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2018年5月28日

素・気

井嶋 悠

表題の二つの漢字を『常用字解』(白川 静・著)から要約引用し、読みを漢和辞典で確認する。

「素」:糸を染めるとき、糸束の結んだところは素(もと)のままの白い糸で残
る、その部分を「素」と言う。そこから[しろぎぬ、しろ、もとより]また[本来の性質、もとの状態、何も加えない]の意味となる。
[音]ソ・ス

「気(氣)」:气は雲の流れる形で、雲気を言い、生命の源泉とされ、米はそ
の気を養うもとであるという二つの要素が加わって、すべての活動力の源泉であり、大気(地球と取り巻く空気の全体)・元気(活動の源となる気力)として存在し、人は気息(呼吸)をすることで生きる。人にあらわれる性格等を気質(気だて・気性)と言い、集団や地域の人々が共通して持っているとみられ
る気質を気風という。
[音]キ・ケ

人は(或いは生物)は、素(す)に生まれ、素でありたいと思いながらも意叶わないことのほうがはるかに多い生を経、素に死を迎え、素云々の意志的・無意識的動作、作用、状態とは一切係わらない久遠の霊魂生を得る……。
今、老いを迎え、素生きたい動的願いより、素生きたいとの静的願いが私にはある。
ところで、現世から来世は視えないが、来世から現世は視えているかもしれない。来世界にあっては、無限界での無形にして透明の霊魂間だからこその自由無碍の交流、交信をしているのかもしれない。と思ったりするのも楽しい。

私は58年前に中学校を卒業した。その卒業アルバムでの[日々の学校生活]の一枚を、今も鮮明に思い出すことがある。それは同窓の或る男子生徒が、教室の元気溢れた!?騒々しい中で、独りもの静かに座っている一枚である。そのタイトルは、おそらくアルバム製作会社が付けたのかとは思うが、「忙中に閑あり」。このことわざをここで使うのは誤用のようにも思えるが、私たち10代前半の多くが周囲に同調し、孤独を避ける、そんな中学校時代という微妙な年齢時を象徴するかのような光景と映り、意図的に使ったのかもしれない。と言う私は、クラス集合写真(野外)で、好々爺のクラス担任の横に同じポーズで立つという「おちょけ」をやっている。

大人の事情で東京の小学校を卒業し、関西に戻り、当時荒れに荒れていた公立中学校に入学し、入学の日から卒業の日までの波瀾万丈!社会の裏面?を思い知らされ、身をもっての社会《体験》学習の3年間をすごした。本来独りであることを好み、例えば対立間にあっては、いずれにも一分の理ありと思う私がいたからこそ、彼が素でそうしている姿を羨しく見、鮮明に記憶しているのかもしれない。
振り返れば、人生に必要なことは、教科学習内容以外、すべて中学校で視、聞き、体で学んだと言っても過言ではない。それは例えば或る社会問題や教育問題を観念的、概念的に滔々(とうとう)と弁ずる人々をどこか胡散臭く思う私の原点とも言い得るように思える。私の素(そ・もと)?
もっともそこに私の独善と言う落とし穴があるのだが。だから、友人がいるようでいない…。
そして今。巡り巡って、関西から遠く離れた関東北部栃木県の豊かな自然の下、自他虚飾に満ちた煩わしい人との関係もなく、妻との、また素で懸命に人間三歳時そのままに生きる犬との断片的会話を気ままに交わしながら、私流晴耕雨読の生活を得ている贅沢三昧!

教師現役渦中では自己主張とは距離を置き、しかし個の内部では主観性強く居た自身が、中学校時代の怒涛をくぐり抜け、高校、大学、自由社会人数年後教職に就き33年間の教師生活。それらの複合が私の素に加わり、自他を、学校世界を客観的に視る視線を培ったように思っている。
それらがあり、娘のことがあり、ここ数年、漸くにして自他の「KY」(空気・雰囲気を読む(め))の自照自省できる時間が迎えられたのかもしれない。
西洋の哲学者は「孤独は、知恵の最善の乳母である」と言っているそうだ。
素(す)で生きようとして来て、素(そ)の自然に心委ねようとしている私。

前回の投稿で拠りどころに使った芥川 龍之介の、25歳の時の作品『孤独地獄』の最後の一文は「…或意味で自分も亦、孤独地獄に苦しめられてゐる一人だからである。」で、10年後の自殺時でも孤独を地獄と言ったかどうか、家族を心優しく受け止めていたにもかかわらず、愉悦の心境を直覚したのではないかと、まだまだ情緒浮沈は日替わり的浅薄な私だが、孤独の素に生きることを思い描く私は、想像する。

ここ何年か「癒やす・癒やし・癒やされる」との言葉は頻(ひん)用(よう)され、人によっては(とりわけ個・自我を確立している人)辟易(へきえき)し、遠ざけているほどである。
それほどまでに世は殺伐となり、人と人の関係は稀薄になって来ているということなのだろう。
そういう私は、言葉はますます一時的記号化して、日本の技術の高評価とは真逆の「軽・薄・短・小」化の日常に、老人化も手伝って屈折(へそまがり)は一層強化され、自身から使うことなどあり得ない。
個性・自由の尊重が強調されているにもかかわらず、制度化、管理化はたまた切り捨て化は“粛々と”進んでいる現実。だからこそ癒やす表現に象徴される憐れみの危険性を、更には若者を中心とした受動化(保守化)の現実を、思い知らされてしまう。

未曾有の少子化×高齢化×国際化の式から導かれる解答は何か。日本の主導者は日本の過去と現在の素と気を確認し、実効的、具体的、主体的日本の姿を明確に、老人は去る者と言わんばかりの視点を捨て提示して欲しい。誰しも承知している次代を担う教育の重要性が、塾ありきの教育、学力優秀観で良いのか、と同様に。
国会や行政の昨今の実状から、思想、信条を越えて危機意識を持たなくてはならないのではないか。負の「歴史は繰り返す」など望む者はないが、人間の限界ということなのか。諦観こそ賢者の証し?
「素(す)気(げ)ない」と言う。(「素(そ)っ気ない」の語源との説もあるようなので含める)
「思いやりがない」との意味だが、類語(連想語)を調べると、次のような興味深い言葉を見い出した。

[潤いのない。色彩のない。余韻がない。無関心・無愛想・無情《新“三無主義”?》]

すげないは、古代から用法があるので言葉として古いが、世の中そのものに言い当てるのは現代的ではないかと思う。
「不登校児童生徒が、改めて増えている」との報告や言葉・情報の洪水氾濫による溺死感、自由と個性尊重と裏腹の制度化管理化傾向への虚無感等々が、そうさせるのだろうか。
このことは、私たちが実施した[日韓また日韓中高校生・大学生交流]からも、なるほどと思う。

自身や国・地域が混迷し行き詰ると外に向かい、個人は外に何かを求め歩き、権力者は人々を外へ、他へ向けさせる。「内向き」発想はその閉鎖性、独善性から批判の対象になるが、自照、内省ととらえれば緊要の意と変ずる。

国政の長の方またそこに従属、隷属される方々、なぜ今に?と広く国民(納税者)が納得できない海外訪問は、私費で行かれますように。それが国民への思いやりだろう。

以前勤務していた「新しい教育」を標榜する中高校の保護者会で、学校論、教育論を弁じていた管理職に対して或る母親が言った言葉「おっしゃることは良く分かります。だからこの学校に入学したのです。ただ子どもは今日明日の日々がすべてであることに思い及ぼしてください。」が、思い返される。その時、私は素気なく…管理職側の席に在った。

2018年5月26日

中華街たより(2018年5月)   『大阪川口華商』

井上 邦久

大阪郡部の府立高校を卒業してから、転居や単身赴任の生活を繰り返してきました。最後の海外駐在地となった上海から、最後の単身赴任地の横浜を経て、少しボストンに寄り道してから大阪に帰還しました。
勤め人生活を卒業し、大阪に定住してから一点気になることが芽生えました。上海では旧租界地の匂いを感じる街角を色々な目的で歩き回り、横浜では旧居留地で知られる関内の横浜公園に近い中華街福建路で、様々な中国語を聴きながら暮らしていました。
上海帰りや横浜暮らしの気分が抜けないまま、なぜ大阪に中華街がないのだろう?と、少し寂しく感じ、かなり不思議に思うようになりました。
1868年に大阪は開市・開港しています。1月1日の開市(借地居住+交易)、9月1日の開港(開市に加えて船舶寄港)の対外開放が、列強からの圧力と大政奉還や戊辰戦争の渦中で行われています。
それ以前に開港した横浜や、大阪とほぼ同時期に開港した神戸に現存するような南京町や中華街が大阪には元々無かったのか?存在はしていたけれど無くなってしまったのか?という素朴な疑問と好奇心に加え、心身のリハビリも兼ねて「大阪中華街」探索を始めました。

ペリー旗下の黒船が二度目に来航した折に、羅森という広東人を通訳助手として帯同した事が嚆矢となり、欧米諸国と日本との間の政治折衝や貿易取引に中国人が貴重な仲介機能を果たしていた事を調べたことがあります。
江戸時代、特別区としての長崎に居住して貿易取引を担っていた中国人に加えて、幕末の開港地に買弁と称される貿易仲介の専門家や職人・料理人・労働者たちが南部の広東省・福建省から入りこみ、長崎華僑に続く次の世代の定住華僑層を形成しました。
開市・開港した大阪に於いても、安治川や木津川に挟まれた川口地区に居留地を設けて修好条約を結んだ欧米国人に競売し、その周辺地域に中国人が住んでいたようです。日清修好条規の批准発効(1873年)まで中国との正式国交がなかったので、欧米人の「召使」「客分」扱いとして、中国人の上陸を黙認していた時期もありました。
開国当初の日本人の多くは、官民とも貿易知識も欧米語能力も海外情報も欠けており、欧米商人からは赤子の手を捻るような存在だったのではないかと推測します。それ故に中国人の(通辞や筆談による)介在が必須だったと思われます。
因みに新政府の大阪外事方の責任者、初代運上所長(税関長)は五代才助(友厚)。彼は幕末の薩摩藩時代に上海へ千歳丸の水夫として渡航に成功し、1865年には藩命により英国や欧州を公式訪問しています。
川口には一区画250~300坪の居留地26区画が造成され、欧米の商会とその経営者の住宅が建てられ、ガス燈や並木歩道も整備されました。大阪造幣局に於ける近代工業の萌芽と並んで、川口居留地から大阪の文明開化が始まったとも云えるでしょう。木津川を隔てた対岸の江之子島に新設された大阪府庁の正門は港や居留地に面していて、大阪城方面の旧市街には尻を向けています。
しかし、五代友厚の築港計画など新政府の努力や海外貿易商の期待も空しく、泥の河である安治川の浚渫事業は困難を極めたようです。
沖合から運上所のある川口波止場までの積替え搬送が必要な大阪港に寄港する大型外洋船数は開港早々に激減しています。また大阪港・居留地の管理が神戸よりも厳しかったこと(神戸港や兵庫県の責任者になった伊藤博文は融通が利いた?)、更に1874年に阪神間に鉄道が開通したこともあり、大阪に見切りをつけた外国人貿易商は続々と神戸へ移って行き、買弁や苦力の中国人も追随したものと思われます。

川口居留地の跡地にはキリスト教布教の拠点が生まれ、教会や病院、孤児院や学校が開かれました。信愛女学校、梅花女学校、桃山学院、平安女学院、立教学校、大阪女学院、プール学院などのキリスト教学校の祖型は居留地にありました。
しかし、それも1899年の条約改正により居留地は撤廃され、手狭にもなっていた教育施設は大阪東部の上町台地方面や京都に移転し、今の川口にその痕跡は窺えません。
その後も続いて九条、川口、本田、松島を歩きましたが、中華街の痕跡は見つからず、中国人も欧米人同様に大阪に定着せず、従って大阪中華街も存在しなかったのであろう、と早とちりをしていました。
そんな折、川口居留地研究の先達の西口忠先生を桃山学院史料室にお訪ねし、蒙を啓いて頂きました。漂流中の孤舟には羅針盤や澪標のような教えでした。
続いて、中之島図書館、京大文学部図書館、天理図書館、茨木市図書館、神戸華僑歴史博物館などで幕末開港から第二次大戦までの資料を探索しました。

以下、簡単にその後の流れを辿ります。

欧米系の商業・教育関係者が去った後、川口には中国北部(華北・東北)からの貿易商社員が居住し、対中国貿易の主体となっていきます。彼らは「川口華商」と呼ばれていました。その同郷人組織である「大阪中華北幇会所」の拠点ビルは、今の本田小学校辺りにありました。昭和14年に大阪市産業部が発行した同部貿易課員の佐藤書記による『事変下の川口華商』と題する報告書が基本資料であり、中之島図書館の司書の協力で見つけることができました。

日清戦争(1894)、大清北幇商業会議所設立(1895)、大阪築港工事着工(1897)、綿紡績業の発展(大阪紡績会社+三重紡績→東洋紡)、大阪商船の華北定期航路開始(1899)、朝鮮・大陸貿易の伸長→日中貿易の拠点として、川口が急成長。「行桟(Hang zhan)」に短期間(1~2年)・単身で居住した華北貿易関係者は、大阪の売込商と提携して信用と業績を伸ばしています。満州事変(1931年)までに川口華商は千数百人を数え、綿糸・綿製品・人絹・雑貨を中心に、大阪港は対中国貿易の過半を占めています。

「行桟」:華北からの出張員や駐在員の住居兼事務所。電話・通訳・店員を準備したホテル。金融・物流・貿易代行などの機能も提供。家主も同郷人。
江戸時代長崎での中国貿易で使われた「船宿」に類似する可能性も。

・・・川口貿易なる名に依って代表せられる華商との貿易は、実は大阪港貿易の縮図ともいうべきで、近年まで同貿易の伸長は大阪港貿易のそれと同意義であった。中国貿易によって発展してきた大阪の貿易は、邦商の努力に依った事勿論であるが他面華商の活躍の跡も之を見逃す事が出来ない。
(『西区史』第二巻結語・昭和18年編集、昭和54年発行)

川口華商についての初歩的な調査によって、大阪のウォーターフロントには山東系を中心とした中国人街が発達していたこと、中国銀行大阪支店が設けられ、運輸関係企業も蝟集し、売込商が頻繁に出入りする貿易業を核にした商業地域を形成していたことが分かりました。
中華料理屋街があったかどうかは未詳ですが「本場の中華料理を食べたければ川口へ行け」という当時の評価記述も見つけました。しかし川口華商の活躍も戦争が苛烈になるまでのことでした。
満州事変後、大阪の大手繊維商社が華北・東北へ進出して直接貿易を行う一方で、中国各地では日貨排斥運動が高まり、更には円ブロック統制や輸出制限などの圧力が掛かり、商機・商流を失くした華商の帰国が続きます。日中関係の悪化そして第二次大戦に進み、大阪と中国のパイプは細くなるばかり。そして、大阪大空襲により川口は大きな被害を蒙ります。

戦後の川口の動静、大阪中華学校(大阪中華北幇公所に付設した振華小学校を源にして、1946年に本田小学校の一部を借受けて再開、1953年浪速区の現住所に移転)の歴史と現状、そして現在の中国領事館が西区阿波座に所在している背景など、今に続く大阪と中国の深い仲については、稿を改めます。

【参考】研究会『華人研』について
日中の企業関係者有志による、大阪を基点に、毎月テーマを設定し、そのための講師[話題提供者]を招聘して定期的に行なわれている研究会。
第127回の6月のテーマは「中国での清酒製造と販売・中国市場の現状報告。
講師は、中谷酒造株式会社代表取締役・天津中谷酒造有限公司董事長総経理の中谷 正人氏。
7月のテーマは「日本の食を中国へ~中国日系企業社員から独立して日本で起業するまで~」で、講師は、張 宏偉氏(大興商事株式会社代表取締役)

2018年5月5日

「死を選ぶ自由」ということ ―日・韓での悩ましき課題―

井嶋 悠

       はじめに

 

そもそも、『日韓・アジア教育文化センター』は、1991年、私と韓国・ソウル市を中心とした韓国人日本語教師の公的研究団体である『ソウル日本語教育研究会』(現在は、この研究会を基に創設された韓国全土の『韓国日本語教育研究会』と並立運営されている)との出会いに源を持つ。
今回、その両国で抱える厳しい課題について、あくまでも一日本人としての私の視点から、日本に向けて拙文を投稿する。いつか日韓比較をしてみたいとは思っているが。

【参考】世界の自殺死亡率(人口10万人当たりの自殺者数)〈2015年〉

◇順位[2010年前後までは、日本は韓国より上位にあった。]

1、リトアニア 2、韓国 3、スリナム 4、スロベニア 5、ハンガリー
6、日本    7、ラトビア 8、ウクライナ 9、ベラルーシ 10、エストニア                                                                                                                  (米国は20位)

◇日本に関して
・上記について、6位であるが、男女別では女性が3位
ただ、日本内に限定して言えば、男性の方が女性の2,5倍
・1998年に3万人を越えたが、以後減少傾向
・青少年[若年層]の自殺が顕著

 

「哲学とは、人生は苦しんで生きるに値するか否かの判断をすること」といった意味のことを、西洋の作家が言っている。
人間が社会的動物であるかぎりにおいて、死を自己選択したその人の判断の社会的意味は大きいはずで、その人の数が多ければ多いほど所属する社会に不備、欠陥が多いとも言える。
しかし、その「死を選ぶ自由」を人の弱さ、甘えと言い、時に卑怯だと厳しく指弾する人が、少なからずある。私が知る、教師でも文化人?でも、いわんや知識人でもないごく普通の人もその一人である。
なんでもかんでも「問題は社会に起因する」と言うほどの安直さはないが、先の前者に与(くみ)する私がいる。と言っても、事の善し悪しは別に、頭と心のどこかでの直覚に過ぎず、身体全体で与するほどの成熟はなく、当然実践への決断力もない。
だからこそ「健康年齢(寿命)=私の平均寿命」などと、自己本位に、病に、貧困に苦悶している人への非礼そのままに思ったりする、その驕慢は承知している。

ここで、用語について確認しておく。一般的用語は「自殺」「自死」「自決」であろう。
アメリカでは州によっては「自殺」そのものを犯罪とみなしていて、幇助(ほうじょ)、教唆(きょうさ)はいずれの州でも犯罪とのことで、日本では前者は不問ではあるが、後者は同様である。そもそも「自らが自らを殺す」との用法からも理解できるように、統計等の所管は警察庁である。
「自死」は、自殺の語感が持つ酷(むご)さの印象とは違い、自から己が「死」を引き寄せる、との静的印象で使われているように思う。
ただ「自決」は、そこに或る集団的なもの、集団性があっての用語と考えられ、私のここでの意図とは違うので除外する。(例えば、三島 由紀夫の場合)
私は「自死」の静寂に心魅かれ、一時は自死を敢えて使っていたが、「死」に到る(未遂も含め)激情、葛藤そして決断を思う時、法云々とは関係なく、「自殺」がふさわしいと思うようになっている。

その自殺について、20代のころから考えさせられることもあり、後4か月で73歳となる身、先進国と言われる日本にあってなぜ自殺が多いのか、自身の事として考えを及ぼしてみたい。
考え及ぼす?
6年前になるが、新聞書評で、作家・柳 美里(ユウ ミリ)氏(1968年~・在日韓国人)の、女子高校生を主人公にした小説『自殺の国』が採り上げられ、同じく作家・江國 香織(えくに かおり)氏(1964年~)の書評文に次のような一節がある。

「…自殺する理由がない、ということが、自殺しない理由、すなわち生きる理由になるのかどうか――。さらに、仲のいい家族というものの、仲はほんとうにいいのか、友達だと言い合っている人間を、信じる根拠はどこにあるのか。そんなことを考え始めれば、少女でなくとも途方に暮れる。何か考えるのは危険なことだ。でも、考えない危険より、はるかに安全な危険だ。」

私は、考えるに際して、芥川 龍之介(1892〈明治25〉~1927〈昭和2〉35歳で自殺)の『遺書』『或る旧友へ送る手記』を拠りどころにする。
尚、芥川が「死を選ぶ自由」を行使する1か月前に、友人久米正雄宛てに書かれた『或る阿呆の一生』という、己が人生をかえりみる全51章の短文作品があるが、今はそれには触れない。(因みに、最後の第51章の表題は「敗北」である。)

彼の自殺はほぼ100年前のことであるが、現在でも十分に共有できると思う。否、現実の政治・経済・社会の混迷度が増し、タテマエとホンネの乖離が一層強くなりつつあるように思う一人としては、なおさらである。
その私が、芥川龍之介を拠りどころにする理由は以下である。

○元中高校国語科教師らしさを出すため?

○『蜜柑』を読んで“目からうろこ”的に共感したため。

○文(子)夫人への結婚前の愛(ラブ)の手紙(レター)[はがき]に溢れ出ている人柄に魅入られたため。

○写真で息子二人の良き父であったことを彷彿とさせる姿を見たため。

○繊細に、鋭敏に、知を、時代を、感知し、認識していた人と思うため。

○優れた人をみることは、その人でもそうなのだからいわんや、と逆説的に己をみるにふさわしいため。

○西洋の文学者たちのことなど無知な私にもかかわらず、「遺書」及び「或る旧友へ送る手記」に不遜にも共感したため。(因みに、「手記」では、自身を「大凡下(だいぼんげ)」と言っているが、芥川が言うから通ずるのであって、私が言えばそのままである。)

時代(社会)の、家庭の、環境は、人間の心に大きな影響を及ぼす。その深浅或いは内容は人によって違うが、芥川の場合、生来の、そしてその後の勉励、人との出会いが、より鋭く、より深く刻まれた。だからこそ、私は『蜜柑』に共感(と言えば高慢だが)し、「繊細に、鋭敏に、知を、時代を、哀しみを感知し、認識していた人」と信じている。そして、芥川の二つの遺書は過去の遺物とならず、今も私を、多くの人々を惹き込む。
芥川の自殺に立ち入る時、しばしば引用される言葉が『或る旧友へ送る手記』(以下『手記』と記す)の中の「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」という箇所であるが、その前に彼の自殺そのものに係る発言を、両書から引用する。

『遺書』より

「僕等人間は一事件の為に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の総決算の為に自殺するのである。」

「僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのも苦痛である。」

『手記』より

「僕は紅毛人たちの信ずるやうに自殺することを罪悪とは思つてゐない。仏陀は現に阿含(あごん)経(きょう)の中に彼の弟子の自殺を肯定してゐる。曲学阿世の徒はこの肯定にも「やむを得ない」場合の外はなどと言ふであらう。しかし第三者の目から見て「やむを得ない」場合と云ふのは見す見すより悲惨に死ななければならぬ非常の変の時にあるものではない。誰でも皆自殺するのは彼自身に「やむを得ない場合」だけに行ふのである。その前に敢然と自殺するものは寧(むし)ろ勇気に富んでゐなければならぬ。」

どうだろう?
曲学阿世に限らず、マスメディアに登場する評論家・解説者(コメンテーター)・ジャーナリズム関係者の多くは、弱さを、憐れみを言い、地域での、学校での、通信での、救済機関の充実を指摘するだろう。相談相手に恵まれ、死を思い留まる人も確かにあるだろうし、それは一時的に自殺者数が減ることにつながるかとは思うが、そこには根底的に日本を再考する視点がないように思う。
芥川の時代を概観してみる。彼の主な活動期は大正時代15年間(1912年~1926年)である。
大正時代=大正デモクラシーのイメージが、私の中で浮かぶが、実際はどうだったのか、手元の年表から主だったことを挙げて整理し確認してみる。

1912年(大正元年) 第1次護憲運動・天皇機関説論争・オリンピック初参加

1913年      「大正政変(桂内閣総辞職)」

1914年       シーメンス事件(海軍汚職事件)・第1次世界大戦勃発
(ドイツに宣戦布告)

1915年       中国への21か条の要求提出・抗日運動起こる・大戦景気

1916年       憲政会設立・大隈重信狙撃

1917年       「西原借款」(中国政府反革命的武力統一援助)で侵略
政策との批判

1918年       シベリア出兵宣言・賃上げ要求スト・米騒動

1919年       朝鮮での日本からの「三・一独立運動」・国際連盟に加

1920年       恐慌襲来[1927年、1930年と続く]

1921年       原首相暗殺・市川房枝ら新婦人協会結成

1922年       中国に関する「九か国条約」に加盟・治安警察法・全国
水平社創立

1923年       関東大震災・甘粕事件[大杉栄・伊藤野枝虐殺事件]

1924年       第2次護憲運動

1925年       治安維持法公布・普通選挙法公布

1926年       大正天皇崩御・川端康成『伊豆の踊り子』発刊

1927年(昭和2年) 第1次山東出兵・金融恐慌勃発

これらは過去の事実である。そしてこれらはその時点で終了[完了]したこととして年表に記されているだけなのだろうか。
人間は、それほどに日進月歩、高次に途上しているだろうか。人類誕生以降「歴史は繰り返す」……?!

真に博識博学な人は寡黙で謙虚である。些少狭小な私はついつい多言、おしゃべり!になる。教師には(特に文系?)多弁家が(と言えば聞こえはいいが)多い。私もその一人だったから寡黙な人を憧憬した。良き教育は教師の謙虚さが先ず初めにある。
そういう中にあって、一度(ひとたび)話し出すと流れるが如く言葉を編み出す英語との完璧なまでのバイリンガルにして博識博学な教師(女性)と職場を同じくしたことがあったが、私の印象は寡黙な人としてある。

言葉は怖ろしい。キリスト教圏・イスラム教圏では、[神の言葉]は論理である。日本では言霊。
そこに日本の感性の国をみる。だからなおのこと、国際化=英語教育なのだろうが、どこか本末転倒の感があるように思えてならない。
あの理知研ぎ澄まされ、西洋文学、芸術にも造詣の深かった芥川は、『手記』の中で次のように書いている。

―自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。―

「ぼんやりした不安」……。
自身の生への、作家であることへの、日本社会への、「ぼんやりした不安」。
俊秀であっただけに響き入る言葉。感性。
先の年表と彼の生い立ち、生活から、それを視るのはあまりに我田引水過ぎるだろうか。
そして彼は「死を選ぶ自由」を行使する。葛藤に葛藤を重ね。

『遺書』の中の言葉

「他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。が、僕は一人ならば或は自殺しないであらう。」

《息子への言葉》
「人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず。」

『手記』から

「…僕はスプリング・ボオドなしに死に得る自信を生じた。それは誰も一しよに死ぬもののないことに絶望した為に起つた為ではない。寧ろ次第に感傷的になつた僕はたとひ死別するにもしろ、僕の妻をいたわりたいと思つたからである。同時に又僕一人自殺することは二人一しよに自殺するよりも容易であることを知つたからである。」

「我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れてゐる、所謂生活力と云ふものは実は動物力の異名に過ぎない。僕も亦人間獣の一匹である。しかし食色にも倦(あ)いた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう。僕の今住んでゐるのは氷のやうに澄み渡つた、病的な神経の世界である。[中略]若しみづから甘んじて永久の眠りにはひることが出来れば、我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違ひない。しかし僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。」

 

日本は先進国であると標榜し、私たちの多くもそう信じている。しかし「先進国」とは一体何をもってそう言い得るのか。経済力?技術力?……。
OECD[経済協力開発機構]が運営する学習到達度調査(PISA)に、結果としての順位にその都度、一喜一憂、安堵と焦燥の論評が繰り返され、教育指針再検討が持ち出される。
各学校種段階の入学試験で「記憶する(暗記する)力」から「考える力」へ、と何とも遅ればせながら緊要の課題として言われ、入試方法が変わる。

“1点が合否の境目”にあっての、問題作成、そして客観的評価(採点)の難しさの解決が今後の課題とのことだが、そもそも「小論文」入試でもその視点があったにもかかわらず、今では形骸化的となり、かてて加えて、すべての学校とは言わないが、【塾・予備校】頼りがますます強くなることが予想されている。
それほどに学校とは何なのかが問われ、高校義務教育化も話題となり、大学の大衆化の負の側面が露わになり、専門学校指向が増えている現在、今も子どもたちはひたすら時間に追われ、振り回され、追い詰められている。(都鄙での違いは程度差の違いで、本質的には同じと思うので一括りに言い表す)

それでも先進国と評されるならば、そこにあるのはモノ・カネ社会、或いはほんの一部の「超エリート」の功績ということなのだろうか。
自照自省の私的経験で極論的に言えば、問題作成側教師(集団)の児童・生徒受験者の学力観は、塾に拠りかかった学力観であり、教育観とさえ思える。
そして学校世界(より限定的具体的に言えば教師世界)の権威意識或いはその指向また聖域意識。
今もって不登校生、「いじめ【ハラスメント】」問題(児童・生徒同士、教師から児童・生徒、その逆、そして教師間))の多発状況は変わらない。

眼を学校外の大人社会に向ければ、政治家の、行政者の、不埒ぶり。
ごく最近で言えば、朝鮮半島の歴史的転換の可能性、米朝会談の高い実現性にあって、日本の拉致問題を最重要課題と言っていた我が国の宰相は夫人共々、なぜか今この時期に中東へ。数千万円の税金を使っての病的としか思えない媚び外遊。更にはこのゴールデンウイーク中に、10数人の閣僚が心・頭・体を休め、己を振り返り、学習する姿勢を感ずることもなく、同じく税金数億円を使って外遊とか。

一方で、とりわけ中高年世代が苛立ちを募らせる、子どもの貧困の深刻。老人介護の貧富化の深刻。
青少年の「テレビ離れ」が増えているにもかかわらず、お笑い芸人・タレントを多用し、繰り返される同系番組の画一化、低次元化。当たり前過ぎることを「視聴者は無知」に立って大仰にもの言う、多くの解説者(コメンテーター)・評論家等、専門家と称される人々の言葉の垂れ流し……。そこに跋扈(ばっこ)するカネ・カネ…。
30代40代の働き盛りの人々の厳しい仕事・家庭環境の現実。公務員と大企業社員[=財界の別表現]以外の中小企業関係者たちの実感しない好景気、賃上げ報道、それに引き替え体感する物価値上げ。駆け巡る「働き方改革」の言葉遊び(戯言)。

それらを10代20代の感性が、感知しないはずはない。
瑞々しい感受性と「ぼんやりした不安」。
少子化になればなるほど“隠れる場所”が狭められる子どもたち。少子化による子どもたちの息苦しさ。
少子化が一層もたらす高齢化での老いの孤独。人生経験が導く日本社会懐疑と「ぼんやりした不安」

「国際的学力」(例えば、一部で流行的!?に採り入られている[英語を主言語とする国際バカロレア教育])では、常に論理的思考力、表現力が求められるが、それは先ず「感じる力」があってのことではないのか。そこから「考える力」の必要性が自然に自覚され、それが自主的学習を生みだす。「記憶する力」の自然育成。
かつて国際バカロレア教育に、また帰国子女教育に、外国人子女教育にわずかながらとは言え携わった一人としては、日本がその風土、自然そして歴史から培って来た感性こそ、複雑な国際化社会の今だからこそ一層必要性が求められるように思えるのだが、これは時代錯誤だろうか。老いの証し?

以前出会ったアメリカからの帰国女子生徒の言葉が思い出される。「一時帰国した際、クラスメイトのお土産に持ち帰った動植物等をかたどった小さく色彩感豊かな消しゴム等の文房具への、歓声と賞讃と憧憬」
1000年余り前の清少納言の言葉が、ふと甦る。
「なにもなにも、小さきものは、皆うつくし」
「うつくし」の古語辞典での漢字表記は「愛し・美し」である。