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2018年11月29日

「冬来たりなば春遠からじ」 (一)

冬・陰陽・高村光太郎

井嶋 悠

浮き世と憂き世、一喜一憂の人生をどうにかこうにか過ごして来て73年が経った。
ふと思う。この期に及んで私のこれからの「春」は何だろう?と。あるようでなく、ないようである…。
「冬」を死とすれば、もう春は来ない。そんなことはない。落葉の樹々は生命(いのち)を内に秘め、じっと春を待つ。冬は冬で確たる存在でなくてはならない。でないと私も途方に暮れる。

ただ冬は、待つことに、忍ぶことに想い到る季節には違いない。それは老いの最中に在るからよりそう思うのかもしれない。
先日、3年前に定年を迎えられた敬愛する研究者から「命ある限りはできるだけ悔いのない生活を送りたいと思っていますが、定年後の生活もなかなか大変ですね。」との便りをいただいた。
それぞれに現職の時にはなかった待つこと、忍ぶことを体感しているからなのだろう
高齢化、長寿化との言葉の重さ。

と言った人生訓的なことではなく、私はここ数年、季節としての冬そのものの苦手度が高くなっている。北関東の地に移住したことも影響しているかもしれない。と言っても、毎冬報道される豪雪地帯の人々の、時に死と隣り合わせの刻々を知れば何とも勝手にして不謹慎なことで、娘の生前に「人間にも冬眠の体系(システム)があればいいのになあ」と言い、苦笑をかっていた小人(しょうじん)である。
霊魂満ちる浄土は、のどかな春の陽光に溢れ、草花樹々を潤す甘(かん)雨(う)が包み込む、そんな風土を思い浮かべるが、冬はあるのかしらん?
因みに、娘は生前「オトンは(私への彼女の呼び方)直ぐに結果を求めすぎる。」と指摘していた。

南北に長い日本ゆえ一概に四季の感慨は言えないが、それでも季節の移ろいへの感受性が豊かな民族だと思う。中でも春と秋への思い入れは、萬葉人(びと)以来の日本人の心性だが、冬はどうも自然美感とは遠いのではなかろうか。
例えば、奈良時代の山上憶良は『貧窮問答歌』で、現代文明とはほど遠い衣食住生活にあって、憶良の赴任先北九州で、寒さに耐え忍ぶ貧しい三世代家庭の様子と、里(さと)長(おさ)が鞭をもって彼らをがなり立てる、そんな世の不条理を切々と描き出しているし、あの清少納言は「春はあけぼの・夏は夜・秋は夕暮れ」と各季節の自然観照を言いながら冬となると「冬はつとめて(早朝)」で、宮中の早朝の女房たちの様子、人為を描き出す。
確かに、雪への、また落葉樹や稲を刈った後の田畑等への、自然観照はあるが、あくまでも「介しての」それであって、他の季節のようにその中に入り在ってのそれではないように、わずかな鑑賞経験からに過ぎないが、思われる。
しかし、玲瓏(れいろう)とか冷冽(れいれつ)、また深閑といった言葉を知る時、詩人には全く遠い人間である私でさえ、冬の与える深い想像力を思う。

そもそも詩には母性性が根源にあるように思う。それもあってか、神に最も近い芸術は形のない音楽といわれ、その音楽に最も近いのが詩と言われる由縁なのだろう。それは私の中で「母性原理」とつながる。しかし、母性原理だけで世界が構成されているわけでないことは自明のことで、母性原理と父性原理の微妙な響き合いに私たちは生を育んでいる。

中国に端を発する陰陽思想は、日本人の中に深く沁み入っている。陰陽は表裏一体で、それがあってこその自己と他者であり、自然であっての「陰陽互根」との考え方が言われるのだろう。
では、古人は陰陽それぞれ、具体的にどう考えたのだろう。一例を挙げてみる。

【陰】 冬・闇・暗・夜・柔・水・植物・女
【陽】 夏・光・明・昼・剛・火・動物・男

そして、日本神話での太陽神天照大神とその弟で、素戔嗚(すさのおの)尊(みこと)の兄である、月読(つくよみ)の命。
東南アジアや南太平洋にもこれと同様の兄弟姉妹関係の神話がある旨聞いたことがあるが、神話がその地の人々の心の反映とすれば、日本人性或いは原像に想い馳せる楽しみがある。太陽と月が醸し出す、日本像、日本人像。ただ、月読の命はあまり登場の機会がないようだが。

春と秋が、陰陽の間(はざま)の微妙な移ろいにあることが改めて知らされ、日本人の繊細な感性に思い到る。
また女と男。今日の「男女共同参画社会」なる言葉が、図らずも日本のあまりの後進性を明示しているではないか。

そこから想い及ぼす詩の存在位置と先程挙げた[玲瓏・冷冽また深閑]の想像性と陰陽。

それらのことを近代日本の4人の詩人に垣間見たい。私の冬の心得、春の到来祈願のためにも。
このとき、私が引き出す蔵の抽斗(ひきだし)は、中学高校の国語教科書である。私の33年間の職業だったのだから。ただ重厚さとは無縁の、また研究者然とは無縁の、懶惰(らんだ)にして酒好き教師の、空(あき)だらけの蔵である。

小中高大或いは中高大一貫教育を標榜する学校(多くは私学かと思う)には、教科書など一切使わない授業を実践する人もあるが、「教科書教科書教える」ことでの、生徒各個の、自身による自己発見の可能性の広がりを、今、自省的に思うことがある。

本筋に戻る。

今回採り上げる最初の詩人は、「冬の詩人」とさえ言われる高村 光太郎(1883~1956)。
最初の詩集『道程』が刊行された1914年10月、彼32歳、その2か月後に運命の人長沼 智恵子と結婚。
その『道程』で、凛とし厳とした詩人の姿を瑞々しい感性溢れる10代の若者に伝えたいからだろうか、必ずと言っていいほどに教科書に採り上げられる『冬が来た』

きっぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いちょう)の木も箒(ほうき)になった

きりきりともみ込むような冬が来た
人にいやがられる冬 草木に背かれ、
虫類に逃げられる冬が来た

冬よ 僕に来い、
僕に来い 僕は冬の力、
冬は僕の餌食だ

しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のような冬が来た
上記の詩の少し前のところに『冬が来る』がある。抄出する。

冬が来る
寒い、鋭い、強い、透明な冬が来る  (中略)
私達の愛を愛といつてしまふのは止さう
も少し修道的で、も少し自由だ

冬が来る、冬が来る
魂をとどろかして、あの強い、鋭い、力の権化の冬が来る

 

偉大な彫刻家・高村 光雲の子として生まれ、10代半ばから様々な書物に親しみ、父が奉職する現東京芸術大学に進み、彫刻と文学の道を歩み始めた光太郎。25歳で渡英し、後にフランスで大いに学ぶも、どうにもならない落差を感じ、劣等感を負い、27歳で帰国の途へ。そして美術と文学の世界を邁進する。以後、堰切ったように詩作に没頭するも、身辺での幾つかの負担事もあり、精神不安定な時を過ごす中での智恵子との出会い。当時、智恵子は、平塚 らいてふ等の機関誌『青鞜』で挿絵を描いていた。

更に『道程』から『冬の送別』の一部を引く。

冬こそは歳月の大骨格。
感情のへ手。
冬こそは内に動く力の酵母、
存在のいしずえ。

冬こそは黙せる巨人、
苦悩に崇高の美を与へる彫刻家。

(中略)

冬の美こそ骨格の美。
冬の智慧こそ聖者の智慧。
冬の愛こそ魂の愛。

おう冬よ、
このやはらぎに満ちた
おん身の退陣の荘厳さよ。
おん身がかつて
あんなに美美しく雪で飾った桜の木の枝越しに、
あの神神しいうすみどりの天門を、
私は今飽きること無く見送るのである。

 

藝術と智恵子と己が生への激情が向き合う冬。玲瓏で。冷冽な世界に厳然と向き合う光太郎。
その12年後の1923年の関東大震災が自身の心を苦しめ、1931年に発症した智恵子の精神の異常が1938年の死に到ることを、また太平洋戦争下で「日本文学報国会詩部会長」に就任し、戦後そのことを苛(さいな)み、自責することになる、そんな光太郎を誰が想像し得ただろうか。
1950年、彼68歳時に刊行した詩集『典型』所収の『脱卻(だつきゃく)の歌』(卻は現在「却」)で次のように詩っている。

廓(かく)然(ぜん)無聖(むしょう)と達磨はいった。
(中略)
よはひ耳順を越えてから
おれはやうやく風に御せる。
六十五年の生涯に
絶えずかぶさつてゐたあのものから
たうとうおれは脱卻した。
どんな思念に食ひ入る時でも
無意識中に潜在してゐた
あの聖なるものリビドが落ちた。 [注:リビド リビドー 生と心のエネルギー]
はじめて一人は一人となり、
天を仰げば天はひろく、
地のあるところ唯ユマニテのカオスが深い。 [注:ユマニテ(仏語)ヒューマニティ]
(中略)
白髪の生えた赤んぼが
岩手の奥の山の小屋で、
甚だ幼稚な単純な
しかも洗ひざらひな身上で、
胸のふくらむ不思議な思に
脱卻の歌を書いてゐる。

尚、この詩集『典型』の序で、彼は次のように書く。

「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあって、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、一つの愚劣の典型を見るに至って魂の戦慄をおぼえずにゐられなかった。」

更には、死の一年前にこんなことを言っている。

「老人になって死でやっと解放され、これで楽になっていくという感じがする。まったく人間の生涯というものは苦しみの連続だ」

〔古代から現代までの、日本の様々な人々の辞世の言葉を集めた書『辞世のことば』1992年刊]より引用。

私は、高村光太郎と生まれ育った環境も人生も全く異にする人種で、「子を持って知る親の恩」を、しみじみ噛みしめる不埒者に過ぎないが、彼の心の変遷に共感を抱く。
青年時代の激情への観念的共感、晩年の諦念にも似たようなものへの実感的共感。
彼が心底に抱いていたと思われる太母(グレート)観(マザー)、大地への母性感。

彼は、『典型』にも書かれてあるように、戦後、岩手の小村に移り住んだ。しかし、日々、孤独に過ごすのではなく、土地の人々と積極的に交流を深め、村人への啓蒙的なこと等、様々な活動をしたとのこと。やはり彼は意志の人だったのだろう。私にはそれがない。

次回では、萩原 朔太郎・北原 白秋・三好 達治のほんの一部だが採り上げ、更に冬に思い巡らせたい。

2018年11月18日

自由[FREE]であるということ~安田さん解放報道に接して~

井嶋 悠

私たち『日韓・アジア教育文化センター』が、NPO(非営利活動)法人の申請をし、内閣府から承認されたのは2004年9月17日のことである。当時は、事務所が2県〈私たちの場合、大阪府と兵庫県〉にまたがるときは、都道府県でなく内閣府であった。
後に、すべて主たる事務所の在る都道府県の管轄となり、10年前、代表(理事長)の私が栃木県に転居したため栃木県(庁)内となり、毎年度末の報告書類は、それまでの内閣府から栃木県となった。他に税務署(国税局)も関係するが、私たちの場合、従事者すべて無償であったので特に問題はなかった。ただ、法人県民税納付で免除申請制度があり、幸いにも認められ、税務関係での年度末手続は派生しなかった。

今、全国でNPO法人は52,000余りあるとのこと。それらの法人が、毎年所属都道府県に報告書を提出しているわけである。
年に一回とは言えこの煩雑さは、事務能力の無い私ゆえなおさらのこと、光陰矢のごとしは益々実感せられ、常にその憂鬱さに追われている心持ちであった。

にもかかわらず申請したのはなぜか。
法人が持つ公共性の説得力と公益性といった、信頼感への期待であった。いわんや、日本だけでなく、韓国、中国[香港・北京]・台湾の人々で構成されているのだから。
活動は、主催企画への助成金獲得も数年続き、また若い映像作家やデザイナーたちとの出会いにも恵まれ順調に進んだ。[詳細はhttp://jk-asia.net/を参照ください。]
しかし、私の勤務校退職(一応定年退職)や栃木県への転居から数年経ち、組織の維持、継続に難題が立ちはだかることになる。

理由は二つ。
一つは、「非営利」とは言え、収益事業が定期的にあっての運営、継続であることの痛感。
一つは、栃木県が目指す県と企業や法人等との協働推進と私たちの目指すことの方向性の違い。
だからなおのこと、全国の52,000余りの法人の浮沈に実体験から正負いろいろなことに思い及ぶ。

私たちは今年2018年9月2日,NPO法人から撤退を決議した。法務局登記上は「解散」であるが、私たちは、これまでの活動実態の継続を願い、あくまでもNPO法人からの撤退であり、実質は全く変容していない。
ただ、この手続きも、何度も栃木県県庁所在地・宇都宮法務局(往復約3時間)を訪ね、幾つかの書類の書き方等教示を受け、書類を整理提出し、数日後登記に解散が明記されても「清算結了登記」を別に申請しなくてはならない。かてて加えて県庁担当課にも提出しなくてはならない。

認可後間もなく経ったとき、韓国の或る人曰く。「それだけ拘束(しばり)があっても助成金はなし?!」
形式と内容(実質)に係る違和感。
しかし、解散登記が受理されることでの、安堵と実感する開放感。自由感。と同時にふと過る不安感。

そして改めて考えさせられる「NPOって何?」
メリットは?先に記した公共性、公益性という名目での庇護。 デメリットは?諸規定による煩わしさ。否、これは、私の運営資金のための日常事業活動の意志と発想収集と実践力不足の証しだったのだろう。10人以上の「社員」が申請条件の一つだったのだから、なおさらのこと私の責任…。「自己責任」…。
この経験からの顧みは、先述した栃木県の「協働」指向の背景ともつながる。

このことを国或いは地方自治体側からすれば、国或いは地方自治体に自身たちの責任で申請し、それに対し、承知したということは、公的“お墨付き”すなわち「権威?」を与えたのだから、報告義務は、その形式がどうであれ、派生して然るべきことであり、撤退するならどうぞ、ということになる。但し、「立つ鳥跡を濁さず」、規定に従い円滑にされたし、と。
とは言え、そのお墨付きが、今52,000余りあるということには、どうしても合点行かない私がいる。
この経験が、改めて自由について考えることになったのだが、それに大きな拍車を掛けたのが、フリー・ジャーナリストの安田 純平さんの解放、帰国であった。そこで、私がこだわった言葉が、「フリー」と「自己責任」である。

安田さん自身、2004年の新潟での講演で、以下のような発言をしている。
――フリーのジャーナリストというものは、紛争地域であっても事態の真相を見極めるためにリスクを負って取材に行くものだ」とし、「常に『死』という自己責任を負う覚悟はできている」と。――
また、 ――冬山の遭難者やキノコ採りのお年寄りも、自己責任ということか。政府に従わない奴はどうなってもいいという風潮が、国民の側から起こり始めている」として、「政府を無条件に信用する国民が増えてしまい「民主主義の危機」を痛切に感じている」。――

他にも、政府に対して、
「日本政府を『自己責任なのだから口や手を出すな』と徹底批判しないといかん。」
「日本は世界でもまれにみるチキン国家。」
「現場取材を排除しつつ国民をビビらせたうえで行使するのが集団自衛権だろうからな。」
などと、痛撃を加えている。

日本国憲法での、「公共の福祉に反しない限り」との制御を共有―この共有が、例えば道徳上云々同様、時に難しい課題にはなるのだが―した上で、[基本的人権の尊重][思想、表現等の自由]を出すまでもなく、上記安田さんの発言をとやかく言うつもりはない。ただ非常に過激ではあり、だからより考えることになった。
しかし、行政や政治家の第一の義務であり責任である、国民各人の幸福を追求する権利を守り、実現に導くとの視点に立ったとき、フリーであることと自己責任のことが私の中で混乱し始めたのである。
簡単なもの言いをすれば「フリーなんだから放っておいてくれ」と言われ、国(国家)は、「はいそうですか。お好きにどうぞ」と言えるのかどうか、これは国としての責務[義務]の放棄ではないのか。
それともすべてに対応は不可能なのだから、犠牲は或る程度やむを得ない、との別の表現なのだろうか。

私の知人にフリー(本人はフリーランスと表現している)で仕事をしている人がいて、彼の場合、半分はフリーで、半分は一つの組織に所属している。なぜか。生活としての、より多彩な仕事成就としての、生きるためである。
また、日頃こんなことを言っている知人もいる。事実かどうかは制度上を含め確認していないのだが、「無国籍であることの自由さを大事にしたい」と。

「自由人」という言葉の響きは心地良い。しかしフリーランスで生を築く人との意味では、厳しい現実を思い知る。
私は今、年金生活者である。(尚、年金生活者と言っても多様であり、その現在と将来に問題が指摘され、年金等、先進国を矜持する日本の福祉と施策の惨状は周知のことである。ただ、ここではこれ以上立ち入らず、概括的な意味で使う。)
死は解放(死が解放?)との考え方に立てば、より自由人に近づいたと言えるのかもしれないが、要は自身の意思、意識の問題なのだろう。

父は、人生の前半は勤務医であったが、後半は開業医であった。後半期、例えば、患者さんが父を前に「風邪のようで…」とでも言おうものなら、「それは私が判断することだっ!」」と叱責するほどで、時には患者さんに向かって「もう帰れっ!」とまで言うほどの個性(あく)の強い医師であった。その父が晩年、「俺のような医者は俺で最後だと思う」と、何処か寂寥感の響きでぽつりと私に言ったことがある。 そんな激しさを持った父は、一方でしばしば泥酔していた。

自由人は、人間の孤独を身をもって直覚し、それを克服し、真に孤独を自覚してこそ為し得るのだろう、と私は思う。生易しいものではない。私には遠い人ではあるが、先に言ったように距離は近まっているようにも直感する。
ただ、これらは大人の世界のことで、その大人に向かう途次のことではない。一部の若くして死を迎えざるを得なかった人々を除き、多くの人はその途次を経る。

私学の中高校教師時代、様々な公私立の中高校教師と会話する機会を得た。 と同時に、私もその中高校時代を経て来た一人であり、自由と学校に係る多種多様な経験をし、生徒(同世代)を知った。

私が、
中学生で知った、生徒の校内外での、更には教師への暴力事件と教師の無力と社会背景の自覚。
高校生で知った、学習と進学と大学名の問題。
大学生で知った、己の無気力と引きこもり。
大学院生で知った、学生運動と傍観することの自責。
東京放浪時代に知った、己が人間的限界。
教師時代に知った、教師であることと大人であることの揺れ。
これらの体験から10代の生徒たちに思うこと。 それは、複雑微妙な10代で「自由」について思案し、試行錯誤し、生きることと己が自由観の入り口をつかんで欲しい。

英文学者であった池田 潔(1903~1990)の『自由と規律』(1949年刊)は、青春時代の必読書的一冊として今も引き継がれている。
しかし、これは上層(上流)家庭に生まれ、17歳で渡英し、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学につながる、非常に限られたエリート集団であるパブリックスクールでの筆者の体験書で、昏迷混濁する現代日本に今も有効性を持つとは思う。
ただ、その底流にあるものを考えなくては、「自由の前提としての規律」といった単なる、それも特別な階級(階層)環境の、特別な学校での経験を通した道徳本に堕してしまう。

では底流に在るもの・こととは何か。
自身の存在が誰かによって認められ、自己確認の情を直感し、それぞれに自尊への思いを抱くことではないか。
生徒は生徒の年代での、教師は教師の年代、人生経験での、大人としての、そして育む愛の、もたらし手としての。
そのそれぞれの自覚から生まれる教師と生徒の信頼関係、相互敬愛心。 当たり前過ぎることであるが、現実はどうか。
あまりに各々相互の、生徒教師間の懐疑、軋轢、不信がギスギスし過ぎていないか。
もっともこれは、どんな中学高校を思い描くかによって変わることで、私が直接間接に知った例を挙げる。
3校の女子校と1校の男女共学校(すべて私立)の例。
ここでの共通主題は「自由」で、内3校は服装自由、1校は制服校。尚、1校は高校のみで、3校は中高一貫校である。

A校:創立以来、服装規定なし。特に問題となる服装はなし。但し、一時期、高校卒業式での華美さが問題となったが、生徒同士の批評も影響したようで、後落ち着く。

B校:創立以来、基本は私服で、行事等によっては制服使用(「標準服」制度)。服装の自由が拡大し、授業中に机上に飲み物を置き始め、教員間で問題となるも、時の校長の断で自由となる。

C校:創立以来、服装規定なし。ピアスを某生徒がつけたところ問題となり、その生徒と、禁止を言う校長の「自由」に係る議論の末、生徒は自主的に退学、転校。

D校:以上の例を知り、制服規定のある学校教師が発した言葉。「ウチでそれやったらメチャクチャなことになる」

【備考】某私立男子中高(大学)一貫校の例と限られた公立校の例

○中学高校は同一敷地内にあるものの、校舎も教員も校則(学校方針)も全く別。 中学:制服があり、徹底的に管理指導する。 高校:全く校則なしで、すべて生徒の自主性に委ねられる。

○公立高校によっては、自身で時間割を編成し、それに合わせて登校する私服校もある。

これらの差が生ずる要因の一つ、或いは決定的とも思えるそれは、自身の所属する学校への、及び自身 への「自尊」に係る意識、感情の高低ではないか、と。 その感情起因は学力差或いは偏差値差。入試問題の難易度。そして進路進学結果の社会的評価が大きく彼ら彼女らの心を覆っている。
生れてわずか十数年での被格差感情。 これらはやむを得ない現実として受け止めるべきで、ことさら俎上に上げること自体が、やはり無意味なことなのだろうか。 しかし、それでも次のことに思い及ぶ。

☆入試と塾・予備校在籍と中学高校在籍校学習との問題。
⇒塾・予備校を廃止したら、各学校段階でどのようなことになるのか。
【補遺】
○高い志をもって創設された或る私立校での場合
塾教育批判を掲げていたが、後に学校[各教師]が描く教育実践が、
学力不足でできないとの不満に変わって行った例がある。この問題の
背景に在ることとは何だろうか。
○新聞全国紙の塾・予備校教育論と毎年の大学合格状況、偏差値情報の
矛盾

☆家庭の経済力と学力の問題と教育の機会均等の問題。
⇒教育の無償化がもたらすことは、結局経済的余裕のある家庭への恩恵になるのではないか。そうならば、ではなぜそうなるのか。

☆各個を活かし育む教育の問題。
⇒多様な価値観、人間観があっての社会、との意識と学習内容の多様性は為されているのかどうか。

☆「不易流行」と教育の問題
⇒世界の中の日本の在りよう像に関して、国民間で共有できているのかどうか?  なぜ今、日本型?「インターナショナルスクール」が乱立的に開設されているのか。

これらの事例から、限られた選択の自由、結果としてある自己責任について、子どもや家庭(保護者)にその原因を帰することができるのであろうか。
各学校段階の入試方法として「考える力」「表現する力」云々と改革が言われているが、そもそも可能な限り客観的評価をどうするのか、また入学後どのような指導を行い、次にどう備え、送り出すのか、各学校段階でどのように検討され、実践されているのだろうか。

今、少子化にして高齢化だからこその千載一遇の時機と考え、学校と教育、教育と学力について、背景にある社会観と併せて再考する視座は、大学の大衆化による負の側面が顕在化し、高校卒業後の、また大学学部卒業後の進路に多様化が進む現在、必要なことではないのか。
人生のごく初期段階で、しかもあまりにも限られた時間内(数年間)で、人格さえとまで思えるほどに優劣意識を持たせ、持たされることが、果たして日本にどれほどの有効性を持ち得るのか、甚だ疑問である。

安田純平さんは、大学までの過程とフリー・ジャーナリストへの高く、強い自尊の人だと思う。氏は私には遠く及ばない人のように思えるが、解放以後の報道に関して、少なくとも氏を英雄視することには抵抗がある。しかし、帰国後の氏の幾つかの発言から、氏の繊細な人間性のようなものも同時に感じている。それが私の感傷からの思いなのか、理知からのそれなのかは未だ整理できていないが。

2018年11月9日

多余的話 (2018年11月) 『11月3日』

井上 邦久

「上海歴史散歩の会」顧問のC教授夫妻の要求にはかなり厳しいものがあります。
C教授は日中交流史の調査研究や学会参加のために屡々来日されます。令夫人も日本に留学し歴史を専攻されており東京弁と写真撮影に秀でています。そのお二人と日本で散歩する時「歴史を語れる場所」「写真撮影を楽しめる場所」「印象に残る料理屋」そして「外国人観光客が訪れない静かな場所」という四条件が基本要求となります。

過去、北品川では四条件を満たすことが出来ました。品川神社(徳川家康が関ケ原へ向かう前に戦勝祈願した縁から幕府の加護)や荏原神社(明治元年、天皇東京行幸の際に立ち寄った縁から皇室の加護)という歴史の交差点が北品川にあります。旧東海道ゆかりの寺や石碑も多い商店街で繁盛している「そば処 いってつ」で新海苔・浅利生姜煮・蕎麦味噌から始まり、東京の地酒「澤乃井」が進みます。かき揚蕎麦まで箸も進んだ後の腹ごなしに御殿山への坂を上り、大使館や高級住宅街の一角に佇む原美術館まで歩きました。
幕末の志士・明治の米国官費留学生・大正の金融界の重鎮であった原六郎の住宅址に創られた原美術館はいつも静かな都心のエアポケットのような空間です。クラシックな建築とモダンアートの融合を体感してお開きとしました。

大阪で合流した時は、JR新快速で石山へ。瀬田川を遡った山間に豪農の屋敷跡を訪ね、三段弁当を食べた広間や茶室では令夫人のカメラが大活躍しました。
石山寺ではさらりと流し読み風に見物したあと、京阪石山寺駅からレトロな路面電車に乗り、たびたび歴史の分岐点となった瀬田の唐橋を眺めては壬申の乱・源平の合戦へ思いを馳せました。暮れなずむ琵琶湖沿いを浜大津へ、そして逢坂山越えの京都三条までの移動をしている観光客は内外問わず見かけませんでした。仕上げは京阪特急で一気に大阪へ移動して、京橋駅下の居酒屋での鯨飲でした。歴史の要素が若干乏しかったと反省しました。

この秋、学会に参加するご夫妻から京都七条に宿を取ったとの連絡がありました。散歩コースについては言外に四条件を滲ませながら「お任せします」とのことでした。
扨て、今回は?と思案して「世界が注目する伏見稲荷大社」ではない静かな伏見に決めました。
京阪七条駅で待ち合わせ、伏見桃山駅で重い荷物を預けてから近鉄桃山御陵前駅前の親切な地図を利用して、丘陵から武家屋敷跡、町人町址そして酒蔵が並ぶ水辺までの地勢をおさらいしました。京阪電車・近鉄電車そしてJR奈良線の線路が並走しており、大手筋通は三つの踏切をあっさり越えていきます。大和から、大坂からの街道や河川水運の拠点の伏見港が一つの束のように集まる京都東南部の地に、秀吉は伏見城を建て、家康は伏見奉行所に小堀遠州を据えて禁裏・武家・豪商そして文化人を結んだ「寛永の雅」をプロデュースさせたのもむべなるかなと思います。
慶応4年(改元後の明治元年1月)の冬、この地で鳥羽伏見の戦の火ぶたが切られ、戊辰の役の歳が明けていったことは正に言わずもがなのことだと思います。

伏見桃山御陵とは明治天皇の陵のことで、近接する東陵には皇后の陵墓があります。駅から続く大手筋通を真っ直ぐ登り、樹々に囲まれた人けのない砂利道を歩くと、桓武天皇柏原御陵に通じる脇道がありました。しかし台風による倒木被害が著しく通行止めでした。やがて開けた空間に明治天皇の上円下方墳が見えてきて、C教授はその時の印象を、

宁静的山上,没有显赫的标志与警备,只有一片高大的杉树林。

(寧静なる山上、ことさらな標識や警備もなく、ただ高大なる杉の樹林があるのみ)と綴られています。

東京の明治神宮とはまったく異なり、「明治150年」などと喧しい世俗から遠く離れた、言わば忘れられた空間で三人は暫し感慨をもって過ごしました。

明治天皇の遺言で伏見城址を陵墓として定められ、且つそこは桓武天皇陵に程近い処でもありました。平安京を拓いた天皇と平安京を棄てた(捨てさせられた)天皇がすぐ近くで眠っていることへの感慨がありました。
小雨も降り始めたので元の道を下り、150年前の激戦地の御香宮神社で雨宿りしました。

そこで見かけたポスターには「11月3日は明治天皇の誕生日なので揃って参拝しましょう」とあり、幟を立てた集団参拝の写真がありました。その写真の賑々しさと体験したばかりの静かな空間との落差にも感慨がありました。
昭和二年に、明治天皇の誕生日(天長節)を「明治節」として祝祭日と定めており、その名残が「文化の日」に変化したようです。

「文化の日」の確かな定義はよく分かりませんが、その日は晴れるという気象統計で知られ、統計通りにいかない競馬の天皇賞前後であり、文化勲章や序列の意味も知らない各種勲章が大量に叙されるといった季節の祝日としての「文化の日」であり、明治節は忘れていました。
それよりも新聞の読者投書爤で見つけた「11月3日は日本国憲法の誕生日」という表現が新鮮でした。1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に発布されたので後者が憲法記念日とされて黄金週間を形成するので意識して来ましたが、11月3日と日本国憲法との関係はトンと忘れていました。
となると、明治天皇と日本国憲法の誕生日が同じ日であるということに今頃になって気づいたというお粗末な話です。
神社から少し歩くと京町通、鳥羽伏見の戦いの弾痕を格子に残す料理屋「魚三楼」で遅い昼弁当を食べ、足を休めました。そこからはお定まりの転落コースに陥り、月桂冠の工場「見学」をした後、吟醸酒房「油長」での伏水(伏見)の酒の呑み比べはC教授のオゴリでした。

四条件には、更に伏流した条件として「日本酒」が存在していますが、令夫人の手前もあり不文律扱いにしています。ですから、「歴史を語っても酒がなければ、単調であり味わいに欠けるよね」といった自己弁護の会話は歩きながら声を潜めてしています。

ただ、人のつきあいには明文化された「条件」より「不文律」が大切な時もあります。
これは「法治」とか「人治」とかの難しい問題とは別の世界のことであり、これもまた、言わずもがなの話(多余的話)です。          (了)

2018年11月8日

『民藝運動』の心を、今、再び・・・ ―柳 宗悦への私感― Ⅱ

内容[その二]

怒りと不信の今、日本らしさを柳 宗悦から学ぶ


補遺・朝鮮観

井嶋 悠

日本は、いったいいつのころから、世界で、とりわけ文明世界にあって、恥ずかしいほどの男女格差が生まれたのだろう。 殖産興業、富国強兵の明治のスローガンと世界への、途方もない代償を払った戦敗を経験しながらも、勇猛果敢、猪突猛進からの150年がそうさせたのだろうか。工業化=近代化としての。もしそうだとするならば、19世紀前後に起った産業革命の発祥地イギリスとはどこがどう違うのだろう?また18世紀での、フランス革命の歴史を持つフランスとは?そして独立革命のアメリカとは?

「維新」との語義を確認すれば、日本の場合、革命ではなく、ある種の政権交代であったとも言えるのではないか。表層的見方からの男世界としてのサムライ文化〔武士道精神〕を厳然と底に置いた変革。男性中心主義から行われた限られた文明開化。だからこそ早々の明治後半期から大正期の女性解放運動、民主主義運動が起ったのではないか。
敗戦後わずか11年にして「もはや戦後ではない」と言わしめたのは、朝鮮戦争特需もあっての経済世界のことで、心の部分での民主化は遅滞のままであったのではないか。

私は男性の一人として「主婦・主夫」或いは「専業主婦・専業主夫」との言葉が、1970年代以降定着化しつつあることに期待を寄せている。 これまでの私なりの生の中で出会った優れた女性は枚挙にいとまがない。ここで言う「優れた」とは、広く人間力の意で、女子校に20年勤務した経験からも、子どもも大人も同じである。 「適材適所」に性差はない。いわんや少子化そして高齢化(長寿化)時代。教師は、保護者は、社会は従来の先入観を払拭し、【個】をしかと見つめるゆとりを持って欲しいものだ。やはり思う。学校教育の制度も含めた根本的(ラディカル)な改革の必要を。

柳の女性観については、『食器と女』の中での次の発言からわかる。

「特にいつかは主婦ともなられる女の方々は台所で働かれ、料理をこしらえ、食卓をととのえることが、日々の行事なのですから、どうしても食器を手にされる機会が多く、従ってよい選択をすることは、女性が背負う運命的な任務だと思います。それ故、とりわけ女の方々は、高い趣味性を養われるべきだと思います。そういう教養あるかないかは、一家の生活内容を随分左右するでありましょう。」

この言葉を、あの「百均」で見かけた微笑ましいカップルに伝えたらどんな反応をするだろう?困惑するだろうか。それとも、同意するだろうか。

と言う私は「運命的な任務」との強い言葉に、時代(1950年前後)と柳の生まれ育った環境を想いつつも、このような女性に魅かれる私もいる。とは言え、やはり性差をここに持ち込むことには抵抗がある、と70有余年様々な事を経験し、自問を繰り返して来た私は、いささかの複雑微妙な感覚にある。

今回、柳を通して、現在の日本での男女格差を出したのは以下の理由からである。

・日本は女性原理、母性原理を基とした国であるということに思い及ぼすことの現代での意義。

・その母性原理とは、「元型としての〈グレート・マザー〉をとおして、包み込む」(中村 雄二郎『術語集』より)ことであることについて日本人が考えることの意義。

・詩人・三好 達治の詩にある「海には母がいる」に触発されて言えば、今、その漢字は合理化(効率化)され「母」は「毋」となっていることと現代日本について。

・鈴木 大拙は『妙』(1964年)の中で、「柳君(注:柳 宗悦のこと。以前にも書いたが、柳が学習院に在学中の薫陶を受けた教師の一人が、鈴木 大拙である)は、美ということをいうが、私のほうでは妙といいたい。」と述べ、
その妙について「精神と物質との奥に、いま一つ何かを見なければならぬのである。二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相克・相殺などということは免れない。それでは人間はどうしても生きていくわけにはいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものがひっきょうずるに二つでなく一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならない。これが霊性である。」と、その著『日本的霊性』(1944年刊)と書いている、そのことについて。

・無とはすべてを受け容れることでの無である、とすれば、無宗教の国日本の存在が視えて来るのではないかとの考え方について。

先の鈴木大拙や柳宗悦また岡倉天心たちに大きな影響を与えた老子(紀元前5世紀の、孔子とほぼ同時代の中国の思想家)は、その著『老子』の次のように言っている。

「名無きは天地の始め、名有るは万物の母。故に常に無欲にして其の妙を観、(中略)玄[注:人間の感覚をこえ、あらゆる思考を絶した深い根源的世界を表わす]のまた玄は衆妙の門なり。」

「谷(こく)神(しん)は死せず、是を玄(げん)牝(ぴん)と謂う。玄牝[注:女性であり、母性を表わす]の門、是を天地の根(こん)と謂う。」

蛇足を言えば、日本の母神は天照大神であり、最初に統一国家を為し遂げたのは卑弥呼であって、西洋とは根本的に違い、そこに日本の女性性と西洋の男性性を言う人もある。

だからなおのこと、「男女共同参画社会」とのスローガンに、政治家や官僚、とりわけ男性群、の無反省にして無恥な妄言を思う。しかし、このスローガンが出たことを契機にして、男性側はもちろんのこと、女性側も徹底的に意識を変える(強い表現で言えば社会変革)良い機会とすべきと思う。それは少子化、高齢化社会に益々向かう日本が、どうあるべきか考える好機としなくてはならないと考える。
『日韓・アジア教育文化センター』は、韓国と中国(香港・北京)と台湾の、それぞれ現地の日本語教師に声を掛け成立した団体である。このことは、ホームページの【当センターについて】や【活動報告】等から理解いただけると思うが、その出発点に韓国との交流があってのことで、だからこそ『日韓・』との名称がある。
その韓国の交流母胎は『ソウル日本語教育研究会』(同研究会は、その後、全土の『韓国日本語教育研究会』の推進者となり、現在両研究会は並立して活動している)で、役員の一人(女性)からこんな問いを掛けられたことがある。20年ほど前のことである。

「日本では、今、柳 宗悦はどのように評価されていますか。」

柳 宗悦が、ソウル(当時は京城)の景福宮に、『朝鮮民族美術館』を開設したのが1924年、柳35歳の時である。因みに柳が『日本民藝館』を開館したのは、1936年、47歳の時である。
私が今回、柳の対朝鮮観を書こうと思った背景には、このようなことがあってのことである。言わば、20年越しの回答でもあり、材料は二書である。

一つは、柳が1920年に執筆した『朝鮮の友に贈る書』で、一つは、1986年に刊行された『言論は日本を動かす』の第3巻「アジアを夢みる」で、柳宗悦を論じた(詩人・批評家の大岡 信〈1931~2017〉)の文章である。ここでは、前者の書から幾つか引用する。
後者に関しては、大岡は柳の朝鮮観を柳の書『朝鮮とその芸術』から、

「彼が日本政府の朝鮮政策について敢然と批判し、被支配の屈辱を耐え忍ぶ朝鮮人に対する満腔の同情を、支配者日本の傲然たる思いあがり、帝国主義と軍国主義に対する公然たる異議申し立ての形で披歴した偉大な文章をいくつも含んでいたから、いやおうなしに人々によって愛読され、彼の朝鮮観のすべてを語るものとして受けとめられてきたことは否定できない。」

と述べているが、今回の投稿の主旨では、柳 宗悦自身の言葉を拠りどころに私感を書くことを大事にしているので、引用はこれだけに留めたい。

ただ、すでに明治の後半、前回の投稿で参考にした岡倉天心は、その著『茶の本』で言っている以下のことを私たちは是非心に留め置きたい。岡倉の著『東洋の目覚め』『東洋の理想』の延長上からの視点で、朝鮮に限ってのことではないが。未来に向け発信することの現代性と併行して、先人たちの心を知る謙虚さとしても。

「諸君は進展を遂げたが心の安定をうしなった。われわれは、侵略にたいして無力ではあるが、一つの調和を創造した。諸君は信ずるであろうか。東洋はある点では西洋よりもまさっているということを。」

私は日本人だから日本の毀誉褒貶は、中庸を心掛けながらすることを善し、と考えているが(もっとも、最近、政治(家)の知情意のあまりの貧困、傲慢に辟易し、相当激的になってはいるが)、外国・地域については、誉めることはあっても貶(けな)し批判することはしないように努めている。生半可な知識や狭小な体験で批判することの非礼を思うからで、日本がされる側に立てば自然な心の動きである、と思う。

ところで、この[れる・られる]は、日本語の語法で「迷惑の受身」と呼ばれる。いじめられる・差別される・疎んじられる・殺められる……。
日韓の間ではどうか。未だに[反韓・嫌韓/反日・嫌日]をかまびすしく言う人も少なくはない。
例えば「慰安婦」問題。
戦場と言う極限状況での、性と人[男性]の厳しく且つ本質的問題は、古今の世界の歴史が常に抱えて来たことであり、日本もその例外ではない。朝鮮半島で、36年間にわたって帝国主義国家として植民地支配を行ったことはまがうなき事実であり、された側に立ち、本来日本人が持っているとされる美徳、謙虚さと潔(いさぎよ)さをもって真摯に、1965年に日韓基本条約を締結したのか、十全とは言えないのではないか、と私は思っている。

非常に単純なもの言いだが、賠償金を払えば完了ではない。自国を併合され、幾つもの痛み、苦しみを受けた側に心寄せ、移入する姿が、相手に伝わらない限り“和(なご)み”は為し得ない、という抽象的な言い方しかできない。しかし、それを具体的に戦時・支配中から実践して来た日本人も少なからずある。
その真偽、成否は相手の人格が決めることであり、そこにはじめて信頼関係が成立する、と日韓・アジア教育文化センター活動を通して痛感している。
言葉は、和みへの入口であり契機であって、言葉が心に先んじ、心を越えることはない、と考える日本人の一人である。
インターネット上で【日韓・アジア教育文化センター】が、売国的、反日的団体一覧に挙げられていたが、私はその逆だと思っている。そうでなければ、互いにこれまで続けて来られなかったはずである。

「美は愛である。わけても朝鮮の民族芸術はかかる情の芸術である」と言い、「線こそはその情を訴えるに足りる最も適した道」と朝鮮の芸術に傾倒し、愛した柳の言葉を『朝鮮の友に贈る書』から引用する。

――もし無情な行いに傲(おご)る事があるなら、その時、日本は宗教の日本ではあり得ない。今日不幸にも国と国の関係は、まだ道徳の域にすら達していない。(中略)しかしかかる行いのために苦しむ民がここにあるなら、それは一国の恥辱であり、また人類への侮辱であろう。正しい日本はかかる行いを改めるために憚(はばか)ることがあってはならぬ。――

――貴方方がたと私たちとは歴史的にも地理的にも、または人種的にも言語的にも、真に肉親の兄弟である。私は今の状態を自然なものとは思わない。(中略)まさに日本にとっての兄弟である朝鮮は、日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも、日本にとっての恥辱の恥辱である。私は私の日本が、かかる恥辱をも省みないとは思わない。――

柳が、当時抱いた朝鮮観は十分理解できると思うし、その思いに私は強く共感する。
最後に最晩年の1957年、68歳時の著作『日本の眼』より、一節を引用して、この拙い柳 宗悦私感を終えたい。

――「わび」「さび」「渋み」は畢竟(ひっきょう)無地への追求とも言える。…無地ものの焼き物を最も多く焼いたのは朝鮮であるが、これは日本のように茶禅の教養に依ったのではなく、その歴史や自然に由来する。ただ一色の白磁や黒釉の品が大変多い。(中略)国民は誰も白衣を纏(まと)う。(中略)しかし無地を単なる色彩の否定と受け取るのは浅い。それは「有」を否定する「無」ではなく、かえって無限の「有」を包含する「無」と見ねばならない。(中略)「空即是色」の教えの具象的の現れといってもよい。焼物を日本人はいたく愛するが、無釉またはこれに近い焼物を熱愛する習慣は西洋には見られぬ。――