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2018年10月27日

『民藝運動』の心を、今、再び・・・ ―柳 宗悦への私感―

内容[その二]

怒りと不信の今、日本らしさを柳 宗悦から学ぶ

2

茶器、茶室或いは茶道と時代の変容

                                                                                                                           井嶋 悠

私は幼い頃、大人の事情で伯父伯母宅に預けられたが、その家には茶室があり、しばしば座らされた、それぐらいの経験でしかないのだが、あのどこか取り澄ました雰囲気ばかりが記憶に残っている。要は、柳の言葉を借りれば「下手物」なのだろう。しかし、あの静寂な時空の印象は、今も私の中にある。
そんなことからか、だいぶ前になるが、岡倉 天心の『茶の本』(1906年明治39年・45歳時英文で刊行)を読んだときは甚(いた)く感銘し、書は鉛筆線で埋め尽くされている。
その中から、先に引用した柳の論説[前回投稿の1で引用]と重なる部分を2か所引く。

――茶道は清潔をむねとするがゆえに衛生学であり、複雑でぜいたくなもののうちよりは簡素なもののうちに充足があると教えるがゆえに経済学であり、また宇宙空間にたいするわれわれの比例感を定義するがゆえに精神幾何学でもある。――

――茶室は寂寞たる人生の荒野におけるオアシスであった。倦み疲れた旅人たちはここで相会うて、芸術鑑賞の共同の泉を酌み交わすことができた。(中略)そよとの音もなく、調和を破る一指の動きもなく、周囲の統一をこわす一語とてなく、動作はすべて単純に自然に行なわれるべきこと、これこそ茶の湯の本旨であった。――

美意識或いは美感に私が魅かれるのは、そこにその国の、地域の、民族の感性と歴史が垣間見えることにあるからだと思う。
では、茶道ではどうか。 「わび」更には「さび」を言う人は多い。「聖暗」を言う柳宗悦も、道教・禅、或いは「虚・無」を言う岡倉天心も同じである。
しかしここでそこに立ち入るのは投稿目的から逸(そ)れると同時に、己が浅さを晒すのでよす。
ただ、元中高校国語科教師の自省として一言記す。 岡倉天心の『茶の本』にも引用され、「わび」を考える時使われる、藤原 定家の歌「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」。
これは西行の「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」と寂蓮の「さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ」の三首を合せて「三夕の歌」だと言って、高校の古典授業で採り上げた覚えがある。何という汗顔、無恥。
鋭敏な感受性を持つ早熟な生徒以外ほとんどの生徒にとって、冬休みの宿題によくある『百人一首』の暗記モノだったのだろう。
漢文を含めた古典理解は、現代文理解同様重要なことはことさら言うまでもない。しかし限られた時間内での授業には、やはり相当な無理を思う。だからこそ、10代の生徒の諸相を考えた、作品の「精選」と履修方法(例えば必修か選択か等)、また学習方法・時間(期間)が、常に俎上に上げられるのだろう。 などと思うのは、きっと教師未熟で教職を終えた証しなのかもしれない。

時間は永遠を刻み、時代は移ろい、世は変貌して行く。しかし人の本質はどう変貌しただろうか。 明治の「文明開化」、富国強兵、殖産興業は著しく進み、日清戦争、日露戦争での勝利を契機に、帝国主義列強の一国として、あの太平洋戦争に向かう。そして広島と長崎への世界最初の被爆国として決定的な敗戦を迎える。 しかし、日本人の勤勉さに朝鮮戦争、ベトナム戦争等、戦争特需も加わり、高度経済成長の浮沈を経て、世界の借金大国にして!経済大国となった今、物質文明を謳歌している…。と同時に、社会的、個人的貧困等社会矛盾の顕在化に危機感が生まれていることは既に記した。

では、柳宗悦は、時代を民藝また茶道を通してどう見、感じていたか。『民藝とは何か』(1941年)から幾つか引用する。

「最近資本制度の勃興につれて、民藝の美が急速に沈み、私たちはほとんどすべての器に美しさを失ってしまいました。就中(なかんずく)問屋の制度は生産者を極度に疲弊させました。商業主義は誠実を棄てて利欲に飢えています。機械主義は手工を奪ってすべてを凝固させてしまいました。(中略)民藝はかくしてその美しい歴史を閉じたのです。(中略)私たちは創作の時代を失うと共に、認識の時代へと入りました。(中略)時代は創造から批判へと転廻しました。今は代表的な意識の時代なのです。」

「民藝品の有(も)つ一つの特色は、多産の品であり廉価だということです。(中略)多いが故に安く、安きがためには多く作らねばなりません。多くできずば広く民衆の役には立ちません。また安くなくば雑器として使うことができません。」

「資本制度の勃興と共に、工藝の美は堕落してきました。すべての資本主義は商業主義であって、何事よりも利得が主眼なのです。利の前には用も二の次なのです。粗雑なもの醜悪なものが伴うのは、必然の結果に過ぎません。そして商業主義は競争の結果、誤った機械主義と結合します。ここに創造の自由は失われ、すべてが機械的同質に落ちてゆきます。」

私は、ここに柳が始めた「民藝」の、時代と現実での行き詰まり、葛藤を見、今日の民藝が持つ商業性或いは高尚意識性からの民衆(庶民)との乖離を思う。
そして、柳宗悦に係る最初の投稿で触れた二つのエピソードを思い起こす。 百均の店での若いカップルが楽しげに焼き物品定めをしていた光景の微笑ましさ、また焼き物は値段(価格)があって値段(価格)がないとの大学陶芸科出身者の言説。

時代が転げる石のように変容したということなのだろうか。確かに、柳たちが見出した窯業地の幾つかでは価格は高騰し、その地を訪ねてもなかなか手に入らないとのことは見、聞く。
しかし、一方では、百均の店業界で競争原理が起こり、柳が言う無銘の人々の、しかも廉価で且つ新しいデザインを試みた作品も生まれ、質と良心での差違が生まれていると言う。
柳はどう見ているのだろうか。
そのような中で、柳が言う「誤った機械主義」の「誤った」との言葉遣いに、民藝観、後で触れる社会観、更には朝鮮と日本観に今もって、否、今だからこそより共感する一人として、或る救いのようなものを思うし、思いたい。

尚、その焼物の価格に関して、柳は1952年、画家で陶芸家のイギリス人バーナード・リーチ(1887~1979)と「民藝運動」の仲間で栃木県の益子焼の陶芸家・濱田 庄司(1894~1978)と共に、アメリカ各地で陶芸の講演、講習に赴いた時のことを書いたエッセイ『東洋的解決』で、こんなことを言っている。

「売る権利が自らの方にあると考えずに、売れるのはむしろ恵みだと考える。(中略)価格は双方(注:売り手と作り手)の権利の主張の妥協点で決まるのではなく、双方の無慾と感謝との接触点で決まるので米国の解決法とは別個の解決法による。私は西洋での解決は合理的特色があるが、東洋の解決の方が、もっと互いの幸福を約束する。」

最近、主にビジネス関係で[ウインウイン(WIN‐WIN)]との表現を見聞きするが、これも「東洋的解決」に入るのだろうか。私には、あまりに商業主義的過ぎて、それこそ欧米流合理・効率を感じさせ、心にスッと入って来ないが。
今日の陶芸界ではどうなのだろうか。やはり「価格があって価格のない世界」なのだろうか。
因みに、人間関係も含め、「WIN‐WIN」ではなく、「WIN‐WIN or NO DEAL」が、ベストな選択である旨、ネット上での語釈説明にあった。

柳は、茶器を通して茶道への関心を示したことは既に記した。ここでその茶道に係る時代による変容の言葉を引用する。併せて岡倉天心の『茶の本』からも。

『雑器の美』(1926年)より。

「今は茶室を造るにも数寄をこらすが、その風格は賎(しず)が家(や)に因るものであろう。今も田舎家は美しい。茶室は清貧の徳を味わうのである。今は茶室において富貴を誇るが、末世の誤りを語るに過ぎぬ。今や茶道の真意は忘れられて来たのである。「茶」の美は「下手(げて)」の美である。貧の美である。」

『民藝とは何か』(1941年)より

「茶器も茶室も民器や民家の美を語っているのです。だがこの清貧は忘れられて、茶道は今や富貴の人々の玩びに移ったのです。茶器は今万金を要し、茶室は数寄をこらし、茶料理は珍味をととのえています。かくなった時すでに茶の道があるでしょうか。あり得るでしょうか。」

『茶の本』(1906年明治39年)の[花]の節より。

「今日の産業主義は、世界中いたるところで、真の風雅をしのぶことをますます困難ならしめている。今日ほどわれわれが茶室を必要といるときはあるまい。」

「野の花が年々少なくなってゆくのに気がつかれたことはないであろうか。それは彼ら賢人たちが、人間がもっと人間らしくなるまでこの世から去れと命じたのかもしれない。おそらく彼らは天国へ移住してしまったのであろう。」

これらの、今から77年前と92年前、更には112年前の言葉に現代性はなく、今読み返せば二人の感傷に過ぎないと言い得るのであろうか。
人はそれほどに日進月歩発展を遂げているのだろうか。
中学校か高校の歴史年表を見れば、それらが幻想であることは一目瞭然である。そもそもその前に自問すれば得心できるはずだ。

 

 

 

2018年10月20日

『民藝運動』の心を、今、再び・・・ ―柳 宗悦への私感― Ⅱ

内容[その二]

怒りと不信の今、日本らしさを柳 宗悦から学ぶ

1

怒りと不信の中身・「民藝論」

井嶋 悠

 

日に日に、日本に関して心地良い話題が少なくなっている……と思うのは、老いの愚痴(ボヤキ)、憂愁(オセンチ)だろうか。 少子・高齢化となることはだいぶ前から見通されていたにもかかわらず(とりわけ政治家、官僚、また(御用?)学者)危機感を煽り、次代のためと同情を誘い、己が議員整理等足元改革は言葉だけの政治家と行政の公(おおやけ)主導の税金等値上げ、新設発想。
消費税値上げに伴っての、その方法(一律なのかどうか等)と増収使途内容の今もっての曖昧さ。 諸物価の高騰。一部の人だけの所得増加。
福祉の貧弱、貧相。都鄙の格差の広がり(例えば、パートタイマーの時給等待遇の差)。教育の繰り返される目先の改革と飴玉施策。
世界の大都市を誇示し、2020年オリンピック開催都市東京の貧困家庭・子どもの貧困の実態。にもかかわらず[お・も・て・な・し]の狂騒。
国民健康保険の外国人利用への配慮を踏みにじる悪用と利用総額の累積、それらの財源に係る問題。
世界に冠たると思っていた自動車産業の低落と展望のなさの顕在化。そうかと思えば“観光立国”の雄叫び。

そして、今や“病気”とまで冷笑される首相と“愚妻”(一般的には夫が謙譲表現として使うが、ここではそのまんま!の使い方)やお伴を引き連れての外遊(当事者等たち表現は外交)。一体どれほどの費用が費やされ、どれほどの具体的効用が還元されたのか。[これについては既に投稿した]

「和」の精神とはほど遠い、アメリカ追従を盾にした阿諛(おべっか)外交の国内外での笑いもの。それもその経費のほとんどが血税からの出費である。
そして日本国の負債額(借金)は、1,085兆7,537億円。国民一人当たり約870万円。これは国内総生産[GDPGross Domestic Product] の2,36年分にあたり、世界一とのこと。ただ、ギリシャ等とは違って、国債の在りよう、債権国としての立場、円の価値等から心配する必要ないと言われてはいるが、少子化と高齢化を主因とする生活事情、福祉問題から決して安心はできないと諭す専門家もいる。

挙句の果てには、国民的議論もないままでの「国民の意思である」と公然と言ってのける憲法改正指向。 日本の防衛費は世界第8位[約5兆2000億]だが、GDPとの比では約1%以内で、その視点からすれば世界にあって決して多いわけではないとのこと。ただ政府与党は1%→2%にしたい意向との由。
これを私たちはどう受け止めるかも大きな問題である。(この数字願望からも、日本を主導する政治家たちの意識、方向性が透けて見える。)
そして、今もって世界の低位置から脱し得ず、言葉先行、有名無実化的な「男女共同参画社会」(英語では「gender equality」)と英語を出したのは、男性がもっとジェンダーについて学ばなければならないと、或ることを通して痛感しているから。と同時に、女にとってのジェンダー。

これでもやはり、老いのおセンチなぼやきなのだろうか。

批判のない世界、社会は異常だから、柳 宗悦への、更には彼も一員であった白樺派の批判は、あって然るべきだが、私が氏の幾つかの著書を読み、その精神に共感したのは、この現代日本が、(意図的に?!)遠い彼方に棄て去った心が,流れていると思ったからである。
その共感は、岡倉天心(1863~1913)や鈴木大拙(1890~1966)へのそれとも相通じている。いわんや国際化が進めば進むほど肝要な心構え。
もちろんここで、安易に武士道や大和魂を持ち出す気持ちはさらさらない。
そもそも、武士道とは哀しみを知る優しさだと思うし、江戸時代の偉大な思想家・古代文学研究者である本居 宣長が歌う「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」の歌の、何と澄明で女性的なことだろうか。
(私が言う女性的とは、女性らしさとかそういたことではなく「女性原理」としてのそれである。これについては以前の投稿で、女性の父性、男性の母性という視点で触れて来たが、未だ勉強途上。)

と言う私は60歳で、時の校長等一派への不信を脱し得なかったふがいない者で、妻の理解(一応というか妻の私の性を知っての諦め?)を得て職を退き、縁あって、首都圏の多くの人が羨ましがる北関東の“リゾート地”と言われ、日々刻々自然と人を体感できる地で年金生活を送って10年が経つ。
ということは、民藝運動を共有し、後に離れて行った何人かの中で、例えば美術評論家であり骨董鑑定蒐集で天才的鑑識眼を持っていたと言われる青山 二郎(1901~1979)が言った「柳宗悦個人の意識を民藝の美と称するものから取去って見給へ、美術館は消えてなくなるだろう。だからその他大勢は概念の虜である」の一人と言われておかしくない、有閑人の観念的言葉の弄び手なのかもしれない。
白樺派が、戦前の皇族・公卿のための国立学校学習院の同期やその前後の青年たちで構成され、時として“お坊ちゃま”集団と批判される、その一人の平民版なのだろう。
しかし、私は柳宗悦の、あるいは彼が主導した「民藝運動」の心に、また岡倉天心や鈴木大拙の言葉に魅かれる。

柳が、民藝と言う言葉を編み出し、そこに美を直覚したことについて、『雑器の美』(1927年38歳時の刊)及び『民藝とは何か』(1941年52歳時)の中で次のように言っている。

――たずさわるものは貧しき人の荒れたる手。拙き器具や粗き素材。売らるる場所とても狭き店舗、また路上の筵。用いらるる個所も散り荒らさるる室々。だが摂理は不思議である。これらのことが美しさを器のために保障する。それは信仰と同じである。宗教は貧の徳を求め、智に驕る者を戒めるではないか。素朴な器にこそ驚くべき美が宿る。――『雑器の美』

――単純を離れて正しき美はない。物は雑器と呼ばれてはいるが、純一なその姿にこそかえって美の本質が宿る。人は藝術の法則を学ぶために、むしろ普通な誰も知るこれらの世界に来ねばならぬ。――『雑器の美』

――老子は道の極致を「玄」と呼びました。「玄」いわゆる「聖暗」なのです。その「玄」の美を私達は「渋さ」と言い習わしてきました。実に様々な相があろうとも、その帰趣は「渋さ」なのです。だがかかる最高な美、「渋さ」の」美を工藝に求めようとする時、私達はついに民藝品に帰って来ることを悟るでしょう。あの茶人達がそれらのものに茶器を見出したのは偶然ではないのです。いわゆる「上手(じょうて)物(もの)」にかかる「玄」の美を求めることは至難の至難なのです。――『民藝とは何か』

――なぜ特別な品物よりかえって普通の品物にかくも豊かな美が現われてくるか。それは一つに作る折の心の状態の差違によると云わねばなりません。前者の有想よりも後者の無想が、より清い境地にあるからです。意識より無心が、さらに深いものを含むからです。主我の念よりも忘我の方が、より深い基礎となるからです。在銘よりも無銘の方が、より安らかな境地にあるからです。作為よりも必然が、一層厚く美を保証するからです。個性よりも伝統が、より大きな根底と云えるからです。人知は賢くとも、より賢い叡智が自然に潜むからです。人知に守られる富貴な品より、自然に守られる民藝品の方に、より確かさがあることに何の不思議もないわけです。華美より質素が、さらに慕わしい徳なのです。身を飾るものよりも、働くものの方が常に健康なのです。錯雑さよりも単純なものの方が、より誠実な姿なのです。華やかさよりも渋さの方が、さらに深い美となってきます。――『民藝とは何か』

《私注:ここで筆者が使う「個性」「伝統」及び「知」と「(叡)智」の意味また使い分けは、心して受け止めなくてはならないと思う。》

上記引用からキーワードと思われる語を採り出してみる。
【貧の徳と智に驕る者・素朴・質素・無想、無心、無銘・渋さ】

これらから「現代(世相)」を思い浮かべてみると或ることに思い到る。 徳有ることを美とし、驕る者を厭(いと)い、素朴で質素な生活を求め、我欲に溺れることなく謙虚で、在銘の権威性に眉をひそめる、そんな人こそ健康な人ではないのか。そこに見る渋い生き方、渋い人。
現実はどうか。疲弊し、忙(せわ)しく時を消化し、静寂は夢のまた夢、将来の夢は?と四六時中問われ、自問自答のゆとりもなく、AIを呆然と眺め、やたらと「癒し」なる言葉を見聞きする大人と子ども……。
と言えば、これこそ老いの愚痴(ボヤキ)、憂愁(オセンチ)だろうか。それとも非現代人にして劣等生、劣等人の勝手な言い訳、弁解だろうか。

柳は『民藝とは何か』の序の中で次のように言っている。
「思えば思うほどそれは単に工藝の一問題ではなく、その本質問題であることを解するに至ったのです。しかもそれは美の問題に終わるのではなく、直ちに生活や経済や社会や、ひいては道徳や宗教の諸問題に連関してきます。私は一個の民器に文化の諸問題の明確な縮図を見たのです。」

多くの現代人が求めている静謐な“気”について、柳は焼き物を通して茶道に眼を向ける。曰く、

――過去の時代においてかかる雑器の美を認めたのは、初代の茶人たちであった。(中略)今日万金を投ずるあの茶器は、「大名物(おおめいぶつ)」は、その多くが全くの雑器に過ぎない。かくも自然な、かくも奔放な彼らの雅致は、雑器なるが故だと言い得よう。(中略)人々はあの深く渋き茶器が、無造作な雑器であったことをゆめ忘れてはならない。――『雑器の美』

――「茶」の美は「下手(げて)」の美であると。因襲に捕われた今日の茶人達には、この平易な真理すら不思議義な言葉に聞こえるでしょう。(中略)茶器も茶室も民器や民家の美を語っているのです。だがこの清貧は忘れられて、茶道は今や富貴の人々の玩びに移ったのです。――『民藝とは何か』

《私注:柳は「下手」と「上手(じょうて)」に関して、『民藝とは何か』の中で、民衆的工藝と貴族的工藝に分けて述べている。先の引用と重なるが、民藝を考える上で非常に重要な点であるので、この民衆的工藝の部分を引用する。

「民藝品は民間から生れ、主に民間で使われるもの。したがって作者は無名の職人であり、作物にも別に銘はありません。作られる数もはなはだ多く、価格もまた低く、用いられる場所も多くは家族の住む居間やまた台所。いわゆる「手廻り物」とか「勝手道具」とか呼ばれるものが多く、自然姿も質素であり頑丈であり、形も模様もしたがって単純になります。作る折の心の状態も極めて無心なのです。とりわけ美意識等から工夫されるものではありません。材料も天然物であり、それも多くはその土地の物資なのです。目的も皆実用品で、直接日々の生活に必要なものばかりなのです。製作の組織は多くは組合。これが民藝の世界なのです。 これに対し貴族的なものは、上等品であり貴重品です。(中略)俗語でこれ等のものを「上手物と云いますが、これはもとより「下手物」に対する言葉なのです。(中略)一方が「民」なら、一方は「官」です。」
ただ、柳自身「下手物」との用語の一般的意味遣いから、後にあまり使わないようにしている旨言っている。

社会への眼、雑器としての茶器を通して、柳が描く茶道への心については、次回に、[茶器、茶室或いは茶道と時代の変容]との表題で、岡倉 天心の『茶の本』も参考にしながら、まとめたく思っている。

2018年10月12日

帰国子女[教育]の記事に触れて~今もなお続く日本人の“孤島”気質~

井嶋 悠

先日の奈良県天理市の「村八分」問題が報じられ、話題となっている。
村八分は、疎外、排斥であって、要は「いじめ」の一形態で、そう考えれば地域に限らず人の集まる所、学校、会社等到るところで在る。
以前、長野県でのこんな例も聞いた。それも長野県に限らずよくある話として。
県や市町村の、時には国の、行政が、過疎対策として移住奨励を発信し、田舎暮らしに憧れ都会から自宅を処分し、家族で移住して来る家族。そこには、自然は在るが、人の情はなく、それどころか疎外、排斥され、一年も経たずに近くの都市圏に移る例が、少なからずあるとのこと。 こういう施策を概念的、官僚的というのだろうが、この村八分は、英語にもあるので世界共通のようだ。ニホンザルの世界にもある旨聞いたことがあるから、高等動物の哀しい性(さが)なのだろうか。 高等ゆえの生き辛さ……。

私たちが10年前から住んでいる北関東の、幾多の温泉と山々、高原が広がるいわゆるリゾート地を有する市で、私たちの一画は10軒の家があり、内(うち)、外来者は私たちを入れて4軒である。ここでも近隣地住民を含めた自治会組織があるが、ゴミ捨て等々での疎外はない。それどころか、隣家の人が、自治会に加入するとあれこれ役割が回って来るので都会から来た人は入らない方が良い、とまで言ってくださったほどである。
ただ、都会からの人の中に、敢えて一切関わりを持とうとしないと言うか、自身から周囲を疎外している場合がある。これまでのその人の歴史がそうさせるのか、地方者を見下しているのか分からないが、幾つかの言動行動から察するに後者だと思う。

これらの疎外、時に蔑視は国間・地域間問題にもつながる。対韓国・朝鮮や、対被差別地域等々。

と言えば、「お前はどうなのだ?」と詰問されるだろうが、自身の70有余年で一度もない、と断定的に言える。的、と記したのは、自身は全く意識していなくとも、される側からすれば《している》と取られることもあったかもしれないからである。例えば、中学生時代、被差別地域問題について、東京から転校した私は、正しく“身をもって”知らしめられた経験を持つので。(これについては以前投稿したのでこれ以上は措く。)

 

私の最初の勤務校は、二人のアメリカ人女性宣教師が、明治時代に創設したキリスト教(プロテスタント)主義の、歴史ある中高大一貫教育の女子校だった。 今から50年近く前のことである。勤務して数年後、高校1年次での「帰国子女受け入れ校」の公式意思表示をし、私はその校務に携わる機会を得た。実に新鮮な経験で、以後の教師人生にあって、その問題は常に私の中に意識されていた。
ところで、この「子女」との表現については反対があるが、辞書の意味説明も含め、私は「子女」で良いと考えている。

受け入れを始め数年が経ったとき、アメリカからの現地校に在籍していた或る帰国生徒が朝の礼拝時[中高生約900人が講堂に集まり行う]、海外体験を話す機会があった。一喜一憂を語るのだが、次の一節に今でも忘れない衝撃を受けると同時に、然もありなんとも思った。
何人かの日本人の母親の会話を聞き、彼女は悲しみと学びを得たと言うのである。母親たち曰く、

「アメリカにまで来てアジア人と付き合いたくはないわよねえ」

この延長上に、今もある英語ができる(それも聞く・話す)=優秀、そこから生まれる嫉妬、また英語を第1言語とするアジア系アメリカ人等教師への拒否反応がある。
帰国子女を特別視することから生れる妬みからの反発、疎外そして村八分感情の抱く子どもと大人。私自身その様を幾つも見聞きした。一例。

「あの子たちはずるい」

勤務校は、特に関西では有名な難関校で、且つ英語教育は非常に充実し、中学部に入学するに当たり、進学塾の優等女子生徒が多く、『帰国子女特別入試(編入試験)』への抵抗感である。
尚、その勤務校は20年ほど前から中高大内部改革の一環もあって受け入れ校から撤退している。

 

これらの事例は、今、解決、解消しているとは、教師生活最後の10年間勤めた『新国際学校』と称されていた(今、いるとは言えないと私は思っている)、欧米系のインターナショナル・スクールとの日本で初めての協働校での様々な経験からも、到底思えない。それどころか、一層増しているようにも思える。
少子化と高齢化の現代日本が抱える大きな問題の、学校社会[学校教育]での側面がそこにあると思う一人だが、それについても何度か投稿しているので省略する。

つい最近、朝日新聞と[GLOBEインターン]という団体の方による記事を知り、愕然とさせられた。
帰国子女教育に携わる中で、40年も前に多くの関係者から教えられ、自覚した「帰国子女教育なる表現をなくすこと、なくなることが帰国子女教育である」に共感していた一人だったから。それが今も旧態然としてある事実。
社会変革、意識改革の実際の途方もない難しさ…。
因みに、帰国子女を表わす英語はないと欧米の教師たちは言っていた。世界を移動し、人生を深め、最後は祖国(母国)に戻ることの素晴らしさを思っている人たちなのだから。
以下、一つの啓蒙として書かれたと思われる二つの記事を基に、私なりの教師経験で得た私見を記す。

尚、現在、小中高校での帰国子女[海外在留期間1年以上]は、毎年12,000人を超える。
そもそも「帰国子女(教育)」を採り上げる場合、その帰国子女の海外在留時の期間、年齢及び在籍校を明確にしなければならない。それは、今もって帰国子女=英語ペラペラの偏見が蔓延し、「隠れ帰国子女」なる事象がなぜあるのかを理解するためにも肝要なことである。
具体的言えば以下の諸事項である。

○期間及び年齢  10歳前後に本人の言語根幹ができる(言語臨界)との学説に従えばなおさらで、どの年齢で、何年間、どういう学校に在籍し、家庭での言語はどうだったかによって、本人の言語力、学力等が多様となる。

○在籍学校種類  保護者の赴任等地域によって選択肢が限られる場合もあるので一概に言う危険性がある。

考えられる在籍学校種類
・日本人学校
・現地校(主には英語圏]
・インターナショナル・スクール(英語を第1言語とした国際学校)
[注]上記2校で「ESL(English as aSecond Languageの略)」クラスの
有無も重要な要素となる。
及び
・補習授業校(土日のみ開講で校長、教頭は日本からの派遣、教員は現地採用)への在籍有無

備考
上記の学校で複数校可能な場合、本人と保護者の帰国後をも視野に入れた意向が更に重要となる。
その他、塾通学や通信教育受講、また家庭教師等、広い視野で本人の背景を視る必要がある。
例えば、英語圏以外の現地校(「国際クラス」併設の現地校も含め)で精神的問題を抱えた生徒がある。

 

これらの前提を明示し、広く帰国子女教育を考えることは、偏見をなくす第一歩であると思う。と同時に、記事の受け止め方も変わって来るであろう。だからこそ「海外・帰国子女教育」との用語が成り立つのであり、言ってみれば帰国子女教育と海外子女教育は表裏一体要素を強く持っていると言える。
「純ジャパ」「変ジャパ」「半ジャパ」との(ジャパはジャパニーズJapaneseの短縮形であることが分かれば、その意味は理解できるだろう)揶揄的表現に記事も少し触れているが、それらの発話者の視点は、日本を軸、起点にしたそれであり、とどのつまり受け入れる側、教師・生徒の意識の問題である。どこまでも「大海の孤島」に拘泥するか、その気質を一つの風土として捉えながらも多様な世界を自然態で感嘆、得心し、自身の批評眼を持つか。柔らかな感性と複眼思考の必要性。

先に、私がインターナショナル・スクールと日本私学との協働校に勤めたことを書いた。英語力など公立中高校机上的学習の域そのままの私が、10年間の在職中に、インターナショナル・スクールの教職員・保護者・生徒からどれほど示唆、教示を得たことか。
このことは、日本を再考、再発見する良い機会ではあったのだが、不遜を承知で言えば、日本側学校での日々はほとんどがそれまでの繰り返しであった。

最後に二つの記事から若干の引用をし、私見を加える。
※「  」引用部分  《  》私見

「「TOEIC」テストの世界順位は40位」(因みに1位はバングラデシュ)

《帰国生徒に英語を期待するならば、聞く・話す・読む・書くの、何を、どういうレベルで期待するのかを明確にする必要がある。「英語ができる」の意味の多くが、先述のように聞く・話すだとしても、確かな4技能の英語力を持つ生徒自身が、話すでの発音(例えばイントネーションと方言)、文法(例えば敬語)の問題点を指摘し、一方で、英語力が中高校教科学習程度の教師、大人、社会はそれに気づくこともなく誉め讃えている。》

 

「漢字や地理などの日本特有の勉強ができなくなった代わりに英語ができるようになったのでトントン」との、帰国子女で現在20代の男性の発言。

《帰国が前提でない海外在留子女は別にして、帰国が予定されている場合、どっちかの発想ではなく、家庭でのわずかな時間で補いはできるはずである。
ただ、社会の教科書に関して、巻末の索引の固有名詞等漢字の振り仮名には、きめ細やかな配慮が必要であると思う。これは、大人が索引を上手に利用して効果をあげるように、帰国子女に限らず、多くの子どもたちにとっても同じではないか。
これと関連することで、帰国後の保護者の子どもの進路への意識(何かと異論の多い領域で軽率には言えないが、性差の違いも生ずる)、すなわち学校選び、が重要な要素となる。その時、夫が赴任している場合、母親の子どもに対する学歴や学力そして将来への希望図が非常に大きな影響力を持つ。そこに親子の会話、家庭力が求められる。もう20年以上前かと思うが、海外在留家庭を「囲炉裏型」の家庭と言った研究者がいた。
海外における日本人社会の閉鎖的タテ構図[例えば官庁関係、企業関係(大・中・小企業)等の位置関係は、国内で感ずる以上の強さで歴然として在るのだから尚更である。それとも、海外だからこそ共生感が芽生え、今では、国内に在る厳しい現実をとうに克服しているのだろうか。》

 

「日本では、みんな一緒が良いとされる。みんな一緒のランドセル、みんな一緒のうわばき、みんなで掃除しましょうみたいな。ちょっとでも違うとのけ者というか、変な目で見られます。アメリカだと、違うのは当たり前。」

《よく聞く話で、確かに日本の?学校の特性として指摘されることではあるが、学年、性別、地域また通学校によってさまざまな部分もある。
インターナショナル・スクール協働校での経験では、逆に日本の学校文化を誉める欧米人教師や保護者もある。例えば、掃除習慣。また朝のクラスホームルームの存在。》

 

「(アジア圏の)日本人学校での、生徒たちの行儀良さときれいな言葉遣いが、当たり前だと思っていたが、帰国して入学した学校の荒れた(授業態度、給食時の喧騒、廊下での疾走等)姿を前に疎外感を感じた。」

《小中日本人学校派遣の教師から何度聞いたことだろう。初めて準備、計画した授業ができる喜び。生徒たちの態度のすばらしさ。それもあってか、帰国子女またその保護者は、限られた公立校以外私立受け容れ校希望が多い。地域、家庭と学校の問題がそこにあると考えられるが、派遣教師が帰国した場合、“荒れた学校”に配属されると聞いたことがある。今はどうなのだろうか。(派遣教師の95%以上は公立学校教員)

 

「帰国子女の3つのタイプ。1つは日本語日本ベースの帰国子女。2つ目は滞在国の言語や文化がベースの帰国子女。あと、どっちつかず。」

《2つ目は、日本の現状から考えれば、ほとんどが英語圏からの、と思われるが、その生徒がどのような形で、それをベースにしているかが課題だろう。その時、同じ英語圏であっても、アメリカ・イギリス・オーストラリア・カナダでは教師の意識も違うことも理解する必要がある。2つ目のそういった生徒は、帰国子女を主としている受け入れ校がよりふさわしいとは考えられるが、日本でそのような学校は稀少である。ただ、それでも問題は噴出する。その際の大きな要因は、教師側の意識の問題にある。》

 

今では、国際化、グローバル化、宇宙船地球号等々の表現は、当たり前のようにある。 その表現と実態に思い及ぶとき、「国際語」としての英語と自身の関わり、価値観をしっかりと持ちたいものである。そこに、自身の中の日本(人)性がどのようにあるのかも含め。 1970年前後の海外・帰国子女教育から40年余りが経過し、その教育はどう変わったのか、また海外駐在員家庭環境また駐在員派遣形態に変化はあるのか、漫然ととらえるのではなく現在の視座から把握することで、海外・帰国子女教育が、国内の教育を、更には社会を映し出すことに眼を向ける、その意義の大きさを改めて思う。 それは眼を向ける人物の、(学校・家庭)教育観、(日本・世界)社会観の自己確認ともなるのだから。

2018年10月10日

中華街たより(2018年10月)    『伝言板』

井上 邦久

地震・豪雨・酷暑そして台風が続いた夏。日本各地で彼我双方が被害者となり、励ましの言葉が交差しました。お見舞い、ありがとうございました。

富田林警察署からの逃亡者が山口県周南市で捕まりました。ちょうど酷暑の間に自転車移動していたことになります。天網恢恢、疎而不失ではなく、霞が関同様の疎(粗)い網であることを白日の下に晒しました。捕まった場所は、道の駅『ソレーネ周南』、イタリア語辞書にはない山口方言の慣用句の「ソレーネ」。同意語「そうだね」の意味で、「ソレソレ」と「ソーデスイネ」という同義語も含めて耳に馴染んだ山口弁です。夏バテをしそうな心身にカンフル注射のような幾つかの言葉が沁みました。
以下の伝言板に掲げておきます。

「ソレソレ」という項目があれば幸いで、無ければ読み飛ばして頂けますように。

誰も言わないから言っておく。官公庁がこぞって身体障碍者の雇用数をごまかすような国にパラリンピックを開催する資格はない。

             池澤夏樹『終わりと始まり』(朝日新聞夕刊)

3.11.から日本は喪に服している。還れない人がいるのに、オリンピックやカジノ騒ぎをするわけにはいかない。

坪井秀人『第323回 日文研フォーラム』

残る日に縋り鳴きたる油蝉             大道寺将司(獄中詠)

 

ここ20年の、統治権を問われない限り金儲けを認めるという党の信条に対して、幻滅が広がっている証拠となる。そしてさらに厄介なことに、キリスト教徒が増加していることは、共産党が神の役割を果たしているのだから神は必要ない、という北京の暗黙の主張への異議申し立てにほかならないのだ。

 デイヴィッド・アイマ― 近藤隆文訳 『辺境中国』

 

私たちは敗戦という苦難を乗り越えて現在の平和な暮らしを続けております。そこには常に歌がありました。その後わが国は幾多の災害に見舞われましたが、その時でも歌がひとつの支えになっておりました。

               野澤節郎『焼け跡に歌が流れた!』

 

作者のシャマン・ラポガン氏への賞の贈呈は当然ながら、その作品と私たち日本語圏の読者が出会えたのは、訳者の下村作次郎氏の果敢で地道な仕事があってのことです

http://www.sunnyboybooks.jp/the-5th-irondog-heterotopia-iteraryprize/

鉄犬ヘテロトピア文学賞事務局「受賞作 大海に生きる夢—大海浮夢」

健次の小説の中で、私は『鳳仙花』が一番好きです。

               中上 紀 (8/1 日本近代文学館講演)

医大で露呈された女子受験生への差別措置に驚いたが、それ以上に周りの人たちが「そんなことも知らなかったの?」と口にした事がショックだった。

R.O. (身近な若い女性医師)

 

現代社会の災害・災難は単に自然災害だけではなく、近代文明の高度化が進むに従ってその多様性を増し続けています。

鄭 炳浩『日本と韓国における「災難文学」の比較とその文化的背景』

 

戦争のこと以外、日本近代史の記述は基本的に中国のこと、また中国的な要素をずっと「隠蔽」し続けてきたからだ。

劉 建輝 『明治維新に中国のお膳立て』(京都新聞8/10)

 

日本が戦争に負けていないのだとすれば、大義も、勝利の可能性もなかった
戦争を始めたことの責任を、誰も取る必要はないし、反省する必要もない。負けたことを認めていないので延々と負け続ける。すなわち、永続敗戦。

  白井 聡 『国体論からみた安倍政権』(8/25 茨木市に於ける講演会)

台湾各地にある個性的な書店をルポルタージュした1冊、

『書店本事—個性的な台湾書店主・43のストーリー』を出版したい!

        クラウドファンディング (8月、目標の2百万円達成)

 

現存する中国伝統演劇の中で最も古いといわれる崑曲(崑劇)は人物の内面を繊細に描き出します。その豊かな世界が伝わりますよう江南春琴行崑曲班を中心に・・・崑曲と江南絲竹『破壁残燈零砕月』

https://www.kobe-niko.com/イベントのご案内/

 

浮遊清秋影 暢飲電気白蘭地 琥珀色相映
秋風は電気ブランの琥珀色

                朱 實(瞿麦)老師『漢俳・俳句旧作』

 

この秋も異国の丘に眠る人 (拙)

直近の句会で、或る方は教会の鐘が聞こえてくるとイメージされ、別の方はシベリア抑留を思い起こすと評してくれました。横浜外人墓地のシドモア女史とノモンハン事件(ハルハ河の戦)を考えながらの軽みに欠けた拙句です。
伝言板の余白を埋める為に掲示しました。             (了)