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2018年2月26日

スポーツマンシップ ~平昌オリンピック私感~

井嶋 悠

娘は、本センターの韓国の仲間であり友人たち(すべて日本語教師)から愛されていた。その娘が、心身葛藤の末、6年前、憂き世を旅立った時、二人(男性と女性)が、わざわざ弔いに来てくださり、夕刻新宿駅の改札口で待ち合わせた。
出会った時、無言で、私はそれぞれと堅く抱き合った。言葉は必要なかった。互いにすべてを承知していた。すべてが自然態だった。日本人同士なら黙って手を握り合うだけだったかもしれない。私は韓国人の激情性を少しは分かっていたのでそうしたのかもしれないが、その前に私の本性がそうさせたと思っている。二人の韓国人のひたすら哀しみをこらえている姿が、今も心に焼き付いている。そこでは日・韓人同士で確実に以心伝心が成り立っていた。

平(ピョン)昌(チャン)オリンピックスピードスケート500m覇者、小平奈緒選手の試合後の二つの行動が、世界中で大きな話題となっている。
一つは、自身が走り終えリンクを滑っている時に観客に向けて見せた、友人韓国の李(イ) 相(サン)花(ファ)選手を含む、残る2組の走者たちへの心遣い。
一つは、惜しくも2位になった10年来の友人李相花選手への試合終了後の心遣い。

そこには意図性など全くない、どこまでもやさしく、濃やかで、豊かな心の体現。勝者の驕りなど微塵もなく。小平奈緒という人格が静かにたたずんでいる、その漂う存在感。

多くの人が彼女のスポーツマンシップを絶賛する。私は思う。彼女はスポーツマンには違いないが、スポーツマンシップで括ることにどこか違和感がある。彼女自身、絶賛されることの嬉しさ、喜びはもちろんあるだろうが、或る照れくささのようなものがあるのではないか、と。彼女にとっては、選手以前に小平奈緒として、すべては自然態から出たことなのだから。
中には、オリンピックに政治を持ちこむことの、或いは政治経済優先の懸念が年々増えているにもかかわらず、日韓の政治的課題にさえ言及する人もある。彼女はそれをどんな思いで聞いただろう?
ここでも言葉について想う。
ことばとこころとひとと。(なぜか、ここはすべてひらかなが合うように思える。)

 

人生は不可解なことばかりで、時に鬱々としたときも多い。(その時の方が多い?)そういう時間をああでもないこうでもないと時を突き放し、或るときは時に流され、そして越えて行く人間の不可解さ。力。
小平選手も、高校卒業時に、また同じ代表の大学同級生の急逝、大学卒業時の人生展望で、苦難を抱えたと言う。やはり苦は人を巨(おお)きくするのだろう。
李相花選手との友情も、その浮沈があったからこそ確かなものとなり、年齢差を越え互いの尊敬にまで高められたのではないだろうか。
培われた人格は人を魅きつける。優れたコーチ然り。所属先の「相澤病院」理事長然り。オランダチームの仲間然り。
記者会見で、彼女が大切にしていること[言葉]を問われ、しばらく考え三つ応えていた。『求道心・情熱・真摯』

彼女にもいつか「現役引退」の時が来る。きっと第1級の、彼女が夢見ていた教員(或いは指導者)になることだろう。
「人間だけが重力の方向に抗(あらが)っている。彼は絶えず上に向かって―落ちたがっているのだ。」との、世界に巨大な足跡を遺したドイツの哲学者ニーチェ(1844~1900)の言葉があるそうだ。
誤解を怖れずに坂口 安吾(1906~1955)の『堕落論』から引用する。

『人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。』

小平選手は、黙々と走り、勝ち、静かな微笑みで李相花選手を労わった。そこに到るまでは順風満帆ではなかった。坂口の歴史観と言葉観と人間観から彼は小平さんをどうとらえるのだろう。

スポーツマンシップとの言葉は、イギリス発祥とのことで、それは伝統的支配階級[ジェントルマン]の二つの側面、スポーツマンであること「スポーツマンシップ」と、為政者であること「ステーツマンシップ」の両義(コインの両面)を表わし、今日の[ルールの遵奉]の意味が入って来るのは20世紀になってからのこととか。【石井 昌幸氏(早稲田大学准教授)の解説から適宜引用】
小平選手はスポーツマンである。しかし、彼女がさり気なく示した態度、また寡黙な中で発せられた一言は「スポーツマンシップ」の語枠を越えて、ますます複雑化し、孤立化する現代人間社会[市民社会]を痛撃することになったのではないか、と私は思う。
このことは、スキージャンプで銅メダルに輝いた高梨沙羅選手が、チーム写真撮影に際し、カメラマンに静かな口調で私だけを特別に扱う写真構図は止めて欲しいと申し出たこととも通ずるものがある。

オリンピックに係る、政治家や軽佻浮薄な一部マスコミの、また無責任なメダル期待発言との、言葉の重みの決定的違い。

もう一つ。
「より速く、より高く、より強く」と、剛が強調されるオリンピックにあって、この度「女子カーリング」を観、実に心和まされた。淡々と静かなリズムで行われる、氷上の、頭脳と繊細な技術の戦い。『おやつタイム』の微笑ましさ。見事に勝ち得た銅メダル!受賞後の言葉「早く北見(故郷)に帰りたい!」
彼女たちは私(たち)の心をどれほどに温めてくれたことだろう。

 

今回の韓国での冬季オリンピックでは、韓国と北朝鮮との統一チームや北朝鮮応援団[通称:美女軍団]と競技以外の話題もあったが、同じ民族での哀しい対立が、日本との領土問題、慰安婦問題が、それぞれの政治家、研究者(学者)が、偏った立ち位置ではなく叡智を集結し、合意点を編み出して欲しい。もしそれができないなら、次の或いはその次の・・・・・世代まで平和的に凍結する覚悟をもって。

このとき、「元来日本人は最も憎悪心の少ない又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。」(先と同じ『堕落論』)が、活きれば良いが…。無理かなあ?!…
ジョン・レノンは歌っている。「You may say I’m a dreamer」

これらの私的感想は、恐らく10年前の私なら生まれなかったかもしれない。これも時の為せることなのだろう。
そんな私に、教師時代にはこれほどまでに心沁み入らなかったが、今深く沁み広がる、有名な漢詩『陶 淵明(陶 潜)5世紀』の「飲酒」から後半部だけを引用して、この拙文を終える。

 

採菊東籬下  菊を採る 東籬の下(きくをとる とうりのもと)
悠然見南山  悠然として 南山を見る(ゆうぜんとして なんざんをみる)
山気日夕佳  山気 日夕に佳し(さんき にっせきによし)
飛鳥相与還  飛鳥 相与に還る(ひちょう あいともにかえる)
此中有真意  此の中に 真意有り(このなかに しんいあり)
欲弁已忘言  弁ぜんと欲して 已に言を忘る(べんぜんとほっして すでにげん
をわする)

[概要]
東側の垣根に咲いている菊の花を摘み、悠然とした気分で遠く廬山を眺める。 山の気は、夕方が素晴らしく、鳥たちは連れ立って帰ってゆく。
ふっと、ここにこそ、真理はあるのだ、と思う。
しかし、それを言葉にしようとすると、内なる閃きはもうすでに消えてしまっているのだ。