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2018年5月28日

素・気

井嶋 悠

表題の二つの漢字を『常用字解』(白川 静・著)から要約引用し、読みを漢和辞典で確認する。

「素」:糸を染めるとき、糸束の結んだところは素(もと)のままの白い糸で残
る、その部分を「素」と言う。そこから[しろぎぬ、しろ、もとより]また[本来の性質、もとの状態、何も加えない]の意味となる。
[音]ソ・ス

「気(氣)」:气は雲の流れる形で、雲気を言い、生命の源泉とされ、米はそ
の気を養うもとであるという二つの要素が加わって、すべての活動力の源泉であり、大気(地球と取り巻く空気の全体)・元気(活動の源となる気力)として存在し、人は気息(呼吸)をすることで生きる。人にあらわれる性格等を気質(気だて・気性)と言い、集団や地域の人々が共通して持っているとみられ
る気質を気風という。
[音]キ・ケ

人は(或いは生物)は、素(す)に生まれ、素でありたいと思いながらも意叶わないことのほうがはるかに多い生を経、素に死を迎え、素云々の意志的・無意識的動作、作用、状態とは一切係わらない久遠の霊魂生を得る……。
今、老いを迎え、素生きたい動的願いより、素生きたいとの静的願いが私にはある。
ところで、現世から来世は視えないが、来世から現世は視えているかもしれない。来世界にあっては、無限界での無形にして透明の霊魂間だからこその自由無碍の交流、交信をしているのかもしれない。と思ったりするのも楽しい。

私は58年前に中学校を卒業した。その卒業アルバムでの[日々の学校生活]の一枚を、今も鮮明に思い出すことがある。それは同窓の或る男子生徒が、教室の元気溢れた!?騒々しい中で、独りもの静かに座っている一枚である。そのタイトルは、おそらくアルバム製作会社が付けたのかとは思うが、「忙中に閑あり」。このことわざをここで使うのは誤用のようにも思えるが、私たち10代前半の多くが周囲に同調し、孤独を避ける、そんな中学校時代という微妙な年齢時を象徴するかのような光景と映り、意図的に使ったのかもしれない。と言う私は、クラス集合写真(野外)で、好々爺のクラス担任の横に同じポーズで立つという「おちょけ」をやっている。

大人の事情で東京の小学校を卒業し、関西に戻り、当時荒れに荒れていた公立中学校に入学し、入学の日から卒業の日までの波瀾万丈!社会の裏面?を思い知らされ、身をもっての社会《体験》学習の3年間をすごした。本来独りであることを好み、例えば対立間にあっては、いずれにも一分の理ありと思う私がいたからこそ、彼が素でそうしている姿を羨しく見、鮮明に記憶しているのかもしれない。
振り返れば、人生に必要なことは、教科学習内容以外、すべて中学校で視、聞き、体で学んだと言っても過言ではない。それは例えば或る社会問題や教育問題を観念的、概念的に滔々(とうとう)と弁ずる人々をどこか胡散臭く思う私の原点とも言い得るように思える。私の素(そ・もと)?
もっともそこに私の独善と言う落とし穴があるのだが。だから、友人がいるようでいない…。
そして今。巡り巡って、関西から遠く離れた関東北部栃木県の豊かな自然の下、自他虚飾に満ちた煩わしい人との関係もなく、妻との、また素で懸命に人間三歳時そのままに生きる犬との断片的会話を気ままに交わしながら、私流晴耕雨読の生活を得ている贅沢三昧!

教師現役渦中では自己主張とは距離を置き、しかし個の内部では主観性強く居た自身が、中学校時代の怒涛をくぐり抜け、高校、大学、自由社会人数年後教職に就き33年間の教師生活。それらの複合が私の素に加わり、自他を、学校世界を客観的に視る視線を培ったように思っている。
それらがあり、娘のことがあり、ここ数年、漸くにして自他の「KY」(空気・雰囲気を読む(め))の自照自省できる時間が迎えられたのかもしれない。
西洋の哲学者は「孤独は、知恵の最善の乳母である」と言っているそうだ。
素(す)で生きようとして来て、素(そ)の自然に心委ねようとしている私。

前回の投稿で拠りどころに使った芥川 龍之介の、25歳の時の作品『孤独地獄』の最後の一文は「…或意味で自分も亦、孤独地獄に苦しめられてゐる一人だからである。」で、10年後の自殺時でも孤独を地獄と言ったかどうか、家族を心優しく受け止めていたにもかかわらず、愉悦の心境を直覚したのではないかと、まだまだ情緒浮沈は日替わり的浅薄な私だが、孤独の素に生きることを思い描く私は、想像する。

ここ何年か「癒やす・癒やし・癒やされる」との言葉は頻(ひん)用(よう)され、人によっては(とりわけ個・自我を確立している人)辟易(へきえき)し、遠ざけているほどである。
それほどまでに世は殺伐となり、人と人の関係は稀薄になって来ているということなのだろう。
そういう私は、言葉はますます一時的記号化して、日本の技術の高評価とは真逆の「軽・薄・短・小」化の日常に、老人化も手伝って屈折(へそまがり)は一層強化され、自身から使うことなどあり得ない。
個性・自由の尊重が強調されているにもかかわらず、制度化、管理化はたまた切り捨て化は“粛々と”進んでいる現実。だからこそ癒やす表現に象徴される憐れみの危険性を、更には若者を中心とした受動化(保守化)の現実を、思い知らされてしまう。

未曾有の少子化×高齢化×国際化の式から導かれる解答は何か。日本の主導者は日本の過去と現在の素と気を確認し、実効的、具体的、主体的日本の姿を明確に、老人は去る者と言わんばかりの視点を捨て提示して欲しい。誰しも承知している次代を担う教育の重要性が、塾ありきの教育、学力優秀観で良いのか、と同様に。
国会や行政の昨今の実状から、思想、信条を越えて危機意識を持たなくてはならないのではないか。負の「歴史は繰り返す」など望む者はないが、人間の限界ということなのか。諦観こそ賢者の証し?
「素(す)気(げ)ない」と言う。(「素(そ)っ気ない」の語源との説もあるようなので含める)
「思いやりがない」との意味だが、類語(連想語)を調べると、次のような興味深い言葉を見い出した。

[潤いのない。色彩のない。余韻がない。無関心・無愛想・無情《新“三無主義”?》]

すげないは、古代から用法があるので言葉として古いが、世の中そのものに言い当てるのは現代的ではないかと思う。
「不登校児童生徒が、改めて増えている」との報告や言葉・情報の洪水氾濫による溺死感、自由と個性尊重と裏腹の制度化管理化傾向への虚無感等々が、そうさせるのだろうか。
このことは、私たちが実施した[日韓また日韓中高校生・大学生交流]からも、なるほどと思う。

自身や国・地域が混迷し行き詰ると外に向かい、個人は外に何かを求め歩き、権力者は人々を外へ、他へ向けさせる。「内向き」発想はその閉鎖性、独善性から批判の対象になるが、自照、内省ととらえれば緊要の意と変ずる。

国政の長の方またそこに従属、隷属される方々、なぜ今に?と広く国民(納税者)が納得できない海外訪問は、私費で行かれますように。それが国民への思いやりだろう。

以前勤務していた「新しい教育」を標榜する中高校の保護者会で、学校論、教育論を弁じていた管理職に対して或る母親が言った言葉「おっしゃることは良く分かります。だからこの学校に入学したのです。ただ子どもは今日明日の日々がすべてであることに思い及ぼしてください。」が、思い返される。その時、私は素気なく…管理職側の席に在った。