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2020年9月28日

ハレ[晴]とケ[褻]の間で ~現代日本の危うさ感

                           井嶋 悠

先月、75歳以上後期高齢者[1848万人・総人口[1億2593万人]の14,7%]の一員となった。

この拙文は、「新型コロナ禍」で今まで以上に外出することもなく、する際はマスク厳守(何度、忘れて取りに戻ったことか。アベノマスクは嘲笑の対象であったが、日本人のマスク習慣は、どれほどに日本礼賛につながったことか)の異常ともいえる世は、これまで機に応じて私に関心が起こさせた[晴と褻]ではどちらなのだろうと漫然と思い巡らせたことを私的に整理したものである。


65歳以上は高齢者と言われ、それを世界で見ると、日本は、高齢者の総人口での比率(28,4%)で第1位であり、平均寿命は女性が87歳で世界第2位、男性は81歳で世界第3位である。
3人に一人が高齢者で、仮に15歳から64歳までを労働可能年齢としてそれを総人口比で表すと、女性57,2%、男性61,5%となり、「男女協働社会」が、全き平等性とそれを支える育児、教育、福祉が確かな余裕性をもって機能しているならば、3人の内二人が働き手となる。そして38万㎢弱の国土の5~6割が山岳、森林すなわち居住可能地域が4~5割で、人口密度は全国平均337人/1㎢である。因みに人口密度に関して言えば、北海道が64人、東京が6,263人である。
“東京問題“は日本問題である。

四囲は海で、気候帯は北海道・東北の亜寒帯から沖縄・西南諸島の亜熱帯に到る南北に長い温帯を中心とした列島国である。温暖化による日本及び世界の自然環境の変容、破壊の問題は今措くとして、当然日本の自然環境は他に類がないほどに秀でている。
それがために人と自然に係る重い問題が頻出する。そして沖縄のように日米間に及んでいる。
一方で、というか必然的に一部亜熱帯地域を除けば四季が判然とあり、豊かな植物に恵まれている。中でも春・秋は古代にあっては主に貴族たちによって“春秋論争”が繰り広げられているほどである。


各季節の移行期には二重三重奏微妙な自然美を奏で、その自然の動きが、人の心の変容を司っている。その豊潤な自然が、繊細で濃やかな日本人の感性を長い時間を得て育んで来た。
ただ、近代化、都市化、地球温暖化は、その美を破壊することは多く、大きな社会問題であることは周知のことである。
地球温暖化の抑止、改善に日本がより積極的に発信すべきであると期待する世界の眼差しは多い。

その自然と人の調和を土壌として、2000年余りの時間[歴史]の中で創り出された多領域にわたる文化は、それぞれの時代を映しながら今に引き継がれ、新たな創意工夫も生まれ、国全体が「世界遺産」といっても過言ではないように私などには思える。
補足すれば、食文化ではフランスが刊行している年間書『ミシュラン』掲載の有無で一喜一憂するなんて滑稽である。

しかし、欧米基準の近代化は明治時代以降、富国強兵・殖産興業政策の下、急速に進み、太平洋戦争(第2次世界大戦)での敗北、復興過程にあっての戦争特需も手伝って、その影響は、古代の朝鮮、中国のそれをしのぐ勢いで、アメリカなしの日などないほどである。追従と揶揄されている。
「アメリカ人がくしゃみをすると日本人は肺炎になる」。

アメリカは、国土、経済、軍事において大国・大国主義(幾つかの辞典によれば、その基本は国土の大小・経済の高低・軍事力の強弱で、更には小にして低そして弱の「小国」に圧力をかけるとの説明がある)であり、国内の貧困や差別の問題などは二の次でもあるかのようだ。その大国の限定縮小版が日本と言ってはあまりに非愛国的であろうか。

上記大国主義にあたる国はアメリカ以外では中国、ロシアであろう。圧力を直接的世界戦略とまでする国はないとは思うが、例えば日本に対して、3国は様々な圧力をかけているのは事実である。
その時、大国間競争を融和し、地球全体の平和の実現に向けて、アメリカ追従の日本は何を発信し得ているだろうか。大臣レベルの政治家の日頃の発言を知るたびに甚だ心もとなくなり、結局のところバランス・オブ・パワー[balance of power]に収斂され、日本はますます勘違いをする。
日本国憲法論議がいかに重要か、今更ながら思い知らされる。


国連は世界連帯による平和の中核機関として創設されたが、拒否権にみる自国優先、優越は度々合意と言う道筋を挫いている。その国連の現状に、加盟国は理念から実動に関してどれほどに熱情と信頼を寄せているだろうか。言葉の虚しさを感ずることは少なくない。
その時、日本の歴史《近代での帝国主義化への反省を含めた2000年》と文化はその風土と共に、再検討されて然るべきで、それが、自主、自立した日本の姿となり、世界への発信力となるのではないか。

そう思う私は、日本の美点と同時に危うさを感ずる一人であり、同様の人は私の周囲だけでも少なからずある。「軽薄短小」は、日本の技術力を評価した言葉だが、それは過去のこととなりつつあり、頭脳流出はおびただしく、誇るアニメ文化の下降も伝えられ、いずれにせよ世相そのものが、軽・薄・短・小となりつつあるように映る。
年齢がまた世代が、老人特有の愚痴、杞憂を言わせているならばそれでよいのだが、日々の報道から直覚するに、我田引水を承知で、愚痴杞憂とは言えないようにも思えるのである。時代の動き(スピード)ついて行けないだけなのかもしれないが。

そこに世界的な【新型コロナ禍】が覆いかぶさり、半年余りが経ち、今冬以降インフルエンザとの二重性まで要注意になって来ている。地球に与えられた途方もない試練。
日本はまた大国は、「コロナ阻止」「経済再興」の両立を言い、いろいろなアイデアが出され、実行に移されているが、その結果は、これからである。天命である。天命は中国由来である。

いささか危機意識が過ぎたが、ではこの状態はハレなのか、ケなのか。私はちょうど谷間にあってもがいているのではないか、先人の日本人が考えたケ[褻]の想像を超えたのではないかと思うようになっている。
そんな折、民俗学者柳田 國男(明治8年~昭和37年)の『明治・大正史 世相編 上』(昭和8年・1933年刊)で次の言説に出会った。晴と褻に係るその部分を引用して愚文を終わりたいと思う。5年後の平均寿命無事到達のためにも・・・・・・。

――褻と晴との混乱、すなわちまれに出現するところの興奮というものの意義を、だんだんに軽く見るようになったことである。実際現代人は少しずつ常に興奮している。そうしてやや疲れてくると、初めて以前の渋いという味わいを懐かしく思うのである。――

       《注:明治・大正と併せて60年間、戦後75年である》

2020年9月21日

多余的話      (2020年9月)    『敵といふもの』

井上 邦久

先月冗長な拙文の締め括りに添えた高濱虚子の俳句について少しだけ補足をします。
たまたま正岡子規の最晩年の日誌『仰臥漫録』と森まゆみの『子規の音』を並行して読みながら、上野のお山を下った根岸のたたずまいと子規と虚子の関係を想像していました。
そんな時に、夕刊コラムの文末に川上弘美が「敵といふもの今は無し秋の月」という虚子の句を取り上げていたのが印象に残ったので、こちらもそれに倣い8月らしく文末をシャンと締めるために添えた次第です。

この句は1945年8月25日が初出だと教えて貰いました。
中之島図書館で当日の朝日新聞を調べた処、広島・長崎の原爆被災の続報や新任の東久邇首相への提灯記事の間に虚子の俳句が囲み記事として掲載されていました。
小諸にてという添え書きと四句が並び、三句目にこの「敵といふもの」がありました。当時、虚子は小諸に疎開しています。月暦を見るとその年は8月22日、23日に月が満ちていますから、ここでの「秋の月」は満月ではないかと推測します。

1941年12月8日の対米英開戦の直後から、気象情報は国家機密とされ公表されず、1945年8月22日にラジオ、23日に新聞で天気予報が再開されたようですが記録が詳らかではなく、小諸の空が晴れていたか気温はどうだったかは分かりません。

虚子が月を眺めていた同じ頃に、樺太からの引揚船がソ連の潜水艦の攻撃を受けて多くの犠牲者が出ています。
「敵といふもの」がまだ居たのです。声高に鬼畜米英と位置付けた「敵といふもの」は「今はもう無し」であるとする虚子の眼には、国内の日常生活を奪った「敵といふもの」も含めた実感ではなかったでしょうか。

75年後の今日、台湾海峡から南西諸島そして西太平洋にかけての海域からのキナ臭い報道に照らしてみると「敵といふもの今はまだ無し」であろうか? もうすぐ明確に敵と位置付けるのだろうかと考えていました。
そんな素人考えを一笑に付してくれた海自OBがいます。艦長として訪れた中国・韓国を含めた世界の海や港を知る、現場力を持つ中学校の同級生は、数々の体験的事例や情報に基づいた見識から、相互に敵とは言えないという根拠を教えてくれました。
現場から離れた場所から過剰反応をして「杞憂」状態になるのは健全ではなく、反対に「仮想敵国」とか「〇●もし戦わば」といったセンセーショナルな単語を並べ人心を煽る動きにも注意が必要です。
仮に現場のことを掌握せずに、或いは掌握していても敢えて、政治やメディアが「危機感」を醸成する振り子は落ち着かせるべきでしょう。

日清戦争でだれが勝利したのか?というテーマで書かれた『日清戦争』(大谷正・中公新書)を読み返しながら、多くの従軍記者や画家を戦地に派遣し、号外を連発する手法で、全国一位の部数を獲得した朝日新聞(大阪朝日新聞・東京朝日新聞)がメディア界の勝利者であったことは間違いないと感じました。
そこから、日露戦争・日中戦争・第二次大戦まで突き進み、1945年8月の無残な紙面に至ったありさまを一覧すると「敵といふもの」を改めて感じてしまいました。

9月10日の恒例の若冲忌。
京都深草石峰寺では感染予防対策を徹底し、事前登録の人数を絞りに絞って、本堂での法要が営まれました。庫裡に掛けられた寺蔵の若冲真筆を、手には取りませんが、手に取るように拝見できました。
マスク越しに読経を終えたばかりの住職は幾分紅潮した顔で丁寧な作品解説をしてくれました。彼岸法要は三密回避のため中止して、若冲忌の継承に注力した住職や寺の皆さんの気概も伝わりました。
伯父叔父の墓には一足早い彼岸の供花を行いましたが、自らの墓地用地の草抜きは暑いので端折り、弁柄色の丸みを帯びた山門を抜けて、隣の伏見稲荷経由の小径を歩きました。今は人通りも少ない歩きやすい径です。

下駄を鳴らして、道に迷っているばかりだった半世紀前と変わらぬ懐かしい径でもあります。