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2018年1月12日

刺青(ほりもの)・入れ墨・tatooタトウー ―文化理解の難しさ或いは“2020年”を前に―

井嶋 悠

魔性の女という言葉を聞いて、男女それぞれにどんな女性を思い描くのだろう?
私は江戸浮世絵群を思い浮かべたりもするが、そういう女性に幸か不幸か?直接に会った経験はない。

「(江戸期の)刺青師(ほりものし)に堕落してからもさすがに画工らしい良心と鋭感とが残っていた元浮世絵師清吉」は、或る時、「駕籠の簾のかげから、真っ白な女の素足のこぼれて居るのに気がついた。(略)その女の足は、彼に取っては貴き肉の宝玉」と映じた、その女性こそが、「彼が永年たずねあぐんだ、女の中の女であろうと思われた」。
それから5年後の晩春、「馴染みの藝妓の使い」で、年のころ「16,7の、近々座敷に上がる娘」がやって来て、それがあの女性であることに気づかされる。清吉は絵を見せ「この絵の女はお前なのだ」と「一本の画幅を展(ひろ)げた。」そこには次のような絵が描かれていた。
「画面の中央に、若い女が桜の幹に身を寄せて、足下に累々と斃れている多くの男たちの屍骸(むくろ)を見つめている。女の身辺を舞いつゝ凱歌(かちどき)をうたう小鳥の群、女の瞳に溢れたる抑え難き誇りと喜びの色。(略)「それを見せられた娘は、われとわが心の底に潜んでいた何物かを、探りあてたる心地であった。」清吉は娘を説き伏せ、彼女の背に「巨大な女郎蜘蛛」を彫り込んだ。
「その刺青こそは彼が生命のすべてであった。その仕事をなし終えた後の彼の心は空虚(うつろ)であった。」

これは谷崎 潤一郎の短編小説「刺青」からの抜粋である。(「 」は「元浮世絵師」の「元」以外、本文を引用。)

刺青とは、あくまでも彫り物であり、罪人への或いは虜囚の身に貶(おとし)められた人番号としての「入れ墨」ではない。美の領域に係ることとしてのことでありものである。
これを読んで、妖艶な美麗を直覚するのか、嫌悪を直覚するのか。私は自身のこととしての経験はないが、清吉の心を直感し、美麗に傾く。江戸の職人たち[男たち]や藝妓は、粋の領域として刺青をしたと言う。私の中では、女尊男卑そのままに女性のそれが鮮やかにイメージされる。そこには私の偏った芸術美(美感)があるのかもしれない。

古今世界の様々な民族の中には、神から授かった身体だからこそ彫り物をすることで神に献身する心を、また災難等からの護身への神仏願望[「倶(く)利(り)伽羅(から)悶々(もんもん)〈不動明王・剣・炎の図柄〉が刺青の別称のように」を表していることを否めることはできない。日本古代での縄文期の土偶に、またアイヌの民俗に通ずることとしても。
そして今、英語「tatooタトウー」との言葉を使って、直ぐに或いは何年か後に消える技術(技法)も産み出されたこともあってか、若者たちにファッション(おしゃれ)文化として受け入れられ、反社会的集団の徒の象徴ではなくなりつつある。

因みに、亡き娘は刺青を美しいと思う派で、時に憧憬しシールを貼ったりして、私の心中を一層複雑にしていたこともあった。

しかし、そうは言っても刺青はどこまでも入れ墨であり、それをしている者=「やくざ(者)」であり、またその情婦であり、との意識は根強く残っている。裏の、裏への哀しみ、視線…。
谷崎自身、浮世絵師を志していた清吉を「刺青師に堕落して」と記している。

日本の観光資源の一翼を担っている温泉文化。
10年程前から住んでいる北関東のこの地は、歴史的にも古い温泉郷の一角で、車で2,30分も行けば××温泉と呼ばれる湯元地が数か所ある、旅館、ホテル産業激戦区でもある。
日帰り入浴もあちらこちらで楽しめ、私もその恩恵に浴しているのだが、必ずと言っていいほどにある「刺青・入れ墨・タトウーお断り」入浴注意書きの掲示。中にはこともあろうにその部分のみ太字で表わされている。
少なくとも私の子ども時代にはなかったと思う。刺青をしている人が浴場にいても「へえーしてるんだ」であって、誰も怖いもの見たさといった好奇心すらなかったと思う。これは東京・新橋の生まれ育ちの妻も同感者である。

どうしてこの掲示が必要なのだろうか。風呂場でやみくもに喧嘩を売ったり、賭場ご開帳に及ぶとでも思っているのだろうか。清浄な場への不浄(者)の闖入(ちんにゅう)と。
暴力団撲滅に係る社会からの「排除」の一環でのお上からの指示なのだろうけれど、私にはなぜ世界に冠たる温泉文化のしかも湯浴みという限られた場所での、時に有名無実の(現に刺青の人を何度か見ている)、あの掲示に今もって釈然としない。暴力団・やくざ擁護者ではないから、更には「あれは芸術《アート》なのだ!」と声高にまくしたてる気もないから、なおのこと釈然としない。

2020年.東京オリンピック・パラリンピック。
なぜ今日本で?との疑問は、候補地として名乗りを挙げた時から現在もそう思っている一人だが、とにかく莫大な資本を投じて行われる。投資以上の経済効果があるそうだが半信半疑である。

因みに、以前このブログに投稿したことを繰り返す。
IOC総会(理事会?)での招致スピーチの義足ランナー佐藤 真海さんの、その内容[一語一語重みある優れた内容]、表情[時にこみ上げる哀しみを自然な笑顔で抑制する表情]、声の響き[明快な発声(英語)]、間[聴き手にしかと伝わる間]のすべてにおいてどれほど世界の人々に感銘を与えたことだろう。
それに引き替え、拳(こぶし)をあげキャッシュで500万ドル用意できると叫んだ当時都知事のスピーチの下劣、下品さ。(その知事、後にカネ問題で辞職するという痛烈な皮肉)
私は佐藤さんのスピーチが委員の心を揺さぶり、東京への投票に向かわせたと堅く信じている。

世界から優れたスポーツ選手《アスリート》が、そして観客が、多種多様な文化を心身に携えて日本に参集する。私たちは日本的善良さで人々を迎え入れる。『おもてなし』。
日本で放送される機会の多いスポーツとして、例えばサッカー・ラグビー・野球の中で、母国ではもちろんのこと、日本等々世界各国・各地で人気・実力ともに秀でた刺青をしている選手《トップ・アスリート》は実に多い。そして日本でそれを咎(とが)めたり、貶(おとし)めたりする人はまずいない。異文化として観ているからだろう。
その人たち、また試合観戦方々観光で来日した、刺青をしている人たちが、温泉文化[とりわけ自然と一体化した温泉文化]に関心を寄せたとき、あの掲示は日本文化としてそのままで入浴できないのだろうか。「おもてなし」を逸脱する異文化として[郷に入っては郷に従え]なのだろうか。例えばイスラム圏で豚肉を食することはできない、と同じ次元のこととしてとらえることが、私の中でどうしてもできない。

日本は明治時代の幕開けとともに、近代化に向けて官[お上]からの同化政策で突き進み、一億一心を善しとし、異議申し立て者を抑圧し、時に封殺して来た歴史を持つ。そして今でさえも、日本は単一民族・単一言語の国と誇らしげに言う人はいる。
2020年東京オリンピック・パラリンピックのことでも、苦境問題が生じると施策者は「オール・ジャパンで」と言う。どこか共通点を視る私がいる。私の非国民!?の表われなのだろうか、と。
多文化教育・異文化〔間〕教育が重要テーマの現代日本にあって、例えば教育内容、入試方法といった身近な問題は、どれほど知識理解の限界を越えて自身のこととして在るだろうか。そもそも、「知識」との言葉が持つ多文化性・異文化性を、どれほどに心に降ろし得ているだろうか。言葉の上滑り。少なくとも私自身は心もとない。

現役時代、海外・帰国子女教育、外国人子女教育と出会った。30年ほど前のことである。彼女ら、彼らから学んだことは実に大きい。多分その頃から私の国語科教育態度は変わったと思う。
例えば、帰国子女保護者[母親]の言った言葉「私たち親、大人はいいのです。逃げ込める場所があるから。子どもたちにはそれはないのです。」(ヨーロッパで現地校、日本人学校を経験した男子生徒の母親)、「アメリカにまで来てアジア人であるなんて嫌よね」、
教師大人側に当たり前のようにあった《今もある?》「帰国子女=英語ペラペラ」の「ペラペラ」との用語と併せた軽薄。
留学生の日本語を担当して実感したこと。[日本語を母語とするにもかかわらず日本語を知らない国語科教師の私]

文化相対との考え方と現実の溝(ギャップ)。それを自身の内で相対化する難しさ。国際人と言う言葉の重み。国・際(きわ)を克服し、生きる人。辺境(マージナル)の人。日本は極東の島国であることの甘え?を痛撃する富山県が作成した『環日本海諸国図』(日本列島を上(北)に、中国、千島、朝鮮半島を下(南)にした図。
そこから想像される古代人の国に囚(とら)われない自由な往来、交易。また中世の対馬を基点としての日本人・朝鮮人・中国人の往来と交易。「倭人」「倭語」の持つ意味。
近現代人の知識と当時の日々生を営んでいた人々。私(たち)の想像力の偏り。不足。学びの薄さ。学校教育の意味。メルティング・スポット的人間(同化型)とサラダ・ボール的(多元型)人間。

2020年を契機に、日本はいずれの方向に明確な舵を取るのだろうか、と厳しい冬、家に引きこもりがちな(鎖国型?)老齢初期(72歳)の私は無責任に想う。

 

 

2018年1月9日

中華街たより(2018年1月)  『井上茶舗』

井上 邦久

開港後の横浜港から海外向けに輸出された品目として、よく知られているのは生糸と緑茶であります。
甲州・秩父・信州・上州などの生糸が八王子に集められ、輸出窓口の横浜港まで運ばれていました。八王子と横浜の中間に位置する町田は宿場町や中継地としての機能で賑わったようです。町田駅から町田版画美術館へ向かう道のあたりが、宿場町の本町田、物資中継地の原町田地区です。

小田急線町田駅近くの旧街道沿いには、石碑と説明板があります。石碑には「絹の道」と書かれており、「一帯一路」のシルクロードを連想させます。「鎌倉街道」「町田街道」そして「浜街道」と呼ばれた交通の要所ですが、「絹の道」という命名は生糸が町田を通過しなくなった戦後になってからとのことです。
町田は横浜シルクのブランド、富岡製糸場などとともに開国開港に繋がる歴史的な場所として知られてよいと思います。ナイロンが普及してシルク需要に影が差し、横浜鉄道(現在のJR横浜線)の開通により街道機能が失われ、生糸や土地の記憶も薄れていったのでしょう。

次に緑茶について書きます。年末に個人的な発見がありました。
12月12日、第316回日文研フォーラムは歴史学者のロバート・ヘリヤー(Robert Hellyer)氏による「『Japan Teaブランド』の構築―太平洋を渡った緑茶」の発表があり、熊倉功夫氏(MIHO MUSEUM館長・和食文化国民会議名誉会長)がコメンテータ、佐野真由子氏(日文研准教授)が司会を務めるという贅沢な構成でした。

江戸時代の長崎で欧州向けに緑茶輸出が細々と為されていたようです。横浜・神戸開港後の日本緑茶輸出の伸長は目覚ましく(181㌧/1859年→226㌧/1860年、4500㌧/1968年)、国内生産量のほとんどが輸出に回され、そしてそのほとんどが米国向け。その背景には開港したばかりの日本への高い関心と、それ以前の市場を独占していた中国緑茶への敬遠が背景にあった模様です。
映画『静かなる情熱』で、詩人のワズワ-ス牧師の夫人が、宗教的な理由から客先でのお茶を断るシーンで「私は中国人に生まれなくてよかった」と水を所望していたのを思い出します(冗長な説明は省きますが、1860年~1862年の事と推定されます)。

その後、米国の貿易商の資本投下により横浜・長崎・神戸に製茶工場が作られ、中国人技術者の指導でプルシャンブル―着色精製が為された(中国茶葉の着色精製加工は現在に至るまで行われることもあるようですが、不詳)、そして日本での生産供給態勢が整い、対米主要品目として増加します(18,000㌧/1890年、20,000㌧/1913年)。1893年のシカゴ万博に初展示するなどの積極的な市場開発が進み、「Japan Tea」ブランドの地歩を固めています。
米国(資本・販売)・中国(技術・貿易)・日本(生産・労働)の「協力」が幸福な産業発展に貢献した時期の代表的な商品が緑茶でした。

その後、1890年以降のセイロン・インド紅茶の進出、珈琲文化の浸透に加えて、日本製品へのネガティブ・キャンペーンも相まって、緑茶輸出は大打撃を受けます。しかし、1923年には10,000㌧前後にまで急減した輸出産業を救ったのは、意外にも日本国内市場であった、というのがヘリヤ―氏の発見でありました。
寺や上層階級の喫茶茶道の需要は別にして、庶民が茶舗で緑茶を購入して、家庭で急須に淹れて飲む、という習慣は、どうやら大正から昭和の初めにかけて、広まったようです。それまでは自らの畑の茶の木から茶葉を得るか、白湯を飲んでいたとの説です。

国内生産数量の拡大と対外輸出数量の減少による供給過多のところに、消費経済の勃興による大衆文化の変化があり、その一つの事例としての緑茶購入という新しい購買活動が生まれたということです。
豊前中津藩の両替商「姫路屋」がどんな経緯で昭和の時代に茶舗を営むようになっていたのか?何の疑問も感じないお茶屋の子供は隠れん坊遊びで茶箱に潜り込んでいました。茶箱に残った緑茶の匂いや店先で焙じるほうじ茶の香りは「失われた時」を思い出させます。

ところがヘイリー氏の発表や熊倉氏や佐野氏との対話を通じて、両替商から茶舗への移行の時代背景が浮かんできました。すぐに親しい叔母に問い合わせたところ、江戸の両替商は明治の質屋となっていたが、嫁いできた祖母が「店に来る客が一様に辛く苦しい顔をしているような商売は嫌だ」ということから、大阪で貿易商を営む縁戚の伝手で宇治茶を仕入れ販売する茶舗を始めた、という家の歴史を初めて知りました。

ベランダの隅に一個だけ残しておいた茶箱には「山城国宇治町 芳春園岩井本店」とありました。祖父母の第一子である伯父が1922年戌年生まれなので、家業の茶舗への転換はやはり大正末期から昭和の初めのことと推測されヘイリー氏の分析に合致します。九州豊前の小都市の中津では、緑茶を買って飲む時代の潮流に乗り、宇治からのサプライチェーンを獲得できた一種のベンチャー企業であったのかも知れません。

その後、緑茶輸出は1991年に253㌧まで減少し、開港当時の振出しに戻りました。ビタミンCが豊富な緑茶は健康志向に適し、高い品質管理も要求される、一方海外では空前の和食ブーム、この願ってもない環境にありながら、和食には日本茶という文化を海外に紹介していないのは遺憾であり、「和食+日本酒」や「抹茶スイーツ」の次には、「和食+日本緑茶」という文化を広めていかねばと思います。
ただ、おひざ元の日本の食生活や流通の変化により一般消費者の緑茶葉需要は減少、お茶はペットボトルで飲むものという習慣が増加しているのが実情でしょう。
漢字検定一級の読解問題として「急須で淹れる」が出されるかも知れないと、お茶どころの富士市在住の友人から贈られた緑茶を味わいながら夢想しています。                             (了)