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2018年9月29日

力と血と和と人或いは日本

井嶋 悠

今年、ピョンチャン・冬季オリンピックでは、日本はパシュート競技で、スケート大国オランダを破り、金メダルを獲得した。あれから既に8か月が経ち、もう直ぐ2019年のシーズンが始まる。光陰矢の如し。

高木姉妹の妹の美帆選手は、オリンピック終了後ほとんど休む間もなく「世界オールラウンドスピード選手権大会」で、欧米選手以外で初めての総合優勝を遂げた。スケートだけでなく、小学校時代からの陸上、サッカー、ダンスそして学業と正に“文武両道”で、15歳ではオリンピック代表となり“天才少女”と時の人となった。それから8年、下降も経験し成し遂げた快挙である。
私の中で彼女は、その発する言葉、表情からも、幼い孫を見る感覚でのスーパースターである。

彼女を世界トップのスピードスケーターまで引き上げたのは、家族や姉はもちろんのこと、多くの人々の指導、教示があってのことだが、とりわけオランダ代表チームの元コーチ・ヨハン・デビッド氏の存在が大きかった旨彼女は言う。
そのオランダ、決勝で錚々たるメダリスト3人が出場したが負け、オランダでは「誰だ!?ヨハンを日本に送ったのは?」との苦笑の話題もあったとか。
その氏が行った指導の一つに、1年の内約320日の共同生活の中での練習活動を知り、そこに日本ならではのものを感じた。オランダの立場で言えば、そのような練習自体思いもつかないし、したとしても早々に頓挫するのではないか、と。

スケーティング技術に関しては、このレベルの選手たちともなれば大同小異だと思うが、パシュートの場合、一糸乱れぬ3人の滑りとコーナーでの選手交代時、いかにスピードを落とさずできるかが鍵とのこと。動画で見ると、日本は一糸乱れぬ姿があるが、オランダは若干の乱れがある。そのためコーナーでの交代にもいささかの影響が出ているように、素人目でも分かる。
それはあたかも陸上の男子400mリレーで、4人がバトンつなぎの秀逸さもあってメダルを獲得し、アジア大会で優勝したように。

個人競技は、突出した能力と技術を持った一個人で、好結果を勝ち取るが、団体競技(バドミントンやテニス、卓球等のダブルスについてはここでは除く)では個と全体のバランスが問われる。
ちなみに、2020年の東京大会では、33競技339種目が実施されるそうだが、いわゆる団体競技は以下の8競技である。

・バレーボール  ・ラグビー  ・ハンドボール  ・サッカー  ・ホッケー  ・野球  ・ソフトボール  ・バスケットボール

これらの競技の発祥地はすべて欧米で、概ね1900年以降、日本に入って来たものである。

この中で、素人の私の限られた見方ではあるが、メダルの可能性があるのは、女子バレーボール、ラグビー、野球、ソフトボールではないかと思う。
これらにあって、ラグビーがその格闘性において他の競技と異質だが、可能性を持てるようになったのは、国際結婚や帰化による選手たちの貢献度がいかに大きいか、南アフリカに勝利できたことを思い起こせば、明らかではないか。
このことは個人競技だが、先日のテニスの全米オープンで優勝した大坂なおみ選手と相通ずる。
大坂選手が、先日帰国し記者会見をした際、或る記者が「旧来の日本人のアイデンティティと現代日本・日本人」といった主旨の、何を今頃にと思える陳腐な質問をしたとき、彼女は「そんなことあまり考えたことはないが、私は私だ」と応えていた。さすがアメリカ育ちだと思った。アメリカ絶対的!?追従(ついしょう)の現代日本、現在の大統領のアメリカ第一主義は措いて、こういったアメリカの、そこに何かと問題が起きているとはいえ、素晴らしさをもっと移入し、学んで欲しい。

320日の共同生活と練習に「日本らしさ」を見、その結果が金メダルにつながった、と私は思う。
日本が、いかに微妙な季節の移ろいを持った四季があることは『歳時記』を見れば、一目瞭然である。雷は古人曰く二つ目に恐ろしいものとしてあるが、8月の末、どんな酷暑の夏であったとしても、その雷を見、聞くことで夏の終わり、秋の到来を話す。また古代人(びと)以来の「春秋論争」はつとに有名である。

私たちは、自然を親愛し、畏怖し、恐怖することは、日本列島に人が(原日本人?)住み始めて以来、変わらないのではないか。人は自然と一喜一憂し、自然との共生に腐心してきた。だから工業化と言う近代化には非常に敏感だったはずなのだが、いつしか欧米風合理主義また個人主義に傾き始め、息苦しさを直覚する人が増え始めた。更には「公害」という大きな社会及び政治問題が顕在化し、無惨に多くの犠牲者(死者・重篤者)を出すまでに到っている。私たちは自然人ではなく、自然(一員としての)人、との感覚を、長い歴史の中で培い、無意識化するほどに持っているから、その衝撃はなおさらのことである。対立ではなく調和としての自然と人。
しかし、自然は自身を制御、抑制しない。だからこそ人は己を制御し、抑制しなければ、調和は乱れ、崩壊する。
6世紀から7世紀にかけて、日本の基礎を創ったと言われる聖徳太子には、存在しなかったとか、朝鮮半島からの渡来人だった等々、多くの伝説、学説等諸説があるようだが、この機会に改めて『十七条憲法』を読み直してみた。今回の趣旨に相応すると思う箇所を引用してみる。

第一条  和を以って貴しと為す。
第二条  篤く三宝[仏・法・僧]を敬へ。
第四条  礼を以って本と為よ。
第七条  人を得て必ず治む。
第九条  信は是れ義の本なり。

誰しも親和・平和を希うことに異文化はないと思うが、その背景に仏教の「慈悲」、儒教の「仁義礼智」を意識し、且つ日本風土の自然の濃やかさ、自然との一体化としての人[自然神道?]を重ねる時、そこに日本らしさを思うのは、私だけだろうか。

この感性があってこその320日の時間の成就と結果を想う。その善し悪しは措いて、欧米化著しい現代日本の、とりわけ若い人たちにとっては、この時間は精神的に非常に辛いものだったのだろうか。世界への目標があるから耐え忍んでできたことなのだろうか。
「己の欲せざる所は人に施すなかれ」、我欲を自然態で制御することで和が自ずと生じたのではないか。個と個の、やらされるのではない伸びやかな練習。禅の思想家鈴木 大拙の言葉を借りれば、「遊戯(ゆげ)自在・任運自在の《自由》」の境(きょう)。と言えば、彼女たちを不快に落とし込むだろうか。彼女たちがこの時間を言う時の表情に、少なくとも苦痛、忍耐を乗り越えて云々といった類のことは、私には感じられなかった、それどころか、充足の笑みさえ直覚したのだが…。
これが素地にあって、ヨハン・デビッド氏という「人を得た」のではないか。

競技[スポーツ]は各個の、肉体の強い体幹力と精神(血)の伝統力が醸し出す調和、統合が求められる。これらは一朝一夕にできるものではない。技術や戦法が一時的には成果を生むこともあるだろうが、あくまでもいっときであって、より高みと安定に到るには、各個のそれらの高次の統合なくしては為し得ない。それがチームスポーツの魅力と思う。
先に記した日本ラグビーは、彼らの体幹と伝統(血)の力を得て、世界レベルの端緒に立ち得たと言えるのではないか。

尚、統合力への過程は、女子の場合と男子の場合違うように思える。或る競技の男女それぞれの全日本代表監督(いずれも男性監督)が対談で、こんなことを言っていた。
男子チーム監督「選手の何人かを選び、彼らを新チームの核として行く旨、選手たちに言った」
女子チーム監督「ウチでそんなことしたら、下手すればチームが崩壊する」
中高校の女子サッカー部元顧問(監督)を経験した私は、両者の発言に何となく同意していた。

1970年代前後から「帰国子女教育」が、学校教育と日本社会の大きな課題となり、一部の識者は「国際(理解)教育」をも視野に、【新しい学力(観)】をしきりに唱えていた。それからほぼ50年経った今、その課題は十全に解決したとは到底思えない。
入試方法の机上的変革に学校は振り回され、塾産業はますます必要不可欠となり、大学大衆化のマイナス面は顕著化し、一方で少子化と格差化また高齢化は広がり、日本型インターナショナルスクールが、乱立しているかと思えば、外国人排斥の言行動が欧米的に広がる現状、日本社会は大きな岐路に立っているように、元教師の隠居は思えて仕方がない。

経済が人々の生活にとって必要不可欠であることは誰しも認めることではあるが、国際社会での貢献と都鄙の格差の広がり、貧困化の自国社会現状のバランスはこれでいいのか、八方美人型?外交への国内での激烈な憤慨、国外で冷笑すらあることにもっと敏感になるべきではないのか。
その時、日本と日本らしさと現在と未来について、世界の視野で、一流[己が強さだけではない自然な謙虚さを持った人間性]のアスリートたちが身をもって示唆している、と考えるのはあまりにも飛躍し過ぎた私見だろうか。
仏教の渡来を基に、飛鳥文化が華開く一方で、「遣隋使」の派遣等、国際化時代の治世者聖徳太子の言葉には、やはり現代に通ずるものがある。

最後に、『十七条憲法』から先の箇所とは別の個所を引用する。

第一条  上和(やわ)らぎ下睦(むつ)びて、事を論(あげつら)ふに諧(ととの)へば、事理自ら通ず、何事か成らざらん。
第八条  群卿百寮、早く朝(まゐ)り晏(おそ)く退(まか)でよ。[公務員や治世者の心構え]
第九条  君臣共に信あるときは何事か成らざらむ。
第十四条 群卿百寮、嫉(そね)み妬(ねた)むこと有るなかれ。

 

2018年9月20日

君死にたまふことなかれ

井嶋 悠

生あるものはすべて死を迎える。その死を自ら手繰り寄せる人も少なからずいる。数年前まで先進国の中で非常に高い自殺率であった日本は、年々減少傾向にあるが、それでも世界で第6位(2016年段階)で、中でも女性の自殺は第3位とのこと。
一衣帯水の国・韓国が第3位となり深刻度が増して来ているが、ここでは、風土や社会背景等の国比較或いは、減少傾向での施策の成果を言うのではなく、日本の現状を量の問題ではなく、質の問題としてとらえられるかどうか自身を整理してみたい。

政治家が国民のために働くのは自明過ぎる自明だが、その「国民」解釈が違って来て(多様化して来て?)、言葉では「社会的弱者」を言うが、実態は「社会的強者」のための政治に堕しつつあるように思えてならない。心ある人は何を今更、と冷ややかに言うだろう。
だからと言って私は、野党を支持しようとは思わない。同じ穴の貉(むじな)(狐)。自己[自党]主張・正当化更には絶対化と相手への誹謗による集散の繰り返し。人間世界の縮図そのままの。
そもそも政治家に期待することが致命的に間違っている、心平和に、美味い食と酒を味わいたいなら、政治家の登場する報道を見ないこと、話題にしないこと、と言われるのが常態化しつつある現代日本。

なぜか“脂ぎった”=政治家のイメージ。議論の大切さを言いながら問答無用の高慢。言葉の弄(もてあそ)び。よほどのテーマでもない限り、無党派の、選挙に行かない選挙民が、数年前からほぼ半数。私も含め。ただ、ここ数年は意識して投票に行っている。覆う虚しさ。そこまで自身を貶(おとし)めたくないとの自己防衛本能の顕れ?選挙民の権利放棄と十分承知しつつも。
そして政治家に「いただいた国民の皆様の支持云々」と言わしめ、形容語(大小とか強弱とか美醜とか…)が、その人の価値観を表出するとの見方に立てば、戦前の不安様相を映し出すかのような言葉の数々。
学校教育、社会教育の緊要の課題。

 

先日、衝撃のニュースに会った。哀し過ぎる!
「2016年までの2年間で、産後1年までに自殺した妊産婦は全国で少なくとも102人いたと、厚労省研究班が5日発表した。この期間の妊産婦の死因では、がんや心疾患などを上回り、自殺が最も多かった。」全国規模のこうした調査は初めてとか。そして続ける。
「妊産婦は子育てへの不安や生活環境の変化から、精神的に不安定になりやすいとされる。研究班は「産後うつ」なのメンタルヘルスの悪化で自殺に至るケースも多いとみて、産科施設や行政の連携といった支援の重要性を指摘している。」
やはり政治無関心は無責任にして醜態で、いつしか「暴力」への呼び水加担者へ……。

キリスト者が人の死に際して言う。「神が、あなたは十分つとめを果たしたのだから戻っていらっしゃいと言われたのです」と。私も娘の死に際して、或るキリスト者からこう言われ、どこか心の落ち着きを得たように思えた。私はキリスト者ではない。が、キリスト教を批判、否定する者ではない。
この母たちにも神はそう言ったのだろうか。そうは思えない。あまりに哀し過ぎる。
キリスト教や仏教また儒教でも、その自殺観は分かれているようだが、私は自殺を悪とは思っていない。いわんや罪とは思わない。本人の哀しみ、激情そして葛藤、厳粛な意志決定を想像すればするほど。
しかし、周囲の哀しみを知ればなおのこと、積極的に肯定もできないし否定もできない私がいる。

日本の、物質文明社会が当然とするかのような現実での、貧困化という矛盾。過疎化と過密化の両極的動きの中での核家族化の功罪。華美な一面的情報の氾濫の、とりわけ青少年の心の揺れ。仕事と家事の両立に係る主に都市圏での政治の貧困、政治家の空疎な言葉。無記名の誹謗中傷を含めた膨大な発信、情報。それを直ぐに手元で確認できることの負の側面。
抱えきれないが抱えようとする生真面目さ。襲い来る将来の不安、孤独、寂寥との狭間での自問自答。常よりもより鋭敏に震える神経で生命(いのち)に、死生に思い及ぼす、と同時にそれらを否定しようとする葛藤。

支援が広がりつつある。そのことで思い留まった母もあるだろう。しかし、その支援を拒否する(拒否と言う響きが強過ぎるならば避ける)心も、不安定な時にある心の動きではないのか。鬱(うつ)、うつ病症。医師や専門職としてのカウンセラー、相談員のもとに行くことの、或いは来られることの、する側とされる側の相性感も含めた煩わしさ。「自分が弱いからだ、自分だけなのだ」といった自責感情。
知人友人親族等々様々な人々の貌が浮かんでは消える中、不安と寂しさに思い巡らせ、独りであることで、何とか心落ち着かせ自身に戻ろうとする自我の葛藤。これらも鬱の症状なのではないだろうか。
支援は大事なことだが、どこまでも人間と人間の問題として机上の空論にしないことの難しさを、私なりのこれまでの直接間接経験から思う。

自殺は、いつの時代も、いかなる国・地域にあってもなくなることはないという冷厳な現実をどう受け止めれば良いのか。あの戦争のように。問い続ける、人間が、人間とは?と、永遠に……。
いわんや、自身の分身である幼児(おさなご)を置いて命を絶つ、そのあまりの哀しみにおいてをや。
それでも自問したい。自殺を断罪するのではない答えの端緒を見い出したい。「自殺者が少なくなる、否、限りなくゼロに近くなる国・地域は、どうあればできるのだろう?」と。宗教に委ねることなく、自身の実感の言葉として。
やはり、もっと政治に厳しく関心を持つべきなのかもしれない。と同時に、日本の構成員の一人として、自身の代だけではない「私の想う社会の、日本の在るべき姿」を考えなくてはならないのではないか。
その時、学校教育の時空がいかに重いものかが、視えて来る。観念[知識]の言葉で留まるのではなく。

「君死にたまふことなかれ」とは、与謝野 晶子が、日露戦争(1904年~05年)に従軍する弟のことを切々と詠った詩の有名な一節だ。その詩を転写する。
この機会に、この歌が、一部で言われる反戦歌かどうかも併せて、改めて確認したい気持ちも込めて。

あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる
暖簾のかげに伏して泣く

あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ

その弟は、第2連にあるように、大阪・堺の由緒ある和菓子屋の跡取りで、戦争から無事帰還したとのこと。因みにこの戦争で死んだ日本人は11万5600人、ロシア人は4万2600人。そしてこの戦争後、日本は帝国主義列強国の一国として太平洋戦争に向かって行く。累積され続ける死者と歴史と現在。
今日本はどうなのか。私は浮き世を憂き世と思う質(たち)からか、ごく限られた国以外、日本を含め多くの国々が、己が一番、己が正義で、帝国主義国家を今も目指しているように思える。だから、先の報道はより哀し過ぎる。

私はこの歌を、反戦といった社会的な歌とは思はない。
平塚らいてう(1886~1971)との「母性保護論争」からすれば対社会意識の強さや、晩年の「ありし日に 覚えたる無と 今日の無と さらに似ぬこそ あわれなりけれ」との歌から、旧家の跡取りの弟を通して社会[国家]に物申す思いは取れなくもないかもしれないが、やはりこの詩は純粋に弟を想い、同時にかつての自身が実家から与謝野 鉄幹のもとに走ったことを重ねた、切々とした情の歌だと思う。

2018年9月12日

『日韓・アジア教育文化センター』のNPO法人撤退に寄せて

井嶋 悠

『日韓・アジア教育文化センター』との名称でNPO法人に認証され14年、それまでの活動を入れれば25年になる。(現在、NPOとして認証されている法人数は、約52,000法人)
その間、妻の唱導で、京都人の私が関西から北関東の未知の地に、娘と愛犬共々来て10年が過ぎ、その娘を死出の旅に送って6年が経つ。また本センターの淵源とも言える尽力をいただいた河野 申之先生(学校法人睦学園元理事長)が逝去されて2年になる。

私は今年73歳、妻は71歳。世界トップレベルの平均寿命国日本の一員とは言え、残す時間は少なくともこれまで生きて来た時間の7分の1あるかないかである。
そんな私を、とりわけここ数年、ふと過(よぎ)る詩がある。

中原 中也(1907~1937)の、多くの人が、己が人生を顧み哀愁に浸る有名な一節「思えば遠く来たもんだ」で始まる詩『頑是ない歌』[詩集『在りし日の歌』所収]。その後半部分を転写する。

生きてゆくのであろうけど
遠く経て来た日や夜(よる)の
あんまりこんなにこいしゅては
なんだか自信が持てないよ

さりとて生きてゆく限り
結局我(が)ン張(ば)る僕の性質(さが)
と思えばなんだか我ながら
いたわしいよなものですよ

考えてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり
そして どうにかやってはゆくのでしょう

考えてみれば簡単だ
畢竟(ひっきょう)意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさえすればよいのだと

「人生は一行のボードレールにも及ばない」(芥川 龍之介)。これは折に触れしばしば引用される言葉である。

とは言え、高校の現代国語の時間でこれを言ったとしたら、限られた生徒以外、それも多くの生徒が、先ず思うことは「ボードレール、って?(名前と思うだけでも良しとするのではないか)」だろう。
そこで教師は説明しなくてはならないのだが、私の場合、文学史の知識程度……。(ボードレールは19世紀のフランスの詩人で、世界の詩人に大きな影響を与えた。)とか。
そもそも、詩とはこういうものとの説明すら、国語科教育の一領域である中国古典詩[漢詩]やビートルズの私の好きな曲『Let it be』を使って「押韻」という形式や伝統、日本語の場合、谷川 俊太郎さん(1931~)の詩集『ことばあそびうた』での詩人の悪戦苦闘を言って、更なる靄(もや)の中に追い込むことが関の山。
萩原 朔太郎(1886~1941)の詩集『月に吠える』の序の「詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。」は是非伝えたいとも思うが、これとて彼ら彼女らに茫々感を与えるだけとなって、ますます袋小路に。

「およそ健康な人間は誰しも二日間は食べずにすませられが、詩なしでは決してそうはゆかない」(ボードレールの言葉)などとは金輪際縁がない。
詩は“難しく”しかしどこか魅き寄せられる不思議なものだ。芸術で最も神(天)に近いのは音楽で、視、触れることのできる芸術で、最も音楽に近いのは詩だと言われる由縁かもしれない。【韻文】の美。

そんな皮相な私だが、西洋と日本では、詩の内容、指向また発表方法[朗誦]が、基本的に違うのではないか、と思ったりする。「神」への、ギリシャ文化[ヘレニズム文化]・キリスト教文化[ヘブライズム文化]を基層とした唯一絶対神的視座と自然神道を基層とした八百万神的視座、また両者の対自然観と言葉観において。中国の敬天思想は前者に近いように思う。

人生の在りようは各人各様。地球上の現人口数(約66億7000万人)だけの人生があり、過去にさかのぼれば無数としか言いようのない人生がそこに在る。無数の各人の生の歴史、意識した或いは無意識下での生の「創作」。虚構(フィクション)としての人生。己が一人一人の創作。
先ずそれがあっての真善美、芸術、と考えると、私にとっての美醜とか、善悪とか、快不快また好悪とかが、一体何なのか、分からなくなる。

私が『日韓・アジア教育文化センター』ホームページの【ブログ】に投稿するのは、虚構としての私の人生、とりわけ33年間の中高校国語科教師としての、加えて娘の死が厳しく突きつけた自照自省が根底にあってのことで、それが稀薄、曖昧となれば、先人の言葉の借用、引用は単なる自己弁護の衒(てら)いに過ぎなくなる。

芥川 龍之介は、彼が想い考える美を文学で追及し、夏目 漱石に愛され、幾つものすぐれた作品を世に問い、人生はボードレールの1行にも及ばないと言い、35歳で、愛妻と二人の子どもを置いて、己が手で、人生と創作の二つの虚構に、終止符(句点)を打った。それにとやかく言える人は誰もいないし、いわんや私が、である。

私は映画が好きで、20代(1960年代~70年代)には、やれフランスの、イタリアの、日本の××監督はどうのこうのとか、作品○○はどうだとかいった御多分にもれずの人類だった。
しかし、池袋の『文芸座』の深夜(オール)興行(ナイト)で、煙草の煙でかすむほどのスクリーンに向かって拍手し歓声を挙げている人たちと軌を一にできなかった私にとって、その光景は、今ますますもって遥か遠い昔物語となっている。
この何年かで言えば、当時若者に絶対的に支持された幾つかの邦・洋の作品を観直したが、単なる郷愁の一観客に過ぎないことを思い知らされた。しかしそれもまがう方なき私であって、それをとやかく言うつもりは当然ながらない。ただ、作品と言う虚構と人生と言う虚構を想い、生きる方途の改めての時機としたいとの私はいる。
これは江戸時代の浄瑠璃作家近松 門左衛門が唱えた芸術論[虚実皮膜]に通ずると勝手に思っている。

かの孔子は、最晩年(70代)「未だ生を知らず、焉(いずくん)んぞ(どうしての意)死を知らん」と言ったとか。紀元前の人物の70代と言えば、現在では100歳に相応するだろう。しかも思想、思索また行動の100歳。この一節、専門家の言説によれば、天をあまり問題にしなかった孔子が、天[運命]を語り出したことを示唆しているそうだが、私は前半部分に心が向く。
「人間(じんかん)到る処 青山有り」とはよく使われる言葉であるが、その前に、到るところで「時機」に出会うのが人生だ。或る時は自然態で自身の糧とし、或る時は人工態の露わさから時機は離れて行き、或る時は全く気付かず通り過ごし……。
NPO法人であることの公共性、効用性よりも、本センターの実績、歴史を基にした新たな継続を模索することを思い、本センター発起者である私は、委員(理事)の方々に撤退を申し出、了解を得ることができた。

 

これまでの多くの方々のご支援に感謝しますと同時に、今後「NPO」であることの“縛り”から離れ、私たちの事実[実績]を基に何ができるか、焦らず急がず模索し続けたく思っています。
『日韓・アジア教育文化センター』の名称はそのまま継続しますので、これからも心に留め置いていただければ喜びです。

 

2018年9月1日

中華街たより(2018年9月) 『日曜美術館』

井上 邦久

ご母堂の初盆で山口県に戻っていた中学一年生の頃の同級生から「マツノ書店の松野久さんが8月10日に亡くなったよ」、と残念な連絡がありました。
7月末に北九州への出講の帰りに徳山で途中下車し、古本の引取りにマツノ書店を訪ねた時にも、主は二階の仕事場に通えなくなったと伺っていました。
季節の折々に発行され愛読している入庫古書目録や復刻出版案内の小冊子『火車日記』には、地方で希少本を出版する難しさを飄々淡々とした日常記録とともに綴られていました。
昨年来、運転免許証返上のことや体調が芳しくない話題があり、加えて今年出される『久坂玄瑞史料』『子爵谷干城伝』以降は出版計画がないことを仄聞して陰ながら心配をしていました。

1960年代半ば、山口国体・東京オリンピックが続いた時代、戦前の海軍燃料廠址の出光石油を中核とする化学工場が連なる周南コンビナートが発展、大気汚染と海水汚染よりも高度成長に眼を奪われていた徳山市。その商業の中心は銀座通り、銀南街であり、松下百貨店でありました。
その百貨店と山口銀行の間の細い路地で古書販売と廉価良質の貸本業を営んでいたマツノ書店。昼夜働いても足りない購買力と図書館に通う時間も足りない母親の最強の味方でありました。
勤め帰りにマツノ書店に立ち寄り丹羽文雄・水上勉・松本清張・曽野綾子らの本を狭いアパートに持ち帰り、寸暇を惜しんで読むことが当時の勤労婦人の唯一の娯楽だったであろうと想像します。

時は流れ、周囲の百貨店や老舗の書店が廃業する中で、マツノ書店は貸本業を止めても、同じ間口の店で出版と古書販売を続けてきました。
帰郷の度に、種田山頭火句碑集、宮本常一の著作などの山口県関連本、邱永漢短編傑作選集、諸橋大漢和辞典全13巻などを安価で見つけるのも愉しみでしたが、それ以上に店内で半世紀前の時代の空気に接しながら「おまえはなにをして来たのだと・・・」という、中原中也と同じ自問をすることも一再ならずありました。

徳山駅は大改修が進みTSUTAYAの本・珈琲複合ショップと周南市立図書館が同居しています。図書館の文学のコーナーには単行本は無く文庫本だけ、という資本の論理が明快に露出した施設です。
駅から徒歩数分の一隅を照らしてきた松野久さんのご冥福を祈るとともに工業都市としての周南市、長州力の故郷としての徳山(彼も小学・中学の同級生です)だけでなく、菊池寛賞(2007年)に輝いたマツノ書店の文化の灯をともし続けてもらいたいと思います。

同じ徳山出身(出生は熊毛郡平生町佐合島)の久保克彦の作品を『日曜美術館』「遺された青春の大作~戦没画学生・久保克彦の挑戦」で観ました。
東京芸大に残され卒業作品を対象に深い掘り下げを試みた番組でした。徳山ゆかりの原田新さんとその妹、父親の久保周一(俳号:白船)と種田山頭火、戦没画学生の遺作収蔵美術館「無言館」を取り上げた上で芸大で後輩だった野見山暁治(1920年~)が語る「卒業の日をもって絵を描くのは終わり・・・絵を描く時間というか、生きている時間がここまでなのだと追い詰められる」という言葉の重さ。
反面、作品の洗練された色使いと構成の緻密さに日本近代美術の脂っぽい土着性から離れたものを感じました。友人の造形作家は「ものすごい大きさと構成力です。ピカソのゲルニカにも匹敵するスケール。しかも20歳前後の作品とは思えない完成度があります」と第一印象を伝えてくれました。
出征3か月、湖北省で戦死した画家の墓は佐合島にあります。
(9月2日20時からEテレで再放送)

8月15日、甲子園球場外野席で一瞬の静寂の中、正午の黙祷に連なりました。
個人的な恒例行事の3年ぶりの復活でもあり、球場のスタンドを昇り降りできる脚力体力の復活確認でもありました。

8月は、今年も敗戦の月でありました。