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2015年12月27日

クリスマスから大晦日そしてお正月へ ダイナミックな?日本人? ―2015年から2016年へ 随感―

井嶋 悠

 

私にとってのクリスマス、特にイヴには、我が子たちの微笑みの記憶が幾層にも刻まれている。併せて、心が天空に翔けあがり浄化され、私を陶然の世界に導くクリスマス音楽、それもヨーロッパの伝統的、古典的なそれ、が強くある。
その中にあって、冒険!?の20代、あのクリスマス喧騒の新宿の夜、その日の当てさえもなく独り彷徨っていた路上で降りかかってきたフランスの古曲『ファースト・ノエル』の調べは、70歳になった今も、激しく心揺さぶられる。否、その後の“公”の人生が、娘の不条理な死と言う“私”の人生が、重層し、あの時以上の強い振幅と陰影をもたらしているとも言える。

新宿の2年後、高校時代の師の恩愛により私は、1875年(明治8年)に二人のアメリカ人女性宣教師によって創設されたプロテスタントのミッションスクール・女子中高校の教師に導かれる。
そこで体験した、開校日の週5日毎日、パイプオルガンのある石造りの荘厳さ漂う講堂での、クラスでの礼拝。奏で、歌われる讃美歌。その1年間の頂点にきらめく中高生合同のクリスマス礼拝。音楽は神に最も近い芸術を心底直覚させるひととき。
卒業生たち、礼拝での壇上から説諭するプロテスタント受洗者の大人たちに、時に猛烈反発する思春期真っ只中にあった彼女たちも、全員が、絶対の感銘を異口同音に言う。

にもかかわらず、私は17年後の40代後半、仏教系学園が創設した他校に移る。家族を持っての新たな冒険!?待ち受けていた、おそるき“大人の現実”に打ちのめされ、家庭にとりわけ妻に多くの犠牲を強いる4年間。
苦難が宗教を自覚させると言われるにもかかわらず、東・西宗教の信仰者となることもなく。

『日韓・アジア教育文化センター』の源流は、移動して2年後、教師廃業を考え始めたその頃である。
体験から学んだ、学校教育は人の営為であると言う当たり前過ぎること。教育がしばしば陥り易い独善と傲慢を自問自戒し、人であることを見つめ、引き受け、その葛藤の中にこそ教育が、子どもたちを前にしてもの言える教師であると言う本質。やはり教師の多くは“殿様“なのだと思う。私を含め。
だから、優秀(スマート)な?保護者は、子ども(生徒)は、学校は人生、良き人生(その価値基準の多くは最終学歴)への通過点に過ぎない、とつかず離れず、家庭財政に腐心する。

何度も出会った「教育は私学から」との私学界標語が意味するところは何だろう。それは、私が、帰国子女教育に携わり、公立校の取り組み次第で私立校消滅の危機を痛覚したことに通ずる。
といった自省教育観、教師観は、以前にも記し、これからも執着しなくてはならないと思うが、今回の本題ではない。教師、否国語科教師、否私個人の悪弊、話は拡散し、長くなり、聴く子どもたちは辟易する、の自省自戒はどこへやら。で、閑話休題。

クリスマス音楽が、キリスト教信仰といった思考(思想)的なこととは関わりなく、どうしてここまでに私たちを揺り動かすのだろう。
人が高等動物と言われるゆえんの一つ、繊細で鋭利な「感性」を授かっているからと言われれば、「憂き世」との用語への実感からなるほどとも思うが、分かって分からない。
若い時分の放ったらかしならいざ知らず、古稀を迎えては、と遅まきながら答えを身辺で探していたら、これも天の心遣い、導きから、こんな一節に出会った。

ドイツ文学者でキリスト教徒の小塩 節(たかし)氏(1931年生)の著書『光の祝祭―ヨーロッパのクリスマス』の一項「クリスマスの歌」の一節である。冒頭部分を引用する。

――クリスマスに歌われる歌はどうしてどれもみな、あんなに、言いようもなく美しいのだろう。どの歌も心に沁みる。(中略)たぶん幼児の誕生を祝うものだからだろうが、ただそれだけではなさそうだ。おそらくクリスマスのよろこびのかなたに、すでに十字架という残酷な出来事が透けて見えているせいもあろう。人類の歴史は、どの土地どの民族にも、身の毛もよだつような事件が満ちみちている。神もいき(・・)をのむであろう悲惨な人類史に、くさびを打ちこむようにして起ったクリスマスをうたう歌は、それだけにたとえようもなく美しいのかもしれぬ。――

これを読み、キリスト教徒の血みどろの歴史、戦争(戦闘)史を思い浮かべ、或る仏教徒が言っていた仏教界にあっては、そのような歴史はないとの言葉を思い起こす。
戦後、日本は原爆投下国アメリカを絶対善とした追従の、もっと強く言えば沖縄の戦中、戦後史に象徴される媚び、卑屈そのままの歴史を歩んできた。
何事もその人の視点(価値観)でプラスマイナス相対になるが、この追従の歴史は戦後50年にして経済大国となった要因、朝鮮戦争、ベトナム戦争での戦争特需への感謝の意思表示でもあるのだろうか。
アメリカ在っての日本の新「富国強兵」「殖産興業」を推進し、それが日本(人)の幸福につながると言う政治家、財界人、学者またマスコミは、「WASP」(White,Anglo‐Saxon,Protestantの頭文字。アメリカでは批判的に使うことが多い)とアメリカ建国史をどのように見ているのだろうかと、右とか左といったイデオロギーを離れて、いつも思う。そもそも保守とか革新って、観念論ではなく何をもって言うのだろうとも思ったりする。

大があって小、上があって下、の一方的感覚が正統、との意識が意図的な力で無意識化され、そういう価値での弱肉強食、弱者は道具、の競争社会に恐怖と寂しさを痛感する一人としては、なおさらである。
このような話題では資本主義/社会主義/共産主義といった用語を引き出す人は多いが、私は××主義との言葉が苦手な上、不勉強もあって不得手なので引き出さない。

私は小塩氏の言葉に、キリスト教徒の哀しみの、音楽に込める自覚と懺悔ゆえの美しさを見たい。
モーツアルトを崇愛する人々は世界に多い。その人たちからはるか離れた桟敷席の片隅から覗くに過ぎない一人の私ながら、多くの作曲家の音楽は、神への、天上への憧憬であるが、モーツアルトだけは、天上での、或いは天上からの作品に聞こえる。例えば最晩年の作『アヴェ・ヴェルム・コルプス』(カトリックの讃美歌)など、正にそう思え、“天才”なるものを得心し、だから映画『アマデウス』のモーツアルト像は生きている、と思ったりしている。

日本人は、わずか17音で宇宙を表わす、世界に類のない短詩型文学・俳諧(俳句)を創出した。それは、日本の地理的、自然的環境で育まれた感性、それを自覚し創造化した偉人たちの研ぎ澄まされた感性、その営為を力入れず自然体で感知する受け手の感性、これらの感性と想像力の幸せな統合。
私はこの頃になってどうにかこうにか、「旅に病んで 夢は枯野を かけ巡る」(松尾芭蕉)や「冬蜂の 死にどころなく 歩きけり」(村上鬼城)、また「咳をしてもひとり」(尾崎放哉)といった句を、私の言葉で鑑賞できるようになったかな、と思っている晩稲だが、晩稲は晩稲なりに日本人の一人であることを誇りにした愉快さで生きたいと思っている。

【余話】
歌謡曲やポップ音楽では、聞かせどころを「サビ」と言っているが、哀しい、憂き世と「寂び(さ)(しさ)」また「侘(わ)び(しさ)」とつなげて、日本的?な何かを思ったりもする。

キリスト教では復活祭(イースター)が最も重要な祭事と言う。クリスマスの生の祝賀とイースターの死からの再生の祝賀。
私はキリスト教徒ではないからか、死からの再生との叙事よりも、幼な子誕生の美に微笑む、その叙情、クリスマス音楽に浸り、「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」(新約聖書「マタイによる福音書」)に心響かせ、同時に老いへの道程を振り返り狼狽(うろた)える。
仏教で言えば「慈悲」「慈愛」であり、それは幼な子の無垢な心と「浄土」(きよらかな地)と重なる。

妻お気に入りの絵本作家・林 明子さん(私と同じ1945年生)の『サンタクロースとれいちゃん』が、娘を彷彿とさせると言って購入した昔が思い出される。その娘はもういない。

今世界は、「文明」にあたふたする人が増え、文明国だからこその宗教の時代に在るのかもしれない。
自身を糸口に、人間を、日本人を言うことが許されるなら、「日本人は無宗教」との指摘は、信仰と言う「理知」においてのことではないか、と思う。感性型/叙情型人間からすれば、すべての宗教を受容する、感性の無限をごく自然に表象しているということではないのか、と。そもそも日本は、有機無機一切に宿る霊(神霊)を直覚する「八百万の神の国」なのだから。
2015年も、クリスマス後1週間で終わる。今年もあまりに哀しい事件が幾つもあった。
その中で、先進国とは何かを問うかのような事件を二つ挙げる。

一つは、2月の、川崎市での中学1年生殺害。

殺された少年の優しさに魅かれていた仲間の二人が、あの残虐極まりない方法で殺した人物に、やめるよう進言したことを語り、それがあの悲惨な結果につながったのではないか、と苦しんでいる報道を見た。その一人が言った言葉「言った方が良かったのか。言わない方が良かったのか。きっと死ぬまで分からないのだろうなあ。」私はここに良心を見る。しかし心優しい少年は惨殺された。何という不条理。

一つは、2週間前の、那須町(私の居住地の隣町)での、10年ほど前に首都圏から移住し、病の後遺症で左半身不随となった69歳の妻の、介護していた71歳の夫による殺害。
強い信頼と愛情で結ばれていたにもかかわらず、或る日を境に急変した妻の暴言に絶望の淵に追い遣られた夫の寂しさ、哀しみ。
事が起き、周囲はあれこれ論説するが、それらは真っ当なことばかりなはずなのに、どこか心に浸透して行かない私がいる。
これは私の生母の介護を担ってくれた妻共々、私たち自身のこととして突きつけて来る。しかし答えは未だ見つからない。

「倉廩(そうりん)(穀物庫)満ちて礼節を知り、衣食足って栄辱を知る」は、中国発の誰もが使うことわざである。
我が国の現首相は名家の出自で、生まれながらにして礼節と栄辱を知るとも言える。にもかかわらず、哀しみは辞書の中だけで、発想も言葉も官僚的で心の響きはそこになく、国内外で「金と力」が平和をもたらすとの信念?のもと、時に虎の威を借りて横柄を繰り返している。50%前後の世論支持を背に、私が現代日本の、そして世界の牽引者と言わんばかりに。
この人の心に、クリスマス音楽はどのような響きをもたらすのだろう?
私が出会った同じ型(タイプ)の教育界の人物は、自身がキリスト教徒(クリスチャン)であることと併せてモーツアルト敬愛者であることを選民的感覚そのままにあちこちで吹聴していたが。

クリスマス音楽による浄化(カタルシス)が瞬く内に終わり、「もういくつ寝るとお正月」の歌詞で親しまれる『お正月』(1901年・滝廉太郎作曲・東くめ作詞)が流れ、ベートーベンの交響曲『9番・合唱』が到るところで演奏され、大晦日から新年にかけて『蛍の光』を耳にし、謹賀新年の挨拶が飛び交う日本(人)。
12月24日から1月6日前後を「Merry Christmas and Happy New Year」とのクリスマス週間とするキリスト教徒からすれば目の回る忙しさだが、それを何ら煩わしく思わず愉(たの)しむ日本人。そのことに眉をひそめる日本人もあれば、特性としての特異を言う日本人もある。
私は、日本人と行事、祝祭日から、短詩型文学俳句の創出者日本人の感性と近代化・近代化に右往左往する日本人、或いはホンネとタテマエの日本人を考えるのも面白いかな、と思う後者側である。

2016年、2015年心に押し寄せ不勉強の慚愧(ざんき)に襲われた幾つかの内、一つでも退治できたら、と。
己が感性のおもむくままに想像を巡らす心も、時間も余裕のない高速化と情報化の現代にあって、70年間生きて来た事実と老いゆえのスローライフができる幸運な境遇があるのだから、と言い聞かせて。

 

 

2015年12月18日

中国たより(2015年12月)  『鴨緑江』

井上 邦久

11月末日、小春の上海から二時間、数日前の大雪が融けずに残る丹東空港に着きました。遼東半島の東の付根の丹東は、朝鮮半島の西の付根でもあり、黄海に注ぐ鴨緑江を挟んで向かいは北朝鮮の新義州です。東経125度近くに位置する中朝国境の丹東(同じ経度付近には長春そしてハルピンがあります)に定点観測のように足を運ぶようになってから数年が過ぎました。
中朝貿易の70%の貨物が通過する、或る意味デリケートな地域である丹東の縫製工場に専用ラインを設置しています。その為、安全保障貿易の管理規則遵守の確認が最大の出張目的となります。大連からも毎週のように担当者が丹東に赴き、管理動作を行っています。加えて今回のような出張監査によって、北朝鮮との禁輸法令に関して社内外の関係者への注意喚起やヒヤリ・ハット違反事故の抑止効果を狙います。

早稲田大学への留学後に、中国企業ではなく当社の大連現地法人で二十年余りの研鑽を積んできた副総経理と丹東での事業提携先のオーナーとの交流は到着直後の夕方から始まりました。時節柄、公的な立場の人たちとの従来のような交流は難しいことは承知の上でしたが、オーナーの尽力で、出不精・口篭りがちの昨今の市政府関係者とも面識を得ることができました。

面談前の時間待ちを利用してハイヤー運転手にそれとなく聴くと、最近の平壌(ピョンヤン)訪問の様子を話してくれました。国境の橋を渡った新義州で長時間待たされ、ようやく動いた鉄道は新義州から平壌までの300km弱を5時間余りかけて行く。線路の鋲が盗まれて緩んでいる、枕木コンクリートが劣化している、だから加速できない、と言われているとのこと。平壌はとても綺麗で清潔にしている、商品が飾られているようだが詳しくは分からない。巷間伝えられるように、平壌などの都市は見られて恥ずかしくないモデル都市であり、高官など選ばれた人たちの住む街、トイレットペーパーもある、とのことでした。

翌朝、3年前に訪れた黄金坪開発区(最近では自由貿易区構想)に向かうと、新設なったばかりの新鴨緑江大橋(3030m。中国が22.7億元出資)が見えてきました。警備員が一人だけ歩哨する小さなゲートを特別に開けてもらい、橋の半ばまで入らせてもらいました。積もったパウダースノーに轍が数本あるだけで、人の動きは未だなさそうです。橋の中央部にはゲートがあって北朝鮮側には入れません。中国側の橋のたもとには税関などの公的機関や物流・貿易企業のための高層ビルや物流センターが完成しています。しかし、12月1日現在は空っぽでした。脱北者は川向うで厳しく取り締まられ、中国から北朝鮮に逃げ出すような物好きはいないから、警備員は一人で十分なのでしょう。物好きな日本人は、河南省出身という若い国境警備員に御礼をしてから町中に戻りました。鴨緑江の上流側にある橋は戦前に日本が建設し、1953年に米軍の爆撃で「断橋」となり、現在は観光の目玉。その横に現在使われている鴨緑江大橋があります。

ちょうど一ヶ月前のソウルで、日中韓の経済フォーラムが開催され、来賓の三首脳のぎこちない握手が為されました。そのフォーラムで韓国の発言者は、日中韓三ヶ国による東北アジア開発の提案を行い、併せて「最近、北朝鮮に経済開放の動きがある」と述べ、この動きに三ヶ国が協調して対応しようと発言しました。
数ヶ月前に発表された「新義州経済特区」のことを指しているのか?もっと別の動きがあるのか? 少なくとも従来中国が自腹で受け皿を準備しているにも関わらず、北朝鮮が同じ平面でスイッチバックばかりしているように見えましたが、今回はどこが違うのか?と素朴に思いました。
美しい人工スキー場のような新鴨緑江大橋、一人だけの警備兵、ガランドウのビルを見る限り、これまでのパターンが踏襲されているように感じました。建造物だけは完成し、ヒトやモノの流れはこれから・・・の印象でした。

また日経ソウルの峰岸記者の情報によると、9月3日の北京式典に参列、10月10日の朝鮮労働党70周年記念式典では中国代表の劉雲山常務委員を接遇した崔竜海書記が、11月初めに地方農場に追放されたと韓国国家情報院が公表したようです。
2013年に同じく権力者の最側近で、中国との連繋窓口であった張成澤氏の処刑と軌を一にするのか?少なくとも中国との提携は後退するのではないか?
一方では、常に斬新な発想で新規開拓を続ける王正華氏が率いる春秋航空(本社;上海虹橋)が、週に4便の上海⇔平壌の航空路を開くとの発表に接したばかりです。

上記のことについて現地の人たちに聴いてみると、以下のような動きを知りました。

10月10日の劉雲山常務委員の訪朝時には、多くの提案項目が持ち込まれたとのこと。
中でも「一帯一路」構想を敷衍拡大した構想はスケールが大きく、釜山⇔ソウル⇔板門店⇔開城⇔平壌⇔新義州⇔丹東⇔瀋陽・天津・ハルピン⇔中央アジア・ロシア⇔欧州を高速鉄道や高速道路で繋ごうというもの。(3年前に板門店駅で、平壌行きの標識を現認したことを想起。また前述の11月1日のソウルフォーラムで聴いた発言の裏打ち?)

オーナー氏に新鴨緑江大橋はいつごろ本格稼動すると思うか?と問うと、「早ければ2016年」と即答。カンボジア等の諸国に分工場を設けるより、丹東の地の利と北朝鮮と韓国に繋がる人脈を活かした構想と願望に賭ける厳しい経営者の顔がそこにありました。
韓国経済の急減速の余波は丹東にも及んでおり、中国市場経済は「不楽観(楽観を許さない)」です。日本向けもアセアンとの競争で一進一退状態であります。平壌の大学を卒業したあと、ソウルの修士課程で学ぶ息子へのバトンタッチまで頑張る父親の顔も見ました。

丹東から高速鉄道で本渓まで1時間、瀋陽まで2時間そして大連には4時間半で到着。年内には丹東から遼東半島沿いのショートカット鉄路が完成して、大連までを1時間半で結ぶ予定とのこと。35年前に経済開放に踏み切った国のスピードを感じながら、ブリューゲルの「雪中の狩人」のような絵画世界を眺めました。窓景色の単調さとトンネルの多さもあったので、封切される映画を観る前に精読したかった『千畝In Search of Sugihara』(ヒレル・レビン著 清水書院)を手にしました。
口述歴史取材(オーラル・ヒストリー)手法重視の姿勢で、関係者を訪ねて世界を巡り(最初の妻が亡くなる直前に、オーストラリアの養護施設で「発見」して面談に漕ぎ着けたことなど)美談的、人道的な要素に流されない客観事実を優先する姿勢に終始していました。
杉原千畝がロシア語を学び、ロシア女性と結婚し、ロシアからの鉄道買い上げの折衝に心血を注いだ街、ハルピンへも今では瀋陽から2時間で着きます。

大連から東京へ移動した12月3日付けの日経新聞の電子版に、山口真典電子編集部次長による丹東に関する記事が掲載されていました。新鴨緑江大橋の写真入りで中韓物流ルートについても述べられていました。
物好きな日本人が自分一人だけなかったことが分かったので安心しました。

中国の「一帯一路」構想も結構なことです。韓国が景気梃入れと安全保障の横展開を期待することも有りうることです。それ以上に北朝鮮の物流門戸が開くことから経済開放が進展し、ヒトとモノの流れが隠れていた事象を明らかにしていくことを切に念じます。      (了)

2015年12月14日

『日韓・アジア教育文化センター』2015年 報告と心願

井嶋 悠

     2015年の終わりを前に、私の内容・文章責任に於いて、報告1件と極私的な回顧からの願いを記します。

 

Ⅰ 香港と兵庫県西宮市の二つの小学校(共にカソリック系ミッションスクール)交流の実現

【交流校】

香港   St Francis of Assisi’s English Primary School http://www.sfaeps.edu.hk/ ]
日本   仁川学院小学校(兵庫県西宮市)[http://www.nigawa.ac.jp/elementary/

本センターの担い手であるマギー梁安玉先生(香港)と森本 幸一先生(日本)、と両校の先生方の献身と尽力により、11月27日・28日の両日、仁川学院小学校で実施されました。

きっかけは、マギー梁安玉先生からの交流希望の申し出でした。 マギー先生は、日本語教育、日本文学の研究者であり、同時に「香港日本語教育研究会」会長として、近年、小学校段階からの日本語教育の展開を構想、実践され、併行して日本語既修者の語学力と日本文化への関心をいかに持続させていくかということを最新の課題として模索されています。

その申し出の受け容れ校探しで尽力くださったのが、森本 幸一先生です。 森本先生は、小林聖心女子学院小学校(聖心女子大学の系列校で、国内に小中高が幾つか開設されているその一校)で、国語(科)教育を中心に教鞭をとられ、今春の定年後の現在も続けておられます。
先生は、子どもたちの自然によって培われた感性を大切にした「表現と理解」を核に据えて、指導されています。

両校とも“進学校”で、学校暦の違いから、この時期の日本での開催は、進学最終準備期でもあり、且つ晩秋期で年間平均気温25度の温帯地からの子どもたちの健康問題等、考慮しなければならないことも多く、困難が予想されましたが、仁川学院小学校の先生方と香港の先生方の熱意と理解が響き合い実現しました。
当日の内容や感想等については、後日、マギー先生、森本先生から改めて本センター『ブログ』に、寄稿くださることになっていますが、森本先生が私に伝えて下さった次の一言が、その豊かな時間を端的に表していると思います。
「大変よい小学生交流会で、私もその後、放心状態でした。」

1993年の韓国の韓国人日本語教師との出会い、1998年の中国の中国人日本語教師との出会い、2004年のNPO法人としての出発、そして現在に到る中、浮沈、紆余曲折ありましたがこのような企画にお役に立つことができ誉れにも似た喜びを思っています。
あらためて本センターホームページ[http://jk-asia.net/]の「活動報告」「映像」等で、私たちの道程(みちのり)を見ていただけましたら一層の喜びです。

 

Ⅱ 『日韓・アジア教育文化センター』回顧 ~極私的な願いを込めて~

私感として、日本は今、あからさまに岐路に立っていると思う。私は1945年(昭和20年)8月23日に長崎で出生している。戦後世代の初めだが、今では旧世代で、私感は老いの嘆き、愚痴と一笑に付す人も多いかとは思う。しかし、一方で、同じ感懐を持つ老いだけでない大人が少なくないことは容易に推察できると思う。

【余談】
この文章を受身(迷惑の受身)表現にすると「××によって、……岐路に立たされている」となる。××部分で私を含め発言者の観点、生き様が見えて来て興味深いが、別の機会にする。

国内の貧困格差の拡大と、諸相でのそのことによる先進国と言うことの不条理(例えば人権、教育に係ること)、対外的に増殖する強国意識或いは新「富国強兵」視点(例えば、書店に並び、人口に膾炙(かいしゃ)する嫌・反韓/嫌・反中そして嫌・反日に見る「黒洞々(とうとう)たる夜があるばかり」《芥川龍之介『羅生門』》のような喧々囂々(けんけんごうごう)、罵(ののし)り合い)。

1993年からの、韓国との、中国との、そして日本国内での、恵まれた出会い。そしてそれがあってこそ為し得た様々な実践。それを行って来た一人として、私たちの実践が、闇を脱け出る幽かな一助にならないか、と不遜を思いつつも想う。
とは言え、ここで「国際(人)」とか「グローバル(人)」といった言葉を、私は出すつもりはない。そんな大それたそのものは私にはない。

『国際理解教育のキーワード』(有斐閣・1992年)との書での「国際人」の項目では、旧知の異文化間教育研究者が、世界(地球)視座から、10項の内面を挙げて一つの定義を試みている。
目がくらむばかりで、自身とのあまりの遠さを思ったりもするが、言えるとすれば、人皆同じとの私ゆえ、人種、民族でのタテマエとホンネはなく、その上で日本を、日本文化を、あくまでも相対を心底に置いて、大切にしたいと思っている、33年間中高校国語科教師だった一日本人である、と言ったことぐらいだろうか。

以下、そんな私ながら一人でも多くの人に、本センターと、その設立への土嬢となる様々な実践を担った日韓中の、またそれ以外の国の人々について、実践内容と併せて記す。
恵まれた出会いに感謝しながら。
叶うならば何かの折にサイトを閲覧していただければとの願いを込めて。

 

○1994年~1998年  [第1回~第5回](神戸・ソウル/慶州)『日韓・韓日教育国際会議』

○2000年~2011年  [第1回~第5回](神戸・釜山・上海・香港・宝塚)『日韓・アジア教育国際会議』

内容は、回毎に主題を、それぞれが、とりわけ若い人々が、現代の基盤近代史を自覚し、次代を自身内に展望することになるような願いも込めて、設定し、講師の招聘、教員間の、高校生間の討論また開催地の見学等を実施した。共通言語は日本語である。この感動とそこから滲み出る責任への思いは、想像を超えて日本語を母(国)語とする私たち日本人に迫って来る。

二つの大きな体験を挙げる。

一つは、1996年(神戸)の第3回『日韓・韓日教育国際会議』での、「阪神淡路大震災と在日韓国朝鮮人の人権」を主題とした現地(長田区)での講演と現地見学で尽力くださった、当時当地の民団長をされていた金(キム) 孝(ヒョウ)氏をはじめとする現地の方々。

痛覚した、日韓の深い絆の再確認と次代への期待。更には、その数年後に沈んだ心境を語られた金氏の重さと私の軽さ。

一つは、2006年(上海)の第3回『日韓・アジア教育国際会議』で、「東アジアの過去・現在・未来」と題して講演くださった池(チ) 明観(ミョンガン)先生(1970年代の韓国民主化での中心的人物であり、韓日比較文化研究者で、長く日本の大学で教鞭を取られる)と、
会議期間中の日韓中台の高校生たちを追ったドキュメンタリー映画『東アジアからの青い漣』を制作した当時20代の映像作家逢坂 芳郎氏や里 才門氏、また後にポスター制作等で尽力することになった同世代のデザイナー山田 健三氏。

池先生の深い見識と“和顔愛語”そのものの語り掛け。
全編に流れる映像作家たちの瑞々しい感性と映像。
韓国から参加した高校生が言っていた「韓国で、中国本土と台湾のことを学び、恐々(こわごわ)参加したことが全く嘘だった」との言葉が示す、若者たちのしなやかな白地の感性。以心伝心。

この映像作家たちは、2008年には、日本語教育学世界大会(於:釜山)での私たちのポスター発表の一員として韓国を訪問し、抒情性豊かに『韓国訪問~釜山・ソウルの旅~』を制作し、
2011・2012・2013年には、他の映像仲間を加え、韓国の中学校・高等学校での、検定「日本語」教科書の映像(版)教材を、首都圏の学校等の協力を得て制作することになる。

教科書は日本人研究者と韓国人教師で構成されていて、その中の中心的執筆者は、ソウルの高校の日本語教員であり、韓国での日本語教材製作の要(かなめ)的存在で、本センターの担い手の朴(パク) 且煥(チャファン)先生である。
尚、先のマギー先生と朴先生へのインタビューが、彼らの映像で収められているので閲覧ください。

これらの実績があって2014年には、やはりソウルの高校日本語教員の朴(パク)允原(ユンヲン)先生を中心として作成された検定「日本語」教科書の映像(版)教材を、別の映像作家小川 和也氏たち3人が制作するという広がりをもたらすことになる。

 

私は日本のアイデンティティ(自律した自立)を意識し、求め、大事にしたいと思っている、国家主義者・民族主義者[nationalist]ではないし、ましてや国粋主義者[ultranationalist]でもない一日本人である。
しかし、幾つかの文化領域、教育にあってますます強くなりつつあるようにも思える一方的な欧米崇拝、言葉を換えれば劣等感はどうしたことなのだろう。それとも優越感の余裕と言う裏返しなのだろうか。これは、明治の近代化の為せることなのか、太平洋戦争敗戦がそうさせているのだろうか。

私の最初の勤務校(女子校)での外国人高校留学生への日本語指導で、1年の終わりに行なった留学生による文(日本語)と絵の「創作絵本」で、彼女たちはこんな主題で創作している。
その主張から30年余り経つ。絵本を書いた彼女たちは今50歳前後である。どんな思いで日本を見ているだろう。数年前、所在を見つけたいろいろと手を尽くしたが端緒すら見い出せなかった。

1982年  アメリカ(2人)『動物たちのゆめ』
動物たちを通して日米の生活環境を描写し、動物たちが日本の素晴らしさに気づく姿を描く。

1983年  ベネズエラ(1人)『きっと、どっかに』
地球を駆け巡り、仲間を集め、世界の平和に献身する日本の浴衣姿の少女を描く。

国語科教師であった私は、留学生や帰国生等によって、母語・母国語・第1言語が日本語にして日本語知らず、を自覚させられ、日本語教育(国籍とは関係なく、日本語を「第2、第3…言語」とする人々への教育)の国語科教育に与える大きさを直覚した一人である。 それは、小中高校の国語科教育は「畢竟、言語の教育である」との主旨に立てばなおさらである。

多くの識者は現代の若者たちの表現力と理解力の低下を言う。私は、一部の人が指摘する、その根拠、基準のあいまいさ(国語学力、とりわけ「表現と理解」は計量化できない)と、受け手の想像力の欠落、低下が先ずあるとの考えを支持していて、自身の大雑把な(母語、第1言語教育に甘えた)国語科教育を省みればみるほど、緻密さが求められる日本語教育の有意性は明らかであると思う。

(尚、これは「現代文」教育に関してであって、「古典」教育での言語の教育とは意味が違うが、ここではその指摘だけに留める。)

国語科教育では、例えば高校の、更にはその後の進学試験で、幼児対象の絵本そのものが材料となる。三好 達治の2行詩『雪』[太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。二郎をねむらせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。]は、どうして名詩としてあるのだろうか。

現代は高速化の時代で、知識の多少が“決着”となることが圧倒的で、心/想像の余裕はほとんどない。だから、日本語教育と国語科教育を「タテ」のつながりと見る人は、私の直覚は国語学力の低下を招くとして見ることが多い。
或る日本教育研究者は、私の直覚に強い関心を示され、『日韓・韓日教育国際会議』『日韓・アジア教育国際会議』で何度か採り上げたりもしたが、私の日々の校務消化ですべてが終わる怠惰性から、直覚は直覚のままで立証と論考の積み上げもなく現在に到ってしまっている。

勝手な言い分だが、是非、全国で日本語教育と国語科教育の「ヨコ」の連動から授業実践している学校、教師を積極的に採り上げて欲しいと思っている。

(或る公立中学校の私の旧知の教師は、学校としてはあくまでも課外扱いで、“ニューカマー”の子どもたちへの「ヨコ」の連動からの教育を実践していたが、現実の問題を肉迫的に知る日々を過ごすことばかりで、数年前定年を迎えた。)

 

最後に「海外・帰国子女教育」のことに触れる。
私が就いた幾つかの学校の内2校は、帰国子女教育を理念の一つにしていたこともあって、海外の異国・異土で、子どもたちは、保護者たちは、どんな家庭生活を送り、どんな学校で、どんな時間を過ごしていたのか、と想像することから始まり、校務で帰国子女担当をすることも多く、教育と社会に係る幾つものテーマを私に与えた。
センターの担い手にも同様の人がいたり、韓国や中国、台湾でも「海外・帰国子女教育」は、国際化と教育に係る重い課題として顕在化しつつあり、会議で採り上げ、時には韓国の先生を含めた日本の研究プロジェクトにも参加できる過分な機会まで得た。

その中で、海外子女教育と日本(人)について一言記す。
これは、学校職務での海外の学校(但し、ここでは以下の内容上、日本人学校に限定)や塾への訪問、センター企画のセミナー等での体験(出会い)から直接に知り得た一部の教育関係者のことである。
記すことは、例えば日本内で“荒れた中学校“に勤務していた教師が、日本人学校に赴任(任期2~4年)し、「授業ができる」喜びと充実の時間を持ったといった感動的な事例ではなく、敢えて暗部的なことを記す。

これらは少数のことであるとは思うが、「好事門を出ず、悪事千里を行く(走る)」。こういった方向から日本(人)を考えることも必要ではないか、とのこれも私の自省自戒であり、不遜からの思いである。

私は仏教に親愛心を持っているが、東アジアで最も信仰者の多いその仏教で、人間の非として「驕奢(きょうしゃ)」(驕り高ぶる)を説いている。
現地(ここで記す体験はアジア地域)で、自身を特別な存在と意識した言葉や態度を表わす驕奢な日本人学校管理職教員や官庁系出向職員に、何人も出会った。そこには本センターへの根拠のない誹謗中傷もあり、それがために企画の変更を余儀なくされたことが、二つの都市である。

これは、或る高名な日本人仏教研究者が憂う「日本・日本人の伝統、謙虚さの喪失と時代の悪しき変化」なのではないのか。それとも、いつの時代にもあることでの要は個々人の問題であり、ただ今日世界のリーダー矜持が日に日に強くなる中での、日本人の必然的な変化と言うことなのだろうか。
日本人学校内の日本人間でも不信感が露わになることもあり、その時、現地の人には日本(人)は一体どのように映っているのだろう。
もっとも、これらのことは人格未陶冶な人間(私)が言うことであり、更にはこのような事例の最後に出会って数年が経つ今ではもう遠い過去の話で、杞憂に過ぎないならばそれで良いのだが。

 

2015年12月5日

犬、その大いなる仁愛・慈愛

井嶋 悠

晩生(おくて)。晩熟(おくて)。私はその一人で、晩稲とも書く。と言っても、70にして熟したわけでもなく、そのような品種として生まれたようでもないので、年月が経っているだけで旨い米も提供できない。当然、早生、早熟[わせ]であろうはずもない。やっと「生」(生(せい)。生まれる。生きる。)が少しは分かり始めたかなと思うくらいである。
これは、何かの折に幾度となく周囲から言われて来た「お前は、何するにも10年遅れてる」の実感得心と重なっている。ただ、漢字表記としては「晩稲」に愛着を持つ。農耕系の風貌?と心構造がそうさせるのかとも思ったりしている。
この心境に導いたのは娘である。その娘の“霊”の後押しを得て、或る日突然のようにモノを書きたくなり、NPO法人日韓・アジア教育文化センター(2004年認証)の《ブログ》に場を借りて、私物化するかのように投稿している。
「死は人を目覚めさせる」なのかもしれない。

そんな私だから人間関係はちぐはぐで上手くなく、かと言って本性に孤独への強さなどどこにもなく、我がまま勝手の見本のようなもので、それが一層動物好きにしているのかな、とこれまた勝手に思っている。思われる動物こそ迷惑千万なことである。
幼い頃からいろいろな動物を飼って来た。猫、二十日鼠、犬、昆虫、金魚、亀、小鳥……、そして今、犬を愛玩ではなく、かけがえのない同居人〈犬〉との心境に達し、8歳のフレンチブルドッグとシーズーのいわゆる“ミックス犬”(雌犬)とほぼ寝食を共にしている。
これはあくまでも私からのもの言いで、彼女からすれば、私と寝所(ベッド)をシェアーしている感覚にあるようにも思えるし、彼女は私を自身の料理番として親愛の情を寄せているように思える、と妻は嬉しそうに言っている。

この同居人を我が家にもたらしたのは娘である。
関西から共に移住して来た2匹の犬(ゴールデンレドリーバーとシーズー)が、前者は高齢で、後者は病気で相次いで死に、娘自身が心身悪戦苦闘中で、新たに飼うことにしたのである。
ミックス犬は純血種より病も少なく長命との評判もあってか、今では高価な犬なのだが、当時はさほどでもなく、更には娘の頑張り!で半額で購入した、生後数か月の、手のひらに載るほどの、切ないほどにいたいけで、娘が使っているクッションにさえ上がれず、クークーと消え入るように泣いていた犬である。
心身不安定もあって、娘の躾教育は、時になかなか厳しいものであったが(私たちはその都度彼女に話し掛けたものだ「ごめんね、おねえちゃんしんどいの、我慢して」と)、彼女は従順に、それでも時々怖げに、吸収し、私とは違って早生なのか、「学習能力の高さ」を示し、日々確実に良識犬として成長した。
犬の1歳は人の18歳で、それ以降、人の5年単位が1歳との説に従えば、彼女が30歳頃の時、彼女の飼い主、娘はこの世を旅立った。
その時、彼女はその事実を明らかに承知しているかのようにクーと泣いた。その声と姿は今も私に明確に残されている。

亡き飼い主の跡を継いで3年余り。彼女が前の飼い主のことを心に留めている、と何か具体的な行動があるわけではないが、ふと思うことがある。
私は人語であれこれ話し掛ける。彼女はじっと私を視る。眼がああだこうだ語っている。ときどきの眼の表情の違いから、私はああだこうだ想像を巡らす。そこで対話が成り立っている、と私は勝手に思う。思うことで私は私を救っている。おかげで相当に孤独への強さが培われた。
彼女は散歩のときも私を労わる。彼女は少し前を行くのだが、足腰の弱りつつある私を思ってか、時折立ち止まり、私の足元をじっと見て再び歩き始める。そしていつもの折り返し地点に来ると私を見上げ、私が「帰ろうか」と言えば踵(きびす)を返す。時にはその地点に来ると、チラッと私を見て自ずとUターンする。

この私の体験から思う。彼ら/彼女らはただ話さないだけで、人を直覚しているように思えてならない。「犬(動物)好きは犬(動物本人)が知る」である。
動物はじっと人(飼い主)の眼に心を注ぐ。初め人はたじろぐ。しかし、直ぐに己が浅薄さに気づかされ、微笑み返す。その瞬間に流れる以心伝心。
動物は一切の作為なく自然に自身の時間に身を委ね、人は安らぎと温もりを与えられる。動物が人の心の治療に大きく貢献する事実も、その交信があってのことであろう。
思い巡らせる時間の力。識者がしばしば言う「想像(力)」の重さ、深さ、大切さである。氾濫する情報(知識)と“私の”智恵に向かってそれらを取捨選択し統合する至福の時も持てないかのような、現代日本感覚での“人間らしい”生活のための慌ただしい日々刻々。いそがしいとの漢字が「心+亡」であることにあらためて気づかされる。

先のゴールデンレドリーバー(雄犬)もそうだ。猛烈なやんちゃの子ども時代を経てほぼ10歳、老いの境涯を携えて移住した当時、私の関西との往復生活が続いていた或る夜、1か月ぶりで戻って来た私を迎える彼のしぐさ、眼差しにいつもと違う情愛を直感したことがあった。その深夜、彼は旅立った。「オトンを待っていた」。これはその時の娘の言葉である。
大型犬の子犬時代のやんちゃぶりは相当なもので、彼の場合、どんなに注意しようがお構いなく手当たり次第に家具をかじる。思い余って台の柱にくくりつければそれを移動させ!且つかじる。そのことを、やんちゃラブラドールを飼っていた或る女性作家は「床柱に独自の彫刻を施し」と書いている。犬への深い愛情あふれる表現に感心した。表現を生業(なりわい)とする人は違う。

犬は、(動物は)飼い主を直覚する。
こんな一文に出会った。表題は『妻と犬』。筆者は、生きる過程で困難な課題を背負い続けた昭和の作家島尾 敏雄(1917~1986)。(以下、「  」は作者の表現)

―作者と妻が過ごす家にいつしか住みついた犬。作者は飼う気など全くなかったのだが、「けものを飼いならす一種の才能」を持っていた妻がクマと名付けて飼い始めた。クマは、厳しい「過去の古疵(きず)」を心の奥に持ち、今も不安を抱いている作者の妻である飼い主にひたすら尽くし、二人を護る。鑑札の手続きもせず、食事や散歩の世話をしていない飼い方に「このましい飼い方」とは思っていなかった或る時、「からだの弱い妻」にはクマの世話は過負担で、しかも娘が入院することにもなり、夫婦合意で保健所に通報することになった。保健所員が来て、大捕り物になる。その描写に続く文。

「……家の縁に立っていた……妻の方にかけ寄って来て、妻の目をじっと見上げたと言うのだ。妻はこころのちぢむ思いで、でもクマをかばおうとせずに、じっとつっ立ったままで居たところ、その妻の態度を見てとったクマは、今まで狂わんばかりにあばれまわっていたのに、そのまま、妻の目の下におとなしくうずくまってしまったのだった。もちろん捕獲人はすぐクマの首に針金の輪をひっかけ、捕獲車の方にひっぱって行ったけれど、クマはもう一声も発せず、また妻の方を振り向きもしないで、捕獲人の手あらな扱いに身をゆだね、車の中に投げこまれたまま、連れて行かれてしまったのだった。やがて、クマは殺されてしまったろう。……妻はまた、ときどき思い出したように、夜の庭の闇に向かって、「クマ、クマ」と呼ぶことをつづけていたのだった。」

ここでこの一文は終わる。

その直覚と底に流れる飼い主へのひたむきな仁愛、慈愛。動物を、犬や猫を飼った人はほとんど同意共感するのではないか。
ただ、私は犬にそれをより強く直感する犬派である。猫は唯我独尊性がより強固で、仁愛慈愛があっても突き放したところから発しているように思え、寂しさに弱い軟弱で主観的な私には、客観性との意味合いでの冷たさ、厳しさを思いたじろく私がいる。夏目漱石の『吾輩』は、やはり猫であってこそ説得力がある。

猫派に女性が多い。なるほどと思う。女性の生きる力は大地であり、大海であり、男性のそれより強靭である。平均寿命の長さが、その科学的証明の一つかもしれない。
男女の死に深浅はない。しかし、女性が自身で死を選ぶことの巨(おお)きさに、男性はより心を向けなくてはならないと思う。
日本は、今もって男・女生きる諸相であまりの精神的貧困にもかかわらず、世界の指導者意識を言う。言うのは現首相を筆頭にほとんどが男性である。先ずそう言う老若(特に老?)男性の謙虚な自省からの自覚なしには貧困はなくならない、と男性の一人である私は思う。

「日本はもう終わった」と寂しくつぶやく大人が、高齢者が(私の知り得ている限られた数かもしれないが)、増えていることに、政治家、官僚、学者、またマスコミの、日本を牽引していると矜持している人々は気づかないのだろうか。それとも、タテマエとホンネを使い分けることでの優秀さにある保守性ゆえに気づいても気づかないようにしているのだろうか。知らんふりをする、無視(ネグレクト)する、要は切り捨てなければ日本の繁栄はない、と。

自治の最高峰でもある大学も含め学校教育世界は、新版富国強兵をひた走る政府と財界の、どこまでも下部組織なのだろうか。それとも自治の担い手の生徒学生そのものが、それを善しとする時代なのだろうか。否、私たち大人が、教師が、それを自明の当然としているということなのだろうか。

これらはすべて私の体験とその内省自省からの言葉、それも人生終盤を迎えての、である。
その時、娘が引き合わせた愛犬は、晩成品種の稲に失礼ながら晩稲(おくて)の私に今日も寄り添っている。