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2019年7月20日

天才・その“相対”を超えた存在 ~サルバドール・ダリ鑑賞~

井嶋 悠

福島県磐梯会津高原の中程にある、サルバード・ダリ(1904~1989)の作品所蔵で世界的に著名な『諸橋近代美術館』に、妻と行った。
ダリの絵画、彫刻作品の鑑賞2回目である。 ダリの、私が前回行った時と違ったテーマでの、新たな展示である。
[美術館の表示は、『開館20周年記念展 次元を探しに ダリから現代へ』である。
大学で陶芸を学んだ妻は何度か観ていて、本人曰く「ダリは好きだ。この美術館も好きだ」
静寂の漂う林間地にある瀟洒で風格のある近代建物で、その建物の前には広い池があり、横を幅3mほどのせせらぎが流れ、その周りは芝生で美しく整えられている。そこには近代の人為性があるが、取り囲む磐梯連峰、森林が、人為性をも包み込んだ久遠の自然の安らぎを与える。

亡き娘は(享年23歳)ダリを愛で、諸事情から母と私より一足先に関西から今の地に転居したことで、その美術館に母娘で何度か足を運んでいる。親ばかと言われようと、彼女の可能性を傍で実感していただけに、早逝は甚だ口惜しい。その一因が、教育に係る事ゆえ尚更であるが、前にその経緯背景は投稿しているので、ここでことさら立ち入らない。

初めて観たときから引きずっていたことがあった。どこか気構えて観ようとする私への疑問。なぜか。
例えば作品に付けられた表題に寄り掛かっての「理解」と言う観方。そのことに加わっての難解な作品との勝手な或いは先入的思い込み。鑑賞ではなく学習といった感覚。
しかし、画集すなわち写真ではなく、作品本体に向かい合うこと2回目にして、やはり私の鑑賞が大きな誤りであることに決定的に気づかされ、大海を前にした大らかさと自身の小ささに気づいて行った。
その自己を止揚するような中で、一枚の絵が私をとらえた。ダリの“永遠の人”であったガラの顔を描いた、B5判ほどの大きさのペンのデッサンに接した時である。そこには、ピカソのデッサンを観た時と同様の感動があった。
いつしかあの気構えは消え、虚心にダリの作品群を観る私がいた。どれほどの時間が経っただろうか。
美術館を出て、駐車場に向かう時、芝生で座って作業をする三人の女性が視野に入った。楽しげに会話しながら、雑草処理でもしているのだろうか、中年の女性たちであった。 その時、ダリならこの風景をどう見るのだろうか、否、最初からそのような志向を一切持たないのだろうか等々との思いの中で、先程まで見入っていたダリの作品群と彼女たちが重なった。不思議な感覚であった。それが何であるか、私にも分からなかった。それは今も分からない。

この文章は、そんな経験からあらためてダリを、シュールレアリズムを想い、そこから天才について思い巡らせた一端を書いたものである。己が人生の自照の契機としても……。
もっとも、『シュールレアリズム宣言』を著した、アンドレ・プルドン(1896~1966)は、老いと言う年齢になってのこのような行為の虚しさ、愚かさといったようなことを書いてはいるが。

人間は等しく孤独に苛まれ、狂気をかろうじて抑制している。だから夢は人間にとって悦楽となるのだろうが、時に夢は人間を呪縛することもあって、一転恐怖ともなる。
天才は、現実を超えている。と同時に、孤独と狂気を一瞬であっても極限まで、しかも無意識下に自覚する。そこに年齢は関係ない。天才が早熟、早逝のイメージを与えるのはそのせいかもしれない。
凡人と天才が決定的に違うのはそこではないか、と凡人の私は思う。
「十歳(とお)で神童、十五歳(じゅうご)で才子、二十歳(はたち)過ぎればただの人」は、短いようで長く、長いようで短い人生での凡人の言い訳に過ぎない。 天才も10歳から凡人と同じに齢を加えるが、感性は10歳を基底に理智いや増し、ますます研ぎ澄まされて行く。その時、その天才を代表するような作品が創り出される。

と考え始めると、どうしても老子の「天下みな美の美たるを知るも、これ悪のみ」が浮かぶ。
美醜、善不善、有無、難易、長短、高下、音声、前後すべては相対的で、それゆえ「聖人は無為の事に処り、不言の教えを行う。」と言う。
この「  」の部分、研究者金谷 治氏の現代語では次のように記されている。

――それゆえ「道」と一体になった聖人は、そうした世俗の価値観にとらわれて、あくせくとことさらな仕業をするようなことのない「無為」の立場に身をおき、ことばや概念をふりまわして真実から遠ざかるようなことのない「不言」の教訓を実行するのである。――

老子は無為を、不言を言うために文字(言葉)を使う。その自己矛盾に何度呵責の時間を経験したことだろう。同様に、天才画家は絵具で無為不言を表わす。 0(ゼロ)。無であることが永遠であること。

ダリは、己が作品への様々な批評、評価とは全く関係ないところで、言葉を紡ぐ人を視ている。私自身、それがすべてと思うが、自照のために拙い言葉を紡ぐ。当然、その言葉はダリ作品の批評であろうはずがない。

夏目漱石は『夢十夜』を著した。その第六夜は、運慶が仁王を彫刻する話[夢]である。
運慶が、鑿(のみ)と槌(つち)を自在に使って彫るのを、漱石は他の明治の人たちと見ている。その自在さに感心しているときに、或る若い男が言う。「あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と。 漱石は家に戻り薪を使って試みるが、「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。」と書く。

ダリは運慶なのだ。 ダリは現実に生き、抑え難い欲求から想像力をかきたてられ、狂気溢るる集中力と愛(アガペー)で精緻なデッサンを重ね、絵筆を、鑿を動かす。霊感と創造の至福の結合。
運慶は鎌倉時代であり、ダリは20世紀のスペインである。鎌倉時代が仁王を彫らせたように、20世紀の西ヨーロッパが、シュールレアリズム[超現実主義]の作品を創らせた。
そこに共通して在ることは、現実の究極としての、或いは現実を超えたところでの、宗教[仏教とキリスト教]である。 運慶は人々の守護たる仁王像を創ったが、ダリはスペインの、西洋の血・文化・歴史からの霊感で、彼の具象を描き、時に彫刻した。
漱石は運慶に天才を見た。その慧眼(けいがん)。

先の『シュールレアリズム宣言』の中で、アンドレ・プルドンはシュールレアリズムを次のように定義している。

――男性名詞。思考の実際の働きを、口頭ないしは筆記ないしは他のあらゆる手段によって表現しようとするもくろみのための方法としての純粋の心的自動運動。理性によって実施されるあらゆる統制の存在しないところ、すなわち、美的ないしは道徳的なあらゆる配慮の埒外での思考の書取り。――

「美的ないしは道徳的なあらゆる配慮の埒外での心的自動運動」。
解放された自由の中での想像力の飛翔。
私は、更に男性名詞とすることに関心が向く。 「理性によって実施されるあらゆる統制の存在しないところ」、全き解放と安息の場所としての母胎内。現実(主義)を超えることでの安息の志向。母性への憧憬。

ダリはフロイドを敬愛していた。フロイドは精神分析で「性」を考え、人間の根底を考えた。私はフロイドの夢に係る論考の一部を読んだが、ただ眼で追っただけでフロイドについては何も言えない。

ダリは、20歳前後から印象主義、点描法、未来派、立体派、ネオ・キュビズムを吸収しながら、シュールレアリズムの世界に向かった、と解説するフランスの研究者(ロベール・デシャノレヌ)は、ダリの代表作の一つとして1951年作(47歳時)『十字架の聖ヨハネのキリスト』挙げている。
彼のシュールレアリズムの画家としての活動は、20代後半から50代と考えられる。そしてこの時期が、ダリの天才が華開いた時ではないかと思う。
この時間と精緻極まる仕事ぶりからも、彼が強靭な天才であることが見て取れる。ひたすらガラへの愛を支えにして。
因みに、『欲望の謎、わが母、わが母、わが母』を描いたのは、1929年、25歳の時である。

デッサンは絵画の、彫刻の核であって、××主義とかそういったことでぶれることはない。そこには画家の、彫刻家の“樸(あらき)”がある。だから運慶は眉や鼻を掘り出し得た。ダリは緻密なデッサンで彼の夢・霊感を徹底して描いた。

夢は「個人的なドキュメンタリー映画のようなもの」との言説に触れたことがある。映画の人為性(例えば画面を切り取ると言う人為)を思えばなるほどと思う。 静かな激しさに溢れた夢・超現実の具象。ダリの個人的ドキュメンタリー映画。
私が以前に強い感銘を受けたシュールレアリズムの画家、ジョルジョ・デ・キリコ(1886~1978)の、ギリシャ・ローマ時代を思い起こす建造物と真昼が醸し出す静謐との違いと共有性。

相対評価の人間社会にあって唯一絶対と直覚させる人、それが天才だと思う。そこでの鑑賞の「難易」はない。難易は理屈の世界である。
ダリをあらためて観、心のわだかまりが消えたのは、そこに今更ながら気づいたからだと思う。これも加齢の為せる業なのだろう。
明治の画家で28歳にして失意と孤独の中、早逝した青木 繁の『海の幸』を観て、彼を天才と直覚したことが甦る。 同じ“具象画”でもダリと青木では全く違う。しかし、それはダリが主義の前に「超現実」」が付され、青木には「ロマン」が前に付されるという美術史上の分類に過ぎず、本質は全く同じ美である。 二人の天才、ダリの真善美と青木の真善美の同一性。あまりにも当たり前のことだが。

天才であることの苦しみ、哀しみは、その天才でしか分からない。しかし、天才は私たちに安息を与える。天才は天に指名された、私たち凡人の救い主である、と信じたい。

【付記】 今回の展示で、新たに私の心をとらえたのは、『哲学者の錬金術』と『ダンテの新曲煉獄編、地獄篇』の、幾つかのリトグラフ作品であった。

2019年7月10日

多余的話 (2019年7月)   『水無月』

井上 邦久

毒含む言葉なきまま五月尽  

ハーバード大学での記念講話で、「うそが真実で、真実がうそに」すり替えられる世界に於いて市民生活がいかに損なわれるか警告し、 「思いつき」で行動する前に立ち止まってよく考えた方がいいだろうという発言をしたメルケルは、一ヵ月後の大阪での首相同士の対話で「良い友達を選びなさい」と言ったとか。
五月一日、東京新聞を除いて各紙の一面が不気味なくらいに同じ構成だったことに驚きましたが、その後もメルケルばりの直言や諷刺は見つかりません。せめて蒸留水の如き紙面に毒を潜める職人技によって、留飲を下げさせ、紙価を貴めて頂きたいものです。

メルケル講話の日本語全訳と中国語報道と抄訳を届けて頂きました。六日の菖蒲として付記します。
https://logmi.jp/business/articles/321396   https://www.storm.mg/article/1343589          

今年また短か夜の闇ロクヨン忌  

毎年この寝苦しい季節の夜明け前、読書で眼を疲れさせるのが習いです。30年目のロクヨン忌に合わせ発行された中津幸久氏渾身の『北京1998 中国国外退去始末記』を読んで眼が冴え渡りました。         

パラソルに催涙弾の雨が降る  

諦めていた格安航空券が取れたこともあり、急な旅支度で澳門へ向かいました。馬車に乗りながら宗主国ポルトガルの残り香を吸って以来の澳門を歩き、旧式砲台が並ぶ砦の跡を活用した歴史博物館と実業詩人の第一人者と称される鄭観應(1842~1921.上海実業界と文学界の勃興期に活躍)の旧跡を訪ねました。孫文や毛沢東たちが愛読したという代表作『盛世危言』を編述したのも澳門の実家だったとのことで、目下旧宅や資料館を修理整備中でした。
「買弁」の先駆者としても興味があり、改めて訪ねてみたい場所ですが、今回は澳門の故きを温めるより、香港の新しきを知ることが先でした。
主催者側発表で100万人余りのデモの9日、衝突があった12日のあと、200万人デモとされる16日の前日に香港入りしました。 香港人同士は武力衝突をしない、という共同幻想が破れて問題がこじれたため、「反送中」勢力が振り上げた拳をどのように下すか、香港政府からすると下ろさせるかの判断が難しい段階でした。
決起は血気でも可能となるが、収束には冷静さが必要、ということは分かっていても、勢いに任せた動きが加速し、それに乗じて煽られた人たちが「暴徒化」する前車の轍を踏んでしまうことを危惧していました。
赤ん坊を抱いてデモに加わる夫婦や視覚障碍者(警官から白杖を武器と見做されたことで記事になっていました)が参加する無防備なデモと立法府へのヘルメットでの乱入が同じ指揮体系や目的意識から生まれるとは想像しにくいものがあります。
メルケル発言の最終章「希望の6ヶ条」を再読して香港の動きに重ね合わせて考えています。
壊すべき壁は立法府のガラスではないことは明らかです。更に、本土の民主化運動に香港では共感を寄せてきたけれど、香港の動きに本土は概して冷ややかであることがこの30年の変化だと思います。香港では「一国二制度」を堅持する最後の機会とする危機感が満ちている一方、本土の40歳以下の人たちの多くは「一国二制度」そのものを知らない、この大きな温度差。     

令の字につきまとわれし兵の日日  知る人ぞ知る今も夢路に (鈴木七郎)  

春から続いた「△△で最後の・・・」、「✕✕で最初の・・・」という騒音に近い、しかし、かなり恣意的な大合唱もようやく終息したかと思い始めた6月14日に、岩波文庫から『文選』全6冊の最終巻が発売されました。付録として張衡の『帰田賦』がシレっと添えられていました。
昨年末に『張衡の天文学思想』(汲古書院)の新刊広告を見かけたこともあり、著者である高橋あやめ氏のエッセイを掲載した4月11日付の東京新聞を友人から送って貰いました。 そこには、「4月1日に俄かに張衡の『帰田賦』が話題になったことはエイプリルフールの冗談ではないか」と冷静に、且つユーモアを交えて綴られていたので安堵しました。
この項は舌足らずですので、続きは岩波文庫の『文選』詩論(六)に挟み込まれた付録を立ち読み頂くか。図書館で東京新聞を閲覧願います。

大阪を真空にして虎が雨  

空梅雨で終わるのかと思いきや、G20と小台風が湿気を土産にやってきて、大阪の街は遠隔地ナンバーの警察車両と道案内が不得手な警察官が角々に立つ姿だけが目立ちました。郊外に位置する茨木のタクシー運転手さんは「こんな地域まで人出も車出も絶えてしまい不気味な雰囲気。商売?エエ訳ないやろ!」と一瞬怒ったふりをしながらも、「仕方ないわな・・・」と中国人が「没辨法(メイ・バン・ファ)」と言う時と同じ口調で絞り出していました。

        夏草を巨象二頭が踏みつぶし         

    水無月をまだ売る店に買いに行く

2019年7月4日

爺さん[達]は怒っている ―無党派爺の悪口雑言―

井嶋 悠

婆さん[達]も怒っている。

現居住地県には世界遺産日光がある。自宅から車で1時間余りである。 日光には[見ざる・言わざる・聞かざる]が、安置されている。この人生訓を無視し、見て、聞いて、言う(怒る)ことにした。 余りにひど過ぎるから。国情が、世相が、欺瞞が。いかにもうるさい爺さん向きの社会状況ではある。

現代日本社会に、狭い言い方をすれば政治に、怒っている。それも大いに怒っている。 この頃では、権力と言う腐臭さえ漂いつつあるようで、怒ると併行して鼻栓が必要なまでになっている。
私は74歳(韓国流で言えば75歳。韓国では生まれた時が1歳で日本の数え年に当たる。しかし、母胎内での生命時間、またゼロの意味を考えるとすばらしいと思う)の立派な?爺さんである。
ただ、爺さんが爺さんに怒ることもある。これは私の生き方がそうさせるのである。 高齢者運転に関して、心身への現在自覚もなく過去を美化し運転への自信を得々と言う爺さん。老いを御旗に同情を起こさせ、尊大な言動をする爺さん。他人(ひと)のことを聞いているようで聞かず結局は自身の考えだけを言う聞き下手の話し下手の爺さん、政治だけでなく様々な場面で迎合と寛容をない交ぜる爺さん、等々。
これらは、もちろん爺さんを婆さんにいつでも置き換えられる。

では、お前と言う爺はどうなのだ?もちろん、こうならないよう細心の注意を払っている。ただ、小人のかなしさ、随所で漏れを指摘されているとは思う。

そんな私は若者を、とりわけ10代から30代にかけての、歯がゆく、苛立たしく思うのである。いずれ多くの自身が、路頭に迷うがごとき困惑と不安に襲われるのは眼に見えて明らかなのだから。 香港のデモを、その現象も本質も対岸の火事と漫然と眺め、欧米の同世代の若者の表面だけをなぞっているのが何と多いことか、などと言えば若者から叱責を受けるだろうか。
昔は云々との老人言葉は避けたいが、どこかあまりに軽佻浮薄が目立つのは私だけか。目立つから軽佻浮薄と思うのかもしれない。地味に日々を積み上げている若者を知っているだけに。

何でもかんでも自己責任を金科玉条とする潔(いさぎよ)さ?で、政治に眼を向けるのは暇人、好き者のすることとわきまえ、カッコヨク生きることに専心し、ふと気づけば早三十路、孔子の言う而立(自立)どころか、そこに醸し出されて来る虚しさと将来不安。老人の杞憂? 引きこもり=犯罪者を、ヘイト言説を、いつしか肯定する自身に気づき狼狽(うろた)える。こんなはずではなかったと。

1950年代、イギリスの演劇『怒りを込めて振り返れ』を端に、“怒れる若者たち”との言葉が広がった。その頃、日本では60年安保問題で、若者の大きな揺り動かしがあった。私が15歳、中学生の頃である。その10年後、私は大学院生であった。70年安保等、日本社会再考のうねりの時で、「全共闘」云々とは措いて、若者に何らかの意思表示を社会が求めた。
私はその波を直接に、間接に浴びた一人であったが、周囲が私に寄せるほどの存在はなかったに等しい。ただ、当時の全共闘現役世代から、なぜかあれこれと依頼(モーション)があったことは事実である。
私は私にできる限られた中で自身を考えたが、思考と行動を合致できなかった。要は、脱落者(ノンポリ)であった。そのことは私に様々な陽と翳を投げ掛け、自身を考える契機(きっかけ)となった。それが私の人生の、+になったのか-になったのかは今もって分からない。当然のことながら?
しかし、私自身は陽翳いずれも、積極的に作用したと今思っている。 それほどに複雑な心が巡るので、私より少なくとも数年若い世代が、安直に全共闘世代を讃美的に言うことには、無性に腹が立つ。これも爺さんならではの為せる業。 恐らく、私の社会への怒りの原点はその辺りにあるのではないかと思っている。

それから50年、自然な爺さんとなり怒り、歯がゆく思っているのである。 なぜか。日々の現実を、余命との響きの中で思えば思うほど、次代に託し、つなぐにしては余りにも無責任ではないかと思うのである。

具体的に挙げる。 初めに、ここ数年《内を視る》ことの重要性を思っている私ゆえ、国際[外交]を挙げる。
現首相の外交力が、一部か多数かは知らないが、誉めそやされ、本人もその気らしく、これまでどれほどの国費(数百億円)を使い、どこに行ったかについては以前投稿した。 私には信じられない。 前東京都知事のアメリカ出張費が、辞任の一端となったのは未だ記憶に新しいかとも思うが、それと較べれば〔象と蟻〕がごとき差の莫大な国費(国税)を使っての外交成果に何があったのか、あるのか。直近で言えば先日のイラン訪問は一体何だったのか。「トランプと言うボスの。小間使い。」日本と言う国の代表の誇りなど微塵もない。(政治家お得意の美辞麗句ではあるようだが、政治家のそれほど醜悪で残酷なものはない)だからなおのこと、その大統領就任式前に得々と行ったゴルフ外交が過(よ)ぎる。日本(人)へのあまりの恥辱醜態と私は確信する。 また、領土問題に係る対中国、韓国、ロシア、経済問題に係る対EU、イギリス、アメリカ、石油に係る対アラブ圏等々、そして拉致問題を「絶対の使命」とまで言う対北朝鮮、との成果はどれほどに伸展したのか。
虎の威を借りた狐。抽象的でも理念的でもはたまた弁解的でも、更には感傷的でもなく、私たち国民に確かで具体的説得力を持った言葉が、どれほどに発せられ、私たちはそれを聞いただろうか。

【余談】 私の学校現場での経験から言えば、内を治めきれない権威指向の人格乏しい者(校長)に限って、外に眼を向け。その成果(多くは理念だけの)を上滑りの言葉で言うのは定番である。

先のことと関連あることとして、その人たちの中では一筋通っているのだろうが、一人の主婦の発言からノーベル平和賞候補とも言われる『日本国憲法』の、しかも第9条に手を加えようと首相は、自衛隊員の誇りを謳(うた)い目論んでいる。どこまで私物化すれば気が済むのだろう。

以下、内政に関して怒りを書く。 先ず、私に直接関係ある領域から。
教育と福祉。
教育の無償化。政府は鬼の首を取ったかのように自画自賛するが、現状の歪みの変革なしの実施が格差の上塗りとなることは周知とさえなっている。 無償化そのものを否定していない。なぜ塾・予備校あっての小中高大、との現実に眼を向け、足を踏み入れないのか。無償化する前に塾予備校不要の教育社会実現を目指すべきである。 それは、小中高大の教員意識の、学校教育の、その入り口である入試方法の在りよう、すべてにつながって来る。
ただ、外国人子女教育等々、諸事情から学力補充が必要な場合もあろうかと思う。その場合は、在籍校と連携した「補習塾」を運営するという方法は必要になろう。
公私立問わず学校に一度ついたレッテル、印象(イメージ)を払拭するには時間がかかる。しかし、塾・予備校を除外して再建し、息がつまりそうな現行の[六・三・三]にあって、伸びやかにそれぞれ生徒が未来の自身のために学校時間を生きている学校は幾つもある。校長以下、教職員・保護者のそして生徒たちの汗の結晶として。
尚、今の少子化高齢化時代を機会とする小中高校6・6+2年制の、私は支持者である。 一方で、経営が下降線に入ったのか、世に言う有名私立大学傘下に入り、青息吐息の、存続が唯一絶対使命的学校もある。

私自身を含め、私が出会った一部の教師たちだけかもしれないが、入試問題作成にあたって、入試科目各教科では、それまでの阿吽(あうん)がごとき学力観で(時に惰性的情緒的に)作成、実施して来なかったか。
そして多くの教師・大人が悲憤慷慨する。「学力低下」を、「こんなことも知らないのか」と。 この心の動き、どこか本末転倒ではないか。
塾・予備校で補われ、養われた学力を基に、各年度の入試問題批評がにぎやかに行なわれ、マスコミは日ごろの個の尊重、学歴疑問論を忘れた有名校入学者発表の見事なまでの節操なき二枚舌。
その塾・予備校を取り外したら、日本の教育は壊滅するのだろうか。変えるのは、教師であり、保護者であり、立法府であり、行政府であり、マスコミであり……要は大人達である。
元関西の私立中高校教師経験から関西に限定して言うが、兵庫県の神戸高校、大阪府の北野高校、京都府の洛北高校の風格はどの学校も太刀打ちできない。歴史の重み。結果としての進路進学。
少子化まっしぐらである。千載一遇の機会ではないのか。始まりがあって歴史があるという自明。 それとも現状の学校教育現実をそのままに「学歴無用(論)」を推し進めるほうが効率的なのだろうか。

もう一つ、教育と言うか、教育を動かす[背景・母体]に関して。 「森友問題」「加計問題」。前者は係争中とのことだが、この両問題は過去完了ということなのか。 信じられない。 国民を愚弄するのもほどほどにしてもらいたい。

福祉。
高齢化は医療医学の進歩があってのことだから、喜ばしいとも言える。しかし、このままなら先行き不安から絶望と生の拒否の悲哀に変わるのではないか。 高齢者の基本は人である。国家の人への基本は基本的人権の尊重である。確かに自身から死に向かう人もいる。哀しいことである。それでも懸命に生きようとする人もある。その多少、軽重を問わず、国を築いたのは一人一人の人である。年金は月々一時的に預け、運用依頼した報労金である。 人間らしい生活とは、人によってその内容は様々だろう。ただ、衣食住と生の余韻感得の平均値的な姿は、その国の経済力で概ね想像できるのではないか。それを国が保証する。当然過ぎる義務である。
にもかかわらず、官僚性丸出しの老後自助資金報告書を出し、こともなげに2000万とか3000万と言い、紛糾している。当たり前である。そして報告書を受け取らぬとまで言っている。国としての責任逃避であり、義務放棄である。
政党スローガンで「日本を守り抜く!」というのを見たことがある。何を守り抜くのだろう。高齢者は怒りを通り越して、泣いている。そしてこの国に生まれたことを悔やんでいる。
消費税を10%にすると言う。福祉への財源がないから、と。なんでないのだ?対国内、対国外の収支から、ない理由、事情を庶民の金銭感覚で分かるように、精細に、どれほど説明されたか。幾重に重なる本末転倒。

私たち日本人はあまりにも優し過ぎる、おとなし過ぎる。この優しさは優しさではない。私たちは権力者からなめられているのである。
北朝鮮が、中国が、韓国が、はたまたロシアが侵攻して来る、イスラム圏諸国のテロが起こる。日本は、グローバル社会での存在感を誇示しようとしているから危険度は大きいと言う。だから防衛費は何兆円とかかって当然と言う。その日本は世界NO,1レベルの借金大国である。
百歩譲って+2%の増税分すべての収支表を公表し、福祉に徹底して使用するとなぜ明言しないのか。 私が馬鹿で暢気で世間(世界)知らずだからだろう。この政治のムチャクチャが信じられないのである。

働き方改革。うんっ!?
どれほどの人がその恩恵を、身をもって受けているのか。その日その日の仕事の時間と成果との闘い、企業自体存続の不安を抱えての産休また有給休暇での現状。更には、夕方以降が勤務の職業、職務への働き方改革など聞いたことがないのは私だけか。
政治家と一部官僚、大企業だけでの高慢はいずれ叛乱を呼び、“スローガン”は中途半端なまま消え去る。

男女協働社会。
当たり前のことを新発想語かのごとき言うが、一向に眼に見えて確実化し得ない理由は、すべて男(社会)にある、と言っても過言ではない。
働く能力差に男女は関係ない。体験から絶対的自信をもって言える。妊娠、出産は女性だけの力であり痛みである。ただ、その選択は当事者[母と父]に委ねられることである。その上で、出産を希望する女性には、またその家族には最大限の保障がされて然るべきで、国の存亡に係る。
男は、もっと自身に、女性に謙虚にならなくてならない。今もって、その女性を軽んじる、モノ的に見る輩がいることが、信じられない。
協働、共に力を合わせて働く。しかし何らかのやむを得ない事由で片方が働けないときは片方が働くのも協働。 この最低限が、共有されてこその施策であり、だからこそ自由の尊重と自由の責任の上に立って、それぞれの自由な選択、判断が生まれるのではないか。

と、爺さんが“ご託”を並べる前に、と婆さん(達)は一言いう。
「収入低迷、諸物価高騰、なんだかんだ理由をつけての政府収入増加策、いい加減にせいっ!」

先日、ハーバード大学の卒業式講演で、ドイツのメルケル首相が招かれた。その日本語翻訳全文を、旧知の方のご厚意で読むことができた。内容云々の前に三つのことが過ぎった。
○ハーバード大学は、なぜメルケル氏を招聘したのだろうかということ。
○言葉の重み。(あくまでも己が生を顧みての、そこから生れる静かな強さの言葉)ということ。
○まかり間違っても日本の現首相が招かれることはないだろう、ということ。

2019年7月1日

雨 七夕 日本・韓国・中国

井嶋 悠

雨は聴くもののように思える。 幼い頃、夕立や雷雨の夜、当時まだ使われていた蚊帳の中に入って寝ころびながら雨を想像し、遠雷を独り聞いて、どこか心静まっていた。もっとも、間近な雷には静まる余裕などなかったが。
この身勝手な恍惚は今もあって、蚊帳はないが、とりわけ深夜の、雨と遠雷の音は想像を巡らせる。

緑雨、紅雨とか小糠雨、霧雨とか、見ているように思えるが、私たちはその雨を見ていながら、つまるところ天に想い及ぼし、耳をひたすら働かせ、想像しているのではなかろうか。
日本語で雨に係る言葉は400種以上あるとかで、その中に「神立(かんだち)」と言う語があるように。
※「神立」:神様が何かを伝えていると信じられていた「雷」を指す言葉から転じて、夕方、雷雨の意。  
この感性は、雲がないのに細かい雨が降ってくることを「天泣(てんきゅう)」ということと通ずるように思う。

」三好達治(1900~1964)の有名な詩に『大阿蘇』というのがある。その後半部は以下である。 その最終2行はことのほか耳にする詩句である。そこで使われている「蕭々(しょうしょう)と」は、耳であろうか、眼であろうか。耳でもあり眼でもあり、眼でもあり耳でもあるように思える。阿蘇の放牧された馬を覆う天の声としての雨。そこから醸し出される寂寥の気。 あたかも眼前の雨を介し、耳をそばだて音楽を聴くように。

空いちめんの雨雲と  
やがてそれはけじめもなしにつづいている  
馬は草を食べている  
草千里浜のとある丘の  
雨にあらわれた青草を 彼らはいっしんにたべている  
たべている  
彼らはそこにみんな静かにたっている  
ぐっしょりと雨に濡れて 
いつまでもひとつところに 彼らは静かに集まっている  
もしも百年が この一瞬の間にたったとしても何の不思議もないだろう  
雨が降っている 雨が降っている  
雨は蕭々と降っている  

※「蕭々」:(雨が降ったり、風が吹いたりして)肌寒く、寂しさを感じる様子
【備考】この最後2行で使われている「が・は」は、助詞の使い分け説明にしばしば引用されている。

このように雨は、歌や詩の中で、切ない寂しさを表現するのによく使われる。 歌謡曲から二つ例を挙げる。
一つは、『雨の酒場で』(作詞:清水 みのる、歌;ディック・ミネ、石原 裕次郎、1954年)の1番
並木の雨の ささやきを   
酒場の窓に ききながら   
涙まじりで あおる酒  
「おい、もうよせよ」飲んだとて  
 悩みが消える わけじゃなし   
酔うほどさびしく なるんだぜ

もう一つは、『長崎は今日も雨だった』(作詞:永田 貴子、歌:内山田洋とクールファイブ、1969年)の3番
頬にこぼれる なみだの雨に   
命も恋も 捨てたのに   
こころ こころ乱れて   
飲んで 飲んで酔いしれる   
酒に恨みは ないものを   
ああ長崎は 今日も雨だった

もう一つ、私の好きな詩から。
北原 白秋(1885~1942)の全八連の詩『落葉松』から3つの連を抄出する。 一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。

からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。

からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。

例外的にそうでないものもある。同じく北原白秋の童謡(1925年)『あめふり』 あめあめ ふれふれ かあさんが/じゃのめで おむかい うれしいな/ピッチピッチ チャップチャップ/ランランラン

しかし、上記引用した歌詞、詩歌の根底には、対象への、また自己への愛がある。そして先人・古人の感性に思い到る。哀しと愛(かな)しの表裏性。 そして雨は涙へと導く。「雨に濡れる」「涙に濡れる」。涙雨。 この雨―かなしみ更にはその涙、との発想は、日本的音楽[演歌]で多く採り入れられていて、そういう意味で日本的なのかもしれない。
それは日本を構成する主な民族、大和民族の自然への心が生みだした農耕につながる、「甘(かん)雨(う)」「慈雨」との美しい言葉とも重なっているように思える。
今回、雨の呼称を調べていて「男梅雨」「女梅雨(あめ)」なる言葉を知った。前者の意味は「雨が降るときは激しく振り、雨が止むときはすっきり晴れる」で、後者は「しとしととした、雨脚の弱い梅雨」とのことだそうだが、これも男女へのいかにも日本的な感覚だと思う。

先に記した涙雨の意味は「涙のようにほんの少しだけ降る雨」とのことなのだが、やはり新たに二つの表現を知った。「酒(さい)(催)涙雨(るいう)」「洗車(せんしゃ)雨(う)」。
共に七夕、織女(織姫)と牽牛(彦星)に係る雨とのこと。後者は、7月6日に降る雨のことで、牽牛が織女と会うため牛車を洗い準備している様を。
前者は、当日雨で二人が会えなくなり流している涙とのこと。きっと、当日、「鉄砲雨」「ゲリラ豪雨」が二人を襲ったのだろう。
実に微笑ましい神話伝説の世界に私たちを誘う。
ところが、これが韓国に行くと、当日雨だとそれは二人の再会のうれし涙で、次の日も雨ならば二人が別れを惜しむ涙とか。
これが韓国の国民性なのかどうか分からないが、やはり微笑ましさに溢れている。

ここで、中国・台湾・韓国・日本での節句の一つである七夕について、良い機会なので確認しておく。 『源流の説話』[出典:ウキペディア「七夕」]
――こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。 織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルである。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。 このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離したが、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができた。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。 星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。 また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。 ――

催涙雨、何と夢をかきたてる言葉。 カササギ(鵲)、日本では北九州のごく一部地域以外見られない鳥だが、韓国では度々、それも群生して飛ぶ優美な姿を目にした。そのカササギと織女と牽牛の永遠の愛。 百人一首の「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」を想い起こす人も多いかと思う。

今日、源流の中国でさえ、七夕はあの惰性的でさえある「バレンタインデー」的様相になっているようで、日本も観光客誘致や商戦広告に使われることも多く、古人の想いから離れつつある。 それは時の流れとしてやむを得ないのかとも思うが、星座を見て、古代東西の人々の想像力と叡智に思いを馳せるように、底流の神話文化に心を向け、東アジア文化(或いは共同体?)について考えるのも、今の時代だからこそ必要なことのように思うが、どうだろうか。

梅雨になって、久しぶりに、深夜、床の中で雨の音に触発された。国土の6割が山岳で森林である日本の、雨があって水明であり、稲作である、そんな日本文化を考えてみた。