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2021年3月30日

禅師・一休 宗純さん

井嶋 悠

元首相の女性蔑視発言に様々な批判の矢が射られ、開催そのものが懸念される東京オリンピックに汚点を残すことになった。私は元々開催そのものに反対だったこともあり、中止すべきとの立場である。
「おしゃべり」は、本人は雄弁と信じてやまないからなおさらたちが悪く聞く人を苛立たせるのだが、男性にも多く、直ぐは女性蔑視まで考えもしなかった私だが、報道をきちんと読めば明らかに旧人類独特の男尊女卑にして女性蔑視は明らかである。

このような、いわんや高齢男性の多くは、なぜ女性蔑視になるのか恐らく理解できていなく、いずれどこかでまた繰り返すだろうと思っていたら、案の定、やらかしたようである。
なぜか。頭では知識として承知しているのだろうが、心に浸透及ばず血肉化していないからである。人と言葉の問題である。

「しゃーないね、あの人だもの」。彼の業績をあれこれ知らなくとも貌に出ていると直覚できる。ここで、最近の流行語?「昭和」の男を持ち出す人も無きにしも非ずか、と予想されるが、そこには大きな落とし穴があり、何の警鐘にもならない。百害あって一利なしとまでは言わないが。

昭和は1945年8月15日の前20年と後ろ60有余年で、社会は180度変容したはずなのだから。
そういう私は、その分岐点の8日後に社会の空気に触れた、言わば「戦争を知らない世代」戦後派、戦無派の第一期生である。更に付け加えれば、今は後期高齢者新人なのだが、私の世代や1955年から60年にかけての高度経済成長期に生を受けた人たちをひっくるめて、戦争の、被爆の風化を嘆く対象と扱われることには疑念を抱く世代でもある。閑話休題。

首相在任中「神の国日本」と発言した彼は、1937年[昭和12年]生まれの昭和前期の人間なのだ。明治維新から大正時代を経て達した昭和の帝国主義時代に幼少時を過ごした人間で、そのまま大人になったのである。女は男につき従うのが本道で、それが女らしさにつながり、夫唱婦随こそ社会は安定し調和するとの考えである。
そういう人たちは今も多くある。因みに或る介護施設に関わる男性から「最も対応が難しいのは、社会通念上高い意識が求められる職業に就き、長を経験して来た人たちで、ほとんどは男である」と聞いたことがある。私はさもありなんと思って聞いた。

人間が社会的動物であることを自覚し、生きることに真摯に向き合っていれば、性差も、年齢差も関係ない。男だから、女だから、若いから、老いだから、と社会は眼鏡を掛け過ぎだ。その人の人格を観ずに、数の帳尻合わせをしているように思える。
今もタテ社会は生き、パワハラ・セクハラ報道を日常的に見、世界の中での幸福度、男女協働度、教育度は今もって下位から脱出し得ていない。かてて加えて、コロナ禍から困窮する家族は増え、若者の自殺度が、ここ10年で、世界ワースト5から脱出し得たにもかかわらず、またしても増加しているという。
中でも女性の自殺が増加傾向にあることは相当懸念されなくてはならない。そしてあちらこちらで閉塞感との言葉に接する。それを逆利用して世界支配を目論む国が露わに見え始めたりする。
日本が、その潮流を善しとし、大国に直接間接に加担し、嗚呼勘違い国とならぬことを祈るばかりである。

と、元首相発言を自省の新たなきっかけにしていたところ、社会学領域の或る女性研究者の論説に新聞紙上で接した。(大変失礼ながらお名前を失念した・研究院大学学長?)
その趣旨は「10代から20代の青春期での世界、生き方が、その人の人生観、世界観の基礎を形作っている」というもので、私にとっては非常に衝撃的であった。
なぜなら、その時期は甚だ不安定で、激情的であった私がいたからである。1960年代後半から1970年代前半にかけてである。
当時、日本社会は日米安保条約拒否、ベトナム戦争反戦、公害問題と高度経済成長、また沖縄返還等々と日本未来論議が溢れ、世は巨大な変革期にあった。
日本は敗戦国だが独立国ではないのか、戦争を永久に放棄したにもかかわらず米ソ代理戦争になぜ加担するのか、水俣病の悲惨と企業倫理、沖縄の常に虐げられてきた哀しみの歴史、全共闘を論破した三島由紀夫の自決等々にあって、自身の考えを明確にすべきことは承知していたが、どれもこれも皮相浅薄で、感覚的領域にとどまり、腰据えて勉強することもなくあたふたしていた。

その時、アメリカでは、自由と愛と平和[反戦・ベトナム戦争忌避]また自然回帰を掲げるヒッピー文化が華を広げつつあった。
私は例えば『愛と平和と音楽の3日間 ウッドストック』に共感を持ったりしたが、それだけであった。そのヒッピー文化は当然日本にも入り込み、日本型ヒッピー文化[言うところのフーテン文化]として、映像、演劇、音楽等で東京・新宿辺りを中心に一つの存在感を持ち得はしたが、多くの若者がシンナーに毒されいつのまにか消えて行った。時折追憶される面影は、感傷の領域でしかない。

発祥地アメリカのヒッピー文化も、主に音楽や詩また映像で歴史を創ったが、例えば自由とセックスと出産或いは病から近代社会に戻らざるを得ず、且つ又マリファナ・ドラッグが身体を蝕み、運動から離れて行く若者も多くあった。政治的領域では、ベトナム戦争兵役拒否や中国文化大革命への共鳴もあったが、いつしか体制の大渦に巻き込まれ雲散霧消の感は免れ得なかった。しかし消えてはいなかった。その魂は今も渦巻いていた。アメリカは多様で広大であることを再確認する。

(注)フーテン:フーテンは何年か前までは辞書に登録されていなかったが、今では「瘋癲(ふうてん)」の項に入れてある。例えば『新明解国語辞典』第五版』。映画『男はつらいよ フーテンの寅次郎』のフーテンとは風来坊との表現から使われるようになったと聞いているが、どうか。

そんな時代をくぐって来た私の[人生観、世界観の基礎]とは一体何なのだろうか、と自問自答としての衝撃を与えられたのだ。
その一方で、やはり20代後半に、高校時代の恩師によって私立中高校教師に導かれたが、その後の35年ほどの教師人生を振り返るに、先の論説に得心行かざるを得ない私を見てしまうのである。

恩師の紹介で、明治時代に創設された某女子校に赴任した私は、18年間奉職し、その後、理想の学校像を求め?彷徨い紆余曲折を経、時に現実の強大な壁に遮られ涙し、更には家族に苦難を強い、そうかと思えばその都度誰かしらに恵まれ、三校の私学、インドシナ難民や留学生への日本語教育等、貴重な経験を重ね、10年ほど前に定年を1年残し、その時の校長を徹底的に許すことができず、教職に終止符を打ち、今の私がある。その間、父母と妹そして娘を天上に送った。

76年間に於いて心の上昇下降を幾度となく経験し、気障っぽく言えば、ハムレット的心境[To be or not to be.] にも襲われたこともある。すべては妻の受け入れと加護の賜物である。
私は幼少時の家庭環境も手伝って「マザコン」を自認しているが、どれほどに人格、能力に優れた女性に出会ったことだろう。だから私にとって男女協働は随分昔から自然常識である。
人格と能力に男女差などあろうはずがない。

最近、かつての体力は嘘事のようになり、病は気からを我がことのように思え、益々一休さんの歌が想い出されることが多くなっている。老いゆえの雑念の中にあって、なおのこと心に響く歌を幾首か挙げる。

世の中は 起きて箱して(糞して) 寝て食って 後は死ぬるを 待つばかりなり】

【門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし】

【釈迦といふ いたづらものが 世にいでて おほくの人を まよはするかな】

【南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ】

【生まれては 死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も 猫も杓子も】

【女をば  法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む】

後小松天皇の落としだねとの説もあり、頓智の一休さんでもあり、自由闊達な生き方に徹しながら京都大徳寺を再興した一休禅師。
西田 正好(1931年~1980年・仏教思想から日本文芸を探求した国文学者)の表現を、氏の著『一休 風狂の精神』(1977年刊)から借りれば
「女犯(にょぼん)・男色(なんしょく)・飲酒(おんじゅ)・肉食(にくじき)と並び立てれば、およそ一休がただならぬ破戒僧であった事実は、まことに歴然としている。(略)一休の途方もない反常識性が、なによりも「風狂」と呼ばれる一休の生きざまの最大の特徴であった。」

私たちは常に自由を求め、古今東西、究極の自由として、幼子と死を思う。一休は生にあってそれを追い求めた。それが彼の自然態であった。そして室町時代15世紀、1481年、88歳の天寿を全うした。死に際し、その時そばに仕えていた盲目の愛人(妻?)森女(しんにょ)に「死にとうない」と呟いたとか。

その一休は、真正の禅師には違いないが、親愛憧憬される「さん」が相応しい。

世は、地球はコロナ禍に覆われ、先が見えない混濁の中にある。だからなのだろうか、時代に逆行するかのように次から次へと管理が広がり、生き苦しさを直覚し、自由であることと倫理と正義が問われ、右往左往している人がどれほどに多いことか。
少しではあるが、孤独に向き合えるようになりつつある私は、社会は複雑である、社会を構成する人間はもっと複雑である。しかし[にんげん]は[じんかん]と大昔から読まれる。時間は平等に過ぎて行く。慌てることなど何もない。どこかで誰かが私を見ている。その誰かが何気なく私に一言を発する。私は心中狼狽(うろた)え、一瞬私の中ですべてが止まり、しばらくの空白が続く。それを何度か体験しここまで生きて来られた、と今では思っている。
今も舞台や映画で活躍する或る著名な俳優(日本人)が言っていた。「俳優とは待つ仕事だ」

1970年代の日米での事実をもう一度省みることは、事実と真実と歴史から現代を、そして明日を覗くことになるのではないか、と個人的体験から思いついたりするが、鬱(うつ)然(ぜん)とすることの方が多くなっている。
先の西田氏は、先の著作の中の[風狂の構造と本質]の章で次のように指摘している。

― 彼は古くてしかも一番新しい存在であった。まるで五百年間の歴史を先取りしたような一休である。いな、近代的といえるどころか、近代人にも及びがたい極限的な人間解放を率先垂範して見せたかれは、自由主義的な「近代」をさえはるかに踏み越えた、空前絶後の「自由人」であった。まるで「永遠の人間典型」のように、一休は真に解放された人間のあり方はこうだと、私たちに教えてくれる。

己が小人ぶりを思い知らされるが、苦しい時【世の中は 起きて箱して(糞して) 寝て食って 後は死ぬるを 待つばかりなり】を思い起こすと背伸びしたくなり、そして「死にとうない」との臨終の言葉が甚く気に入っている。

2021年3月9日

多余的話 (2021年3月)   『金閣寺』

井上 邦久

市立図書館から心当たりのない電話があり、少し訝しい想いで折返しの電話をしたところ「予約の本の順番が来たので、一週間以内に借り出しに来るように」とのこと。昨年の秋に多くの予約利用者のあとに申込むだけ申し込んで「来年の忘れた頃に回ってくるだろう」と思っていた通り、全く忘れていました。

内海 健『金閣を焼かなければならぬ 林養賢と三島由紀夫』(河出書房新社)

2020年6月初版、2021年2月5刷とあり、図書館が渋滞緩和の為に買い足してくれた新本でした。
戦後間もない1950年7月2日未明の金閣寺放火事件については多くの解釈がなされています。
本書は精神病理学専攻の医師であり、熟達した文章家でもある内海氏が長期間の実地調査と専門研究の成果を書籍化した労作です。
学生時代に京都河原町三条下ルの朝日会館で『金閣炎上』の作者の水上勉の講演と佐久間良子主演の東映映画『五番町夕霧楼』をセットで体験し、「三島由紀夫の『金閣寺』には雑巾のにおいがない」と水上勉が語っていたことを思い出しました。

 抗日戦時下、国民党重慶政府の蒋介石と袂を分かち南京政府の主席となった汪精衛(兆銘)が1944年11月に名古屋で病死した後、主席代理を務めたのが陳公博。
北京大学卒業後、初期共産党の活動に従事し、1921年7月23日に、上海で秘かに開かれた中国共産党第一次全国代表大会に広州代表として参加。13名の参加者の中には長沙代表の毛沢東や日本留学生代表の周仏海もいます。
陳公博は脱党後に米国留学を経て国民党左派として権力の中枢を歩むも、大戦終結直後、南京から米子空港経由で京都に逃れ、金閣寺に匿われた(近衛文麿の差配?)。蒋介石からの督促圧力に応じて出廷した裁判で傀儡政権首班の「漢奸」と見做され有罪判決後、1946年6月に死刑執行。

陳公博一行が金閣寺に潜んでいた時、修行僧で後に放火犯となる林養賢は舞鶴市成生の実家の寺に戻っていて、直接の接点はなかったものの、食糧難の時代に豪華な食事や麻雀に興じていたという「亡命者」や、それに阿る金閣寺住職への反感が放火の理由の一つにも挙げられています。

初期の中国共産党についての読み物としては、譚璐美『中国共産党を作った13人』(新潮選書)があり、新中国では毛沢東・董必武以外は陳公博も含めて「そして、誰もいなくなった」経緯を綴っています。1921年7月23日の結党から今年は100周年であり、東京五輪の開幕予定日に重なります。どのような人の流れになるのか、ならないのか注目しています。

そのこと以上に注目しているのが2022年2月4日に開幕が予定されている北京冬季五輪です。
来年の春節は2月1日であり、最も寒い時期の中国北方での五輪開催となります。2015年のIOC総会で北京での冬季五輪が決まった時に訝ったことを思い出します。
当時も北京の空気汚染は酷い状態でした。毎朝の出勤時にPM2.5や霧霾レベルをチェックし覚悟を決めて屋外に出たものです。現在と異なり北京市民は「日本人と間違われるから人前ではマスクはしない」と言いつつポケットにはしっかりしたマスクを保持していたのを思い出します。
石炭暖房などの煤塵が増える冬場に、渤海湾から吹く風が北京の背後に屏風のように重なる山地にぶつかり、溜まった硫化物系と思われる黄白色の塊を飛行機の窓から目視できていました。

冬季五輪を何故に開催しなければならないのかと訝りつつ思い到ったのが「世界から注目される冬季五輪を錦の御旗に環境改善を図るのではないか?」という穿った考えでした。
中途半端な改善策では追い付かない程の環境破壊は現実に存在し、一過性の弥縫策では失笑を買うだけ(会議期間だけ快晴にするAPEC BLUE方式)ならば北京五輪を利用して、環境改善の為なら強引なやり方でも許されるとばかりに工場の移転や排ガス規制を進めるのではないか?
「汚れた空気を世界に曝すことは国家の恥であり許されない。気象ミサイルでの快晴では嘲笑されるだけだ。それでよいのか」と面子に訴える強引な手法です。

ただ現実は楽観視できず、今年の春節三が日の北京の空気は一年後に劇的に改善するとは思いにくい状態だったとか。一方で6年前の酷さに比べるとかなり「マシ」になっている、という現地からの声が増えているのも事実です。

東京のことも分からないのに、北京のことを分かるはずがありません。
中でも中国がファイザー社のワクチン1億回分を契約しているとの報道です。これが事実であり、契約が履行されるとして、誰に接種する為の1億回分でしょうか?訝しい思いでおります。また久しぶりに「ふつうの大統領」を擁した時の米国のタフな総合力は軽視できないでしょう。
事ほど左様に北京五輪までの道程には各種のハードルが高止まりしたままにあるのではないかと想像しています。

この拙文を綴っている3月7日は「金閣は焼かなければならぬ」と思い詰めて放火した林養賢が、医療刑務所から釈放後に収容された京都府立洛南病院で結核により亡くなった祥月命日(1956年没)です。「○○しなければならぬ」という意識の潜伏期、そして前駆期を特徴づけるのは、ひそやかな「存在の励起」とでもいうべきものである、と内海氏は書いています。
その典型事例を林養賢と三島由紀夫に共通して見出し書物にしたのだと思いました。
中国政府の言動を○○であらねばならない「存在の励起」の角度から考えてみたいと思います。