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2020年7月11日

不寛容な現代?

井嶋 悠

「新型コロナ・ウイルス禍」は人々に、人間について、社会について改めて考えさせる機会を与えていて、私もその一人である。

極限とも言える環境に置かれると。人間の本性が露わに見えて来る。自戒を込めて実感する。「自粛警察」との新語もそれを表わした一つである。
市民に求められている自粛を同じ市民が監視するとの意味。少なくとも私の感性を遥かに越えている。
私の中で警察と聞いて、感謝と敬意はあるが、一方で権力また権威を笠に着た恐怖が浮かぶ。だから自粛警察との表現に、甚だしいおぞましさを感じる。そこに正義感が加わるからなおさらである。
1945年生まれの私にとっては知識に過ぎないが、関東大震災や太平洋戦争時のことと重ねた指摘に接すると一層の激烈さが襲って来る。

コロナに感染した人を特定しネット等に曝け出し感染者を重罪人として排斥し、その人の行動経緯への誹謗中傷はもとより、「夜の××」に象徴される職業への平生は抑えていた差別感情の爆発とそこで生を紡ぐ地域住民への無配慮、そして人非人としか言いようのない、コロナ治療にあたる医療従事者たちとその家族を忌避し、例えば子息の入園を拒否する、等々。これが絶対正義であるとの恐るべき確信をもって、インターネットで、街中で、当然!匿名で広言し、市民分断を企み、ほくそ笑む人々、市民。

その実態を、例えば5月20日付け毎日新聞の社説では『コロナと不寛容さ 社会の強さが試されている』と題して記しているが、この不寛容との言葉に私は疑問を感ずる。人間はどれほどに寛容であろうか。人間は、多少の個人差はあっても、不寛容さを抱えているのが人間なのではないのか。だからこそ寛容な人への敬愛が生まれるのではないのか。
なぜ、寛容(寛大)の反対語である「苛酷」「偏狭」「狭量」を「厳格」に[東京堂版『反対語対照語辞典』より引用]使わないのか。不寛容(或いはそれよりやや強い語感の非寛容)を使うことにどのような配慮があるのだろうか。単に寛容を打ち消すことでの意味のやわらぎと明らかさを意図しているのだろうか。

言葉の力が怖ろしいことは何度も体感して来た。生涯の仕事が教師だったからなおさら実感し、思い起こせば冷や汗は今も噴き出る。生徒への言葉、生徒からの言葉、同僚同士の言葉。保護者の言葉。
一つの言葉が、人生を狂わせ、相手の喉を掻っ切る事実。だからこそ褒め、讃える言葉の生への力。
これらのことは今更言うまでもないことにもかかわらず、なぜこの無惨が起きるのか。

先の社説には「自粛生活のストレスと差別感情の助長」を言い、「社会の強さが試されている」と言う。
果たしてそれでこの恐るべき問題は解決するのだろうか。ストレスは人に限らず動物また時には植物でさえ、置かれた環境不適応から生ずる不安、恐怖、圧迫またそれらの複合としての心身の疲弊。苛立ち。それは老若問わず誰しもが、生ある限り持たざるを得ない。それがなぜ差別感情の助長になるのか、それとも人だけに特有の性(さが)なのか、私には今もってよく分からない。
そして筆者は社会の強さの必要を説くが、ここで言う社会の強さとは一体何なのか、個に帰して自問自答する己の強弱なのか、それとも社会の脆弱・強靭の意味なのか。そうだとすれば、それはどういう社会なのか、日本はまだまだ脆弱にして未熟と言うことなのか。そもそもそういう強い社会はこの現実世界に存在するのか、私の浅薄な頭はますます混乱するばかりである。

先日、社会学者西田 亮介氏(1983年~)の著書『不寛容の本質』を、その表題に魅かれて読んだが、昭和と言う時代と現在の乖離を説く氏の論説の中で、私が望む回答は見つけられなかった。ただ、次の一節に何かヒントが示唆されているように感じはした。

――過剰な楽観論と、やはり同じように過剰な悲観論が対立しているこの構図こそが現代日本の不寛容の本質ではないか。――

おぞましい流言飛語、更にはそれを内に留め過ぎて死を選ぶ人はなくなることはないだろう、と生の哀しみを思えばついそう言わざるを得ないが、量・質ともに減らすことはできるはずだ。それは幾つかの国が証明している。そこに導くのは大人の姿勢、大人が置かれている社会環境、そして大人としての教育観にかかっている。

先日、女子プロレスラーの木村 花さんが命を絶った。報道を読めば読むほど、テレビ局の、プロダクションの、そしてインターネットで誹謗中傷した大人が、彼女を殺めたとしか言いようがないではないか。よってたかっての惨殺である。そこに花さんはいても、花さんそのものは打ち消されている酷(むご)さ。テレビにはそこまで人権を蹂躙し、自己を正当化する権利が与えられているのだろうか。

先ず世の最前線にいる大人が意識を変えなくては、社会は変わらない。その時、教師の持つ意味は甚だ大きい。これも自戒を込めてのことである。
こんな教師がいた、と言うか教師にはその傾向が強く、多くは生徒愛を自認するのだが。

生徒(子ども)の思い、考えを聞いているようで聞いていない教師。結局は一方的に話し続ける教師。用意された結論へ限られた時間内で誘導する教師。中高校生の感性は瑞々しい。彼ら彼女らはとっくに帰着点を直覚している。言葉に出さない[或いは出せない]だけである。
聞き上手の教師は、本来の意味での話し上手である。能弁である必要はない。訥弁の話し上手。

そのためには時間が必要である。急いてはことを仕損じる、である。あれもこれもとあまりに忙しすぎる大人たち。それについて行かざるを得ない子どもたち。それが当たり前となっている社会。「快」を追い求め続ける社会とそれに振り回される大人。そして子ども。

今回の自粛はそれらにブレーキを、しかも強度なブレーキをかけた。自問自答の時間が増えた。自身の足りなさを他者に向けるのではなく、蛮勇をふるって自身に向けたいものだ。心の中の風通しのためにも。コロナ禍と言われるが、「禍福はあざなえる縄の如し」。それも一国レベルではなく世界レベルで。

寛容とは、元来「耐える」「我慢する」の意味だったとか。こらえ性のない大人は大人失格である。
日本は無宗教の国と言われるが、別の視点で言えば宗教に寛容な国民性と言うことではないか。