ブログ

2018年2月26日

スポーツマンシップ ~平昌オリンピック私感~

井嶋 悠

娘は、本センターの韓国の仲間であり友人たち(すべて日本語教師)から愛されていた。その娘が、心身葛藤の末、6年前、憂き世を旅立った時、二人(男性と女性)が、わざわざ弔いに来てくださり、夕刻新宿駅の改札口で待ち合わせた。
出会った時、無言で、私はそれぞれと堅く抱き合った。言葉は必要なかった。互いにすべてを承知していた。すべてが自然態だった。日本人同士なら黙って手を握り合うだけだったかもしれない。私は韓国人の激情性を少しは分かっていたのでそうしたのかもしれないが、その前に私の本性がそうさせたと思っている。二人の韓国人のひたすら哀しみをこらえている姿が、今も心に焼き付いている。そこでは日・韓人同士で確実に以心伝心が成り立っていた。

平(ピョン)昌(チャン)オリンピックスピードスケート500m覇者、小平奈緒選手の試合後の二つの行動が、世界中で大きな話題となっている。
一つは、自身が走り終えリンクを滑っている時に観客に向けて見せた、友人韓国の李(イ) 相(サン)花(ファ)選手を含む、残る2組の走者たちへの心遣い。
一つは、惜しくも2位になった10年来の友人李相花選手への試合終了後の心遣い。

そこには意図性など全くない、どこまでもやさしく、濃やかで、豊かな心の体現。勝者の驕りなど微塵もなく。小平奈緒という人格が静かにたたずんでいる、その漂う存在感。

多くの人が彼女のスポーツマンシップを絶賛する。私は思う。彼女はスポーツマンには違いないが、スポーツマンシップで括ることにどこか違和感がある。彼女自身、絶賛されることの嬉しさ、喜びはもちろんあるだろうが、或る照れくささのようなものがあるのではないか、と。彼女にとっては、選手以前に小平奈緒として、すべては自然態から出たことなのだから。
中には、オリンピックに政治を持ちこむことの、或いは政治経済優先の懸念が年々増えているにもかかわらず、日韓の政治的課題にさえ言及する人もある。彼女はそれをどんな思いで聞いただろう?
ここでも言葉について想う。
ことばとこころとひとと。(なぜか、ここはすべてひらかなが合うように思える。)

 

人生は不可解なことばかりで、時に鬱々としたときも多い。(その時の方が多い?)そういう時間をああでもないこうでもないと時を突き放し、或るときは時に流され、そして越えて行く人間の不可解さ。力。
小平選手も、高校卒業時に、また同じ代表の大学同級生の急逝、大学卒業時の人生展望で、苦難を抱えたと言う。やはり苦は人を巨(おお)きくするのだろう。
李相花選手との友情も、その浮沈があったからこそ確かなものとなり、年齢差を越え互いの尊敬にまで高められたのではないだろうか。
培われた人格は人を魅きつける。優れたコーチ然り。所属先の「相澤病院」理事長然り。オランダチームの仲間然り。
記者会見で、彼女が大切にしていること[言葉]を問われ、しばらく考え三つ応えていた。『求道心・情熱・真摯』

彼女にもいつか「現役引退」の時が来る。きっと第1級の、彼女が夢見ていた教員(或いは指導者)になることだろう。
「人間だけが重力の方向に抗(あらが)っている。彼は絶えず上に向かって―落ちたがっているのだ。」との、世界に巨大な足跡を遺したドイツの哲学者ニーチェ(1844~1900)の言葉があるそうだ。
誤解を怖れずに坂口 安吾(1906~1955)の『堕落論』から引用する。

『人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。』

小平選手は、黙々と走り、勝ち、静かな微笑みで李相花選手を労わった。そこに到るまでは順風満帆ではなかった。坂口の歴史観と言葉観と人間観から彼は小平さんをどうとらえるのだろう。

スポーツマンシップとの言葉は、イギリス発祥とのことで、それは伝統的支配階級[ジェントルマン]の二つの側面、スポーツマンであること「スポーツマンシップ」と、為政者であること「ステーツマンシップ」の両義(コインの両面)を表わし、今日の[ルールの遵奉]の意味が入って来るのは20世紀になってからのこととか。【石井 昌幸氏(早稲田大学准教授)の解説から適宜引用】
小平選手はスポーツマンである。しかし、彼女がさり気なく示した態度、また寡黙な中で発せられた一言は「スポーツマンシップ」の語枠を越えて、ますます複雑化し、孤立化する現代人間社会[市民社会]を痛撃することになったのではないか、と私は思う。
このことは、スキージャンプで銅メダルに輝いた高梨沙羅選手が、チーム写真撮影に際し、カメラマンに静かな口調で私だけを特別に扱う写真構図は止めて欲しいと申し出たこととも通ずるものがある。

オリンピックに係る、政治家や軽佻浮薄な一部マスコミの、また無責任なメダル期待発言との、言葉の重みの決定的違い。

もう一つ。
「より速く、より高く、より強く」と、剛が強調されるオリンピックにあって、この度「女子カーリング」を観、実に心和まされた。淡々と静かなリズムで行われる、氷上の、頭脳と繊細な技術の戦い。『おやつタイム』の微笑ましさ。見事に勝ち得た銅メダル!受賞後の言葉「早く北見(故郷)に帰りたい!」
彼女たちは私(たち)の心をどれほどに温めてくれたことだろう。

 

今回の韓国での冬季オリンピックでは、韓国と北朝鮮との統一チームや北朝鮮応援団[通称:美女軍団]と競技以外の話題もあったが、同じ民族での哀しい対立が、日本との領土問題、慰安婦問題が、それぞれの政治家、研究者(学者)が、偏った立ち位置ではなく叡智を集結し、合意点を編み出して欲しい。もしそれができないなら、次の或いはその次の・・・・・世代まで平和的に凍結する覚悟をもって。

このとき、「元来日本人は最も憎悪心の少ない又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。」(先と同じ『堕落論』)が、活きれば良いが…。無理かなあ?!…
ジョン・レノンは歌っている。「You may say I’m a dreamer」

これらの私的感想は、恐らく10年前の私なら生まれなかったかもしれない。これも時の為せることなのだろう。
そんな私に、教師時代にはこれほどまでに心沁み入らなかったが、今深く沁み広がる、有名な漢詩『陶 淵明(陶 潜)5世紀』の「飲酒」から後半部だけを引用して、この拙文を終える。

 

採菊東籬下  菊を採る 東籬の下(きくをとる とうりのもと)
悠然見南山  悠然として 南山を見る(ゆうぜんとして なんざんをみる)
山気日夕佳  山気 日夕に佳し(さんき にっせきによし)
飛鳥相与還  飛鳥 相与に還る(ひちょう あいともにかえる)
此中有真意  此の中に 真意有り(このなかに しんいあり)
欲弁已忘言  弁ぜんと欲して 已に言を忘る(べんぜんとほっして すでにげん
をわする)

[概要]
東側の垣根に咲いている菊の花を摘み、悠然とした気分で遠く廬山を眺める。 山の気は、夕方が素晴らしく、鳥たちは連れ立って帰ってゆく。
ふっと、ここにこそ、真理はあるのだ、と思う。
しかし、それを言葉にしようとすると、内なる閃きはもうすでに消えてしまっているのだ。
 

2018年2月13日

『日韓・アジア教育文化センター』回顧   ~韓国・高校・日本語教科書DVD制作の節目に感謝をもって~

井嶋 悠

                はじめに

昨年(2017年)夏、7回目[内、6回は本センターの仲間で、日韓を越えて対話の出来る韓国人男性の高校日本語教師・朴(パク) 且煥(チャファン)先生が主幹で、1回は中学校用を含む。もう一件は、急な事情でセンターの仲間ではない別の韓国人日本語教員主幹のもの]となる、韓国の高校用日本語教科書映像版【DVD】制作に携わった。
[附:文末に撮影の「実際」のリンク先を掲示]

 

私にとってこの活動[事業]の最後になると考えていて、また朴 且煥先生も恐らく最後の教科書執筆になるだろうと話していたこともあり、一つの節目として、今回この撮影活動の顛末と私感をまとめることにした。
これが、現在の日韓問題への、また“未来志向”への日本での有用な参考となることを、更には日本として、アジアを、「国際」を考える何らかの示唆となることを願っている。

 

『ソウル日本語教育研究会』との出会い、或いはDVD制作に到るまでと私

そもそも『日韓・アジア教育文化センター』なるもの、少数の限られた人だけが知る、いわゆる知る人は知る、知らない人は知らない存在ではあるが、発足者の一人として自己史と重ねた概要を記す。本センターの骨格の一部であるとの自負も含め。

尚、活動内容、活動実績の詳細は、ホームページ【http://jk-asia.net/】を視ていただければ具体的且つ全体的に理解いただけると思う。

Ⅰ 或る学校法人理事長の厚意、或いは苦境が幸いをもたらす

日韓・アジア教育文化センターの源流は、1990年までさかのぼる。
当時、私は公務の、それが私事にまで及ぶ自身が招いた艱難辛苦を実感する時期にあった。その時の支えは、私の公私すべてを呑み込み、言葉で表わすことなく、日々を『一日生涯』精神そのままに、二人の幼少児の母親である妻であり、幽かに光明感じさせる言葉を与えて下さった数人の方々である。

私が自身を「日本語知らずのモノリンガル国語科教師」であることに、身をもって知らしめたのは、ひときわ偏差値の高い生徒が集まる女子中高校に赴任したこともあるが、外国人高校留学生やインドシナ難民への日本語教育体験、また帰国子女教育の体験が大きい。
それがあって、私は国語(科)教育と日本語教育(日本語を第2、第3…言語とする人への教育)の、“タテ(縦)”のつながりではない、“ヨコ(横)”のつながりからみえて来る国語(科)教育の在りようを考えたい、と小中高大のごく一部の教員と研究会『関西日本語国語教育研究会』を発足させ細々と活動を続けていた。尚この国語(科)教育と日本語教育の関係は、今もってタテ関係、別領域として当然のように意識されている。

一方で、私の教師原点である勤務校から、夢を追って飛び出したはいいが、赴任先の校長とその人物に追従(ついしょう)する一派の社会的虚偽に強い懐疑を持ち、彼らから言わせれば後ろ足で泥をかけるようにわずか2年で退職した。
しかし、組織の不可思議さとでも言うのだろうか、退職したにもかかわらずその学校を含む法人(小学校以外、幼稚園から大学までを開設)理事長の厚意で、法人全体の『国際理解教育センター』を創設し、非常勤講師として同法人の別の高校に在職し、家族の糊口をしのいでいた。

そのような折、二つの貴重な機会を、やはり理事長の厚意で持つことになる。
一つは、1993年、韓国との出会い。
一つは、1995年、カナダでの福祉教育或いはその社会的実践の見聞。

Ⅱ カナダの障害者教育と実践の見聞[1995年]

後者は、カナダのモントリオールを基点に、主にダウン症の青年たちで構成されるレストランと彼らによる影絵ミュ-ジカル上演事業〔団体名「Famous People Players」〕活動である。本国だけでなくアメリカの心ある人々に支えられ、ブローウエイでの上演実績もある。
私に与えた感銘は大きく、彼ら彼女らから、阪神淡路大震災(1995年)で浮かび上がった社会的弱者の問題への啓発を得たく、日本(神戸)招聘を試みたが、私の能力、力量を遥かに越え、私の中では頓挫した。ただ神戸の福祉団体・機関の尽力で来日が実現した。このような事情から、それがどのような波及効果をもたらしたかは詳らかではない。

Ⅲ 『ソウル日本語教育研究会』との出会いと『日韓・アジア教育文化センター』発足へ

1990年、一衣帯水の韓国・ソウルで日韓国際理解教育(或いはオープン教育)が開催された。
ここで言う国際理解教育とは、『国際理解教育事典』(1993年刊)の「国際理解教育の目的」から要約すると、「宇宙船地球号」の一員として「経済大国」の日本は、何をしなければいけないのか、どのようなパートナーシップをもって、国際意識を育成するのかをテーマとした教育なのだが、私は参加を希望し理事長の許諾を得た。
しかし、「国際(社会・人)」の意味理解が不十分だった私は(今は私なりに得心できる解釈要素はあるが)、世界の日本語教育の約40%を占める東アジア地域の中等教育機関[中学校・高等学校]で最も多い韓国の現状を、この機会に知りたく思い、韓国人日本語教師の紹介を知己の日本人教育研究者に依頼し、実現した。
そこで出会った一人が、創設間もない『ソウル日本語教育研究会』の役員で先の朴 且煥先生である。この出会いが、中国や台湾の日本語教師との出会いにつながって行く。
『日韓・アジア教育文化センター』の名称由来が理解いただけると思う。
名称決定時「教育・文化」との思いもあって、以後1994年から始めた「日韓韓日教育国際会議」「日韓アジア教育国際会議」では、2011年まで続き、広く文化視点からテーマも採り入れている。

その時、私の心底に岡倉天心の『東洋の理想』の冒頭に触れた時の興奮、また鈴木大拙の「日本的霊性」との言葉への直覚が、夢想的憧憬として非現実性を重々承知しながらも横たわっていた。
と併せて、江戸時代の朝鮮通信使一行と彼らを迎える江戸の人たちを描いた木版画に登場する、好奇心(野次馬性)と感嘆の一市井人と同様の感情。

ここであの「大東亜共栄圏」に触れておく。
「あれは当時の私たちにとっても理想だった。ただ日本は行動において大きな過ちを犯した」
これは、阪神地域の大韓民国民団の、阪神淡路大震災で心身疲弊の極に達した親交のあった或る団長の言葉である。

【余談・後日談】その1

朴 且煥先生ともう一人の先生との夕食後の言葉。「会長命令で女性[ホステス]のいる酒席への案内を言われている。いかがでしょうか。」との問いかけに私が辞退したところ、「これまでに来られた日本語教育関係日本人は、ご自身から願われる場合もあったのですが……。」と。
朴 且煥先生曰く「お断りにならなかったら、今日の交流、協働はなかったかもしれない。」
私たち相互理解の会話の唯一無二の潤滑油は酒で、その場には女性教師もいた。

Ⅳ 映像作家たちの出会い

1994年に始まった交流(国際会議)の過程の中での、若手の映像作家たちとの出会いが、或る時の会議の映像記録制作となり、それが教科書のDVD制作につながって行く。
その作家たちとの出会いを創ったのが、苦境を経て当時『新国際学校』(2001年に日本で初めて創設された、私学一条校《私立学校》とインターナショナルスクールとの協働校)と称されていた中高校在職時に出会った、インター校在籍のS君である。彼は卒業後、ニューヨークの大学で映画を学び、帰国し、東京で活動を始めていた。
更には、初期の会議での朴 且煥先生の模擬授業「歌って学ぶ日本語」の講師をしてくださった方も、先の知己の人の働き掛けで実現し、その方とは現在も交流が続いている。

【余談・後日談】その2

S君との出会いは、彼が中学3年次での日本側の国語授業への参加〔彼の父は日本人・母はイギリス人〕と、在籍の大阪インターナショナルスクール(第1言語、共通言語は英語)で実施されていたIB[国際バカロレア]教育課程での「日本語」である。
ここ数年、IB教育が一部の教育関係者で話題になることが増え、本来はフランスが出発点で、世界の多くのインターナショナルスクールで展開されているが、日本の私学一条校でも採用されつつある。
ただ、その相違については、「日本語」プログラムが或る条件のもとで実施されているとは言え、十分な検討、確認が必要であろう。尚、昨年(2017年)日本で「IB学会」が創立されている。
日本で、10数年前、「横断的総合的学習」(総合学習)が導入されたが、「ゆとり教育」総批判と歩調を合わせるように過去の遺物と化した感がる。とりわけ「横断的総合的学習」(総合学習)にはIB教育に通ずる内容もあり、小中高校一体で考えなければならないにもかかわらず、それぞれの現場任せにしての対症療法的施策には、他の施策同様、日本の限界を感ずると言えばあまりに傲慢か。

日本語教科書映像補助教材[DVD]制作

韓国では、大統領が替わる毎に、教育課程の見直しに合わせ、教科書の改訂が行われ、その都度、教科書編集と新たなDVD制作が必要になる。ただ、DVDはあくまでも補助教材であり、編集・制作の必要条件ではないので、筆者や出版社によってはないところもある。
改訂とは言え、根幹はほぼ同じで(中学校用も含め)、日本への1年間の留学生(女子生徒)を中心に、学校・ホームステイ先・街等での、様々な会話で日本語基礎習得が図られる。

以下、撮影に入るまでの経緯と私なりのコメントを記す。
撮影日数は3日~4日に凝縮して行われる。多くは11月~12月にかけて。一度だけ夏に撮影。
スタッフは、先述したS君を端緒として知り得た、映像作家、デザイナー、著述業等5人で、彼らはすべてフリーランスで活動している。

学校探し[発音の関係、東京の街であること、との希望から首都圏に限られる]

受け入れ校(撮影許可、協力校)が決まれば、3分の2が達成できた感があるほどであるが、それは言い換えれば最大の難関でもある。国際交流団体、機関に打診、依頼する方法もあるが、私自身が意思疎通に不安を持つこともあり、それは最後の最後の手段と考えている。主人公の留学生役は、許諾いただいた学校の生徒を基本に決定するが、希望者等ない場合、一度、外部機関(例えば、日本語学校等)に打診し、選出したことがある。(有償で)学校関係での撮影内容 [以下、その都度いささかの変更もあるが、基本共通事項を記す。]
そのような中、埼玉県内の公立中学校・高等学校、神奈川県内の高等学校、東京都内の私立高等学校に、知己の教員の尽力で実現した。
基本は、これまでに出会った学校関係者で、私たちの良き理解者への打診であるが、私の教職時代がすべて関西であることもあって、首都圏の場合、非常に限られて来る。

※ホームルームクラス
※職員室・図書室・保健室等
※部活動
※昼食(食堂)
※登下校

【許諾された校長からの苦労談】

○学内協力者(生徒・教職員)の決定

○交流が韓国となることでの保護者会の不一致[嫌韓・反韓感情…]

○ホストファミリイの決定(保護者会への依頼)

○教職員、保護者への周知徹底と合意形成

○学外撮影(羽田空港・浅草等都内)での引率問題

○公立校の場合、教育委員会との連絡、手続き

 

ホストファミリでの撮影内容

※父母兄弟(姉妹)との会話、また外出
※食事場面

【許諾された家庭の苦労談】

○父母の出演[不可の場合、学校教師も含め外部者に出演依頼した
ことがある]

○食事等での材料また出前等調達
[ほとんどの場合、私たちが事前に購入準備]

○韓国側の希望部屋への対応[時には若干の模様替え。
もしくは学校内の和室等を代用]

 

街中での撮影内容

※祭りと露天(夏祭り、たこ焼き等)
※食事(お好み焼き、カレー等)
※部活動試合
※見物(浅草、スカイツリー等)
※空港での送迎

【スタッフの苦労談】

○事前場所確認と場合によっては事前予約

○撮影の際の関係者以外の人々への細心の注意と配慮

○時期外れ(部活動試合、祭り、露天〈金魚すくい等〉)の場合の写真
との合成作業
[金魚すくいの場合、スタッフが金魚卸店を事前に見つけ、そこで
撮影(冬期)]

○撮影器具等の管理と運搬

 

《撮影終了後の韓国・出版社との編集作業に関して》
これは、上記スタッフの監督が中心となって行うが、韓国の「直近文化」(これはこれまでの経験で、何事も直前に怒涛のごとく行動するのが韓国国民性と思える、私の勝手な表現)と日本的慎重さと締切の問題から、なかなか微妙な問題を抱えることになる。
経費問題
これまで為し得たのは、先述のスタッフ5人の理解と献身、そして出演等、時に無償で、受け容れて下さった方々の協力以外何ものでもない。

日本円と韓国ウオンの交換比率が概ね1:10の経済事情、及び教科書出版会社[韓国]の予算構成から、制作費は出版社予算と日本の一般的予算はほぼ1:2で、妥協点をどこに求めるかが、現実的なもう一つの大きな課題となる。

撮影は数日の限られた時間だが、その瞬時々々の何と濃密なことか。終了したときの安堵と喜びと疲労がそれを証している。
私の役目は、無事故で終わるよう遠目から見守ること、休憩時、昼食時に買い出しに行ったり、会計をすること、そしてロケ隊が出掛けたとき荷物の見張り番留守番役といったところだろうか。
私の到らなさからの関係者への失礼、失態は察して余りある。
一方、
出演を承諾した生徒たちの活き活きした表情。監督・スタッフの指示を聞き、心から楽しむ姿。DVDを見聞きしはしゃぐ韓国の高校生の姿が眼に浮かぶ。無意識の国際交流の実践。

或る協力校で教員が言った「この子たちは褒められたことがないんです」との言葉の重たさ。

出演した高校3年生の或る生徒が言った「まだ将来の見通しが立たない」との言葉の重たさ。

協力くださった学校関係者、それ以外の方々への深い感謝は、あらためてここでことさら言葉に表すまでもないだろう。
私の教師時代とそれ以降の私を、幾多の様々な貌(すがた)を思い浮かべ静かに省みる時間を持てる幸い。

ありがとうございました。

 

DVD内容のリンク先   https://vimeo.com/255377059/ca13e62d62

2018年2月6日

中華街たより(2018年2月)  『なぜ大阪に中華街はない?』

井上 邦久

小走りに時は過ぎゆきはや二月

日本の正月が終わり皆既月食で大きな赤い月を拝んでから、徐々に月が小さくなっています。そして春節がやってきます。
今年は西暦の2月16日が初一(月暦の元日)です。かつての中国では、帰省ラッシュが始まり、春節の飾りつけや爆竹を買ったり、散髪に行ったりするのが庶民の年越し風景でした。今では長期の休暇を利用した海外旅行と仮想通貨の話題が多いようですが。
月暦1月15日、元肖節の満月の夜までは春節の気分が続きます。春節は最も寒い時期であり、日本では二月の閑散期に当たるので中華圏からの来日観光客はありがたい集客の塊となります。
横浜の中華街は例年通り、神戸南京町では「南京町生誕150年」「第30回春節祭」と銘打って書き入れ時となります。大阪の天王寺公園で「第2回天王寺春節祭」という三日間だけの一過性のイベントが催されるようですが、大阪の在日華僑系の皆さんの関心は高いとは言えないようです。

古い時代からの博多や長崎の唐人町は別格として、幕末に開港した神戸には南京町、同じく開港由来の横浜中華街は今も活況を呈しています。また最近では、東京の池袋北口や大阪の日本橋付近に、港湾業務とは無縁の中国人街が拡がろうとしています。
各人の経済的動機と各時代の背景を負った中国からの来訪者や移住者の拠点となり、機能を拡充していったChina Townは世界各地にあり、サンフランシスコ、バンクーバー、そしてボストンと多くは伝統的な港湾都市に所在しています。

米国ペリー艦隊の浦賀来航時に交渉通辞として随行した広東人の羅森を嚆矢として、幕末明治期の横浜や神戸には多くの中国人がやって来たことは昨年に複数回にわたり書きました。
中国人は、西欧人と日本人の間を取り持つ通訳業に始まり、執事や貿易実務を担い、更には資本を蓄えて緑茶輸出などの事業展開を図ったという機能のお話でした。
昨年9月5日まで、日経新聞に連載された伊集院静の『琥珀の夢 小説鳥井新治郎』には大阪から神戸在住の欧米系貿易商の豪邸に売り込みに行き、中国人執事に翻弄されながらも販路を開拓していく、サントリー創業者の若き日の姿が描かれています。
それを読んで、なぜ大阪商人が神戸まで足を運んだろうか、大阪には欧米や中国の商人が居なかったのか、そして同じ幕末に開港した横浜や神戸のような中華街がどうして大阪には存在していないのか、という素朴な疑問と好奇心が生まれました。

難波津と称された時代から、大阪は大陸との交易や北前船による廻船取引の中心地であり、商業の発展した町であったことは言うまでもありません。そして、横浜に十年遅れたとはいえ、1868年(慶応4年)に大阪は開港されています。これに合わせて、安治川河口の川口地区に居留地や税関(運上所)が設けられています。
開港への大きな期待からか、大阪府庁や大阪市役所が川口居留地と木津川を挟んだ目と鼻の先の江之子島に建てられています。当初、大阪居留地は人気を集め、海外や神戸から欧米系の貿易会社が転入しています。
商人に続いて宣教師が定住し、キリスト教会や教育施設が建てられます。おそらく中国人が様々な仲介役として活躍していたことでしょう。
居留区を核にした、主要官庁や外資系商社、教会や学校がそのまま順調に発展していけば、大阪市街の様相は現在と異なり、西寄りのウォーターフロント地区が政治・経済そして文化の発信中心になっていたものと思われます。そして横浜に負けない中華街文化も大阪に根付いたのではないかと夢想します。
ところが、内外の期待も空しく、居留地の拠り所の安治川水系の浚渫が進まず、その結果大型外航船の大阪への寄港が激減し、貿易商は神戸へ転出していったとされています。
残った居留地にはキリスト教系の施設(平安女学院・プール女学院・大阪女学院・桃山学院・明星学院などの前身)が並んでいました。しかし、キリスト教文化や教育の発信地としての存在も短い期間のこととなり、1897年に天保山で築港起工式、1898年に川口居留地廃止という流れの中で、教育施設の多くは京都や上町台地方面へ移転していきます。
強い西風・緑化の遅れ・不便な交通・大阪中心部の整備進捗などの理由も挙げられていますが、ここに川口の居留地文化そして中華文化は終焉したものと思われます。往時の華やかであったであろう記憶は薄れ、現在はみなと通りに面した本田小学校の脇に、居留地跡記念碑と居留地地図を刻したプレートが僅かに時代の足跡を伝えるのみです。

一方では、日清戦争を経て、1903年の築港大桟橋の完成(第一次築港事業は1929年まで継続)を見て大阪港の貿易港としての機能や存在感は高まりました。アジア向けの対外貿易の主要港として、1930年代の大阪港は横浜港・神戸港を貨物取扱高で凌駕していました。
そして、その貿易業務の主体は日本企業であり、貿易実務や英語を習得した日本人が実務をこなしていたと想像され、欧米系の貿易商の存在感や中国買弁による仲介の必要性は、幕末明治初期に比べて低減していたものと推察します。
以上の事から大阪には中国人の定住者や資本の蓄積が神戸や横浜に比べて少なく、中華街もなかったのだろう、という仮説に至りました。
ところが、大阪港湾振興会が主宰されている港湾関係組織や企業の皆さんの勉強会「泊り火会」で、各位に「大阪中華街」について尋ねました。どなたもご存知ない中で、港湾同盟会長から、「大阪に中華街があった」とお聴きして、驚きました。
その後、川口や九条地域を歩いて地元の人に尋ね、五感+αを頼りに往時を想像していますが、中華街の痕跡は容易に判明しません。貿易商やキリスト教関係者が去った跡地に中国人が集団で居住した、本田に南北二つの会所があった、日中戦争や大空襲で中国人の多くは国内外に去って行った、といった断片的な事柄を知りましたが、あまりに茫洋としており、続けて調査を深めたいと思います。

2008年から2009年にかけて、毎日新聞大阪版に「わが町にも歴史あり…知られざる大阪」と題する連載を、松井宏員記者が丁寧な町歩きをもとに残しています。川口居留地についての詳細な記述はとても参考になりました。ただ中国人の足跡や中華街については多くを語らず、松島遊郭の方向に流れているのが残念です。

本田小学校からしばらく歩き、修復された日本聖公会川口基督教会から北へ歩を進めると土佐堀通りは近く、YMCA土佐堀校がそこにあるのも納得します。宮本輝の小説、小栗康平監督による名画『泥の河』の舞台もこの辺りで、湊橋のたもとには文学碑もありました。まさに泥が港の機能を低下させ、経済の主体が一気に転出離散していった歴史に資本の論理の厳しさを感じます。

150年前の開港直後に、港側の施設の造成に眼を奪われ、湊側の機能低下への対策が後手になったことに、日本の行政に散見される或る種の本末転倒の事例が見えてきます。                         (了)