辿り着きたく思っている。競う側と観る側が、互いに、またそれぞれに長く心地良い関係であり続けることを願って。
その意味では、スポーツ[sport]の語源が、娯楽、愉しみであることに相通ずるものがあるかと思う。

相撲の源流は、今ではほぼ実在したと言われる第11代天皇垂(すい)仁(にん)天皇の時代、3世紀後半から4世紀前半にかけてと言われる。それは『日本書紀』で確認できる。
その個所の概要は以下である。

【当時、力自慢の當麻蹶速(たぎまのくえはや)の存在を知った垂仁天皇が、誰か彼の相手になる者はないかと聞いたところ、出雲の国に野見宿禰(のみのすくね)という者がいることを知り、大和に呼び寄せ対戦させた。結果、當麻蹶速は肋骨や腰の骨を折られ死んでしまった。垂仁天皇は、勝者野見宿禰に褒美として當麻蹶速の土地を与え、以後臣下に彼を加えた】

現代感覚では、いささか酷(むご)い闘い(競い)ではあるが、當麻蹶速は日ごろから生死を問わず戦うことを願っていたことでもあり、また古代人の闘いの感覚からすれば天皇の褒賞は自然な事だったのだろう。

ところで、日本書紀時代未だ仮名はなく、すべて漢字で表記されていて[万葉仮名]、その文中二か所、興味深い表記がある。一つは「力士」、一つは「角力」で、前者を「ちからびと」と、後者を「すまひ・すもう」と訓読みさせている。

この伝説が、事実であるとすれば(神話・伝説でも構わないのだが)、大相撲に熱い情愛を注がれていた昭和天皇の意向で、天皇即位の大正15年(1926年)に創設された「天皇賜杯」の原点は、垂仁天皇に遡ることとなる…。正に無形にして有形文化財である。

それ以降、事実資料の有無、多少はあるものの、奈良・平安時代には[相撲節会]として、鎌倉・室町・安土桃山時代には武士の訓練としても引き継がれつつ、江戸時代に大きく開花することとなる。

江戸時代との名称がついそうさせてしまうのだろうが、文化面で見ても中心は上方と江戸の二地域で、相撲もそうである。ただ、寺社の知恵(策略)と幕府が一体となった勧進相撲の発達や私たち多くが知る横綱谷風 梶之助また雷電 為右衛門の登場も手伝って、隆盛を極めたのは時代の後半になってからなので、ここでは江戸での相撲が私の中にある。

先日東京・佃島を散歩したのだが、ごく一部に古い入り江が残り、静かな街並みに何軒かの佃煮屋が残っていた。その街並みを囲むようにマンションが林立していたが、これぞ江戸情緒の面影を残す現代の東京なのだろう。ただ、元をただせば佃煮は大坂(浪花)の人々の「下(くだ)りもの」である。

小学校後半の3年間、大学院1年で中退しての懶惰(らんだ)な2年間の放浪生活、の京都の血が流れている私にとって、東京は5年程しか生の場所でしかないにもかかわらず、江戸に親愛感があり、食べ物も江戸風を良しとする(最近は加齢とともに変わって来てはいるが)、上方人からすれば奇妙奇天烈論外人の一人である。
尚、カミさんは3代続く生粋の江戸っ子だが、これは全くの偶然の業(わざ)である。

「江戸の三男(をとこ)(注:“おとこ”とせず“をとこ”とする昔の人の感性を羨ましく思う)」とは、粋でいなせの、当時、女性はもちろん、男性からも好まれた、真の「色男」三職を指す。それは、火消しの頭、与力そして力士を言ったそうだ。
「一年を二十日で過ごすいい男」。年二場所、一場所十日間で過ごしていた(と言っても、武家や豪商のおかかえ、ひいき筋、たにまちがあってのことであるが)力士のことである。
女性は見物自体が禁制であったが、力士の体格、強靱さに憧れも強く、それに錦絵が女性たちの想像力を大いに刺激したようだ。

蛇足ながら、今日のアイドルとブロマイドを、私は詳しくはないが、そこはかとなく思い浮かべると、当時三職に頬を染めたうら若き女性が、今の時代にやって来たらどう思うだろうか。昔は昔今は今よ、とさらっと流すような気もする。粋にこだわれば。

粋と言えば九鬼 周造(哲学者・1888~1941)の著『「いき」の構造』を先ず挙げる人が多いかと思うが、その九鬼は「いき」の三要素を[媚態][意気地][諦め]とし、論説している。
私は、眉間に皺寄せ四苦八苦して文字を追うのだが、私を江戸の魅力に導いた一人である杉浦 日向子(東京生まれの漫画家・江戸考証家。1958~2005、癌のため46歳で早逝)は、或る書で「よく読めばごく当たり前のことを言っている」と、さらりと流している。さすがとしか言いようがない。

相撲は力士なくしては成り立たない。もちろん力士だけでも成り立たない。力士を育てる親方(元力士)、おかみさん、行司、呼び出し、床山。また諸先輩、母校の恩師等々。
それらを束ねる管理性、そして文化性、芸能性の源流となる総本山『公益財団法人日本相撲協会』。
本場所をはじめ多くの興行や諸体制の主体は協会で、地方巡業場所も協会と地元の興行主[勧進元]の連携で行われている。その協会は、基本的に親方衆[理事]が中心で、監事や横綱審議委員会のような外部委員[識者]が随時参画し、運営されている。

公益財団法人は、税制上優遇措置を受け、且つ補助金が国より与えられる。日本相撲協会の場合、年間約2000万円とのこと。
従って、如何に興行収益を上げるかが協会にとって重要課題となる。10年程前の資料では、協会の総収入が165億円(内、NHKからの放送料は30億円)、支出は206億円とのことで赤字だが、この段階では国技館の改造経費も含まれ、更には協会の資金運営への文科省の監査等もあり、現在赤字はほぼ解消されているのではないかと考えられる。
過去には、待遇改善要求から力士がストライキをしたとの歴史があるが、現在は報酬や手当、また保障等、厚遇されているといっても過言ではないと思う。

力士の日々精進しなければならない仕事(労務)が、三つある。一つは稽古、一つは食事、一つは睡眠。すべては、本場所で後悔を残さず、無心で闘うための鍛練の時間である。と言えば窮屈なことだが、それが力士たる男を磨く基となる。
中学を卒業して、その大相撲の世界に入る者もいる。現大関高安はその一人だが、今はほとんどが高校へ進むのでそのような人物は稀かとも思う。
昔よく使われた“金の卵”との言葉を思い出すと同時に、外国人が懸命に生活・文化の壁を越えようとしながらも望郷の念、父母への思慕に陥るのが痛いほど伝わって来る。凄い意志力を思う。
ひたむきの精励の上に、資質と機会と出会いに恵まれた彼らの一部が、めでたく十両以上の関取となる。横綱が遥か高い山の頂であることが分かる。

彼らの年間実働時間(日数)を確認してみる。
本場所(6場所・2か月毎) 15日×6=90日 それに本場所に向けた稽古の総仕上げを場所前10日とすれば+60日で、150日。
地方巡業(春夏秋冬場所後)の日数が2018年で77日(74都市)。移動日を入れると1都市での巡業に3日は要するだろう。とすれば、74日(都市)×3日=222日。
上記を単純に合計すれば、力士の本業として要求される日数は、372日で既に1年を超えている。地方巡業を少なく見積もって200日としても350日。
非常な偏見で言えば、地方巡業は大相撲の浸透と力士顔見世、その上での稽古と言うことなのだろうか。
因みに、横綱を筆頭に、「三役」ともなると、何かと公的な交遊、厚誼の場も多いという。
世は[働き方改革]ブーム!?(と記したのは、国民全体を見る視野が欠けていて、偏向、独善の官僚性と政治家が好む言葉遊びを思うからである)だが、大相撲は視野にあるのだろうか。
ここ数場所の怪我による力士の多さは、この現状と関係がないと言えるのだろうか。私には到底そうは思えない。

先日、無念な形で引退した横綱稀勢の里が、引退会見で「経験を活かして、怪我に強い力士を育てたい」と言っていたが、既に行われている近代的トレーニング以外にどういう秘策があるのだろうか。

プロである(アマチュアでも同じだと思うが)競技者は等しく人間であって、[OFF]があって[ON]があり、[ON]があって[OFF]がある。心を整理し高め、身体に休養を与える時間[OFF]と、自身の課題に沿った集中稽古と身体トレーニング[ON]の切り替えが大きな成果につながる。

権力指向者や教職者に多用傾向がある「使役」助動詞「せる・させる」のことが過ぎる。
日本相撲協会は、力士にさせているのである。国技との、伝統文化との大義を掲げ、且つ地方巡業でも本場所並みの高い入場料を取って。
本場所の3階席はそうでもない、と反論されそうだが、そういう発想が、娯楽性を逆手に取った商業主義、拝金主義ではないのか、と私は思う。
やはり相撲を好いていた娘を、死の少し前に国技館での本場所マス席に連れて行ったが、年金生活事情から可能だった席は、マス席の最後方だった。

〔帰路、入り口を出たところで、娘が、臥牙丸関とその付け人たちと撮った写真は貴重な宝物である。〕

それとも、協会をそういう方向にさせているのは、日本社会と言うことなのだろうか。
因みに、現職時代、この使役助動詞を使うことに抵抗感、違和感があった。だからお前はダメ教師なんだと言われるかもしれないが。
もっと力士の息吹きや肉体の艶が直に感じられる席で、力士の激闘に酔ってこその、娯楽性、芸能性のではないのか。憂き世から離れたひとときの陶酔。降臨して来た神々との共感。日本の神様たちは、酒を愛し、満面の微笑みの寛容さで佇むとの印象があるからなおさらだ。

[満員御礼]の垂れ幕が、最近頻繁に、或いはほぼ連日下がっているが、画面には空席が多く目立つ。どういうからくりかは、大人は承知しているが、そこにも拝金主義が見え隠れする。
国技としての誇り、主役の力士たちへの配慮、より多くの人々の伝統愛促進を、真っ当な願望とするならば、日本相撲協会のできることが、3項目ある。

◎本場所を4場所に戻し、地方巡業を半分にする。

◎入場料金を下げる。

◎値下げや場所数減でのマイナス補填を次の方法で行う。

★税金の投入[少子化、高齢化社会が進むにつれ、日本人であることが
年々窮屈になって来ている。国連関連機関による『世界幸福度ランキン
グ』2019年の総合得点では、1位フィンランド、2位デンマーク、3位ノル
ウエーと続き、アメリカが19位、韓国が54位、中国が93位で、日本は昨
年の54位から58位に下がった。
あれだけ税金類を徴収し、物価は上がり、一体、この国はどこへ行こう
としているのだろうか。政治の貧困が露わになりつつある。58位と知っ
て驚かない私がいる。
あまりのムダが多過ぎる。核の傘借用等ための軍備費、在日米軍への阿
諛(あゆ)迎合費、政治家の摩訶不思議で独善的政治費[税金]の使い方
等々。
文化、教育、福祉に予算(税収入)を十分に割かず、財源不足を言い訳
に痛みとか称して国民負担増発想の圧政の国はいずれ滅びる。もう滅び
に入っていると言う人も少なからずいる。
大相撲に、伝統文化に、税金を投入することにためらう国は寂しい。]

 

★NHKの放送料増額[今では権威化、権力化を邁進し、守銭奴化したN
HK。報道、ドキュメンタリー、スポーツ中継、大河ドラマでの技術・
スタッフの秀逸性への自負は棄てたのだろうか。なぜ民放の模倣が増え
ているのだろうか。国営放送ではないのだから、なぜ受信した分だけ払
う合理性に眼を向けないのだろうか。受信料に係る最高裁判決で「義
務」との表現が出て以来、尊大さが強くなりつつあるように思えるの
は、私だけなのだろうか。
併せて【三権分立】も怪しくなりつつあるよう思うが、今は措く。]

 

少子化、高齢化の実状と世に多くある不幸な事実(例えば、子ども・老人の貧困、男女協働の言葉先行・10代から20代での自殺の急増等)、それらの元凶とも言える施策の貧困を直視し、世界共生・協働時代、浅薄な愛国心ではなく、自立した「小国主義」日本であって欲しい。それでこそ日本の国技である伝統文化大相撲は栄え、末永く残ると頑なに信じている。