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2021年12月22日

『老子』《老子道徳経》を読む

井嶋 悠

小学校時代は前半が母子家庭、後半は伯母夫婦宅預り、中学時代は反抗期に加えて新しい母との折り合い悪く、また学校では被差別部落問題が絡んでの暴力事件の多発、高校は某国立大学附属に進学するも勉学、生き様の要領の悪さも手伝って「青春?嘘でしょ?!」の日々、悲惨な浪人一年、高校教師の訳のわからぬ大学評価の煽りを食らっての、との責任転嫁よろしく鬱陶しい大学生活、というかほとんど登校せずの日々、にもかかわらず試験や卒論は二人分を、時には三人分を請け負い、父の私の非社会性?を案じてか大学院進学を奨め、何も考えずに受験したところ何と合格!しかし大学院入学直後からの全共闘時代。ノンポリよろしく遠巻きに見たり、時に先輩後輩からデモ、アジ、占拠の勧誘もあったりで、ただただ直感的共感にもかかわらず優れた闘士に倣って?1年で自主退学。その後、家を飛び出し東京での放浪生活。

かような劣等人があろうことか、教師に到る道程で経験した四つの不可思議を記す。

27歳での、第一の不可思議。

高校時代のアルコール依存症の恩師(国語科)の突然の電話で、西宮にある大学併設の名門女子中高校国語科の、半年間契約の非常勤講師に。
続いて第二、第三の不可思議。

非常勤講師の一年延長、更には延長後の翌年に専任教師に。真っ当に職に就いたのが30歳。
授業や生徒指導は、知的に高度な生徒に鍛えられ、校務は先輩教師に“お仕置き部屋”での説諭も度々、更には保護者会なるものの存在感も教えられ、「なでしこジャパン」草創期の女子サッカー部顧問(監督)に10年ほど心身一途の打ち込み。
夜はほぼ毎日の痛飲。もっとも教師仲間の酒席は、生徒と同僚と保護者の品定め会で、“放浪”経験者としては、ほとほと嫌になり喧嘩も重なり数年後に一抜けし、女性教職員の私の将来を案じての愛情あふれる憂慮が功を奏したか、33歳にして結婚。

その後、体よくいえば時々の感情、意思の高揚に導かれ、幸いにもいろいろな人々の支えと何よりも私を知る人々から「よくぞ離婚されずに済んだな」と讃えられるカミさんの理解と協力を得て、最初の勤務校に17年間奉職するも、夢を追い、吹聴者に欺かれたのも含め、生涯三校の私学を渡り歩く。
とりわけ二校目では理想[国際の標榜、個性重視等々]と現実[塾あっての学校運営、大学進学がすべての進学教科指導粉骨砕身教師=優秀教師等々]を全身で知らされ、2年で白旗。
カミさんと二人の子どもを抱えての2年間の浪人生活。時に年齢40代後半。

第四の不可思議。

インターナショナル・スクールと日本私学一条校が協働する日本最初の学校に。
そこで10年。しかし、権威と独善を正義とする2代目校長を含めた一部日本人教師との軋轢と憤慨。60歳半年前に退職し、不登校高校生を集めた某私立高校に非常勤講師勤務。

そこに父親の遺産問題並びに我が家の住宅ローン問題、実母と継母との疲れる関係が重なって江戸っ子カミさんの英断。転居先は栃木県北部。先ずカミさんが。娘と私は数年後追いつく。

その娘、後で知る中学校時代の教師のネグレクト(いじめ)、持ち前の意地と理解ある教師の支えもあって乗り越え、高校へ。しかし、自身の意思で進学した公立高校の、学校の、教師のいい加減さに幻滅し、在籍校の指示[「進路変更」]通りの退学届けを提出。通信制高校へ。そこで卒業。
母の元に行き、某有名私立大学通信課程に合格。これは彼女の資質の発揮。
彼女の死について、「後で知った」から社会への告発をしなかったわけではない。すべては、娘本人、母の希望であり、かつまた私の性向を知ってのこと。何度か告発しようかとも思ったが、周囲の、相手の反応等も予測が立ち、母曰く「必ずその教師には天罰が下る」に矛先も緩む。

その中学2年次の教師による傷は深く、悪戦苦闘の日々が濃い心身の疲労感へと変貌へ。母娘2人3脚で続く、車で往復3時間ほどの病院通い。娘が心休まる医師との出会い。
しかしそれも空しく、2012年4月 娘、悪戦苦闘空しく他界。享年23歳。

いろいろな事が起こるは世の常……。
私は私で人生の自照、自省の始まり。2000年前後から始めた『日韓・アジア教育文化センター』のNPO法人活動(2019年、法人を撤退)が、生きる意思の支えに。

老子の断片が頭を過ぎるようになり、精読へと私を誘う。そこで始めた「教育」経験者の私の「[老子]を読む」がこれ。

老子道徳経[上篇]

第1

道・名
無欲は妙(微妙な始源)、有慾は徼(きょう)(表面的現象世界)
玄(深淵)のまた玄は衆妙の門

無名=道=始源→→→有名=天地=母[母胎]→万物

◇学校は母性社会だと思う。包み込む社会。女性の母性と男性の母性が融合する場所。有名進学校、受験塾・予備校は父性社会だと思う。断ち切る社会。

◇キリスト教主義の全国の中高校教員研修会(於:御殿場)に参加した時の二つの印象的なこと。
・結石持ちが多いのは女子校教師
・昼休みにソフトボール等運動を積極的にするのは女子校教師

◇男女共学化が進む中で、男子校が共学になるのと、女子校が共学になるのでは、教師の対応困難さが違う。
そして男性は母性を憧憬し、女性は父性を憧憬する。その調和が、平和を、動的な静態を生み出す。

2021年12月22日

多余的話(2021年12月) 『carry-over』

井上 邦久

堀田暁生先生から旧陸軍真田山墓地の保存に関する資料を頂いた。大阪の上町台地を大阪城から南へ玉造・桃谷の辺りを歩いたときに墓地の一角に立ち寄り、町中のエアポケットのような印象が残った。
後日NHK「ファミリーヒストリー」で桂文枝(深夜ラジオ族の頃に馴染んだ桂三枝)の実父銀行員の河村清三氏は、徴集されるも結核を発症し一人っ子を残して陸軍病院で亡くなったとのこと。
その遺骨が何故か真田山墓地に残されていたことが番組取材で判明して、久々の親子の「再会」をしたことを知った。

今回の資料に接することで、1871年に設けられた旧陸軍真田山墓地について、西南戦争前の「生兵」(徴兵され訓練中の兵)から清国・ドイツの俘虜も含めて1945年までの戦争の歴史が凝縮された場所であることを知った。
戦時下でない兵舎で若い命を失った「生兵」や病死した兵のように戦死者以外の人たちも葬られている。
画像資料のなかには墓地参拝を続けている府立清水谷女学校の大正と昭和の女学生の写真が眼を惹く。
和装の女学生がゆったりしたスペースでお参りをしていた大正時代、憧れの清水谷ブルーチーフのセーラー服が、隙間なく並ぶ墓石の間にぎっしりと並んだ昭和初期の写真、わずか十数年と想像される時間の変化を如実に物語って余りある。

大手前、清水谷と並ぶ大阪市内の府立夕陽丘女学校の卒業生である赤松良子さんが12月1日から日経「私の履歴書」を連載中。
毎月の執筆者のパターンは、ほぼ似ていて、親や家の話から始まり、幼児期、学齢期、社会人としての苦闘期、そして成功の道筋が始まる後半生、引退して家族の話を済ませたら月末という流れで、これまで読んできた500人余りの中で作家の安岡章太郎だけが時系列編年体を排していたと記憶する。
歳を拾うと苦労話には共感を寄せても、他人の成功談や恋愛成就の話には「ああ、そうですか」という感じがして、毎月15日以降は読み飛ばすことが多い。
しかし、戦時下から戦後の夕陽丘女学校で英語学習を渇望し、津田塾で英語を学ぶのだという執念を実らせ、その後の東京大学・労働省への進路は女性にとって「狭き門」どころか、当時の労働省婦人少年局以外の政府機関には「門」さえも無かった時代らしい。労働省官僚から国連公使となり男女均等法への道筋造りに悪戦苦闘したことを連日書かれている。

赤松良子さんのIQはとても高いだろう、EQも優れているだろう、それ以上にWQが人並み外れたレベルだったことが半生記を読んで伝わる。(Will Quotientは商社の管理職になった頃に、自分勝手に定義した造語)

今回は月末まで熱心な読者となる予感がする。ここまでたまに見え隠れする。
夫君とご長男についてどのような内容をどのように綴られるか?或いは軽く触れる程度にされるか興味深く見守っている。 

日経新聞といえば、日曜版に吉田博/ふじを夫妻の画業について新たな視角から切り取った連載があった。上海史研究会では、金子光晴/森美千代夫妻の研究報告を聞かせてもらった。二組の男女に共通するのは鬼(夫/男)の居ぬ間の女性の才能の開花であった。
戦後、吉田博を見送ったあとの抽象画『赤い花』『黄色い花』は実にのびやかで、セクシャルでもあり、どこかジョージア・オキーフの作品を思い起こす。
金子光晴夫妻の上海、仏印、パリなどへの流れ旅の回想録は高度成長期になって『どくろ杯』などに結実する。だが、実際は森美千代の記述や記憶に依るところが多くあるという見解に至った研究者趙怡さん。
自らの語りかけによって、説得力が増し、著書『二人旅 上海からパリへ―金子光晴・森三千代の海外体験と異郷文学』にも興味が湧いた。

茨木千提寺キリシタン遺物に続いて、戦国河内キリシタンの本拠が四條畷の飯盛(山)城周辺にあり、四條畷高校時代に通ったバス停の地名がキリシタン遺跡に繋がる事に驚いた。
また茨木の福井村は日本最大の罌粟の産地であった事を記す資料に再度触れた。50年前に南茨木駅工事で発見された東奈良弥生遺跡の記念講演で「弥生人は右利きであった」と言う深沢芳樹さんの話は楽しかった。事ほど左様に身近に好奇心を刺激する材料が多く、来年に積み残しとなります。

米中韓が基軸である太平洋航路のコンテナ輸送での積み残しは、貨物だけでなく日本の存在そのものが積み残しにならないように祈る毎日です。(了)