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2014年6月24日

北京たより(2014年6月)  『御縁』

井上 邦久

4月の句会に北京から届けた三句。そのうちの一つ、

この猫も十五の春に背伸びする

 という一寸ふざけた拙句を、複数の同人に拾って貰えたので喜びました。

十五の春に50名の枠を目指して、全国からの若駒が六甲山麓に集まりました。
住吉旅館で三重県からやってきたT君と遭遇しました。試験そっちのけで語ってくれる古典音楽や万葉集の内容に、かなり背伸びしてついて行くのがやっとでした。
「こんな学校、合格しても入らない」と精一杯背伸びした言葉も異口同音に発しました。結果は二人とも二次試験で不合格、それぞれ地元の公立高校に進みました。
三重ノ海(元理事長)が新入幕を果たした春でした。

旅館での二泊三日の御縁が続いています。5年前の6月に中国への赴任にあたって壮行のたよりを送ってくれました。その一文にあった「空とぶ遣唐使」という言葉に触発されて、これまた背伸びをした句を作りました。

空を飛ぶ遣唐使われクールビズ

昨年の端午節休暇には、家族で上海に来てくれて楓涇水郷で粽を食べ、天山茶城で苦丁茶を選びました。フルマラソンランナーのT君は、和平ホテルから早朝の北四川路を魯迅公園まで軽く一走り、夜は上海料理を黄酒で愉しんでカロリーの過剰補給をしていました。
因みに日本での会食では伏見や地元の清酒を好み、灘のほろ苦い酒も共に嗜みますが、上海料理にはやはり上海楓涇産の老酒(『石庫門』黒ラベル)を勧めました。

「町医者になる」という言葉を残して東京の大学病院を去り、故郷の診療医療のために長年黙々と尽力したT君も、この春にようやく地域の会長職を後進に譲れたとの静かな喜びの連絡が届きました。

楪(ゆずりは)は黙したままで席を去り

一方、潔くない遣唐使は、五カ年計画内容を果たした後も続投中です。席は去らず、席を温めない生活を続けています。5月末に北京を離れ、上海・台北・嘉義・台南を巡り、桃園空港から香港経由で陸路深圳入りしました。

6月2日は端午節三連休の最終日でしたが、今回は日本の暦に従って休まず、
全国各地の主要拠点から結集した主管者が熱心な自主トレを行いました。
会議の後は紅白酒合戦;最近隆盛な紅酒(赤ワイン)派と伝統的な白酒派の合戦。大連や天津などの白組代表が、偽酒の心配のない安価な『二鍋頭』(57度の白酒)で勢いを増し、紅組を凌駕駆逐して快勝しました。
この5年、年に2~3回ペースで開催場所を持ち回り、課題共有の会議、拠点スタッフとの交流、そして訪れた街の風に触れることを目的にしています。
上海たより(2010年8月6日)の冒頭部分より

上海航空FM851便は虹橋空港を離陸して、杭州湾を一跨ぎしたあと、浙江省・福建省の山波の上空を約1時間南下しました。そして福州湾付近で機首を90度左旋回、海上に出て一路、台北松山空港に向かいました。午前便の機内は台湾へ戻る人は少なく、圧倒的に多い大陸からの団体客で満席でした。聞こえてくる会話は、台湾では何を食べるか?僕は小菜、私は台南坦仔麺といった緊張感のないもので、政治的にも職業的にも特別な任務を帯びているとは思えない集団でした。そんな屈託のない雰囲気の中で、この空路を60年余り前に蒋介石を始めとする国民党の幹部が大陸を脱して台湾へ向かったのかと思ったり、眼下の台湾海峡や通過した蒋介石の故郷の浙江省寧波市奉化地区の風景に歴史的な重みを感じる日本人はまさに異邦人でした。

海上を飛ぶこと半時間余り、懐かしの台北陽明山が見えてきました。その中腹に所在する文化学院大学から交換教授制度で来日されていた江樹生教授から閩南語(閩は福建の古名。福建省東南部から広東省、台湾で使われる中国語の一方言。台湾語とも称される、と広辞苑には書いています)を2年間教わりました。華僑の友人と二人だけの不肖の受講生は、熱心な江教授を嘆かせ続けました。その後、江教授は、かつて台湾を占拠していたオランダに残る文献を追って、欧州へ留学されました。餞別代わりに学生にとっては、なけなしの金で買った大和赤膚焼の小皿をお届けしたのが唯一の慰めです。思えばそれが台湾との御縁の始まりでした。

初日の台北では亜東関係協会(台湾側の対日本窓口)での外務官僚の勉強会に特別参加させて貰いました。当日の講師を務められた邦銀支店長の御好意によるものでした。
その夜は、上海・香港以来の御縁が続いている学兄が亜東交流協会(日本側の対台湾窓口)幹部として着任されたので、銀行支店長とともに囲み、台湾にちなむお話を聴かせて頂きました。その中には、1942年5月8日に没した八田與一の命日に、南嘉義の烏山頭ダムで営まれている追悼会に出席された支店長の興味深いお話もありました。

翌日早朝の新幹線で嘉義に向かい、台北日本商会と台日産業技術合作協会の共同主催による活動に参加。耐須集団傘下の食品大手の愛健集団(特定保健食品14種類を開発)、合成樹脂とその収益の社会還元で有名な奇美集団や工業開発研究院などを訪問。夜には台南市長の頼清徳市長が参加された交流懇親会に加えて頂きました。

頼市長は1959年生まれ。医学を専攻されたスマートな方。ごく一部の街の声(タクシーを運転してくれた人たち、水割りの酒を作ってくれた人たち)にも頗る評判が宜しいようでした。民進党の「次の次」を担う全国人気ナンバーワン市長とのことでした。

台北支店のスタッフ全員とのランチミーティングでも、「次」の総統候補とされる蔡女史が「お嬢さま育ち」であることが話題になりました。父親がフォルクスワーゲンの総代理商、大学に通うにも高級外車を運転していたという出自と対照的に、頼市長は2歳で父親を亡くし、台湾大学、成功大学の医学部を卒業した刻苦奮励の評判も聞きました。

台北市長時代の高い評判が見る影もなく、今や支持率が20%を切ろうとしている国民党の馬英九総統の例もあります。頼氏には一寸先が闇の世界で自重自戒しながらも存在感を高めて貰いたいものだと、深夜の坦仔麺(50新台湾ドル)を高校の後輩でもある当社の支店長にご馳走しながら語り合いました。  美味い坦仔麺を求め歩き、かなり遠くで見つけた半露半屋の店からホテルまでのタクシー代(110新台湾ドル)は支店長に払ってもらいました。

亜熱帯の6月に鳳凰花の赤、阿勃勒の黄が咲き競う古都台南での土曜の朝。

支店長とは別の自由行動をさせてもらい、往時に長崎平戸と結んだ貿易港安平古堡(1624年侵攻したオランダ人が建てた熱蘭遮城;Fort Zeelandia。鄭成功も拠点化。倭寇など日本関係資料も多く掲示。英国との戦争に備えた砲台跡やオランダ式漆喰やレンガ建築遺跡も)に行きました。NYのマンハッタン島に柵が設けられた頃に、オランダ東インド会社が安平砂洲に設けた貿易拠点。NYの柵はウォール街に進化しましたが、安平の城は古跡観光地に留まっています。

その記念館の売店にオランダ人総督日誌の中国訳版が置いていました。
大部4分冊、1分冊1,600台湾ドルの本。高い、重い、直ぐには読めないから、この本には出会わなかった事にしようと思い始めた刹那、ふと翻訳者名に眼が留まりました。

訳者江樹生?が江樹生先生!に変わるのは直ぐでした。前の晩、支店長に話した閩南語の先生、その人の名前でした。すぐに訳者前言を読むと、1971年に文化学院から日本へ、阿呆な生徒に呆れてとは書いていなくて良かったですが、直ぐにオランダへ渡り交流史研究を深めたとありました。間違いなく江先生である御縁に驚きました。入場門で事情を話し一度町に出て、現金を引出してから売店に舞い戻り、第1冊だけ分けて貰いました。限定300セットとあるので、分割販売は店としても困ったことでしょうが、個人的な熱心さと大陸富裕層とは違う財布の薄さを理解してくれたのでしょう。

在来線の台南駅。成功大学キャンバスの見えるベンチで列車待ちをしている間、支店長にオランダ人総統日誌を見せて顛末を話していたら、彼は発行者として頼清徳と書かれているのに気付かせてくれました。それが前夜ご挨拶した台南市長であることを二人で確認しました。台南市の文化事業として支援した書籍発行であることを理解し、ますます市長への好感度が上がりました。
お二人の名前が並んでいるのを見て、まさに温故知新の御縁への感慨を深めました。台北に戻った夕方の会合。台湾での生活が長くなった友人(奥さんの実家は民進党支持)とお喋りをしながら台南での思い込みの検証をしました。

6月3日午後、深圳での主管者会議を終えて三々五々それぞれの拠点に戻る仲間(中には残った紅ワインを持った人も)と別れて、独り北京行きのフライトに乗りました。向かい風のせいか1時間遅れて4時間近くの機内で、ひたすら『嘉南大圳之父;八田與一伝』を読み続けました。

嘉義から台南への移動途中、戦前に東洋一と謳われた烏山頭ダムの官舎跡そしてダム建設功労者として今も慕われている八田與一夫妻の墓と作業着姿での半跏思惟風の坐像を参観できました。主催者の参観と昼食を共存させる時間と場所への配慮と選定に感謝しました。

駆け足参観だったので、売店で中身も見ずに伝記だけを買いました。巻頭に「八田與一が台湾に留めた恩徳と功績」と題する李登輝元総統によるいわくつきの文章が載せられていることも知らずにいました。(2002年、慶応大学「三田祭」での講演予定原稿。日本政府からのビザが発給されず、幻の原稿となった文章)

翌日の北京では、語学研修生とその友人のイタリア人留学生らとの会食場所として長安街に近い店を指定。食後、25年前に戦車が実働した長安街を歩きながら往時茫々を実感じました。

あの日から胸の振り子は朱夏を指し

        (了)

 

2014年6月20日

娘の死が導き気づかせた「母性」のこと ―日本社会の根幹は母性である……― その3 「母性が始めにあっての日本、また世界と現代」

井嶋 悠

前々回の[その1]で、識者が言う「父性」とはほど遠い私は、天が与えた娘の死をひしと受け止めた母親に接し、そこから「母性」について書いた。

私は、エディプスコンプレックスで言う性〈セックス〉での“マザコン”ではないと思う。しかし、私が“心に恋う母”の欠如、と言う意味ではマザコンかもしれない。
その母は、5年前、生涯ほとんど孤独の人生を終えた。最期を看取ってくれたのもカミさんである。

私は、娘の死に会わなければならなかった母親を間近にして、母性の、自身何ら意図的でない、自然な流露のしなやかさ[強靭]に生きる源泉を思った。
老子の言う「水」の最上善。

そしてそこに日本を見、私を重ねた。

何という遅れ馳せ。私の稚拙な68歳に到る成長。

母性は、女の生理と身体を土台にして、出産や子どもの有無とは関係なく、人間の、他の動物も含め、心性の根源を表わすに到っているのではないか。
だから、母性は男にもあるはずだ。

日本は母性の国、との言説に接したことがあるが、確かにアマテラスオオミカミ(天照大神)であり、卑弥呼であるのだが、その日本を越えて世界のすべてが母性を土壌としているのではないか。

グレイトマザー、母なる大地、海には母がある。父にはそれらはない?

もっとも、西洋文化の土壌の一方、ギリシャ神話では、最高神は男性で、キリスト教では男のあばら骨から女が創られたことになっているが、見ようによってはそうとでもしないと存在感が無くなる危惧を、西洋人(びと)は持ったのかもしれない。

仏教の大慈大悲の象徴“観世音菩薩”は、一見女性ではあるが、女性男性を超えた存在ではないか。

日本の女性史学創設者である高群逸(たかむれ)枝(いつえ)(1894~1964)は、女は単に「自我」ではなく「母性我」であると言ったそうだ。
女性は、胎内に子を宿し、10か月(300日!)余りの心身苦闘の中で育み、新しい命に光を与える歓喜を思い、痛苦を忍び、世に送り出す、その力、命(めい)を例外なく有している。(その行使の有無、またそのことへの拒否、更には意志があってもできない問題についてはここでは今措く。)

その1.で言った「動物的に、忍苦し、整理し、決断し、自身を生き、と同時に身内を守る」その性(さが)、天性を内に秘める決定的裏付け。
それは神の業である。老子は「玄(げん)牝(ぴん)」と言った。そこから生まれたのが母性である。宇宙的なのだ。
男性にはない。男性はただただ待つだけである。
しかし、繰り返すが、母性を我が[男性]事として言えないということはないはずである。それは絶対公正であるはずの神の、天の意志[摂理]にもとる。

歴史は、争い・戦争で創られて来たと言っても過言ではないから、そこでは肉体力に勝る男性が主導し、制度を作り、支配被支配を作り続けた。それが歴史の表になったが、それは裏で支え、或る時は「自由の女神」が表わしているように、導いた女性があっての結果である。

男女優劣あろうはずはない。そもそも人間の根源に優劣などない。
にもかかわらず厳然と在る男優位の矛盾。表裏一体、表裏一如の一方的破棄。

今、問われていることは、日本だからこその思いも込めて、自然な流露としての母性の再考ではないかと思う。先ず母性。父性はその後で十分だ。ロゴス・言葉は人為、それも男の、なのだから。

それは、高齢化、少子化日本にあって、その現在と未来像への意見噴出の今、日本の成熟を考え、構築する絶好の時機との考えとつながっていて、「マグロ的生き方」に、虚偽と疑問を持つことの大切さに、自省を込めて与する(くみする)一人としての私の思いである。
いわんや巨大な天災と人災を、わずか3年前に経験した日本人として。

これは、母性に係る政府、行政の対策は、「カネ本位制社会・主義」での、あたかも戦時下の『産めよ殖やせよ』と同根としか言いようがない、との思いとも重なっている。

産みづらい社会環境の根源的改革への意思表示と国民の意思を問うことなくして、政府、行政世界の、それを支える人々(ほとんどは男)が、己が絶対、選ばれし先導者意識そのままに、女性の「産む・産まない」について、憂国、危機感を漂わせ、口出すことの驕りと寂しさを思う。
私が、自照自省し、自身を痛罵することでかろうじて指摘できる教師の独善と同様に。

頻りに言われる「男女参画」云々が、旧来の、上からの、男社会からではない男女全く同じ地点に立ってのそれなのか、心の深奥での確認を私たち、とりわけ男、はしているだろうか。
していれば、今、得意気に言われている女性の社会的進出促進とそのための保障に係る、世界の中での後進性の現実という齟齬はとうに解決していたのではないか。

現女性政治家は、どのように思われるのだろうか。

男女が、文字通り相補われていれば、例えば産休(先ずは女性の)など、何を今さらの自然としてあると思う。

(これを寄稿する準備をしていた昨日[2014年6月19日]、東京都議会で、男議員の下劣、醜悪が報道された。科学を誇る時代、発言者は簡単に特定できるはずだ。  氏名と所属と写真を公開し、政治家の好きな「発言撤回」で事足りる悪弊ではない、明確な謝罪があって然るべきである。)

ふと、紀元前後の思考、ギリシャの「哲学者と政治家」のこと、中国の「小国寡民と理想郷」のことを、現代的に考えることの是非、可能不可能に思いが行く。
これは、私の“後ろ向き”の表れなのか、天井桟敷からの勝手な思いなのだろうか。しかし、天上桟敷にこそ人の真実が在るとも言うではないか。

とまくし立てる私は、女性解放運動家(と言っても多様だが)の積極的な擁護者でもない。かと言って反対者、忌避者でもない。
解放運動、思想研究に携わる或る女性発言者への私の誤解による憤激を怖れずに言えば、解放運動家のその女性が、「解放を公正な権利を勝ち取る」と言うとき、どこか違和感を直観するという、それと同じような意味で、今風に言えば女性解放運動者や思想家への共感者の一人かとは思う。
次回、東アジアの自殺にも少し触れ、今回の「母性」についての私感を終えればと思っている。

2014年6月16日

娘の死が導き気づかせた「母性」のこと ―日本社会の根幹は母性である……― その2 「母性を私に知らしめたひと・こと」

井嶋 悠

時間の経過は、断続的とはいえ、哀傷、自・他への悲憤、痛罵、そして喪失の虚しさを、私に以前にも増して強く襲い掛からせる。
それは母親も同じである。いや、それ以上の悲嘆にあることは、確認などという理知作業など全く不要なことである。

しかし、なのだ。

私の2歳下、今春67歳になった母親、とりわけ晩年の4年間、1日は娘があってのことで、共に入浴し、浴槽で娘が苦しみをさめざめと話すのを受け止め、毎週1度必ず、車で往復2時間余りの病院を送迎し、(時には、同じ週に診療の関係から別の病院に行くこともある)、共に寝、時に深夜も含めドライブに連れ出し、(この通院やドライブは私も代わったが、娘は私がすると感謝はするのだが、頭と気を使い体が疲れるようで)、食事を創意工夫し、滅私無私に徹する日々刻々を送っていたその母親は、今、実に活き活きと、その時どきを愛で(めで)、慈しみ、残る人生時間はその積み重ねと十全に承知し謳歌しているのだ。
子ども時代からの不整脈など眼中になし、かのように。

私と娘の間にも信頼関係、親子の絆は、私の独り善がりではなく確実にあった。しかし、娘は私の前で涙を見せることはなかった。
それは母娘の関係とは違う、言わばロゴスの関係であったのだろう。娘もそう考えていたのだろう。
先の著者から言えば「父性」での(父)親関係……。

父の孤独……。
私は、露わに寂寥を引きずっている自身を自覚することがある。それは絆がロゴス中心主義だからなのか、それともそう言うことで体裁を取り繕っている“いやらしさ”なのか、負い目・劣等感なのか。

小津安二郎監督の名作(私が魅了してやまない作品)『東京物語』で、笠智衆演ずる父親は孤独な姿で描かれている。しかも先に妻が急逝する。しかし、最後の場面で、静かに切り替える父として描かれる。小津安二郎と脚本の野田高悟の自身の中への女性の溶化と、明治の男!心を大切にした笠智衆との自然な一体が為し得たことなのだろう。

男が作った「女々しい」ではなく、女が作った「女々しい」私、ということか。

母親が言い出した、週に1回神経内科に通い、帰りにおいしいものを夫婦で食べ、との自身が立てた企画も、その医師の対応への疑問と限界の直感も加わって、1回で終了し、好奇心の旺盛さは益々活発となり、その情報源であり肉付け媒体であるテレビ、インターネットとの時間は旧時をはるかに越え、年金生活だからなおのこと、家庭経済を取り仕切り、ほぼ毎日買い物に出掛け、いろいろなポイントを集め、料理にいそしみ、私の長寿と気力注入を願っての長晩酌を尻目に早々に己が寝室に引き上げる。

生前の娘の話題は、お互いによほどでなければ出さないが、それでも出すときは、あたかもドキュメンタリー映画の巧みなナレーターのように話す。

私が「会いたい」などと言おうものなら「それを言っちゃあおしまいよ」と一蹴される。
しかし、何か月かに一回くらい、ふとかすかな溜息と共に発する。

「私、いっぱいいっぱいよ。」

 

先日こんなやりとりをした。
日本映画史の銀幕を彩った一人、淡路恵子さんが、今年(2014年)1月に天上に旅立った。80歳だった。

戦後間もなく、10代後半からの60有余年、私たちに寂寥感漂う妖艶さを与え、一方で、二度の結婚、離婚、(二人目の夫は、私の中でも強烈な面影としてある、萬屋、私の中では中村、錦之介であるが)、その錦之介の仕事と病への献身と介護そして彼の死、借財、錦之介を父とする2人の息子たちの一人は事故死、1人は自殺。

病院嫌いの彼女が、その晩年癌で入院し、訪ねて来た友人に「これも運命よ」と恬淡(てんたん)と言った由、

彼女が最晩年に出ていたテレビのバラエティ番組で、タレント、芸人の女性たちの、「恋した、失恋した、男はどうこう」、いつもの喧騒を仕事上?作っていた時一言「そんなに言うなら付き合わなきゃいい」と切って捨て、場内、出演者を一瞬の沈黙と戸惑いに覆わせた彼女。その彼女に拍手喝采した私は、先の母親、“ウチのカミさん”に伝えたところ、さらりと一言。

「江戸っ子だ」

カミさん、東京は新橋の生まれ育ち。それも三代目だから正統派。

 

私は京都だが、関西の(中でも大阪の?)あのべとべとした人間風土は、東西を越えてカミさんと同じく苦手で、東京、それも“山手線内”ではなく線外にある、“江戸”下町情緒を善しと思っているので、カミさんの一言はスッと入る。

私の教師生活はすべて関西で、しかし改めて思い返せば、好ましいと直覚した関西女性は、それが親愛の情が如き自信!でずけずけと人の中に入って来ないにことに改めて気づかされる。だから人との間の断ち切りも速く、クールだ。

女性は、常日頃公私刻々、たとえ難題を抱えても、その時どきにあって、論理的思考の人為的稼働ではなく、動物的に、忍苦し、整理し、決断し、自身を生き、と同時に身内(最もは、母ならば自身の子ども)を守っているように思う。そこから喜びを噛みしめている。

実にしなやかなのだ。強靭(きょうじん)。

男性の硬化したコンクリート的脆さ(もろさ)がない。男性を批評する言葉、例えば「猛々(たけだけ)しい、雄々しい」と、いった自作自演的加虐性など全くない。
自然な流露。強さ。だから美しい。女性性から導かれる母性の真・善・美。
男性性の父性の、理知(ロゴス)、その人工性、虚構。
だからしんどい…。
と言う言い訳も理知………。

因みに、優美でしなやか、との意味を持つ「たおやか」(清少納言は「枕草子」で、萩の枝が花をたわわにつけた姿を「たおやか」と言っている。)から生まれた女性を讃美する「たおやめ」という言葉がある。
ところが、漢字では「手弱女」と表記される。通例と違った意味で、漢字はやはり「男文字」?!

ただ、先の「守る」が、時に狭隘(きょうあい)となり、独善に陥るという負の側面がある。「教育ママ」との表現は、その一つの形であろう。「教育パパ」はほとんど聞かない。
これは、先の『父性の復権』の著者が言う、「全体的、客観的、公正さ」との父性の長所…? 断るまでもなく、ここで父性・母性の優劣を言うのではなく。

時に「教育ママ」にあたふたした経験を持つ私は、一切の“色眼鏡”なしに父母性補い合う、補完することこそ、人間らしい営みなのではないかと思う。

次回、日本と母性について、やはり雑私感を、と思っている。

2014年6月13日

娘の死が導き気づかせた「母性」のこと ―日本社会の根幹は母性である……― その1 私の「母性に思い到る」また「父性」の重圧

井嶋 悠

 

まえがき

娘の死は、私を、その心の在りようで、言葉と表現術で、大きく変えた。
その是非は、他人が決めることで、それではどうも芳しくないようだが……。、
しかし、私は娘に感謝している。

一つは、1年前に改訂できたホームページとその[ブログ]への投稿である。
娘の死がなければ、私本来の怠惰らしく書こうかなくらいで終始していると思う。
書くことで私を、私にとって生(せい、であり、なま)の言葉を考えている。

一つは、学校教育への疑問、不信と己が自省と悔恨である。
娘の死の一因は、学校(中学校・高等学校)、教師である。
そして私は59歳までの33年間、中高校教師であった。

一つは、生きる力である。
娘の死が、生きることで死があることに、最近やっと気づかせている。
それが書くことであり、本センターの継続への期待であり、娘の供養であると思っている。

拙劣な文章を公にすることは無恥厚顔である。
しかし娘は理解してくれていると確信している。
その時、私の生(体験)と教師生活から言葉を紡ぐことを大切にしている。
おこがましい言い方をすれば、「知識の言葉」ではなく、「(私の)智恵の言葉」である。

今回の「母性」もその一端である。

私の「母性に思い到る」また「父性」のしんどさ

 

母性(原理)は女性(原理)、父性(原理)は男性(原理)、との用語は、生物的また歴史的なことからの表意文字漢字の表現であって、正しくは人間性における母的要素(女性(おんなせい))と父的要素(男性(おとこせい))であると思う。

だから母性とか父性は、いずれの性からも解放されなくてはならない
とは言え、母性は女性の“自然”が源で、父性は男性の“自然”が源、を承知してのことである。

もっともこの“自然”が、生理的事実以外で何を意味するのか、或いはその事実が、広く「文化」の源なのか、よく分からない私ではあるが。
母系制・母権制・父系性・父権制といった歴史を聞けばなおさらである。
それでも、母性・父性から、私に、日本に、現代に、はたまた近代化に、文明と文化等々に心を向けると視界が広がる私を視る。
始源、原点に戻っての母性と父性の幸せな調和、の構築を指向して。

この母性観は、私の幼少時体験や学校教師という他社会にはない?平等社会の、実質は善きにつけ悪しきにつけやはり男性上位(優位)社会ではあるのだが、一員であったことも影響しているかもしれない。

因みに、女子校勤務経験で、社会人になった卒業生が異口同音に言っていた言葉が思い出される。
「在校中、何でも女手でしなければならなかったので、大学或いは社会人になって男女協働の際に感ずる、男性の庇護心、女性(共学校出身)の依頼心に違和感があった。」
そして、優れた能力、人格力を持つ多くの女性たちは、機構、組織から早々に去って行くのである。

しかし、古代ギリシャ以来、最善最良文化との自負をもった西洋文化圏では、男が中心となって歴史と文化を創り、無意識下の男尊女卑で、浪漫的に或いは感傷的に、母性を謳い上げて来た。
これを、哲学上では、ロゴス(論理)中心主義、男根中心主義と言うそうだ。

「男なのに・男のくせに」と軽侮された経験を持つ男は、私の他にも多いのではないか。
それがために、どれほど“しんどく”生き過ごして来たことだろう。
この拙稿の趣旨は、そんな「情けない」(!)「男の風上にも置けない」(!)男の、娘の死を通して、遅れ馳せながら強く意識された「母性」についてである。

尚、これは、最近、陽の当たる?「サブカルチャー」の存在感さえ持ち始めつつある「おねえ」性とは別であるが、ただ、テレビや若い時に出会った「おねえ」たちを思い起こすに、彼ら(彼女ら?)からより強い説得性をもった言葉が得られるのでは、とも思ったりはする。

なんでしんどいのか。そもそも「父性」って何だろう?

こんな本がある。『父性の復権』(1996年刊)
著者は、1937年生まれ、東大の法学部卒業後、大学院で経済学の博士号を取り、刊行当時深層心理学の男性研究者で大学教員である。
氏は、博学博識を駆使し、父性を説き、現代への懸念を強く高い信念をもって揺るぎなく表する。曰く。

父性とは
構成力をもって家族をまとめあげる力

己が中に中心となるべき理念を持つ力

日本文化、とりわけ日本人特有の繊細な感覚、年中行事、技術、等を持つ力

そして

全体的視点、客観的視点を持った公正な態度

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・等々

私は、33年間の教師生活、68年間の私自身を顧み、ほとんど絶望する。
と同時に、この著者は学識豊かな知識人、天に選ばれた人との自覚を持ち、それに相応しい伴侶を得た、特別な人なのだと居直る。だから経歴を書いた。そして、その家庭で育った子ども(たち)も恐らく東大(等)入学者であろうと想像し、知的階層者再生産説を思い起こしたりする。
著者の顔も声も知らないが、このような私への著者の憐れみの笑みが浮かんで来る。
努力と言う人為を厭う(いとう)者の妬み(ねたみ)、嫉み(そねみ)…。かもしれない。(因みに、ねたみもそねみもなぜか女偏だ)

そんな私は、2年前(2012年)、娘が、7年間の心身辛苦の末23歳で昇天する、という途方もない試練を受け、今に到っている。
(その経緯は以前、彼女の辛苦の一因である教師の尊大について、自照自省に立って、教師自戒すべしとの趣旨で記したので省略する。)

次回以降、2回か3回に分けて、私以上の試練を受けた妻[母]の「しなやかさ」を入口に、私にとっての「母性」また「母性と日本」などを整理してみたい。

2014年6月2日

北京たより(2014年5月)  『歳月』

井上 邦久

上海たより(2012年5月)『上海の五月』に、

・・・ベランダの鉢植えの草木も三年目の春を迎え、緑の色を濃くしています。今年も沈丁花は香り、桃は白い花を咲かせました。

三連休の初日の夕方、食材や本を買った帰りに寄った隣の花屋。譚老板(ラオパン=大将)から、もうすぐ母の日だからとカーネーション、それともお前さんの趣味の料理には要るだろうとハーブ、今日はどちらにすると聞かれ、結局両方の小鉢を持たされました。無理に金を出すと水臭いと言われるので、いつものようにシレッと頂戴しました。
昨年3月まで、次男坊誕生で喜ぶ彼の要請で、ご指名の明治乳業製粉ミルクを、日本から何度も運んだことから時間差・物々交換の習慣が定着しました。3月の震災までは、日本製のミルクで育った譚ジュニアは元気に歩き回っています・・・こんなスケッチを綴りました。

歳月が過ぎ、譚さんはますます家業に励み、内省的な長男は高校受験、次男坊は父親ゆずりのドングリ眼で機嫌よく遊んでいます。「我が家は出身が悪いから、子供の教育には、つい熱心になってしまう」と語る譚夫人は、安徽省の旧地主の孫娘です。「父親ほどではないけれど階級差別の辛さを味わった」と餃子の餡を詰めながら坦々と話してくれました。
時々、店の奥で仲の良い一家と手料理をご馳走になっています。

「香港では労働節3連休は有りませんから」という香港店からの連絡で、5月1日に日本からの出張者と合流して監査に立ち会うことになりました。
香港でも当然メーデーは休みであることは承知しながら、香港店に駆けつけて「街は休みじゃない?」とわざと咎めると、「労働節連休は有りませんが、メーデーは有ります」と一国二制度の香港らしい模範回答が準備されていました。

最近、香港では選挙制度の見直しなど北京政府からの圧力に対する反発が強まり、一方では大挙して押し寄せてくる本土からの買い物客やビジネスマンに対応する必要から普通語が地元の広東語を侵食していることを実感します。
普通語(PuTongHua)は、日本では標準語と訳されることが多いのですが、自己流解釈としては、1949年以降に北京政府の公用語(報道、教育などの基準)とされた北方系言語で、北京官話(清朝高官=満大人=マンターレンの使う言葉=ManDaren Chinese)を母体とすると思っています。
1912年以降の中華民国政府の「国語」との違いは、音声表記がローマ字化されている点、漢字表記が簡体字化されている点だけしか知りません。生粋の北京語を聞く機会が減りましたが、聞き取りにくく苦手意識があります。
北京語と普通語の違いは改めて触れる事にして、香港では広東語以外に英語、普通語が幅を利かせ、「国語」や日本語の存在感が減っているお報せに留めます。

2日の夜遅くまでの仕事を終えて、3日の土曜日。日本では憲法記念日にどんな旗を立てているのか、複雑だろうと想像しました。1960年前後の小学生には、素朴に大切に思った記念日でありました。北京への午後便まで、九龍サイドのホテルから潮風の匂いのする方角へ歩きました。階段を上がり降りしながら、海と香港島が見える処まで来ました。
上海の外灘から黄浦江を挟んだ浦東側のビル群に、日本企業の広告を見ることは減りましたが、香港島には依然として「HITACHI」「TOSHIBA」などの大看板があります。1971年に初めて訪れてから、折々に広告の変遷を興味深く見てきました。
1980年代には重電・家電・繊維企業に混じって、大阪北浜のヒサヤ大黒堂の「ち゛」とだけ大書されたネオンサインもありました、春秋の広州交易会往還の折に定点観測しては日本経済の懐の深さに感動していた事を思い出します。

ハーバーサイド風景に誘われて、神戸一郎の歌『銀座九丁目は水の上』が甦り、歌いながら歩きました。
4月末に逝去した1960年前後の青春歌手の冥福を祈りながら『ああ十代の恋よ、さようなら』『リンゴちゃん』などのヒット曲も口ずさみました(と言ってもご存知の方は減っているのでしょうが、吉永小百合主演の『青い山脈』で青山和子とデュエットした主題歌、或いはロッテチューインガムのCM曲を思い出せる方は思い出してください)。昭和歌謡史の青春歌手、アイドル歌手の系譜は、橋・舟木・西郷の御三家(或いは三田明を入れて四天王)から説き起こされることが多いのですが、実はその直前にポマードで髪を固めた元祖アイドルの神戸一郎(確か神戸商科大学卒業?)が存在していたことを忘れてはいけないとかねがね思っています。

香港空港での通過儀礼は二つあります。
同じネクタイ屋で、同じストライプ系のネクタイを何本か買います(今回は季節の端境のせいか70%OFFでした)。
次に出国手続きを済ませた場所に並ぶファストフードの店の一つ『正斗』の名物、ワンタン(「餛飩」とも「雲呑」とも表記)麺の列に並びます。能書きには、「湖南省民間小食―–白肉餛飩加水麺條蛻変而成」とあり、広東省の秀才が科挙試験で上京した帰りに伝え、不断の改良を重ねた。戦後の1946年、百家争鳴して競い合い4大派閥時代もあった由。「かん水の効いた麺は爽滑、柔軟で歯応えが良い(弾牙)、餡は海鮮と豚肉が多重多層、スープは香濃味清」とありますが、何よりも42香港ドルと安くて、待つことなく供されるのが魅力です。他の空港には時間ギリギリに行くのに、香港空港だけには十分な余裕を持って快速電車に乗り、ネクタイと雲呑麺を通じて香港を味わいます。

北京の5月4日は三連休の振替出社日でした。定時退社して、事務所最寄りの地下鉄大望路から二駅天安門寄りの永安里へ移動。外交公寓一帯に友誼商店がまだ残っています。
1978年の対外開放政策の開始後、しばらくは外貨管理が厳しく、二重通貨制度が採られていました。外国人には「兌換券」という外貨でのみで両替できる通貨の使用を義務付けられていました。外国人に開放されたホテル、食堂や航空券購入には「兌換券」支払いが決まりでした。
各地での買い物は、友誼商店での兌換券使用に限られていた時代もあり、カシミヤセーター、絹のハンカチなどの土産を買いに通ったものです。厳重な門とドアとガードマンに仕切られた友諠商店の外には、人民元のみで生活する庶民が羨ましそうに覗き込んでいました。人民元と兌換券の両替を懇請したり、外国人の臨時の友達になって商店に潜り込もうとする光景もありました。
別世界の商品が陳列されていた憧れの友誼商店も今は昔。圧倒的なモノ不足・外国製品信仰の渇望熱気は去り、過剰生産・カネ余りの中「理性消費」という言葉が支持されています。
山下英子さんの『断捨離』の翻訳本が書店に平積みされている中国です。なのでガードマンが昼寝をしている友誼商店を訪れる外国人も中国人も僅かです。外資系大型家具店が敷地の大半を占め、残りの場所で高級芸術品やシルクなどが細々と売られています。
ただ、1階の奥にある超級市場(スーパーマーケット)は穴場です。外交官たちのアパートに隣接していることもあり、新鮮・多品種・安価という、とてもありがたい買出しの場所です。外資系市場では1本10元以上する薔薇が、2元から3元。野菜やレモンも同じような比率で安く,新鮮です。場所柄、チーズやワインは選択肢がとても広くて、「理性消費」が可能な真っ当な売り場です。

パンや野菜を買ってから、花売り場に行くとカーネーションがありました。そうか歳月は巡って、5月11日は「母親節」でした。値段を聞くと大きな束で25元(350円)、値段には文句はないけど、2日後には上海、東京を経て韓国に行く予定なので、勿体無いかな、と貧乏性になりかけましたが、まあいいかと買いました。
翌日、他の店で訊くと、同様の花束で88元とか100元と吹っ掛けてきました。

買い物のあと近くのベトナム料理店でライムを搾ったポー(汁そば)に春巻を奮発支援(?)してから建国門の長安大戯院まで歩きました。会場には同じような花束を持参した人たちが多く居て、こちらのカーネーションの大束も違和感がなくなり、何だか自分まで贔屓の女形の追っかけをしている気分になりました。先月購入済みの『五四全国青年京劇歌唱大会』、各地からの若手が京劇のさわりを演じるのを、うつらうつらしながら聴きました。いつもは180元の席が100元なのも納得。運よく6月27日『伍子胥』の切符を購入できたので、次回は東京からの客人夫婦と気合を入れて聴くつもりです。

カーネーションは社宅で2泊してから、北京事務所の美化に貢献し、一部は「母親節」当日から長期出張する女性職員に渡し、自宅で待つ女児の為に持ち帰って貰いました。
5月10日に会った韓国水原市在住の友人から、韓国では数日前から「母親節」が続いている事を教えて貰いました。ソウルの街の至る処に結ばれた黄色いリボンの束、帰らぬ人を待つ想いが書かれているとの事。

実りある春秋歳月を知ることなく逝ったり、「母親節」も行方不明のままで過ごしている、人災の被害者たちに心からの哀悼の意を表しました。その船名を拙文タイトルとして残します。 

                                 (了)

 

 

 

 

上海たより(2012年5月)『上海の五月』に、

・・・ベランダの鉢植えの草木も三年目の春を迎え、緑の色を濃くしています。今年も沈丁花は香り、桃は白い花を咲かせました。

三連休の初日の夕方、食材や本を買った帰りに寄った隣の花屋。譚老板(ラオパン=大将)から、もうすぐ母の日だからとカーネーション、それともお前さんの趣味の料理には要るだろうとハーブ、今日はどちらにすると聞かれ、結局両方の小鉢を持たされました。無理に金を出すと水臭いと言われるので、いつものようにシレッと頂戴しました。
昨年3月まで、次男坊誕生で喜ぶ彼の要請で、ご指名の明治乳業製粉ミルクを、日本から何度も運んだことから時間差・物々交換の習慣が定着しました。3月の震災までは、日本製のミルクで育った譚ジュニアは元気に歩き回っています・・・こんなスケッチを綴りました。

歳月が過ぎ、譚さんはますます家業に励み、内省的な長男は高校受験、次男坊は父親ゆずりのドングリ眼で機嫌よく遊んでいます。「我が家は出身が悪いから、子供の教育には、つい熱心になってしまう」と語る譚夫人は、安徽省の旧地主の孫娘です。「父親ほどではないけれど階級差別の辛さを味わった」と餃子の餡を詰めながら坦々と話してくれました。
時々、店の奥で仲の良い一家と手料理をご馳走になっています。

「香港では労働節3連休は有りませんから」という香港店からの連絡で、5月1日に日本からの出張者と合流して監査に立ち会うことになりました。
香港でも当然メーデーは休みであることは承知しながら、香港店に駆けつけて「街は休みじゃない?」とわざと咎めると、「労働節連休は有りませんが、メーデーは有ります」と一国二制度の香港らしい模範回答が準備されていました。

最近、香港では選挙制度の見直しなど北京政府からの圧力に対する反発が強まり、一方では大挙して押し寄せてくる本土からの買い物客やビジネスマンに対応する必要から普通語が地元の広東語を侵食していることを実感します。
普通語(PuTongHua)は、日本では標準語と訳されることが多いのですが、自己流解釈としては、1949年以降に北京政府の公用語(報道、教育などの基準)とされた北方系言語で、北京官話(清朝高官=満大人=マンターレンの使う言葉=ManDaren Chinese)を母体とすると思っています。
1912年以降の中華民国政府の「国語」との違いは、音声表記がローマ字化されている点、漢字表記が簡体字化されている点だけしか知りません。生粋の北京語を聞く機会が減りましたが、聞き取りにくく苦手意識があります。
北京語と普通語の違いは改めて触れる事にして、香港では広東語以外に英語、普通語が幅を利かせ、「国語」や日本語の存在感が減っているお報せに留めます。

2日の夜遅くまでの仕事を終えて、3日の土曜日。日本では憲法記念日にどんな旗を立てているのか、複雑だろうと想像しました。1960年前後の小学生には、素朴に大切に思った記念日でありました。北京への午後便まで、九龍サイドのホテルから潮風の匂いのする方角へ歩きました。階段を上がり降りしながら、海と香港島が見える処まで来ました。

上海の外灘から黄浦江を挟んだ浦東側のビル群に、日本企業の広告を見ることは減りましたが、香港島には依然として「HITACHI」「TOSHIBA」などの大看板があります。1971年に初めて訪れてから、折々に広告の変遷を興味深く見てきました。
1980年代には重電・家電・繊維企業に混じって、大阪北浜のヒサヤ大黒堂の「ち゛」とだけ大書されたネオンサインもありました、春秋の広州交易会往還の折に定点観測しては日本経済の懐の深さに感動していた事を思い出します。

ハーバーサイド風景に誘われて、神戸一郎の歌『銀座九丁目は水の上』が甦り、歌いながら歩きました。
4月末に逝去した1960年前後の青春歌手の冥福を祈りながら『ああ十代の恋よ、さようなら』『リンゴちゃん』などのヒット曲も口ずさみました(と言ってもご存知の方は減っているのでしょうが、吉永小百合主演の『青い山脈』で青山和子とデュエットした主題歌、或いはロッテチューインガムのCM曲を思い出せる方は思い出してください)。昭和歌謡史の青春歌手、アイドル歌手の系譜は、橋・舟木・西郷の御三家(或いは三田明を入れて四天王)から説き起こされることが多いのですが、実はその直前にポマードで髪を固めた元祖アイドルの神戸一郎(確か神戸商科大学卒業?)が存在していたことを忘れてはいけないとかねがね思っています。

香港空港での通過儀礼は二つあります。

同じネクタイ屋で、同じストライプ系のネクタイを何本か買います(今回は季節の端境のせいか70%OFFでした)。
次に出国手続きを済ませた場所に並ぶファストフードの店の一つ『正斗』の名物、ワンタン(「餛飩」とも「雲呑」とも表記)麺の列に並びます。能書きには、「湖南省民間小食―–白肉餛飩加水麺條蛻変而成」とあり、広東省の秀才が科挙試験で上京した帰りに伝え、不断の改良を重ねた。戦後の1946年、百家争鳴して競い合い4大派閥時代もあった由。「かん水の効いた麺は爽滑、柔軟で歯応えが良い(弾牙)、餡は海鮮と豚肉が多重多層、スープは香濃味清」とありますが、何よりも42香港ドルと安くて、待つことなく供されるのが魅力です。他の空港には時間ギリギリに行くのに、香港空港だけには十分な余裕を持って快速電車に乗り、ネクタイと雲呑麺を通じて香港を味わいます。

北京の5月4日は三連休の振替出社日でした。定時退社して、事務所最寄りの地下鉄大望路から二駅天安門寄りの永安里へ移動。外交公寓一帯に友誼商店がまだ残っています。

1978年の対外開放政策の開始後、しばらくは外貨管理が厳しく、二重通貨制度が採られていました。外国人には「兌換券」という外貨でのみで両替できる通貨の使用を義務付けられていました。外国人に開放されたホテル、食堂や航空券購入には「兌換券」支払いが決まりでした。

各地での買い物は、友誼商店での兌換券使用に限られていた時代もあり、カシミヤセーター、絹のハンカチなどの土産を買いに通ったものです。厳重な門とドアとガードマンに仕切られた友諠商店の外には、人民元のみで生活する庶民が羨ましそうに覗き込んでいました。人民元と兌換券の両替を懇請したり、外国人の臨時の友達になって商店に潜り込もうとする光景もありました。

別世界の商品が陳列されていた憧れの友誼商店も今は昔。圧倒的なモノ不足・外国製品信仰の渇望熱気は去り、過剰生産・カネ余りの中「理性消費」という言葉が支持されています。

山下英子さんの『断捨離』の翻訳本が書店に平積みされている中国です。なのでガードマンが昼寝をしている友誼商店を訪れる外国人も中国人も僅かです。外資系大型家具店が敷地の大半を占め、残りの場所で高級芸術品やシルクなどが細々と売られています。

ただ、1階の奥にある超級市場(スーパーマーケット)は穴場です。外交官たちのアパートに隣接していることもあり、新鮮・多品種・安価という、とてもありがたい買出しの場所です。外資系市場では1本10元以上する薔薇が、2元から3元。野菜やレモンも同じような比率で安く,新鮮です。場所柄、チーズやワインは選択肢がとても広くて、「理性消費」が可能な真っ当な売り場です。

 

パンや野菜を買ってから、花売り場に行くとカーネーションがありました。そうか

歳月は巡って、5月11日は「母親節」でした。値段を聞くと大きな束で25元(350円)、値段には文句はないけど、2日後には上海、東京を経て韓国に行く予定なので、勿体無いかな、と貧乏性になりかけましたが、まあいいかと買いました。

翌日、他の店で訊くと、同様の花束で88元とか100元と吹っ掛けてきました。

買い物のあと近くのベトナム料理店でライムを搾ったポー(汁そば)に春巻を奮発支援(?)してから建国門の長安大戯院まで歩きました。会場には同じような花束を持参した人たちが多く居て、こちらのカーネーションの大束も違和感がなくなり、何だか自分まで贔屓の女形の追っかけをしている気分になりました。先月購入済みの『五四全国青年京劇歌唱大会』、各地からの若手が京劇のさわりを演じるのを、うつらうつらしながら聴きました。いつもは180元の席が100元なのも納得。運よく6月27日『伍子胥』の切符を購入できたので、次回は東京からの客人夫婦と気合を入れて聴くつもりです。

 

カーネーションは社宅で2泊してから、北京事務所の美化に貢献し、一部は「母親節」当日から長期出張する女性職員に渡し、自宅で待つ女児の為に持ち帰って貰いました。

5月10日に会った韓国水原市在住の友人から、韓国では数日前から「母親節」が続いている事を教えて貰いました。ソウルの街の至る処に結ばれた黄色いリボンの束、帰らぬ人を待つ想いが書かれているとの事。

実りある春秋歳月を知ることなく逝ったり、「母親節」も行方不明のままで過ごしている、人災の被害者たちに心からの哀悼の意を表しました。その船名を拙文タイトルとして残します。 

(了)